オフィス棚の続報
- 2006年05月04日
- Life in California, お金・経済, 日常生活
先日お話した、我が家のオフィス・エンターテイメント棚についての続報です。
取り付け途中で担当会社が雲隠れしてしまって、プロジェクトは宙ぶらりん。仕方がないので、同じ名を名乗っている系列会社と交渉を始めたところでした。
前回もお話したとおり、もともとの契約より高くなってしまったので、いろいろと交渉しているうちに2週間たってしまい、3日前、ようやく契約にサインというところまで漕ぎ着けました。
今日は、インストール(取り付け)のマネージャが、下見と寸法を測りにやって来るのです。
ところが、朝の8時から9時までの間に来るといいながら、時間通りに現れません。なんかいや~な予感がします。また、前とおんなじか。以前の会社は、9時から9時半の間といいながら、いつも来るのは10時半過ぎ。
そこでオフィスに電話すると、ちょっと前と雰囲気が違います。こちらが名乗っただけで、「あ~、ジョーが下見に来る予定のお宅ね」と事情がちゃんとわかっているし、すぐにジョーに連絡を取って、間違いなくこちらに向かっていることを確認し、お客様を安心させる技を知っています。
実際は、10分遅れで現れたわけですが、そのジョーさん、ちょっと思い描いていたイメージと違いました。金髪がちょっとくすんだ若手の方で、70年代のロックミュージシャンみたいな雰囲気です。トンカチよりギターが似合いそうで、とてもクローゼット業界の人には見えません。
それでも、そこはプロ。開口一番、このプロジェクトにいったい何ヶ月かかってるんだと質問します。5ヶ月かかってこの状態だというと、同業の者として不快さを浮かべます。
うん、こいつはできるぞと思いながら、彼の行動を観察していると、図面を見ながらパッパッと的確な質問をしてくるし、第一、寸法を測るのが速い! きっとかなりせっかちな人なのでしょうが、見ていて頼もしいかぎりです。
書類やパッケージの宅配会社UPSは、トラックから降りるときは右足から降り、何歩で玄関までたどり着く、などと細かい規則があるそうですが、こちらのジョーもそんな感じです。かたときも無駄にしないのです。
めでたく下見が終わると、ジョーさん、新しいドアのサンプルが見たいかと聞いてきます。
実は、ドアのスタイルというのは取引先によって微妙に異なるので、前とまったく同じというわけにはいきません。そこで、契約書を担当したデザイナーには、サンプルを見に行くのが面倒臭いので、今のドアに一番近いのを勝手に選んで注文してよと頼んでいたのでした。だって、彼らのオフィスは、ほとんどサンフランシスコなのです。
ところが、デザイナー氏、何事もきっちりした性格で、実際にお客に見せないと気が済まないらしく、ジョーにサンプルを持たせてきたのです。
ここで、アメリカ生活を熟知しているわたしは驚いてしまったわけです。気を利かせて、そこまで手をまわすデザイナー氏と、言われたとおりに、ちゃんとサンプルを持ってきたジョーに対して。連れ合いは、ジョーにサンプルを持って来てなんて頼んだら、それだけ向こうが混乱するから止めなさいと言っていたのに。
そして、帰りがけに、ジョーさんはこう言います。うちは3年前にできたばっかりだけど、僕はずっと最初っからいるし、会社もすごくうまく行っている。つぶれたりはしないからね(We won’t go away)と。その自信が、単に嬉しい。
確かな手ごたえに、この日一日、いい気分!
まあ、お金の面からいうと、もともとの契約よりちょっと高くなっています。それに、雲隠れした以前の会社からは、遅れたおわびにディスカウントしてもらう予定だったので、事実上1500ドルくらいは高くなっているのです。
でも、ここまで待ったおかげで、薄型テレビがだいぶ安くなっているかもしれないので、損したばかりではないのかも。
そして、ひと月後、もしかしたら完成をご報告できるかもしれません。
捨てる神あれば拾う神あり
- 2006年05月03日
- エッセイ
ちょっと驚かれるかと思いますが、わたしは生まれてこのかた、いただいた手紙やカードを捨てたことがありません。せっかく人様が書いてくれたのに、それをむざむざとゴミ箱に入れる勇気がないのです。
だから、うちのクローゼットや実家の押入れには、手紙の束がわんさか眠っています。
そんなわたしの連れ合いは、引越しが大好き。なぜって、引越しをするとどんどん物が捨てられるから。
ある年の年末、わたしが風邪でダウンしている間に、連れ合いはガレージの整理を始めます。うちのあたりの住宅は、屋根裏もなければ、地下室もありません。だから、ガレージが物置に早変わり。鬼のいぬ間に、その物置を物色します。
すると、出てくるわ、出てくるわ、普段まったく使わないものが。何かの景品で手に入れたものの、一度も乗ったことがない小型自転車。タイヤはいつの間にかパンクしています。わざわざ日本から持って来たのに。
お次は、アパートに住んでいたときに使っていた金属製のベッドフレーム。今はもう木のフレームに代替わり。
それから、真夏の太陽ですっかりボロボロになった、パティオ家具のセット。裏庭は直射日光がきついので、プラスティックの表面が粉みたいになっています。
ついでに、車輪付きの手軽に運べるバーベキューグリル。まだ使えるけれど、裏庭には備え付けのバーベキューグリルがあるので、お払い箱。
そして、十数年前に買ったスキー。もうあんな昔のスキーを使っている人なんて、いないんじゃないかな。
こんなに大きな物は、ゴミ容器には入りません。だから、市の清掃局に電話して、ゴミ収集のトラックを手配しました。
有料ではありますが、自分で収集場まで持っていくことを考えれば、ありがたいことなのです。(写真は、市が供給するゴミ収集容器です。燃えるゴミ用とリサイクル用があり、家の前に置いておくと、毎週一回トラックがやってきて中身をカラにしてくれます。)
そして、収集予定日の前日、家の前に粗大ゴミを並べます。
すると、夕方になって、誰かさんがチャイムを鳴らします。玄関には、まったく知らないご近所の人が立っていて、こうおっしゃいます。「家の前に置いてあるものは、もう捨てるものですか?ちょっとパティオテーブルを見せてもらってもいいでしょうか」と。どうもお散歩の途中で、我が家のゴミの山を見つけたようです。
「どうぞ、どうぞ」と口では言いながらも、そんなもの見てもしょうがないよと、こちらは心の中でこっそり思っています。
さてさて、翌朝、家の前を見てびっくり。なんだかゴミの山が小さくなっているのです。
よく見てみると、昨晩リクエストのあったテーブルはそのまま残っているものの、スキーとベッドフレーム、それからバーベキューグリルがなくなっているのです。
昔、日本で、木製のベッドフレームをゴミ置き場に置いたら、その場で誰かが運んで行ったという経験がありました。だから、自分が捨てるものは、まだまだ磨けば使えるということは充分に承知しています。
けれども、何がびっくりって、このあたりは、普段高級自家用車を乗り回すような方々もたくさん住んでいるのです。そんな方々が、よりによって、人の粗大ゴミを持って行くのでしょうか。
拾っていただいた側としては、物を無駄にしないのは喜ばしいことではありますが、なんとも不思議な経験ではありました。
まさに、「捨てる神あれば、拾う神あり」。英語では、One man’s garbage is another man’s treasure。こういうことは、実は、万国共通だったんですね。
移民がいなくなった日
- 2006年05月01日
- Life in California, お金・経済, 日常生活
アメリカのちょっと複雑な一面をご紹介いたしましょう。
今日5月1日は、一般的にはメーデーとされますが、アメリカでは、「移民のいない日(A Day Without Immigrants)」と呼ばれる一日でした。
外国からの移民の多いアメリカならではの、大騒ぎの日なのです。
実は、この日は、移民サポーターの抗議の一日だったのです。「もし移民がいなくなったら、アメリカの経済はどうなってしまうのか、移民の貢献度をよく考えてみてくれ」というものです。
「移民だって人間なんだから、今現在、アメリカに住んでいる移民たちの権利を守るべきだ」と、たくさんの労働者が一致団結して、抗議行動に参加したのです。
こういった抗議行動に参加するために、多くの職場や学校では、仕事や勉強のボイコットが起こりました。抗議集会に参加しないまでも、仕事を休む人もたくさんいたので、多くの職場やお店、レストランでは、事実上の休業(a day off)となってしまいました。
