本
- 2006年08月23日
- エッセイ
以前、2回ほどご紹介いたしましたが、我が家では、オフィスとする部屋に棚を作ろうと、プロのキャビネット屋さんに製作を依頼していました。
本棚に机にプリンター台といったオフィス機能と、テレビ・オーディオ機器を収納するエンターテイメント機能を備えています。完成したら、さぞかし便利だろうなと、待ち遠しいプロジェクトなのでした。
でも、その道は、多難のひとこと。
参考までに、その災難の連続を描いたお話「とかくアメリカは住みにくい」は、こちらに掲載されています。
二番目のお話「オフィス棚の続報」は、こちらです。
もともとの契約から、実に10ヶ月近く。途中交代した業者との契約から、4ヶ月近く。
でも、できたものは、それで良しといたしましょう。嫌な事はさっさと忘れて、さあ、お片付け、お片付け。
さっそく気の早い連れ合いは、古い本棚に詰め込んであった書籍を、真新しい棚に移すべく、2階と1階を足繁く往復しています。ご苦労さま!
で、わたしは、本を棚に入れる係。本は宝のようなものなので、自分で好きなように並べなきゃ。そういうわたしの性格を、連れ合いはちゃんと知り尽くしています。
まず、昔愛読していた小説がざっくり。なんとなく、推理小説と歴史小説ばかりだな。
それから、多感な時期に大事にしていた文庫本。今でも、とっても大事に思っています。捨てることなど、到底できないのです。
どうやら、あの頃は、梶井基次郎やトーマス・マンが好きだったようですね。
わたしは物を書くなどと豪語しているわりに、多読ではありません。その代わり、一度読んで感動した本は、とっても大切に保存しています。だって、歳を重ねるごとに、同じ本も違って感じるから。いい本は、何度でも読みたい。
そういう本を称して、「バイブル(聖書)」と言っています。そんなバイブルは、もう何冊もありますね。人が知ると、「なんで?」という本でも、わたしにとってはバイブルなんですね。
専門書なんかは、あとで片付けるとして、日本の名著の復刻全集が出てきました。連れ合いのお父さんが購入したもので、何年も前にいただいていたのです。
近代文学館発行の復刻全集で、初版本を忠実に再現しています。漱石に鴎外、藤村に啄木、それに、志賀直哉、川端康成、谷崎潤一郎といった近代文学の要が名を連ねています。
これまで、森鴎外の歌集を開いて読んだりしていました。彼は歌人でもあり、従軍医として経験した戦争の歌は、心を打つものが多いのです。
けれども、あとは開いたこともない。名著ばかりなはずなのに。
おまけに、背表紙のタイトルすら読めないものがある。全集を順番通りに並べようとするけれど、漢字がわからないと、背表紙とリストをパターン・マッチング。まるでアメリカ人並みだなと情けなくなってしまいます。
そういう読めない背表紙の中に、芥川龍之介の『傀儡師』がありました。どうやら、「くぐつし」とか「かいらいし」と読むようですが、江戸時代、胸にかけた箱の中から木偶人形(でくにんぎょう)を取り出し、それを舞わせた大道芸人のことだそうです。
いやあ、読めないので、親に電話しましたよ。
今まで、あんまりいい文学青年ではなかったので、芥川龍之介は、子供用に書き直された「くもの糸」なんかを読んだっきりです。
だから、ついつい中を開けたくなってくるのです。中身は、どんなものだろう?
「だめだめ、お片付け、お片付け!」と、ずっと心を鬼にしていたのに、ついに、ひっかかってしまいました。連れ合いもミーティングに出かけてしまったし、鬼(?)のいぬ間に、つかの間の読書。
この『傀儡師』、「蜘蛛の糸」とか「地獄変」などの11篇を収めた短編集で、装丁は龍之介自身が担当しています。初版本は、「皇都・新潮社」から出されたらしく、開くといきなり、「伯母上に献ず」なる文字が目に飛び込んできます。
第一作目は、大正7年に書かれた「奉教人の死」という作品です。名前からして、江戸時代のキリスト教徒の殉教のお話でしょうか?
実は、ちょっと違っていて、こういうお話なんですね。興味のある方は、こちらをどうぞ(現代語に訳して要約いたしますね)。
昔、長崎の「さんた・るちや」というカトリック寺院に、「ろおれんぞ」という名の日本人の少年がおりました。寺院の戸口に飢え疲れて倒れていたのを、信徒に助けられ、伴天連(ばてれん)さんにお世話になっていたものです。
顔は玉のように清らかで、声も女性のように優しい少年でした。
3年ほど経ったころ、少年も元服を迎える時期となり、こんな噂が立つようになりました。少年は、傘張の娘とねんごろになっていると。
伴天連さんは、きつく少年を問いただしますが、「娘は私に心を寄せ、文をもらったことはありますが、口を利いたこともありません」と、きっぱり否定します。親友が真偽を問いただしても、「僕は、君にさえ嘘をつきそうな人間に見えるんだな」と、悔し涙を流します。
ところが、しばらくして、傘張の娘が身ごもったというのです。そして、娘は父親に、「ろおれんぞの子です」と、打ち明けたのです。
烈火のように怒った傘張の翁、伴天連さんに直談判に向かい、困った伴天連さんは、信徒と協議の末、ろおれんぞを破門、追放とすることにしました。
それから、ろおれんぞは、誰からも相手にされることもなく、町外れの小屋に寝起きし、世にも哀れな乞食姿となってしまいました。
間もなく、傘張の娘は、女の子を産みます。さすがに、傘張のかたくなな心もとけ、初孫をたいそうかわいがるようになるのです。
ところが、一年ほどして、街に大火が起こりました。翁も娘も、引火した家から命からがら逃げ出してみると、赤ん坊を家の中に置いて来たことに気付きます。半狂乱になった娘は、あたふたと大騒ぎしています。
そこへ、どこからともなく、ろおれんぞが現れ、まっしぐらに火の海に飛び込んでいくのです。そのとき、親友の目には、日輪の光を浴び寺院の前に立つ、美しく悲しげなろおれんぞの姿が見えたといいます。そして、まわりの人はこう言うのです。「やっぱり、親子の情は争えないものだなあ」と。
火の中では、ろおれんぞが赤ん坊を抱えるやいなや、焼けた梁が容赦なく崩れ落ちてきます。けれども、彼は力をふりしぼって赤ん坊を投げ出し、いつの間にか、絶望に打ちひしがれる娘の腕の中には、赤ん坊が戻っているではありませんか。
ろおれんぞはといえば、息も絶え絶えのところを、親友に助け出されます。群がる信徒の間からは、「殉教じゃ、殉教じゃ」という声が沸き起こります。
それを見て、娘は、伴天連の前にひれ伏すのです。そして、こう懺悔(ざんげ)するのです。「赤ん坊は、ろおれんぞ様の子ではありません。私は日頃、ろおれんぞ様を恋慕っておりましたが、相手にされないので、腹いせに彼の子だと偽ったのです」と。
当のろおれんぞは、それを聞いても、二度三度と頷くだけです。髪も肌も焼け焦げ、手足も動かず、声も出ない様子。
そんな彼の焼け爛れた衣の間からは、清らかな乳房が、玉のように露(あらわ)れているではありませんか。なんと、ろおれんぞは、娘と同じ、女じゃ。
やがて、ろおれんぞは、伴天連の祈りを聞きながら、静かに息を引き取るのです。
追記:龍之介自身の追記として、このお話は、自分が所蔵している『れげんだ・おうれあ(LEGENDA AUREA)』(長崎耶蘇会出版)という本の下巻二章に依るもの、とあります。
大火の話は、史実かどうかは確認できないが、この物語自体は、その昔、長崎のどこかのカトリック寺院で実際に起こったことでしょう、と付記してあります。
8月に日本に帰ったとき、ふと思ったのですが、夏休みって、受験勉強の書き入れ時なんですよね。受験生は、どこかに遊びに行く暇もなく、お勉強にいそしんでいる頃なんでしょうね。
わたしも最初は日本で英語を習っていたわけですが、今振り返ると、いい面と悪い面がありましたね。
まあ、日本では、最初っからビシッとグラマーを叩き込まれるので、文法上正しい英語(grammatically correct English)を身に付けられる、というのはいいことだと思います。
世界各国から集まる英語のクラスなんかに出席すると、日本人の文法能力は、なんと素晴らしいのだろうと感心するのです。
でも、その一方で、日本で「何とかの構文」といって教えられる中にも、現地ではあんまり聞いたこともないような文章もあるんですね。
たとえば、簡単なところで、動詞have。
A good time will be had in the party(パーティーではゆかいだろう)なんて本にあります。
普通、所有を表すhaveは受動態では使われないけれど、何かを経験するときには、受動態will be hadとしてもよいとされています。
でも、そんなの聞いたことない。普通は、こう言うでしょう。
We’ll be having fun in the party.
