日本は寒いなどと前のエッセイにも書きましたが、今回、里帰りしたのは、桜を見に帰ったようなものなのです。いつも桜が満開の時期を逃していたので、久しぶりに見てみたかったのです。

今年は、せっかくの桜の季節が思ったほど暖かくなくて、ちょっとがっかりではありましたが、東京では、あちらこちらで満開の花を楽しめました。こんなにたくさん桜の木があったなんて、ちょっと驚きです。


東京に滞在していた期間、一番近い桜の名所は青山霊園でした。着いた翌日、さっそく咲き始めの桜を見に、お散歩です。まだまだ満開ではありませんが、咲き始めの花には、たいそう勢いがあるものです。

青山霊園に足を踏み入れたのは初めてのことでしたが、そこここに桜の大木が植わっていて、中心の大通りには、立派な並木が延々と続きます。これが満開だったらと、想像するだけでうきうきとしてきます。


それにしても、どうして霊園には桜が多いのでしょう。青山霊園も都内切っての名所ではありますが、豊島区の染井霊園は名だたる桜の名勝ですね。それどころか、日本で一番広く知られるソメイヨシノは、この染井の地から来たのですね。

ソメイヨシノ(染井吉野)は、昔、江戸末期から明治初期にかけて、ここ染井村の植木職人がオオシマザクラとエドヒガンを掛け合わせてつくった種類だとか。あの品のいいピンク色と、清楚な花びらが、あちらこちらの人々の心をくすぐったのでしょう。今では、桜の代名詞ですね。

お墓に桜が多いのは、きれいな花の下で眠りたいという、多くの日本人の願いなのかもしれませんね。

数日後の夜、ほぼ満開の青山霊園を歩いてみましたが、立派なデートコースになっているのに驚きです。でも、屋台が出ていることに、もっとびっくりです。いくら桜の名所とはいえ、お墓で花見とは、あまり気持ちのいいものではありませんよね。
 桜の花をめでるためには、「屋台を出してはいけません」という規則もなんのその!


満開の桜は、上野公園で楽しみました。4月1日の土曜日、ちょうど満開を迎えた週末に、広い公園はたくさんの人でごった返します。「たくさんの人」というのは充分な表現ではなく、桜の花のトンネルでは、前に進むこともままなりません。百万人くらい殺到したのではないでしょうか?

園内すべての桜の木の下では、さっそく花の宴が開かれます。文字通り、足の踏み場もありません。週末なので、会社の集いよりも、学生と見受けられる若いグループが目立ちます。何十人が集まっての大宴会も珍しくありません。きっと場所取りの下級生は、夜の寒さに苦労したことでしょう。

それにしても、さすが日本人は綺麗好きなもので、ゴミの収集場所もきちんと完備されています。燃えるゴミと燃えないゴミの分別だけではなく、リサイクルの材料も、実に細かく分類されています。アメリカ人だったら、せいぜい燃えるゴミとリサイクルの2種類で挫折でしょうか。

週末の上野公園は、子供向けのお面の屋台が出ていたり、大人向けにおでんの屋台が登場したりと、まさにお祭りの風情でした。

外国人もたくさん見かけましたが、ちょうど満開の桜の時期に日本を訪れるなんて、ラッキーなことです。美しい日本の春も、彼らの家族や友人の輪に広まることでしょう。


京都も花の名所です。両親と旅した春の京都は、心に深く残るものでした。

今年の京都は、東京よりも寒さが厳しく、花はなかなか咲いてくれませんでした。それでも、何泊かするうちに、硬いつぼみも少しずつ開き始め、京都を後にする頃は、染井吉野は八部咲きくらいにはなっていました。

この旅では、ひとつ大事なことを学びました。それは、染井吉野だけが桜ではないということです。
 もともと京都の桜といえば、山桜(やまざくら)や彼岸桜(ひがんざくら)のことを指し、染井吉野は、どちらかというと東から来た亜流のようです。

野山に自生する山桜は、平安時代から愛される奈良県吉野山の桜や、京都御所の左近の桜(さこんのさくら)に代表されるそうです。今年は例年よりも遅咲きのようで、吉野に行ってみたいという母を連れて行ってあげられないのが残念でした。
 立派に枝を張る御所・紫宸殿(ししんでん)の左近の桜も、寒さのためか、まだまだ満開とまではいきませんでした。

街中でよく見かけるエドヒガン系の枝垂れ桜(しだれざくら)には幾種かあって、薄い桃色のものは、染井吉野よりも先に咲き、京への訪問客をもてなしてくれます。平安神宮の枝垂れ桜は、庭園の水にもよく映えます。

一方、色の濃いものは、染井吉野の後、4月の後半に咲くようです。薄いものと同時に咲くと、どんなに綺麗なことかと願っても、それは人間の勝手な言い分ですね。

京の桜の名所・仁和寺(にんなじ)の御室桜(おむろざくら)も、遅咲きのものです。ここの桜は、背丈の低いのが特徴で、花(鼻)が低いので、別名「おたふく桜」とも呼ばれるそうです。
 何も知らずに、期待して仁和寺に出向いたものの、桜園の木々は、つぼみすらまだ小さいものでした。

遅咲きといえば、大阪の造幣局の桜も、染井吉野が散った後に楽しむものだそうですね。「造幣局に行きたい」と告げると、大阪のタクシーの運転手に笑われてしまいました。


なんといっても、京都で一番印象に残った桜は、円山公園(まるやまこうえん)の枝垂れ桜です。ある日の夕刻、冷たい風に震えながら公園に向かうと、丘の上に立つ巨大な桜の木が暖かく出迎えてくれました。
 「そうだ、京都に、行こう。」というコピーで有名なポスターに登場する桜です。その立派な枝ぶりは、見る角度によって違った表情を見せてくれます。
 夕暮れのライトアップは、幽玄を演出します。

一度は切られそうになった桜ですが、助けられたことに感謝でもするかのように、毎年、人々を楽しませてくれるのです。

京都は紅葉の頃が一番という地元の人が多いけれど、ほんのわずかな間、咲くか、咲かぬかと気をもみながら待つこの季節も、なんとも風情があるのです。


桜は、日本の象徴ともいえるもの。

春になると、「桜前線」がどこまで来たかと浮かれ立ち、ひとたび開花すると、桜の花を思う存分めでるように。そういう風に、日本人の遺伝子にはちゃんと書かれているのでしょうね。