カリフォルニアの野菜畑でも、フロリダのオレンジ畑でも、シカゴの運輸会社でも、開店休業となったのでした。
サンノゼでも、10万人近くが抗議デモを行い、サンフランシスコでは、生徒の5分の1が学校を欠席したそうです。
そして、わたしも、このボイコットをちょっとだけ味わいました。以前お話したように、書斎棚が未完成のままなのですが、これを完成させようと、この日、新たな契約書にサインしたのです。けれども、担当者と一緒に来る予定だった取り付けのマネージャが、下見に現れなかったのです。どうも、契約書の担当者以外、オフィスはシャットダウンしていたようです。
ご存じのように、アメリカは、移民(immigrants)によってつくられた国です。
建国以来、ヨーロッパやアジア諸国から幅広く移民を受け入れてきましたし、さまざまな文化や考えを持つ移民の影響で、飛躍的に成長してきたといってもいいのです。
そして現在も、多くの分野で、移民労働力が使われています。たとえば、農業や建築業、精肉業、組立工場では、安い賃金で働く移民が雇われるケースが多いのです。そうすることで、商品や製品のコストが抑えられるからです。
ところが、近年、大きな問題が出てきました。毎年、数えきれないくらいの不法移民(illegal immigrants)が流入するので、全米では1千万人を超えるまでになってしまいました。2千万人近いという推計もあります。多くは、メキシコを始めとして、アメリカと地続きのラテンアメリカからの人々です。
そして、不法移民の人口が膨らむにつれて、一部の市民の間では、不満がくすぶり始めます。
不法移民がいるから、アメリカ市民の職が奪われ、失業率が上がるのだ。彼らは税金をちゃんと納めないのに、社会としては何かしら不法移民への援助が発生してしまう、だから、税金の無駄遣いだ、などなど。
今では、10人に8人のアメリカ市民が、不法移民問題は収拾がつかない状況だと考えているそうです。(いかに不法移民とはいえ、多くの場合は、ちゃんと税金を支払っているのです。しかし、市民の中には、「税金も払わずに」と、固定概念を持っている人も多いようです。)
このような国民の不満にこたえようと、大統領は移民法の改正案を提案します。不法移入を重罪とし、厳しく取り締まろう。しかし、その一方で、移民労働力が貴重なことは否めない。だから、一時労働許可の制度(guest worker program)を作ろうじゃないかと。
けれども、これには、両サイドから批判が出る結果となっています。移民サポーターからは、「国境を越えることが重罪とは、なにごとか!」とおしかりを受けるし、移民反対派からは、「一時的な労働許可は、その後の不法滞在や不法就労を招くばかりだ」と非難の声が上がります。
そして、そんな中、移民サポーターが全米で抗議のシュプレヒコールを上げたのが、5月1日の「移民のいない日」でした。「不法であろうがなかろうが、移民がひとりもいない不便さを味わってみろ!」 これが、メッセージだったのですね。
シリコンバレーといわれるサンタクララ郡にも、実は、多くの不法移民が住んでいるそうです。その数は10万人、つまり18人にひとりの郡の住民が、不法滞在とも言われています。
でも、普段暮らしていると、誰が不法滞在なのか、誰が合法なのかはわかりません。それほど深く、彼らは日常生活に溶け込んでいるからです。
たとえば、家をお掃除してくれるハウスクリーニングの会社では、そのほとんどがラテンアメリカ系の人で、そのうち何割かが不法なのかもしれません。でも、見た目にはまったくわかりません。
庭の芝生や植木のメインテナンス会社でも、実際に働くのは、ラテン系の人たちです。中には、まったく英語を話さない人もいるので、そういう人たちは、もしかしたら不法なのかもしれません。
家を建てるにしてもそうです。ああいうきつい仕事は、アメリカ人はやりたがりませんので、ラテン系の労働者に頼るしかありません。その何割かは不法なのかもしれません。
農地でもそうです。多くの作物は、ていねいに手で摘まなくてはいけません。炎天下、そんなきつい仕事をアメリカ人がやるわけがありません。でも、誰かがイチゴやオレンジやレタスを収穫しなくてはいけないのです。
雇う側だって、いちいち不法か合法かを気にしてはいられない事情があります。なぜなら、仕事をこなすために人を雇わなければならないわりに、外国から合法的に人を雇うことは、制度的に非常に難しいのです。莫大な時間と労力がかかるのです。だったら目をつぶるしかありません。
国境を不法に越えてくる人にしても、彼らなりの道理があるのです。自分たちにだって、人間らしく、少しでもましな生活をする権利があるはずだ。命をかけても国境を渡りきり、アメリカで働いて家族を養いたいと。
今までのように、アメリカが政治でも経済でも世界のリーダーだったら、移民に対する不満は、もみ消されていたのかもしれません。そんなことは小さなことだよと。
でも、今は、状況が異なります。中国やインドがどんどん成長してきているし、そのあとにヴェトナムやマレーシア、そして東欧諸国なども控えています。
だから、国民の間にも、ある種の焦りや保身の考えが起こるようです。今あるものを何としても守らなければと。
移民の国としての誇りを持つ一方で、このまま移民の数が急激に増えたらどうなってしまうのだろうと、不安はどんどんつのります。
そういった複雑な心境が、「移民のいない一日」に凝縮されている、そんな気がしてならないのです。
太極拳の日
- 2006年04月30日
- エッセイ
4月29日の土曜日は、久しぶりにサンフランシスコに行ってみました。
この日は、「世界・太極拳と気功の日(World Tai Chi & Qigong Day)」とされていて、世界中みんなで太極拳や気功を楽しみましょう、という日なのだそうです。
ちょうど一週間前が「地球の日(Earth Day)」でしたが、いつもこの地球の日のあたりが、太極拳の日とされるようです。
この日、サンフランシスコのゴールデンゲート公園では、わたしの太極拳の師の門下生や知人が集まり、芝生の上で体操です。
こちらは遠く離れたシリコンバレーから参加するので、9時半の集合にも7時過ぎには起きなくてはなりません。せっかくの土曜日なのに。
まあ、友人に運転してもらったので楽ではありましたが、1時間の行程はちょっと疲れます。だから、到着した頃はちょっと不機嫌です。
ところが、バラの花壇が広がるローズガーデンにたどり着き、みんなで準備運動を始めると、途端に、そんな不機嫌はどこへやら。とにかく、気持ちがいいのです。
その朝、サンフランシスコには霧がかかり、空も白々としていましたが、そのひんやりとした霧の粒が心地よいのです。動いて温まった体を、ちょうどよい体温に下げてくれます。
そして、緑に囲まれて動くのも、とても気持ちよいのです。緑は目に優しいですし、空気も新鮮です。
なんとなく、木々が一緒に呼吸しているのがわかるような気もしてきます。空気はキリリと冷たいのに、辺りには、なにかしら暖かいものが漂います。
そして何よりも、普段顔を合わせることのない門下生が一堂に集い、一緒に体を動かすのも楽しいものなのです。
師匠は、サンフランシスコ・ベイエリア中で教えているので、サンフランシスコ、サンノゼ、コンコードと、あちらこちらから集った門下生が、普段の「修練」を互いに披露します。
みんなで太極拳や気功をしていると、お散歩の人や観光客グループの興味の対象にもなったようです。
東欧人らしき観光客の集団が、すぐ近くまでよって来て、ガイドがこんな説明をしていたようでした。「サンフランシスコは中国系の住民が多いので、公園では皆で太極拳をするんですよ」と。言葉はわかりませんが、「タイチー」という単語が聞こえたので、なんとなく想像はつくのです。
ゴールデンゲート公園は、地元の人の大事な息抜きの場でもありますが、観光客がバスで大挙して押し寄せる名所でもあるのですね。
この日は、地球の日にちなんで、みんなで輪になって地球に「ありがとう」とごあいさつもしました。わたしたちを育む大地に感謝し、自然のことをちょっとでも考えるために。
とくに、西洋文化では、自然は制覇するべきものであり、「人間対自然」という対立の構図ができあがりやすいのです。太極拳をはじめとして、自然と共に生きる東洋の思想を学ぶのは、とても大切なことなのかもしれません。
追記:翌日の日曜日は、サンフランシスコのゴールデンゲート橋で、別の集いが開かれるとも聞きました。
