Essay エッセイ
2024年08月31日

三苫の丘

<エッセイ その215>

例年よりも暑い、今年の夏。


福岡県太宰府(だざいふ)市は、気温35度を超える猛暑日の記録を更新です。


内陸にあって、山に囲まれる太宰府。猛暑連続40日を超えて「日本一」となりましたが、太宰府天満宮に祀られる菅原道真公も、「なにも、そんなことで有名にならなくても・・・」と、苦笑いしていらっしゃることでしょう。


そんな8月のお盆の入り、福岡市の東の端へと海を見に行きました。


そうなんです、福岡市は海に面しておりますので、我が家からも歩いて海岸に行くことはできます。


けれども、この辺りは、埋め立てられた人工の海岸線。水遊びができる「親水ビーチ」はあるけれど、自然の海水浴場ではありません。


そう、福岡市は海に面しているわりに、古来、埋め立て地が多い。埋め立てては港をつくり、船が寄港し、また埋め立てては、街が広がる。


現在は、港湾や漁港として利用される海岸線も多いし、住宅地の浜として整備されていても、遊泳ビーチは限られています。


そう、ごく自然な海辺を見ようとすると、どこかへドライブしなければなりません。


そこで向かったのが、福岡市の一番東にある東区。


ここからは「海の中道」という砂州(さす)が伸びていて、その先には志賀島(しかのしま)という島が浮かんでいます(写真は東から砂州を眺め、右が志賀島、左が能古島(のこのしま))。


志賀島といえば、かの有名な『漢委奴国王(「かん」の「わ」の「な」の「こくおう」)』という金印が発見された島。江戸時代に地元農民が発見したとされる場所には、金印公園が整備され、国宝の金印は、福岡市博物館に展示されます。


この志賀島へ向かう砂州には、砂浜がありそうですが、南側(写真では左側)の博多湾に面する地域は、公園や住宅地になっていて、海辺は人の手で整備されています。


北側(写真では右側)はずっと砂浜ではあるけれど、こちらは玄界灘(げんかいなだ)に面して波が高く、アクセス禁止のよう。


ここで迷い込んだのが、三苫(みとま)と呼ばれる住宅地(地図では、赤印の場所)。


細い生活道路を進んで行くと、サーフボードを担いだウェットスーツのサーファーが脇を歩いていて、さらに進むと、海から上がってきた家族連れのサーファーも見かけます。とすると、海は近い!


ところが、周辺はこんもりとした松林。どこから海辺に抜けられるのか、さっぱりわかりません。


そこで、とりあえず道路脇に(違法)駐車して、『綿津見神社(わたつみじんじゃ)』と書かれた参道をテクテクと登っていきます。


この辺りは、「黒山国有林」という松林。近年、三苫の松林を再生しようと、地元民によるクロマツの植樹も盛んなようです。


なんとかこの参道を登りきり、高い場所から周辺の地形を見てみようというプランですが、とにかく参道は長い。


「この暑さでは、もうダメ!」とあきらめかけた時、目の前には綿津見神社の鳥居が現れます。


小ぶりな鳥居をくぐって参道をずんずん進むと、ようやく小さな鳥居と拝殿が出てきます。


実は、この綿津見神社はすごいところで、貴重な「仏像」が五躯(く)安置されています。


「え、神社に仏像?」と不思議な感じもしますが、もとはお寺だったのでしょう。神社になった今でも仏像が大事に安置されるとは、神仏混淆(しんぶつこんこう)の最たるもの。


これらの仏像は、福岡市有形文化財に指定されていて、平安時代から南北朝時代の作。そのうち虚空菩薩(こくうぼさつ)像は、延暦24年(805年)唐から対馬を経由して戻った最澄(伝教大師)が、三苫に一ヶ月滞在した際に彫ったものと伝わります。


が、そんな貴重な歴史があるとは、つゆ知らず。


ちょこっと拝殿に寄ったあとは、海はどこ? とまわりをキョロキョロと見まわします。


すると、神社脇にはもうひとつ鳥居が立っていて、鳥居をくぐると、松の切れ目にキラキラと輝く青い海が!


ようやく海が見えた! と喜びの瞬間です。


いえ、日々海を眺めて暮らしてはいるのですが、自然のままの海辺を見るのが、こんなに難しいとは・・・。


さらに先へ行くと、階段が整備されていて、ここから簡単に岩場に降りられるようになっています。


海は青く、風が心地よい。


ここからは、左に砂浜、真下に岩場。潮が引けば、岩場で磯遊びもできそうです。


左手は、弓形(ゆみなり)の砂浜になっていて、サーフィンやウィンドサーフィン、浜釣り(はまづり)を楽しむ方々がたくさんいらっしゃいます。


この辺りは、潮流が速く、急に深みにはまったりもするので、遊泳は禁止です。ゴツゴツとした岩場があって、波に流されると、打ち付けられそう。落雷もあると「遊泳禁止」の看板に書かれていました。


一方、砂浜の左側は安全なので、夏の間、海水浴客にも開放されています。



ところで、どうしてここは三苫(みとま)というのでしょうか?


