夏の祭り〜煙がいっぱい!
<エッセイ その194>
9月に入り、だいぶ涼しくなりました。
長く続いた夏にも、そろそろ「さよなら」を言うころでしょうか。
夏といえば、アメリカでは、7月4日の独立記念日(Independence Day、The 4th of July)を思い浮かべます。
イギリスに対する独立宣言(Declaration of Independence)が議会で採択されたことをお祝いする日ですので、華々しくパレードや花火大会が開かれます。自国を賛美する誇らしげな音楽を背景に打ち上がる花火は、赤を基調にした鮮明なもの。
どちらかというと芸術性を重んじる日本の花火とは、ひと味もふた味も違った花火大会です。が、大きな花火が上がった時の「あ〜」というため息や「うぉ〜」という歓声は、どこの国に行っても通じ合う共通の言葉でしょうか。
そして、アメリカの夏の風物詩ともいえるイベントに「映画の夜(Movie Night)」があります。
たとえば、市町村や公共団体、学校などが主催して、公園や駐車場といった広い場所で映画を上映するもの。
アメリカにはドライブインシアター(drive-in theater:屋外の映画劇場)というのがあって、車で乗り付けて、巨大スクリーンに投影される映画を車内から観賞できる場所があります。
このようなドライブインシアターが最新の映画を有料で提供しているのに対して、「映画の夜」は、あくまでも市民の娯楽のために開かれるものなので、原則タダ。無料上映なので、ヒット中の映画ではなく、昔懐かしい作品が多いですね。
会場になっている公園や駐車場では、折り畳み椅子や敷物を広げて、まるでピクニックをするみたいに好きな場所で好きな姿勢でゆったりと鑑賞できます。
だいたい家族向けのイベントですので、ひとつは子供向けの映画、ひとつは大人向けの映画と、誰もが楽しめるようなプログラムになっています。
上のポスターは、テクノロジー産業で有名な「シリコンバレー」のサンノゼ市にある、日本街(Japantown)の団体が開いた、映画の夜。暗くならないと始められないので、「だいたい午後9時から上映です」と書いてあります。そう、夏時間(daylight saving time)の間は、夜9時くらいまでは明るいのです。
「毛布と椅子を持って来るようにお勧めします」とありますが、カリフォルニアはとても乾燥しているので、夏でも夜は冷え込みます。ですから、映画の夜や花火大会といった夜のイベントでは、ジャケットや毛布は必需品。
演目は、子供向けの『ニーモの冒険』と、昔懐かしい『グリース』。グリースの主演のおひとりオリヴィア・ニュートン=ジョンさんは、先月、移住先のカリフォルニアで他界されたとのニュースが流れ、歌姫ファンの方々はがっかりされたことでしょう。
イベントはずっと前に企画されたようですが、「Sing-A-Long(一緒に歌いましょう)」とありますので、映画の主題歌をオリヴィアさんと一緒に大声で歌える特典付きです。
と、夏はアメリカのイベントが懐かしくも感じられますが、今日のお題は、前回に引き続き、日本の夏祭り。
前回は、福岡市に受け継がれる歴史的な神事、博多祇園山笠(はかたぎおんやまかさ)をご紹介いたしました。
今回は、長崎市に受け継がれる伝統的な仏事、精霊流し(しょうろうながし)のお話をいたしましょう。
山笠が博多の総鎮守・櫛田神社(くしだじんじゃ)に奉納される神事であるのに対して、精霊流しは、庶民の間で受け継がれるお盆の行事。
長崎の精霊流しと聞くと、まず、シンガーソングライターさだまさしさんの『精霊流し』という歌を思い出す方も多いことでしょう。
とっても物悲しい、マイナー調のメロディーにのって、これまた物悲しい歌詞が流れます。
