Language barrier (言葉の壁)

アメリカに住んでいて、言葉が一番不自由だと感じるのはどこでしょうか。

人によって事情は違うでしょうが、わたしにとっては、学校でも病院でもありません。アメリカの学校には何年か通ったし、医学論文だってちょっとなら読めます。並みのアメリカ人よりも、よほど専門用語を知っているかもしれません。

けれども、これだけは苦手なのです。髪の毛を切ることです。やっぱり日本人の美容師さんじゃないといやなのです。

そのわりに、アメリカには日本人の美容師さんが少ないので、気に入る人を探すのにひと苦労。


今までいろんな日本人の美容師さんにやってもらいました。シリコンバレーのサンノゼに、仲良しの美容師さんができましたが、彼女はアメリカでトレーニングを受けたので、ある意味で、アメリカ人の美容師さんのようでもあります。

サンフランシスコのジャパンタウン(日本街)まで通って、若い人にやってもらったことがあります。残念ながら、ちょっと技術不足な気もしました。

サンフランシスコのユニオンスクウェアを見下ろす美容室で、店を構えるオーナーにもやってもらいました。楽しいゲイの男性で、ベイエリアの日本人コミュニティーではちょっと有名な方です。
 「あらぁ、あなたは短いほうが似合うわよ~」と言いながら、じゃんじゃん切られてしまいました。その後、迎えに来てくれた連れ合いの愕然(がくぜん)とした顔を、今でも忘れられません。


そこで、サンノゼのおしゃれなショッピングモールにある美容室に電話をしてみました。日本で「カリスマ美容師」と呼ばれていた方がいらっしゃって、値段が高いのにもかかわらず、なかなか予約が取れないと聞きます。一度、予約をトライしましたが、2ヶ月先と言われ、断念したこともあります。

電話を取った若い男性に、こう尋ねてみました。
I’d like to make an appointment with S(Sさんの予約を取りたいんですけど)”

すると、彼はこう答えます。
Oh, it’s been quite a while since he had left(あ~、彼が辞めてだいぶたちますよ)”

どうも、この男性が勤め始める前にSさんは店を辞めてしまったそうで、どこに行ったのかも知らないと言うのです。
 
 ここであきらめてはいけないと、こう質問しました。
Is there any Japanese hairdresser there?(そちらに、日本人の美容師さんはいらっしゃる?)”

答えはノーでしたが、みんな自分たちの流儀のトレーニングをちゃんと受けているので、うまいよと宣伝します。

う~んと、こちらが即答を渋っていると、彼はこう聞いてきたのでした。

Is this more of a language barrier?(これって、どちらかというと、言葉の障壁ってことですか?)”

barrierは柵とか障壁とかいう意味で、language barrierは「言葉の壁」という意味ですね。ここでmore of ~と言っているのは、「どちらかというと」といったニュアンスです。)


彼にしてみれば、自分から予約をお願いしておきながら、予約を渋っているのは、何か事情があると思ったに違いありません。自分たちのスタッフは、技術的には何の支障もないという自負もあるでしょうから。

そこで、わたしはこう答えました。
Yeah, for me it’s easier to talk to a Japanese hairdresser(そうなの、わたしにとっては日本人の美容師さんと話す方が簡単だから)”

そして、“Let me think about it(ちょっと考えさせてちょうだい)”と、この場を一旦逃げることにしました。

(最後のitは、一連のやりとり全体を指します。Let me ~というのは、よく使う文型で、「わたしに~をさせてちょうだい」という意味ですね。)


まあ、この場は、お店の人の気分をそこねることなく、うまく切り抜けたわけですが、ふと考えてしまいました。自分は本当に日本人の美容師さんじゃないといけないんだろうかと。

冷静になって考えてみると、どこへ行くにも、基本的な単語がわかっていれば、それを繋げればいいはずです。たとえば、美容室だったらこんなもの。

カットはhaircut、パーマはperm。前髪はbangs、髪を分けるはpart the hair、カールはcurlで、ボリュームはbody。段をつけるのはlayered hairで、どこかを隠したいんだったらcomb over

スターバックスにだって、コーヒーの種類だけではなく、どの大きさだとか、どんな牛乳にするだとか、それなりの専門用語はあるわけです。「言葉の障壁」というよりも、単に、慣れの問題なのかもしれません。

けれども、別のわたしはこう言うのです。言葉だけの問題ではないよと。日本人の髪の質や好みを知っているのは、日本人の美容師さんだけだよと。


そんなわけで、最近はもっぱら、日本に戻ったとき東京で髪をやってもらうことにしているのです。少なくとも3ヶ月は髪の毛を切れないわけですが、行きつけの美容師さんなので、3ヶ月くらいはもつ髪にしてくれます。

数年来の付き合いの彼は、過去の髪型を細かく覚えていて、「今回はちょっと前髪を変えてみましょう」などと、こちらが何を言うまでもなく、全部おまかせできるのです。

日本に行くたびに、「結婚式だから」とか「久しぶりにお正月を」とか「桜を愛でに」などと理由を付けるのですが、その実、髪の毛をやってもらいに足繁く日本に通うようなものなのですね。

次回は、いったいいつ行けるかなあ、と考えているところです。

追記:写真のこけしは、群馬県在住の創作こけし作家、宮下はじめ氏の作品です。

サッカーフィーバー

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ワールドカップサッカーが間近に迫り、世界中で大騒ですね。

サッカーがヨーロッパほど盛んでないアメリカでも、さすがに、スポーツチャンネルでは、自国の親善試合を中継したりしています。

今回の大会はドイツが開催地ということで、先日ヨーロッパに行ったわたしは、あちらの盛り上がりぶりを肌で感じてきました。

とくに、利用した飛行機が、ドイツのルフトハンザ航空だったので、彼らのフィーバーぶりをじっくりと感じさせられました。

まずは、サンフランシスコ空港からフランクフルトに向かう飛行機。飛行機のお鼻の部分が、かわいくサッカーボールに塗られています。

そして、チケット。搭乗券には、サッカーボールのお鼻の飛行機が、きちんと印刷されています。ルフトハンザの時刻表もそう。表紙には、ちゃっかりサッカーボールが。

空港もそうです。アテネ空港で、パリに行こうとチェックインしたら、カウンターの絨毯はサッカーフィールドみたいに緑です。

途中、乗り継いだミュンヘン空港なんて、もう大騒ぎ。ワールドカップグッズを売るキオスクはあるわ、売店にはマスコットだの絵葉書だの、関連商品が所狭しと並んでいるわ。つられて、絵葉書を買ってしまいました。
おまけに、サッカーボールみたいな透明な吊り椅子まで置かれ、ムードを盛り上げています。わたしも座ってみたかったけれど、誰かに先を越されてしまいました。まるで席取りゲーム状態です。
ミュンヘンは開催地のひとつだから、盛り上がるのもしょうがないか。

サンフランシスコへ戻る飛行機の中。こちらも力が入っています。どうだ!と言わんばかりに、デザートがすべてサッカーのモチーフ。
わたしの食べたデザートなんか、なかなか芸術的にサッカーフィールドを表現しています。実は、この緑のフィールドの部分、ちゃんと食べられるんですよ。砂糖菓子みたいなものでした。
ついでに、サッカーボール型のチョコレートまで、おみやげにいただいちゃいました。ルフトハンザさん、ありがとう!

開幕まで、あと1週間ほど。きっと、現地のドイツはもう大騒ぎなんだろうな。

スタジアムで応援はできないけれど、日本代表、がんばれ!

