本
以前、2回ほどご紹介いたしましたが、我が家では、オフィスとする部屋に棚を作ろうと、プロのキャビネット屋さんに製作を依頼していました。
本棚に机にプリンター台といったオフィス機能と、テレビ・オーディオ機器を収納するエンターテイメント機能を備えています。完成したら、さぞかし便利だろうなと、待ち遠しいプロジェクトなのでした。
でも、その道は、多難のひとこと。
参考までに、その災難の連続を描いたお話「とかくアメリカは住みにくい」は、こちらに掲載されています。
二番目のお話「オフィス棚の続報」は、こちらです。
もともとの契約から、実に10ヶ月近く。途中交代した業者との契約から、4ヶ月近く。
でも、できたものは、それで良しといたしましょう。嫌な事はさっさと忘れて、さあ、お片付け、お片付け。
さっそく気の早い連れ合いは、古い本棚に詰め込んであった書籍を、真新しい棚に移すべく、2階と1階を足繁く往復しています。ご苦労さま!
で、わたしは、本を棚に入れる係。本は宝のようなものなので、自分で好きなように並べなきゃ。そういうわたしの性格を、連れ合いはちゃんと知り尽くしています。
まず、昔愛読していた小説がざっくり。なんとなく、推理小説と歴史小説ばかりだな。
それから、多感な時期に大事にしていた文庫本。今でも、とっても大事に思っています。捨てることなど、到底できないのです。
どうやら、あの頃は、梶井基次郎やトーマス・マンが好きだったようですね。
わたしは物を書くなどと豪語しているわりに、多読ではありません。その代わり、一度読んで感動した本は、とっても大切に保存しています。だって、歳を重ねるごとに、同じ本も違って感じるから。いい本は、何度でも読みたい。
そういう本を称して、「バイブル(聖書)」と言っています。そんなバイブルは、もう何冊もありますね。人が知ると、「なんで?」という本でも、わたしにとってはバイブルなんですね。
専門書なんかは、あとで片付けるとして、日本の名著の復刻全集が出てきました。連れ合いのお父さんが購入したもので、何年も前にいただいていたのです。
近代文学館発行の復刻全集で、初版本を忠実に再現しています。漱石に鴎外、藤村に啄木、それに、志賀直哉、川端康成、谷崎潤一郎といった近代文学の要が名を連ねています。
これまで、森鴎外の歌集を開いて読んだりしていました。彼は歌人でもあり、従軍医として経験した戦争の歌は、心を打つものが多いのです。
けれども、あとは開いたこともない。名著ばかりなはずなのに。
おまけに、背表紙のタイトルすら読めないものがある。全集を順番通りに並べようとするけれど、漢字がわからないと、背表紙とリストをパターン・マッチング。まるでアメリカ人並みだなと情けなくなってしまいます。
そういう読めない背表紙の中に、芥川龍之介の『傀儡師』がありました。どうやら、「くぐつし」とか「かいらいし」と読むようですが、江戸時代、胸にかけた箱の中から木偶人形(でくにんぎょう)を取り出し、それを舞わせた大道芸人のことだそうです。
いやあ、読めないので、親に電話しましたよ。
今まで、あんまりいい文学青年ではなかったので、芥川龍之介は、子供用に書き直された「くもの糸」なんかを読んだっきりです。
だから、ついつい中を開けたくなってくるのです。中身は、どんなものだろう?
「だめだめ、お片付け、お片付け!」と、ずっと心を鬼にしていたのに、ついに、ひっかかってしまいました。連れ合いもミーティングに出かけてしまったし、鬼(?)のいぬ間に、つかの間の読書。
この『傀儡師』、「蜘蛛の糸」とか「地獄変」などの11篇を収めた短編集で、装丁は龍之介自身が担当しています。初版本は、「皇都・新潮社」から出されたらしく、開くといきなり、「伯母上に献ず」なる文字が目に飛び込んできます。
第一作目は、大正7年に書かれた「奉教人の死」という作品です。名前からして、江戸時代のキリスト教徒の殉教のお話でしょうか?