主語を使わない受動態では、しょせん無理がある。
逆に、日本ではあまり習わないようなものの中に、現地ではよく使われるものがあったりします。
たとえば、a few。これだけでは「少し」って意味ですね。でも、quite a fewになると、「たくさん」って意味になりますよね。
Quite a few people gathered at the concert(たくさんの人が、そのコンサートに集った)なんて使います。
で、意外と使いそうにない構文で、結構たくさん使ったりするものもあるんです。
たとえば、倒置法。主語とか動詞とかをひっくり返して使うものですね。
何かを強調したい場合に、自然と口をついて倒置法が出てくるときがあります。
Tomorrow I will go.(明日、わたしは行きます)
やっぱり会話となると、相手に伝えたいことが真っ先に出てくるものなんですね。
それから、二重否定のneither(どちらでもない)を使うときも、倒置法が出てきますね。
I’ve never been to Africa.(わたしアフリカは行ったことがないわぁ)
Neither have I.(あら、わたしもよ)
普通の否定文では、こうなりますね。I haven’t either.(わたしも行ったことないわぁ)
ちなみに、上の文章は、今までの経験を表す現在完了形が使われていますが、単純な過去形だとこうなります。
I didn’t go to that party.(わたし、あのパーティーには行かなかったわぁ)
Neither did I.(あら、わたしもそうよ)
日本で習ってみて現地でも参考になる構文に、こんなのもあります。
Was it not for water, we can’t survive.(水がなかったら、わたしたちは生きられない)
仮定法ですね。「もし~なら、~だろう」という文型。
学校では、現在のことを仮定するときには、過去形を使うと習います。ですから、上の文章は、Were it not for water, we couldn’t surviveでもいいかもしれません。
でも、実際、誰かが口頭で使っているのを聞くと、「Was it not for ~, 現在形」の方が一般的に感じます。
ちなみに、口語だと、こういう人もいます。If it weren’t(wasn’t)for water, we can’t survive.ここでは、「If it weren’t(wasn’t)for ~, 現在形」の形になっているんですね。
これが、過去の出来事の仮定になると、こうなりますよ。
Had it not been for water, we wouldn’t have survived through the desert.(もし水がなかったとしたら、わたしたちは砂漠で生き延びることができなかったかもしれない)
昨日、ラジオでこんなことを耳にしました。この仮定法が、バッチリ使われていたんですね。
Was it not for this kind of Jazz program, these inner-city kids will take a completely different direction.(このようなジャズの教育プログラムがなければ、スラム街の子供たちは、まったく違った方向に進んでしまうだろう)
ところで、お受験といえば、大学の入学試験の英語って、どれほど難しいんだろう?そう思って、昔の長文読解の問題にちょいとチャレンジしてみました。まずは、一橋に早稲田!
まあ、今となっては、難しいなんて感じることはありませんが、ひとつ思ったことがありました。
それは、例文の中に、アメリカの歴史や風俗や地域のお話が出てくる場合があるので、背景を知っていた方が有利かもしれないな、ということです。
たとえば、ボストン近郊の夏から冬への季節の移り変わり。それから、ジョージアやサウス・キャロライナ州での、18世紀の綿織物業のお話。
読みながら、頭に状況を思い描いた方が、中身の理解も早いかなと。
となると、英語だけじゃなくって、地理とか歴史とかも勉強しなくっちゃいけないのかな?
追記:最近、せっかく習ったグラマーを確実に忘れつつありますねぇ。日常生活では、ちゃんとした英語を使っていないのでしょうか。
チャレンジした入試問題に、前置詞の問題がありました。ふたつの文章に共通する一語を選べ、というものです。とりあえず、ちゃんとできたけれど、もう一方の文章がなければ、わからなかったですねぇ。
He is given ( ) drinking.
I will see ( ) it that everything is ready for your departure.
The old man is hard ( ) hearing.
This city is located thirty miles west ( ) Tokyo.
答えは、上のペアがtoで、下がofです。どちらのペアも、2番目の文章は頻繁に使われる表現ですよね。
後日談:本文では、こう書きました。動詞haveの受動態は、will be hadという形で経験を表すとあるが、そんなの聞いたことないと。
でも、先日、ビジネスニュースを観ていた時に、アナウンサーがこう言っていたのです。
A good time will be had.(楽しい時間を過ごすでしょう)
何の話かは忘れましたが、テレビのニュースみたいにフォーマルな場合は、will be hadというのを使うときがあるようですね。友達同士では、絶対に使わないですけれど。
青森のねぶた祭
- 2006年08月18日
- フォトギャラリー
数ある日本の祭りの中で、とっても行きたかったのが青森市の「ねぶた祭」。8月の第一週、短い東北の夏を祝うかのように、街じゅうを賑やかに練り歩くお祭りです。
祭り好きにとっては、一度は見てみたい代表的な夏祭りですね。
毎年、夏になると、ああ、今年もねぶた祭を見られなかったねぇなどと話していたのですが、ようやく、ねぶた見学の実現となりました。
この旅は、突然思い立った連れ合いが、泊まっていた東京のホテルに相談を持ちかけたことから始まりました。「ねぶた祭を見てみたいんだけど」と切り出してみたものの、開幕まで、10日とありませんでした。
さあ、それから、ホテルのコンシエージュは大発奮。迫力のある夜のねぶた見学と、最終日の花火大会のチケットをどこからともなく手に入れてきます。
けれども、一番問題なのが、宿泊先。青森市内には宿泊施設が少なく、かなり前から満杯なのです。そこで、青森駅からJRで20分の浅虫温泉(あさむしおんせん)というところに宿を見つけてくれました。まあ、値段は、普段の倍でしょうか。
そんなこんなで、直前まで不確定だった「ねぶた旅行」に行ってみると、さすがに青森は観光客でごったがえしています。ねぶた祭は、毎年、8月2日から7日が開催期間で、小さな青森駅は、到着したばかりの人とこれから出発する人で大混雑。中国からの観光客もたくさん見かけました。
そして、街も、夕方になると、夜のねぶた運行に参加する人たちや、早めに見学場所を確保したい人たちでごったがえし。昼間っから、酒を酌み交わし、路上で宴会となっているグループもいます。
わたしたちも、屋台の食べ物で腹ごしらえ。漁師さんが海から獲ってきたばかりのホタテは、さすがに新鮮でおいしかったです。
7時からのねぶた運行を控え、予約席のまわりを歩いてみると、かわいらしく浴衣を着込んだ子供たちを見かけました。ねぶた踊りの跳人(ハネト)のようです。彼らの「制服」は、浴衣に赤いたすきがけ、そしてカラフルな飾りの付いた花笠。ちょいと不機嫌な顔をしながらも、お母さんに言われた通り、ちゃんと被写体になってくれました。
見学席にも、かわいい男の子と女の子を発見。後ろからカメラを向けていると、気が付いたお母さんが、「ほら、あっちを向きなさい」と促します。なかなかフォトジェニックな子供たちでしたが、女の子が、トコトコとわたしの方に寄って来るのです。そして、「ねえ、これあげる」と、鈴を差し出します。
踊り担当の跳人は、体中に鈴をつけているのですが、この女の子は、自分で持っていた大事な鈴を、わたしに分けてくれたようです。「お姉ちゃんが写真を撮ってくれたから、お礼に鈴をあげたの」と、まわりの大人たちに説明していましたが、それを聞いたわたしは、ねぶた運行が始まる前から、妙に感激していたのでした。
合図の花火が上がり、お囃子が聞こえてくると、なぜだか目頭が熱くなってきます。初めて聞いたのに、とってもなつかしい響き。
お腹に響く締め太鼓のドンドンという拍子に合わせ、横笛が高い旋律を奏で、手振り鉦のチャンチャカチャンというリズムが花を添えます。日本人の原点ともいえる音色。
お囃子のあとに続くねぶたを見て、またまた感激。そろそろ暗くなってきて、電灯がともされたねぶたは、迫力のひとこと。全部で22台のねぶたは、まさに、そのひとつひとつが芸術品なのです。
その大きなねぶたを、男たちが引き回す。車輪は付いていますが、相当に重たそうです。見物人が歓声をあげると、すぐ前までやって来て、みんなの前で重いねぶたを廻してくれます。それが見たくて、あちらこちらから、こっちに来〜いと大きな掛け声。
お次は、跳人の威勢のいい踊り。たくさんの跳人たちが行列を作り、「ラッセーラッセー、ラッセーラ」と掛け声をあげながら、片足でぴんぴん跳ねて踊ります。右に左にと跳び上がる踊りはわりと単純なものですが、みんなでやるから、いやに迫力がある。
ねぶたは、絶対に参加しないとダメ!と聞いてきたのですが、しっかり統率が取れたグループには、飛び入り参加は難しいようです。それがちょっと残念でした。
こんなに威勢のいいねぶた祭ですが、起源はよくわかっていないそうです。一説に、中国から伝わった七夕祭の燈籠流しと、青森古来の精霊送りが融合したものではないかと言われているそうです。神を迎え、もてなし、お送りする。それにしても、「燈籠」にしては、ずいぶんとでっかいものですね。
このねぶた、昔は竹で骨組みを作り、和紙を貼っていましたが、今は、骨組みには針金を使っているそうです。だから、昔よりも、ずいぶんと複雑なフォルムができあがるのですね。制作日数も、5月、6月、7月と、約3ヶ月もかかるそうで、ねぶたっ子たちの心意気が伝わってくるようです。
最終日には、「ねぶた海上航行」もあります。賞をいただいたねぶた5台が、船に乗って青森港を航行するのです。遠くからかすかに聞こえるお囃子がだんだんと大きくなり、ねぶたの光も大きくなるにつれ、こちらの心臓もドキドキと鼓動を速めます。
その後ろでは、大きな花火。ねぶたと花火の取り合わせは、最高の演出です。
祭が終わって入った居酒屋では、現地の跳人たちに混じって、観光客も何組か見かけました。お隣は千葉、その隣は富山から。
千葉からのおじさんは、ほとんどひとりでJinroを一本空けていましたが、翌朝3時から、青森の名山・岩木山に登る予定だそうです。
いい気分のおじさん、よっぽどねぶたが気に入ったらしく、出がけに店内の跳人たちを巻き込んで大騒ぎ。
「ねぶた最高〜、青森最高〜、このお店最高〜!さあ、みなさんご一緒に〜!」
「ラッセー、ラッセー、ラッセーラ!」「ラッセー、ラッセー、ラッセーラ!」
青森のみなさん、素晴らしいお祭を、ほんとにありがとうございました!
