野の花ほどに着飾って
そんな季節の変わり目に、よく母が言っていたことがありました。
今は、何を着ていてもおかしくないのよ、と。
季節の変わり目には、誰もが「何を着ようかしら?」と迷うもの。
ですから、今までと同じ格好をしていても、ちょっと無理して季節を先取りしてみても、どちらも違和感はないのよ、とオシャレな母らしいアドバイスなのでした。
ふと、この言葉を思い出したのは、サンフランシスコのメイン通り、マーケットストリート。
暦は「夏」でしたが、季節を意識したレディーがノースリーブのワンピースの裾をひるがえす一方で、寒がり屋さんの女のコは、ぬくぬくと黒いダウンジャケットを着込んでいる。
男性だって、半袖のTシャツでさっそうと歩く人あり、ダウンベストや皮のジャケットを着込む人あり、と千差万別。
今までも何度かお話ししていますが、夏のサンフランシスコは、なんとも気難しいお天気です。
昼間は暖かな日差しでも、夕方になると、西の太平洋から冷たい霧が忍び寄ってきて、急に冷え込んでくるんです。
ですから、暦の上では「真夏」の8月よりも、霧の出にくい9月とか10月の方が、暖かいイメージかもしれません。
そんなわけで、ベイエリアの中でもお天気が異質なサンフランシスコは、何を着ていてもしっくりと溶け込める街なのでした。
それで、「何を着ようかしら?」と迷ったとき、わたしはなぜか聖書の言葉を思い出すんです。
いえ、わたしは何教徒でもありませんが、子供の頃に、父が書斎に貼っていた言葉が頭にこびりついているんです。
なぜかしら父の書斎には、鴨居の上に長々と文字の羅列が貼ってあって、宮澤賢治の遺作として有名な『雨ニモマケズ』や、聖書の言葉がズラリと並んでいたのです。
その中に、新約聖書の『マタイによる福音書』から、「何を着ようかと自分のからだのことで思いわずらうな」という言葉も引用されていたんです。
正式には、『マタイ伝』第6章25節から34節にある、こんなお言葉。
それだから、あなたがたに言っておく。何を食べようか、何を飲もうかと、自分の命のことで思いわずらい、何を着ようかと自分のからだのことで思いわずらうな。命は食物にまさり、からだは着物にまさるではないか。(中略)また、なぜ、着物のことで思いわずらうのか。野の花がどうして育っているか、考えて見るがよい。働きもせず、紡(つむ)ぎもしない。しかし、あなたがたに言うが、栄華をきわめた時のソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった(後略)。(1954年の口語訳より)
つまり、神はあなたがたに必要なものはすべてご存知なのだから、神を求めれば、こういったものはすべて与えられる、だから心をわずらわすな、というお言葉のようです。
何教徒でもないわたしからすると、「神から与えられる」というのはちょっと理解しにくいお話ではありますが、それでも、人の生き方としては、「なるほど」と納得する面もあるのです。
なるほど、栄華をきわめたソロモンという「偉いおじさん」でさえ、野の花の一つほどにも着飾ってはいなかったんだ、と。
だから、そのことが子供の頃からずっと頭にこびりついているんでしょうし、「何を着ようかしら?」とか「何を食べようかしら?」と迷ったときには、「そんなことで、わずらわされてはいけない」と、ハッとするんでしょう。
そして、いつの間にか、ちょっと贅沢なものを食べたり、ちょっと高価な服を買ったりすると、「これで良かったのかな?」と罪悪感みたいなものが付いて回るようになったのでした。
そうなってくると、ちょっと息苦しくもあるので、敬虔なカトリック教徒の親友に聞いてみたことがあったのです。「たとえば、いいレストランで食べるのって良くないことなのかなぁ?」と。
すると、彼女はこう答えてくれました。
それは、無理してお金を払ってまで高いレストランで食事をするのは良くないけれど、たまに美味しい食事やワインを楽しむのは、まったく構わないのよ、と。
彼女もフレンチ料理をはじめとして、美味しい食事とお酒のペアリングを堪能するのが好きな人なので、きっとそういうのは、絵画やオペラを楽しむみたいに、芸術を楽しむのと同じことと割り切っているのでしょう。
着るものにしたって、「その場にふさわしいもの」というのがあるでしょうから、度が過ぎて華美でなければ、ときには着飾っても良いということでしょうか。
とすると、自分の懐(ふところ)が許す限り、場にそぐうものである限り、食べたいものを食べて、着たいものを着てもいいのかもしれませんね。
それにしても、無神教の父が、どうして聖書の言葉を引用して、大事そうに書斎の壁に貼っていたんだろう? と、不思議にも感じるのです。
『雨ニモマケズ』の宮澤賢治さんは、仏教徒だったようですから、仏教もキリスト教も関係なく、「いい言葉だ!」と思ったことを書き抜いたのかもしれません。
はたまた、その頃の父は、「宗教とはなんぞや?」「自分と信仰は結びつきがあるのか?」などと、真剣に思い悩んでいたのかもしれません。
机に向かって、あーでもない、こーでもないと考えるのが父の仕事でしたから、何かしら支えになるような、心のよりどころが欲しかったのかもしれません。
ふと、母の言葉が、とっても深いことに気づくのです。
「季節の変わり目には、何を着ていてもおかしくない」というアドバイスは、実は、服の話だけじゃなくて、心の割り切り方を表しているんじゃないかって。
これを着ていたら「おかしい」と思うのは、案外、自分だけのことが多い。だから、自分が良いと思えば、季節にもふさわしくなるし、逆に、自分の中にわだかまりがあったら、季節にもそぐわず、自分だけが浮いているように感じてしまう。
心の持ちようで、いかようにも変身できる、と母は言いたかったんじゃないかって。
そんな風に、季節の装いをきっかけに、いろいろと思い返していると、
母がいつも「あなたはピンク色だから」と言っていたのを思い出しました。
母の目からすると、わたしが一番良く見えるのは、ピンク色を着ているとき、という意味です。
だったら、つとめて明るい色を選んでみようかな、と考えているこの頃なのです。