ギリシャ:エーゲ海に初挑戦

Vol. 82

ギリシャ:エーゲ海に初挑戦

日本ではゴールデンウィークが終わったばかりの5月上旬、2週間ほどギリシャに行ってきました。ギリシャは初めてでしたが、それゆえに、強い印象を受けて帰って来たのでした。 先月に引き続き、旅行記となってしまいますが、今回は、ギリシャの旅のお話にいたしましょう。

<首都アテネ>
今年のギリシャは、例年よりもちょっと肌寒いようです。もう5月というのに、摂氏20度を少し越えるほどでした。暖かい春を期待していたので、ちょっと予想外。
それでも、雨に降られることはなく、ひとたび雲が去り太陽が照り付けると、肌にじりじりと熱を感じます。そして、日が落ちると、とたんに冷える。カリフォルニアによく似た気候なのです。

ギリシャの最初の目的地は、首都アテネ。2年前、オリンピックが開かれたことをきっかけに、街はずいぶんときれいに整備されたようです。各種スタジアムがあちこちに建設されたばかりではなく、既存の建物や公園もドレスアップされ、地下鉄もずいぶん便利に延長されたようです。

アテネといえば、やはり遺跡。いうまでもなく、パルテノン神殿のあるアクロポリスの丘は、街の目玉。アクロというのは「尖ったもの、突き出たもの」、ポリスというのは「都市」という意味だそうで、アクロポリスとは、尖った先端にある都市。ここには、アテネの守り神アテナを祭る寺院や、街の財宝や武具が収められる建物が置かれていました。

このアクロポリスでは、1983年から、ギリシャ政府、国連、各国の団体を中心として復元工事が続けられていて、今も、石工さんが丘の上でトントンと石に細工を施しています。容赦なく照りつける太陽に、石工さんも早めの昼休み。壮大な建物を相手に、実に気が長いプロジェクトなのです。

アクロポリスばかりではなく、アテネは、街中いたるところに遺跡がころがっている感があります。地元っ子は、もう少しきれいに遺跡を復元したらいいのにと思っているふしがありますが、外から来たものにとっては、大きな石柱が草むらに横たわっている様が趣もありますし、時代も感じます。何千年もそのままの姿で放置されているというのは、驚きでもあります。きっと、各時代で、石材は勝手に再利用されてきたのでしょうが、それでも、あれだけの遺跡が街のそこここに残っているところがすごいのです。

遺跡を見るのも、タイムマシンに乗り過去を訪ねたようなものですが、遺跡からの出土品も、古代の生活を知るのには不可欠なものです。 市内にあるアゴラの遺跡では、出土品を展示する博物館があって、彩色土器やら装飾品、粘土の小像に混じって、日常品の数々が収められています。丘の上のアクロポリスとは対照的に、ここアゴラは、法廷、評議場、市などが立った市民生活の中心地。

たとえば、紀元前6世紀に使われていたバーベキューセット。形といい、大きさといい、今でも充分に使えそうな、よくできたグリルです。きっと、現代の名物料理・スヴラキ(Svoulaki)みたいに、肉や野菜を串刺しにして焼いていたのでしょう。何千年たっても、お気に入りの料理法に変わりはないのです。

そして、赤ん坊を座らせていた座椅子。お尻の部分に穴が開いていて、便器椅子のような機能も果たしていたのかもしれません。これにしたって、現代の日用品と言われても、まったくおかしくありません。



アテネ市内には、観光目玉がたくさん。シンプルでおいしいギリシャ料理と、民族音楽やダンスを楽しめるプラカ地区。きれいな公園を中心に、国会議事堂やショッピング街が広がる中心地シンタグマ。ちょっと北には、市民の台所である中央市場。そして、山の手地区をケーブルカーで登ると、アテネ全体を一望できるリカヴィトスの丘。ここからは、アテネの大きさをパノラマで実感できるのです。
けれども、なんといっても印象深いのは、夜のアクロポリス。夜間ライトアップされる遺跡群は、幽玄そのもの。オレンジに光を放つアクロポリスは四方から眺望でき、まさにアテネの中心といった存在なのです。

何千年の歴史を受け継ぐアテネ。アクロポリスは、そのアテネっ子たちの誇りなのかもしれません。


<エーゲ海>

エーゲ海。どことなく神秘的な響き。この紺碧の海の名がどこから来たのか、アテネから南にアポロコーストを案内してくれた人が、こう解き明かしてくれました。

その昔、アテネはエーゲ海第二の都市。その頃は、クレタ島の勢力が大きく、アテネは、クレタ島に貢物をしなければなりませんでした。
貢物とは、優れた男の子を7人、女の子を7人、9年ごとに贈るというものでした。クレタ島の怪物、牛頭人身のミノタウロスに食われるために。

アテネの王アイゲウスには、ひとりの息子がいました。生まれてすぐに父王から離されたので、自分が王の息子であることは知りません。
けれども、16歳になったとき、父王から贈られていた金の剣を見つけ、自分の素性を母から知ることとなります。道すがら、数々の怪物を倒しながら父王の前に現れ、王の方も、この立派な若者テセウスが息子であることを悟ります。
再会の喜びもつかの間、父アイゲウスから貢物の悩みを聞いたテセウスは、それなら自分をミノタウロスの元に送ってくれと言い出します。自分が怪物を退治するからと。

さっそくテセウスは、黒い帆を張った死の船で、他の13人とともにクレタ島のミノス王の元へ送られます。そのテセウスは、ひとり堂々として、王にこう要求します。早く怪物のところに案内しろ、成敗してやるからと。この威勢のよさに、ミノス王の娘アリアドネは心惹かれます。
そして、なんとかしてテセウスを助けたい一心で、アリアドネはこうアドバイスします。ミノタウロスがいる迷宮ラビュリントスは、造った者でさえ迷うほど入り組んでいる。そこから無事に脱出する方法は、糸巻。入り口に糸の端をしっかりと結び、糸巻を持って歩けば、それを手繰りながら迷わずに戻れる。そう言って、テセウスに糸巻を手渡します。

  翌日、傷を負いながらも、めでたくミノタウロスを倒したテセウスは、アリアドネと13人の少年少女を船に乗せ、一路アテネへと向かいます。 けれども、ここで、父王アイゲウスとの大事な約束を忘れていました。見事ミノタウロスを倒した暁には、白い帆を船に揚げるようにと。

遠くに船を見つけた父王アイゲウスは、はやる心で帆の色を確認します。それは、期待していた白ではなく、黒でした。
そして、再会したばかりの息子を亡くした失意のうちに、アイゲウスは、海に身を投じるのです。
それから、この海は、アイゲウスの名をとって、エーゲ海(Egeo)と呼ばれるようになったのでした。

アテネのあるアティカの半島の先端は、スニオン岬と呼ばれます。ここには、紀元前6世紀頃に建てられた、ポセイドンへ捧げる神殿があります。
ポセイドンとは、ゼウスの兄(弟)で、海の神。同じ海神ネレウスの娘を妻とし、海底の珊瑚の御殿に住んでいます。竜馬に二輪車をひかせて海の上を走れば、海の動物たちが喜んで傍らに集まり、三叉のほこを岩に突き刺せば、海は荒れ狂う。そのポセイドンは、馬をつくったので、陸では競馬の守り神ともなったそうです。

なんでも、クレタ島の牛頭人身の怪物ミノタウロスは、ミノス王の后パシパエが、このポセイドンの送った牛と交わって生まれた怪物だとか。

あるときは鏡のように穏やかで、あるときは強風で荒れ狂うエーゲ海。このエーゲ海には、神と人が生まれ、そして近しく営んできたのです。

追記:神話の詳細は、串田孫一氏著「ギリシャ神話」(筑摩書房)を参考にさせていただきました。

<ミコノス島>
アテネから向かったのは、エーゲ海に浮かぶミコノス島。そこから、サントリーニ島、クレタ島と足を延ばします。

アテネから空路わずか20分のミコノス島。降り立って驚いたのは、島の地形とか小ささとか、そんなことではありません。小さな祠(ほこら)みたいな教会が無数に存在するのです。特に、空港のまわりは人の住まない場所と見えて、飛行機は、この小さな祠の群れに着陸する感があります。
さっそく出迎えた人に聞いてみると、この島には、実に700もの教会があるとか。わずか人口6千ほどの島に、それだけの教会があるとは。もしかすると、一族にひとつ教会を建てる習慣でもあったのかもしれません。
アテネの人が、ミコノス島やサントリーニ島には珍しくカトリック教徒が多いと言っていましたが、気のせいか、祠はギリシャ正教というよりも、カトリック的でもあります。