それから、鈴をくれた女の子に、どうもありがとう!
追記:青森市のねぶた祭に加え、弘前市にもねぶた祭があります。ちょうど同じ時期、8月1日から7日に開催されます。こちらは「ねぷた」と呼ばれ、扇形のねぷたが使われます。青森のものに比べ、しっとりとしていて、「精霊送り」色の強いものだそうです。「青森に2泊するなら、一日は弘前に行ってみて」と、弘前出身の人に懇願されたくらい、とってもいい祭のようです。
次回はぜひ、弘前にも足を延ばしたいものです。東北4大祭も、あと3つ(仙台七夕、秋田竿燈、山形花笠まつり)も残っていますしね!
近況報告
- 2006年08月17日
- エッセイ
ここ2週間ほど、ご無沙汰しておりました。べつに病気をしていたわけではありません。日本に里帰りしていたのです。
真夏の日本は久しぶりだったのですが、ある意味、夏の日本ほど、独特の情緒がある季節はないかもしれませんね。夏祭りに花火大会、そして、蒸し暑さを引き立てるようなせみの声。
いいも悪いも全部ひっくるめて、とっても日本らしい季節です。
わざわざ一番暑い8月に戻ったのには、わけがありました。夏祭りの代表ともいえる、青森の「ねぶた祭」を見学するためだったのです。
初めて見るねぶたに、とっても満足して帰って来たのですが、そのお話は、また、フォトギャラリーのセクションでご紹介することにいたしましょう。
わたしは一年に2回、3回と日本に戻る生活をしていますが、毎回、アメリカに戻るときは、寂しい気分になるのです。
成田空港に向かう前、昼食を取っていると、ああ、これが日本で最後の食事だなあと思ってしまうし、成田エキスプレスに乗ろうと東京駅に向かうと、ああ、あと数時間しかいられないんだなあと実感してしまいます。
まわりにいる人たちが、それはそれはうらやましく感じるのです。ずっと日本にいられるなんていいなあって。
でも、2、3週間日本に滞在すると、アメリカに戻りたくなるのは確かです。アメリカがいいというわけではなくて、お家に帰りたくなるのですね。
おかしな話ですが、アメリカに向かう飛行機に乗ると、頭がパキッと切り替わるのがわかります。今まで、日本仕様の頭になっていたのが、突然、カリフォルニア仕様の頭に切り替わるのです。飛行機で一回寝て起きると、もう離陸前の寂しさは忘れているのですね。
どこに住んでいても、たまに訪れる場所はとっても楽しい。だからといって、そこにずっといたいわけでもない。自分の住み家は別の場所にあるから。引っ越したら、またそこが帰るべき場所になって、旅から戻るとホッとする心の拠り所となる。そんな感じなんでしょうか。
戻って来ると、シリコンバレーには、もう秋風のようなものも立ち始めていました。
ご存じの通り、7月の後半、カリフォルニアは猛暑に見舞われ、我が家の辺りなどは、摂氏40度の暑さが10日間も続きました。それを思うと、ずいぶんな変わりようです。
そんな風に吹かれていると、まだまだ続きそうな日本の蒸し暑さが、ちょっとなつかしくも感じます。肌を刺すようなカリフォルニアの太陽と比べると、日本の日差しはそんなに悪くはないんですよ。
それにしても、アメリカから日本への往復をすると、時差ボケがなかなか治りません。行くときはいいのですが、帰りはどっとくるのです。なんでも、西向きに旅するのは楽で、その逆は大変ということですが、確かに、それは当たっているのかもしれません。
そんなボケた頭ですが、これから、旅の写真などを掲載することにいたしますね。
追記:2枚目の写真は、東京・六本木にあるうどん屋さん「久徳」で見かけた生け花です。とっても風情のあるものですね。
アメリカのお盆フェスティバル
- 2006年07月31日
- フォトギャラリー
驚くなかれ、アメリカにも、お盆があるのです。
まあ、初盆の法要とかお墓参りだけじゃなくって、お盆が「フェスティバル」になっているのですね。
だから、アメリカ人の中には、「お盆」の意味を「お祭り」だと勘違いしている人もいるみたいです。だから、本当の意味を教えてあげると、ちょっとびっくり。
けれども、なんにしても、カリフォルニアの人にとっては、Obon(お盆)というのは、わりと親しみのある言葉なのですね。
自称「シリコンバレーの首都」サンノゼ市には、日本街(Japantown)があります。現在、アメリカ本土に残るたった3つの日本街のひとつです。
日系人の多いハワイを除くと、他には、サンフランシスコとロスアンジェルスにしか残っていません。
19世紀末から、それまで主流だった日本からハワイへの移住に加え、アメリカ本土への移住が増えてきました。そして、日本人が散らばった先で、次々と日本街ができていきました。アメリカ全土に、あちらこちら日本街があったといわれています。
ところが、第二次世界大戦を境に、日系人の分布は西海岸に固まるようになり、自然と、残る日本街は、カリフォルニアだけとなってしまいました。
日系人の歴史のお話は、また別の機会に譲ることといたしましょう。
こういった日本街や日系寺院がある街では、毎年7月から8月にかけて、数々の「お盆フェスティバル」が開かれるのですね。
サンフランシスコ・ベイエリアには、日系の仏教寺院(Buddhist temples)がたくさんあって、夏は、毎週のように、どこかでお盆フェスティバルをやっています。
サンノゼの日本街にも、西本願寺系の「別院」という立派なお寺があって、お盆の法要とお祭りは、大事な年中行事となっているのです。
勿論、目玉は、夜の盆踊り大会ですが、土曜日と日曜日両日にかけて開かれるフェスティバルでは、昼間っから、太鼓道場の演奏会や、ストリートフェスティバルなんかで盛り上がります。日本でいう、縁日みたいなものでしょうか。
ここサンノゼの日本街は、100年以上の歴史を誇り、サンノゼの街に深く溶け込んでいます。お祭りには、日系人だけではなく、近隣の街からもいろんな人種の人が遊びに来るのですね。
古くからのお店は、後継者不足で閉じたりしていますが、現在、日本街再建計画も進んでいて、ちょっとやそっとでは伝統は消えないのです。
縁日といえば、なんといっても、屋台。日本街の目抜き通りには、昔風の屋台が立ち並びます。
ここは子供たちの腕の見せどころ。ゲームは、昔っから伝わる、懐かしいものがほとんどです。輪投げ、ボール投げに、「金魚すくい」ならぬ、「アヒル釣り(Duck scoop)」。ゴム製アヒル(rubber ducky)を釣るんですね。
なつかしくなって、ピンポンボールをガラスの器に投げてみましたが、これがポンポン跳ねて、なかなか入らない。そういえば、昔、サンタクルーズのボードウォークの遊園地で、こんなゲームに夢中になっていましたっけ。ぬいぐるみが当たるのが、妙に嬉しかったんですね。
大人気は、かき氷。アメリカでは、shaved ice と呼ばれます。日本街の饅頭屋さんのかき氷は、毎年すごい人気。長〜い行列ができています。「おいしいかき氷が食べられるなら」と、暑い中、待つことをなんとも思ってないご様子。長い行列は、アメリカ名物ですね。かき氷の中身は、日本のものとほとんど同じで、赤や黄色と色とりどり。
かき氷といえば、アメリカでは、「マツモト Shave Ice」が有名ですね。サーフィンのメッカ、ハワイ・オアフ島のノースショア、ハレイワという街にある、昔ながらのかき氷屋さんです。ここのアイスクリームの入ったかき氷は、名物なんですよ。
フェスティバルといえば、やっぱり、食べ物。フードコートでは、天ぷら、チキン照り焼き、うどんなど、日本風のものが食べられます。今川焼きや饅頭も、毎年の定番です。
ちょっと残念なのは、たこ焼きや焼きそばがないこと。それから、焼きとうもろこしも。アメリカのとうもろこしは、ゆでたものばっかり。焼きとうもろこしって、日本だけの名物みたいですね。アメリカにだって、醤油はあるのに。どうして日系人に伝わっていないのか、ちょっと不思議。
夕方には、53年の歴史を誇る「ちどりバンド」の登場です。なにやら、おじいちゃん、おばあちゃんのバンドのような名前ですが、イージーリスニング系のムード音楽から、日本の演歌まで、レパートリーは豊富なようです。バンドの演奏に合わせ、ちゃんと日本語の演歌も披露されます。
実は、サンノゼのお盆フェスティバルでは、そのあとの大事な盆踊りを逃してしまったので、翌週、マウンテンビュー市のお寺のお盆フェスティバルに行ってきました。
こちらも、ゲームや食べ物の屋台、生花や植木の売店、フードコートと、形式はサンノゼに似ています。
おなかがすいたので、チキンサラダを食べてみました。見かけよりもおいしいのは、「元祖チキンラーメン」を砕いたのが上にのっているからでしょうか。わたしも、ハワイ在住の方から習ったことがありますが、チキンラーメンをベーコンビッツみたいに使うのですね。
サンノゼ同様、こちらでも、大人は、ビンゴに夢中。わたしたちも、盆踊りが始まるまでの30分、暇つぶしにやってみました。3つのボードで1回1ドルと、格安なのです。
手持ちの1ドル札がなくなるまで遊んでみましたが、お向かいの人は、続けて3回もビンゴを当てていました。景品は、お米に、卓上グリルに、缶切りマシーン。なんでも、一番端の6番テーブルは、毎年、ビンゴの確率が異常に高いとか。
いよいよ、お待ちかねの盆踊り。最初に、住職さんを先頭に、参加者みんなで行進です。人数が多いのに、ちょっとびっくり。勿論、日系人をはじめとして、アジア系が多いのは当然ですが、中には、白人の家族も浴衣やハッピを着て登場です。
河内の男節から始まって、ご当地音頭や民謡を、「ちどりバンド」が生演奏。「スキヤキ」というあだ名の「上を向いて歩こう」は、アメリカでも、たくさんの人が知っている旋律です。
地元のお師匠さんの振り付けなのか、花や扇子のあでやかな小道具を持って踊ります。みなさん、ちゃんとお稽古しているようで、歌のリズムに結構合っています。だけど、ちょっとぎこちない。
やっぱり、来年あたりは、日本人を代表して、わたくしも参加させてもらいましょうか!