こんなに風流な国民は、世界広しといえども、そうたくさんいるものではないでしょう。

春のコート

桜の季節に日本に行くからと、ピンク色のコートを買いました。ほんのり薄いピンクの、ほんとうに桜の花びらのような色です。

色もデザインもパーフェクトなのに、サンノゼにある、サンタナ・ロウ(Santana Row)というおしゃれなショッピングエリアのお店では、ぴったりのサイズがありませんでした。そこで、わざわざサンディエゴにある支店から自宅に送ってもらったものなのです。


南カリフォルニアのサンディエゴから配達してもらったので、数日間待ちはしましたが、ひとついいことがありました。サンディエゴのあるサンディエゴ郡は、サンノゼのあるサンタクララ郡に比べて、消費税の率が若干低いのです。サンタクララ郡が8.25%のところが、サンディエゴ郡は7.75%なのです。

そうなんです。どこの州もそうなのだと思いますが、カリフォルニアは、郡によって消費税率が違うのです。

サンタクララ郡の8.25%は、結構高いなぁと思われる方も多いでしょうが、最近、また税率を上げようという案が出ているのです。公共の交通機関(BARTと呼ばれるベイエリアを網羅する電車)をシリコンバレーにも延長しようと、お金を募りたいらしいのです。
 この案が、6月の住民投票で可決されると、消費税はなんと8.75%になるらしいです!ただでさえカリフォルニアは、所得税も固定資産税も、なんでも高い州なのに・・・。


というわけで、今回のコートのお買い物では、2ドル50セントくらい消費税を得しました。まあ、コーヒー一杯分くらいのものですが、いくらであろうと、得するのは嬉しいものですね。
そして、日本に向かう飛行機に乗る前、サンフランシスコ空港で、コートにマッチするように、ピンクのバッグも買い揃え、機上では、薄桃色のアジアテイストのスカーフも買いました。これで、準備万端。おしゃれな日本でも、恥ずかしくありません。

ところが、日本に着いてびっくり。真冬並みに寒いではありませんか。まだ、冬用のコートを着ている人もたくさんいるのに驚きです。
 どうして、今年はこんなに寒いのでしょう? せっかくの春のコートも、「伊達の薄着」になってしまいましたとさ。

I’m upset (プンプン!)

あんまりひんぱんに使いたくない言葉ではありますが、たまにはこれを使いたくなるものです。I’m upset.
 つまり、わたしは腹立たしい、イライラしているという意味ですね。

まあ、世の中、すべてが思い通りに進むわけではないので、ときどきはこう言いたくもなるのです。


この文章は、相手に向かって意思表示をするときに使う場合もあります。

たとえば、相手が何かしらトゲトゲしいものを感じ取って、What’s wrong with you?(どうかしちゃったの?)と聞いてきたとします。すると、わが意を得たりと、I’m upset(わたし、ちょっと頭にきてるの)などと答えます。そして、どうして気分を害しているのかを相手に説明してあげます。

一方、腹立たしい相手にではなく、第三者に愚痴をこぼす場合は、I was really upset yesterday(わたし、昨日すごくイラついたことがあったの)などと言います。そして、いろいろと第三者に愚痴を聞いてもらうのです。


この upset には、プンプン、イライラという意味もありますが、気が動転したという意味もあります。もともと、upset には、船が転覆するとか、何かが転倒するという意味があるのですね。

I have an upset stomach というと、胃がムカムカして調子が悪いという意味です。胃の中が、ぐるぐると廻っているような感じですね。

気が動転した、動揺したという意味でいうと、I’m disturbed などもあります。動詞 disturb は、かき乱す、不安にするという意味です。I’m disturbed というと、心を引っかきまわされたといった感じでしょうか。

I was disturbed by the news(そのニュースを聞いて、心穏やかならぬものを感じた)などと使います。

一方、イライラの I’m upset のもっと強い語気のものに、I’m outraged というのがあります。これになると、ホントに怒ったぞという感じになります。

I was outraged that he didn’t even call(彼は電話すらかけてよこさなくて、ホントに頭にきちゃったわ)などと使います。


さて、感情的な表現には、イライラの他に、びっくりというのもありますが、これには、いくつかの表現があります。

まず、ストレートに「びっくりした」と言いたい場合は、I was surprised と言います。
 I was surprised by his reaction(彼の反応にびっくりしちゃった)などと使います。

I was appalled というのもあります。これは、ひどく仰天したときに使います。この appalled の発音は、「アポールド」という感じになります。

いつかクラスメートがこんなお話をしていました。彼女はフィリピン系アメリカ人なのですが、結婚したときに、花嫁の母親が結婚式の代金を負担すると聞いて、My mother was appalled(母はもう仰天してしまった)そうです。

今は、アメリカではいろんな結婚の形式があり、必ずしも昔のように花嫁の母親(もしくは花嫁の家)が結婚式を負担するわけではありませんが、彼女の場合は、ごく伝統的な形式に沿ったようで、フィリピンから来た両親はびっくりだったわけです。祖国では、結婚式は男性側が持つもののようですので。

「びっくり」には、I was flabbergasted というのもあります。びっくり仰天するとか、面食らうという意味です。カタカナで書くと、flabbergasted は「フラバガスティッド」と発音します。ラにアクセントが付きます。こういう場合は、大げさにイントネーションを付けた方がいいですね。

この表現は、あまりひんぱんではありませんが、ときどきは耳にするものです。これが口癖の友達もいましたね。どちらかというと、女性がよく使う言葉でしょうか。


さて、I’m upset が、プンプン、イライラという感じなら、もうホントにいやになっちゃったよという俗語に、I’m pissed というのがあります。
 これは、べつに放送禁止用語ではありませんが、上品な表現ではないので、使わない方が無難でしょう。ただ、よく耳にする表現ではありますので、意味くらいは知っておいた方がいいかもしれません。

この文章の piss という部分は、もともと「おしっこ」という意味ですが、どうしてそれがこういう表現に進化したのかは存じません。

実は、先日、知り合いと大喧嘩したことがあって、そのときに意外なことに、この表現が役に立ったのです。
 こちらからすると、約束を破られ怒っていたのですが、あちらからすると、どうしてもはずせない緊急事態が立て続けに起こって、思いがけなくも約束を守れなかったということになるらしいのです。