翌日、レンタルしたスクーターで島中を走り回りました。この島はもともと、やけに風が強くて、スクーターの向かい風は身を切るようです。けれども、端から端までわずか20分の島。車よりも、小回りのきくスクーターの方が便利なのです。

ホテルのある海沿いから島の中心に向かうと、だんだんと民家が少なくなって、丘陵地帯に入ります。アノメラと呼ばれる地域です。そこには、いくつかの修道院が置かれていて、そのうちのひとつパナギア修道院に立ち寄りました。
門の前に立つと、中庭に置かれたベンチで、神父さんがのんびりと日向ぼっこをしながら、観光客を眺めているのが見えます。ギリシャ正教なので、神父さんと言うべきなのかはよくわかりませんが、白いひげがお腹に達するくらいの、恰幅のいいお方です。

不思議なことに、わたしたちが門をくぐり、聖堂の玄関までたどり着くと、この神父さんはおもむろにベンチを立ち、先導するように聖堂の中に入っていきます。そして、連れ合いが中に入ると、まるで待ち望んでいた友を歓迎するかのように、しっかりと握手をしてくるのです。そして、わたしが続いて中に入ると、わたしの左のほほに、力強く2回口付けをしてくれました。この上ないほどに力強く。
これには、わたしたち自身も驚きましたが、もっと驚いていたのは、傍にいた白人の観光客。どうしてこの東洋人たちは歓迎を受けるのだろうと、首をひねっていた様子。明らかに、正教徒などではないのに。
そして、この神父さん、わたしたちが聖堂の中の見学を終わると、出口でもう一度かたく握手を交わし、別れのごあいさつをしてくれました。あちらは英語なんかわからないし、こちらはギリシャ語なんてわかりません。けれども、言葉を越えたごあいさつなのでした。

いまだに、たくさんいた観光客の中で、どうしてわたしたちだけに歓迎のあいさつをしてくれたのか不思議なのです。東洋人を遠来の客と思ったのならば、隣にいた中国人の家族にもあいさつをしてもよさそうなものです。
それとも、わたしが修道院の門の前で、仰々しくヘルメットを脱ぎ胸に抱いていたからでしょうか。教会の中で帽子をかぶるのは失礼なので、自然と脱いだまでですが、神父さんには、それが好ましいしぐさに見えたのでしょうか。

  いずれにしても、神父さんの歓迎のおかげで、なにかしら暖かいものが胸の中に灯ったことは確かです。 それまでは、風が強くて、寒くて、ちょっとみじめな思いをしていたミコノス島ですが、この出来事のあとは、落ち着いて島を楽しむことができました。
この島の目玉は、リゾートホテルのプライベートビーチと、迷路のようなミコノスタウン。地図を持っても必ず迷う街角の探索やショッピングは、大方の観光順路。
けれども、わたしにとって印象深いのは、アノメラの丘陵。修道院のまわりには、古代の石壁やビザンチンの中世の城跡も静かに広がります。長い年月を経てまわりの自然に溶け込み、人のにおいをほとんど感じさせません。
風と祈りの島、ミコノス。この島は、なんとなく沖縄の宮古島にも似ているな、そう思っていたのでした。
 

<エーゲ海でインターネット>
2週間も旅をするとなると、インターネットアクセスは必需品となってきます。とくに、最近ソーシャルネットワーキングの仲間入りをしたので、毎日とはいわないまでも、友達に近況報告をしたくなってきます。「どっかで野垂れ死にしてるんじゃないか」などと心配をかけたくないですし。また、自分のウェブサイトにしたって、2週間もなしのつぶてで、放っておくわけにはいきません。
そういった、ちょっとした脅迫観念にかられて、旅の報告をちょくちょく書いたりしていました。

そういう点では、旅は順調に進んでいました。まず、サンフランシスコからフランクルフトに向かう飛行機の中で、インターネットに接続します。そして、ギリシャに向かっていることを友達にご報告。
ルフトハンザ航空でしたが、ボーイングが提供するConnexionというサービスが利用できるようになっています。チーフパーサーの方が、30分タダのクーポンを2枚もくれたのでした。まあ、地上ほど速くはありませんが、目的は充分に達します。
けれども、連れ合いがSkypeで通話し始めるやいなや、アテンダントが血相を変えて飛んで来るのです。航空機器に障害が出るので今すぐに止めろと。多分、他の人が利用しにくくなるので止めてくれということだったのかもしれませんが、ものすごい剣幕でした。

ギリシャに到着すると、首都アテネでは、ビジネスマンがコンファランスに使うような大型ホテルだったので、部屋には無論ブロードバンドが完備されています。定額料金さえ払えば、一日中使いたい放題。でも、一日27ユーロ(約3700円)はちょっと高いです。

  4日間のアテネが終わり、ミコノス島へ移った頃から、状況が変わってきます。もともとミコノスはリゾート地。リゾートホテルには、意図的にブロードバンドを置かないのです。
けれども、仕事が忘れられないワーカホリック達のために、最終手段は準備されています。ロビーの脇にビジネスセンターなる小部屋があり、ここだけには、ブロードバンドが設置されているのです。
土曜だろうが、日曜だろうが、この部屋は大人気。ひとつしかないポートに人々が群がります。わたしが順番待ちをしていたのは、アメリカ人のティーンエイジャー。メールかチャットか知りませんが、没頭した彼女はなかなか出てきてくれません。母親も「早く出かけるわよ」と、プレッシャーをかけているのに。
ようやく、”Sorry(ごめんなさ?い)”と出てきた彼女のあとで、準備しておいた短い報告を送ります。けれども、待っている間、ロビーに待機していたポーターが相手をしてくれたので、それなりに楽しいひとときではありました。さすがに彼は、プロフェッショナルなのです。

エーゲ海三つ目の訪問地クレタ島では、ちょっと不便でした。各部屋のブロードバンドが不具合ということで、わざわざ遠く離れたロビーに出かけて行って、Wi-Fiを使うことになります。2時間6ユーロのアクセスカードを調達し、ちょっとだけアクセス。
もともとこの立派なリゾートホテルには、36時間しか滞在しなかったので、そんなに自由時間もありませんでした。


意外だったのが、エーゲ海二つ目に訪れたサントリーニ島。ミコノスやクレタで泊まったホテルのように立派ではありませんが、ここには、ブロードバンドが各部屋に完備され、なおかつタダ。他の場所ほど速くはない難はありますが、それでもロビーに出かけて行って、などという面倒くさいことがありません。

  このサントリーニ島、実際に訪れてみないと想像が難しいほど、人々はちょっと異常な場所に住んでいます。


この島は、西側に人口が集中しているのですが、こちらは断崖絶壁。だから、岩の上に家を建てるというよりも、岩の中に横穴を掘って、その上にお印程度に屋根を付け、それを積み重ねていくような感じ。まさに人々は、岩壁に張り付くように、身を寄せ合いながら住んでいるのです。

実際、わたしたちの部屋は、島一番の街フィラへ向かう遊歩道の真下。ときおり、行き交う人の足音や談笑が鈍く響きます。そして、バスルームは、岩穴のかなり奥まった部分。こんな中に、シャワーや水洗トイレが完備されていることさえ不思議なくらいです。朝、目を覚ますと、教会のコシック様式を思わせるような丸天井。なんだかエスキモーのイグルーにでもいるみたいです。

そんな穴の中の生活にも、うまく工夫がなされているのです。たとえば、各部屋の通気がいいように、家の中にも小さな天窓が開いていたり、ベッドのマットレスを置くコンクリートの台には、通気抗が空けられたりしていました。通気坑がいったいどこへ向かっているのかは、覗いてみたけれどわかりませんでした。部屋には直射日光もなく、ワインの貯蔵などには、さぞかし最適なことでしょう。

なんとなくひんやりとした湿気のある生活。そんな穴ぐら生活にブロードバンド。とってもちぐはぐな取り合わせではありますが、なかなか便利で快適な生活ではあるのです。

そして、サントリーニは、絶対にもう一度行ってみたい場所なのです。断崖絶壁から望むエーゲ海と夕日。 沈む夕日に、現地でしか飲めない特産ワインを傾ければ、いやなことなんかどこかへ吹っ飛んでしまうのです。

