Essay エッセイ
2023年04月25日

九州めぐり〜鹿児島 後編(鹿児島市)

<エッセイ その199>

前回は、『九州めぐり〜鹿児島 前編』と題して、指宿(いぶすき)から知覧(ちらん)をめぐる行程をご紹介いたしました。


今回は、その続きとして、鹿児島市内のお話をいたしましょう。


前回も触れましたが、この鹿児島旅行の目的は、もう何年も会っていない仲良しの友人を訪ねること。そのついでに観光をしようと、まずは列車で博多から指宿に行き、翌日はレンタカーであちらこちらをまわって、鹿児島市にたどり着くプランです。


鹿児島市に到着したのは、4月初日の土曜日。宿泊先の山の上のホテルは、観光客やイベントに集まる地元客で混雑していて、「コロナ禍」は過去の出来事になりつつあることを肌で感じます。


ホテルに来てくれた友人に会えたのは、夕方の5時をまわったころ。久しぶりに近況を語り合ったあとは、連れ合いと3人で地元の居酒屋に向かいます。


ここは、繁華街・天文館(てんもんかん)にある郷土料理のお店。


鹿児島の郷土料理といえば、まずは、カツオでしょうか。指宿からは開聞岳のあちら側、枕崎(まくらざき)が有名です。


なにせ、枕崎漁港の年間水揚量の半分は、カツオ。枕崎市役所の前には、毎年「鯉のぼり」ならぬ「カツオのぼり」が立てられ、4月後半から5月初頭の風物詩にもなっています。カツオは街のシンボルなのでしょうね。


刺身にたたき、鰹節と、新鮮なカツオはお料理もいろいろ。


まっ先に「カツオのたたき」を注文してみましたが、カツオがあまり好きではない連れ合いも、「これなら食べられる! なまぐささがまったくない!」とご満悦。


わたしは、キビナゴの揚げ物も好きでした。


キビナゴといえば、子供のころ母がよく刺身にしたり、酒と醤油で軽く煮つけたりしていました。小さな魚なので包丁要らずですが、身も小さいので、さばくのが難しそうと、今になって気づきます。


懐かしいキビナゴは、こちらでは珍しく、骨をはずして唐揚げにしています。骨も捨てずに揚げてあって、カリカリとした歯応えが、つまみには最適です。


このお店を勧めてくれた友人は、中学のとき東京から転校してきた「都会人」。幼稚園は博多で過ごしたこともあるそうですが、中学生の彼女が驚いたのは、九州では「魚の形」をした魚が売られていることだったそう。


それまで、魚は切り身になって売られているのが当たり前で、お店で一匹丸のままの魚を見たのは初めてだったとか。


そんな彼女も、今では立派な鹿児島人。お母さまの実家は知覧、お父さまは隣の頴娃(えい)町と、薩摩にルーツを持つこともあり、福岡の大学を卒業したあとは、お母さまが住む鹿児島市に暮らしています。


「あら、有名な池田湖だけじゃなくて、マイナーな鰻池(うなぎいけ)まで行ったのね」と半ばあきれていたようですが、わたし達が鹿児島のあちらこちらを訪れたことを喜んでいるようにも見えました。



翌日の日曜日は、のんびりと一日、鹿児島市内を観光します。


鹿児島と切っても切れない存在は、やはり桜島(さくらじま)ですね。


前の晩も、「噴煙が舞っていて、目がゴロゴロする」と友人が気づいたくらい、頻繁に噴煙が上がっている火山です。そう、山が噴火しなくても、噴煙だけはモクモクと上がるのです。


まあ、噴煙がいつ上がるかは、山に聞いてみないとわかりませんが、水蒸気のような白い煙が上がったり、黒っぽい灰色の煙が上がったり、風向きによって煙が向こう側に消えていったり、こちら側にたな引いたりと、刻一刻と変わる噴煙を見ているだけで飽きません。


