サンフランシスコの丘の家
前回、こちらの「ライフ in カリフォルニア」のコーナーでは、『サンフランシスコの風の道』というお話をいたしました。
サンフランシスコの街には、西から東へ、太平洋からサンフランシスコ湾に向かって「風の道」とも呼べる風の通り道があって、それが「ベイブリッジ」という、湾を渡る人の道にもなっている、というお話でした。
このベイブリッジの橋のたもとは、小高い丘になっていて、ここに建つ建物は、湾を見下ろす、いい眺めになっています。
今はリンコンの丘には、高層ビルがニョキニョキと建っていて、西から東へと風や霧が通っていくと、高層ビルのてっぺんには、気流が渦を巻くのです。
そんな近代的な丘ですが、ここには、意外な歴史が隠されていたのでした。
1840年代はじめ、サンフランシスコに人(先住民ではない白人)が住み始めた頃は、現在のメインストリートであるマーケット通り(Market Street)の南は、湾のようにくぼんでいて、砂浜になっていました。
リンコンの辺りは岬(Rincon Point)になっていて、この砂浜からは、40メートルにそびえ立つリンコンの丘が、よく見渡せました。
こちらの地図(1853年製作)では、斜めに走るマーケット通りの右下に突き出した部分が、リンコン岬です(Map from Wikimedia Commons)。
1848年にシエラネヴァダ山脈で金が見つかって、「ゴールドラッシュ」の時代が到来すると、サンフランシスコにどっと人が押し寄せるようになり、ここを足場に金山に向かったり、金鉱でひと儲けした人が住み始めたりと、街もだんだんと賑やかになりました。
ニューヨークやマサチューセッツと国内からだけではなく、アイルランド、イングランド、スコットランド、ドイツと、世界じゅうから人が集まったのです。
最初は、金を夢見る「独身男性」だけだった街にも、地元から家族が呼ばれるようになり、1850年には2万5千人だった街の人口も、わずか3年後の1853年には、倍の5万人になっています。
すると、「独身男性」向けに飲み屋や売春宿が並ぶ歓楽街は、「ファミリー」には都合が悪い。
そこで、「あんなにうるさい(道徳的にもよろしくない)街中には住みたくない」と、ちょっと離れた、小高いリンコンの丘に、凝った家を建てる家族も出てきました。
写真は、ギリシャ神殿の柱をまねた「ギリシャ復興様式(Greek Revival)」のお屋敷。
ほかには、とんがり屋根の「ゴシック復興(Gothic Revival)」、イタリア風の塔が付いた「イタリア・バロック(Italianate)」、パリのオペラ座みたいな「第二帝政期建築(Second Empire)」と、お金のある人たちは、競って邸宅を建てたのでした。(Photo of Rincon Hill residence in 1875 from “NoeHill in San Francisco” website, courtesy of UC Berkeley, Bancroft Library)
ですから、このリンコンの丘は、サンフランシスコ初(!)の「高級住宅街」と言えるところだそうです。
今の地形で言うと、フォルサム通り(Folsom Street)やハリソン通り(Harrison Street)のベイブリッジに近い区域です。
こちらは、ハリソン通りからベイブリッジの乗り口を眺めたところですが、昔の「丘」の雰囲気が残っていますよね。
当時は、現在の2番通り(2nd Street)とフォルサム通りが交差する辺りが、丘の頂上となっていて、ここには、庭の広い邸宅がいくつも軒を連ねていたとか。
今となっては、2番通りとフォルサム通りの辺りには、大きなオフィスビルやビジネスホテルが建ち並び、昔の「高級住宅地」のなごりはありません。
けれども、ところどころにパラパラと古そうな建物が残っているのも確かです。
こちらのビルは、正面のレンガは入れ替えてありますが、側面は、古いレンガのままです。
1912年に建てられた3階建のビルで、今はアパートになっているとか。
向こう側の白い建物は、1913年に建てられた3階建で、サンフランシスコらしい出窓のある民家です。
今は借家として貸し出されていますが、なんでも、ちょうど3年前に、230万ドル(およそ2億3千万円)で売買されたとか!
