秋の夕暮れ
いつの間にか、秋も深まり、木々も鮮やかに色づきはじめました。
11月2日の日曜日、アメリカでは夏時間(デイライトセイヴィング・タイム)から標準時間(スタンダードタイム)に戻ったので、1時間遅くなりました。
今までの朝9時が8時に、夕方5時が4時になるので、一時間遅く起きて登校・出勤できるわりに、日の入りが一時間早くなってしまうのです。
もともと10月下旬の「秋分の日」を過ぎると、だんだんと日が短くなってしまうのに、標準時間に戻ると、一気に日の入りが加速したようで、物悲しい気分になるのです。
けれども、幾日か過ぎると、そんな生活パターンにも慣れてきて、「秋」を楽しむ余裕が出てきます。
元来、秋というものは、収穫も終わり、冬に向けて活動をゆるめる時期ですので、「夜」との付き合いもうまくなっていく季節でしょうか。
いつか、ハロウィーンはケルト人の新年(グレゴリオ暦で10月末)から来ているというお話をしました。
この時期には、あの世とこの世の垣根が一番薄くなるので、あちら側から死者の魂がやって来て、この世で徘徊すると信じられていました。
ですから、ハロウィーンには、お化けたちが大活躍するようになったのです。
そして、ケルト系の多いアイルランドやイギリス西部ウェールズから遠く離れた、中米メキシコ。
こちらでは、10月31日から11月2日は「死者の日(Los Dias de Los Muertos)」となっています。
やはり、あの世から死者の魂が戻って来て、この世の家族を訪ねると信じられているのです。
まさに日本のお盆のようなものですが、死者を迎えるために、お墓をきれいに掃除してマリーゴールドや菊の鮮やかな花で飾ったり、自宅には祭壇をつくって生前の写真や花、大好きだった食べ物やテキーラをお供えしたりと、準備に余念がありません。
せっかく戻って来るのですから、目一杯、歓迎してあげたいのです。
伝統的にメキシコでは、人は「三つの死」を経験すると言われます。人が肉体的に絶え、ひとつ目の死を迎えたあとは、地に埋葬され、母なる大地に還る、ふたつ目の死。
この段階では、死者はまだ家族や友人の心の中で生きているので、この「ふたつ目の死」のときに、死者の日を利用して身内や友の前に現れる、と信じられているのです。
ですから、「あなたの戻って来るべき場所は、ここですよ」と、残された身内はお墓を飾り、祭壇を設け、ごちそうを並べ、ロウソクに火を灯し、香をたいて道案内とし、死者の魂を歓迎するのです。
(写真は、死者の日のシンボルともなっている La Calavera Catrina「オシャレなしゃれこうべ」さん: Photo from Wikipedia)
両親を亡くした子供たちが、住処とする教会の名簿に「僕のママ、僕のパパ(mi Madre、mi Padre)」と記した映像を観たことがありますが、あまりにも小さい時の別れで、名前も知らないパパとママであっても、この死者の日には「僕は心の中で思っているんですよ」という精一杯の意思表示なのでした。
そして、三つ目の死は、思い出してくれる身内も友もいなくなったとき。この世との縁は完全に切れ、もう死者の日に戻って来ることもなくなります。
なんとなく誰かがあちら側から戻って来そうな気にもなるのですが、日本にも「逢魔時(おうまがとき)」という言葉があるそうですね。
お日様がだんだんと沈んで、あたりに暗闇が忍び寄るころ、魔物に出くわしてもおかしくないという、昔の人々が編み出した言葉だそうです。
そこで、ふと思い出したお話がありました。
昔々、飴屋の主人が体験したというお話です。
亥の刻(午後10時ころ)になると、飴屋の主人がトントンと戸をたたく音で目を覚まします。表戸を開けてみると、そこに若い女性が立っていて「一文銭の分、飴をください」と言うので、その分だけ飴を手渡すと、一文銭を置いて静かに帰るのです。
そんなことが幾夜か続くのですが、七日目の晩になって「今夜は持ち合わせがありませんので、飴をめぐんでくださいませ」と言うので、飴を手渡しながらも不審に思い、後を追うのです。
すると、お寺の墓地に入った女性がすうっと消えたかと思うと、墓の中からオギャーッと赤ん坊の泣き声が聞こえてきて、和尚さんたちと掘り起こしてみたら、元気な赤ん坊が出てきた、というお話。
子供のころに聞いたお話なので、「七日目の晩」というのは記憶から欠落していましたが、どうやら、七夜目にお金がなかったのは、三途の川の渡し賃にと棺桶に入れてもらった六文銭がなくなった、という意味だとか。
そして、子供のときに聞いた記憶はないのですが、これには後日談があるそうです。
赤ん坊が助け出された数日後、例の女性が飴屋の主人の夢枕に立ち、「わたしの赤ん坊を助けてくださってありがとうございました。何か困っていることがありましたら、どうぞおっしゃってください」と言うのです。
街が水不足で困っていることを告げると、「明朝、朱い櫛が置いてある場所を掘ってみてください」と言うので、朝一番、その通りにすると、清らかな水がこんこんと湧き出てくるのです。
その後、この井戸は、干ばつにも涸れることなく、人々の生活を支えてくれましたとさ。
というわけで、意外なハッピーエンドもついていたようです。
それで、こういったお話を聞くと、いわゆる「怪談」と呼ばれる民話にも、「人々の想い」や「願望」、「みなを納得させる事象の説明」と、民話が語られる理由みたいなものを感じますよね。
お墓の中から元気な赤ん坊が出てきたというのは、たぶん、お産のときに亡くなったお母さんが残された子供を不憫に思っているに違いない、という人々の同情の表れなのでしょう。
同じようなお話は、日本各地に語り継がれているように思います。旅先の本屋さんで、酷似する民話を見つけたことがありました。
そして、井戸を掘ったら清らかな水が湧き出たというのは、実在の井戸の「干ばつでも涸れない、魔力的な力」を説明しているものではないでしょうか。
そう、この井戸は実際に使われていたものだそうで、1715年(正徳5年)には、『柳泉(やなぎのいずみ)』という名で近隣の「名泉」のトップとして文献にも出てくるそうです。
日が暮れるお話が、えらく脱線してしまいましたが、秋になると、やっぱり人は自然とつながって生きているのだなと、神妙な気分にもなるのでした。
参考文献: 泉屋郁夫氏コラム『麹屋町の飴屋の幽霊井戸と柳泉の井戸祭』長崎史談会だより 平成24年(2012年)9月号 No.61
こちらは、前回のエッセイ『歴史のイマジネーション~蒸気機関車』を書いたときに見つけた文献ですが、子供のころに聞いたお話に「後日談」があって、それが実在の井戸に関係するものだと知り、ひどく興味を引かれたのでした。
水道が敷設される以前には、梅雨が明け真夏に入るころ、市中のあちらこちらで井戸に感謝する「井戸祭(井川まつり)」が開かれたそうです。やはり、時には雨が降らず水不足に陥ることもあったでしょうから、(お化けがくれた)涸れない井戸というのは、何よりもありがたかったのでしょう。
水不足のカリフォルニアには、うらやましい(!)お話なのでした。