以前、「オリンピック」というエッセイでご紹介したこともありますが、アフリカのスーダンにあるダーフール地域では、「民族浄化」ともいわれる紛争が繰り広げられています。それに講義するための集いなのです。
この日は、アメリカ全土で抗議の集会が開かれるそうですが、サンフランシスコでは、ゴールデンゲート橋の端から端まで、みんなで手をつないで埋め尽くすプランだとか。
サンフランシスコは、もともと新しい社会の動きが生まれやすいところです。テクノロジーの先端であるシリコンバレーとは、ちょっと雰囲気が異なるのですね。
行くたびに何かしら違った刺激を受ける、わたしにとっては、そんな街なのです。
アメリカに住んでいて、ときどき自分でハッとすることがあるのです。今のは、ちょっときつい表現だったかなと。
日本語で話すときと英語で話すときは、何となく性格が変わってしまうのか、それとも、英語自体が白黒はっきりしている言語のせいなのか、それはよくわかりません。でも、日本語では絶対に言わないようなことを、ズバリと言ってしまうことがあるのです。
アメリカでは、半年に一回、半強制的に歯医者さんに行かされます。歯垢(plaque)や歯石(tartar)を取るデンタル・クリーニング(dental cleaning)に行かされるのです。
一回行けば、半年後の予約を自動的に入れられるので、あちらのペースにはまって、ずっと通うことになるのです。
あるとき、クリーニングの都合が悪かったので、歯医者さんのオフィスに電話し、予約を変更してもらいました。ついでに、担当の衛生技師(hygienist)も変えてもらうことにしました。
今まで何年も担当してくれていたバーバラ女史は、職業病から肩がおかしくなり、一年前に手術をしていたのでした。
復帰後、一回やってもらいましたが、もう以前のように完璧ではありませんでした。シミも残ったままでしたし。おまけに、コーヒーや紅茶を飲むことが、まるで犯罪のような口ぶりだったし。
そこで、別の人をお願いしますと言うと、「シルヴィア嬢になりますね」との答え。実は、このシルヴィア嬢が、クセモノなのです。一度やってもらったら、痛いは、血は出るはで、一回で懲りたのでした。
そこでつい本音が出て、こう言ってしまったのです。I had her once, but I didn’t like her at all(彼女には一度やってもらったけれど、私あの人ぜんぜん好きじゃなかったです)。
ところが、現時点では衛生技師はふたりしかいないとのこと。仕方がないので、シルヴィア嬢で我慢しようと、こう答えました。Well, she was just starting out when I had her, so she may be better by now(そうねぇ、私が彼女にやってもらったときは、彼女は仕事始めてすぐだったから、今はもうちょっとマシになっているかもね)。
いずれにしても、日本語では絶対にこんなことは申しません。
先日、そのシルヴィア嬢にクリーニングをやってもらいました。そして、以前痛かった理由がようやくわかったのです。彼女は荒っぽいのではなく、歯ぐきの奥の方まで、一本ずつ丁寧におそうじしてくれていたのです。
前回は、何も説明してくれなかったので、その親切がわからなかったのです。そして、ただ単に荒っぽい人だと思ってしまったのです。
シルヴィア嬢は、中国系かのアメリカ人で、英語はネイティブではありません。だから、あんまり口数が多いほうではないのです。
でも、やってもらう側としては、何が問題があるのかとか、どういう処置をしているのかと、きっちりと説明してほしいのです。黙ってゴリゴリやられたら、単に「下手くそな人ね」と思ってしまうではありませんか。
一般的に、東洋人は、自分の行動を正当化する(相手にわかるように表現する)ことに慣れていません。一方、アメリカでは、きちんと相手に説明しながら行動を取るようなところがあります。黙って何かをやったら不気味に思われることもありますし。
だから、シルヴィア嬢も、いい仕事をしているのに、アメリカ人の患者には誤解されやすいんじゃないかと思った次第です。
こちらからシルヴィア嬢に声をかけたら、ご親切なことに、きちんとした歯の磨き方まで指導してくれました。決して無口な方ではないようです。
その日着ていた鮮やかなブルーのカーディガンが、「あら、いい色ね」と、会話のきっかけを作ってくれたのかもしれません。
写真のご説明:半年に一回歯医者さんに通うと、いろいろおまけグッズをもらいます。だいたい、歯ブラシ(tooth brush)、歯磨き粉(tooth paste)、デンタル・フロス(dental floss)の三種の神器が多いです。
写真の「ノコギリ」みたいなものは、フロスの一種です。片手で歯の間をそうじできるタイプです。最近は、電動フロスなどもあるようですが、これは歯並びのよい人にお勧めだそうです。
ちなみに、デンタル・クリーニングでは、歯をきれいにするだけではなく、気になる部分のレントゲンを撮ったり、歯医者さんの点検(dental checkup)があったりします。歯が痛くなくても歯医者に通う、これは大切なことかもしれませんね。
アメリカ文化では、きれいな歯並びと真っ白な歯というのは、とっても大事なことでして、これにかける費用は日本人の比ではないでしょう。
ティーンエイジャーのブレース(brace、歯並びの矯正器)などは、テレビでもよくご覧になると思います。歯の漂白キットだとか、レーザーを使った漂白なども人気の高いものですね。
とかくアメリカは住みにくい パート2
- 2006年04月27日
- Life in California, 交通事情, 日常生活
前回のお話で、アメリカという国は、大変なんだという話をしました。何ごとも一度じゃ絶対にうまくいかないからです。
そして、もうひとつ大変なことは、人によって言うことが違うことです。
電話会社とかケーブル会社とか、そんな日常つきあいのある会社は勿論のこと、警察官だって、人によって言うことが違うみたいです。
何年か前のことですが、会社の大ボスが、いつも行くスーパーの近くで警察に止められたことがありました。どうも運転中にミスをしたようなのです。
「きみきみ、道路の黄色い二重線を越えちゃいけないこと知らないの?」と警官。
「エッ、そうでしたっけ?」と大ボス。
大ボス氏は、黄色の二重線を越え左折したあと、スーパーのあるショッピングモールに入ったのです。どうもそれが、立派な違反らしいのです。
ここでちょっと補足ですが、アメリカは右側通行ですので、両方向の小さな道路で左折するときは、何らかの車線分離線を越えることになります。
カリフォルニアでは、中央分離帯がない場合、両方向の交通を分離する線は黄色で、それには二重の実線と、実線と点線のコンビの二種類があります。
写真が二重線のものです。これがあると、追い越しはできません。一方、内側が点線になっていると、左折と追い越しは可能です。
ちなみに、信号のある交差点には黄色い線などはありませんので、信号の通りに進めばよいのです。
かわいそうに、警官に止められた大ボスさん。「二重線で左折は禁物!という、そんな基本的な交通法規も知らないのか」と説教された挙句、ごていねいにチケットを切られたとか。
大ボスは愚痴を言います。そんな規則、カリフォルニアにはないと思っていたのに。
この話に恐れをなしたわたしは、それ以降、何年も、黄色い二重線を絶対に越えてはいけないんだと信じていました。例のスーパーに行くのだって、二重線越えの左折は避け、遠回りをしていました。
ところが、よく道路を見てみると、絶対に左折が発生する場所でも、ずっと黄色い二重線は続いています。論理的に考えて、これを越えずに左折というのは不可能なのです。
たとえば、この写真の箇所。左には住宅地へ通じる道があり、ここでは左折が発生します。なのに、二重線には切れ目すらありません。
そして、不審に思ったわたしは、カリフォルニアの運転マニュアル(California Drivers Handbook)を覗いてみました。すると、なんと、あの警官がウソを言った事がわかりました。
「黄色い二重線を越えて、他の車を追い越してはいけないけれど、左折するのは構わない」と!
何年も間違いを信じこんでいたわたしも暢気なものですが、それよりも、善良な市民をつかまえてウソをつく警官というのも考えものですね。いや、一般市民が交通法規を勝手に作り出しているのは身にしみていましたが、まさか警察もとは。
カリフォルニアの警察の方々、もっと勉強してください!
