Essay エッセイ
2024年12月29日

福岡城を散策する

<エッセイ その219>

前回のエッセイでは、福岡城址に再建された歴史建造物、潮見櫓(しおみやぐら)のお話をいたしました。


復元工事が完了した11月末、少しずつ足場が取り払われ、このような立派な姿を現しました。


移築復元されたのは、もともと潮見櫓があった福岡城址・北西のお堀端。


ちょうど夕日が西に沈むころ、はるか向こうのビルの窓が金色に輝いています。


さて、今日は続編といたしまして、福岡城内のそのほかの建物などをご紹介することにいたしましょう。


前回も触れましたが、福岡城とは、関ヶ原の戦いで東軍一番の功労者とも認められ、徳川家康から筑前国(今の福岡市を中心とした海沿いの地域)の大藩を与えられた黒田長政(くろだながまさ)が7年ほどかけて築城したもの。


こちらの航空写真でもおわかりになるように、福岡城は大きな城。現在も城址は国の史跡として守られます(ひときわ高いのが、天守台)。


豊前国(今の大分県北西部)中津藩主だった長政は、入府当初は名島城(なじまじょう)を居城としていました。筑前名島城(現・福岡市東区)は、九州平定を成した豊臣秀吉の命で小早川隆景(こばやかわたかかげ)が筑前主城として整備した城。


小早川氏は、隆景の養子・秀秋(ひであき)の代で関ヶ原の功を認められ、備前国岡山藩へと加増・転封(かぞうてんぽう)。ここ筑前名島には黒田長政が移ります。


名島城に入った長政は、平野部が狭く城下町には手狭であり、立地も不便であるとして、名島城を廃城。商人の街・博多(はかた)の川向こう、福崎(ふくざき)を築城の地に選びます。


この福崎が、のちに福岡と名づけられ、長政は初代・福岡藩主として知られるようになります。


名島城を廃城した長政は、新たな築城のため名島城を解体し、その建材や石材を運び出します。名島城は姿を消しましたが、現在も名島城で使われていた瓦が福岡城で見つかったりするそうです。


たとえば、こちらの瓦。一番左の瓦には、小早川隆景の「左三つ巴(ひだりみつともえ)」の家紋が施されています。こちらは黒田家の「藤巴(ふじどもえ)」とは明らかに違っていて、名島城から運ばれたものとのこと。


そして、名島城の大手門(写真)は、福岡市内の邸宅などに使用されたあと、現在は福岡城内に移築され、日々国内外からの訪問者を静かに見下ろしています。


黒ずんだ門は風格を感じますし、嵐をも耐え忍ぶ堅固なつくりには、先人の建築技術の高さを感じます。



と、いきなり名島城のお話になってしまいました。


それは、名島門はわたし自身の好みという理由のほかに、残念ながら、福岡城には現存する建物が少ないことがあるでしょうか。


福岡城は、天守台、本丸、二の丸、三の丸と、高低差のある広大な四層構造になっています。


南の赤坂山の丘陵を切り崩し、博多湾から水を引き込み、幅広い濠に囲まれます。表側の上之橋(かみのはし)と下之橋(しものはし)、裏側の追廻橋(おいまわしばし)のいずれからしか城内へ入れない、という堅固な構えでした(裏手の追廻橋は、今の護国神社の向かい側。上の図は、福岡市博物館所蔵『正保福博惣図』より城郭の部分を抜粋、NetIB NEWS 2024年3月8日付記事より引用)。


今は濠がかなり埋め立てられ、幅は狭くなっていますが、昔の濠は幅広く、現在大濠公園となっている池(博多湾の入江、草ケ江)ともつながっていました。


さらに、濠は東の博多方面へと那珂川まで伸びていて、今のアクロス福岡ビル周辺まで「中堀(紺屋町堀)」「肥前堀」を連結してつながっていたそう。この辺りは、今は暗渠(あんきょ)になっている模様。



と、まずは城構えをご紹介いたしましたが、現在、正面の明治通りから城内へ入る場合、こちらの下之橋御門(しものはしごもん)から入る人が多いでしょう。それは、「城らしい」御門があるからかもしれません。


その昔、お殿様は、より大きな上之橋御門から出入りしたそうですが、今はこちらには門扉がありません。


家来が使っていた下之橋の門は、桜や紫陽花と、季節の花々も美しいですし、こぢんまりとしていて自然と足が向くのかもしれません。


こちらの下之橋御門には、監視のためでしょうか、門扉の上にはこのような建物があり、普段は見学者が入れないようになっています。


前回ご紹介した潮見櫓(しおみやぐら)復元工事の見学会の際には、こちらの建物の中も2時間だけ公開されていました。


実は、この門は2000年に半焼したそう。8年後には復元工事も完了し、本来の二層の姿(二階下屋付属の切妻造櫓門)に戻されました。


中はこのようになっています。


なんだか新築のようですが、当時の梁(はり)が一本だけ再利用されていました。それも新しい部材を継ぎ足さないと使えないようでしたので、火災はかなり激しかったのでしょう。