いろんな人が遊びに来るお盆フェスティバル。カリフォルニアでは、しっかり市民権を得ています。
そして、どんな血が混じっているのか、ちょっと想像がつかない人もたくさん。白人とか、アジア人とかの区分けは、だんだん当てはまらなくなってきているようですね。
友達
- 2006年07月29日
- エッセイ
アメリカはとっても暑いようなので、どうぞご自愛くださいませと。
お恥ずかしい話、ごく最近まで、「ご自愛」という言葉をよく知らなかったんです。でも、考えてみると、自分のことを愛することだから、体を大事にねという意味なんですよね。
とっても美しい日本語。
英語で言うと、take care of yourselfというところでしょうか。日本語も英語も、結構、発想が似ていますよね。
それにしても、彼女だけじゃないんですね。カリフォルニアの猛暑の話を聞いて、大丈夫かって心配してくれたのは。
お友達ってうれしいです。どこかに、気にかけてくれる人がいるんですね。
お友達って、いろんなきっかけで知り合いますが、わたしの一番新しいお友達は、ラスヴェガスでお会いしたおじ様たちでしょうか。
フォトギャラリーのセクションで「いざ、ラスヴェガスへ!」という作品に登場なさった、日本から参加のおじ様たちです。(まだご覧になっていない方は、こちらです。)
まあ、こっちは勝手に「おじ様」とか「お友達」とか呼んでいますが、おふたりとも、業界では名を知られた、偉い方々のようです。
ごく最近、会長さんに退かれた方は、NHKのビジネス番組にフィーチャーされておられました。
なんでも、最近は外国人の株主が増えたそうで、そういった金融機関の後ろに隠れた、見えない個人投資家が、かなり厄介なのだそうです。株主総会を開くと、相手がどういう対応をしてくるか予測がつかないので、対策に難儀するとか。
ラスヴェガスでお会いしたときは、ワイワイと一緒に楽しんでいたので、そんなことは微塵(みじん)も感じませんでしたが、おじ様たちにも、いろいろとご苦労がおありなのですね。
「おじ様」のお友達といえば、わたしが勤めていたコンピュータ会社の重役も、わたしにとっては、「お友達」だったんです。
フロリダに住んでいた頃、初めてお会いしたのですが、当時、そのおじ様は、本国のアメリカと、日本支社の重役と、両方を兼任されていたのですね。
まあ、肩書きを見ると、とっても偉そうで、近寄りがたい感じですが、わたしにとっては、初対面の印象が強烈で。
彼はお遊びの勝負事が大好きで、誰かさんのリビングルームで、ホールに見立てたティッシュペーパーに向かって、必死にパットを打っていたという、ほほえましい光景。これが、結構、盛り上がる!大のおとなが、入った、はずしたと、みんなで大騒ぎ。
その後、わたしもゴルフ仲間に入れてもらって、よくご一緒させていただきました。
でも、わたしがフロリダから帰るとき、戻る部署がなくて困っていたら、手を差し伸べてくれたのです。そういうお力は持っていらっしゃるんですね。
その後、一年間、このおじ様にお仕え申し上げていたのですが、さすがに、ひとりで重役室に入って、数字をご説明させていただいたときには、緊張しましたね。このときばかりは、「お友達」じゃないですからね。
けれども、ひとたび部屋を出ると、ガラッと変わるんです。わたしが足に大怪我をして松葉杖をついていたときなどは、会社のカフェテリアで、昼ごはんのトレーを運んでくれました。
まわりは、「おい、彼女、後ろに重役を従えてるぜ」みたいにざわついていましたが、ご本人は、そんなことは、まったく気にしないたち。
口数が少なく、殺し屋みたいにニヒルなお方ですが、根はとっても優しいのです。
普段、なかなか、世代を超えてお友達になることがないですが、いろんな人と付き合ってみると、今まで見えなかったものがひょっこり見えたりするんですね。
それは、やっぱり、相手の身になって世の中を見てみようとするからかもしれませんね。
遊び友達って、大事なんですね。
写真のご説明:カメレオンの噴水は、サンノゼの新名所、サンタナ・ロウ(Santana Row)というところのものです。観光名所「ウィンチェスター・ミステリーハウス」の道を隔てた反対側にあります。ここは、おしゃれなお店・レストランと集合住宅の融合した、新しいコンセプトでできた街並みなのです。
ゴルフ場の方は、シリコンバレー最南端、サン・マーティンという小さな街にあるゴルフ場です。これは、朝早く撮影したもので、ちょうど朝日に照らされた木々が、輝いています。
ラスヴェガスにて:カジノと海と砂漠
- 2006年07月28日
- 旅行
Vol. 84
さすがに、7月も終わりに近づくと、本格的な夏の到来です。7月4日の独立記念日の頃は、例年になく涼しいお天気でしたが、近頃は、連日熱波との闘いです。
こうなってくると、「暑い(hot)」なんて言葉じゃ表現しきれなくなって、「焼いている(baking)」とか、「料理している(cooking)」なんて単語が飛び交います。
The whole country is baking(国中、めちゃくちゃ暑いよ)とか、You must be cooking down there(そんな南で、あなた蒸し風呂状態でしょ)などと使います。
<クラップス談義>
さて、暑いわりに、シリコンバレーよりももっと暑い砂漠に行ってきました。ネヴァダ州のラスヴェガスです。
ここは、本当に砂漠の真ん中にできた街で、飛行機で上空を通ると、その不思議な地形がよくわかります。山を越えると、砂漠の中に、忽然と現れる街。中央にはピカピカのホテルが建ち並び、蜃気楼かと目を疑いたくなる光景。
最初にラスヴェガスを訪れたのは、20年以上も前のこと。その頃は、大型ホテルも数えるほどで、まわりは、ひたすら砂漠。
それを思うと、今の姿は、考えられないほどの変わりようです。住宅地も、どんどん巨大化しています。ラスヴェガスほど、人口増加の激しい街はないのです。
ラスヴェガスといえば、カジノ。ギャンブルをしない自分は、何のために行くのだろう?
そう思って出発したわりに、その晩、さっそくクラップス(craps)に挑戦!まあ、ご一緒した方々に勧められたからなんですけれどね。(写真は、クラップスではなく、スロットマシーンです。)
クラップス。このゲームは、ワイワイと楽しくやるゲーム。みんなで楕円のテーブルを囲み、ひとりが投げるサイコロの目に、一喜一憂する。力余って、サイコロが場外に飛び出すハプニングも。根が明るい西洋人には、クラップスは、よくマッチしているのですね。そういえば、かの有名な「007」など、映画にもよく出てくるような。
ルールは、わりと単純なのです。ひとりがサイコロふたつを同時に投げて、その目によって、勝ち負けが決まるというもの。自分がどこに賭けたかによって、勝ち負け引き分けが決まるので、ディーラーや他のプレーヤーとの対戦型ではありません。だから、ディーラーとも、まわりの人とも和気あいあいとした雰囲気が漂います。
楽しいわりに、ちょっとわかりにくいということで、苦手な方も多いと聞きます。そこで、僭越(せんえつ)ながら、ここでちょっとクラップスの基本をご説明させていただきたいと思います。
おおまかに言うと、ゲームは、フェーズ1とフェーズ2に分かれます。
まず、フェーズ1では、誰かがサイコロを振って、「場の目」を決めます。サイコロは常に2個使い、ふたつの目の合計で競います。目の可能性は、「2」から「12」ですね。
ここで、ゲームに参加したい人は、第1投が投げられる前に、パスライン(Pass Line)という外側の枠にチップを置き、参加の意思表示をします。
第1投が「7」か「11」なら、みんなその場で勝ち。配当をもらいます。「2」か「3」か「12」なら、その場で負け。賭け金は没収。それ以外の数字だと、その数が「場の目」となります。もし、「7」や「11」が出続けたら、他の数字が出るまで、フェーズ1は続きます(参加者は、その間ずっと勝ち続け)。
「場の目」が決まったところで、フェーズ2の始まりです。ディーラーは、「場の目」を表す「ポイント(Point)」という丸い目印を数字の上に置きます。
これ以降は、サイコロを投げて、1)「場の目」が出たら、パスラインと場の目に賭けた人の勝ち。そして、フェーズ1に戻る;2)「7」が出たら、フェーズ1とは逆に、みんな負け。ゲーム終了。フェーズ1に戻る;3)その他の目が出たら、その目に賭けていた人の勝ち。あとの人は影響なし。「場の目」か「7」が出るまで、フェーズ2は続く。サイコロは、「7」が出るまで、同じ人(シューター)が振り続ける。
要するに、フェーズ2では、「7」が出ると何もかもオジャンなので、みんな「7」が出ませんように!と願っているのです。だから、みんなの利害関係はぴったりと一致。参加者が一丸となって、テーブルに向かうのです。
まあ、厳密には、「7」が出て勝つような賭け方、ドントパス(Don’t Pass)などもありますが、これはみんなから白い目で見られる可能性があるので、避けたほうが無難なのですね。
ゲームの基本形はこんなものですが、それでは、賭け方は?
