Essay エッセイ
2023年12月28日

『古事記』と福岡〜神さまとの意外な関係

<エッセイ その207>

コロナ禍も少しずつ人々の意識から遠のいているのでしょう。博多湾を行き交うクルーズ船も、ぐんと増えているように感じます。


着岸を目指す大型船のかたわらを、「ちょいとごめんなさいよ!」と別の船がすり抜けて行きます。


やはり、クルーズ船で海外から訪れる方が日々増えている証拠なのでしょう。


そんな師走の今日は、福岡市にまつわる歴史のお話をいたしましょう。


福岡県福岡市というと、九州の北に広がる、玄界灘(げんかいなだ)に面する一大都市。


ちょっと船を漕ぎ出せば、壱岐(いき、長崎県壱岐市)の島に到達し、その先の対馬(つしま、長崎県対馬市)を超えると、もう朝鮮半島や中国大陸とつながります。


常識的に考えて、大陸から南下して最初に人々が流れ着くのは、対馬であり、壱岐であり、その先の北部九州。長崎県松浦市、佐賀県唐津市、そして福岡県福岡市の辺りでしょう。


そう、北部九州の沿岸には、大陸との交流を示す太古の遺跡も多いです。律令制が布かれてからは、都が置かれたこともなく、表舞台から遠のいている印象ですが、太古よりめんめんと受け継がれた文化の栄えた地域。


けれども、不思議なことに、福岡の地元の方はよく「この街には名所旧跡がないからね」とおっしゃいます。


だから、観光客の方々は、まず太宰府天満宮(福岡県太宰府市、現在は仮殿で参拝)を見学して、そのあと食を楽しもうと博多の街を訪れるのだ、と。


それを聞くと、2年半前に福岡市に移住してきた我が家などは、「福岡だって歴史に満ちあふれているのにね」と、なかば憤慨するのです。


その証拠となるのが、日本最古の書物ともいわれる『古事記(こじき、ふることふみ)』。


意外なことに、古事記にも福岡が登場する箇所があるのです!



古事記は、神話や天皇家に関する歴史的表記、歌謡が混在する不思議な書物です。最初の部分には、どうして古事記が成立したかを説明する「序」のあと、数々の有名な神話が続きます。(以下の漢字表記は、岩波文庫版『古事記』(倉野憲司校注)に基づきます)


この神話の部分は、最初に「高天の原(たかまのはら、天上界)」にいらっしゃる神々を紹介したあと、伊邪那岐命(イザナギノミコト)と伊邪那美命(イザナミノミコト)が日本の国となる島々を生み、次に神々を生み、火の神を生んだことでイザナミノミコトが亡くなるお話へと続きます。


愛する妻を失ったイザナギノミコトは、出雲(いずも)と伯伎(ほうき)の堺にある比婆(ひば)の山に妻を葬り、死の原因となった息子の火の神の頸(くび)を叩き斬ります。


ここで、かの有名な「黄泉の国(よみのくに)」のお話となります。


亡くなった妻にどうしても帰ってきてほしいイザナギノミコトは、黄泉の国を訪れ妻に会えたのですが、「黄泉の神と交渉してくる間、わたしの姿を絶対に覗き見ないように」とクギを刺されたにもかかわらず、髪にさしていた櫛の歯に火をともして、変わり果てた醜い妻の姿を見てしまうのです。


あまりの恐ろしさにイザナギは逃げ帰ろうとするのですが、「あんなに見てはいけないと言ったのに、わたしに恥をかかせたわね!」と怒り狂うイザナミは、次から次へと追っ手を放ちます。そんな化け物や黄泉軍の追っ手と抗戦したイザナギは、命からがら現世へと逃げおおせます。


黄泉の国の入り口を大岩でふさぎ離婚の言葉を唱えるイザナギに向かって、イザナミは「そんなことをするなら、一日に千人ずつ殺してやる」と捨て台詞を吐き、イザナギは「それなら、わたしは一日に千五百人ずつ生んでやる」と返します。もう二人の間には愛の片鱗も残っていない様子。


