夜空に龍が舞う
<エッセイ その217>
ようやく暑さもやわらぎ、秋らしくなった神無月(かんなづき)。
そんな10月の話題は、秋のお祭り「長崎くんち」です。
ちょうど一年前にも『もってこ〜い、長崎くんち!』と題してご紹介しておりました。寛永11年(1634年)から続く、長崎市の諏訪神社(すわじんじゃ)の秋季大祭です。
街の鎮守「お諏訪さん」に祀られる神々に感謝し、おもてなしをするお祭り、それが長崎くんち。市近郊の神社で行われる「くんち」の秋季大祭の中では、代表格となります。
昨年も「くんち見物」をしたのに、どうしてまた今年も? と思われるでしょう。
ひとつに、長崎くんちは7年が一周期となっているので、すべての奉納踊(ほうのうおどり)を楽しもうとすると、7年間通わなければなりません。
そして、お諏訪さんに奉納する大祭なので、現地の諏訪神社で見てみたい、という長年の想いがありました。
今年は、偶然にも諏訪神社の奉納を楽しめる桟敷席チケットが手に入ったので、10月7日の前日(まえび、くんち初日)にお諏訪さんに向かったのでした。
3日間続く長崎くんち。前日には、午前7時から最初の奉納が始まりますが、わたしが見学したのは午後4時半からの二度目の奉納。お諏訪さんに着くと、それまで降っていた雨もぴたりと止み、ずぶ濡れの雨ガッパもすっかり乾きます。
今年参加した踊り町(おどりちょう)は7つ。
日本舞踊を披露する『本踊(ほんおどり)』の2か町、『龍船(じゃぶね)』『川船(かわふね、写真)』『弓矢八幡祝い船(ゆみやはちまん いわいぶね)』の船型の曳き物を披露する3か町。この5か町に『鯱太鼓(しゃちだいこ)』の山飾(だし)と、「長崎くんち」の代名詞ともいえる『龍踊り(じゃおどり)』が加わります。
7年に一度めぐってくる踊り町の誉(ほまれ)ですので、それぞれに前回よりも良いものにしようと、さまざまな進化が見られます。
たとえば、西濱町(にしはままち)の『龍船(じゃぶね)』では、屋形を舞台に転じて中国の楽器・二胡(にこ)の演奏会を開きます。
本場・中国ご出身の演奏家が奏でる艶やかな音色は、伝統的な曲や、誰もが知る日本の童謡やアニメの主題歌と聴く人を楽しませます。
二胡の演奏会は、今年から加えられた新しい演出とのこと。
勇壮な根曳き衆(ねびきしゅう)が船を曳き、幾度となく船回しを披露すると、龍の口からは白い煙が上がり、これも観衆を喜ばせる嬉しい演出です。
長さ11メートル、重さ3.7トンと、船型の曳き物の中でも最も大きな、迫力のある船。造りは現代風かと思いきや、「西濱町の蛇船(じゃぶね)」といえば、江戸時代から奉納される由緒正しい演目なんだそう。
昨年ご紹介した本石灰町(もとしっくいまち)の『御朱印船』のように、ヴェトナムの王家から豪商・荒木宗太郎のもとへ輿入れしたアニオーさんの船を模しているそうで、豪華絢爛の「アニオー行列」は、江戸の頃より長崎の人々の憧れだったのでしょう。
一方、銀屋町(ぎんやまち)の『鯱太鼓(しゃちだいこ)』は、比較的新しい演目です。
1982年7月に起きた長崎大水害のような災害が二度と訪れないように、そして復興に立ち向かう人々に吉祥が訪れるようにと、1985年に初めて奉納されたものだそうです。
戦前は『大名行列』、戦後は『本踊り』を奉納していた銀屋町。1966年に古川町と鍛冶屋町に分かれて以来、くんちには縁遠くなっていました。が、長崎大水害で被害に遭った酒店の蔵からは、町のシンボルだった傘鉾(かさぼこ)を飾る「鯱」が見つかり、新たに『鯱太鼓』の演し物(だしもの)に生まれ変わりました。
