福岡城・潮見櫓(しおみやぐら)の復元
<エッセイ その218>
近年は、さわやかな秋も短く、急に嵐が訪れたかと思うと、本格的な冬に突入するようになりました。
玄界灘に面した博多湾は、ときに風は荒々しく、刺すように冷たい初冬です。
そんな霜月は、福岡市のお城に関するお話をいたしましょう。
福岡城跡で行われている復元プロジェクトのひとつをご紹介いたします。
江戸時代、福岡市の辺りは「福岡藩」と呼ばれていました。
福岡藩とは、およそ50万石の大きな藩で、現在の福岡市だけではなく、東は北九州市の手前から西は糸島半島まで、「筑前国」のほぼ全域を領有していました。
古代、現在の福岡県は「筑紫国(ちくしのくに)」と呼ばれていましたが、645年大化の改新で成立した律令国家のもと、福岡市を含む北側の「筑前」と熊本県に隣接する内陸部の「筑後」に分割され、江戸期に至ります。
もともと筑前国の一部は小早川秀秋(こばやかわひであき)が領有していたところ、関ヶ原の戦いで功を成した小早川氏が備前国岡山藩に国替(くにがえ)となり、代わって豊前国中津藩主の黒田長政(くろだながまさ)が筑前国を与えられ、福岡藩という大藩が生まれることとなりました。
入府当初は、天正15年(1587年)九州平定を成した豊臣秀吉の命で小早川隆景(こばやかわたかかげ、秀秋の養父)が筑前主城として整備した名島城(なじまじょう、現在の福岡市東区名島)を居城としていました。が、やがて手狭となり、交通の便も良くなかったので、慶長6年(1601年)から6年をかけて福岡城を築城します。
現在の城の住所は、福岡市中央区城内。地下鉄(空港線)赤坂駅と大濠公園駅の間に広がる広大な土地に位置します。
なんでも、この平山城の城内面積は、41万平方メートル。ピンとこないので「東京ドーム」の比喩を借りると、東京ドーム約10個分の広さ。
もともと城の南側は丘陵地帯でしたが、この丘陵を大規模に切り崩し、掘削して濠(ほり)を築き、西側から博多湾の入り江の水を引き込み、ぐるりと城を取り囲む大濠としました。濠を含めた総面積は、110万平方メートルとのこと。
福岡城という名前を聞くと、姫路城や熊本城のような美しい大天守を思い浮かべますが、残念ながら、福岡城には現存する建物は少なく、「城らしい城」という感じではありません。
けれども、2013年からは城内の建物復元や緑地整備のプロジェクトがスタートし、重要な歴史的建造物の修復、廃校となった舞鶴中学校に誕生させたアート拠点「三の丸スクエア」と、活発な動きが見られます。
福岡城は、早春の梅、春のさかりは桜、初夏は芍薬(しゃくやく)や紫陽花、夏はお濠の蓮(はす)の花と、季節の花々で有名な場所。
国内外の観光客がたくさん訪れる名所ではありますが、誰もが足を向ける街のセントラルパークを目指して、大きく生まれ変わりつつあります。
そんなプロジェクトの中で、とても難易度の高い歴史的な試みが、「潮見櫓(しおみやぐら)」の移築復元工事です。
6年かけて築城された福岡城には、本丸御殿、下屋敷に加えて、48の櫓(やぐら)があったとされています。
明治時代になると、城内は旧帝国陸軍の管轄となり、1945年の敗戦時まで陸軍が駐屯していました。この間、城内の建造物のほとんどが解体や払下げによって失われてしまいました。
そのひとつが、潮見櫓。現在は、復元工事がほぼ完了し、来春2月の公開を待っているところです。
もともとは、観光客が桜や紫陽花を楽しむ「下の橋御門(しものはしごもん)」の脇にある櫓が、潮見櫓と呼ばれていました。
が、どうやら昔の絵図や文書に記されている潮見櫓は、別の場所にあったことがわかり、こちらの櫓は「伝・潮見櫓(でん・しおみやぐら)」と名称変更されています。
本物の潮見櫓は、福岡城の北西の角に置かれていたようです。
大通りに面した地下鉄・大濠公園駅(福岡市美術館口)を出ると、濠をはさんでちょうど真ん前。茶色い大濠郵便局のすぐ隣です。
「潮見」という名のとおり、玄界灘や博多湾の監視に使われていたと推測されています。今となっては信じられないことですが、福岡城の櫓からは海がよく見えていたのでしょう! (写真は、11月末になって復元工事の足場が撤去されつつある潮見櫓)
潮見櫓の歴史は興味深く、明治40年(1907年)福岡城遺構の保存を望む市民の発案により、旧藩主・黒田家の菩提寺である崇福寺(そうふくじ、福岡市博多区千代)が潮見櫓と花見櫓の払下げを陸軍に願い出て、崇福寺に移築されたのち仏殿として使われていました。
平成2年(1990年)潮見櫓と花見櫓の復元を目指す福岡市が、崇福寺より仏殿を買い取り、解体後は、旧舞鶴中学校に部材を保管します。が、ここから復元の苦労が始まるのです。