ここでイザナギは、「なんと汚らわしい国へと行ってしまったことか。禊(みそぎ)をしなければ」と、竺紫(つくし)の日向(ひむか)の橘(たちばな)の小門(おど)の阿波岐原(あはきはら)に行き、中流の瀬に入って身を浄めたのでした。


と、「黄泉の国」のお話は、こんなストーリー展開でした。



ここで気になるのが、イザナギが身を浄めた長い名の場所は、いったいどこなのか? ということ。


これには諸説あるのでしょうが、最初の「竺紫(つくし)」というのは、「筑紫」とも解釈できます。


筑紫(つくし)とは、古代の九州の総称であり、おおむね筑前・筑後の福岡県周辺を表します。ですから、「竺紫の日向の橘の小門の阿波岐原」とは、現在の福岡市の辺りとも考えられます。


ここで重要になってくるのは、イザナギが水で身を浄めたときに、生まれ出た神々。


ちょっと難しいお名前ですが、こんな神々です。


まず身の汚れより出現したのが、八十禍津日神(ヤソマガツヒ・ノカミ)と大禍津日神(オオマガツヒ・ノカミ)。その禍(わざわい)を直そうと出現したのが、神直毘神(カンナオビ・ノカミ)と大直毘神(オオナオビ・ノカミ)、伊豆能売神(イズノメ・ノカミ)。


さらに、水の底で身をすすいだときに生まれたのが、底津綿津見神(ソコツ・ワタツミ・ノカミ)と底筒之男命(ソコ・ツツノヲ・ノミコト)。


水の中ほどですすいだときに生まれたのが、中津綿津見神(ナカツ・ワタツミ・ノカミ)と中筒之男命(ナカ・ツツノヲ・ノミコト)。


水面ですすいだときに生まれたのが、上津綿津見神(ウワツ・ワタツミ・ノカミ)と上筒之男命(ウワ・ツツノヲ・ノミコト)。


まずは、二柱の神が汚れより生まれ出て、汚れを払おうと三柱の神が出現した。そして、三柱の綿津見神(わたつみのかみ)と三柱の筒之男命(つつのをのみこと)が現れた、ということになります。


そして、これらの神々に続いて、イザナギが左目を洗ったときに天照大御神(アマテラス・オオミカミ)が、右目を洗ったときに月讀命(ツクヨミ・ノミコト)が、鼻を洗ったときに建速須佐之男命(タケハヤ・スサノヲノミコト)が生まれました。


そう、かの有名な天照大御神や須佐之男命が生まれる前に、八十禍津日神(やそまがつひのかみ)、神直毘神(かんなおびのかみ)、綿津見神(わたつみのかみ)、筒之男命(つつのをのみこと)の神々がお出ましになっていた、ということです。



さて、ここで本題です。


綿津見神(わたつみのかみ)の誕生の描写に続くのは、次の文章です。


「この三柱の綿津見神は、阿曇連等(あづみのむらじら)の祖神(おやがみ)と以(も)ち拜(いづ)く神なり。故、阿曇連等は、その綿津見神の子、宇都志日金柝命(うつしひがなくのみこと)の子孫(うみのこ)なり。」


これを読むと、綿津見の三神は、阿曇(あづみ)族が祖先神としてお祀りしてきた神であり、阿曇族は、綿津見神の子・宇都志日金柝命の子孫である、ということになります。


綿津見の神々を祖先と拝む阿曇族とは、筑前、今の福岡県糟屋郡(かすやぐん)の辺りを拠点とした一族で、彼らは、綿津見の三神を志賀海神社(しかうみじんじゃ)にお祀りした、と考えられています。