46人の統率の取れた担ぎ手が担ぐ太鼓台には、黄金の鯱。これは、「東の大海に棲む鯱が、海原を裂き、蒼天に至って黄金の龍となり、人々に吉祥を与えた」という中国の『蓬莱鯱(ほうらいこ)伝説』がもとになっているそう。
「ホーライコ、ホーライコ!」の掛け声とともに山飾を宙に放り上げ、片手でしっかりと受け止める姿は、見ていて鳥肌のたつ瞬間です。
長崎くんちを幾度か見たことのあるわたしにとっても、西濱町の『龍船』と銀屋町の『鯱太鼓』は、初めて味わわせていただく印象深い演し物となりました。
ところで、普段は手に入りにくい、お諏訪さんの桟敷席。今年は、宿泊先のお宿が手配されたチケットを手に入れたのでした。
こちらは、観光地「新地中華街」の奥にある十人町(じゅうにんまち)にたたずむ、こぢんまりとしたお宿。中華料理の料亭だった建物をオーベルジュに改築して、一年前にオープンしたばかりの宿泊施設です。
築116年の建物は、貿易商の邸宅から中華料亭へと変遷。今はイタリアンレストランと3つの客室に改築されていますが、なにぶん古い建物なので、市内では改築業者さんが見つからず、お隣の諫早市(いさはやし)の業者さんに担当していただいたそう。
わたし達が泊まったお部屋は、二間続きの宴席の間。昔は、お酒とご馳走でいい気分になったお客さんが羽を伸ばした、楽しい空間だったのでしょう。そんな幸せな気分が、そのままお部屋に受け継がれている雰囲気。
このほか、長崎検番の芸妓衆(げいこし)の控えの間だった部屋を吹き抜けのあるメゾネットタイプにしたり、レンガ造りの蔵を隠れ家風に改築したりと、個性ある客室を提供されています。
このお宿は、昔ながらの狭い石畳の坂に面していて、道ゆく人たちの話し声や坂を上る配達バイクのエンジン音と、静けさの中にも暮らしの音が響きます。
きっと昔の長崎の家々は、こんな風に肩を寄せ合って並んでいたのだろうなと、時空を超えた錯覚を抱きます。
もっと昔の江戸時代には、この辺りは、唐人屋敷(とうじんやしき)だったところ。
お宿のある石畳の坂道に並行して、「唐人屋敷通り」という大きな道路があって、入り口には『唐人屋敷跡』の額をいただく門がでんと立っています。
どうやら、ここから先の丘一帯に唐人屋敷が広がっていたようです。
『唐人屋敷』という名は、あまり広くは知られていませんが、江戸時代に鎖国をしていた頃にできあがったシステム。西洋人を閉じ込めていた『出島(でじま)』の中国人バージョンだと考えると、わかりやすいでしょうか。
ちょっと歴史のお話をいたしましょう。
寛永13年(1636年)出島が完成した頃、最初の住人はポルトガル人でした。間もなく、キリスト教の伝播を強く危惧する幕府はポルトガル人を追い出し、キリスト教布教を行わないと申し立てたオランダ人が、次の出島の住人となりました。(写真は、ファン・ストルク地図博物館所蔵の『出島図』。長崎歴史文化博物館ウェブサイトより)
この頃、キリスト教徒ではない中国人は、長崎の街に自由に住んでいました。
が、貞享元年(1684年)清朝(しんちょう)が日本への渡航を許して以来、幕府が目を光らせる密貿易が増加。これによって、中国人もオランダ人同様、隔離してしまおうということになり、唐人屋敷に着工。(そう、中国人を広く「唐人」と呼んでいますが、この頃は明(みん)を滅した清の時代でした)