こういう場合、いつまでも平行線になる恐れがあるので、こう言ってあげました。You must be pissed today(あなた、今日はホントにどうしようもない気分だったでしょ)と。

すると、あちらは笑い出し、Yes, I am(うん、その通り)と答えます。まさか上品なレディー(?)から pissed なんて言葉を聞こうとは夢にも思わなかったので、そのちくはぐに思わず笑ってしまったようです。
 もうその頃になると、互いのウニウニ、トゲトゲした気分はだいぶ和らいでいたのでした。

普段、レディーが使うべきではない言葉はいくつかありますが、使い方によっては、おもしろい結果を招く場合もあるのですね。

アメリカの商売:おもしろくもシビアな現状

Vol. 80

アメリカの商売:おもしろくもシビアな現状


3月に入り、一段と寒くなったシリコンバレーです。2月は、例年よりも暖冬だといわれていましたが、やっぱりそのままでは済みませんでした。
3月10日、サンフランシスコ・ベイエリアは雪にみまわれ、サンフランシスコ市内やサンタクルーズの海岸沿いでも積雪がありました。これは、実に、何十年に一度のことなのです。 シリコンバレーの街中にも「みぞれ」が積もったりしましたが、まわりの山々は一面の雪化粧となり、住民たちは、それを眺めるだけで心うきうきとしてきます。翌日の土曜日、雪をひと目見たい人たちで、あちこちの道はごった返していました。

 

さて、先月号は真面目なお話に終始していたので、今月号は、少しは軽めの話題にいたしましょう。
実は、これを掲載していただいているIntellisync日本支社の社長さんに、こう言われてしまったのです。「最近、なんだか話がかたいねえ。解説口調になってるよ。ここは、みんなの憩いの場なんだから、ほっとするものがいいねぇ。ほら、昔、アップル・コンピュータのスティーブ・ジョブスの話があったでしょ。あんなのがいいねえ」と。
聞いてみると、「最近」とおっしゃっているのは、どうも先月号を指していらっしゃるようで、たまたま品質検査した号がいたく真面目なお話をしていたので、お気に召さなかったようです。
それにしても、スティーブ・ジョブスさんのお話とは、5年以上前のシリーズ第1作目のことなのですが、してみると、社長さんにとって、あれ以上おもしろいものはなかったということなのでしょうか。と、ちょっと複雑な心境の今日この頃です。


<ジョブスさん>
そこで、社長さんご所望のスティーブ・ジョブス氏のお話を一席。

近年、アップル・コンピュータを見事に立ち直らせたジョブスさんですが、彼の下で働く者にとって、彼とは絶対にご一緒したくない場所がひとつあるそうです。それは、エレベーターだそうです。
エレベーターで間違ってご一緒するやいなや、ジョブスさんの厳しい質問にさらされます。「君は今、どんな仕事をしてるんだね」と。

ここが、運命の分かれ道です。勿論、嘘はつけませんので、自分のプロジェクトの説明をします。すると、万が一ジョブスさんのお気に召さなければ、後日、部門ごとなくなってしまうらしいです。

ある人曰く、ジョブス氏の組織で働くのはいいけれど、直属の部下にはなりたくないと。それほど、自らのビジョンを大切にする、厳しいお方のようです。


<ウォズニアックさん>
ジョブスさんが出てきたところで、アップル・コンピュータのもうひとりの創設者、スティーブ・ウォズニアックさんの小話です。

普段、ジョブスさんほどメディアの関心を集めることはありませんが、ウォズニアックさん、先日、大きな話題を提供いたしました。アップル・コンピュータにゆかりのある人たちと設立した新会社が、株式公開したのです。
Acquicor Technologyという会社で、目新しいテクノロジー会社を見つけては、それを買収し、後に資産を増やし儲けるといった会社です。SPACs(special purpose acquisition companies)と呼ばれる分野の会社だそうです。3月中旬のAmerican Stock Exchangeの公開では、1億5千万ドル(約175億円)を調達しました。

Acquicorでウォズニアック氏を支えるのは、1年半の在籍の後、1997年にアップルを辞めさせられた前CEO、ギルバート・アメリオ氏、そして、IBM在籍中アメリオ氏から引き抜かれ、ナショナル・セミコンダクタとアップルで彼とご一緒したエレン・ハンコック氏のお二方です(アメリオ氏は、現在、ベンチャーキャピタリストとなっており、ハンコック氏の方は、ウェブホスティングのExodus Communicationsが大きく傾くまでCEOを務めた後、今は複数の企業や大学で役員をしています)。

ウォズニアック氏といえば、2001年にWheels of Zeusという会社を立ち上げ、GPSやワイヤレステクノロジーを一般消費者に広めるよう努めたり、HipTop(T-MobileがSideKickという名で出す若者向けモバイルデバイス)を開発するDangerという会社の役員を務めたりと、いろんなことをあれこれとやってきました。小学校の先生や、慈善家としても知られています。
ところが、このウォズニアックさん、Acquicor Technologyが株式公開するまで、あることを黙っていたらしいのです。それは、Wheels of Zeusを畳んでいたことです。いや、会社を畳む事はよくある話です。しかし、その情報公開のタイミングが何ともいやらしいのです。株式公開の2日後だったので、Acquicor の投資家は知らされていなかったとか。

ウォズニアックさん、アメリオさん、ハンコックさん、この三人衆がAcquicor をどう盛り立てていくのか、今後がちょっと見ものではあります。


<夢を売るロボット>
アメリカで一番身近なロボットといえば、iRobotの「Roomba(ルーンバ)」でしょうか。以前、2回ご紹介したことのある、お掃除ロボットです。太った三葉虫のような円盤状の姿でノコノコと床を這い回り、掃除機のようにゴミを吸い取ってくれます(2002年12月号と昨年10月号でご紹介)。
昨年10月号では、Roombaくんの兄弟、Scooba(スクーバ)くんも登場したことをお伝えしました。現在、テレビでも宣伝されていて、彼の知名度はぐんとアップしているようです。床をゴシゴシ洗った後、きれいに乾かしてくれるので、Scoobaくんの通った後は、もうピッカピッカ。モップとバケツは過去の遺産(?)。