志賀海神社は、福岡市と2.5キロメートルの砂州でつながる志賀島(しかのしま)にあります。


砂州につながる島の南端の丘の上にあり、こんもりとした森に囲まれる、静かな神社です(福岡市東区志賀島)。


神社に伝わる歴史によると、創建は明らかではないものの、島の北部・勝馬(かつま)に「表津宮(うわつぐう、表津(上津)綿津見神を祀る社)」「仲津宮(なかつぐう、仲津(中津)綿津見神を祀る社)」「沖津宮(おきつぐう、底津綿津見神を祀る社)」の三社が置かれていて、2世紀から4世紀の間に、表津宮(写真)が現在の勝山の麓に遷座されたそう。


また、綿津見の三神を祖先とする阿曇族が、代々お祀りしてきた、とのこと。


北部の勝馬では、阿曇族とおぼしき海人(あま)集団の首長の墓と考えられる古墳も発見されています。


この中津宮古墳では、円墳の中にあった縦穴式石室が発掘され、少なくとも5体が埋葬されていました。須恵器に加えて、鉄製の鏃(やじり)矛(ほこ)斧(おの)や、ガラス製管玉(くだたま)の副葬品も出土し、早くから大陸との交わりもあったことを示しています。


なるほど、黄泉の国から辛くも生還し、筑紫のどこかで身を浄めたイザナギノミコトから生まれ出た神々のうち、「海の神さま(綿津見神)」は、海に生きる阿曇族によって、志賀島の志賀海神社に祀られたのでしょう。


志賀海神社は、かつては壮麗な社殿に末社375社、社領50石を誇り、繁栄を極めたそう。今は、森に囲まれた静かな佇まい(たたずまい)で、人々を迎え入れてくれる場所となっています。


散策するもよし、境内から美しい海を見下ろすもよし、志賀島と砂州でつながる福岡の遠景を楽しむのもよし。


一度は足を運んでみる価値のある、由緒正しい神社なのです。



お次は、三柱の筒之男命(つつのをのみこと)です。


古事記の中では、筒之男命の誕生に続いて、こんな文章が書かれています。


「その底筒之男命、中筒之男命、上筒之男命の三柱の神は、墨江(すみのえ)の三前(みまえ)の大神なり。」


これを読むと、底筒之男命、中筒之男命、上筒之男命の三柱の神々は、住吉大社の三神である、ことがわかります(墨江は、住吉の古い表記)。


一般的に、住吉大社とは摂津(今の大阪府大阪市)にある住吉大社である、と解釈されています。


けれども、筑紫の国(今の福岡県)で生まれた神さまが、いきなり遠く離れた大阪で祀られたと考えるよりも、最初は地元で祀られたと考える方が自然でしょう。


そうなんです、福岡市にも筑前国一ノ宮・住吉神社があり、こちらの住吉神社(福岡市博多区住吉)では、住吉三神と親しまれる底筒之男(そこつつのを)、中筒之男(なかつつのを)、表(上)筒之男(うわつつのを)の神々を祭神としています。


筒之男(つつのを)の三神は、心身を清め、すべての災いから身を護る神として信仰されています。「筒」は星を表すところから、航海・海上の守護神としても敬われるそう。


実は、住吉の神々が筑紫の国に祀られていたことを示す記録が残っているのです。


それは、顕昭(けんしょう)という僧が鎌倉時代に著した『袖中抄(しゅうちゅうしょう)』という歌学書。


文治元年(1182年)から建久4年(1193年)までに成立したとされる和歌の解説書で、こんな表記があるそうです。


「住吉神、本筑前小戸に在り。(住吉大神の)荒御魂(あらみたま)は常に筑紫橘小戸に在り。和御魂(にぎみたま)は今、摂津墨江に在り。神功皇后(じんぐうこうごう)初めて摂津墨江に遷す」


つまり、「住吉の神々はもともと筑紫の国の小戸にいらっしゃって、荒御魂は常に小戸にいらっしゃる。今は、和御魂は摂津の国の墨江にいらっしゃる。神功皇后が摂津墨江に分祀なさった」ということでしょうか。


