歴史あるオリエント急行
エッセイ「オリエント急行で気取った旅を」でちょっとだけ触れましたが、ここではもう少し、オリエント急行の歴史的なお話をいたしましょうか。
名探偵ポアロやミス・マープルでお馴染みのミステリー作家、アガサ・クリスティがオリエント急行を愛用したのは、1920年代のことですが、この豪華な列車の旅は、すでに1883年にはサービスが始まっていたのでした。
創業者は、ベルギー人の企業家ジョルジュ・ナゲルマケールス。彼が設立したCompagnie Internationale des Wagons-Lits (英訳: International Sleeping-Car Company、和訳:国際寝台車会社、別称ワゴン・リ社)というのが、もともとの運営会社でした。
この名は、運営会社が代わった今でも、各車両の車体に大きく掲げられていますし、輝く金のエンブレムにも誇らしげに刻まれています。
19世紀末のヨーロッパ大陸では、列車には寝台車や食堂車がありませんでした。ですから、乗客は食事や宿泊のたびに、いちいち列車を降りなくてはなりません。
そこで、寝台車と食堂車をつくったら、もっと快適に旅ができるのではないか、そして、乗客の行動範囲も国を超えてぐんと広がるのではないか、そんなコンセプトで生まれたのがオリエント急行だったのです。
創業当時のオリジナルルートは、フランスのパリからトルコのイスタンブール(当時はコンスタンティノープル)まで。
蒸気機関車が豪華な寝台車や食堂車を引っぱって、延々82時間(約3日半)の行程です。当時は、それでも驚くべきスピードでした。
そんなスピードと快適さが受けて、20世紀に入る頃には、それこそヨーロッパの主要都市すべてを網羅する国際急行列車網に発展していったのでした。
とくに、途中フェリーを利用してロンドンまで路線が延びると、イギリス人の外交官や要人たちが東方の国々に赴く足として重宝するようになり、「エキゾティックで豪華な旅」との噂が噂を呼んで、王族やセレブたちも好んで愛用するようになったのです。
アガサ・クリスティは、夫と何度もパリ~イスタンブール路線に乗ったことがあるそうですが、有名な『オリエント急行殺人事件』は、実際に起きたある出来事からヒントを得たのでした。
それは、1929年2月、イスタンブールから100キロの地点で列車が雪で立ち往生してしまったこと。このときは、豪雪に列車が閉ざされ、10日間も身動きがとれなかったそうです(意外なことではありますが、トルコも大雪に見舞われることがあるのですね)。
もちろん、実際には殺人なんて起きなかったのですが、想像力たくましいアガサ・クリスティにとっては、絶好の悲劇の舞台となったのでした。
王族が愛用したり、小説の舞台となったりと、ロマンティックなイメージの強いオリエント急行ですが、20世紀に入ると、いやでも戦争に巻き込まれることとなるのです。
たとえば、1918年。長くて血なまぐさい第一次世界大戦が集結した年。
食堂車2419号では、形勢不利だったドイツが休戦協定に署名したそうです。
ドイツにとっては、そんな不名誉な思い出のある車両ですから、1940年、ドイツがフランスに侵攻したとき、ヒットラーはわざわざ博物館から2419号車を引っ張り出して、この中でフランスに停戦の署名をさせたそうです。
のちにドイツの旗色が悪くなってくると、またもや2419号車で署名をさせられる不名誉を恐れて、ヒットラーはこの食堂車を破壊してしまったのだとか。
1939年に第二次世界大戦が勃発すると、オリエント急行は運行を中断しなくてはなりませんでしたが、ヒットラーは、ドイツ軍用にオリエント急行を利用していたそうです。
それも、一部は将校向けの「娼婦宿」として。
ドイツ軍が使用していたのは1942年から44年にかけてですが、なんでも、当時の「娼婦宿」は、今でも一両だけ現役だそうです。それは、寝台車3544号。