ロボット仲間としては、SONYのペットロボットAIBOもかなり人気が高く、それなりに全米各地にファンクラブなども存在するようです(AIBOは3月末で生産中止となるそうで、アメリカでも残念に思っている人は多いでしょう)。
けれども、やはりそこは実用性を重んじるアメリカ人のこと、ロボットがお掃除してくれるとなると、もう目の色が変わります。
ロシア語を話す友人宅では、Roombaくんは立派な家族の一員になっていて、「ルーンバチカ」というニックネームまで付けられています。一度、床に垂れるレースのカーテンをかじったことがあって、「ルーンバチカ、そんなおいたをしちゃデメでしょ」と叱られたそうです。Roombaくんは力強いのです。

  元祖お掃除ロボットのRoombaくん、そのお手頃さも手伝って、現在、マニアの間で隠れた人気を博しています。Roombaくんをプログラムし直して、彼に新たなミッションを与えるのです(現在、彼の仲間は、150ドルから330ドルの価格帯で5種類と進化しています)。
もともとMITの人工知能研究所から派生したiRobot社。マニアの気持ちはよく理解しています。そこで、昨年10月、合法的にハッキングできるよう、同社はオプションキットを発売しました。Roombaくんをシリアルケーブルでパソコンにつなぎ、自由にコントロールできるようにしたのです(ケーブルをつなぐのに若干の工夫は必要ですが、マニアだったら何でもない作業でしょう)。

たとえば、こんなマニアがいます。彼はRoombaくんにサーキットボードを加え、PalmのPDA(携帯情報端末)から指示を与えられるようにしました。そして、これから、Roombaくんのお掃除順路を決定するプログラムを書く予定です。
もともとRoombaくんの利点は、障害物に突き当たるまで単純な直線運動を繰り返す、ごく簡単なプログラムにあります。お掃除すべき部屋の面積を計算したり、既に掃除が済んだ箇所を覚えていたりといった複雑なことはしないでいいように作られているのです。
ところが、このマニア氏、懐疑心が強いのか、自分でRoombaくんの航行を決定しないと気が済まないらしいのです。Roombaくんが怠けて、四角い部屋を丸く掃くとでも思っているのでしょうか。
こんなマニアグループもいます。パソコンをRoombaくんの上に乗っけて、ワイヤレスLANで受け取ったメールを、Roombaくんにフィードし、彼に声に出して読んでもらおう、と試みているそうです。やっぱり、ロボットといえば、何かゴショゴショとしゃべってくれなきゃかわいくないのです。

日本の人間型ロボット、ASIMOくんやWakamaruくんに比べれば、そんなにお利口さんではありませんが、どこか憎めない姿のRoombaくんに、マニアの夢はどんどんふくらむのです。


<お酒には気を付けて>
アメリカで車を運転していて、一番してはいけないことは何でしょう。それは、酒気帯び運転です(Driving Under the Influence、通称DUIと呼ばれます。麻薬の場合もDUIになりますが、一般的には、件数の多い酒酔い運転を指します)。
州によって、酒気帯び運転の罰則は異なりますが、カリフォルニアは、もっとも厳しい州のひとつなので、気を付けたほうがいいでしょう。その場で、留置所行きです。

ところで、この酒酔い運転、警察に捕まった後に、後日、裁判所に出廷することになるのですが、この際、妙な言い逃れが流行ってきているそうです。

事はフロリダで始まりました。酒気帯びで捕まったある男性の弁護士が、こんな申し立てをしたのです。DUIの罪を立証したかったら、酒気検査器(alcohol breath analysis machine)のソースコードを公開しろ。でなければ、検査器の表示が本当に正確であるかどうか、わからないではないか。
アメリカで一番広く使われているIntoxilyzerという検査器のメーカーは、当然のことながら、ソースコードの公開は頑として断ります。だって、他社やハッカーに盗まれたら、たまったものではありませんので。
ソースコードを公開しなくたって、検査結果が正確であることは証明できると主張するメーカー側に対し、裁判長は、「従わないなら、DUIの証拠は無しね」と、裁判自体をストップしてしまいました。

この判定は、上告した先の法廷でも支持されたそうで、これに味を占めた交通専門の弁護士たちは、別の州でも、次々と同じ弁護を繰り広げているそうです。おかしな話ですが、ソースコードの開示を拒否することは、「罪を立証する検査に関しては、求められればすべての情報を開示する必要がある」という法律にひっかかるらしいのです。

幸い、DUIで捕まったことはありませんが、お酒の席では、結構いろんな体験談が出てくるものです。どうやら一番困るのは、経費がかさむことと、免停の後、自宅と勤め先の間しか運転できなくなることらしいです。コミュニティーのゴミ拾いの労働や、安全運転の講習もかなり面倒くさいもののようです。
警察での一夜の宿代、罰金、法廷・弁護士費用、つり上がる自動車保険などの諸経費を合わせると、100万円近くかかるそうです。加えて、酒酔いが原因で事故を起こした場合、その事故の調査費まで警察に徴収されるケースがあるとか。
つい先日、サンフランシスコの住宅に突っ込んだ酔っ払い運転のドライバーが、5万ドルの罰金を科せられたとの話も聞きました。
近頃は、アメリカ全体でDUIへの見方が厳しくなってきていて、酔っ払い運転で捕まった経歴があると、永住権(グリーンカード)の申請に悪影響が出るとの話もあります。

  アメリカでは、年間およそ150万人がDUIで捕まるそうです。ソースコードの開示を求める妙な弁護戦略が全米に広まってしまったら、徴収できる罰金も、ずいぶんと減ってしまうでしょうね。


<みんなで大騒ぎ>
ソースコードの開示を求める話が出てきましたが、裁判がお好きなアメリカで、近頃、最も有名な争いといえば、何と言ってもBlackBerry(ブラックベリー)でしょう。

以前も一度ご紹介したことがありますが、BlackBerryは、カナダのリサーチ・イン・モーション(RIM)という会社が出すPDA(携帯情報端末)で、アメリカの重役の誰もが持つと言われるくらいの人気デバイスです。
会社や個人のメールや予定表をいつでもどこでも受け取れ、小さいながらもキーボード付きなので、その場で簡単な返事もできるという製品です(もともとは、メール端末機として人気を博しましたが、近頃は、携帯電話機能付きが主流となっています)。
オフィスを空けることが多いハイテク重役や、弁護士、金融エグセクティヴといった人たちに重宝されています。2001年には、米国連邦下院議員435名全員にBlackBerryが支給されたりもしています。まあ、一種のステータスシンボルともいえるものでしょうか。