おおざっぱに言って、スタート時点のパスラインと、「6」と「8」に賭ければ、それで充分だそうです。
そして、補足的にカム(Come)。これは、第1投目を逃し、途中参加したい場合に使います。その次の目が、「7」か「11」なら、この人の勝ち。「2」か「3」か「12」なら負け。その他の数字なら、この人だけの「場の目」となり、ゲームは続行します(最初からパスラインにチップを置いた人でも、途中からカムに置くこともできます)。
あとは、パスラインのおまけとして、オッズ賭けというのがあります。追加して賭ける賭金のことです。これは配当がいいので、パスラインに置いたチップの2倍、3倍とたくさん賭けるのが一般的です。チップは、パスラインの枠のすぐ外に置きます(細かくいうと、オッズ賭けは、カムで置いたチップに追加することもできます)。
どうして、賭ける場所は、パスラインと「6」と「8」だけでいいのでしょうか?
まず、パスラインは、ゲームのスタート時点に置く場所ですね。フェーズ1、フェーズ2と進み、「場の目」か「7」が出るまで、パスラインのチップは置きっぱなしとなります。「場の目」が出ると、めでたく配当金を手にします。オッズ賭けなんかすると、労せず、配当金がたくさん入ってきます。
では、「6」と「8」は?これは、確率論から来ています。それ以外は、プレーヤーにとって、きわめて不利なのです。
サイコロをふたつ使って出る目は、「2」から「12」まで36通り。一番出易い目は、「7」。[1、6] [6、1] [2、5] [5、2] [3、4] [4、3]の6通りですね。確率は、実に、6分の1。一番出易いので、フェーズ2で「7」が出ると、負けとなるわけですね。
そして、次に出易いのが、「6」と「8」。それぞれ、5通りの出方があります。確率は36分の5。「7」が出る率は、「6」と「8」のそれぞれ1.2倍。たとえば、「4」と「10」に対する「7」の出現率は、2倍。それに比べると、「6」と「8」は、決して悪くはないのです。ある意味、「6」と「8」以外に賭けると、「7」が先に出そうで、危険きわまりないのですね。
というわけで、ざっくりと、おおざっぱにクラップスをご説明させてもらったわけですが、わたしはラスヴェガスで、まさに「ビギナーズラック」を経験してしまったのです。なんと、30分くらいサイコロを投げ続けていたのです。
6分の1の確率の「7」をうまく避け、おまけに「場の目」をバンバン出す。しかも、きわめて出難いゾロ目も織り交ぜながら、などという離れ業を披露したのです。みなさんから感謝されたのは、当然のこと。何度も拍手をいただきました。
ゾロ目に賭けることを、「ハードウェイ(Hard Ways)」などというのですが、「ここには賭けるな」というのが鉄則なんですね(注を参照)。でも、わたしが投げている間は、果敢にハードウェイに賭けている人もたくさんいたような。
初めてのクラップス体験。やっている間は、なにやらルールもわからず、いつの間にか終わってしまったという感じでした。けれども、こんなにワイワイと楽しいゲームなら、なにも毛嫌いすることもないかな、そう思い直した貴重な体験でした。
注:ハードウェイの賭け方は、[2、2] [3、3] [4、4] [5、5]の4通りあります。ゾロ目の出る確率は、それぞれ36分の1。出現率が低いわりに、ここは当たっても配当が悪いのです。儲けは、賭金の9倍しかありません。36倍とはいかないまでも、もうちょっとくれても良さそうなものなのに、そう思うので、多くの人はここには賭けません。
追記:これを書くにあたって、オンライン解説サイト「ミスターラスベガスのラスベガス大全・カジノ徹底解説」を参考にさせていただきました。「場の目」という訳語も、とてもわかり易いので、そのまま使わせていただきました。上記の記述に誤った箇所がありましたら、それはひとえに、筆者の理解不足によるものです。
それから、このときのラスヴェガス旅行の写真を、何枚か掲載しております。街の様子や、ラスヴェガス名物のショーの雰囲気などをご覧になれます。
<海・ざぶん>
このラスヴェガス旅行では、日本から来られた方々と現地で落ち合い、クラップスの手ほどきをしていただきました。おふた方とも、ハイテク企業を自ら築き上げたつわものなのです。
おふたりは、15年前、偶然ラスヴェガスで知り合い、以来、遊び友達を続けていらっしゃいます。クラップス・テーブルで出会ったくらいなので、お互いお遊びの勝負事が大好き。ラスヴェガスでクラップス同好会を楽しむだけでなく、日本でもゴルフに釣りに競馬と、行動をともにされることも多いとか。
おひとりは、最近、社長さんから会長さんに退かれ、もうおひと方は、会長職も退かれ、今は、財団理事長とNPO法人会長を務めていらっしゃいます。
この理事長さんには、今、情熱を傾けていらっしゃることがあります。子供たちに、水や海といったテーマを通し、自然や生命の大切さについて真剣に考えてもらいたい。次世代を担う子供たち。彼らが、これからの地球のあり方の鍵を握るのです。
4年前に、「海の祭典」の協賛事業として、小中学生から日本海をテーマに作文を募集したのがきっかけとなりました。これが、毎年の賞として発展していったのです。海が好きで、よく海に出かける理事長さん。思いついた名前は、「ざぶん賞」。波の「ザブン」と、文章の「ザ・文」をかけています。
初年度は、応募作品は400ほどでしたが、毎年、どんどん増えています。今では、海や水に関わることであれば、どんな視点の作品でもいいし、表現方法も、作文、童話、詩、手紙など、自由に選択できるようになっています。子供たちが、自分で考え、自分の言葉で表現するのなら、形にはこだわりません。
たとえば、こんな作品があります。2004年に「ざぶん環境賞」を受賞した、椎野彩夏さん(当時6年生)の作品です。
国語の授業で、先生が「わき水」について考えてみようというので、インターネットで調べてみると、京都の豆腐屋の話が書かれていた。京都の豆腐屋は、井戸水と良質の大豆が命。井戸水がなければ、この仕事は終わり。ところが、ここ数十年、京都ではわき水が涸れる被害が相次いでいる。水が涸れるのは、人災。京都の人たちは、対策を考えようと、調査を始めている。後悔する前に。
大人顔負けのしっかりした視点で、冷静に現状を捉えた作品で、わたしも思わず引き込まれてしまったほどでした。
水。意外と見落としがちなのが、資源としての水不足。これは、単に、ある年に水の量が足りないという話ではありません。井戸水、わき水など、地中の水が枯渇してきているということです。今まで農業が盛んだったところが、どんどん収穫が減ってきている。以前は深い泉だったところが、底が見えるほどに乾き、飲み水にも困り始める。
人の営みは、海までも枯渇させてしまいます。中央アジア・ウズベキスタンのアラール海。過去40年で、海は4割の面積に収縮し、かつて漁港で栄えた街は、水辺から140キロも内陸のゴーストタウンに。海に流れ込むアム・ダリア川の水が、綿花栽培のために吸い取られてしまったのです。
今の時代は、石油で殺し合いが起きる世の中。これからは、石油ではなく、水で殺し合いが起きるとも言われています。
そして、水の質。これは、永遠の人類の課題ともいえるもの。いまだに、世界中で約2割の人は、不純物や寄生虫やバクテリアいっぱいの水を飲んでいるのです。浄水手段が不十分で、多くの場合、飲み水が排泄物で汚染されているのです。
たとえば、水にO 157。これを飲んだ人は、病気になります。とくに、子供にとっては害も大きく、激しい下痢で死に至る場合もあります。後進国では、下痢はとてもシリアスなものです。毎年、2百万近くの子供たちが命を落としているのです。
「水がなければ、人は生きられない。しかも、きれいな水。きれいな水を確保することは、健康の第一歩」。これは、わたしの大学院時代の恩師の口癖でした。
この「ざぶん賞」には、大賞、環境賞、文化賞、特別賞、奨励賞と、いろんな賞が設けられています。そして、入賞した作品には、素敵な特典もついています。アーティストの挿絵がついたり、工芸作家の額や小箱で飾られたりと、美術品となって返ってくるのです。この心憎い計らいは、一生の思い出となるでしょう。 賞に漏れても、がっくりくることはありません。自然について真剣に考えているごほうびとして、「ざぶん大使認定証」を送ってもらえます。今後も、「ざぶん大使」として、誇りを持って活動していくようにと。
2006年度の締め切りは、9月11日です。海や自然が大好きで、文章に自信のある小中学生には、ぜひトライしてほしいものです!