後記:ギリシャ旅行の写真は、個人的なウェブサイトの方にも掲載しております。エッセイやフォトギャラリーのセクションにいくつか載せておりますので、興味がありましたら、ぜひこちらへどうぞ。
http://www.natsukijun.com/

夏来 潤(なつき じゅん)

メモリアルデー

今日、5月29日は、アメリカでは「メモリアルデー(Memorial Day)」と呼ばれる祭日です。日本語では、戦没者追悼記念日と訳されます。

このメモリアルデーは、アメリカの北と南を二分した大きな戦い、南北戦争(1861年~65年)で没した人々を追悼するために、1866年に始められました。

その後、第一次世界大戦をきっかけに、南北戦争だけではなく、すべての戦争でアメリカ軍として戦い没した人々を追悼する記念日となりました。

昔は5月の上旬とされていたようですが、現在は、5月の最後の月曜日と定められています。


こと祭日に関しては、アメリカとは実におもしろいところで、少なくともカリフォルニアでは、どの祭日をお休みとするかは、各会社の決定にゆだねられているところがあります。

けれども、元旦とクリスマス、11月の感謝祭(サンクスギヴィング)などは、どの会社もお休みとなります。

そして、このメモリアルデーも、お休みにならない会社はまずないのではないでしょうか。


メモリアルデーは、5月下旬といい季節なので、「バーベキューシーズンの始まりの日」などとも言われます。戦没者追悼記念日といいながら、その実、とっても楽しい日!と思っている人もたくさんいるのです。

5月ともなると、一滴も雨が降らない例年とは裏腹に、今年の北カリフォルニアのお天気は、いつまでも雨が降り続くおかしなものでした。

けれども、今日のメモリアルデーはよく晴れ渡り、まさに、バーベキューシーズンの到来を告げるようです。


何年か前のメモリアルデーの日、ワイナリーがたくさんあるナパバレーに小旅行したことがありました。春の光をいっぱいに受け、ぶどうは青々と育ち、実りの秋とは違った姿を見せてくれます。

そして、その帰り道、サンフランシスコ近郊のコルマを訪ねてみました。

このコルマ(Colma)という街は、ちょっと風変わりな街で、1902年にサンフランシスコ市内の埋葬が禁止されて以来、近隣の「埋葬の地」となっているのです。

ここは、まさに歴史の縮図ともいえる場所で、キリスト教、ユダヤ教、ギリシャ正教、そして無宗派といった宗派別の区分けだけではなく、日系、中国系、イタリア系、セルビア系といった、民族別の墓地もたくさん置かれているのです。

近くのサンブルーノ(San Bruno)という街には、アメリカ軍の霊園、ゴールデンゲート国立霊園などもあって、メモリアルデーのこの日、軍関係者の家族が霊園を訪れ、花を手向けたりしていました。
 この広大な軍の霊園には、ベトナム戦争の戦没者をはじめとして、14万人ほどが埋葬されているのです。

サンフランシスコからフリーウェイ280号線を南に運転すると、空港の少し手前で、左手に白い墓石の群れが見えてきます。ちょっと異様な光景なのですが、これがゴールデンゲート国立霊園です。初めて見る人は、この墓石の数にまず目を奪われるのです。


別に誰といって花を手向ける人はいませんが、メモリアルデーということで、ナパへの小旅行の帰り、わたしもコルマの日系人墓地に立ち寄ってみました。
 ここには、いろいろな宗派の日系の人が埋葬されているようで、牧師さんやお坊さんが、集まった家族のために御勤めをしていました。

メモリアルデーは、戦没者に限らず、広く祖先を供養する一日でもあるのです。日本のお彼岸みたいな一面もあるのですね。

そして、このコルマの地に眠る日系人の名前をひとりひとり読んでいると、これら先達の並々ならぬ苦労があったからこそ、自分たちのようなアメリカへの新参者も、大きな顔をして、ゆったりと過ごせるのだなと、神妙な気持ちになったのでした。

第二次世界大戦中は、敵国日本のスパイとして、実に12万の日系人が、裁判もなく砂漠の収容所に押し込められました。
 戦争で命を落とさなくとも、彼らは充分に戦争の犠牲となった、そう言えるのかもしれません。

暖かな日差しの中、そんな日系の人々の過去を思い起こしながら、静かなコルマの地でひとときを過ごしたのでした。

追記:以前、日系の人々の体験をご紹介したことがあります。サンノゼに住む日系3世の男性、アーニー・ヒラツカ氏へのインタビューをもとに書いたものです。
 ヒラツカ氏は、サンノゼの日本街にある日系歴史博物館で、体験談を語るボランティアを務めていらっしゃいます。
 最後の写真は、この博物館前に建つ碑です。収容所へ連行される一日が刻まれる、象徴的な銅像となっています。

アメリカの日系人の歴史に興味をお持ちの方は、ぜひこちらへどうぞ。

それから、雲の写真は、ほんの数日前の夕方、我が家の庭から撮ったものです。東の空に現れた雲が、なんだか天使の翼みたいで、カメラにおさめてみたのでした。

ギリシャのサントリーニ島

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サントリーニのエッセイでもご紹介しましたが、サントリーニの特産品はワイン。島じゅうにぶどう畑が広がります。

ここのぶどうはちょっと変わっていて、栽培するために水など撒きません。土中の水分を自然に吸い上げるので、ぶどう自体も地を這うように育ちます。カリフォルニア・ナパバレーのぶどう畑とは違った光景です。
水気が少ないので、糖分がぶどうの実に凝縮します。だから、この島は、糖度とアルコール度の高いデザートワインでも有名なのです。

よく知られたワイナリーは、3つ。サント(Santo)、アントニオ(Antonio)、ブタリ(Boutari)と、島の中心部に並びます。ブタリのワインは、アテネなどでもよく見かけます。
そして、これらのワイナリーに、島で最古のカナヴァ・ルーソス(Canava Roussos)が加わります。ここでは、19世紀初頭から稼動する古い貯蔵庫を見学させてもらえます。

この島で試してみたのは、サントのワイン。一晩めは、レストランの人に勧められた白ワイン。アシルティーコス(Assyrticos)という古代種から作ったワインです。りんごのブランデー、カルヴァドスみたいな独特な香りがあります。そして、白ワインには珍しく、エージング(熟成)に向いているそうです。

二晩めは、同じくサントの赤ワイン。こちらは、ヴードマート(Voudomato)という古代種。色は薄めですが、ちょっと渋めで、独特の香りがあります。けれども、酸化するとまろやかになり、ドライで軽めの飲みやすいワインなのです。スパイシーな料理にも最適です。

アテネで飲んだブタリのワインも、軽めで飲みやすい白ワインでした。おもしろいことに、一晩めと二晩めは、ブタリの同じワインをレストランの人たちに勧められました。なんでも、昨年、この白ワインは賞をいただいたとか。

それから、この島のもうひとつの名物は、ロバと猫。

猫は、どうして多いんだか?ホテルの部屋にも、必ず猫ちゃんが尋ねて来ます。バルコニーで食べていると、静かにすり寄ってくるのですが、何もあげないと、すぐにどこかへ行ってしまいました。

車の使えない、やたら階段の多い集落では、ロバは必須。新しい家を建てるのでも、レストランにワインを運ぶのでも、重いものはロバさんが運びます。ロバさんは、実におとなしく、人間様の言うことをきくのです。
昔は、古い港への上り下りも、全部ロバさんが担当していたそうです。今では、旧港にはケーブルカーが通っていますが、ロバさんたち、観光目的でいまだに現役です。石畳の階段を、重い人間を背負いながら一生懸命に登ります。

ロバさんが使えないとなると、最終手段は、人力。ホテルでは、泊り客の重い荷物を運ぶのも、毎朝ごはんを部屋に運んでくるのも、全部人の力です。ホテルには、どれだけの階段があるか知れません。それを、重いものを担ぎながら、寡黙に軽やかに上り下りします。
サントリーニを離れる朝、朝ごはんを下げてくれた人にこう言いました。「とってもおいしい朝ごはんだったよ」と。すると、彼が言うのです。「そういう言葉を聞くと、ほんとに嬉しいよ」って。ホテルは満杯だから、足が4本必要なくらい忙しいんだけど、そんなことよりも、この階段には閉口するよねぇと。

ホテルの泊り客はアメリカ人がほとんどでしたが、その中に、フィギュアスケーターの女性がいました。お顔は存じませんでしたが、ベテランのスケーターらしく、彼女のひざはボロボロ。最近、ひざの軟骨を摘出し、それを実験室で再生中だそうで、近く移植手術をするそうです。
軟骨のないひざで階段の上り下りなんて、ちょっと想像ができません。なんだか拷問のような。

どうして、ワインから軟骨の話になってしまったのか?