このBlackBerry、実は、5年前から裁判沙汰になっていたのです。アメリカのNTPという会社が、携帯電話のネットワークを使ってリアルタイムにメールを配信する自分たちの方式は、こちらが先に特許権を持っており、RIMは特許を侵害したのだと訴え出ていたのです。
何年も和解もせずに繰り広げられる裁判劇に、最近では、アメリカのBlackBerryサービスは、全部止めさせられてしまうかもしれないという噂まで飛び交い、世のユーザたちはびくびくしていました。

 
結局、しびれを切らした裁判官が、「お前たち、いつまでも和解しないなら、サービスを止めてしまうぞ」との鶴の一声を発し、3月3日、めでたく和解が成立しました。RIMがNTPに6億ドル以上(約720億円)を支払うことで合意したのです。サービスもこれまで通り、何の変更もありません(RIMは裁判官の指示に従い、この時のために、10億ドルを貯金していたと言われています。写真は、「みなさん安心してね」というRIMの全面広告です)。

まあ、こう言っては不謹慎ですが、脇で見ていると、裁判の行方などよりも、事の成り行きに振り回されるユーザやメディアの様子の方がおもしろかったです。
確かに、今までBlackBerryサービスをオフィス内で展開してきた企業にとっては、死活問題とも言える話かもしれません。しかし、まるで世の終わりがそこまでやって来ているとでもいうようなあわて振りは、ちょっと見ものでした。

ちなみに、BlackBerryサービスがアメリカで打ち切られていたならば、恩恵を受けたであろう会社はいくつかあります。Palm Treoのようなビジネス向けスマートフォンのメーカーはその筆頭に挙げられますね。BlackBerry デバイスの代替品として、Treo 650は熱い視線を浴び、その名を聞かない日はないくらいでした(今のところ、BlackBerryは大企業向け、Treoは小企業向けといった色分けはあるようですが)。
Windows Mobile OSを提供するマイクロソフトなどもそうでしょう。Windows Mobile 5.0搭載モデルも増え、筆者が購入したTreo 700wに続き、UTStarcom XV6700がVerizon Wirelessから出ています。4月には、待望のMotorola QもVerizonから出る予定です。一方、Sprint、T-Mobile、Cingular各キャリアからは、HTC製のモデル数種が出されています(Sprint PPC-6700、T-Mobile MDA/SDA、Cingular 8125/2125。Cingular 2125は、同社としては初のビジネス向けデバイス)。
そして、BlackBerryに対抗する携帯ネットワークのメール配信分野では、このシリーズ掲載でお世話になっているIntellisync、それからGood Technologies、Visto、Seven Networksといった会社があります。

BlackBerry騒動は一件落着したわけですが、また第2、第3の大騒ぎが出てくるやもしれません。現に、SprintとCingularに採用されているメール配信サービスのGood Technologiesは、競合のVistoに特許侵害で訴えられています。けれども、これはまた別のお話ですね。


<特許はメシの種>
アメリカというのは、ホントにおかしな国でして、奇妙な商売がどんどん出てくるのです。こういう会社があるんです。おいしそうな特許をどんどん手に入れ、それでメシを食う会社が。

これは、「特許トローリング(patent trolling)」とも陰口を叩かれる手法で、自分たちが取得した特許を盾に取り、特許侵害を理由に次々とテクノロジー会社を訴え、特許権使用料や和解金をたんまりと徴収するという商売です。
他の正直なテクノロジー会社の邪魔になるばかりか、消費者へも、製品コストの上乗せという形で迷惑がかかると批判がなされているのも現状です。

たとえば、Forgent Networksという会社があります。この会社は、1980年代中頃、ビデオ会議装置メーカーとして、VTELという名で設立されています。その後、さまざまな会社の買収を重ね、1997年、Compression Labsという会社を買収しました。
実は、これが、巨大なお買い物だったのです。Compression(圧縮)という名が示す通り、この会社は、静止画の圧縮技術を作り出し、JPEGフォーマットの特許を持っているのです。世の中のほとんどのテクノロジー会社が、これに触れると言ってもいいくらいです。
実際、2年前、Forgentは44ものテクノロジー会社をJPEGの特許侵害で訴え、そのうち、Yahooなど13社がこれまでに和解しています。裁判で訴えられてはいなかったものの、数十社が特許使用料を支払うことで合意しています。この中には、BlackBerryのリサーチ・イン・モーションも含まれます。特許侵害の疑いありとのお手紙を受け取ったのは、実に、千社を超えるそうです。
一方、アップルやマイクロソフト、Dell、HP、IBMといった大企業は、現在、裁判が始まるのを待っているようです。

同様の戦略に味を占めたVTELは、2001年、Forgent Networksと名前を変え、知的財産権(intellectual property)のみで身を立てる決定をしています。JPEGがらみの騒動では、ここ3年間に1億ドル以上(約125億円)を搾り取っています。
現在、提訴中のものには、TiVoやMotorolaといったDVR(デジタルビデオ録画機)のメーカーを相手取ったものがあります。録画しながらプレーバックする技術が自分たちの特許に侵害していると。

上記のJPEGの特許に関しては、特許の無効を訴える申請が特許局に出されていて、現在、審議中だそうです。決定に何年かかるかわかりませんが。 また、現行の法律を改め、同種の製品を開発する際のみ、特許侵害の申し立てができるようにする動きもあるにはあるそうです。

筆者にしてみれば、最後に休暇を取ったのは、いったいいつだったかも覚えていないほど忙しく働く人が大勢いるアメリカで、自分では何も生み出さず、他人から徴収した金でおまんまをいただくというのは、何ともいやらしい商売に見えるのですが。

夏来 潤(なつき じゅん)

雪の騒ぎは続きます

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前回と前々回は、雪が降ったの降らないのと、シリコンバレーの大騒ぎのお話でした。実は、騒ぎはまだまだ続きます。

前々回ご紹介したように、2月中旬に一度、ハミルトン山に雪が積もったことはありましたが、全体的に2月は雨も少なく、暖冬だと言われていました。
ところが、3月に入り、いよいよ雨の日が増え、寒くなってきたのでした。