おまけ:ちょっと状況は違いますが、以前、お店の人が勝手な自己解釈でものを言っていることを書いたことがあります。
大好きな映画「スターウォーズ」のDVDを追い求め、あちらこちらをさまよったお話です。一番おしまいの「おまけのお話:スターウォーズを求めて」をどうぞ。
とかくアメリカは住みにくい
- 2006年04月26日
- Life in California, お金・経済, 日常生活
アメリカという国は、いいところもたくさんあるんです。が、とかく住みにくいものでして、住んだ日数だけ不満がたまっていくようなものなのです。
なぜって、何ごとも一度ではうまくいかないからです。一回でピシャリ、そんなことは、妄想でしかないのです。
今悩んでいるのが、自宅に作ろうとした書斎棚です。作り付けの棚を壁一面に置き、仕事とエンターテイメントを兼用する便利なスペースを作り出そうと考えているのです。机、本棚、ファイル用引き出し、そして薄型テレビや音楽機材など、なんでも置ける万能棚です。
これができればさぞかし便利だろうと、昨年の11月の初め、あるクローゼット会社と契約を結びました(クローゼットというのは、もとは「戸棚」とか「押入れ」という意味ですが、アメリカには、オフィス用、寝室用、ガレージ用と、さまざまな作り付けの棚を入れてくれる会社がいっぱいあるのです)。
ついでに、居間にも、CDのコレクションを収める引き出しと、飾り棚を作ってもらおうということになりました。ぽっかりと空いたスペースがあるので、そこにきっちり棚を入れてもらおうという計画です。
勿論、材料を注文したり、実際に戸棚を作製したりと、ある程度の時間がかかるのはわかります。けれども、とにかく何ごとに関しても時間がかかり過ぎるのです。
問題はすぐに発覚します。まず、小手調べのCDの棚が、スペースに入らないのです。デザイナーが寸法を測り間違えたせいでした。
ようやく寸法が合ったと思ったら、今度は、インストール(取り付け)の際、担当者が傷はつけるは、ヒンジが曲がっているは、まったく使い物になりません。
おまけに、CDが入るようにちゃんと仕切りを入れてちょうだいと頼んだら、何ともお粗末な、スペースの無駄使いでしかないプラスチックの台を入れてよこしました(写真は4回目のトライで未完成の棚。ペタペタ貼ってあるのは、問題の箇所の目印)。
文句を連発した末、仕切り板を入れただけの、すっきりした引き出しを作り直してくれました。なかなかの職人芸です。インストールも、マネージャ自身にやってもらったので、傷もなくうまく行きました。が、これはなんと、6度目の正直です。気が付いてみると、年も明け、もう2月中旬でした。
なんということもない、単純な棚でこうなのですから、書斎・エンターテイメント棚は一筋縄じゃ行かないことくらい、予想はついていました。しかし、こんなに辛い行程だとは。
年末・年始は日本で過ごす計画だったので、契約を結んだ際、戻ったらすぐにインストールを始める約束をしました。ところが、実際、材料を運んで来たのは、1週間後。なんだか雲行きが怪しいなと思いながら、それでも、なんとか少しずつ形になっていきました。
しかし、ちゃんと机も入れ、大枠ができた段になって、柔らかい木の部分に無数の傷がついているのがわかり、一度全部解体して、塗料を塗りなおし、もう一度組み立てる必要が出てきました。インストールの担当者が、腰にぶら下げた道具で、ガンガン傷つけていたようです。
当初は3日間でインストール完了などと言っておきながら、3日経ってみると、3歩進んで3歩下がるような状態です(インストール3日後、嬉しくて写真を撮ったのも束の間、翌週すぐに解体作業となりました)。
と、こんな調子なのですが、契約が成立して6ヵ月間の長い、苦しいプロセスを要約しますと、外注した扉の寸法は間違うし、すべての木のパーツは、インストールしたあとに塗り直しや作り直しが必要となりまして、結果として、まだ完成していません。
まあ、ひとことで塗り直しなどと申しましても、一度ヤスリで全部塗料を落とした後、丁寧に塗り直すのです。彼らだって、仕事は他に山ほど抱えています。優先的にやってもらうには、それ相当の交渉も必要なのです。
そして、現状は、こんな感じ。何がしかの前進があったのは、もうひと月以上前のことです(写真をご覧になってわかるように、上の写真からはほとんど進展がありませんよね)。
でも、当分の間このままなんです。
なぜって、2週間ほど日本に行っている間に、このクローゼット会社が雲隠れしてしまったからです!
実は、仲良くなったインストールのマネージャから、事あるごとに、この会社は危ないことを聞いていたので、日本に行く前日、「お願いだから、わたしが日本に行っている間にいなくならないでね」と念を押しました。「訓・Discipline(鍛錬)」と両腕に派手なタトゥー(刺青)を施した彼とは、妙にウマが合ったのです。けれども、彼ひとりの力では、どうしようもなかったようです。
「あ〜、日本に行かずに、さっさとインストールを終えていたら」と後悔しても、後の祭。
今はどうしているかってお思いでしょう。このクローゼット会社の親会社から紹介された、直属の子会社と交渉中なのです(逃げた会社は、単なるフランチャイズで、素人のオーナーがやっている、小さな個人経営の店でした)。
悔しいことに、夜逃げした店の倉庫には、うちのパーツがきちんとした姿で入っていることはわかっているのに、誰も鍵を持っていないので、パーツを取り出すことができないのです。ということは、必要なパーツは一から作り直し。
あちらさんは、状況は同情に値するけれど、こっちだって商売なんだから、そんなにオマケはできないよという態度です。
こちらも“That’s outrageous (それってぼったくりでしょ)!”と叫んでみたり、“Can’t you come down a little bit more (もうちょっとオマケできな〜い)?”と猫なで声を出してみたり、必死に応戦します。
もう一声!とねばるこちらに、あちらも500ドル下げてきたので、めでたく手打ちとすることにいたしました。きっと「あんたも tough cookie(手ごわいネーチャン)ね」と言いたかったのでしょうが、そこは紳士。黙って笑います。
まあ、もともとの契約よりもちょっと高くなりますが、仕方がないでしょう。他のクローゼット系列会社とは、ヒンジも何も違うのですから。そして、こちらも力尽きているし。
お店が逃げたなんて唖然としてしまいますが、比較的なんでもしっかりしているカリフォルニアでも、こんなことは起こるんですねぇ。
いつの日にか、完成をご報告できればいいなと願っているところです。
春の花、日本にて
- 2006年04月25日
- フォトギャラリー
エッセイのセクションで「桜」のお話をいたしました。けれども、それだけでは何となく物足りないので、もう少し、お気に入りの写真を掲載してみます。
東京では、あちらこちらで美しいソメイヨシノに出会いました。撮った写真は数えきれないくらいです。上野公園の名所もさることながら、六本木ヒルズのような新名所でも、幼い桜が一生懸命に花をつけます。
一番のお気に入りは、やはり京都でした。
3枚目の写真は、全国の桜を守る「桜守」、佐野藤右衛門さんのご自宅の桜です。何も知らずにタクシーの運転手さんに連れていかれたのですが、それだけに、インパクトは大きなものでした。こんなにきれいな花が世の中にあるものかと。
円山公園の桜は、藤右衛門さんが手塩にかけています。だいぶ弱ってきたので、今は少しずつ土の入れ替えをしているところだそうです。一時の勢いはありませんが、きっと盛り返すことでしょう。
京都御所の桜も見事なものでした。ちょうど御所公開の初日に当たり、庭園も御殿も楽しめました。自由奔放に枝を伸ばした桜に、自然の力を感じます。
桜だけではありません。桜の名所・仁和寺では、桜は固いつぼみでしたが、その代わり、ツツジのような鮮やかな花が、来訪者を出迎えます。
北野天満宮では、梅が満開でした。母は、かんざしみたいと感嘆し、連れ合いは、団子みたいだと表現します。どちらにしても、本当にかわいらしい花でした。
京の華は、先斗町(ぽんとちょう)にも咲きます。タクシーの中で、ちょっとはにかむ舞妓さんです。
そして、二条城の庭園にもひとり。この方は、舞妓さんほどきれいなおべべは身に付けていませんが、無心に雑草を抜く後姿がうつくしい。
「花より団子」は、鴨川でお弁当を広げる外人さんふたり。川原は公園のように人が集まり、お弁当に最適な場所となっています。それを狙ってカラスが飛んでいました。
花かと思いきや、こちらは、おみくじの結び木。まさに満開です。平安神宮には、訪れる人も多いようです。ここは、しだれ桜で有名なところ。庭園は3部咲きともいえないくらいで、とても残念でした。春先の寒さが影響したようです。
うまくタイミングを計れるなら、それは自然ではありません。きれいな花にどこで出会えるかと気を揉みながら歩くのも、花見の醍醐味かもしれません。
卯月:桜を愛でる
- 2006年04月24日
- 旅行
Vol. 81
またまた、日本に行ってきました。今回は、京都を旅しましたので、この旅のことなどをのんびりと綴らせていただきます。どうぞ、ごゆるりと。