復元後は、福岡県文化財に指定されています。



福岡城内では、復元された建物の多くの位置が江戸初期の築城当時とは変わっています。が、唯一もとの位置に建っているのが、こちらの多聞櫓(たもんやぐら)です。


城の南西部の「二の丸(南丸)」に建ち、今は国の重要文化財に指定されています。


両端に建つ二層の隅櫓(すみやぐら)と、これらをつなぐ平櫓(ひらやぐら)から成ります。平櫓は、54メートル(30間)の長さがあり、内部は、いくつもの小部屋が長い廊下でつながった構造になっています。


潮見櫓・復元工事見学会の際、こちらも2時間だけ内部が特別公開されていました。


中に入ると、薄暗い中にも、長い廊下がずっと続いているのが見えます。


このまっすぐ長い廊下は、16の小部屋をつないでいます。


こちらが、小部屋のひとつ。16の部屋は、大きさはほぼ同じだそう。ですから、一時は、学生寮に使われていたこともあります。


なんでも、戦後すぐに、西日本短期大学の前身となる学校(大憲塾)が城内に設立。学生寮に最適であると、多聞櫓は寮に模様替えされたとか。


江戸時代には、おもに倉庫として使われていたそうですが、小窓からは敵を監視し、攻撃できると、防戦も想定していたのでしょう。


多聞櫓を下から眺めると、立派な石垣が引き立ちます。


こちらは、多聞櫓の入り口とは反対側(西側)の花菖蒲園の方向から見上げたもの。


「石落(いしおとし)」や「鉄砲狭間(てっぽうはざま)」が備えられていて、有事の際は、防御に使われる櫓だったことがわかります。


こちらの写真で見ると、隅櫓の下部や左の出っ張り部分から石を落とすのでしょうか。狙われた敵陣は、石垣から転げ落ちて、たまったものではありません。


そして、黒い板壁には、小窓がたくさん設けられていて、こちらが鉄砲狭間なのでしょうか。小窓は小さな戸で隠されているので、まさか撃たれることはないと油断してしまうのでしょう。


多聞櫓は、江戸期に何度も建て替えられられながら、大事に使われてきました。現在の建物は、嘉永6年(1853年)に建て替えられたもの。


こちらの棟札には、「嘉永六年」の文字が。力強い文字は、「南丸西平櫓南ヨリ長(?)拾八間(?)規建替」と読めるようです(間違っているかもしれませんが)。


一時は、現代人のニーズに合わせて中を改造された多聞櫓。今は、すっかり当時の姿に戻り、平櫓の天井からは、嘉永年間の棟梁が見学者たちを見下ろしているようです。



さて、多聞櫓は国の重要文化財に指定されていますが、福岡城址全体も、国指定の史跡です。天守などの代表的な建造物が残っていないのに、どうしてだろう? と不思議に思われる方もいらっしゃるでしょう。


それは、当時の石垣に囲まれた広大さにあります。つまり、都市部にありながら、築城当時の城郭がそのまま残されていること。そんな城は全国的にも珍しく、歴史的価値が高いとのこと。


下之橋御門から城内へ入り、天守台や多聞櫓を超え、城郭の奥へ歩を進めると、そこには、高くそびえる立派な石垣があります。


本丸の南端にある石垣で、ここまで来る見学者も少なく、辺りはひっそりと静まりかえります。


城内では一番長い石垣で、74メートル(38間)あります。高さは、15メートル(7間半)。


こちらは、武具櫓(ぶぐやぐら)が置かれていた場所になります。その名のとおり、黒田家伝来の貴重な武具が収められていました。


武具櫓は、東西の両脇に三層の櫓、その間に二層の多聞櫓という、立派な造りでした。西の三層櫓は「鎗櫓(やりやぐら)」、東三層櫓は「太鼓櫓」とも呼ばれていたそう。


どうして具体的な構造がわかるのかと言うと、大正8年(1919年)、黒田家別邸の浜御殿(現・中央区舞鶴、浜の町)に移築されたから。


移築に際し、城内の武具櫓や浜御殿への移設の様子が写真で残されていて、これから築城時の姿を察することができます。(こちらの移築後の写真は、福岡城・鴻臚館ウェブサイトより引用)