ひとくちに櫓の復元といっても、福岡城は国の史跡に指定されています。ということは、地元の思いのままには復元工事に着手できないということ。
まずは、潮見櫓跡の全域と石垣・土塁の発掘調査を実施。それから20年をかけて、建築史・城郭史などの専門家を集めた委員会による検討を行います。そして、福岡市が崇福寺より櫓を買い取って30年(!)、平成31年(2019年)文化庁の復元検討委員会より、ようやく復元整備の許可が下りるのです。
いえ、国が指定する歴史的建造物を復元するということは、柱の一本、瓦の一枚まで昔のまま忠実に再現しなくてはなりません。関係者の方々にとっては、文化庁とのやり取りは永遠に続くかのように感じられたことでしょう・・・。
復元工事もほぼ完了した11月9日(土)。午前10時から2時間だけ、福岡市は市民に向けて潮見櫓の見学・説明会を開きました。
説明していただいたのは、設計を担当された波多野純建築設計室の建築家。
まだ足場が組まれた櫓に近づくと、土台部分に、まずびっくり。
なんでも、整備された石垣の上に櫓を復元するのではなく、建物は「浮かんでいる」そう。
よく見ると、石垣と建物の間には隙間があり、まさに「浮いている」かのよう。
石垣部分の土壌は弱く、地震で倒壊する恐れがある。そこで、石垣の1メートル内側の安全な地盤に基礎を築き、その上に櫓を建てているとのこと。
こういった工法は、全国でも初めての例だそうです。
設計を担当された波多野純建築設計室は、長崎の「出島」の復元や、佐賀の「佐賀城本丸御殿」の復元にも携わった実績があり、歴史的建造物の再現手法には精通していらっしゃるのでしょう。
櫓の中に足を踏み入れると、一階と二階に分かれています。
崇福寺で仏殿として使われていた頃は、二階がなく吹き抜けだったそう。きっと大きな仏さまを安置されていたのでしょう。
二階部分は、保管されていた昔の部材が多いそうですが、一階部分はシロアリの被害が大きく、新材が多いとのこと。
その中で、こちらの2本の梁(はり)は、江戸時代より残されるもの。色味がひときわ濃く、流れた月日の風格があります。
櫓全体の建物は、二階建ての主屋の部分に一階建ての東付櫓と南付櫓がくっついた形をしています。
主屋の部分の大きさは、二階の梁が残っていたことで推測し、一階は二階よりも「半間(はんげん)大きい」と文書に残されており、推測できたとのこと。
一階から二階に上る階段の位置は、柱に跡が残っており、主屋のほぼ中央にあったのだろうと推測。階段は急峻で、現代の建築基準法には沿わないので、一般の人を二階に上らせることはできない、とのこと。
いえ、ほんとは、見学者全員が「二階に上ってみたい!」と思っていたんですけれどね。
こちらは同日、2時間だけ特別公開されていた「伝・潮見櫓」の二階部分です。
きっと「潮見櫓」の二階も、昔の部材が多く残されていて、こんな眺めなのかもしれません。
復元されたばかりの櫓の中では、前日までペンキ塗りの作業が行われていたということで、重要な歴史的建造物のわりに、新築のウキウキ感もありました。
30分後の次のグループが見学するということで、長居もできないのが残念ではありましたが、櫓に隣接する工事作業用プレハブでは、移築復元に使われた柱や瓦が展示されていました。
こちらは、古い瓦と新しく復元した瓦の展示。
言うまでもなく、色の濃いものは江戸時代の瓦で、色の薄い、銀色の輝きのものが新しく復元された瓦。
福岡県内の瓦製造工場が復元を担当されたそうですが、瓦の細かい文様(多くの場合、家紋)まで精密に再現されています。
下段には割れた大きな瓦もありますが、江戸時代のものでも意外と新しく見えるのが不思議です。瓦というものは、雨風にさらされながら幾年も長持ちするものですので、経年劣化が目立たない材なのかもしれません。
一方、こちらは、江戸時代から使われていた梁。
とても立派な梁で、他の木材をはめ込んだ穴がたくさん開いています。ぴったり隙間なくはまるようにと、穴はひとつずつ材に合わせて手で刻んでいくという、昔ながらの「木組み」の技。
こちらは、そのまま再利用できれば良かったのでしょうけれど、あちら側がシロアリの被害で傷んでいるのがわかります。
今となっては、このような立派な梁に替わる木を見つけるのも難しいのではないでしょうか。
木は切ってすぐに使えるものでもありませんので、建物の復元にも、じっくりと計画的に木材探しをしなくてはならないのでしょう。
こちらは、日本独特の歴史的な工法でしょうか。釘や金物を一切使わずに木材同士を接合する、「継ぎ手(つぎて)」の展示です。
木材の長さが十分でないとき、材を継ぎ足す際に用いられる技法の総称です。