連日雨が続く3月10日、サンフランシスコ・ベイエリアは寒気にみまわれ、あちらこちらで雪が降り積もりました。
なんと、サンフランシスコ市内やサンタクルーズの海岸でも、積雪があったのです。雹(ひょう)が降った後、雪に変わったので、積もりやすい条件が重なったようです。
この何十年ぶりの自然の恵みに、サンフランシスコでは、そりに乗って名物の坂を滑り降り、歓声を上げる大人たちもいたようです。

シリコンバレーでも若干積もりましたが、これは厳密には雪ではなくて、「みぞれ」だったそうです(前回、サンノゼでは20年ちょっと前に雪が降ったと書きましたが、気象学的には、30年前の積雪が本物の雪だそうです)。
でも、そんな堅苦しい定義はお構いなしで、みんな珍しい雪景色に浮かれ立ちます。大人も雪だるまを作ったりして、思う存分楽しみます。

翌日の土曜日は、いいお天気となり、浮かれたみんなは雪を見にお出かけします。
前日は、シリコンバレーからサンタクルーズの海岸へ出る山越えの17号線が、雪のため通行止めになったり、サンフランシスコの南、サンマテオの一区間で、幹線道路のフリーウェイ280号線が通行止めになったりと、一日中交通が乱れました。
けれども、夜間には雪も止み、翌日は、さすがに大丈夫でした。そこまで底冷えはしない場所なのです。

我が家もこの日、雪を見にお出かけしました。まず、サンノゼから北上し、サラトガに向かいます。ここから西に向けて、9号線という道路でサンタクルーズ山脈の中に入っていきます。
森に囲まれながら、くねくねとした道路を登って行きます。途中、苔むした木々が目に留まり、その鮮明な緑に、思わず車を止めました。このあたりは、温度の変化で霧が発生しやすいので、木々にも苔が生えるのでしょう。
くねくね道路の途中では、脇の方に車を止め、雪合戦をしているカップルも見かけました。きっと雪なんか、ほとんど体験したことがないのでしょうね。

9号線が山の頂に到達すると、ここには南北に走る35号線が交差します。スカイライン・ブルバードとも呼ばれるこの道路を尾根伝いに北上すると、右手には一瞬視界が開ける場所があって、そこからは、シリコンバレーの北部とサンフランシスコ湾がよく見渡せるのです。そして、遠くには、雪を頂くディアブロ山脈が見えます。

ようやく雪が眺められたのに、ちょっと遠いので、ここからシリコンバレー方面へ、ペイジミル・ロードという道路で降下します。途中、誰かさんが車を止め、風景に見入っているので、こちらも真似をして、ここで写真を撮ってみます。なかなかいい写真になりました。シリコンバレーの名門、スタンフォード大学も望めます。
私が写真を撮っていると、来ました、来ました。同じように写真を撮りたがっている人が。最近は、アメリカ人もデジカメで写真を撮ることを覚えたようで、記念写真はアジア人の専売特許ではなくなってきているのです。

もっと近くで雪を望みたいからと、シリコンバレーに下りては来たものの、ここである事実に気が付きます。シリコンバレーにはあんまり高い建物はないけれど、それなりにビルが邪魔していて、遠くの山は途切れ途切れにしか見えないのです。
街の景観のためにとあちこちに植えられた緑も、育ちがとても良く、視界をさえぎります。
結局、山が一番よく見えるのは、フリーウェイの上でした。(途中、山に見とれ、前の車に突っ込みそうになりました。危ない、危ない!)

というわけで、雪の探索も終わり、無事に我が家の近所まで帰って来たわけですが、この日のハミルトン山は、もう真っ白。この前よりもずいぶんと積もっています。

それにしても、あちらこちらで桜が開花しているのに、今頃になって雪とは。

今年は、暖冬の後、厳しい寒さが戻る、おかしな気候なのです。

久しぶりのエッセイです。

以前、このエッセイの第2回目で、「マーヴェリックス」のことを書きました。シリコンバレー北西の太平洋岸で行われるサーフコンテストです。

このお話を書いたあと、あることを思い出していました。ある女性のことです。彼女は、シリコンバレーで知り合った友人の姪御さんにあたる方なのですが、沖縄に住んでいらっしゃいます。
 
 もう5年ほどになるでしょうか、彼女は、結婚間近のフィアンセを海で亡くしました。彼は、ベテランのサーファーだったのですが、一緒にサーフィンを楽しんでいた友達が溺れかけているのを助けようと、自らが溺れてしまったのです。


彼女とはまったく面識はないのですが、友人からこのお話を聞いて、彼女にお手紙を書きました。事故からもう何ヶ月も経つのに、まったく立ち直れないと聞いていたので。
 別に、人を助けてあげられると思ったわけではありません。単に、あなたはひとりではありませんよと伝えたかっただけなのです。

はたしてお手紙に何と書いて差し上げたのかは、まったく記憶にありません。でも、一生懸命に書いた気持ちが通じたのか、少しして、彼女からお返事がありました。しっかりとした、美しい文字で書いてあります。
 お返事を書かねばと思いながら、気持ちの整理がつかないので、何度も書き直したと記してありました。そして、「人はいつも、誰かとつながって生きているんですよ」と私が書いたことに、同意してくれていたようでした。一番悔しい思いをしているのは彼なんだなと思うとも。


ちょうど彼女にお手紙を書いた頃、自分でも辛いことがあって、他人事とは思えなかったという事情があります。だから、遠くからでも、見ず知らずの人でも、何か声をかけてあげたいと思ったのです。

それと同時に、赤の他人に丁寧なお手紙をもらったら、返事をしないわけにはいかないだろうと踏んでいたこともあります。苦労して返事を書くことで、ほんの少しでも自分の殻から脱皮しないわけにはいかないだろう、そういった荒療治的な発想です。
 それが功を奏したのかはわかりませんが、お返事の結びには、私へのいたわりの言葉すらありました。

幸いなことに、それから間もなく、彼女は仕事場に復帰したそうです。


彼女がお返事の中で書いていたように、「立ち直る」ことなど、一生できないのかもしれません。人生や物の見方を完全に変えてしまうような出来事に出会ったのですから。以前の状態に戻れというのは、土台無理な話なのです。職場に復帰したのだって、ただの「から元気」なのかもしれません。

けれども、時間が、彼女を少しだけ癒してくれることもあるのだと思います。そして、周りには必ず誰かがいるのだということも。

追記:今朝、サーファーの友人から、今日もう一度マーヴェリックスのサーフコンテストがあるんだという話を聞きました。今年は、波が例年よりも高いので、いつもは一回だけのコンテストをもう一回開くということです。さっそく、インターネットのウェブカムで見てみると、波は高くなかったので、今日は無理なようでした。
 海には危険がともないます。けれども、海に戻りたいという気持ちは、サーファーでなくともよくわかるような気がするのです。

シリコンバレーってどこでしょう?