そして、太陽の位置によって見え方が変わるのも、桜島の魅力でしょうか。


桜島は、一日のうちに七色に変化(へんげ)するといわれます。


鹿児島市内から見ると、朝は背中に太陽を背負って墨絵のぼかしのよう。朝ホテルの部屋で目覚めて、窓から眺めた桜島は、神々しくもあります。


日中はだんだんと山肌に日の光が当たって、表情がくっきりしてきます。裾野の新緑も加わり、ぐんとカラフルな色合い。


そして、夕刻になると、山が西陽で輝きます。上の方から順繰りに輝きが移っていって、裾野に当たるころには、赤味が増していきます。日本古来の染料、茜(あかね)を思い出すような、きれいな赤。


「七色」といわず、多彩に変化する桜島。いつの時刻も、ずっと眺めていて飽きない山なのです。



もっと近づいてみたいと、フェリーで錦江湾(きんこうわん)を渡って、桜島に行ってみました。市内の鹿児島湾フェリーターミナルからカラフルな船が出ています。


なんと、この市営フェリーは24時間営業。時刻によって便数は変わりますが、午前7時から午後6時までは一時間に3便(土日祝日は午後2時から6時まで一時間に4便)出ています。夜中も一時間に1便は運行していて、鹿児島市内で遅くまで呑んでもフェリーで帰宅可能とのこと。


料金も片道200円とお安く、住民にも、ツーリストにも便利な足なのです。


午後2時に桜島からフェリーが到着すると、すれ違いでこちらの船が出港します。それと同時に、桜島からも濃いグレーの噴煙がモクモクと立ち上り、船上のわたし達もあわててマスクを付けます(写真奥、フェリーの向こうに濃い噴煙が見えています)。


フェリーは、わずか15分の短い旅。船内の「フェリーうどん」は有名だそうですが、味わう間もなく、キョロキョロしている間に着岸します。


桜島に上陸すると、目の前の観光タクシー会社に声をかけて、中腹の展望台まで連れて行ってもらいました。


ご存じのこととは思いますが、桜島は、厳密には「島」ではありません。なんでも、大正3年(1914年)の大正大噴火で海が埋まり、今となっては大隅半島と陸続きになっています。


鹿児島市とは錦江湾を隔てた大隅半島とくっついていますが、行政上は鹿児島市になります。


この地の特産品は「桜島大根」や「桜島小みかん」。今では珍しくなった小みかんのビニールハウスや火山の土石流を防ぐ砂防ダムなどを眺めながら、クネクネと舗装された道を上って行くと、中腹には展望台があります。


この湯之平展望所までは路線バスも行っています。停車中の観光バスからは韓国のツーリストもたくさん出てきて、桜島一番の観光スポットになっているようです。


展望台は北岳の斜面にあり、ここからは山肌も細やかに見え、間近に上がる噴煙も迫力があります。南岳は今も噴火活動を続けていて、ボン!という爆発音や勢いよく上がる噴煙に、空恐ろしさすら感じます。


桜島の海沿いには、いたるところにコンクリートの避難場所が設けてあって、火山が噴火したら住民の方々がここに逃げ込み、鹿児島市へとフェリーで避難できるようになっているそう。


市営フェリーの運行には、観光や日々の生活の足といった役割だけでなく、噴火による溶岩流や火砕流、火山灰といった被害から住民を守る重大な使命があるのです。


指宿から眺めた開聞岳(かいもんだけ)もそうですが、大きな山を目の前にすると、畏敬の念を抱きます。なぜそうなのか? 答えはわからないながらも、自然の偉大さを感じられる場所なのです。



さて、鹿児島市内の観光地といえば、仙巌園(せんがんえん)も有名です。


4月上旬までは、ここから桜と桜島を堪能できると聞いていたので、楽しみにしていたスポットです。


仙巌園とは、薩摩藩主・島津家の別邸で、目の前の錦江湾を「池」に見立てた庭園は、壮大な眺めを誇ります。庭園といえば、東京湾の浜離宮(恩賜庭園)も大きいですが、こちらは背後に桜島を従えていて、スケールがでかい。