元禄2年(1689年)天領の長崎に幕府が所有していた御薬園を利用し、およそ9,400坪、2,000人以上を収容できる、広大な唐人屋敷が完成。周りは塀で囲まれ、表の「大門」と番人詰所の奥にある「二の門」の二重の門構えで、出入りは厳しく制限されていました。(写真は、絵師・川原慶賀が描いた『唐館図 唐館表門図』、長崎歴史文化博物館所蔵。右が大門、左が二の門)
お役人や通事でも、よほどの用事がないと入れないので、大門と二の門の間にある広場に地元の商人がやって来ては、野菜や魚、薪などの日用品や、銅器、漆器、絹織物といった商品を売っていました。が、商取引の最中も、乙名(おとな:長崎奉行に属する町役人)が立ち会い、密貿易をやっていないかと厳しく監視していました。
中国人の方々は、20軒ほどの「本部屋」と呼ばれる2階建てに分かれて住み、船主や会計係は立派な2階に、船乗りは1階に雑居と、階級によって生活が異なります。船が重なって来航すると、船乗りは1畳ほどのスペースしかないほどの混みようだったそう。
そのうちに、窮屈な暮らしがイヤになった船主、客商、医者や画家など余裕のある人々は、自費で「棚子」と呼ばれる平屋を建て、そちらに引っ越していったとか。(写真は、唐館・蘭館を描いたもうひとりの絵師、石崎融思の筆による『唐館図蘭館図絵巻 唐館図』、長崎歴史文化博物館所蔵。復刻本より「本部屋」の部分を撮影)
今は、唐人屋敷の一帯は、館内町(かんないまち)と呼ばれます。
「かんない」という響きは、横浜の関内を思い浮かべます。関内は「外国人居留地」を意味するそうですが、長崎の「館内」は、「唐人館の中」という意味なのでしょうね。
鎖国時代が終わり、ごちゃごちゃと建て込んだ唐人屋敷の塀が取り払われても、肩を寄せ合う家々の区画がそのまま引き継がれていったことでしょう。
残念ながら、現在残される建造物は、4か所。
『唐人屋敷跡門』から一番近いのは、ちょっと上った右手にある『土神堂(どじんどう)』と呼ばれるお堂。
元禄4年(1691年)唐人屋敷が完成した2年後、唐船の船主の希望で建てられました。
ひとたび唐人屋敷に足を踏み入れると、住人は自由に街に出ることはできません。が、江戸時代初頭に長崎に創建されていた唐三か寺(とうさんかじ)には、夏のお盆(施餓鬼(せがき)大法会)など、儀式の際にお参りに行くことはできました。(唐三か寺とは、江蘇省・浙江省出身の方々の菩提寺となる興福寺(こうふくじ)、福建省泉州・漳州(しょうしゅう)の方々の福済寺(ふくさいじ)、福建省福州の方々の崇福寺(そうふくじ)。長崎三福寺とも呼ばれ、これに聖福寺を加えて長崎四福寺と呼ぶことも)
けれども、いかに法要のお参りで寺に外出できても、信心深い方々にとっては、日々の祈りの場に欠けていたのでしょう。そこで奉行所に願い出て、館内にお堂を建てることにしたのではないでしょうか。
土神堂は、大火などで何度も修復されたのち、原爆の被害に遭って解体されましたが、1977年に再建され市の史跡に指定されています。
館内町に散在する残り3つの建造物は、『天后堂(てんこうどう)』、『観音堂(写真)』、正門と天后堂が残される『福建会館』です。
「天后堂」という名のお堂が複数あることが興味深いですが、こちらは、航海安全の神・馬祖(ばそ)をお祀りしています。
馬祖さまは天上聖母とも呼ばれ、実在の人物。幼少の頃より特異な能力で数々の奇跡を起こし、のちに神格化され道教の神になったとのこと。
江戸時代、航海安全を祈願して唐船には馬祖像を祀り、無事に長崎に着岸すると、唐人屋敷の天后堂にお移ししました。