<砂漠>
ラスヴェガスからシリコンバレーに戻る日、空港に向かうタクシーの運転手が、「今日は、114度(摂氏46度)もあるよ」と言っていました。たしかに、熱風で鼻孔が痛いのです。
サンノゼ空港に着いたとき、カリフォルニアに住んでいて、ほんとによかったと思ったものでした。
ところが、その翌日からどんどん気温が上がり始め、もう10日間ほど、摂氏40度前後の日々が続いています。「こんなことは今までなかった」と、サンノゼに57年間住むおばあちゃんは言います。
店では、エアコンや扇風機や氷が売り切れ、コミュニティセンターも普段よりも長く門戸を開いています。折悪しく停電にぶつかった住民は、安眠を得るため、安いモーテルに泊まったりしています。
カリフォルニア全体でも、連日の熱波が悪影響を及ぼし、これまでに60人ほどが亡くなったといいます。
しょせん、カリフォルニアも、砂漠に似た気候なのです。(写真は、シリコンバレー南東に位置するサンホアキン・バレーの農地です。灌漑施設を越えると、乾燥した大地が広がります。)
先日、我が家のあたりでも摂氏45度に達したのですが、さすがに40度を越えると、これは健康に関わるなと、自然と体を気遣うメカニズムが働きます。
必要以上に外に出ないとか、ちゃんと水を補給するとか、無理せずにエアコンを使うとか。こういうときは、電力不足に陥り易いので、心ある消費者としては節約してあげようと思うのですが、なんといっても、こっちの体の方が大事なのです。
ラスヴェガスで、砂漠の猛暑を体験したとき、ある話を何度も思い出していました。メキシコのある若者の話です。
彼はマティアスといいます。メキシコ南部のオアハカ州に生まれ、サポテカ族の血を引きます。 ある年の5月、マティアスはアメリカ国境近くの街に向かい、そこから歩いてアメリカ国内に入ることにしました。カリフォルニアで働こうと思って。
ご存じのとおり、メキシコからアメリカへは、不法に渡って来る労働者が後を絶ちません。正規の手続きでは、アメリカ政府の許可が下りないか、もしくは、何年も待つ必要があるためです。
そのわりに、アメリカ国内には、仕事はいくらでもあります。大規模な農地で野菜や果物を収穫したり、どんどん広がる宅地に家を建てたり。多くは、辛く、単純で、低賃金の仕事です。それでも、本国よりは、まとまった金になります。
昨年、ハリケーン・カトリーナで大打撃を受けたニューオーリンズでも、黒人系の住民が去ったあとは、ラテン系労働者が流入しています。街は、さまざまな有害物質で覆われ、とってもアメリカ国民がクリーンアップに携わるわけにはいかないからです。
マティアスの村でも、3月から9月までは、ほとんどの男たちがノルテ(北、すなわちアメリカ)で働きます。多くは、カリフォルニアで収穫の仕事に就くのです。村には、女たちが残り、子供の面倒を看ます。食料は自給自足ですが、住宅、衣服、教育のために稼がなければなりません。マティアスにも、妻とふたりの男の子がいるのです。
昔は、ノルテへ行くのは簡単でした。カリフォルニア州サンディエゴのあたりが、恰好の越境の地だったのです。ひとたびメキシコ・ティワナに入れば、それこそ、ひとっ飛びで、国境を越えられたのです(「ジャンプ」と呼ばれていたくらいです)。そこからバスやタクシーに乗って、どこへでも自由に雲隠れできました。
ところが、1994年のアメリカ政府の政策で、状況は一転します。「ゲートキーパー作戦」と呼ばれる、国境警備強化の政策です。いままで、簡単に通過できた地点はフェンスや警備隊で固められ、越境地点はだんだん東へ移動していきました。
東、つまり、砂漠地帯。現在、メキシコからの移入者は、多くがアリゾナ南西のソノラン砂漠を越えてやって来ます。
5月、マティアスは19歳の弟と、いとこと3人で、アリゾナの砂漠を越えるべく、歩き始めました。弟にとっては初めての体験でしたが、29歳のマティアスは、もう何度も渡っています。
砂漠へは、「コヨーテ」と呼ばれる道案内を立て、ひとり2ガロン(約7リットル)の水を持って向かいます。日中は暑すぎるので、歩くのは日が沈んでから昇るまで。朝の5時をまわると、木陰を探し、一日中じっとしています。
ところが、途中、マティアスは痙攣を起こし始め、意識も朦朧としてきます。水ももう残っていません。「もうちょっとだから、がんばって、お兄ちゃん」と呼びかける弟に、「何言ってるんだよ、僕たちは家にいるじゃないか」と、混濁した意識で返事をします。それでも、マティアスを抱え、ふたりは必死で歩き続けます。
街へ通じるハイウェイにようやく近づいたとき、マティアスは息を引き取りました。ハイウェイからわずか30メートルの地点で。3人が灼熱の中で歩いた距離は、50キロを越えていたそうです。
いつもは、暑くなる前、4月には国境を越えていました。ところが、その直前の冬、父親を助けようと、新しく挑戦したトウガラシが霜で全滅し、「コヨーテ」に支払う金をなかなか工面できなかったのです。
一周忌の儀式を盛大に終えたものの、家族はマティアスがまだ砂漠にさまよっていると信じています。母親は、マティアスが夢に現れ、こう言うのだといいます。「ママ、喉が渇いたよ。水はないかい」と。
アメリカ政府が国境を強化する反面、越境者の通り道に、水の容器や小型タンクを置く市民団体もあります。毎年、400人ほどが越境の途中で命を落とすといわれているのです。命を落とさないまでも、力尽き、市民団体のボランティアに警備隊への通報を請う人もいるそうです。そのほとんどは、メキシコか、メキシコを経由し中米諸国から来た人たちです。
国境のあちら側とこちら側。あちら側に生まれた人は、もっとましな生活を望み、こちら側に生まれた人は、今の生活を守ろうとする。たった一本の境界線が、人生を大きく変えてしまうのです。
追記:マティアスの話は、公共放送WGBHボストン制作"Frontier World, Mexico: A Death in the Desert"を参考にさせていただきました。
夏来 潤(なつき じゅん)
そこで、英語のレッスンはひと休みして、ちょっとおしゃべりをいたしましょう。
今年の4月、わたしの姪っ子が、中学校に入りました。中学からは、英語が始まります。だから、彼女はたいそう不安がっていました。
ある日、彼女のお母さんから、何かアドバイスをしてくださいと頼まれました。だから、姪にお手紙を書きました。
結果的には、ちょっと難しすぎて、彼女にはちんぷんかんぷんだったようですが、それは、最初からわかっていたことでした。だって、何も習っていないうちは、何を言われても、まったく想像がつかないから。
だから、わたしも、手紙の最後にこう書きました。今のうちは、何のことだかわからないけれど、あと何年かたって読み返したら、きっとわかるよって。
手紙には、こう書きました。英語をお勉強と思わないでねと。英語は、人が話す言葉なんだから、数学とかのお勉強とは違うんだって。
新しい文章を習ったら、できるだけそれを声に出して読んで、丸のまま覚えましょうって。
まあ、人によって、得手、不得手はありますが、文章をそのまま覚えれば、単語も自然に頭に入るし、文型もSVOCみたいな複雑な規則を意識しないで、自然に頭に入れることができます。
少なくとも、わたしには、このやり方が合っていました。
わたしは、中学校から英語を始めました。それまでは、「ABCの歌」くらいは知っていましたが、あとは何も知りませんでした。
だから、中学校に入ったとき、英語の授業がとっても新鮮で、一番好きな授業となりました。
幸い、1年生から3年生まで、素敵な女性の先生が一貫して受け持ってくれたので、余計に英語が好きになったのかもしれません。順子先生っていいました。発音のきれいな先生でした。
なぜだか、英語のお話なんかよりも、彼女が子供時代に過ごした寒い韓国のお話をよく覚えています。子供の頃は貧しくって、家の中に冷たい風が吹き込んでいたって。
わたしは、日本語でも英語でも、文章を書くのが大好きです。
子供の頃から、好きだったみたいです。小学校の頃、作文で褒められたことがありました。運動会のかけっこについて書いたのですが、「すぐうしろに、ハッハッと、誰かの息遣いが聞こえた」と表現したら、臨場感があって、非常によろしいと褒められたのです。
なんとなく、それが嬉しかったのか、ずうっと、いろんなことを書き綴っていました。学校の宿題なんかではなく、書きたいことを自由に書く、それがいいのかもしれませんね。
大学の頃、真面目な英語の試験がありました。2年生(sophomore)から3年生(junior)に進級するには、この試験を通らなければなりません。カリフォルニアの州立の大学は、これが義務となっていたのです。
試験科目は、数学と英語でしたが、数学に比べて、英語の難しいこと。文法と読解のセクションと、エッセイのセクションがありましたが、文法・読解の方が、いやに難しかったような記憶があります。
きっと、この試験をパスできたのも、エッセイがあったからかもしれません。
実は、試験の前日、一番怖かったのがエッセイでした。だって、こんな噂が流れていたからです。「去年のエッセイの課題は、メディテーション(瞑想、meditation)だったらしいぜ」。
え、瞑想なんて、やったことないのに・・・
幸い、実際のエッセイの課題は、もうちょっと現実的なもので、「なぁ~んだ」と拍子抜けしたくらいでした。だから、比較的すいすいと書けたのかもしれません。
拍子抜けしたついでに、課題がいったい何だったかは、今ではまったく覚えがありません。
似たような、恐怖の英語の試験を、もう一度体験しました。フロリダ州で、大学院に入る前です。
アメリカの大学や大学院に入るには、全国共通テストを受けるのが習わしとなっていますが、わたしの学科では、GRE(Graduate Record Examination)という大学院の試験が必須でした。
GREは、言葉(verbal、英語のテスト)、数量(quantitative、数学のテスト)、そして、分析的記述(analytical writing、エッセイテスト)の3つに分かれています。
エッセイはおまけみたいなもので、結果は、英語と数学の点数となって表れます。(写真は、GREの教則本です。いまだに、後生大事に持っています。)
まあ、日本人ですから、結果は、アメリカ人とはまったく逆のパターンとなります。英語の悪さを、数学で救うというパターン。
だいたい、平均的に英語600点対数学400点とすると、わたしのは、300点対700点といった感じ。
なんといっても、驚いたのが、英語の難しさ。類似語探しの単語なんて、ほとんど聞いたこともありませんでした。「まったく、歯が立たない」というのは、こういうことを言うんですね。
わたしは大学を出たあと、一旦日本で外資系コンピュータ会社に入ったのですが、そのとき受けたTOEICという試験では、900点を越えていました。これは、わりといい点数なんですね。けれども、そんなことは、まったく関係がありませんでしたね。
このときも、エッセイのテストで救われたような気がしてなりません。それから、「来る者は拒まず」という態度の学校にも。
そして、そのときから、開き直ったのです。
どうせわたしは、ネイティヴスピーカーじゃないんだから。アメリカ人のように、英語がうまくなくて当然なんだって。
ちょっとボ~ッとして見えても、あちらは、生まれた頃から英語をやってるアメリカ人。かなうわけないじゃないって。
それよりも、これだけ英語ができることを誇りに思おうって。そして、アメリカ人に褒めてもらおうって。
まあ、カリフォルニアに生活していると、アジア系アメリカ人が多いせいで、「自分も早く、アジア系アメリカ人のようにならなくっちゃ!」と、妙なあせりを感じてしまうのです。
けれども、フロリダで過ごした日々は、そうじゃないんだよって教えてくれたような気がします。
あせらなくっても、いいんだよって。
カリフォルニアの州都
- 2006年07月19日
- Life in California, アメリカ編, 歴史・習慣
ここでちょっと、クイズをどうぞ。
カリフォルニアの州都って、いったいどこでしょう?