話を戻しますと、サントリーニ島は、風景はいいし、建物は映画のセットのようだし、とってもいい写真が撮れる場所です。

けれども、あそこに立ってみて、海を望み、風を受け、街を歩き、息を切らしてみて、初めて見えてくるものもあるのかもしれません。

この島を離れる朝、ホテルの部屋でこう誓ったのでした。いつか、海の見える場所に住もうと。

エーゲ海のサントリーニ島

今までいろんな場所に行ってみて、忘れられない風景というのがあります。ノルウェーのフィヨルドもそうですし、スイスのマッターホルンもそうです。ニューカレドニアの真っ白い砂浜や、カウアイ島の切り立った山や滝も。

けれども、エーゲ海のサントリーニ島は、その筆頭に挙げられるものかもしれません。


船がサントリーニ島に近づくと、まず目を疑います。何やら赤茶けた断層が窓一面に広がるのですが、まさか、この荒涼とした風景が、人の住むと聞くサントリーニかと。いったいどこに人が住むのかと。

そして、よく見ると、島のてっぺんには、何やら家らしきものがびっしりと張り付いています。あれが、街?観光写真に出てくる?


港のあるのは、島の西側。こちらは断崖絶壁です。港からは、街ははるか頭上に見えます。そしてここから、急な坂道をジグザグ登り、絶壁の上の集落まで連れて行かれます。

車を降ろされると、ホテルへは細い道をテクテク歩きます。そこは、まさに絶壁の上。真下の海に転げ落ちていくような感覚におそわれます。「どうしてこんな所に好んで住むの?」心の中でそう叫ぶのです。

でも、ひとたび、転げ落ちる恐怖がおさまると、これほど景色のいいものはありません。目の前の海をさえぎるものは何もないのですから。

サントリーニのまわりには、小さな島が点在し、これがまたいい具合に並んでいるのです。

そして、ホテルの部屋には、歓迎の印の白ワイン。ちょうどよく冷えています。ワインが特産品のサントリーニならではの温かい歓迎なのです。

さっそくコルクを抜き、部屋のバルコニーから景色を眺めます。そして、思うのです。世の中に、こんな風景ってあるんだなあと。


実は、この島で一番好きだったのが、自分の部屋のバルコニー。

一晩めは、島一番の繁華街フィラへ向かう途中で晩御飯。道すがら夕日も楽しめましたが、この地区は家が建て込んでいて、必ずしもベストの夕日ではありません。

だから、二晩めは、自分の部屋で軽い晩御飯。街で調達したギロスのテイクアウトと、昼間訪ねたサント・ワイナリー(Santo Wines)の赤ワイン。

ギロス(Gyros)は、串刺しに重ねた薄切り豚肉を長時間バーベキューし、それを外側から削って食する料理。シンプルな料理法に、素材のよさが光ります。

そして、ワインは、ヴードマート(Voudomato)という古代のぶどうから作った、色の薄めの赤ワイン。多少の渋みと、独特の香りがありますが、ドライで軽めな飲みやすいワインです。ギロスのような肉料理には最適です。

自分の部屋からの夕日を逃したら、一生後悔する。そう思ってのプランでしたが、実は、これが大ヒット。

夕日を余すことなく満喫できるし、それにおいしいワインと料理が付いている。バルコニーの脇を上り下りするアメリカ人の泊り客たちに、それはうらやましがられたものでした。

そして、思ったのです。これさえあれば、他には何もいらないって。

ギリシャのミコノス島

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エッセイのセクションで、エーゲ海の島ミコノスをご紹介いたしました。

エッセイでは載せられませんでしたが、気に入った写真がもう何枚かあるので、ここでちょっとピックアップしてみましょう。

ミコノス初日、どんより曇って、ちょっとお天気が悪いですが、さっそくスクーターをレンタルして、島一番の繁華街ミコノスタウンへと向かいます。ちょっと街歩きをして、まずは何枚か試し撮り。

翌日は、カラッと晴れていい天気。風は強いですが、光線が強く、いい写真が撮れました。

ホテルの朝食のあと、島の中心部アノメラの丘陵地帯に向かい、そのあと港やミコノスタウンを見学です。

ここで、昨日スクーターを停めた場所に行ってみると、なんと警官が駐車違反のチケットを切っているではありませんか。どうも、いっぱい停めてあるスクーターは、全員駐車違反。
警官に「どこに停めたらいいの?」と聞くと、200メートル先に無料駐車場があるからと教えてくれました。
危機一髪でトラブルは免れたわけですが、ギリシャで駐車違反をもらったら、やっぱり払わないといけないのでしょうか?

実は、ここではトラブルは免れたものの、その前日、ミコノスタウンのトラベルエージェントで、クレジットカードを置き忘れていたんですねぇ。ミコノスからサントリーニ島に向かう高速艇のチケットを買おうとして。
翌日レストランで気が付いたものの、どこかで落っことしたものだと思い込んでいたので、さっそくカードを止めてもらいました。カードは他にもあるし、あきらめは早いのです。

そして、いよいよミコノスを離れ、サントリーニに向かう船の中。突然、航海士がつかつかとやって来て、ちょっとオフィスに来いと言います。連行された連れ合いを不安げに眺めていると、航海士が何やら連れ合いに手渡しています。
なんと、置き忘れたクレジットカードだったんですねぇ。トラベルエージェントの人が警察に届けていたものが、航海士の手元に渡っていたんですね。勿論、エージェントは船の座席番号まで知っているので、返すのはわりと簡単なわけです。
結局、このカードは止められているので、戻って来ても何の役にも立たなかったわけですが、それにしても、ちょっといい気分ではあります。もう少し早く戻って来たら、もっとよかったんですが。

というわけで、最初は風が強くて、寒くて、いやな島!などと思っていたわけですが、親切なホテルの人たちや航海士さんなんかに接しているうちに、ミコノスが好きになってきたわけなのです。

島を離れる頃には、風もすっかりおさまり、ちょっといい感じ。この朝、鳥たちのかしましい声で目覚めたわたしは、部屋のバルコニーから、満月が沈むのを静かに眺めていました。
とっても平和な時間が流れているのでした。

ミコノスには、もうちょっと長くいたかったなぁ。

エーゲ海のミコノス島

先日、ようやく2週間の旅が終わり、カリフォルニアに戻って来たところです。

前回のエッセイでは、アテネ3日目のハプニングをお話しておりましたが、その後の旅のお話を続けましょう。


アテネで4日間を過ごしたあと、エーゲ海に浮かぶミコノス島に向かいました。船だとかなり時間がかかるので、飛行機で移動です。

空路わずか20分の距離ですが、天気のいいアテネと違って、こちらは午前中激しい雨だったそうです。それが証拠に、空港のあちらこちらに水溜りができています。この時期に雨が降ることは、滅多にないそうですが。

それを聞いて、飛行機に乗り合わせたイギリス・マンチェスターからの老夫婦が、こう自慢するのです。自分たちがオーストラリアのエアーズロックに行ったときは、絶対に雨が降らないはずなのに降られちゃったよと。
 この夫婦は同じホテルに向かう仲間。なんだか雨ばっかりにならなきゃいいけど、と不安になります。