<桜>
よくまあ日本に里帰りするものだと感心なさっている方もいるかと思いますが、何を隠そう、今回の日本訪問には、「桜を愛でる」という大事な目的があったのです。粋な日本人は、この時期、桜を楽しまなくてはいけません。
というわけで、東京でも、旅先の京都でも、いろんな桜を充分に楽しませていただきました。
桜といえば、まず頭に浮かぶのが、ソメイヨシノです。日本全国どの学校に行っても、校庭に植わっているのは間違いなくこの品種ですね。入学式とソメイヨシノは、切っても切れない関係にあります。
江戸の終わりから明治の初めにかけて、染井村(現在の東京・豊島区)の植木職人がオオシマザクラとエドヒガンを掛け合わせてつくったのが、ソメイヨシノだそうです。染井村から来た「吉野桜」というネーミングから、「染井吉野」として知られるようになったようです。桜の名所でもある染井霊園では、その名に恥じないほど、見事に咲いていました。
お恥ずかしい話、今まで桜には、ソメイヨシノの一重と、シリコンバレーの自宅に咲く八重(「関山」という品種)くらいしか認識がありませんでした。しかし、京都に行って、それは大きな誤解であることに気付きました。
そもそも、京の都では、桜といえば染井吉野なんかではないらしいです。そんな百年やそこらの歴史の浅いものではなく、古来愛でられてきた山桜や彼岸桜を指すのだそうです。そう、日本に自生する桜は、主に山桜、彼岸桜、そして伊豆大島が原産の大島桜に大別されるのです。関西では、大島桜は生えないとか。
山桜は、遠く平安時代から馴染みの深い奈良県吉野山や、京都御所・紫宸殿の左近の桜に代表されるものです。京都の街中でよく見かける彼岸系の枝垂れ桜(しだれざくら)も、樹齢3百年というのはザラだそうです(写真は、4月5日から5日間一般公開された、京都御所・紫宸殿の左近の桜です。残念ながら、満開とはいきませんでした)。
京都に桜を見に行くにあたって、珍しく下調べなどしてみたのですが、その中で、実に素晴らしい記述に出会いました。「日経おとなのOFF」なる雑誌のインタビュー記事だったのですが、お相手の第16代・佐野藤右衛門氏の語りに魅了されてしまいました。
佐野藤右衛門とは、京都で代々世襲制の造園家のことですが、第16代藤右衛門さんは、日本全国の桜を守る「桜守(さくらもり)」としても有名な方なのです。
まず、京に見られる山桜や彼岸桜の日本古来の桜は、幹の姿、花の色・形・大きさと、一本ごとの個性を持つ。一方、育ちやすく、人間に都合のよい“便利な桜”として植樹された染井吉野は、クローンのように容姿も同じだし、一斉に花を咲かせ、散ってしまう。
ひと言で京都の桜といっても、西と東では、微妙に種類が異なる。地質が違うから。風化花崗岩の東側には彼岸系の桜が多く、チャート質の西側では山桜系が中心。こんなことを知っているだけで、京都の花見は面白くなる。でも、桜の種類を覚えるのは、やめたほうがいい。きりがない。山桜、彼岸桜、大島桜、この基本種だけでいい。
そして、桜の上手な愛で方は、幹のそばまで寄って、上を向いて眺めること。花は下向きに咲くから。「今年もよう咲いてくれたなあ」と語りかけ、幹を撫でるのがよい。あちこちの桜に浮気せず、毎年訪れる木を探すこと。(月刊「日経おとなのOFF」2006年4月号より)
ちょっと耳が痛いようですが、「花見で絶対あかんのは、ビニールシートを敷いた宴会」だそうです。桜が呼吸できずに苦しがるから。もっといけないのは、カラオケ。音の振動が幹に伝わって、花を早く散らすから。桜は、とってもデリケートな生き物なのです。
筆者自身、日本は初めてというアメリカ人に桜を見せてびっくり。幹をゆすって花びらを散らすのかと聞いてくるし、いきなり花をもいで、香りをかごうとするのです。「あら、においはないのねぇ」などとのたまいます。まったく愛で方がなってない!
そして、藤右衛門さんがあちらこちらで力説するに、女性にはすべて「姥桜(うばざくら)」になってほしいとのこと。女性差別と誤解されるような発言ではありますが、実は、長い年月を重ねたものにこそ、美しい花が咲くという意味なのです。 若い木には“色気”はあるけれど、“色香”はない。「皺くちゃになった幹の姥桜は、はっとするほど美しい花をつける」のだそうです。
その藤右衛門さんのご自宅の庭に、知らないうちに連れて行かれました。嵐山で偶然ひろったタクシーの運転手が、京都案内のプロの方で、どうせ街に戻るなら、すごい桜を見せましょうと寄ってくれたのです。
右京区の広澤池近くにある、藁葺きで趣のあるご自宅ですが、庭には、いろんな品種の桜がずらりと植えられています。「種類なんか覚えんでよろし」との仰せに従い、名前なんかまったく気にしていませんでしたが、「台湾寒緋桜(たいわんかんひざくら)」とか「手弱女(たおやめ)」というのがあったような気がします。
中には、花をまったくつけていない木もありましたが、白っぽいものや、薄いピンクのものは、今まさに、満開というところでした。
習った通りに、木の真下から見上げると、花びらが全部顔に降ってきそうです。優雅な花を一気に咲かせる勢いの中に、可憐で、華奢な一面もあり、その美しさは、この世のものとは思えませんでした。この庭で一日を過ごせと言われても、何の苦にもならなかったでしょう。
命尽きたら、花の下で眠りたい、そういった願いもよくわかるような気がします。
桜の古木には妖気があるともいわれます。桜という植物は、実は、あちらの世界に近い生き物なのかもしれませんね。
<舞妓さん>
舞妓(まいこ)さんを見ました。先斗町(ぽんとちょう)の通りには、ひと目見ようと大勢の見物人が集まり、まるでスター並みの扱いです。 舞妓さんの通り道には、外人さんもたくさん集まります。京都といえば、古い街並みと舞妓さん、これはどこの国の人にも徹底しているようです。最近のハリウッド映画の影響もあるのでしょうか。
運よく、「都をどり」の開催期間だったので、劇場でも間近に舞妓さんを拝見できました。ほとんど出ずっぱりの方もいて、踊りを覚えるのはさぞかし大変だろうと、いらぬ心配をしてしまいました。素人には、どの踊りも同じように見えるものですから、かえって覚えにくかろうと思うのです。
一時間の上演でしたが、演目も豊富で、まったく飽きることがありません。浦島太郎や源氏物語をかいつまんだ出し物が、若手の舞妓さんの踊りの合間に披露されます。舞台も小道具も、さすがに華麗なもので、これぞ芸人という域に達しています。
こんなエピソードがあります。
「都をどり」の劇場には、足繁く通うお客様もいらっしゃるそうです。不思議と、舞台の上からもお客様の顔がよく見えるらしく、知った顔を見つけたときは、とても嬉しいとか。舞台からは笑ったり、手を振ったりできないので、目が合うと、微妙に表情を変えるなどという心憎い技があるそうな。
ひと月の長丁場が千秋楽に近づくと、ベテランのお客様は、ちょっと疲れた舞妓さんたちを笑わせにやってくるそうです。最前列に数人並んで、突然変装グッズをつけだしたり、バナナを取り出し同じ動きで食べだしたり。花道近くに陣取り、饅頭いかがと差し出す人も登場する始末。
でも、「今はそんなてんご(悪ふざけ)しはる人いはらへんのんと違うかな?」と、ベテランの芸妓さんはおっしゃいます。(朝日新聞4月5日付、あいあいAI京都・島原司太夫さんの「司の花街物語」より)
それにしても、花街には、いろんな遊び方があるものですね。
<京都国立博物館>
京都で宿泊したホテルは、三十三間堂のお隣にありました。住所は、三十三間堂廻り644番地といいます。ビジネスホテルを改造して、最近オープンしたばかりで、隠れ家的な雰囲気が漂います。
聞けば、ホテル改造に際し、地区の概観を壊さないようにと、外をいじることは一切許されなかったそうです。そして、部屋から見下ろす庭園は、なんと後白河法皇のものだったとか。そういえば、後白河天皇陵は目と鼻の先です。着いていきなり、京都の歴史の深さを実感させられます。
ホテルのお向かいは、京都国立博物館です。今まで三十三間堂を訪ねたことはありますが、博物館の方はすっ飛ばしていました。外国旅行すると、必ず博物館や美術館に出向くくせに、国内のものは敬遠しがちなのです。
ところが、今回は、どうしても国立博物館に行く用事がありました。一昨年の10月、サンフランシスコから成田へ向かう飛行機の中で、この博物館の文化資料課長さん、K氏に出会ったからです。京都へ来たら、ぜひお寄りなさいと誘ってくださったのです。
博物館のことは明るくありませんが、どうも「文化資料課長」というのは、次は何の展覧会にしようかとか、展示物はどれにしようかとか決定する人のことのようです。いいものを探し求め、文字通り、世界中を飛び回るお仕事のようで、筆者がサンフランシスコからご一緒したのも、近年きれいに改装されたアジア美術館の館長さんに、展覧会のご相談があったからだそうです。その日系女性の館長さんとは、昨夜遅くまで一緒に飲んでたよ、とワイングラスを傾けながらおっしゃっていました。