シリコンバレー(Silicon Valley)という言葉は、よく耳にされると思います。このサイトでも、「シリコンバレー在住のライター」などと、自己紹介もしております。

でも、このシリコンバレーとは、いったいどこにあるのでしょうか?

こういう地理的な興味をお持ちの方のために、ちょっとここでご説明しておきたいと思うのです。ちょっと長くなってしまいますが、歴史的なお話もいたしましょうか。


まず、大きなくくりからいくと、シリコンバレーは、「北カリフォルニア(Northern California)」にあります。

カリフォルニアは、サンフランシスコ・サンノゼを中心とする北カリフォルニアと、ロスアンジェルス・サンディエゴを中心とする南カリフォルニアに分かれるのですが、シリコンバレーは北の方に入ります。

ちなみに、北と南は、独立した方がいいくらい文化や考え方が違うのだ、と互いの居住者は思っているふしがあります。


そして、北カリフォルニアの中に、「ベイエリア(the Bay Area)」という所があるのですが、シリコンバレーは、このベイエリアの中にあります。

ベイ(湾)というのは、サンフランシスコ湾を指し、ベイエリアというのは、このサンフランシスコ湾に面した地域を指します。「サンフランシスコ・ベイエリア(the San Francisco Bay Area)」といった言い方をする場合もありますね。
(写真の地図の真ん中が、サンフランシスコ湾です。ちなみに、1950年代の高度成長の時期、このサンフランシスコ湾を埋め立てようじゃないかという、とんでもない、どでかい案が浮上したそうです!)

厳密に言うと、ベイエリアは、サンフランシスコ湾に面した9つの郡(county)のことです。
 たとえば、サンフランシスコ市のあるサンフランシスコ郡(the County of San Francisco)、サンノゼ市のあるサンタクララ郡(the County of Santa Clara)、そして、サンフランシスコからベイブリッジを渡った東の対岸、オークランド市やバークレー市のあるアラメダ郡(the County of Alameda)などです。(おもしろいことに、サンフランシスコ市は、自分だけでサンフランシスコ郡を形成しているのです。)

近頃は、人口分布も広がりつつあるので、サンタクルーズ郡(the County of Santa Cruz)もベイエリアに入れることもあるようです。いつかエッセイの中でお話しましたが、サンタクルーズは、サーフィンのメッカとして知られる所ですね。

そして、シリコンバレーというのは、ベイエリアの中の「サンタクララ郡」とほぼ一致していると考えていいと思います(地図の写真の中では、右下の黄色い広がりの部分になります)。

こういう言い方をしているのは、実は、「シリコンバレー」という名前は、地図上には存在しないからなのです。まあ、ニックネームみたいなものなのですね。


ほぼシリコンバレーと考えてもいいサンタクララ郡とは、サンフランシスコの南に広がる、「サンタクララバレー(the Santa Clara Valley)」という盆地にあります。
 西にサンタクルーズ山脈、東にディアブロ山脈をひかえる盆地です。

盆地と言ってもかなり広いので、実際この中にいると、東と西を山脈に囲まれている感覚は、ほとんどありません。

昔を振り返ってみますと、このサンタクララバレーには、紀元前8000年の頃から、「オローニ・インディアン(the Ohlone Indians)」と呼ばれる部族が住んでいました。
 このあたりの盆地は、太平洋岸の海沿いと違って穏やかな気候だし、木の実や植物、小動物といった食べ物も豊富で、きっと住みやすかったのでしょうね。

残念ながら、今は、オローニ・インディアンの部族は残っていません。代わりに、彼らの生活を伝える石器などが残されています。
 写真は、我が家の近所で出土されたオローニ・インディアンの石器です。
 上の写真は、堆積岩のチャートでできた石器で、大きいものはナイフに、小さいものは矢尻(arrowhead)として使われました。

下の写真は、石でできたすり鉢(mortar)とすりこぎ(pestle)で、主食のどんぐりを粉にする道具です。カリフォルニアの多くのインディアン部族は、どんぐりを主食としていたのですね。


先住民族に代わって外からやって来たのは、スペイン人です。17世紀、18世紀頃、スペインは、メキシコを中心に新世界開拓をやっていたので、多くのスペイン人がメキシコ経由でカリフォルニアにやって来ました。

サンタクララバレーという名は、ジュニペロ・セラというフランシスコ会(カトリックの一派)の神父が付けたものです。セラ神父は、1777年、ここに初めての教会を建てました。

そして、同年、サンノゼにプエブロ(スペイン語で「村」の意味の居住区)が置かれ、人々が集まるようになりました。
 この頃は、メキシコから来たスペイン系の人や、先住のインディアン、そしてインディアンと白人の混血で村が構成されていたようです。

1825年以降、このあたりは正式にメキシコの一部と認識されています(その頃、メキシコは、既にスペインから独立した国ではあったのですが、それにしても、カリフォルニアがメキシコの領土だった時代があるんですね!)。


その後、カリフォルニアには、アメリカ本土からの移民も入るようになり、サンタクララバレーも、次第に「アメリカ化」されていきました。

1846年、アメリカとメキシコの戦争も勃発し、1850年、ついにカリフォルニアもアメリカの一部(州)となったのでした。

そして、時を同じくする1848年、カリフォルニアとネヴァダ州の境にあるシエラ・ネヴァダ山脈で金鉱が発見され、カリフォルニアは一夜にして様変わりしてしまいました。アメリカ本土や世界各地から、一気に人が流入するようになったのですね。

それ以降、金の影響(ゴールドラッシュ)で、サンフランシスコやサンノゼの街も、大きく賑わうようになったのです。


というわけで、「シリコンバレー」ともいえるサンタクララバレーには、歴史のある街がたくさんあるのです。

筆頭は、1849年、カリフォルニア最初の州都となったサンノゼ(San Jose)でしょうか。サンノゼは、ロスアンジェルスに先駆け、州内で初めてプエブロ(村)が置かれた所なので、歴史という点では、どこにも引けを取らないのですね。

