Essay エッセイ
2023年08月18日

福岡と天満宮

<エッセイ その202>

今日の話題は、天満宮です。


前々回前回と、長崎市網場町(あばまち)にある天満神社のお話をしたので、天満宮について考えてみようと思ったのでした。


天満宮といえば、ご祭神は菅原道真(すがわら みちざね)公。天満宮や天満神社と名のつく神社は、日本全土に一万二千社ほどあるそうです。


どの街角にも、必ず見かける「天満宮」の文字と梅の御紋、そして撫牛(なでうし)の像。今でも、人々の生活に深くかかわる、心のよりどころと見受けます。


道真公は、平安時代、京の都で宇多天皇に重用された学者であり、右大臣までのぼりつめた政治家。左大臣・藤原時平や貴族層の陰謀で福岡・太宰府(だざいふ)に左遷され、わずか二年で亡くなったという悲劇の人物です。



そんな背景があって、福岡は、道真公とは縁の深い場所。


左遷先となった太宰府も有名ですが、福岡市内には、水鏡神社(すいきょうじんじゃ)という神社があります。


延喜元年(901年)、左遷された道真公がはるばる福岡に達したとき、四十川(しじゅうがわ)に我が身を映し、水鏡(みずかがみ)としたことから、のちに四十川近くに水鏡天神(別名:容見(すがたみ)天神)として創建された社だそうです。


福岡藩 初代藩主・黒田長政(くろだ ながまさ)が現在の位置に移し、二代藩主・忠之(ただゆき)が社殿を再建したと伝わります。なんでも、この場所に移したのは、福岡城の鬼門の方角に当たり、水鏡神社のパワーで守って欲しかったから、という説もあるとか。


福岡市の繁華街「天神(てんじん)」という地名は、この水鏡神社にちなんだもの。道真公は、「天神さま」とか「天神さん」という愛称で親しまれていますからね。(水鏡神社の脇は、とんかつやインド料理と、生活感のある小料理屋の小道になっています)


ちなみに、四十川とは、現在の薬院新川(やくいんしんかわ)のことだそうです。山から流れる若久川(わかひさがわ)が閑静な住宅街・高宮の辺りで薬院新川となり、薬院・天神付近を北上、最終的には繁華街・中洲(なかす)の脇を流れる那珂川(なかがわ)と合流する川筋です。


薬院1丁目にかかる姿見橋の近くに「容見天神故地」という碑があり、この辺りが、道真公が川面を鏡とした場所と伝わるそう(天神跡の碑は、民家の敷地内にあるそうです)。


都から瀬戸内海を経て袖の湊(博多港)に達し、舟を乗り換えて四十川を上り、今泉の村の近くで川面に映る自身の姿を目の当たりにする。


長旅でやつれた我が身に、おもわず「ここは死時有(しじゅう)の地である」とつぶやく。ここが死地であることを覚悟されたことから、死時有川(四十川)と呼ばれるようになったとか。


都からはるか彼方、これからどんな生活が待ち受けているのかもわからず、自身のやつれ果てた姿が水面に揺れる。寂しさ、不安、悔しさ、絶望、そんな感情がないまぜになって、声もなく嘆き悲しまれたことでしょう。



いよいよ福岡から太宰府に達した道真公は、都府楼(とふろう、太宰府政庁)のすぐ近くに謫居(たっきょ)します。(写真は、今に遺される太宰府政庁跡)


役所の近くにあっても、登庁も許されず、俸給も従者も与えられず、ただただ虚しく、貧しい暮らしの日々。


そんな道真公は、山に登り、天を仰ぎ、自らの無実を訴えられたと伝わります。


これが、太宰府の南西に位置する、天拝山(てんぱいざん、筑紫野市)。万葉の頃より湯治場と名高い二日市温泉(ふつかいちおんせん)の正面にある、300メートル弱の山。天に拝することから、「天拝山」と名づけられたそう。