結局、雨の心配はいらなかったけれど、ミコノス島の冷たい風には泣かされました。吹き荒れる風で気温は上がらないし、レンタル・スクーターでお出かけしても、向かい風に身を切られるようです。
 もともとここは、風の島。北風が一年中吹き、あちらこちらに風車があるのもそのせいなのです。

とくに痩せているわけではないけれど、こういうときだけは、セイウチのように皮下脂肪の厚いアメリカ人がうらやましく感じるのです。

アテネよりも、エーゲ海の島々は寒いというのは、本当のことなんですね。

エーゲ海のシーズンは6、7月、そして9月といいますが、5月はちょっと早いのかもしれません。


ミコノス島で泊まったのは、ちょっと高台にあるおしゃれなリゾートホテル。徒歩5分でプライベートビーチに下りて行けます。
 ビーチは内海になっていて、白い砂浜にエメラルド色が広がっています。残念ながら、泳ぐには、ちょっと寒すぎですが。

一泊目の部屋は、バルコニーにプールが付いていて、見かけはとってもいいものでした。けれども、部屋の中はがらんとして冷え切っているし、冬の間締め切っていたせいでかび臭いしで、翌日はさっそく、日当たりのいい、ジャクージのある部屋に変えてもらいました。

すると、現金なもので、心が晴れたせいか体も温かくなって、その日一日、元気にスクーターで島を探索して回りました。


ミコノス島で有名なものといえば、白壁の家々。

実は、この島にはおもしろい規則があって、民家やホテルの建物は、すべて外壁を白に塗らなければならないのです。白い壁には、青や赤の鎧戸がよく映えます。

そして5月は、一年に一回、白いペンキを塗り替える時期なんですね。あちらこちらでやっていました、ペンキの塗り替え作業を。

そして、もうひとつ。建物は2階の高さまで。地下を入れて、せいぜい3層まで許されています。
 だから、ホテルも横に広がるしかなく、各々の棟は渡り廊下で繋げられ、エレベーターも別の場所で乗り継いだりします。ちょっとした迷路のようです。


ホテルも迷路のようですが、島の繁華街ミコノスタウンは、もっと迷路のよう。地図を手にしていても、誰しも必ず一度は道を誤ります。道は狭くて入り組んでいるし、同じような造りの家が軒を連ねているからです。

あれっ、まっすぐに進んでいるはずなのに、いつの間にか街のはずれに出ちゃった、なんていうこともしょっちゅうです。

なんでも、この迷路のような造りは、その昔、島を襲ってきた海賊に対する策だったそうです。海賊を袋小路に追い込んでは、皆で撃退していたのでしょうか。


ミコノス島自体には、これといって有名な遺跡はありません。
 けれども、島の中心部、アノメラの丘陵地帯に行ってみると、古代の石壁や中世のビザンチン様式の城跡が、そのままの姿で残されています。石壁は、今でも畑の区画整理に利用されているよう。

静かな丘陵には、修道院もいくつか建っています。誰にも邪魔されず、自給自足と祈りの生活を送っているようです。


ミコノス島2日目、ホテルの人がこう尋ねてきました。ここはいい所なのに、どうして2泊しかしないのと。そこで、こちらはこう答えます。これからサントリーニ島に行くからよと。

すると、彼女は間髪を入れず、こう言うのです。“Oh, OK, then go(な~んだ、そうなのね。だったら早く行きなさい)”。
 彼女に限らず、ミコノス島の人は言うのです。サントリーニ島は、自分が一番好きな所。きれいだから、写真をいっぱい撮ることになるよと。

ミコノス島は、人が親切で気さくで、とてもいい所でした。けれども、こんなミコノス人のコメントを聞いていると、次の目的地サントリーニへの期待は、自然と大きく膨らむのです。

アテネ三日目のハプニング

物事はスムーズには進まないもので、いきなりアテネ3日目にしてハプニングです。

朝、いつもの通り、近くの地下鉄の駅・エヴァンゲリスモス駅に行くと、完全にシャッターが下りて、中に入れません。あれ、ここの入り口は工事中かなと思い、もう片方の入り口に行くと、また同じことです。え~、水曜日って地下鉄はお休みなの?とあたりを見回すと、バスすら走っていないではありませんか。見かけるのは、観光バスか自家用車。

なんか変だぞと思いながら、タクシーをひろおうとすると、タクシーは何台も通るものの、空車がまったくいないのです。しょうがなくホテルの正面玄関に戻ると、「今日は、地下鉄もバスも全部ストライキだから何も動いてないよ」とのこと(ギリシャ語のローカルニュースなんて見ていないから、こちらはそんなことなどまったく知りません!)。

まあ、ホテルのことですから、タクシーの一台や二台はいつもいます。それに乗ってめでたく最初の目的地、鮮魚・青果市場に向かいました。
 この中央市場は、市内でも一番大きなもので、鮮魚と精肉のセクション、それから、お向かいには野菜を売る一画もあり、市民の台所となっているようです。この時期は、お魚が人気のようで、精肉の並びは閑古鳥。


さて、ストライキの方ですが、なんでもこの日、バス・地下鉄だけではなく、国営の銀行や郵便局なども一斉にストだったそうです。中央市場の近くの広場では、ストの人たちが賑やかな集会を開いていたし、市の中心部オモニア広場では、デモ行進に出会いました。聞くところによると、医療保険などの待遇アップを要求していたらしいです。

実は、以前、パリでも似たような目にあったことがありました。14年前、パリからフロリダへ戻る日の朝、列車の駅で突然ストライキがアナウンスされたのです。わたしたちはフランス語がまったくわからないので、けげんな顔をしていたら、隣に立っていた人が、ここで待っててもしょうがないよと、親切に英語で教えてくれました。

このときは、代替としてバスが空港まで出されたのですが、今思うと、駅から離れた停留所だったのに、よくもまあ方向を間違わずにバスに乗れたものだと、自分で感心してしまいます。(バス会社の窓口では、担当者がフランス語で道順を教えてくれたのですが、紙に地図を書いて説明してくれたので、とても助かりました。)


さて、アテネのハプニングは続きます。この日は、中央市場のあと、国立博物館に行って、エーゲ海全域の遺跡から発掘された出土品などを見て過ごしました。
 ここには、ギリシャ中から集まった、土器などの出土品、金細工、大理石の彫刻、青銅の像など、数々が展示されています。過去にギリシャに存在した文化には漏れなく触れることができるのです。

午後2時頃、もう十分に堪能したからと、今度は、展望台のあるリカヴィトス山のケーブルカー乗り場に向かおうとしました。すると、朝と同じことで、タクシーがまったくつかまりません。空車どころの騒ぎではなく、全部相乗りタクシー化しています。そして、人を乗せたタクシーは止まってはくれるものの、誰もリカヴィトスの方向へは行きたがらないのです。

まあ、アテネの中心部はそんなに広くはないので、歩くのは不可能なことではありません。でも、ちょっと遠いし、見なくてもいい道路の汚れなどは見たくもないので、博物館から少し離れた場所で再度トライです。けれども、なんとなく感触はよくなさそうです。

ちょうどそのとき、誰かがビルの前でタクシーを降りているのが見えたので、そのタクシーに乗せてちょうだいと頼みました。すると、運転手は、「今日はもうおしまいだよ。だからここで別のタクシーを待ってよ」と言うのです。
 ここで彼を逃したら、二度とチャンスはないと思い、「だってさっきから30分も待ってたけど、誰も止まってくれないんだもん」と懇願します。あちらはちょっと迷った末、う~ん、仕方ないかと、乗っけてくれることになりました(別に5分と待ってはいませんでしたが、そこは大げさに言わなくっちゃ)。

彼は、朝からもうてんてこ舞いの忙しさで、今日は十分に働いたので、もうお家へ帰るところだったのです。午後の2時に。でも、客を乗せたらそこは商売、機嫌よく、ストライキのことなどを説明してくれました。そして、ケーブルカーの駅に着いたら、いくらでもいいから、好きなだけ払ってくれと言います。とってもいい人なのです。


