カリフォルニア共和国の旗
前回は、6月14日は「国旗の日(Flag Day)」ですよ、というお話をいたしました。
1770年代後半、イギリスから独立しようとしていたアメリカの議会で、星条旗が国旗と決まったことをお祝いする日なのでした。
奇しくも、この6月14日は、カリフォルニアにとっても因縁の深い日付なのです。
しかも、カリフォルニアの「旗」に関係のある日!
アメリカの州は、おのおのが「州の旗(state flags)」というものを持っています。
星条旗ほど有名ではありませんが、州の議事堂や市役所といった公共施設に行くと、星条旗と一緒に州の旗も誇らしげに掲げられています。
アメリカには50州ありますので、州の旗は50通りというわけですが、それこそ、いろんな色や模様が登場するのです。それぞれが、何かしら自分の州を象徴するものを図案としているのですね。
たとえば、ワシントン州。カリフォルニアからふたつ上の西海岸の州ですが、ここの旗は、ずばり初代大統領ジョージ・ワシントンの顔。
州の名前が、ワシントン大統領からきているので、ついでに旗だって彼の顔というわけです。
それで、カリフォルニアのお話です。
ご覧になった方も多いとは思いますが、カリフォルニアの州の旗には、「熊と星」が登場します。
そして、熊さんの下には、何やら文字が書いてあります。
「California Republic(カリフォルニア・リパブリック)」という文字です。
リパブリックというのは「共和国」という意味ですので、「カリフォルニア・リパブリック」とは「カリフォルニア共和国」。
でも、国でもないのに、どうして共和国?
実は、この「共和国」という文字には、深い思い入れがあったのです。というわけで、ちょっと歴史をひも解くことにいたしましょう。
時は、1846年。カリフォルニアで金鉱が発見されるちょっと前のことで、いまだカリフォルニアはメキシコ領。メキシコは、1821年には正式にスペインから独立していますので、立派な一国でした。
カリフォルニア周辺が「アルタ・カリフォルニア(Alta California、上の方のカリフォルニア)」と呼ばれていた時代で、カリフォルニアだけではなく、近隣のネヴァダ、アリゾナ、ユタ、ニューメキシコなども、メキシコの領土でした。
この頃は、領土を治める知事はメキシコの大統領が任命していて、カリフォルニアの住民(Californian ならぬ Californio)だって、その多くはメキシコの血を引いていました。
メキシコ系住民は、「メスティーソ」と呼ばれるスペイン人と先住民族の混血が多かったので、カリフォルニアの住民も、褐色の肌の人が多かったのでしょう。
映画にもなっている「怪傑ゾロ(Zorro)」のお話がありますが、このゾロが活躍したのも、メキシコ領カリフォルニアなんですね。
まだメキシコがスペインの統治下にあった頃、スペイン王に任命されたメキシコ総督(the Viceroy of New Spain)が、領土内の知事を選び、影響力をおよぼしていた時代を描いたフィクションとなっています。
「民を苦しめる悪政」がテーマとなっていますが、この頃は、たしかに領土内の政治は不安定で、悪者がやりたい放題の環境だったのかもしれませんね。
(写真は、上が南カリフォルニア・サンタバーバラのミッション(教会)、下がカリフォルニア中部・サンミゲルのミッション)
というわけで、19世紀中頃のメキシコ領カリフォルニアではありましたが、アメリカ人だって住んでいなかったわけではないのです。
その頃は、まだ大陸横断鉄道はありませんでしたが、それでも馬車で西を目指したアメリカ人はたくさんいて、メキシコ領カリフォルニアにもアングロサクソン系住民がだんだんと増えていったようです。
まあ、今のように国境が堅固に守られていたわけではありませんので、「西には広大な土地があるぞ!」と、アメリカ人もメキシコ領に入って定住していたのでしょう。(皮肉なもので、今は「メキシコ人がアメリカ領に不法に入ってくる!」と大騒ぎになっています。)
そんなとき、サンフランシスコのちょっと北にあるソノマ(Sonoma)という街で、騒ぎが起きました。1846年6月14日、33人のアメリカ人住民が蜂起し、「革命」を起こしたのです。
発端は、「メキシコ市民でない者は、カリフォルニアから出て行くようメキシコ政府が画策している」という知らせ。
その頃は、メキシコ市民(もしくは市民権を取得した移民)でなければ領土内で土地を持つことはできませんでしたが、ついにはアメリカ人定住者に対して「追放令」が下りそうな雲行き。
これに反発したのが、33人のアメリカ人定住者。
ソノマには、スペイン人(のちにメキシコ人)の新世界戦略の拠点となった「ミッション(mission、カトリック教会)」と「プレシディオ(presidio、要塞)」が置かれていましたが、この頃には、ソノマは開拓の北部前線基地となっていました。
このソノマ基地を拠点として、カリフォルニア全体のメキシコ軍を統括していたのがマリアノ・ヴァレホ陸軍総司令官でしたが、彼が「革命者たち」に捕らえられ、牢屋に入れられてしまったのです。(写真は、南カリフォルニア・サンタバーバラにあるプレシディオ)
メキシコ人を追放し、無血革命が成功したことを祝って、ソノマの中央広場には、革命者たち自作の「共和国の旗」が掲げられました。
これが、「カリフォルニア共和国」の旗だったのです。(写真は、1890年に撮影された旗。実物はサンフランシスコに保存されていましたが、1906年の大地震で焼失したそうです。)