登山口近くの武蔵寺(ぶぞうじ)の境内には、道真公が山に登る前に身を清めたとされる「紫藤(しとう)の滝」があります。


紫藤(紫色の藤の花)とは、武蔵寺に咲く「長者の藤」のこと。


この長者の藤は、奈良時代の公卿、藤原虎麻呂(ふじわら とらまろ)が自らの死期を悟って植えられたと伝わっており、1300年も前からこの地で花を咲かせていました。


太宰府に流されて初めて迎える春、天拝山の麓を彩る藤の花に心を奪われた道真公は、きっとここが心の鎮まる、お気に入りの地となったのではないでしょうか。


紫藤の滝の脇には、身を清める際、衣を掛けたとされる「衣掛け石」もあります。


いかにも、衣を掛けるに適した石で、天女の羽衣にも似つかわしい、神々しさを感じます。


滝で身を清めた道真公は、天拝山に登られ、たくさんの歌を詠まれます。その中に、こんな歌もあります。


憂きことの 夢になり行く 世なりせば

           いかで心の 嬉しからまし


「辛いことが夢になってしまうような世の中だったら、どんなに嬉しいことであろうか」と、飾らぬ、真っすぐな想いを詠まれた歌です。


千年以上たった今でも、誰もが共感できる作でしょうか。



紫藤の滝の脇には、御自作天満宮(ごじさくてんまんぐう)があります。


こちらは、道真公が自身の等身大の木造坐像を刻まれたことに由来するそう。ご自身で彫られたから、御自作天神。


天正14年(1586年)島津軍によって火をつけられた際、頭部だけは運び出され、その後、江戸時代に修復されたと伝わります。


毎年、1月25日、4月25日、10月25日には御開扉が行われ、ご神体を拝むことができるとか。


ちょうど、わたしが訪れたのは、御開扉の翌日の4月26日。武蔵寺の「長者の藤」を見に行ったのですが、御開扉のことを事前に知っていたら・・・と、口惜しい思いをしたのでした。



そして、太宰府といえば、太宰府天満宮ですね。


受験生なら誰もが知っている「学問の神様」がいらっしゃるところ。


梅の咲くころ、世間は受験シーズンとなりますが、この時期に天満宮を訪れると、本殿は合格祈願の受験生でいっぱい。


境内には絵馬もたくさん奉納されていますし、どんなに実力や自信があっても、「神頼み」は大事な儀式なのでしょう。


本殿の右手にあるのは、有名な梅の古木『飛梅(とびうめ)』。


道真公が都を出立される前、庭の梅に別れを惜しんで、こう詠まれました。


東風(こち)吹かば にほひおこせよ 梅の花

           あるじなしとて 春な忘れそ


すると、道真公を慕って、一夜のうちに都から飛んできた、と伝わる梅の木です。


太宰府天満宮は、道真公が亡くなったとき、ご遺体をのせた牛車が留まったところ。どうしても牛が動こうとしなかったので、ここ天原山 安楽寺に埋葬して、菩提寺としました。「遺骸は牛車にのせ、牛の赴くところにとどめよ」との遺言に従ったとか。


道真公の名誉回復がなされ、「天満大自在天神」として祀られるようになったころ、天満宮は安楽寺の境内にあり、安楽寺天満宮と呼ばれていたそうです。明治維新の神仏分離で、安楽寺は廃寺となり、それ以降、太宰府天満宮となったそう。


このように、道真公は天神様として祀られるようになりましたが、年に一度、太宰府天満宮から外出されるんです!


それは、ある方にお礼をなさるため。


こちらは、9月22日に始まる『神幸式大祭(しんこうしきたいさい)』という儀式。


辺りが暗くなるころ、本殿の灯が消され、道真公がお神輿に乗られます。お神輿は平安装束の人々を従え、境内の太鼓橋を渡り、商店が並ぶ参道を通り、近くの榎社(えのきしゃ)に向かわれます(「お下りの儀」)。


お旅所で一夜を過ごされたあと、翌23日には、またお神輿に乗って天満宮に戻られます(「お上りの儀」)。この儀式は、榎社に祀られる浄妙尼(じょうみょうに)にお礼をおっしゃるため。(写真は、太宰府天満宮ウェブサイトより)


浄妙尼は、貧しいながらも、親身になって道真公のお世話をされたと伝わる老女。榎社は、左遷された道真公が、ご逝去まで謫居された地です。


あるとき浄妙尼は、左大臣・藤原時平が放った刺客からお守りしようと、とっさに道真公に木臼の中に入っていただき、その上から腰巻き(下着)をかけて隠し通した、とも伝わります。神幸式大祭では、この腰巻きを表す白い四角い布が、ありがたく参道に掲げられるそう。


浄妙尼の末裔のお宅には、このときの木臼のかけらが家宝として伝わっているそうで、伝承の信憑性が一気に高まります。


お世話をしてもらって、命まで助けてもらった、大事な恩人。その恩人にお礼を述べ、五穀豊穣と世の安寧を祈る神幸式大祭は、太宰府天満宮で最も大切な行事となっています。


が、それにしても、神様が一年に一度外出されるとは!


たとえば、世界遺産に登録される福岡県宗像(むなかた)市の宗像大社(むなかたたいしゃ)でも、沖ノ島と大島にいらっしゃる三女神のお姉さまお二人が、舟に乗り、漁船団に守られ、本土の妹を訪れる『みあれ祭』というお祭りがあります。


けれども、こういう風に神様が社を「抜け出す」のは、全国的にも珍しいのではないでしょうか?


早春は梅の花、初夏は紫陽花と、花々が美しく咲き乱れる太宰府天満宮。


どんなに居ごこちの良いお宮でも、律儀な天神さまは、お礼のごあいさつは欠かすことはありません。



というわけで、福岡市の水鏡神社、天拝山と麓の御自作天満宮、そして太宰府天満宮と、駆け足でご紹介いたしました。


全国には、天満宮や天神さまのお祭りがたくさんあります。京都の北野天満宮や大阪天満宮の天神祭は、最も有名なものでしょう。


けれども、福岡各地に残る史跡や伝承を知るにあたり、改めて道真公と福岡の縁の深さを実感したのでした。



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