隣接する尚古集成館(明治日本の産業革命遺産)は修復のため閉館中でしたが、仙巌園の広大なお庭とお殿様が暮らしていた屋敷を見学するだけで、もう大満足です。


きれいに再現された屋敷では、大きな「謁見(えっけん)の間」からプライベートな「御寝所」や「御湯殿(浴室)」「御不浄(トイレ)」と、当時の生活の場が細やかに紹介されています。


インテリアに目をやると、建具には美しく装飾が施され、釘を隠すために植物や鳥を模した小さな金具(釘隠し)が使われ、細部にも美へのこだわりが見てとれます。


「こんな建具や屏風(びょうぶ)があったら欲しい!」と、デザインや色合いの斬新さに驚いたりするのです。


仙巌園の入り口から一番遠い箇所には、「曲水の庭」もあります。半世紀前に発掘された円形の池には、穏やかな水が流れ、春になると「曲水の宴(きょくすいのえん)」が開かれます。


曲水の宴とは、上流から流された酒盃が目の前を通りすぎないうちに和歌を詠み、盃をすくって酒をいただくという、風流なお遊び。今年は4月10日に開催され、武家の礼装に身をつつんだ8人の参宴者が優雅に和歌を詠まれたとか。



残念ながら、そんな高貴な行事に縁のないわたし達は、園内の茶房で、地元のとりめし(鶏飯)をいただきました。


とりめしは、薩摩藩のおもてなし料理だったそうで、蒸し鶏や錦糸卵、甘く煮た椎茸などの具材をご飯にのせて、温かい鶏の出汁スープをかけていただきます。あっさりしていて、とてもおいしかったです。


広い木目調のテーブルの向こう側には、ドイツ(もしくは北欧)からいらしたご夫婦が座っていらっしゃいます。どうやら彼らは、日本の茶道を体験したかったようですが、英語メニューにある「茶道体験」をなかなか注文できないご様子。そこで、連れ合いが声をかけて、和菓子のついた抹茶セットを注文してさしあげます。


普段は、店内の茶室でお茶を点(た)てることもできるそうですが、混んでいる土日は、抹茶を入れた茶碗とお湯の器をお盆にのせて運んできます。それでも、竹の茶筅(ちゃせん)を手に取って、シャカシャカと茶碗を混ぜる仕草がお気に召したよう。


せっかく抹茶を堪能されているので、茶道とは奥深く、日本人でも作法や茶室での立ち居振る舞い、花や掛け軸、器といった茶道にまつわる文化を知らない人が多いのよ、と説明してさしあげました。


この穏やかなご夫婦は、お二人とも鮮やかな碧眼(へきがん)で、まるでお人形の目のよう。明治になって初めて青い目の西洋人を見た日本の庶民は、さぞかし驚いたことだろう、と薩摩藩主の庭園で昔へと想いを馳せたのでした。



ここからは、余談となります。


鹿児島県で3泊したあとは、新幹線で熊本市へと向かいました。が、意外にも、ここでも鹿児島を考える材料に出会いました。


熊本といえば、熊本城。7年前の4月14日、大規模な熊本地震が発生し、熊本、大分両県では犠牲者も出ています。熊本城も堅固な石垣が崩れ落ちるなど、甚大な被害を受けました。