K氏は美術の専門家である一方、型破りなところのある御仁のようで、映画「スターウォーズ」の特別展を開いた実績もあり、監督のジョージ・ルーカス氏ともお知り合いだそうです。そのときは、京都の国立博物館でスターウォーズ展とはなんたることかと、手厳しい叱責もあったとか。華やかな舞台の裏では、波風が立つこともあるのです。
成田へ向かう機上では、浮世絵の本物・偽物の見分け方だとか、美術品を発掘するリサーチ方法だとか、京都の商家のお蔵に潜むお宝だとか、いろんなお話を聞かせていただきました。どうやら、浮世絵を品定めする鍵は、手すきの和紙にあるそうな。
中でもとりわけ印象深かったのは、京都美術の層の厚さです。たとえば、古いお寺や商家に行くと、凄い価値の襖(ふすま)が日常何気なく使われている。それを、お掃除のおばさんがバタバタとハタキをかけるものだから、顔料が剥落してしまうじゃないかと心配になる。「お願いだから、優しくハタキをかけてねとお願いするんだけど、どこまで伝わっていることやら」とのこと。
そして、こういう古いお宅には、昔っから、「災害避難マニュアル」が備わっていて、地震や火事のとき、外に持ち出すものがきちんとリストされているそうです。まず、絶対に持ち出さなければならないものから始まって、時間があれば取りに戻るものが、順番に明記されているのです。
そういえば、今回の旅で、嵐山の天龍寺庭園を見学したあと、ふと目に留まったものがありました。駐車場の番小屋の外壁に、「文化財市民レスキュー」と書いた箱が備え付けてあったのです。何だろうと眺めていると、中から出てきた男性が、「火事なんかがあったとき、この箱を壊して中から避難具を取り出し、人を助けられるようになってるんですよ」と説明してくれました。箱は薄いベニヤ板でできているので、鍵がなくとも簡単に壊せるとか。さすが、古都・京都の備えはたいしたものです。
というわけで、一年半前の約束を果たすべく、旅の最終日、京都国立博物館に向かいました。残念ながら、K氏は、直前に同志社大学に移られたそうで、お会いすることはできませんでした。
けれども、ちょうど、サンフランシスコのアジア美術館に特別展示した作品が戻ってきたところで、帰国記念の展覧会が開かれていました。「18世紀京都画壇の革新者たち」と題され、与謝蕪村、池大雅、円山応挙といった名画家の作品が一堂に集められたものです。
18世紀という時期は、元禄文化と文化文政(化政)文化という二つの頂点に挟まれた谷間とも解釈されるそうですが、京都においては、谷間どころか、凄みのある絵画の黄金期だったそうです。
日本画などまったくわかりませんが、数ある名画の中で、曾我蕭白(そがしょうはく)は、いたく気に入りました。毒々しいほどの個性がある、ストレートな感覚の持ち主です。機上でも、K氏が、僕が一番好きで、もうすぐ展覧会を開くんだと熱く語っていた画家です。彼のコメントを思い起こし、会場で大きくうなずいてみました。
格別、なにといって構えなくとも、なにかしら学ぶものがある街。それが京都なのですね。
<三十三間堂>
雨も降っているし、ホテルのお隣ということで、三十三間堂に行ってみました。いままで二度ほど行ったことがあるのですが、こんなにおもしろい所だったのかと、ちょっと驚いた次第です。
三十三間堂は正式には蓮華王院本堂といい、後白河法皇が院政の庁として造営した御所内に設けられた寺院だそうです。中央の中尊とともに、お堂をびっしりと埋める千体の千手観音像で知られるところですね。
よく見ると、千体の観音さまはひとりひとり表情が違います。仏師によっても違うし、同じ仏師の作でも、年代によるのか、微妙な違いが見て取れます。千体仏の中には、会いたい人の面影に似た観音像が必ず一体はまつられている、と伝えられているそうな。
ここには、かの有名な風神・雷神像もあるのですが、特に目を引いたのは、千体の観音さまの前に並ぶ二十八部衆像でした。鎌倉時代の大火では、156体の千体仏とともに、かろうじて救出された貴重なものだそうです。もとはヒンドゥー教やバラモン教から伝わった等身大の諸尊で、目には「玉眼」と呼ばれる水晶がはめ込まれ、写実性に富んでいます。
二十八の諸尊では、古代インドで戦闘を好む悪神とされた「阿修羅王」が有名なものですが、それよりも、「迦楼羅王(かるらおう)」の方に目を奪われました。煩悩・魔障を食いつくす有翼鳥頭の音楽の神だそうです。顔は鳥といいながら、猿にも似ています。失礼なたとえをすると、映画「オズの魔法使い」に出てくる、翼の生えた猿みたいな感じでしょうか。
どうしてこの迦楼羅王に引かれたかというと、笛を吹く様子が、いかにも音楽の神という印象だったこともあります。けれども、そればかりではありません。迦楼羅王が動いたのです。片足で拍子を取りながら、体も笛の音とともに動いているかのように見えたのです。
まあ、それほど、写実的な像だったということでしょうか。
数々の仏像もさることながら、ここ三十三間堂には、「通し矢」という有名な行事があるそうです。三十三間堂の端から端まで120メートルの距離を、矢で射る競技だそうです。古来、24時間ぶっ続けで射る耐久部門もあったそうで、江戸時代、紀州藩の若者が、総矢1万3千本のうち、8千百余本を通した大記録があるとか。
ここで出会った初老の男性が、こんなことをおっしゃっていました。実際やってみると、三十三間堂の端から端までは、そんなに遠い感じはしないものだ。けれども、矢というものは、無我の境地にないと当たらない。邪念があると、大きな的でも外すし、邪念を捨て去ると、小さな的でもよく当たるものなのだ。そして、この「無我」こそ、日本人のみが持つ心。「自我」の西洋人には、到底理解できないでしょうなぁと。
<もうひとつの桜>
桜は、多くの人にとって、春に咲くきれいな花というイメージのものです。ところが、この桜を、どうしても楽しめない方々がいらっしゃるそうです。桜は、戦争を思い起こさせるから。
戦時中、桜は殉国の情を鼓舞する象徴として使われ、多くの若者が、桜を合言葉に出撃していきました。そして、散っていった。
だから、桜は、「いまだに気楽に眺められない。満開の横を通るときは、つい足早になってしまう」と、作家・城山三郎氏は述べています(朝日新聞4月1日付け、シリーズ「桜の国で」パート5より)。
その城山氏の「散華の花」のイメージは、90年代に入って、ようやく和らげられたそうです。美しさ、なまめかしさなど、多彩な桜の姿が記されたお仲間の本に触れて。50年経って、ようやく癒され始めた傷。彼にとっては、それが桜だったのです。
「桜」だけではありません。多くの人にとって、「愛国」という言葉も、素直には受け取れないものです。ごく最近も、教育基本法の改正案の中で、「愛国心」という言葉を明記するかどうかで、与党内でもめたことがありました。「愛国」という言葉は、過去の軍国主義の時代を思い起こさせるから。
この懸念自体、充分に理解できるものでありますし、このことに反論するつもりは毛頭ありません。ただ、何のわだかまりもなく「愛国心」という言葉を使えないことに、一種の寂しさを感じてしまうのです。
愛国心を英語になおすと、patriotismになります。形容詞のpatrioticという言葉とともに、アメリカではとても誇らしげに使われます。自分の国を愛し、何かをしてあげたいと思う、そういった意味を含みます。必ずしも、軍事的な意味合いで使われるわけではありません。
けれども、日本語の愛国心には、どうしても戦い・征服の含蓄があります。そんな歴史的流れの中でできあがったイメージを払拭することは、容易なことではありません。ですから、「愛国」と「忠君愛国」はいつまでも重なり、愛国心にまつわる論議は、今後も続けられることでしょう。
そういうことは充分に承知しているのだけれど、生まれ育った国を愛する心を、素直に「愛国心」と言ってみたい気がするのです。
<おまけのお話:ほんのり京都弁>
世に、お国言葉で綴った憲法9条の解説書があるそうな。遅ればせながら、ごく最近このことを知ったのですが、なにやらおもしろそうな本ですね。
みなさんご存じでしょうが、憲法9条とは、戦争に関する条文ですね。第一項では「戦争の放棄」を、第二項では「戦力の不保持・交戦権の否認」をうたったものです。
忘れている方のために。第一項は、こんなものです。「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。」(日本国憲法)
これを、京都の「舞妓ことば」で紐解くと、こういうことになるらしいです。「いやあ、あてらみんながほっこりええ気持ちで過ごせるような社会が、ほんまに来たらええなぁ思うとるんどす。そやさかい、どこぞのお国がいけずなことしぃはったかて、どないなこたあっても、てっぽ(鉄砲)持ってわやくちゃ(無茶苦茶)したりぜぇったいせえしまへん。そないなことしたら子ぉたちがどんな思いするか、どうぞ考えとくれやす。兵隊さん送るやなんて、てんご(悪い冗談)いわはったらあきまへん。送るんやったらおせんやべべにしときなはれ。」(坂井泉氏編「全国お郷ことば・憲法9条」より。作家・森村誠一氏の公式サイトに引用されていたものを抜粋させていただきました。)
なるほど、こういう風にやさしく解説してくれると、条文の中身がよくわかるものですね。
夏来 潤(なつき じゅん)