現在の旗とは若干違いますが、やはり「熊と星」が描かれていて、「California Republic」という文字も書かれています。でも、ウィリアム・トッドさんが描いた熊を見上げて、「あれは豚だろうか?」という住民のつぶやきが聞こえた、という当時の記述も残っているそうです。
そして、今と同じく、旗の下には赤い帯がありますが、この部分は、どなたかレディーの赤いペチコートを縫い合わせたといわれています。赤い色は、木の実で染めた自然の顔料だったとか。
トッドさんご本人の記述によると、旗になった綿生地は新品だったけれど、赤いフランネルのペチコートは、ミセス・シアーズがカリフォルニアへの道中、実際に使っていたものらしい、ということです。
この「カリフォルニア共和国」の旗には熊さんが出てくるので、「the Bear Flag(熊の旗)」とも呼ばれています。そして、このときの無血革命は、「the Bear Flag Revolt(熊の旗の反乱)」と呼ばれているのです。
まあ、「革命者たち」という表現を使いましたけれど、この33人のアメリカ人は、農民や木こりといった一般人だったようです。
この頃は、カリフォルニア全体に5千人ほどしか住んでいなかったようなので、ソノマの街にも人はまばら。前年には、ソノマの基地も武装を解いていたようですし、33人とその家族が集まれば、十分にメキシコ人を追い出せる! と信じたのでしょう。
その中に、デイヴィッド・ハドソンという人がいて、ナパバレーのワイナリー、ベリンジャー(Beringer)にある「ハドソンハウス」は、このハドソンさんの家だったといわれています。
ハドソンさんは、1845年、25歳で故郷のミズーリを出発し、弟ウィリアム、妹ルシンダ、その夫ジョン・ヨークとともに、馬車でナパバレーにやって来ます。
温泉地カリストーガ(Calistoga)で冬を越したあと、翌年には、弟たちと「熊の旗の反乱」に加わるのですが、その後はナパのセントヘリーナ(St. Helena)に土地を買って、ぶどうを育て、ぶどう栽培農家となるのです。ナパに花咲くワイン産業の先駆者となったわけですね。
その後、フォトギャラリーでご紹介したジェイコブ・ベリンジャーさんに土地を売ったので、ハドソンさんのふどう畑は、今はベリンジャー・ワイナリーの敷地となっています。
そして、「ハドソンハウス」は、ハドソンさんが1850年に建てた家。彼は、反乱の翌年にはフランシス・グリフィスさんと結婚し、6人の子供に恵まれました。
ハドソンハウスは、そんな家族の成長をじっと見守ってきたのでしょう。
1845年、ハドソンさんと一緒にミズーリを出発したと思われる馬車隊は、もともとはアメリカ領のオレゴンに向かっていたのですが、一行の何人かは途中で分かれて、カリフォルニアを目指したのでした。
その中に、ウィリアム・ブラウン・アイドゥ(William Brown Ide)という人がおりました(写真は、彼と伝えられる人物)。
この方は、「熊の旗の反乱」を起こした中心人物とされるのですが、反乱の翌日には独立宣言をして、「カリフォルニア共和国」の「大統領」となるのです。
マサチューセッツの大工、転じてミズーリの農民が、今やカリフォルニアの大統領!
けれども、共和国は、わずか25日の命。25日後には、共和国の熊の旗は、アメリカの星条旗に取って代わられるのです。
反乱の直前には、メキシコとアメリカの間で戦争の火ぶたが切られ、カリフォルニアにはアメリカ軍が迫っていたというわけです。
そして、間もなく、1848年にはメキシコとの戦争も終結し、1850年にカリフォルニアはアメリカの一員となるのです。
いうまでもなく、現在のカリフォルニアの旗は、共和国の熊の旗を模してあるわけですが、州の旗が採択されたのは、1911年のこと。
奇しくも、今年は、「熊の旗100周年記念」なのですね!
こぼれ話: ソノマから追い出された、メキシコ軍のマリアノ・ヴァレホ総司令官についてほんの少し。
この方は、カリフォルニアのモントレーで生まれた、生粋の「カリフォルニア人」でした。生まれの国籍はスペインですが、きっとカリフォルニアを心から愛するご仁だったのでしょう。
27歳でソノマに派遣されるのですが、今はナパとともに「ワインの名産地」と称される、ソノマの基礎をつくりあげた重要な人物でもあるのです。
運命のいたずらで、アメリカ人の反乱の矢面に立つことにはなりましたが、「北カリフォルニアはアメリカ領とすべきである」と、先進的な考えをお持ちだったそうです。
その後は、カリフォルニアの州憲法起草委員、州上院議員、ソノマ市長を務め上げた名士で、今でも、ソノマの人々から敬われている人物なのでした。
グレンエレン(Glen Ellen)やケンウッド(Kenwood)といったソノマバレーのワイナリーの地を訪れれば、あちらこちらで「General Vallejo(ヴァレホ大将)」の名を見かけることでしょう。
参考文献: 「熊の旗の反乱」に関しては、習ったはずなのに何も覚えていなかったので、それこそ、いろんな資料をひっくり返すハメになってしまいました。
13年前に両親と旅したソノマ観光協会作成の年表まで引っ張り出し、ヴァレホ大将の参考とした次第です(ありがとうございました)。
資料すべてを列挙するつもりはありませんが、ネットアクセスできるものを2つだけご紹介いたしましょう。
「ハドソンハウス」のハドソンさんに関しては、彼の子孫が調べあげたルーツを紹介したNapa Valley Register紙の記事を参照いたしました。
オリジナルの「熊の旗」については、Sonoma Press Democrat紙の記事を参照いたしました。毎年行われる「熊の旗の反乱」の再現劇についても記載されています(今年は、6月12日(日)に開かれました)。