実は、この午後2時という時間は、一旦商売が終わる時間なのです。前の日、街中の薬屋でもこういうことがありました。シャンプーだのコンディショナーだのを買い物していたら、突然、店員さんがこう言い出すのです。「午後2時に閉まるから、早くしてくれ」と。それまでは、これがいい、あれがいいと手助けしてくれたのに、午後2時を回ると、態度が豹変するのです。シンデレラの午前零時の鐘みたいに。

地元の人曰く、火曜、木曜、金曜は、小さな商店は午後2時に一旦店を閉め、休んだ後、午後5時半から8時半まで営業するそうです。その他の曜日には、午後3時に閉店とか。大きなお店は遅くまでやっているみたいですし、観光客相手のお店は、夜中まで開いていたりします。でも、小さな個人商店は、今でも昔からのルールを守っているようです。

まったく、ギリシャ人の生活サイクルというのは、ちょっと不思議です。普通、地元の人がディナーを食べるのは、午後9時を過ぎてからです。10時を過ぎてメインディッシュなんていうのも珍しくありません。
 そして、ギリシャ人は言うのです、自分たちは、遅く食べて、遅く寝て、早く起きるのだと。だから、お昼休みという習慣が出来上がったようなのです。


話がちょっとそれてしまいましたが、親切なタクシー運転手さんに連れて行ってもらったリカヴィトス山の展望は、最高のものでした。アテネ全土が四方に見渡せるし、アクロポリスなどの名所もたくさん見えます。観光スポットの位置関係も手に取るようにわかるのです。

それにしても、帰りにわかったのですが、このケーブルカーに向かう道は、かなりきつい勾配なのです。下からハーハーと息をきらしながら登って来る人もいましたが、それを見ていてこう思ったのでした。タクシーに乗せてもらってほんとによかったなと。

リカヴィトスのパノラマに味を占め、その晩は、ホテルの最上階にある展望バーに行って、夜景を楽しみました。

ちょっと空気がくすんでいましたが、これは、ストで増えたタクシーや自家用車のスモッグなのでしょうか?

ギリシャに思う

突然ですが、5月8日ギリシャに到着しました。今は、アテネに滞在中です。

ヨーロッパは3年ぶりですが、今回の旅は、真夏になる前にギリシャに行きましょうと、一年ほど前から計画していたものなのです。

アテネのあとは、エーゲ海に浮かぶミコノス島、サントリーニ島、クレタ島と移動する予定です。


実は、ギリシャとは、わたしにとって思い入れのある国なのです。それは、アメリカで最初にお友達になった人が、パノスという名前のギリシャ人の男の子だったからです。とってもおとなしい、女の子みたいな優しいしゃべり方の人でした。ちょっとギリシャ訛りはきついけれど、意志相通には何の問題もありませんでした。あの頃は、こちらだって英語はしどろもどろだったので、お互い様だったのです。

そんなパノスの国に、初めてやって来たのでした。この国は、それこそ、いろんな血が混じっている場所のようです。金髪の人、東欧のように黒っぽい髪の人、中近東系の面立ちの人などさまざまです。パノスみたいに、髪の毛の黒っぽい人はたくさんいます。

でも、パノスと違っていたのは、みんな結構議論好きなところでしょうか。言葉がまったくわからないので、何をそんなに主張しているのかはわかりませんが、黙ったままでは終わらないぞ、そういった印象なのです。パノスのあのおとなしさは、いったいどこから来たのでしょうか。

パノスがはたしてどこの出身だったかは覚えていませんが、少なくとも、アテネではなかったのかもしれません。

それでも、パノスの訛りはどこから来たのか、よく理解できました。ギリシャ語の響きは、イタリア語に近いのかなと勝手に想像していましたが、実際は、ロシア語に近い印象です。つい先日、ハンガリーに行った連れ合いは、ハンガリー語やルーマニア語などの東欧の言葉に近いとも言っています。

ちょっと巻き舌っぽい響きが、妙に耳に残るのです。もしかしたら、こういった響きだから、熱っぽく議論しているように感じるのかもしれませんね。


アテネに来て丸三日ほどになりますが、ここのお気に入りは、なんといっても丘の上のアクロポリス。かの有名なパルテノン神殿がある聖域です。
 とくに、夜ライトアップされた神殿は、幻想的で素敵です。そして、上からは、アテネっ子の生活をじっと見守っているようでもあります。

このアクロポリスでは、1983年から復元プロジェクトが進んでいて、今も丘の上では、石工さんたちが大理石を切り出しては、柱や屋根を修復しています。

昔のものに誇りを持ち、大事に保護する、そんな気持ちがあちこちに表れているようです。
 
 それでは、また旅行記を書き綴ることにいたします。

ダイヤモンドレーンには気をつけて

「ダイヤモンドレーン」ってご存じでしょうか。

なんだか、きらびやかな名前ですが、カリフォルニアで車を運転するときは、必ず知っておかなくてはならない名称なのです。

「ダイヤモンド(diamond)」とは、フリーウェイ上の目印を指します。まあ、宝石のダイヤモンドというよりも、見た目は単に「菱形」といった感じです。

「レーン(lane)」というのは、車線のことですね。

だから、「ダイヤモンドレーン」とは、白い菱形のマークが描かれている、ある車線のことをいいます。


ダイヤモンドレーンは、数本あるフリーウェイ上の車線のうち、一番左端のものです。

普段は、左端の車線は、単に追い越し車線なわけですが、ある時間帯、複数の人が乗った車しか通れなくなるのです。

もしかしたら南カリフォルニアでは事情が異なるのかもしれませんが、サンフランシスコ・ベイエリアでは、平日の午前5時から9時まで、そして午後3時から7時までは、二人以上乗った車でないと、ダイヤモンドレーンを通れないのです。

みんながちゃんと守るように、フリーウェイには、あちらこちらに看板が立っています。(サンフランシスコ・ベイエリアでも、ベイブリッジやゴールデンゲートブリッジのように、3人以上でないといけない場所もあります。)


実は、このルールは、通勤時間帯の渋滞緩和のためにつくられたのですね。ひとりでも多くの人が、示し合わせて、複数で通勤するようにと。

まあ、サンフランシスコの街中は別として、その他のカリフォルニアの地域では、車の通勤が当たり前になっているので、朝や夕方の渋滞は、かなりシリアスなのです。

だから、複数の人が乗る車の優遇制度がつくられたのですね。

そして、複数で車をシェアして通勤することを「カープール(carpool)」と言います。だから、ダイヤモンドレーンは、「カープールレーン」とも呼ばれています。
 写真の看板には「(左車線は)バスとカープール車だけ」そして「オートバイはOKよ」と書かれています。

また、人をたくさん乗せた車のことを、high-occupancy vehicle などとも言いますので、ダイヤモンドレーンは「HOV レーン」とも呼ばれます。

いずれにしても、通勤の渋滞緩和のためのルールなので、週末は関係ありません。けれども、なぜか、祝日であっても週日には適用されるそうです。アメリカの場合、みんなで一斉に休日になるケースが少ないからでしょうか?


ここで気をつけないといけないことは、制限されている時間帯に一人でダイヤモンドレーンを運転してしまったら、カリフォルニア・ハイウェイパトロール(通称 CHP)に捕まってしまうということです。

実際、おととしの暮れ、わたしの連れ合いが CHP に捕まったことがあるのです。

ある平日の朝、シリコンバレーを縦断するハイウェイ101号線を運転していたのですが、何かしら真剣に考え事をしていたのか、ダイヤモンドレーンのことなんてまったく頭になかったそうです。

そんなわけで、すぐ右側の車線にいた CHP のパトカーにも気付かず、そのままス~ッと追い抜いたところで、パトカーの赤とブルーのライトが点滅!