港で有名なサンフランシスコ?
ダントツに人口の多いロスアンジェルス?
それとも、海軍学校のまわりに金持ちさんが集まるサンディエゴ?
さあ、答えは ・・・
サクラメント(Sacramento)ですね。
すでにご存じの方には、つまらないクイズで、ごめんなさい。
サクラメントという街は、サンフランシスコから北東へ120キロほど離れた内陸にあります。インターステート80号線を使って、約2時間というところでしょうか。
サンフランシスコ・ベイエリアからは、スキー場やボート遊びで人気の、タホ湖(Lake Tahoe)に向かう途中にあります。
写真の地図では、右上に、赤い文字でSacramentoと書かれている場所です。
州都なので、サクラメントには州議会の議事堂なんかもあります。けれども、街自体はこぢんまりとしたもので、繁華街のすぐ外には、静かな住宅街が広がります。
歴史を感じる古いダウンタウン地区には、その昔、サクラメント川で大事な足として使われていた蒸気船が停泊したりしています。
このサクラメント川は、カリフォルニアで一番長い川で、北のキャスケイド山脈から、えんえんと、サンフランシスコ湾まで続いているのですね。人や物を運ぶのにも重宝したのです。
州都の近くには、カリフォルニア大学デイヴィス校(University of California, Davis)もあります。昔っから農学部で有名な学校です。
このサクラメントの内陸部は、川が入り組む肥沃なデルタ地帯なので、昔から農業が盛んなところでした。
カリフォルニアの台所的な存在で、中国系移民や日系移民も多く定住したところです。
そこで、ここに大学を置いたのですね。今まで、品種改良などの最先端の研究で、農業やワイン作りの盛んなカリフォルニアを支えてきました。
今では、この大学は、医学部やエンジニアリング、バイオサイエンスでも有名なんですね。
さて、カリフォルニアの州都がわかったところで、もうちょっとクイズいきましょう。
フロリダの州都はどこでしょう?
ディズニーワールドがあるオーランドではありませんよ。
ニューヨークは?
マンハッタン島のニューヨーク市ではないんですね。
じゃあ、ルイジアナは?
昨年ハリケーン・カトリーナで甚大な被害を受けた、ジャズ発祥の地、ニューオーリンズ?いえいえ、そうじゃないんですね。
ついでに、ロードアイランドは?
そんなのは、州すら聞いたことない?
そう考えると、アメリカって、知らない街がわんさかあるのですね。
というよりも、州すら、どこにあるかわからなかったりして・・・
ウェストヴァージニアってどこだっけ?サウスダコタって?
そうやって、各州の州都当てクイズなんかすると、実感するんですねぇ。アメリカって、ほんとに大きいんだなぁって。
クイズの答え: フロリダの州都は、タラハシー(Tallahassee)です。ニューヨークは、アルバニー(Albany)。ルイジアナは、バトンルージュ(Baton Rouge)。そして、ロードアイランドは、プロヴィデンス(Providence)という街だそうです。
白状いたしますと、わたしはフロリダに住んでいたことがあるので、タラハシーだけはわかっていました。でも、あとはまったくダメ。
ちなみに、ウェストヴァージニアの州都は、チャールストン(Charleston)。サウスダコタは、Pierre だそうです。これってピエールと読むのでしょうか?
それから、サクラメントの写真は、サンノゼ・マーキュリー新聞に掲載されていたものです。
サクラメントに行ったのは、もう10年ほど前のこと。その頃は、まだデジタルカメラではありませんでした。
いざ、ラスヴェガスへ!
- 2006年07月18日
- フォトギャラリー
ラスヴェガスに行ってきました!ご存じ、ネヴァダ州にあるカジノの街です。
この旅は、ホントに楽しかった!そして、そんな感想を持つなんて、わたしにとっては大きな驚きだったんですね。
だって、ラスヴェガスに着いたときは、「この街は世界で一番嫌いな街」と思っていたのですから。すべてが作り物の、カジノの街。まるで、砂漠の蜃気楼。
ラスヴェガスに来るのは、かれこれ5回目になります。最初にこの街に来たのは、20年以上前のこと。その頃は、大型ホテルは数えるほどで、一番きらびやかだったシーザス・パレス(Caesars Palace)のまわりは、まだ砂漠でした。
なんとなく、カジノの華々しい雰囲気が気に入り、自分もネヴァダ大学ラスヴェガス校(University of Nevada, Las Vegas)に入って、ディーラーになる勉強をしようかなと思ったほどです。
でも、いつの頃からか、カジノが大嫌いになって、ギャンブルはまったくしない主義になりました。ちょうど、自分で稼ぐようになってからかもしれませんね。スロットマシーンすら毛嫌いしていました。
まあ、ラスヴェガスは、ハイテク企業にとって最大のショーが開かれる場所なので、まったく無縁でいるわけにはいかない場所です。ですから、今までは、仕方なく来るっていう感じだったんですね。
けれども、今回は、まったく違ったんです。とっても楽しかった。それはひとえに、日本から参加された方々のお陰かもしれません。
この旅は、ハイテク企業を一代で築き上げたおじ様たちが、ご一緒だったのです。おひとりは、すでに引退され、おひとりは、ごく最近、会長さんに退かれた方でした。
おふたりは、15年前、偶然ラスヴェガスのカジノで知り合い、以来、大事な遊び友達を続けていらっしゃるそうです。カジノにゴルフ、マージャンに釣り、と趣味がぴったり。おふたりとも、仕事も遊びもプロなんですね。
その方々に勧められて、生まれて初めて「クラップス(craps)」なるゲームをしました。よく映画なんかに出てくるゲームなのですが、みんなでテーブルを囲み、ひとりがサイコロを投げて賭け事が進むという、ワイワイとした楽しいお遊びです。
「ビギナーズ・ラック(beginner’s luck)」って言葉がありますよね。まさに、それだったんです。わたしがサイコロを投げると、当たる、当たる。30分くらいは投げ続けていました。普通はあんまり出ない「ぞろ目」なんかもたくさん出て、そこに賭けている方々から、とっても感謝されていました。
なんでも、ひとりが30分も投げ続ける事は、あんまりないそうですが、わたしが投げ終わると、みんなから拍手がわき起こりました。「よくやったぞ!」って。
幸い、3泊4日で通算すると、持って行ったお金は無事でした。きっと宿泊していたシーザス・パレスのカジノが、相性がいいのかもしれませんね(そういうのって、あるらしいですよ)。
そして、無理な賭け方はしないこと。数学の確率論に従い、当たる率の高いところに地道に賭ける。連れ合いに言わせると、それが基本だそうです。おじ様たちも、そうやって、楽しく安全に遊んでいましたもの。そして、何よりも、楽しむこと。
ラスヴェガスといえば、また、ショーを楽しむ場所でもありますよね。
わたしは、今回、シルク・ドゥ・ソレイユのショーをふたつ観ました。MGMホテル常設の「カー(Ka)」と、ミラージュの「ラブ(Love)」です。
「ラブ」は、7月上旬に始まったばかりの新しいショーで、ビートルズの歌に合わせて繰り広げられる、楽しいショーです。これまでのシルク・ドゥ・ソレイユのショーとは、一味違った仕上がりとなっています。
独立記念日の週末の初演には、ポール・マッカトニーとリンゴ・スターの元メンバー、ジョン・レノンとジョージ・ハリソンの未亡人のオノ・ヨーコとオリヴィア・ハリソン、そして、ジョン・レノンの先妻シンシアと息子のジュリアンも招かれたそうです。
もともと、ビートルズの音楽って、サーカスっぽい歌もたくさんありますよね。だから、ラスヴェガスのショーにも、ぴったりの音楽となっています。
たとえば、「ミスター・カイト(Being For The Benefit Of Mr. Kite)」。これは、1840、50年代に、ヨーロッパで活躍した実在のサーカスを題材にした歌ですし、にぎやかな「サージェント・ペッパー(Sgt. Pepper’s Lonely Hearts Club Band)」は、自分たちを投影した「ペッパー軍曹のバンド」を歌ったものですね。
初期の頃の「シャウト!(Shout)」や「抱きしめたい(I Want To Hold Your Hand)」は、ロックンロールのリズムで華やかにオープニングを飾ってくれるし、「ルーシー・イン・ザ・スカイ(Lucy In The Sky With Diamonds)」や「ストロベリー・フィールズ(Strawberry Fields Forever)」のスローな曲は、不思議な、サイケデリックな、シルク・ドゥ・ソレイユ独特の雰囲気をかもし出してくれます。
リンゴ・スター作の「オクトパス・ガーデン(Octopus’s Garden)」や、ジョージ・ハリソン作の「ヒア・カムズ・ザ・サン(Here Comes The Sun)」も、楽しさと、さわやかさといった、独特の味を出しています。
ショーの締めくくりは、「ラブ(All You Need Is Love)」。「あなたに必要なのは、愛だけ」という歌詞の通り、これは、ショーの制作に携わった人たちの真摯な願いなのかもしれませんね。みんなの上に舞い降りる赤い紙吹雪も、とってもきれい。
このショーを観て痛感したのですが、ビートルズの音楽ほど、歌詞をよく知っているものはありませんね。さすが、ビートルズは不滅なのです。
もしラスヴェガスに行かれることがあったら、「ラブ」はお勧めですよ!
