忘れ物
ゴールデンウィークを日本で過ごしている間、ちょいと韓国まで足を伸ばしてみました。
韓国は初めてだったので、どんな国なんだろうと興味ばかりが先走って、結局、どのような国だったのかはわからず仕舞いに終わったような気もいたします。
きっと首都のソウルに3泊したくらいでは、到底理解できない歴史と文化と民族の重みがあるのでしょう。
この国を深く知るためには、現地の方々とも、もっとお話してみないといけませんね。
さて、韓国旅行の印象は置いておいて、わたしは旅をすると、よく忘れ物をするのです。ま、人間ですから、こちらの場所からあちらの場所と毎日のように移動していると、うっかり忘れることもあるのでしょう。とくに、朝バタバタと荷造りをすると、何かしらポカをやらかしてしまうのです。
けれども、物をなくしたことはありません。どうしてって、忘れ物は必ず戻って来るから。
スイスに住む姉夫婦がミラノの空港まで迎えに来てくれたので、そこからすぐに海に向かって南下し、有名なジェノヴァの街はすっ飛ばして、海沿いの道をドライブしました。海のないスイスで育ったダンナさんは、とにかく海が大好き。だから、ドライブも自然と海沿いを選んでしまうのです。
そろそろ夕方になってきたし、どこかに宿を取ろうということになって、ある小さな村に車を止めました。ちょうど近くにレストランを経営する宿屋があって、二部屋空いているというので、ここに泊まることにしました。姉夫婦と旅行するときには、いつもこのような、予約なしの駆け込みスタイルになるのです。
夕食後、わたしは早めにベッドにもぐり込んだのですが、夜中に目を覚ますと、もう眠れません。どうして目を覚ましたかって、姉のダンナさんが、トイレのあと間違ってわたしたちの部屋に侵入して来たのです! 夜中に大きな物音がしたので、最初は泥棒かと思いましたよ。
どうやら暗くて戻る部屋がわからなかったようですが、ドアには鍵なんてなかったのです。なにせ、のんびりとした海沿いの宿屋ですからね。
そんなわけで、明け方にようやく眠りに付いたわたしは、「もう朝よ!」と叩き起こされたときには、意識は朦朧(もうろう)。急いでシャワーを浴びて、荷造りしたときには、クローゼットの中のスラックスのことはすっかり忘れておりました。
翌日、あっと気が付いたときには、もう顔面蒼白。気に入っていたスラックスだったし、忘れ物をするなんてことは、それまでほとんど経験がなかったから。
それでも気を取り直して、ピサの斜塔やトスカーナ地方の中世の街々、アッシジの聖フランチェスコ聖堂と、旅行の日程を着々とこなし、芸術の都フィレンツェまでたどり着きました。
わざわざスイスから来てくれた姉夫婦とは、ここでさよならしたのですが、このイタリア有数の都会で泊まった老舗ホテルでは、さっそく「忘れ物取り返し作戦」に乗り出します。
まず、あの小さな村が Marina di Massa(マリーナ・ディ・マッサ)であったことは、地図とにらめっこしていた姉が覚えていました。
到着した日は、どんよりとした天気でしたが、まだまだ9月初頭の海水浴シーズン。マリーナという名の通り、この辺りには海水浴場がたくさんあって、先に足を止めてみた Marina di Carrara(マリーナ・ディ・カラーラ)では空き部屋がなかったので、次の集落まで運転した記憶があります。
そして、泊まった宿屋の名が Hotel Columbia(ホテル・コロンビア)であったことは、わたしの脳裏にしっかりと焼き付いていました。
そこで、フィレンツェのホテルのコンシェルジュにお願いをしてみました。アメリカに戻る前にミラノのホテルに泊まるから、そこに Hotel Columbia からスラックスを送ってもらってくださいと。
さすがに老舗のホテルは違います。「いやだ」とは絶対に言いません。さっそく分厚い電話帳を広げて受話器を取り、相手に事情を説明してくれました。(イタリア語なのでわたしにはわかりませんが、相手はちゃんと納得してくれたようでした。)
安心したところで、フィレンツェからは恋人たちの街ヴェニスと首都ローマに立ち寄り、いよいよ最終目的地ミラノに列車で到着しました。
まあ、ヴェニスでもポカをやってしまったのですが、そのときは、なんとか事なきを得たのでした。
身分証明のためにフロントに預けたパスポートをそのままにして駅に向かったのですが、ホテルの人がパスポートを携え水上タクシーを飛ばしてくれて、どうにか列車に間に合ったのでした。(イタリアでは、ホテルのフロントにパスポートを提示しなければならないので、預けた場合は要注意なのです。)
そんなわけで、ようやくお約束のミラノにたどり着いたわけですが、ホテルにはスラックスなど届いていません! 忘れ物を送ってもらう手はずだったとコンシェルジュに事情を説明しても、「わたしは知らない、関係ない」の一点張り。
あぁ、困ったなぁと思いながら、「じゃ、Hotel Columbia に電話してみてくれますか」と依頼してみると、あい、わかったよとばかりに、コンシェルジュ氏はその場で電話してくれました。どうやら直接相手に頼み事をすると、自分のミッションとして一生懸命にやってくれるようですね。
そこでコンシェルジュ氏が「発見」したことは、Hotel Columbia の女将(おかみ)が忙しくて郵便局に行く暇がなかったし、あまり若くないので、郵便局に立って待っているだけでも大変なのよということでした。それでも、後でちゃんと送っておくわと約束してくれたそうです。
結局、2泊の日程では間に合わないので、ミラノのホテルに自宅まで送付してもらうように手配して、アメリカに戻りました。ミラノからの空輸代は30ドル(約3千円)ほどかかった記憶はありますが、後日、ちゃんとスラックスは手元に戻って来ました。
そして、こちらからは、英語のわからない女将に宛てて、Grazie(ありがとう)と書いたカードと日本の扇子をお送りしました。少なくとも「ありがとう」だけでもイタリア語で書いたら、何のお礼かわかるんじゃないかと思って。
言葉はほとんど通じませんでしたが、笑顔のステキな優しい方だったのを覚えています。
その後、同じような忘れ物は、2年前に旅したトルコのカッパドキアでもあったのですが、このときは、親しくなったホテルの方に直接アメリカまで送付してもらいました。
カッパドキアの崖にくり抜いた部屋は、昼でも薄暗いので、出がけにすっかり見落としてしまったようです。
このように、外国に旅して忘れ物をしても、しっかりと戻ってくるというのは、とってもありがたいことだなぁと思うのです。
よく「外国は危ない」なんて言いますけれど、こういう好い事があると、「外国」だって、そのほとんどは親切な人たちでできあがっているのだなと思い起こすのです。
こんな不思議なこともありました。中国の上海から東京に戻るときに、飛行機が空港を飛び立つやいなや、何か大事なものを忘れて来た感覚に襲われました。
このときは、何も忘れ物などなかったのですが、きっと置いて来たものは、かの地への愛着だったのかもしれません。
わたし自身は上海の大ファンというわけではありませんが、亡くなった父方の祖母が、若い頃この街で働いていたことがあるのです。祖母が暮らした当時から、活気のある街だったことでしょう。
いったいどこに住んでいたんだろうと、上海の路地を歩き回ってみましたが、きっとそんな人間くさい路地や家の窓々に、遠い記憶が呼び戻されたのかもしれません。
わたし自身の記憶ではないけれど、それは、とても大切な思い出だったのかもしれません。