なるほど、これを読むと、謎が解けます。住吉の神々は、最初は福岡に祀られていて、のちに荒御魂は福岡に残り、和御魂は大阪に分祀された、ということになります。


福岡の住吉神社は、地元の方々の信仰も厚く、地域に根ざした神社という印象があります。通りがかりの男性が、鳥居の前で自転車を下りて、本殿に向かって深々とお辞儀をしている姿も見かけました。


この神社の境内は、面白い形をしていて、表参道が道路を隔てて、向こう側に円形に突き出たようになっています。この突き出た部分にあるのが、天津神社(あまつじんじゃ)と天竜池(てんりゅういけ)。


天津神社は、天竜池に浮かぶ浮島にあり、イザナギノミコトが祀られます。いつの時代に刻まれたのか、お顔もわからなくなった神様が二柱、石の祠にいらっしゃいます。


祠のまわりを回ってお祈りすると、願いごとが叶うとのことで、熱心にお祈りをしていらっしゃる女性も見かけました。


天津神社を取り囲む天竜池は、黄泉の国から戻ったイザナギノミコトが禊を行ったと伝わる霊池です。


昔は、住吉神社の辺りは海に囲まれた岬になっていて、満潮時にはこちらの天竜池にも潮が入り込んでいたところから、汐入池(しおいりのいけ)とも呼ばれたそう。


今は、賑やかな街並みとなっていますが、神社が創建されたころには、海を臨み、潮騒と鳥の声が響き渡る、静かな聖地だったのでしょう。


浮島を守るかのような大楠は、樹齢約500年の古木。住吉神社では、木々の一本にいたるまで元気に育つ、そんな力を感じるのです。



さて、イザナギノミコトが禊を行って、生まれ出た神々。


真っ先に生まれたのは、八十禍津日神(やそまがつひのかみ)、神直毘神(かんなおびのかみ)、大直毘神(おおなおびのかみ)でした。


この三柱をお祀りする場も、同じく福岡市内にあるのです。


それが、警固神社(けごじんじゃ)です。


警固神社といえば、福岡の繁華街・天神(てんじん)のど真ん中にある神社で、なんでこんな商店街の真ん中に神さまがお祀りされているの? と不思議に思うような場所(中央区天神)にあります。


神社の横には、商業ビルに囲まれた警固公園(けごこうえん)もあり、若者が集う息抜きの場にもなっています。そう、人が集まるので、ハロウィーンの日には「立ち入り禁止」となるような、とっても賑やかなロケーション。


警固神社は、もとは今の福岡城跡(中央区城内)のある福崎山に創建されたそう。


慶長6年(1601年)、初代福岡藩主・黒田長政がここに福岡城を築城するにあたり、警固神社は一時、近くの丘にある小烏神社(こがらすじんじゃ)に合祀されました。そして慶長13年(1608年)、現在地に新社殿が造営され、無事に鎮座されたとのこと。


つまり、江戸時代の初め、築城のため創建の地を追われ、二度の遷座を経て、今の場所に移ったところ、まわりに天神の街ができあがったんですね。


一方、創建の地については、こんな記録もあるそうです。


貝原好古(かいばらよしふる、こうこ)が著した『八幡宮本紀(はちまんぐうほんぎ)』には、こんな描写があるそうです(貝原好古は、叔父の薬学者・貝原益軒(かいばらえっけん)の養子となった江戸時代前期の儒学者。益軒と同じく、筑前国の人です)。


「八十禍津日(やそまがつひ)、神直日(毘)(かんなおび)、大直日(毘)(おおなおび)の神は、筑前国那珂郡福崎 筑紫石(つくしいし)のほとりに鎮座したまふ。・・・福崎今は福岡といふ。此所もと海にて志賀島に相対し、住吉村に相隣す」


つまり、「(三柱の神は)筑前国那珂郡福崎にある筑紫石のほとりに鎮座されている。福崎は、今は福岡と呼ばれる。ここ(筑紫石)はもともと海だったところで志賀島の真向かい、住吉村の隣に位置する」とのこと。