まだまだ雨季の空が広がるある土曜日、お隣さんから電話がありました。ちょっと悲しげな低い声で、これは尋常ではないぞと、こちらも構えて話を聞きます。
彼女がとつとつとして語るに、わたしが日本に行っている間に、ご主人がひどい心臓発作を起こし(had a massive heart attack)、救急車で病院に連れて行かれあと、緊急手術をしたというのです。
あと2日もてばいいほうでしょうと担当医も断言し、息子たちが遠くから駆けつけたほどだったようですが、幸い、奇跡的に命をとりとめ、今は静かに自宅療養をしているそうです。
お隣さんは、わたしの両親の年代なのですが、それゆえに、何かと面倒を見てくれるし、こちらも何となく気にかけている間柄です。
普段は、ほとんど顔を合わすこともなく、コミュニケーションは電話が多いのですが、何かあったときは、お隣の強みを発揮します。
わたしが外来手術を受けたあと、2時間で病院を追い出されたときは、その後、ずっと夕食を届けてくれました。
彼女が、ひどい関節炎で骨盤と大腿骨の手術を受けたときは、代わりに、わたしと面倒見のよいお向かいさんで食事を届けました。
以前は、「私は母親鳥の役だったのよ(I played Mother hen for you)」などと笑っていましたが、このときばかりは、こちらがちょっとだけ母親鳥をやらせてもらいました。
今の家に引っ越して9年間、お互いそんな関係でやってきたのでした。だから、今度のことも、ご近所さんから耳に入ったらわたしが気を悪くすると思って、わざわざ電話をしてきてくれたようです。
土曜日がやってくるごとに、夫の発作の驚愕がよみがえってくるせいもあったようです。どんよりした曇り空にも、心は晴れません。
楽しい話なら調子を合わせやすいのですが、何かしら悲しい出来事は、こちらもどう対応しようかとちょっと迷います。
突然のお隣さんの電話には、黙って耳を傾け、ときおり Oh no! だとか、I’m so sorry to hear that だとか、月並みな相槌をうっていたような気がします(この場合の sorry は、「お気の毒に」という意味ですね)。
Is there anything at all that I can do for you?(何かわたしにできることはありませんか)というのも、何回か尋ねてみました。答えは、ノーでしたが。
そして、電話が終わる頃になって口をついて出てきた言葉が、Keep your spirit high(気を落とさずに)、I’m praying for him(彼のために祈っているからね)でした。
何かひとこと言いたかったし、彼らはカトリック信者なので、祈ること(pray)を大事に思っているのがわかっていたからです。
すると、彼女は、こう答えます。We just take one day at a time(ふたりで一日一日を確実に過ごしていくだけよ)。
そして、かみしめるようにこう結びました。Cherish your every precious moment(時間を大事に使ってちょうだいね)。
誰かが辛いことに出会ったとき、英語にも紋切り型の表現はたくさんあります。けれども、一番大切なことは、つたない言葉であっても、自分の飾りのない気持ちを伝えてみるということなのかもしれません。
追記:楽しいことがあって、辛いことがあって、どこに住んでいても、いろんなことに直面します。だから、近しい人を失った方に接しなければいけない、そんな場面も出てきます。
以前、母君を亡くされた方にごあいさつする機会があり、それを書いてみたことがあります。アメリカでは、弔事は実にさまざまな形があり、これは、たったひとつの例ではありますが。
昨年6月、和歌山への旅行記のおまけとして書かれているものです。興味をお持ちでしたら、旅行記の部分は飛ばして、最後の話「おまけのお話:アメリカの弔事」をどうぞ。
こちらです。
サンフランシスコ大地震100周年
- 2006年04月19日
- Life in California, アメリカ編, 歴史・習慣
4月18日は、サンフランシスコ大地震から、ちょうど100周年でした。
1906年4月18日未明、サンフランシスコ西の海底を震源として、マグニチュード7.9の地震が起こり、サンフランシスコや周辺の街が大きく破壊されるという惨事でした。
サンフランシスコ市内では、亡くなった人は3千人を超え、倒壊した建物は3万にものぼったそうです。地震による被害も大きかったものの、その後の火事が災いし、3日後ようやく火を消し止めてみると、街の大半は壊滅していました。
サンフランシスコより南では、サンノゼやサンタクルーズの街が甚大な被害を受け、北には、サンタローザが壊滅状態にありました。
そんなカリフォルニアでは、地震国・日本と同じく、地震は常に頭を離れないものなのです。現に、1989年、またまたサンフランシスコで大きな地震があり、市の北部は特に大きな被害を受けました。
キャンドルスティック・パークでは、ちょうどメジャーリーグ野球のワールドシリーズをやっていて、地元のサンフランシスコ・ジャイアンツと、お隣のオークランド・A’s(アスレチックス)の対戦中、突然、試合と全米への生中継が中断されてしまいました。
だから、他国で起きる地震のニュースにも、カリフォルニア人は敏感なのです。11年前、「神戸は大変だったねえ」と言ってくれる人もありました。
100年前の大地震を忘れるなと、記念日に向かって、さまざまな行事が開かれていました。
記録写真の展覧会や、地震の専門家を囲む催しなど、科学的なものが目立ちますが、100年前の災害と復興活動を再現した演劇などもあります。
テレビでも、当時のフィルムを使ったドキュメンタリー番組だとか、地震のメカニズムやカリフォルニアに走る地溝についての教育番組だとかが、連日放映されていました。
そうなんです。サンフランシスコ・ベイエリアには、サンフランシスコからロスアンジェルスを突っ切るサン・アンドレアス地溝帯(the San Andreas Fault)を始めとして、数多くの地溝がウジャウジャと縦断しているのです。
真面目な話、いつ大地震が起きてもおかしくないんですね。向こう30年のうちには、確実に「大きなヤツ(“the Big One”)」が来るぞ! ともいわれています。 地震を避けて日本を脱出したい方には、ベイエリアは向かないかもしれません。
カリフォルニア全体でも、州民の4人に3人が、一番怖い天災は「地震だ」と答えるほどなのです。そのくせ、家を持っていても、お金がかかるからと地震保険には入らない人が多いし、ビルや住宅の耐震対策も後手にまわっているのが現状です。
この辺には、1階が全部駐車場という構造のビルやアパートも多いのですが、そういうのは、ほんとに怖いですよね。
さて、100周年を迎えるさまざまな真面目な取り組みの一方で、何でも楽しみに変えてしまうアメリカ人は、大災害の記念日にも明るく振る舞うのです。
記念日の前夜、サンフランシスコの名物・フェリービル(San Francisco Ferry Building)では、市長さんがライトアップのスイッチを入れました。このフェリービルは、1898年に建てられ、1906年と1989年の大地震を両方とも生き抜いた「つわもの」なのです。
まさに街の象徴ともいえるフェリービルは、ピンクやブルーのライトで照らし出され、100周年を表す「100」という文字が壁に映し出されました。
記念日当日には、午前4時半から、過去85年間の伝統となっている記念祭が開かれ、黙祷のあと、午前5時12分には、街中の消防署のサイレンと教会の鐘が鳴らされました。そう、地震が起きた時刻なのです。
何も知らずに市内に宿泊していた観光客は、突然の大きな音に、さぞかしびっくしたことでしょうね。
この記念祭の開催場所となった、マーケット・ストリートの「ロッタの噴水(Lotta’s Fountain)」は、はぐれた家族への連絡メモを掲示する場所だったそうです。
この日は、目抜き通りのマーケット・ストリートで、パレードも開かれました。消防本部が主催したパレードで、昔式の大きな車輪の消防車もパレードに参加しています。
サンフランシスコ大地震は100年も前のことですが、この1906年の「大事件」は、詳しく今に伝えられているのです。ひとつに、まだまだ生存者もおりますし、当時のフィルムや写真、記録などもたくさん残されているからです。
昔の記録の中には、こんなものがあります。日本人が描いた漫画です。
ヘンリー木山義喬(きやまよしたか)氏の手になる、12コマ漫画の作品集です。
原著は、1931年(昭和6年)サンフランシスコで販売されましたが、7年前、アメリカ人の漫画研究家によって復刻版が出されています。(Kiyama, Henry Yoshitaka. The Four Immigrants Manga: a Japanese experience in San Francisco, 1904-1924. Translated with an introduction and notes by Frederik L. Schodt. Berkeley, California: Stone Bridge Press, 1999.)