この馬祖像を運ぶ行列は、今は『長崎ランタンフェスティバル』の「馬祖行列」として、毎年冬に再現されるようになりました。(写真は、『福建会館・天后堂』の馬祖像。手前の黄色い衣の馬祖像は、ランタンフェスティバルの際、唐船を模した船に乗せられ、馬祖行列で運ばれるそう)
こちらは、江戸時代の馬祖行列。
当時の天后馬祖堂(現・天后堂)に向かって、人々が厳かに進む様子が描かれています。『唐館図絵巻』にも描かれているくらい、唐人屋敷での珍しい風景として絵師の目に留まったことでしょう。(写真は、石崎融思筆『唐館図蘭館図絵巻(復刻本)』より「馬祖行列」の部分を撮影)
唐人屋敷の住人にとっては、不自由な暮らしではありましたが、いかにこれを楽しむかと工夫を凝らしていたようです。
たとえば、何かにつけて開かれた宴会。ご馳走を円卓で囲む形式は、のちに「卓袱(しっぽく)料理」として長崎独特の文化となりました。今は、和・中・洋の伝統が混ざった「和華蘭(わからん)文化」の代表として知られます。(写真は、川原慶賀筆『唐館図 唐人部屋遊女遊興図』)
そして、観劇やお祭り。
実は、長崎くんちで披露される『龍踊り(じゃおどり)』も、唐人屋敷の方々から習ったものだそう。(写真は、川原慶賀筆『唐館図 龍踊図』)
唐人屋敷に隣接する籠町(かごまち)が豪快な龍踊りを習得し、1700年代初頭の享保年間には、諏訪神社に奉納していたそう。
中国では、雨乞いのために行われた蛇(じゃ)踊り。くんちで龍踊りが奉納されると雨が降る、という言い伝えもあるとか。
現在、龍踊りを奉納するのは4か町ありますが、今年は、五嶋町(ごとうまち)が奉納。緑色の青龍(せいじゃ)と白い白龍(はくじゃ)が登場します。
金の宝珠を追いかけ、うねりながら宙を舞い、ときには自分の胴をくぐる「玉追い」の技。とぐろを巻き、じっと目を凝らして玉を探す「ずぐら」の技と、静と動の対比が見せどころです。
今年は、「もってこ〜い」のアンコールとなると、それぞれに玉を追う青龍と白龍がからむ難しいシーンにも挑戦。お諏訪さんの石畳の舞台には、大きな拍手と歓声が響きわたります。
龍の踊りもさることながら、龍の鳴き声を模す「長喇叭(ながらっぱ)」、雨を表す「パラ」、雷や風を表す「大太鼓」や「大銅鑼(おおどら)」と、中国伝来の独特の音色も演出に一役買っています。
曇天の夜空をバックに、境内を自由に舞う二匹の龍は、まさに龍衆(じゃしゅう)に息を吹き込まれた「生きた龍」。
どこか異次元の空間に連れて行ってくれるような、夜に舞う龍なのでした。
<おもな参考資料>
唐人屋敷については、長崎市が発信する文化・歴史・観光情報サイト『ナガジン!』より「唐人屋敷の生活〜唐人屋敷に暮らしてみた!」を参考にいたしました。
この記事では、実際に唐人屋敷に暮らしていた王鵬(おうほう)という文化人の滞在日記を中心に、唐人屋敷の詳細が解説されます。
唐人屋敷の様子を伝える『唐館図』については、『石崎融思筆 唐館図蘭館図絵巻(解説 原田博二氏、長崎文献社、2005年)』を参考にいたしました。
明治期に外国に流出していた『唐館図』と『蘭館図』の二巻を長崎県が購入した際に、絵巻を復刻して刊行したそうですが、そのときの解説書が上記の本。絵巻を復刻印刷したページも興味深いですが、細やかな解説も歴史好きにはありがたい一冊です。
長崎県のふるさと納税の返礼品として頂いていたのですが、まさかエッセイの役に立つとは!