福岡市の西公園に上ってみると、博多湾を見下ろせます。今は埋立地になっている右下の辺りに、昔は大小の岩礁(がんしょう)があって、これが「大筑紫」と「小筑紫」と呼ばれていました(今でも近くには、鵜来島(うぐしま)と呼ばれる岩礁が残されています。こちらの古図では、上部左寄りの緑色が西公園、その右下に大小の筑紫石が見えます:「博多古図」福岡県立図書館収蔵)。


ということは、もともと三柱の神々は、大筑紫と小筑紫の岩礁に祀られていたところ、もっと人里近くの福崎山に遷座され、そこから二度の遷座を経て、今の天神のど真ん中に鎮座された、ということでしょうか。


この筑紫石を臨む荒津の崎(今の西公園の丘)は、筑前国の住人にとって、喜びと哀しみに満ちた場所だったようです。万葉の時代、朝鮮半島や中国大陸へと使節団を送るとき、この荒津の崎に上って船を見送っていたのでした。


7世紀から9世紀にかけて、福岡は外国との交流の玄関口となっていて、今の福岡城址にあった「鴻臚館(こうろかん)」には朝鮮や中国の外交使節や商人が渡来し、日本からは遣新羅使(けんしらぎし)や遣唐使が派遣されていました。


那の津(今の博多港)から出港した船は、やがて志賀島と野古島(のこのしま)の間をすり抜け、玄海島(げんかいじま)の脇を通って、小呂島(おろのしま)に達したあたりで、水平線へと姿を消していく。


大事な人が乗った船が消えてしまっても、丘の上にとどまり、神々に無事を祈る方もたくさんいらっしゃったのでしょう。そして、何年もたって、船が無事に帰って来たときの喜びたるや、現代人には計り知れないほど大きかったことでしょう。


と、お話がそれてしまいましたが、警固神社に戻ります。


現在の警固神社の境内は、天神の華やかなショッピングエリアにふさわしく、新しく生まれ変わっています。


昨年9月に竣工したばかりのモダンな建物は、神社の社務所。え、これが古事記の神々を祀る、歴史ある神社の社務所? と二度見するような建造物です。


市中大火により寛文8年(1668年)に再興された社殿と、令和の時代に完成したモダンな社務所。時を超えたコントラストが際立つ神社なのです。


ここに祀られる三柱のうち、八十禍津日神(やそまがつひのかみ)は、悪を示し、過ちを良い方向へと導く神。神直毘神(かんなおびのかみ)と大直毘神(おおおびのかみ)は、罪や汚れを祓い、足りないものを補い、善を見いだす神々とのこと。


警固神社とは、警(いまし)め、固(まも)る神社だそうです。


わたしが訪れたときには、どこからか早足で現れ、熱心に社殿でお祈りしたあと、また早足で立ち去る男性を見かけました。祈りの場が街中にあることで、気軽に立ち寄れる心強さもあるようです。


というわけで、福岡市にある志賀海神社、住吉神社、警固神社をご紹介いたしました。意外なことに、古事記と福岡には密なる関係があったのでした。


次回は、もう少し住吉神社をご紹介させていただこうと思っております。


<謝辞>

この「古事記と福岡の関係」については、『那國王の教室』を主宰なさっている郷土史研究家、清田進氏からご教授いただきました。

11月中旬、再建されたばかりの住吉神社の能楽殿(のうがくでん)にて清田氏が開かれた勉強会で教えていただいたものです。

能楽殿の内部を見学させていただきながら、住吉神社と古事記との関係や、福岡藩兵の沖ノ島在番などの講義をしていただきましたが、わたしにとって印象深かったのが「福岡の神社が古事記に出てくる!!」ということでした。清田氏には、貴重なお話を聞かせていただき、深く感謝しております。

美しく再建された能楽殿については、また次回お話しさせていただきたいと思います。



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