と、リンコンの丘に話を戻しますと、1860年代には、押しも押されもせぬ「サンフランシスコ一の高級住宅地」になっていたようです。
だって、なんといっても、ここからの眺めはいい。東から南には、サンフランシスコ湾を一望できるし、北を向けば、日々変化する街並みが見下ろせる。
ほら、今は「コイトタワー」が建つテレグラフ・ヒル(Telegraph Hill)も、くっきりと見えるでしょう。
そして、気候的にも、サンフランシスコの中では一番「日の当たる場所」でもあり、霧がかかりにくいので、暖かい場所でもあります。(Photo of Rincon Hill overlooking Telegraph Hill in 1875 from “NoeHill in San Francisco” website, courtesy of UC Berkeley, Bancroft Library)
そう、高級住宅地には、もってこいのロケーション。
けれども、ここは、街の南にある船着場と繁華街を結ぶ、大事な経済ルートでもありました。そう、船着場から物資を運ぶ馬車の通り道なのです。
そこで、2番通りの急斜面が馬車には「邪魔」だと、えっちらおっちらと丘を削り始めたのでした。すると、便利になった2番通りには、馬車がたくさん通るようになって、うるさくってしょうがない!
そんなこんなで、だんだんと「高級住宅地」の雰囲気が失われていって、1900年ころになると、お金持ちの人たちは、ノブ・ヒル(Hob Hill)のような、べつの丘の上に住むようになったのでした。
代わりに、1880年代くらいからは、リンコンの丘のふもとに、港や街の開発に携わる人たちが住むようになって、鍛冶屋さん(blacksmith)、銅細工師(coppersmith)、ロープ職人(rope maker)と、職人さんたちが集まるようになりました。
こちらは、フォルサム通りの海際にある鍛冶屋さんです。建物は、ペンキを塗って新しく見えますが、1912年に建ったもの。
正面に書いてあるエドウィン・クロッカースさん(Edwin A. Klockars)は、フィンランドから来られた移民で、1928年にこちらの鍛冶屋さんにジョインされたとか。
「必要なものは、なんでもつくってあげるよ(Anything you need, we make)」をモットーとされていたそうで、今でも、リンコン地区最後の鍛冶屋さんとして営業されています。
外壁には、「E. M. O’Donnell Copper Works」と書いてあって、エドワード・オドネルさんのことと思われます。
この方は、たぶんアイルランドから来られたのだと思います。
が、1867年の「有権者登録」には掲載がなく、1896年の「ビジネス一覧(写真)」には登場するので、1880年代から90年代にかけて、ここで銅細工業を始められたと想像するのです。(Photo of Crocker-Langley San Francisco Directory from San Francisco Genealogy)
残念ながら、建物の詳細は、不明です。
この辺りは、1906年のサンフランシスコ大地震ですっかり焼けてしまったので、建物はすべて、1900年代に建て替えられたものと思われます(それでも、100年は経っていますけれどね)。
というわけで、リンコンの丘の歴史。
昔を掘り返してみると、今からは想像もつかないことが、いろいろとあるものです。
とくに、サンフランシスコのように、昔の建物が残される場所を歩いてみると、いろんなものが気になってしょうがありません。
もう少しお話を続けたいこともありますが、それは、また次回にいたしましょうか。
参考文献:
リンコンの丘の歴史については、おもに以下の記事を参照いたしました。
“A History of Ever-changing Rincon Hill”, January 1, 2013, published by SPUR (SPURは、ベイエリア都市開発の非営利団体で、「The Urbanist」という月刊誌では、都市開発に関するさまざまな記事を掲載されています)
“California Historical Landmark 84: Rincon Hill”, compiled by NoeHill in San Francisco(こちらの NoeHill ウェブサイトでは、カリフォルニアを含めたアメリカ西部の史跡を紹介しています。ちなみに、リンコンの丘は、カリフォルニア州史跡84番とか)
“From the 1820’s to the Gold Rush”, The Virtual Museum of the City of San Francisco(こちらのサイトは、サンフランシスコの仮想歴史博物館になっていて、歴史のお勉強には最適です)