去年はお揃いの浴衣を着てそばにいた「あなた」が、今はもういない。そんな今年は、仲の良いお友達も集まってくれて、約束どおりにあなたの愛したレコードをのせた舟を流しましょう、そして、わたしはあなたの舟について行くのです。そんな物悲しいストーリー。
この歌を聴くと、とても物静かなお盆の行事を想像するのですが、実際は、まったく逆。どうしてあんなに物悲しい歌になったのか? と疑問に思うほど、賑やかなお盆の行事なのです(いえ、歌詞の中にも「精霊流しが華やかに始まるのです」とありますが、「華やか」という言葉がかき消されるくらいに、物悲しい調べですよね)。
そうなんです、長崎の精霊流しは歌のイメージとは正反対。「華やか」というよりも、騒々しい、勢いのあるお祭りです。
お盆(8月の月遅れ盆)の行事ですから、一年の間に亡くなった身内の魂を弔(とむら)い、精霊船に乗っていただいて西方浄土へお送りする、という仏教行事ではあります。西方に向かうのですから、「西方丸」という名の船が多いです。
それなのに、まあ、精霊船が大きく、派手なこと。
いえ、中には両手で持てるような小さな舟や、シンプルな小型船もあって、しめやかに身内をお送りしたいという方もいらっしゃいます。
もともとの意味を考えると、これが精霊船の原形であり、運ぶメンバーも、家族や親戚といった、ごく近しい人に限られていたのでしょう。
けれども、中には町内会や葬儀社といった団体が船をつくることもあって、こういったグループ船は華やかで、大きいです。
たとえば町内会だと、会員でお金を出し合って船をつくり、一年に亡くなった町内の方々の遺影や家名・家紋などを掲げます。こちらは、秋祭り「長崎くんち」で諏訪神社に奉納される「コッコデショ」という神輿(みこし)で知られる、樺島町(かばしままち)の精霊船。
まったく新しいタイプのお神輿型の精霊船で、通常は参加者が船を曳く(ひく)ところを、こちらは祭り装束の若い衆が神輿のように担いでいます。
そして、葬儀社の船では、お葬式をあげた遺族の希望を募って、亡くなった方の遺影や戒名、遺品などを載せるようになっているのでしょう。お花やお供え物、故人の好きだった物と、大きな船にはたくさん載せられそうではあります。
わたし自身は、子供のころに何度か精霊流しを見ていますが、こんなに大きな、5連もある船を見たのは初めて。きっとコロナ禍で自粛ムードにあったものが、一気に緩んだのかもしれませんね。
大きくても、小さくても、沿道で精霊船が過ぎて行くのを見ていると、あの方は大往生だったのだろうかとか、あの方は若くして亡くなったようだけれど、ご病気だったのだろうかと、こちらも故人のことをあれこれと考えます。
船体の図柄がアニメ風で、いったいどんな方だったのだろうと興味を抱いた船がありました。船体後部には友人たちの寄せ書きがあって、「忘れないよ」という大きな文字が痛々しくも感じました。
このコロナ禍で、お葬式も身内だけで済ませた方も多かったことでしょうから、精霊流しは、お友達も参加して、お別れを告げる良い機会となったのでしょう。
そんな故人をお送りする、しめやかな仏教行事のはずですが、長崎の精霊流しは、驚くほど賑やか。何が騒々しいかって、精霊船を曳く道中、まわりで間断なく鳴り響く、爆竹(ばくちく)の音! そして、もうもうと立ち込める煙!
もともと精霊船のまわりでは、参加者がチンチンチンと鉦(かね)を静かに鳴らしながら進みます。この鉦の音が聞こえてくると、「あ〜精霊流しが始まったのね」と送り盆の夕刻を知るのです。
けれども、それだけでは物足りないのか、景気づけ(?)が必要なのか、中国でも使われる赤い爆竹の連に、立て続けに火をつける。バババババッと、けたたましい音が耳をつんざくよう。そして、立ち込める煙と火薬の匂いは、むせ返るほど濃い。
なんでも、爆竹は魔除けの意味があるそうですが、それにしても、騒々しい仏事だこと!