この地名には、列記とした由来があるのです。


時は、女王・卑弥呼の御代が過ぎ去りし4世紀。仲哀天皇(ちゅうあいてんのう)の妃である神功皇后(じんぐうこうごう)が、朝鮮半島の新羅(しらぎ)に攻め入ろうと海を渡った際、対馬沖で暴風雨に見舞われます。


海の神である志賀島の三神に祈りを捧げ、供物と苫(とま:植物繊維で編んだむしろ、雨風をしのぐ船上の覆い)を海に投じ、無事に渡航したあかつきには社を建ててお祀りすることを誓います。すると、たちまち海は穏やかになり、皇后は朝鮮半島へと上陸。


その後、三枚の苫は海を漂い、海岸に流れ着きます。遠征から戻った皇后は海神に感謝し、この地を三苫と名づけ、三苫綿津見神社(みとま・わたつみじんじゃ)を創建した、との伝説が語り継がれます。


そう、綿津見神社の「綿津見(わたつみ)」とは、海の神。


以前もご紹介しましたが、志賀島には綿津見の三柱を祀る志賀海神社(しかうみじんじゃ)が置かれます。


三苫の綿津見神社は、この志賀海神社の三神を祀るために創建された社。イザナギノミコトが黄泉の国(よみのくに)から逃げ帰り、水で身を浄めたときに生まれ出た神々のうち、上津(表津)綿津見神(うわつ・わたつみ・のかみ)、中津(仲津)綿津見神(なかつ・わたつみ・のかみ)、底津綿津見神(そこつ・わたつみ・のかみ)の三柱です。


ちなみに、綿津見の神は、仏教の世界では「八大竜王(はちだいりゅうおう)」と称され、龍宮に住む海の主ともいわれます。三苫綿津見神社は、もともと『八大竜王社』だったところ、明治の神仏分離令で綿津見神社となったそう。ですから、仏像も安置され、雰囲気もどことなく「お寺」っぽいのでしょう。



三枚の苫をご神体とし、三苫に祀られる海の神、志賀三神。


この地域の歴史を振り返ると、綿津見の神々を祖先とあがめるのは、阿曇(あずみ)氏です。『古事記』や『日本書紀』にも、阿曇連(あずみむらじ)は綿津見神の子の子孫であり、一族は綿津見を祖と祀る、とあります。


阿曇氏とは、博多湾周辺の筑前(ちくぜん)を本拠地とする氏族。


阿曇氏の発祥の地とされる筑前国糟谷郡(かすやぐん)安曇郷とは、今の福岡市東区三苫・和白(わじろ)や志賀島、東区に接する糟屋郡新宮町(しんぐうまち)の一帯です(こちらの地図では、右上の部分)。


考古学的に見ても、この辺りの海を臨む丘陵地帯には、遺跡や古墳がたくさん発見されていて、早くから文化が栄えていた地域のようです。


たとえば、三苫永浦遺跡(みとまながうらいせき:地図では、右上にプロットされた箇所)。こちらでは、弥生時代の溜井(ためい)が発見されています。


溜井とは、古代のダム。飲み水や農業用水をためておく池で、大きいものでは長さ53メートル、幅13メートル、深さ6メートルと、とても大きいです。


溜井には杭(くい)の跡も残っていて、ダムの中になんらかの施設があったとも考えられています。


底に拳(こぶし)大の玉石を敷き詰め、埋め土で覆った10メートルほどの暗渠(あんきょ)も見つかっていて、溜井にたまった大量の水を少しずつ水田に流す仕組みだったよう。


この弥生時代の暗渠を利用した灌漑施設は、全国的にも珍しく、おそらく最古の出土例ではないか、という貴重なもの。さらには溜井と溜井をつなぐ水路も見つかっていて、稲作が本格的に進み、大規模な集落があったことを示しているようです。


この大規模な集落から、富を集め、力をつけた氏族が誕生し、阿曇氏に発展したのでしょうか。


こちらの丘陵地帯からは、金印『漢委奴国王』が発見された志賀島だけではなく、南の奴国(なこく)、西の糸島半島の伊都国(いとこく)と、四方を見渡せたそう。オオカミの糞を燃やした「のろし」跡とおぼしき穴も見つかっています。


紀元前後は、弥生のクニが成立した時期。この三苫の高地集落から「のろし」を使って他のクニと通信したり、外敵の侵入を監視したりと、重要な砦(とりで)の役割を果たしていたのだろう、ということです。(溜井と遺跡全景の写真は、福岡市教育委員会編『三苫永浦遺跡』1996年より)



そんなわけで、三苫の丘から海を臨む散歩道。


綿津見神社から海辺の岩場に下りる途中、墓石を見かけました。


昔、おそらく江戸時代か明治期に置かれたものと思われますが、二人の名前が刻まれます。


右側には、咸礼信士(かんれい・しんじ)。左側には、流海童子(りゅうかい・どうじ)。


親子の墓石と思われますが、先に男のお子さんが海で亡くなられたのでしょうか。お父さんが亡くなった際に、ひとつの墓石に納められたのでしょう。


二人で美しい海を眺めながら、心穏やかに旅立って欲しい、そんな親族の願いを感じます。そして、後の世にも、墓石はこのまま受け継がれていくのでしょう。


この日は、8月13日のお盆の入り。


三苫の松林沿いには、供養塔やお堂があって、地元の喪服姿の家族が小さな提灯を下げ、お参りにまわっていらっしゃるようでした。


昔はお盆になると、こういったお参りの家族をたくさん見かけたことでしょう。


人々の暮らしも変わった今、それでも、お盆には海の彼方から祖先が戻っていらっしゃる。


海を臨む三苫の丘に立つと、時空を超えたつながりを感じるのでした。


<おもな参考文献>

和白郷土史研究会編『ふる里のむかし わじろ』、第4章「三苫村の歴史」(2006年)

福岡市教育委員会編『福岡市埋蔵文化財調査報告書第476集 三苫永浦遺跡』(1996年)


三苫永浦遺跡群のある丘陵一帯は、1970年代に田畑の一部が宅地造成され、さらに1993年、残る田畑の区画整理事業が計画されたため、福岡市教育委員会が発掘調査を行いました。

いつの時代も、古い層の上には新しい層を築いていく。旧石器から縄文、そして弥生、古墳時代の集落を経て、農耕地となり、昭和、平成の宅地へと変遷する。これは、いたしかたない世の流れでしょうか。



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