ひとくちに継ぎ手と言っても、千年を超える伝統で編み出された種類は 70種ほどもあるそうで、こちらに展示された例は、復元に使われたほんの一部なのでしょう。
継ぎ手の一つひとつは、まるでパズルのように緻密に組み合わされるようになっていて、柱や土台にかかる重量にも十分に耐えられるよう工夫されています。
素人には、とても区別がつくものではありませんが、ここで代表的な例を二つご紹介いたしましょう。
こちらは「金輪継(かなわつぎ)」と呼ばれるもの。
屋根の重みがずっしりとかかる軒桁(軒下の桁)や、柱の根継ぎ(柱の腐った部分を取り除き、新しい木材で継ぎ足す)に使われる継ぎ手。
上からビシッと釘みたいな木を打ち込んでいます。これがあれば、継がれた部分もまったく外れる心配がないのでしょう。
わかりやすいように少し隙間を空けてありますが、実際は右側の見本のように、ぴったりと隙間なくはめ込まれます。
一方、こちらは、「追掛大栓継(おっかけだいせんつぎ)」と呼ばれる継ぎ手。
一般的には、柱や梁などの長い部材を継ぐ際に使われます。土台と柱を隙間なく固定する際にも使われるそう。
組み合わせる二つの材は同じ形で、横に(写真では上下に)スライドしてはめ込まれます。
継ぎ目には二本の大栓(材の上にのせてある二本)を横から打ち込んで、しっかりと固定させます。
まじまじと継ぎ手を見学していると、担当者の方が寄って来られて、継ぎ手の部分をバラっと外して、目の前で組み直していただきました。が、あまりに素早いので、どうなっているのかさっぱりわかりませんでした。
まるで寄木細工の秘密箱の仕掛けを見ているようで、そのパズルのような複雑さに、昔の人はなんと賢いのだろう! と驚くのです。
ひとたびパキパキッとはめ込まれたら、どこが継ぎ目なのか、まったくわかりません。それが継ぎ手という技法の優れた点であり、これまで奥深い伝統の技を知らなかった自分が恥ずかしくもありました。
最後に、プレハブ内の展示室を出ると、そこには「壁土見本」と表示された壁が展示されていました。
「まあ、櫓の壁は、こんなに何層にも塗られているのね」と、土壁と漆喰(しっくい)の堅固な構造に感心してしまうのです。
古来、日本の建造物に愛用されてきた土壁。粘度の高い土をトロトロになるまで混ぜ、つなぎにワラを混ぜて強度を増したものが土壁です。
土壁は強いだけではなく、冬は太陽の熱を蓄えて暖かく、夏は通気性に優れて涼しい。しかも、外からの空気を浄化し、適度な加湿効果もあるとか。
この土壁の上に漆喰が施されると、防水性や耐火性が高くなるだけではなく、蓄熱や調湿、そして耐震の効果も増すそうです。
城郭や寺院に用いられ、庶民には許されなかった漆喰も、火事の多発した江戸時代には商家の壁にも用いられるようになり、街並みを彩るようになりました。
岡山県倉敷市などは、今でも土壁・漆喰の壁を守りぬく代表例となっていて、国内外の旅行者を楽しませてくれます。
福岡城の潮見櫓も、美しい漆喰の白壁で仕上げられています。
が、実は、この白壁がもっとも時間のかかる工程だと言っても過言ではないとのこと。
漆喰は、消石灰に貝灰(かいばい、貝殻を蒸し焼きにした灰)、麻、海藻のりなどの有機物を混ぜて練り上げたものだそうですが、内側と外側は材質が微妙に違うとのこと。
内側は、通気性があり「呼吸している」。そのため荒めの粒子を使って、フラットに仕上げる。一方、外側は、磨きをかけるために密なものを使うそう。
壁に漆喰を施したら、ベビーパウダーを使って湿度を浮かせ、コテ(鏝)を使ってきれいに平らにします。
そして、仕上げには、手のひらを使って全面をこするんだとか!
手のひらには適度に湿度があるために手を使うそうですが、乾燥してくると、濡れたタオルで小指側の手のひらを湿らせて、また手のひらでこする、という作業を繰り返すそう。
根気よくこの作業を繰り返していくと、あの美しく輝く白壁ができあがるのです。
このようなお話を、復元工事を請け負われた松井建設株式会社・九州支店の若い担当者の方がサラッと説明してくださったのですが、側に立っていらっしゃった責任者の方は、目立たないけれど、もっとも大変な作業だと力説されていました。
思わず、「ご苦労さまでした」と深々と頭を下げて、その場を立ち去ったのでした。
そんなわけで、調査や設計段階から難しい歴史的建造物の復元工事。石垣や土台、瓦や柱や壁と、その一つひとつの材に携わった方々の伝統の技と心意気も込められているのだと、改めて痛感した見学会となりました。
上でもちょっと触れたように、この日は、もうひとつの「伝・潮見櫓」や「多聞櫓」「下の橋御門」と、2時間だけ特別公開された建物もありました。
そんなお話を含めて、また次回、福岡城のお話をさせていただきましょう。