(内心これに当たったらイヤだなと思っていたのですが、あとで確認してみたら、わたしが乗ったのは別の車両だったので、ホッとしたのでした。)
まあ、誰がどんな思惑で乗ろうと、オリエント急行は「ロマンの列車」であることに変わりはないのでしょうけれど・・・。
第二次世界大戦が終結すると、運転を再開したオリエント急行ではありますが、だんだんと世の中が便利になるにつれ、かつての輝きは失われてくるのです。
だって、列車の運賃が格段に安くなって、飛行機でブンとひとっ飛びできるようになると、わざわざ高い料金を払って時間をかけて寝台列車に乗ろうとは思わないですものね。
結局、1977年には、最後のオリエント急行がパリからイスタンブールに向けて出発することとなるのです。
同年、オリエント急行の車両はモンテカルロでオークションにかけられるのですが、アメリカ人の企業家ジェームス・シャーウッドが、ここで2両を落札します。
そこから運転再開へ向けて動きが活発化し、1982年、新しい体制のもと、ロンドン~ヴェニス間で列車が運行されました。車両も昔のまま忠実に修復されています(バー車両だけ、1980年代に新調されています)。
この新会社が、ヴェニス・シンプロン・オリエント・エキスプレス(Venice Simplon-Orient-Express)。
持ち主が代わった現在も、同じ名で運営されていて、「VSOE」のアルファベットと王冠を組み合わせた美しいロゴが使われます。
ちなみに、シンプロン(Simplon)というのは、スイスからイタリアに抜けるシンプロン・トンネルからきているそうです。
それまでは山を回避して遠回りしていたところが、シンプロン峠にトンネルが開通したおかげで、路線が短くなり格段に速くなったということです(現在は、若干違ったルートを通り、オーストリアのインスブルック経由で北からイタリアに入るようです)。
というわけで、ざっくりとオリエント急行の歴史を書いてみましたが、実際にそばで見てみると、その大きさにちょっと驚くのです。
昔の列車にしては、車両は背が高くて、ずいぶんと長いし、列車全体もとっても長いのです。ホームに止まっている列車を先頭から眺めてみると、最後尾までははっきりと見えないのです。
わたしが乗ったときには、16両編成(寝台車11両、食堂車3両、バー車両1両、サービス車両1両)でしたが、寝台車があと1両増えることもあるそうです。
そんなに長~い列車ですので、食堂車から遠い寝台車に当たると、さあ大変! レストランに向かって延々と歩かなくてはなりません。
わたしは幸いにして食堂車の隣でしたが、それでも、ゴトンゴトンと揺れる中、車内を歩くのは至難の技だと思いました。
きっと通勤電車に揺られている方は大丈夫かとも思いますが、それでも「え~、まだ歩くのぉ?」と、つい愚痴をこぼしたくなるかもしれません。
なるほど、列車に乗るにも、体力が必要(?)
それから、骨董品のような車両ですから、木枠の窓からは、晩秋の冷たいすきま風が・・・。
まあ、いろいろと感じることはあるのですが、そこのところは、機会がありましたら、ぜひご自身で体験なさってくださいませ。
参考資料: オリエント急行の歴史については、公共放送の番組 Masterpiece Mystery “David Suchet on the Orient Express”を参考にさせていただきました。
名探偵ポアロ役のデイヴィッド・スーシェー氏がオリエント急行を紹介すると、史実も小説のようなスリル感に満ちあふれるのです。
アメリカでは、昨年7月から何回か放映されている番組ですが、放映のたびに、オリエント急行の予約が増える仕組みになっているのでしょう。だって、わたしだって、そのクチでしたから。
偶然にもわたしの誕生日に追加運行されたのも、きっと放映に合わせて、アメリカからの問い合わせが多かったからに違いありません!(みなさん結構ノリがいいですよね)
プラハ発の寝台列車がフランスのカレーに到着し、そこからロンドンへ向かう行程については、こちらのエッセイをどうぞ。