ようやく、両県の街々も復興の形を現しつつある今。熊本城では天守閣も立派に再建され、美しい姿が青空に映えます。


天守閣には登れるようになっていて、てっぺんの展望台からは、市街が一望できます。が、ここで目を奪われたのは、熊本城と鹿児島とのつながりを示す展示の数々。


天守閣の各階では、城の成り立ちや歴史が展示され、そこで学んだのは、熊本城が明治初頭の「西南戦争(せいなんせんそう)」と深い関わりがあったこと。


実は、西南戦争とは、熊本城攻撃で始まった戦いである、とのこと。それまで明治政府発足に尽力してきた西郷隆盛(さいごうたかもり)を大将とする薩摩軍が、中央政府の守る熊本城を襲ったことで、戦いの火蓋が切られます。


城の援護に向かった官軍は、迎え撃つ薩軍と田原坂(たばるざか)の切り通しで激戦を繰り広げ、ここで多くの小隊長を失った薩軍は形勢不利となります。


やむなく南へと退去しながら、九州南部の各地で戦いは続くのですが、開戦7ヶ月後の1877年(明治10年)9月、鹿児島市内の城山地区で総大将の西郷隆盛が自決することで、戦いは幕を閉じます(写真は、西郷さんが最期の5日間にこもったと伝えられる、城山の洞窟)。


歴史を詳しく知らないわたしは、勝手な想像をするのです。


幕末から明治の過渡期に強大な勢力を保っていた薩摩には、藩士たちの信望の厚い西郷隆盛がいる。足並みの揃わない中央政府の責任者たちにとって、それは大いなる脅威であり、ゆえに「西郷を討て!」という命が下されたのだろう、と。


幼なじみの大久保利通(おおくぼとしみち)ですら、彼の暗殺を企てたそうですから、人望のある「西郷どん(せごどん)」は、よほど恐るべき存在だったのでしょう。


いえ、どうしてそう感じるのかというと、西郷どんの言葉を書き取ったと伝わる『西郷南洲翁遺訓(さいごうなんしゅうおういくん)』。これを読むと、彼の生涯を通しての根本思想や、難しい海外情勢に置かれた日本の舵取りと、日々深く思慮され、時には中央政府に対して苦言を呈していらっしゃったのがわかるからです。


それが如実にわかるのは、第四条。


万民の上に立つ者は、おのれを慎み、品行を正しくし、贅沢を戒め、節約につとめ、職務に勤労して人の模範となり、人がその勤労を気の毒に思うほどでなければ、政治を行うことは難しい。けれども、新たな時代の草創期にありながら、家を飾り、衣服を着飾り、妾(めかけ)を抱え、財テクを企てるならば、維新の功業など成し遂げられるものではない。今となっては、義戦・戊辰戦争(江戸幕府から明治政府に政権交代した内戦)も、ひとえに私利私欲を優先する姿と成り果て、天下に対して、戦死者に対して面目がないことだ、と、しきりに涙を流される。


『西郷南洲翁遺訓』は、戊辰戦争で幕府側に味方した庄内藩(今の山形県)の方々が薩摩を訪れ、敵方だった西郷どんの温情に感謝の意を伝えた会談にて、ざっくばらんに西郷どんが語った言葉をまとめたもの。西郷どんの話に感銘を受け、彼が新政府に抱く無念さを「しきりに涙を流される」と記録しておきたかったのでしょう。


この第四条に加えて、「ただ外国の猿マネをすれば良いというものではない」と断言する第八条など、現代のわたし達にとっても参考になる言葉が満載です。


明治に入って、わずか数年。その間、莫大な国家予算を浪費する明治政府は堕落し、志の高い西郷どんにとっては、耐えがたい姿になっていたのではないか? そんな想像ができるのです。


鹿児島では、みなさん郷土愛あふれる方々とお見受けします。駅の看板にも西郷どんの登場です。おそらく、今でも西郷どんの遺訓が親しく学ばれ、教育の根幹となされているのでしょう。


美しい自然に美味しい食べ物、そして色鮮やかな歴史。


残念ながら、今回は鹿児島の右半分、大隅半島には足を踏み入れていません。次回は、大隈を中心に、違った表情の鹿児島を楽しませていただこうかと思います。



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