Essay エッセイ
2016年02月08日

桟橋の向こう

 桟橋(さんばし)は、船に乗ったり、上陸したりするときに使う、海に突き出た橋のこと。

 

 海沿いの街や集落には、なくてはならないものですね。

 

 いろんな場所に、いろんな桟橋があって、形も大きさも十人十色。

 

こちらは、竹富島(たけとみじま)の西桟橋です。

 

(Photo of “Taketomi island – West jetty" by maru0522 – originally posted to Flickr as 20071002_06. Licensed under Fair use via Wikimedia Commons)

 

 竹富島は、沖縄から南西にある八重山(やえやま)列島のひとつで、一番近いのが石垣島。

 

 赤瓦の平屋建てと、家をぐるりと取り囲む真っ黒な(珊瑚石灰岩の)石垣で有名な、静かな観光の島です。

 

そんなに大きくはないので、島を散策するには、もっぱら水牛車か自転車を使います。

 

 あせらず、急(せ)かず、水牛の歩みでのんびり行くのも楽しいものです。

 わたしがお世話になった水牛は、頭に赤いハイビスカスをさした女のコ(「花子ちゃん」だったかなぁ、「さくらちゃん」だったかなぁ)。

 

それで、島に出入りするには船を使いますが、現在の高速船は、西桟橋ではなく、島の北東にある竹富東港に発着します。

 

 近くの石垣島からは、高速船で約10分。あっと言う間に到着です。

 

 そんなわけで、船の発着には使われなくなった西桟橋。が、ここからの夕陽はバツグンなので、今となっては観光名所となっています。

 

けれども、西桟橋から舟が出入りしていた時期があったそうで、その頃は、「イタフニ」と呼ばれる松の木をくり抜いた舟や帆船が使われていたとか。

 

 西桟橋の先端は海に沈んでいて、そのまます~っと船出できそうな感じですが、「イタフニ」の行き先は、竹富の西にある西表島(いりおもてじま)。

 

 なんでも、沖縄がアメリカから日本に返還される(1972年5月)までは、竹富島で稲作が困難だったので、わざわざ「イタフニ」で西表島に渡って、田を耕していたそうです。

 

 けれども、西表島には、第二次世界大戦の頃までマラリアの風土病があったので、田を耕す間は、対岸の小さな由布島(ゆぶじま)に田小屋をつくり、そこに寝泊りしながら、稲作に従事されていたとか。(環境省『西表石垣国立公園:西桟橋』の看板より)

 

由布島には、マラリアを媒介する蚊がいなかったし、地下から真水が湧き出て生活用水を確保できたので、田小屋をつくって寝泊りするようになったようです。
(『村影 弥太郎の集落紀行』より「由布(ゆぶ)」の項を参照)

 

 由布島は、潮が引くと遠浅になるので、西表からは水牛車や徒歩でも渡れます。

 

今では、西表から水牛車で行く「植物園見学ツアー」が大人気。

 わたしの乗った水牛車では、「おばあ」が水牛をあやつりながら、三線(さんしん)を奏でて美声を聞かせてくれました。

 歌うは、竹富に伝わる『安里屋(あさとや)ユンタ』。

 

 時代は流れ、観光が資源の八重山列島ですが、その昔、由布島の田小屋で寝起きしたということは、竹富島からは何ヶ月も離れて暮らしていた、ということでしょうか。

 

 「竹富は5寸掘れば珊瑚礁、米はできん。だから西表や由布島にいって田んぼを作った。田小屋をつくっていったら泊まりきりで田植えをしたり、田草をとったり。食べ物は粟(あわ)を炊いたり、サツマイモの団子くらいだった。大変だったさ

 

 と、編集者の森まゆみ氏が、現地の長老の語りをつづっていらっしゃいます。

 

(『森まゆみのブログ くまのかたこと』2011年8月13日掲載「震災日録 8月12日 昔は茅葺きだった。」より引用)

 

 農作業にも、当時の茅葺(かやぶき)屋根の修理にも、助け合いが必要だったはずですから、きっと近所の方たちと一斉に「イタフニ」で海を渡っていらっしゃったことでしょう。

 


竹富の西桟橋に立つと、桟橋の南側には、コンドイビーチの真っ白な砂浜が広がっているのが見えます。

 

 ここは、砂つぶが細やかでやわらかいし、沖のほうまで遠浅なので、子供たちも安心して海水浴できるビーチです。

 

 大人たちにとっても、透けるような水と白く輝く砂は、うれしい遊び場。

 

遠浅の先端まで散策するカップルもいて、まるで海の中に人が浮かんでいるような、不思議な光景でもあります。

 

 ここからくるっと岬を回ると、「星砂」で知られる皆治(カイジ)浜も広がります。

 

 そして、西桟橋からまっすぐ先を眺めると、

 

 海原の向こうに見えるのが、小浜島

 

 その先が、大きな西表島。

 

 竹富は、土地の言葉で「テードゥン」と呼ぶそうですが、「イタフニ」で西表に渡ったことや、石垣島から海底送水の水道が引かれるまでは島内の井戸が枯れて大変だったこと、そして「ゆいまーる」で密に助け合っていたことなど、昔を知る人は少なくなっているのかもしれません。

 

竹富を訪れたのは、6年も前のこと。

 

 ふと見返した写真で「西桟橋」の歴史を再認識したときから、

 

 桟橋の向こうに乗り出す舟が、気になっているのでした。

 

 

追記:

 本文でも書いていますが、こぢんまりとした竹富島は、水牛車と自転車で散策するのが一番です。

けれども、わたしは何年も自転車に乗っていなかったで、舗装されていない小道を行くのが、かなり怖かったです(でこぼこの自然の氷でアイススケートをする感じでしょうか)。

 

「きっと、竹富島の有史以来、一番ヘタクソな自転車乗りだろうなぁ」と思いながら、おっかなびっくりで島を散策しましたが、それも今となっては、いい思い出ですね!

 

この石垣竹富西表の旅で買った三線(さんしん)には、近ごろすっかりご無沙汰しているので、また弾いてみようかなと思っています。

 

 愛嬌のあるシーサーたちを思い出しながら。

 


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