プラハの晩秋
サンフランシスコ空港からドイツ経由でたどり着いたプラハは、晩秋の季節。霧雨の降る、ちょっと冷たい夜でした。
プラハの晩秋は、霧や霧雨が多く、ひんやりとした気候です。
そんなプラハは、チェコ共和国の首都。「建物の博物館」ともいわれる街。大戦中にも激しい戦火をまぬがれたので、歴史的な建物が昔のまま残っているのです。
街には、いろんな時代の建築様式が展示品のように並んでいて、映画の撮影には喜ばれるのです。たとえば、イギリスの時代物の映画をつくるのだって、わざわざプラハに来て撮影するという話も耳にしました。
そんな歴史的なたたずまいですので、まずは、街歩きをして、いろんな様式の建物や外壁の飾りを楽しむのがいいのではないでしょうか。
けれども、石畳の街並は、まるで迷路のように入り組んでいますので、迷子にならないように、ご注意あれ! まっすぐな道だと思っていても、いつの間にやら斜めに進んでいて、考えていたのとは違う場所にひょっこりと出てきたりするのです。
歩き疲れたら、地下鉄や路面電車(トラム)もあるし、のんびりと散策するのだったら、こういった交通機関があれば十分でしょう。
そうそう、チケットは「一日券」を買うと便利なのですが、これは電車やバスに乗って、中の機械で刻印を押す方式になっています。
24時間以内だったら、自由に乗り降りできるのですが、ときどきチケットの検査をしているので、時間切れには気を付けた方がいいでしょう。
わたしは、あちらこちらを旅していて、プラハの地下鉄で初めて「チケット検査」を体験いたしました。
電車を降りたら、係員が立ちはだかってきて、チケットを見せろと言うのですが、わたしが経験したということは、結構、頻繁にやっているということかもしれませんね(どうやら、前にいたティーンエージャーを調べたかったようなのですが、若いコの違反者が多いのでしょうか?)。
ところで、プラハには、連れ合いの会社のスタッフが住んでいて、この方がまた「変わり種」なんですよ。
彼は、ヴェトナムのハノイからやって来た方。ヴェトナムは、ヴェトナム戦争(1960-1975)終結後に社会主義となりましたが、彼は成績優秀だったので、大学は外国へ国費留学させようということになりました。
その頃、ヴェトナムから国費留学させる先は、旧ソヴィエト連邦、旧チェコスロヴァキア、旧東ドイツ、共産体制のハンガリー、そして中国と、社会主義や共産主義の国々でした。
けれども、どの国に行くかとか、どの大学のどの学部で学ぶかというのは、自分の希望通りには行かないものでした。彼は、IT業界のエンジニアになりたかったので、医学部とか建築学部とか、他の分野だったらイヤだなと思っていたのですが、幸い、プラハの大学のエンジニアリング学部に入れたそうです。
それ以来、25年もプラハに住んでいるのです。
普通、国費留学だったら、卒業後は祖国に戻って、「国の発展」に駆り出されるところでしょうけれど、もしかしたら、ヴェトナムはその点では寛容だったのかもしれませんね。
そんなわけで、プラハでいろんな外資系IT企業に勤めて、プラハ近郊出身の奥さんとも出会って、今は、12歳から5歳まで5人も子供がいるんです。英語よりもチェコ語の方がダントツにうまいし、もう、いまさら、他の国なんて住めないですよね。
たまに祖国のヴェトナムに帰ったって、あんまり親戚はいないし、故郷はもう変わり果てているし、「自分の国」だという気がしないのでしょう。いまだに首都ホーチミンシティーを「サイゴン」と呼ぶ彼は、あんまり祖国に未練はないようでした。
今は、チェコは社会主義国から共和国に変わっていますし、ヴェトナムからも移民の方がたくさんいらっしゃって、プラハ郊外にはヴェトナム系コミュニティーもできているということでした。
そんな彼は、プラハの冬は厳しいよとおっしゃいます。
晩秋の季節でも、すでに冬のように寒かったのですが、冬になると、かなり雪が降ることもあるそうです。
街には石畳の道が多いので、雪が溶けて水になったあと、それが凍りついてツルツルと滑りやすくなって、歩いたり、運転したりするのに支障が出ることもあるとか。
逆に、真夏は、30度を超える日は数日しかないそうなので、過ごしやすいとも聞きました。
そう考えると、プラハは夏の方がいいのかなと思ったりもするのですが、それでも、クリスマスの頃には、街は光に満ちあふれるようですよ。
旧市街広場には、大きなクリスマスツリーが飾られ、観光客でにぎわう広場は暖かい光で彩られるのです。
夏の太陽に彩られた街並にクリスマスの光に彩られた街並。きっと、どちらも「ベストショット」となることでしょう。