実は、ちょっと違っていて、こういうお話なんですね。興味のある方は、こちらをどうぞ(現代語に訳して要約いたしますね)。
昔、長崎の「さんた・るちや」というカトリック寺院に、「ろおれんぞ」という名の日本人の少年がおりました。寺院の戸口に飢え疲れて倒れていたのを、信徒に助けられ、伴天連(ばてれん)さんにお世話になっていたものです。
顔は玉のように清らかで、声も女性のように優しい少年でした。
3年ほど経ったころ、少年も元服を迎える時期となり、こんな噂が立つようになりました。少年は、傘張の娘とねんごろになっていると。
伴天連さんは、きつく少年を問いただしますが、「娘は私に心を寄せ、文をもらったことはありますが、口を利いたこともありません」と、きっぱり否定します。親友が真偽を問いただしても、「僕は、君にさえ嘘をつきそうな人間に見えるんだな」と、悔し涙を流します。
ところが、しばらくして、傘張の娘が身ごもったというのです。そして、娘は父親に、「ろおれんぞの子です」と、打ち明けたのです。
烈火のように怒った傘張の翁、伴天連さんに直談判に向かい、困った伴天連さんは、信徒と協議の末、ろおれんぞを破門、追放とすることにしました。
それから、ろおれんぞは、誰からも相手にされることもなく、町外れの小屋に寝起きし、世にも哀れな乞食姿となってしまいました。
間もなく、傘張の娘は、女の子を産みます。さすがに、傘張のかたくなな心もとけ、初孫をたいそうかわいがるようになるのです。
ところが、一年ほどして、街に大火が起こりました。翁も娘も、引火した家から命からがら逃げ出してみると、赤ん坊を家の中に置いて来たことに気付きます。半狂乱になった娘は、あたふたと大騒ぎしています。
そこへ、どこからともなく、ろおれんぞが現れ、まっしぐらに火の海に飛び込んでいくのです。そのとき、親友の目には、日輪の光を浴び寺院の前に立つ、美しく悲しげなろおれんぞの姿が見えたといいます。そして、まわりの人はこう言うのです。「やっぱり、親子の情は争えないものだなあ」と。
火の中では、ろおれんぞが赤ん坊を抱えるやいなや、焼けた梁が容赦なく崩れ落ちてきます。けれども、彼は力をふりしぼって赤ん坊を投げ出し、いつの間にか、絶望に打ちひしがれる娘の腕の中には、赤ん坊が戻っているではありませんか。
ろおれんぞはといえば、息も絶え絶えのところを、親友に助け出されます。群がる信徒の間からは、「殉教じゃ、殉教じゃ」という声が沸き起こります。
それを見て、娘は、伴天連の前にひれ伏すのです。そして、こう懺悔(ざんげ)するのです。「赤ん坊は、ろおれんぞ様の子ではありません。私は日頃、ろおれんぞ様を恋慕っておりましたが、相手にされないので、腹いせに彼の子だと偽ったのです」と。
当のろおれんぞは、それを聞いても、二度三度と頷くだけです。髪も肌も焼け焦げ、手足も動かず、声も出ない様子。
そんな彼の焼け爛れた衣の間からは、清らかな乳房が、玉のように露(あらわ)れているではありませんか。なんと、ろおれんぞは、娘と同じ、女じゃ。
やがて、ろおれんぞは、伴天連の祈りを聞きながら、静かに息を引き取るのです。
追記:龍之介自身の追記として、このお話は、自分が所蔵している『れげんだ・おうれあ(LEGENDA AUREA)』(長崎耶蘇会出版)という本の下巻二章に依るもの、とあります。
大火の話は、史実かどうかは確認できないが、この物語自体は、その昔、長崎のどこかのカトリック寺院で実際に起こったことでしょう、と付記してあります。