ヘンリー木山氏は、1904年(明治37年)、絵を学ぶために19歳で鳥取県から渡米し、アメリカ人家庭でハウスボーイ(お手伝い)をしたり、畑で農作業をしたりと、苦労しながら絵の勉強を続けました。おかげで、10年後には、彼の絵は美術館に展示されるほどになっています。
彼の漫画作品集『漫画四人書生』は、真面目な画学生ヘンリー(作者自身)と、アメリカでの成功を夢見る日本人の友達3人が、失敗を繰り返しながら過ごす20年間を、とても緻密に描いています。何の飾りもないので、当時の日本人移民の様子を知るには、最適なドキュメンタリーともなっているのです。
サンフランシスコ大地震についても、4つの作品が入っていて、その中に、こんなものがあります。(同書70~71ページ掲載の「The Great San Francisco Quake」より)
地震にたたき起こされた二人が、とりあえず布団を肩に背負い、火の手の上がる街を逃げ回ります。食べることも飲むこともできず行き着いた先は、市の北端プレシディオ(軍隊の駐屯地)。
ここで二人が食べ物を要求すると、「まずは働け」とシャベルを手渡されます。言われるままに、深い溝を掘ってみると、兵隊がその上にテントを張っています。いったい何になるのかと眺めていると、それは女性専用のトイレなのでした。
いやはや、新天地アメリカで、食べ物と引き換えにトイレを掘ったとは、これは、孫に語り継ぐべき話になるわい!と、二人は大笑いするのです。
大地震後、ここプレシディオやゴールデンゲート公園のような広い場所には、ずらっとテントが張られ、何ヶ月も避難所として使われていたのですね。
こんなお話も語り継がれています。
地震後の火災が手もつけられないほどに広がる中、軍隊は、ダイナマイトや火薬を使ってビルを破壊し始めました。
立て込んだ街中で、ビルからビルへと引火しないように、防火壁を築くためなのです。
それを聞いたホータリング地区(今の金融街の一部)の住人は、自分たちでビルを守るから、どうか爆破しないでと軍隊に申し出ました。第一、この地区にあるホータリングビル(Hotaling Building)には、たくさんのウイスキーが貯蔵されており、引火したらひとたまりもないじゃないかと。これには、軍隊も一応納得します。
幸いなことに、普段は西から北に吹く風もそのうち南向きに変わり、ビルに迫り来る炎の壁は、間もなく自然鎮火していきました。
建物は焼け落ちたものの、辛くも焼け残った教会の説教壇からは、牧師がこう言い放ちます。この地震は、サンフランシスコの邪悪に対する、神の天罰だと。すると、誰かがこう反論します。
もしそうだとしたら、どうして神は自分の教会を焼き捨て、ホータリングのウイスキーを救ったんだ?
ちょっと補足説明:サンフランシスコという街は、1848年のシエラ・ネヴァダ山脈の金の発見で、急激に栄えた所なんですね。金鉱堀の男たちが、サンフランシスコの港に大挙して押し寄せたのが、街の起こりともなっています。
ということは、街が大きく発展する過程で、独り身の男たちを相手にするバーやギャンブル場なんかもたくさん生まれたのでした。そして、今はおしゃれなユニオン・スクウェア(Union Square)の裏には、娼婦街すらあったのです。
写真は、ユニオン・スクウェア裏手のメイドゥン・レーン(Maiden Lane)という通りです。今でこそ、高級ブランドショップが建ち並ぶおしゃれな通りですが、当時は、娼婦街だったのですね。
「サンフランシスコの邪悪」と牧師が言い放ったのは、華やかな街の繁栄の陰にある、こういった退廃した一面を指していたのですね。
この娼婦街のあったメイドゥン・レーンですが、その「乙女(Maiden)」というネーミングに何やら意味深なものを感じます。これには、サンフランシスコの大地震後、ここから娼婦街をなくそうという願いの表れだったという説と、1920年代に通りの名を変更したときには、市側は昔の歴史を知らなくて偶然に付けた名前だったという説と、諸説あるようです。
それから、大地震の直後、誰の命も受けずに、勝手に街に出動した軍隊ですが、彼らがビルを爆破したせいで、新たな火事がたくさん起こったともいわれています。
イースターってどんな日でしょうか
- 2006年04月15日
- Life in California, アメリカ編, 歴史・習慣
日本から戻って来たら、いきなりアメリカではワクワクしたような雰囲気が漂っていました。どうしたんだろうと考えてみると、イースターがやって来るからなんですね。
日本ではあまり馴染みがないですが、「イースター(Easter)」は、キリスト教国のアメリカでは、かなり重要な祝日なのです。
「復活祭」とも呼ばれるように、イースターは、十字架にかけられたイエス・キリストが死から復活した日なのです。「グッドフライデー(Good Friday、聖金曜日)」に十字架にかけられたキリストが、3日目の日曜日に復活したことを祝うのです。
イースターは、春分の日(Vernal Equinox)のあと、初めての満月の直後の日曜日と定められています。今年は、3月20日が春分の日で、その後、最初の満月は4月13日でしたので、4月16日がイースターの日曜日となります。
イースター直前の1週間は、聖週(Holy Week)とされ、キリスト教の教会では重要なミサがいくつか開かれます。敬虔なクリスチャンは、木曜日、金曜日と、仕事帰りに教会に向かったりします。
ローマ・カトリックの総本山であるヴァチカンでも、教皇が司る聖金曜日と復活祭のミサは、一年中で最も大事な行事とされています。
復活祭に向かう日々というのは、敬虔なキリスト教徒にとっては、キリストとともに受難の日々を送る、とても厳粛な期間なのです。
ニューオーリンズのマーディグラ(Mardi Gras)や、リオのカーニヴァルで知られる楽しい火曜日は、「ファットチュースデー(Fat Tuesday)」、つまり、「太った火曜日」とも呼ばれます。
実は、この大騒ぎの日は、その後続く、厳粛な日々を耐え抜くためのものなのですね。いっぱい食べて、いっぱい飲んで、いっぱい楽しんで、これからの辛い時期を乗り切ろうよというものなのです。
翌日の水曜日(Ash Wednesday、聖灰の水曜日)からは、日曜日を除いて40日間、レント(Lent、受難節)と呼ばれる期間に入ります。人によっては食事を制限したり、好きなものを絶ったりしながら、キリストの受難を考える時期とされています。
カーニヴァルという言葉は、イタリア語のcarnovale、つまり、「肉よ、去れ!」という言葉から来ているともいわれているのですね。
そして、その辛い日々を乗り越え、キリストが復活した日曜日に到達!
イースターというのは、そんな晴れ晴れとした、喜ばしい日なのですね。
まあ、歴史的な背景を語るとこうなるのですが、実際、アメリカでは、そこまで厳粛な祝日ではないようです。どちらかというと、「何だかめでたい、楽しい日」みたいな感覚でしょうか。
この日は、あちらこちらでイースターのパレードがあったり、商店街がご近所のお祭りを催したりと、お祝いムードが漂います。
子供たちにとっても、楽しみな一日です。昔からこの日は、女の子はきれいなドレスに身を包み、お出かけできるし、子供たちは、「エッグハント(Egg Hunt)」ができる日曜日なのです。
エッグハントというのは、きれいに飾り付けた卵(エッグ)を家の中や庭に隠し、子供たちがそれを探し出す(ハント)というゲームみたいなお遊びです。昔は本物のゆで卵を食用染料で色付けしたりしていましたが、今はイースター用にきれいに包装されたチョコレートやお菓子を使います。
卵やお菓子は、イースターバニー(Easter Bunny)と呼ばれるイースターのうさぎさんが隠したことになっているのです。が、クリスマスのサンタさんと同じように、いつしか子供たちは、親が隠したことを悟るのですね。
うさぎさんや卵、ひよこは、復活の日にちなんで、生命や豊富さ、多産を表すものです。
子供たちの学校や大学なんかも、学期の途中で春休み(Spring break)に入ったりと、イースターは、誰にとってもウキウキした日という感じでしょうか。そして、あたりは、春の到来。そんな陽気も手伝っていますね。
勿論、イースターは日曜日ですので、もともとお休みの日ですが、イースターの前後は休みを取って、どこかにバケーションに出かける人も多いです。クリスマスや感謝祭ほどではありませんが、空港もちょっと混んだりします。
イースターの前々日の金曜日、グッドフライデーは、株式市場はお休みとなります。別にひがんでいるわけではありませんが、取引所は、普通の人がお休みしないときも、しょっちゅう休んでいるようなイメージがあるのです。
逆に、郵便局は、グッドフライデーも翌日の土曜日も通常のスケジュールです。アメリカの郵便局は、土曜日も昼まではやっています。
土曜日お休みの案が何度も出ていますが、一日お休みが増えると、大量の郵便物を処理しきれないそうです。きっと宣伝なんかのジャンクメールが多過ぎるんですね。
ちょっと話がそれてしまいましたが、子供も大人も楽しめる一日。生命を祝う一日。
これがイースターなのですね。