幸い、ダイヤモンドレーンの違反は、そんなにシリアスなものではなく、運転中の違反行為(a moving violation)ではありません。まあ、駐車違反(a parking violation)に類似するものでしょうか。

けれども、とにかく面倒臭いのです。

まず、ひと月後に、違反をした場所の最寄りの裁判所からお手紙が来て、いくつかの選択が与えられます。裁判所に出頭して申し立てをするか、それとも、罰金を支払って講習会に出席するか、うんぬん。

後者の選択だと、裁判所の召喚(citation)からはめでたく解放されます。だから、よほど頻繁に違反していない限り、おとなしくこれに従います。

だって、裁判所の手紙には、もしこの選択を放棄なんかしたら、あんたの車の保険料は上がるよと脅しが書いてあるのです(過去18ヶ月以内に講習会に出た人はダメだそうです)。


ここでクセモノは罰金です。ハイウェイには、「カープールレーンに違反したら、271ドルの罰金だからね」という看板が立っています。ところが、271ドルでは終わりません。いろいろと乗っかって、369ドル支払いました(そのうち345ドルは、保釈金だそうです)。

そして、交通講習会。これはよほど人気があるらしく、すぐには出席できません。ふた月待ちました。まあ、インターネットでも講習できるそうですが、これは性格の固い人にお勧めです。

連れ合いは、土曜日の丸一日を選択したので、朝の8時から午後4時まで、あるコミュニティーカレッジの教室にカンヅメとなりました。教室は、普段お会いすることのないような、いろんな雰囲気の生徒さんでいっぱいだったそうです。

でも、実際、先生のお話はまあまあだし、最後のテストなんて自己採点だったし、そんなにひどくはなかったそうです。そして、普段は誰も知らないようなルールも結構あったとか。

なんだか、ロスアンジェルスあたりには、チョコレート屋さんの裏部屋で開かれる交通教室があるそうです。たまたま、チョコレート屋を経営する人のダンナさんが、運輸局から許可された先生なんだとか。

お勉強のあとは、みんなでチョコレートをつまみながら歓談とのことですが、やっぱりアメリカ人には、ジョークと甘いものは欠かせないのですね。

追記:昨年7月、ダイヤモンドレーンには新しい規則ができて、ある特定のハイブリッド車は、一人でも運転できるようになりました。

でも、カリフォルニア州政府にとっては、ハイブリッド車とは名ばかりの車が多いらしく、今のところ、許可されている車は3種のみです。ホンダ「シビック」のハイブリッドモデル、ホンダ「インサイト」(2005年モデルを除く)、そしてトヨタ「プリウス」の3種類です。フォードのでっかい車「エスケープ」のハイブリッドモデルなんかは、とんでもないのです。

州の運輸局に登録されたハイブリッド車は、写真のようなステッカーを貼ります。黄色いステッカーには、「Access OK(ダイヤモンドレーンへのアクセスはOK)」と書かれています。
 ごていねいなことに、右後ろに2枚、左後ろに1枚、計3枚もベタベタと貼るのが規則なんですね。

このカリフォルニア州のハイブリッド・ステッカーには、7万5千人分という上限があって、現在発行されたのは、6万人ちょっとだそうです(7月中旬現在)。急がなければ、なくなっちゃいますよ!

春の花、カリフォルニアにて

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なんだか先週から、突然いい天気になってきました。それまでは、毎日雨が降り続き、降雨量の最高記録を作るかというほどでした。その長い雨季も、ようやく終わりを迎えたようです。

そうなると、そこはカリフォルニア。日差しは強く、一気に暖かくなります。5月下旬のメモリアルデー(戦没者追悼記念日)は、バーベキューシーズンの始まりなどといわれますが、もうすでにバーベキューを楽しんでもおかしくないお天気。

さて、前回のフォトギャラリーは、日本で撮ったお花の写真でしたので、ここでは、カリフォルニアの春の花を並べてみましょう。

まず、なんといっても、春はカリフォルニアポピー(California poppy)。学名はちょっと難しく、Eschscholzia californica といいます。
これは、カリフォルニアの州の花(the California state flower)でもあるのですね。なんでも、毎年4月6日は、「カリフォルニアポピーの日」とされているんだとか。

春になると、あちらこちらの草地で、鮮やかなオレンジ色のかたまりを見かけますが、これがカリフォルニアポピーなのです。いっぱい種類があるそうですが、よく見かけるのは、ツルツルと光沢のある、目の覚めるようなオレンジの花びらのものです。
見ているだけで、気持ちが晴れ晴れとするような、まさにカリフォルニアにふさわしい花です。
白人がやって来る前は、サンフランシスコの春の岬は、一面のオレンジ色だったそうです。今でも、雨季の名残の中で、凛と咲くオレンジの花びらを見つけると、カリフォルニア人は春を感じ、うきうきとしてくるのです。

次によく見かけるのは、やっぱり菜の花でしょうか。近頃は、シリコンバレーもだいぶ空き地が少なくなってきましたが、草地には、ポピーのオレンジか菜の花の黄色か、という賑々しい配色です。
韓国からやって来た友達は、自分が子供の頃は、オークランドヒルズで菜の花を摘んでは、お母さんが料理してくれたものだったと語っていました。中国料理でも、菜の花は重宝されていますね。

菜の花とよく一緒に咲いているのが、ルピナス(lupine)です。青紫がしおらしい、品のある花です。遊歩道を歩くと、必ず見かけます。「ルピナスさん」という絵本もありましたが、名前も姿もかわいい花です。

カリフォルニアは、桜の花も多いです。日本ほどではありませんが、たくさんの種類があります。
自宅の近くは、真っ白な花の桜を街路樹としていますが、今年は雨がいつまでも続いたせいで、花と葉っぱが一緒にお出ましです。きっと、いつ咲いていいのやら、調子が狂ったのでしょう。
我が家の中庭には、八重桜の「関山」です(と思います)。首都ワシントンのポトマック川沿いの桜並木は、この種類だそうです。
実は、もともと植木屋さんが植えた桜が気に入らなくて、これに植え替えてもらいました。だって、まるで葉っぱが梅干のシソみたいな色だったのです。「シソ桜」はカリフォルニアではよく見かけますが、日本人の美意識にはそぐわないのです。

近くの住宅街には、あずまやのまわりに、かわいいピンクの桜が並びます。よく見ると、花びらの先がとんがっていて、日本のものとはちょっと違います。
ここは遊歩道の終点で、花見をしながら、くつろげるようになっています。この場所でのスケボーは厳禁だそうで、違反した場合、市の罰金は千ドル(10万円以上)との看板が立っています。
小さくてよく見えませんが、写真の左上には、のんびりとプロペラ機が飛んでいます。

春は、道路の中央分離帯もきれいです。ここは、サンザシ(hawthorn)の一種を使っています。うちにも同じものがありますが、日当たりが悪いのか、あんまり育っていません。
正式な名称は、Raphiolepis indica ‘Pink Dancer’というそうですが、まさにピンク色のダンサーです。

我が家の庭には、ツツジ(azalea)が何種類かあります。昨年末に植えたツツジは、とにかく元気がよくて、真っ赤なボールみたいです。「ギラードのホットショット」という名前だそうですが、まさにその名の通りあでやかです。
中庭の隅っこには、紫がかったツツジがひっそりと花を咲かせます。いつも知らぬ間に花が散ってしまうので、たまには写真を撮ってあげました。これには、Formosaという名前が付いています。台湾の昔の名前です。原産地を指すのでしょうか。

鮮やかなピンクは、シャクナゲ(rhododendron)です。庭に咲いたからと、暖かな土曜日、友達が持ってきてくれたのです。冬の間はあんまりパッとしないので、もう少しで切り倒すところだったとか。
シャクナゲと一緒に、「ユリ(lily)」の花も持ってきてくれました。彼女はユリだと言うけれど、アヤメかショウブではないでしょうか。わたしにはまったく区別など付きませんが、アヤメとハナショウブはアヤメ科で、ショウブはサトイモ科だそうですね。
どの種類にしても、我が家の宝、デビッド・リー画伯の絵によくマッチしています。彼は、中国から来た画家なのです。

自然をこよなく愛するカリフォルニア人。春の花を見つけては心を躍らせる、それは「西部気質」だと表現した人がいました。わたしもまさに同感です。

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