残念ながら、移築された武具櫓は、昭和20年(1945年)6月、福岡市が焦土と化した福岡大空襲で消失しています。


ちなみに、この武具櫓については、長政自身の興味深い書状があります。


長政が築城責任者である棟梁、益田与介と野口佐介に宛てた書状には、「たとえ父の如水(黒田官兵衛)が異を唱えたとしても、事前に申しつけたように築くように」と指示しています。(『黒田家文書3・891』)


「拾壱間(11間)」とか「三十間」という寸法も出てくるので、父の如水は石垣や建物の大きさなどに異論を唱えていたのでしょうか。



そして最後に、福岡城の天守について、お話しいたしましょう。


そう、お城と聞くと誰もが思い浮かべるのが、立派な天守閣。


たとえば、福岡の隣県、熊本城の黒く輝く、カッコいい天守閣(写真)のイメージです。


一方で、福岡城には天守台はあるものの、天守は存在しません。


こちらは、立派な天守台の石垣。


今は、見学用階段も設けられ、てっぺんまで登れるようになっています。ここからは、城内の桜と博多の街が一望できるので、桜の季節には大人気です。


実は、福岡城のある辺りは、古墳時代から重要な祭祀の場だったそう。


城の南にある大休山(おおやすみやま、今の南公園の辺り)から北へ連なる丘陵地帯は、「祈りの場」となっていて、警固(けご)古墳群が形成されていました。


この天守台にも「天守台古墳」があり、石棺も見つかっているとのこと。この平野を見下ろす眺めの良い丘陵は、貴人を埋葬するには絶好の場所だったのでしょう。


残念ながら、城周辺の警固古墳群は、築城時に大規模な破壊が行われ、運び出された石は、城の石材に利用された経緯があったそう(『福岡市史 資料編 考古2〜遺跡からみた福岡の歴史・東部編』警固古墳群の記述より)


黒田長政がここを築城の地に選んだのは、まさか古墳があったからではないでしょうけれど、古墳の石を利用できるという、副産物もあったのでしょう。



そして、長政は天守台を築いたのに、どうして天守がないのか?


これに関しては二つの説があるようです。


それは、「天守はあったが、なんらかの理由でなくなり再建されなかった」という説と、「中天守、小天守はあったが、もともと天守閣と呼ばれるような大天守はなかった」という説の二つ。


以前は、後者の「もともとなかった」という説が広く支持されていたようですが、近年は、前者の「天守の崩壊後、再建されなかった」説が有力になっているようです。


現在も城内には「大天守台」「中天守台」「小天守台」と三つの天守台が残されていますので、大天守台にも建物があったことは十分に考えられます。(写真は、中天守台・小天守台)


さらには、近年、貴重な書状も発見されています。


それは、徳川家康から豊前国を拝領した細川忠興(ほそかわただおき)の三男、小倉藩主・忠利が国元の父へ宛てた元和6年(1620年)の書状。黒田長政が二代将軍・秀忠に謁見した際、「徳川家の御代に城は不要であり、福岡の天守や家を取り壊したと語った」と、天守の存在を思わせる記述があったそう。(NetIB NEWS 2024年5月31日付記事を参照)


このような書状や記録により、熊本城と同等規模の天守があったのではないか、とも考えられているようです。


福岡の街を描いた一番古い絵図『正保福博惣図』には、城内の天守台に天守は描かれていません。ですから、もともと天守はあったものの、絵図が描かれた正保3年(1646年)にはすでになくなっていた、という説が有力なようです。(こちらは、福岡市博物館所蔵『正保福博惣図』。正保期に幕府に提出されたものの控えとされています)


いずれにしても、福岡城の天守については、絵図や詳細な記述、当時の部材といった重要な手がかりが残されていないので、今の時代に再建することは難しいようです。(とくに国の史跡である福岡城址に天守を復元しようとしても、文化庁はなかなか首を縦に振らないことでしょう!)


そう、潮見櫓は長年かかった移築復元プロジェクトでしたが、次に福岡市と文化庁が復元に取り組むとすれば、写真も残されている「武具櫓」、ということになるのでしょう。


もし天守があれば、城として見栄えがするのは確かです。が、どうやら現状では、福岡市の『幻の天守閣ライトアップ』事業のように、見学者の頭の中で再現してみるしかないようですね。


<謝辞>

福岡城の記述につきましては、歴史講座『那国王の教室』主宰の郷土史研究家、清田進氏に負うところが大きいです。

幾度か城内をご案内くださり、また、黒田家文書や警固古墳群など歴史的資料をご教示くださったことに、改めてここで深く感謝いたします。



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