そして、お盆に入る8月13日から、連日先祖のお墓参りに向かう方もいらっしゃいますが、高台に広がる墓地にも、バババババッという爆竹やヒューッ、ヒューッという打ち上げ花火の音が鳴り響きます。
お盆の中日、夕食をいただこうと寺町通りにある料亭に向かっていると、近くから爆竹と打ち上げ花火が聞こえてきます。
「いったい何のお祭りだろう?」と、寺町地区に広がるお寺の墓地の階段を登ってみましたが、辺りには、墓参りの家族が花火を楽しむ姿があります。なるほど「そうだった、この街では、お盆の先祖参りには爆竹や花火が欠かせないのだ」と納得。
子供のころ、山の中腹にある墓地に登って行って、たくさんの提灯が飾られる親戚のお墓に神妙に手を合わせるのですが、まわりで爆竹を鳴らしたり、大きな花火を打ち上げたりするのが怖くて、理解できなかったのを思い出します。
こんなに賑やかだと、先祖の墓参りというよりも、祖先の前で派手にお祝いをしているような印象さえあります。
先祖代々の墓の前でご馳走を広げる、沖縄の「清明祭(シーミー)」をはじめとして、日本の津々浦々にはいろんな墓参りの形があるのでしょう。が、長崎の墓参りは、かなり風変わりなものと言えるかもしれません。
だいたい、墓石に彫られた家名が、ピッカピカの金色なのも珍しいですし、ほかの地域に比べて、お墓に納める骨壺が大きいのも珍しいでしょうか。
そして、なんと言っても、カトリック教徒の方のお墓が多いのも、長崎の特徴でしょう。
こちらは、眺めの良い丘の上にある、大浦カトリック教会納骨堂。秀吉の時代、二十六聖人が西坂の刑場まで歩かれた浦上街道の脇にあり、まわりにはご遺族ももういらっしゃらないような、月日を経たお墓が並んでいます。
お盆や精霊流しには縁の無いカトリック教徒の方々ですが、教会の墓碑も、やはりピッカピカの金色で彫られているのが興味深いです。
そんなわけで、ざっくりと長崎の精霊流しをご紹介いたしましたが、長崎という街には、どこからやって来たのか、今となってはわからない風習がたくさんあるのでしょう。
なぜなら、連れ合いに言わせると、長崎の精霊流しと酷似したものが、インドにもある! とのこと。
いえ、火を灯した、ごくごく小さな舟を静かにガンジス河に流すというのではなく、ジャンジャン、カンカンと賑やかな鳴り物入りで、大きくて、派手な飾りを川に流す、という行事。
出張先のハイデラバードを車で行っていると、色とりどりの立派な飾りを荷台に積んで、トラックが列をなして進んでいます。これから湖に向かうトラックの行列だったようですが、爆竹や鳴り物の騒音とともに車窓に繰り広げられるカラフルな様子に、ひどく驚いたそう。
どうやらこちらは、「ガネーシャ祭り」と呼ばれるヒンドゥー教のお祭りだったようで、よく見てみると、大きな飾りと見えたのは、ガネーシャの神像を祀った寺院風の飾り。ガネーシャとは象の頭をした神で、シヴァ神の息子(写真では、左端に象の頭のガネーシャ神が祀られます)。
一見、長崎の精霊流しを思い起こす祭りですが、ガネーシャ祭りが精霊流しと違うところは、こちらでは運んだガネーシャ像や飾りを実際に川や湖に流すこと。
そう、長崎では精霊船は海に流さずに、市に雇われたクレーン車が集積場で解体します。昔は、いったん海に流したあと、船でひとつずつ回収していたそうですが、今ではその場で解体。想いも詰まった船なのに、うら寂しくもあります。
一方、インドで見た精霊流しは、文字通り「流す」そう。本来の意味では、流すのが正しいのでしょうが、川や湖、海が汚れそうではあります。
想像するに、長崎の精霊流しは、もとはインドで始まった習慣が、中国を経由して、長崎にやって来たのではないでしょうか。ガネーシャはヒンドゥー教のお祭りではありますが、インドで生まれた仏教も、このルートで日本に広まったわけですから、インドや周辺国と日本の習慣が似ていても不思議ではないはずです。
長崎では、中国から来られた住民を「あちゃさん」と親しみを込めて呼んでいたと聞きます。「あちゃ」は「あっち」のことで、「あちゃさん」とは「あちらからいらした方」という意味。
「あちら」はちょっと遠くというニュアンスなのでしょうが、古くから、外国から移住した方々と肩を並べて生活していた歴史があるからこそ、どこの文化でも良いものは取り入れようよ、という姿勢が貫かれていたのでしょう。
新しもの好きな姿勢が、賑やかな、風変わりな精霊流しを生んだのかもしれませんね。
まだまだ、コロナ禍は収まったわけではありませんので、遠出も難しい状況ではあります。
今月23日には、西九州新幹線が長崎に開通することでもありますし、来年の夏あたりには、福岡の博多祇園山笠や長崎の精霊流しと、日本の祭りを楽しめるようになればいいですね。