カジノにショーにショッピング。誰にでも、何かしら好きなことを見つけられる。最近のラスヴェガスは、そういった家族向けのリゾート地になっているんですね。
追記: シルク・ドゥ・ソレイユのファンの方のために。現在、ラスヴェガスで常設されているショーは、5つになりました。
ご紹介したミラージュの「ラブ」、トレジャー・アイランドの「ミステア(Mystere)」、ベラジオの「オー(O)」、MGMグランドの「カー(Ka)」、それから、ニューヨーク・ニューヨークの「ズーマニティー(Zumanity)」です。最後のズーマニティーは大人向けですので、家族連れの方は、お気を付けください。
ワインとアートのフェスティバル
- 2006年07月11日
- フォトギャラリー
7月ともなると、北カリフォルニアの夏は全開!各地で、さまざまなフェスティバルが開かれます。
中でも、独立記念日の花火のように各都市で開かれるのが、ワインとアートのストリート・フェスティバル。ワインの名産地カリフォルニアならではのイベントです。
ワインとアートのフェスティバルは、シリコンバレーだけではなく、あちらこちらで開かれます。
サンフランシスコや、ゴールデンゲート橋を渡った先のサウサリート、シリコンバレーから南へ1時間のモントレー・カーメル。そして、ぶどうの産地の、ナパやソノマ。サンフランシスコのフィルモア通りでは、ジャズ演奏も楽しめたりと、フェスティバルごとの味があるのですね。
こういったストリート・フェスティバルは、入場料なんて取らないのが普通です。
さて、お祝い気分も続く独立記念日の週末、シリコンバレーのロスアルトス市(Los Altos)で、アート&ワイン・フェスティバルが開かれました。
ダウンタウンの主な通りは通行止めとなり、近隣のワイナリーや、フリーで活動しているアーティストたちが、ここぞとばかりに出店を連ねます。
我が家も、以前は毎年のように、こういったワインとアートのフェスティバルに出向いていました。
とくに、6月に開かれるサニーヴェイル市(Sunnyvale)のアート・フェストは、かなり大掛かりなもので、ワイナリーも何十軒と出店します。ハイテク企業のAMD(コンピュータ・プロセッサの会社)のボランティアが、記念にポラロイド写真を撮ってくれて、簡単なフォトフレームで手渡してくれたりもします。それが楽しみで、毎年足繁く通っていたものでした。
ところが、いつの頃からか、ぱったり。ちょっと飽きてしまったのですね。アーティストの顔ぶれも、毎年似たようなものですし。
こういったアーティストは、シーズンごとに各州をまわっているようです。まるで、寅さんみたいに。
けれども、今回のロスアルトスのフェスティバルは、何年かのブランクの後だったので、新鮮でした。アーティストの顔ぶれもだいぶ変わっているし、斬新なアイデアのアートもあります。
ワインのびんを押しつぶして、チーズ用のカットボードに。これなんか初めて見ましたが、なかなかおもしろいアイデアです。
絵もたくさん出品されています。とってもカラフルな楽しいヨーロッパの風景画もありましたし、中国人の夫婦が刺繍で作る写実的な絵もありました。ピンクの混じった稲穂の刺繍はすごく気に入りましたが、550ドル(6万円ちょっと)。思ったよりも高いので断念しました。
なんといっても、こういったアート・フェスティバルは、わたしにとっては目の毒。いろんなものが欲しくなってしまいます。でも、連れ合いに言わせれば、「こまごまと、家の中で邪魔になるものばっかり」。結局、この日は、なんにも買いませんでした。
連れ合いの関心は、もっぱら飲み物。照り付ける太陽に、のどが渇いたと、まずはビール。「ワインとアートのフェスティバル」という名前ですが、ここではビールやマルガリータも手に入るのです。
まずは、グラスを売ってあるブースへ。ひとつ5ドルのグラスを購入します。ビールジョッキか、ワイングラスの選択があるのです。
このとき、運転免許証などの身分証明書が必要なので要注意。カリフォルニア州は、21歳以上に飲酒が許可されていますが、全員の年齢をチェックし、許可された人には、紙のリストバンドが付けられます(若くても、おじいちゃんでも、全員をチェックするのが規則だそうです。チェックされて嬉しい人もいるかも!)。
グラスをゲットしたら、お好きなブースへどうぞ。ワイナリーやビール醸造所のブースで語らうのも、こういったフェスティバルの醍醐味ですね。
勿論、食べ物もあります。アメリカ人から食べ物を取り上げたら、なんの楽しみも残りませんからね。
チキン照り焼きに串焼きのカバブ。とうもろこしにタコスと、バライエティーに富んだ店構え。近くの有名な中華料理屋さんもテントを出しています。
メインステージでは、ハードロックのコンサート。まわりには、テーブルとパラソルも置かれ、舌鼓を打ちながら、ロックを楽しみます。
一方、近くの公園では、小型のコンサート。ギター片手に、おじさんがジョン・デンバー風の素朴な歌をご披露します。
フェスティバルには、ミュージシャンも出店していて、演奏をしながら、自分のCDを売っています。
ロスアルトス市は、閑静な住宅街です。街角には小さな果樹園も残ります。アートにも力を入れていて、街のあちらこちらにオブジェが置かれたりしています。
ダウンタウンには、昔ながらのモールがあって、古くからの洋服屋さんやレストランが並びます。最近は、チェーン店の波も押し寄せているようですが、それでも、個人経営のお店もまだまだ健在。
アーティストやワイナリーを楽しむストリート・フェスティバル。出店だけではなく、そういった街の雰囲気を楽しめる特典もあるのですね。
独立記念日のバーベキュー
- 2006年07月07日
- フォトギャラリー
独立記念日といえば、やっぱりバーベキュー。7月4日前後には、どの家でも、必ずバーベキューがメニューに加わります。
日頃アメリカのバーベキューといえば、ハンバーガーやホットドッグが定番。でも、ホットドッグはソーセージを焼くだけだし、ハンバーガーだって、挽肉をどんと丸めて売ってあったりします。「簡単」なのが、バーベキューの代名詞。凝った日本のバーベキューとは、ちょっとイメージが違うんですね。
でも、この独立記念の日には、さすがに、代々伝わる秘伝のバーベキューソースなんかも出番なのです。
我が家でも、独立記念日の前夜は、裏庭でバーベキュー。庭のバーベキューグリルに、久しぶりに火が入ります。
雨季の間、ここは虫たちの恰好の避難所。いざガス栓を開けてみると、着火場所にクモの巣がかかって、うまくつきません。ようやくマッチで着火!
ここで登場は、前の晩から漬け込んでおいたお肉。バーベキューに最適な、子豚のあばら肉(baby-back pork ribs)を使いました。子豚は肉がやわらかで、とっても食べやすいのですね。
バーベキューソースは、ノースキャロライナ州出身の人から教わった秘伝のソース。ノースキャロライナといえば、子豚の丸焼きで有名な所なのですね。見た目はちょっとグロテスクだけれど、ゆっくり丸焼きにした肉は、とってもおいしいそうです。
我が家のバーベキューソースは、作るのも簡単!
まずは、ケチャップ。その半分の量のハチミツ。そして、その半分の量のしょう油。これを混ぜ合わせ、ニンニクを刻んだものを入れます。これで完了。
あばら肉は、普通の豚の場合は、先にゆでて脂を落としますが、子豚の場合は、そのまま漬け込むだけ。あとは、焼くのみ。
この日は、ちょっと火加減が強すぎて、裏側が焦げ付いてしまいましたが、普通は、ひっくり返すこともなく、両面きれいに焼けるものなのです。
隣には、焼き鳥がお邪魔しています。
バーベキューソースは、再利用できるんですよ。さっそくその晩、鶏のもも肉を漬け込んで、2日後にオーブンで焼いてみました。
連れ合いが工夫した焼き方で、オーブンでも立派に焼けました。なかなかの美味です。ペーパークリップで肉を吊っただけなのに、焦げずにきれいな仕上がり。
その晩は、とうもろこしが脇役でした。独立記念日の翌日、店を開けたスーパーには、朝摘みのとうもろこしが山積み。アメリカにしては珍しく、味の深いおいしいとうもろこしなのでした。
あ、そうそう、裏庭のバーベキューでは、我が家の特製サラダも登場。名付けて「インディペンデンス(独立)サラダ」。
なぜ独立記念かって、星条旗の赤と青と白が入ってるでしょ。(やっつけ仕事で見た目は悪いですが、味は普通なんですよ。)
この日のワインは、イタリア産の白。ピノ・グリージョ(Pinot Grigio)というぶどうの種類で、「Gavi」というワイン。さりげない、軽めのワインです。
天気はいいし、たまに裏庭で食べるのも、気分転換になりますね。
でも、この日はあんまり暑くなかったので、夜7時をまわると、途端に肌寒くなってきました。例年、独立記念日は、とっても暑いのに。
こういうときだけは、もうちょっと暑くてもいいのにな・・・とは、わがままな感想ですね。