華燦々と
<エッセイ その211>
今年は、なかなか咲かなかった桜です。
おかげで各地の入学式にはピンクの彩りを添え、記念すべき日に大きな「花まる」がつきました。
桜といえば、日本のみんなが待ち望む花。
いったいいつになったら開花するのかと蕾(つぼみ)をのぞき込み、花咲き風が吹けば、春の嵐で散ってしまうと、ハラハラ、ドキドキ。
列島全体が桜フィーバーの大騒ぎです。
そんな桜の季節、前回ご紹介した截金(きりかね)作家、江里 朋子(えり ともこ)氏と再会いたしました。
偶然にも、江里さんのアトリエは我が家の近くにあって、先日の個展でお譲りいただきたいとお願いした作品を受け取りに訪れた(押しかけた)のでした。
個展会場では入ってすぐの壁に掛けられた額装。小ぶりだけれど、印象深い作品でした。
鮮やかな赤に塗られた木地に、金とプラチナの截金が細密に施されています。
『燦華(さんか)』と名づけられた作品。
燦々と陽光が降り注ぎ、6枚の花びらを開かせる、一面の華々。
真ん中に行くにしたがって、より華やかに大きく、花托や花糸を広げます。
きっと野原の真ん中は、陽当たりがいいのでしょう。
たくさんの華々は、花びらでつながっていて、つないだ花びらが丸い手鞠(てまり)のようにも見えるのです。
華やかな、野の花の饗宴。存在感のある作品です。
お忙しい芸術家の邪魔をしてはいけませんので、作品を受け取るとすぐにアトリエを退散しました。
が、どうしてもこれだけは伺っておきたいと、少しだけお話をさせていただきました。
まずは、額装にしても、箱にしても、どうやってあんなにきれいに文様を等分に配置できるの? という疑問に答えていただきました。
江里さんの頭の中には、最初に文様のアイディアが浮かんでいます。
前回のエッセイでもご紹介していますが、発想の多くは、自然の中にあります。
たとえば、『天漢路(あまのかわじ)』という飾筥(かざりばこ)では、生まれて初めて見た「天の河」を表してみたいと、シルクの表と裏に截金を施し、筥を飾りました。
雲のように散在する小さな星々の合間に、ひときわ大きく輝く星々。そして、特別にその夜を彩る流星の群れ。そんな天空の奇跡が、飾筥に現れます。
こちらは、『碧梁(へきりょう)』と名づけられた飾筥。
清らかな川の流れには、橋がかかり、愛らしい花々が顔をのぞかせている。そんな花々をいつくしむように、川面にはキラキラとやさしい木洩れ陽が差し込んでいる。
キラキラと輝く青緑の木洩れ陽は、クロード・モネが愛したジヴェルニーの自宅庭園を思い浮かべるようでもあります。
大きな文様にしても、小さな文様にしても、どうやって組み合わせて、そこに作品全体の広がりを見せるのか。その点が楽しみでもあり、苦心するところでもあるのでしょう。
そうやって作品全体の構想ができると、截金を施す媒体となる箱などの簡単な設計図をつくります。
この設計図をもとに、指物師(さしものし)の方に箱をつくっていただきます。
けれども、たまには江里さんのお好みをご存じでない方もいらっしゃったりして、ほんの少しだけ厚みが違っていたり、角の削り方が違っていたりと、思い描いていたものと若干異なることもあるそう。
そうなると、文様の配置を調整しなくてはならないので、もうミリ単位で、デザインを修正することになるとか。
たとえ修正がなかったにしても、あんなに細密な文様を媒体に均等にちりばめていくとは、さぞかし数学がお得意なのでしょうとお伝えすると、「いえいえ、もっと数学を勉強しておけばよかったと、いつも思うんですよ」とおっしゃいます。
幸いにして、数学は高校に通う次男さんがお得意だそうで、たとえば三角形のモチーフをどのように配置したらよいかと、ときには江里さんに代わって計算してくださるそう。
寸分たがわぬ文様の配置は、ときに江里さんと次男さんの合作でもあるんですね。
「今はコンピュータを使って細かい、正確なデザインもできるんですけれどね・・・」とおっしゃるので、連れ合いがすかさず異議を唱えます。
いえ、コンピュータ(CAD:Computer-aided design)でデザインすると、正確な丸や三角、四角は描けるけれど、とても人にはかないませんよ、と。
数学を専攻して、コンピュータ会社に入った連れ合いですから、機械の限界はよく知っています。完璧ではないがゆえに、人が創り出すものの温かみは、コンピュータには絶対に真似できないことを力説するのです。
そして、最も疑問に思っていたことをお伺いしてみました。
どうやって複雑なデザインを木地の上に写すの? 何か転写の道具でもあるのですか? と。
すると、そのお答えにビックリ。
なんと、下描きは一切できないそうです!
截金で使う箔は、髪の毛ほど細く、下描きをすると線が見えてしまうそう。
ですから、たとえば背景の色が何色かある場合は、その切れ目に箔を置いていくし、一色の場合は、目印となる点をいくつか描いて、それに沿って箔を置いていくそうです。(こちらは、『截金四方盆 放光』と名づけられた作品)
截金を施す媒体は、平たいものばかりではありません。盆や香合となると、丸みを帯びている部分もあります。ですから、文様を均等に置いていくとなると、相当に難易度が上がるのではないかと想像するのです。
こちらは、『截金透塗喰籠(きりかねすかしぬり じきろう) 一華』と名づけられた作品。
喰籠とは、茶席でお客さまにお出しする菓子を入れる蓋付きの容器のこと。漆塗の蓋の部分は、ゆるやかにカーブしていて、花びらや放光のような幾何学文様をまっすぐに表すのは、さぞかし難しいことでしょう。
江里さんのお父様は、仏師の江里 康慧(えり こうけい)氏です。
京都にいらっしゃるお父様が彫られた仏像を現地で荘厳(しょうごん)されることもあるそうですが、仏像はとくに難しいとおっしゃいます。
仏像の衣や装身具、仏具は、複雑なフォルムをしています。ですから、ゆったりと纏われた衣に金箔を置きながら、どうにか辻褄を合わせるんです、とおっしゃいます。
さらに、仏像には、用いる文様にも細かい決まり事があるとのこと。ときには、お父様から「それは適切ではない」と注意を受けることもあるそうで、今は懸命に仏像の勉強もしているとおっしゃいます。
お父様は、お寺に納める仏像や個人から依頼された小ぶりの仏像と、さまざまな作品を手掛けていらっしゃるそう。江里さんも、手のひらにのる小さな仏像から、4メートルを超える大きなものまで、経験は豊富です。
古来の伝統を堅実に受け継ぐとともに、斬新なモチーフで自在に自然を描く。
江里さんの芸術家としての強みは、この「両刀使い」にあるのでしょう。
人の記憶に語りかけるもの、それが絵画だと、日本画家の千住博氏がおっしゃっていました。
絵を観て、自分の記憶をたぐり寄せ、額の中の題材に共感する。
たとえば春は、咲き誇る花と散りゆく華。
桜は新しいスタートのめでたさもありますが、「散るなら櫻の如く」と残した特攻隊員の極限の覚悟も思い浮かべます。
そんな人々が持つさまざまな記憶、そして共感。
共感があればこそ、心の中には小さな宇宙が広がるよう。
絵であろうと、截金であろうと、それが芸術家の目指すところなのかもしれませんね。