今となっては、サンノゼは「シリコンバレーの首都(The Capital of Silicon Valley)」とも呼ばれています。
 北カリフォルニアで一番面積が広い都市だし、人口が一番多い街でもあるのですね。
(市の人口は90万人ちょっとなのですが、昨年、ミシガン州デトロイトを追い抜いて、アメリカで10番目に大きい都市となりました。ちなみに、ご近所さんのサンフランシスコは、14番目です)。

サンタクララバレーには、サンノゼの他に、たとえばこんな街があります。

アイルランド系移民によって築かれ、果樹園や鉄道で栄えたサニーヴェイル(Sunnyvale)。(写真は、すっかり住宅地と化したサニーヴェイルに残される、さくらんぼの果樹園)

そして、昔は馬の飼育で名を馳せ、現在は、優秀な公立学校制度のおかげで、アジア系住民が好んで住むようになったクーパティーノ(Cupertino)。
 あの有名なコンピュータ会社アップル(Apple)の本社があることでも知られています。

それから、セコイア(スギ科の巨木)に囲まれた立地で木材業に端を発し、19世紀後半には温泉、20世紀に入ってからはワインで有名となった、おしゃれな街・サラトガ(Saratoga)。
 今でも、ここには緑に囲まれた大きな屋敷が建ち並び、ロスガトス(Los Gatos)などと並んで高級住宅街のひとつとも言われています。

サンタクララバレーに広がるサンタクララ郡には、全部で15の市があるのですが、いずれも個性豊かな、歴史のある街なのです。

昔は、こういったサンタクララの谷間を総称して、「喜びの谷(the Valley of Heart’s Delight)」とも呼ばれていたようです。心が喜びに満ちあふれるような、農作物に恵まれた、豊かな場所という意味だそうです。


そして、今広く使われている「シリコンバレー」という名前は、「シリコン」、つまりコンピュータの集積回路に使われる半導体の材料から来ているのですね。半導体関連の会社が集まっているので、「シリコン」の「バレー(谷)」と呼ばれるようになったのです。
 なんでも、この言葉は、1971年にテクノロジー雑誌で使われたのが最初なのだそうです。

一般的に、テクノロジー産業の発祥の地とされるのは、1939年にヒューレット・パッカード(Hewlett-Packard)が設立された、パロアルト(Palo Alto)という街です。
 名門私立のスタンフォード大学に隣接し、人材も豊富だったのです。産学の相乗効果が、発展のいぶきとなったのですね(写真は、スタンフォード大学構内です)。

そして、戦後まもなく、ニューヨーク州のIBMがサンノゼに研究所と工場を建てたのをきっかけに、この「喜びの谷」にも、ハイテクの会社がどっと殺到するようになりました。

厳密にはサンタクララ郡には含まれませんが、パロアルトの北に面するメンロパーク(Menlo Park)も、シリコンバレーの成長には欠かせない、大事な街となりました。この街は、スタートアップ(起業したばかりの小さな会社)を支えるベンチャーキャピタルがいっぱい集まる所なのです。
 新しいアイデアのある人にとって、ここは、アイデアをビジネスに展開するチャンスの場となるのですね。

こういうハイテク産業の発展に関しては、また後日、詳しく書く機会もあると思いますので、ここでは、これくらいにいたしましょう。

今回は、サンタクララバレーに広がるサンタクララ郡の歴史を、ほんのちょっとだけ紐解いてみました。

追記:ちょっとお断りですが、スペイン人がカリフォルニアに到来した頃の、いわゆる「ミッション時代」の記述箇所で使われている写真は、サンラクララバレーのものではありません。
 教会風のミッションは、カリフォルニア中部サンミゲル(San Miguel)のもので、プエブロ風の建物は、南部のサンタバーバラ(Santa Barbara)のものです。

ちなみに、「ミッション時代(the Mission Era)」というのは、スペインがメキシコやアメリカの新大陸に進出しようとした時代に、カトリック教会を建てながら先住民族を「西洋化」していったというニュアンスがあります。

それから、以前、カリフォルニアの昔を振り返って、怪談をいくつか集めて書いたことがあります。シリコンバレーのサニーヴェイルも登場しています。興味のある方は、こちらへどうぞ。

我が家にも雪?

このページのエッセイへ



前回、シリコンバレーにも、雪が積もる場所があるんだよというお話をいたしました。その直後、我が家にも雪? というような、不思議なお天気になったのでした。

実は、降ったのは雪ではなく、雹(ひょう)でした。突然、ポツポツとガラスに何かが当たる音がしたので、びっくりして外を見ると、大豆ほどの大きさの氷の粒でした。
ものの2、3分で雹は止み、積もった氷はすぐに解けてしまいましたが、片時の「雪景色」に心うきうきとしたのでした。

シリコンバレーやサンフランシスコ周辺では、雹は比較的よく降るんです。

ちょっと前、州都のサクラメントのあたりでも、ゴルフボールの大きさの雹が降ったという話がありました。そんな大きな雹が降ったら、ちょっと外にはいられないですよね。幸い、ケガした人はいなかったようですが。

シリコンバレーで雹が降ったこの日、サンノゼで生まれ育った方がこうおっしゃっていました。自分が子供の頃、サンノゼで2回「雪」が降ったことがあると。
1回は、すぐに解けてしまったけれど、もう1回は、前庭に積もったので、雪で遊んだ記憶があるということでした。

前回のお話では、サンフランシスコ界隈で雪が降ったのは、もう何十年も前のことですと書きましたが、サンノゼ市に関して言えば、二十年ちょっと前に雪が降ったのですね。(その頃、サンノゼは地の果てだと思っていたので、ニュースは耳に入らなかったのかもしれません。)

おもしろいもので、海に囲まれたサンフランシスコ市内は、夏でも寒いわりに、冬もそこまで底冷えはしません。
一方、シリコンバレーの方は、サンタクララバレーという盆地なので、一年の気温差(年較差)も、一日の気温差(日較差)も大きいのですね。ですから、サンフランシスコのような沿岸部よりも、雪や雹が降りやすいのかもしれません。

そのかわり、夏の間、サンフランシスコやサンタクルーズといった海沿いにいらっしゃるときは、ご注意を。セーターやウィンドブレーカーは必需品ですよ。風は冷たいし、霧も出るし、これが夏? といった天気も決して珍しくないのです。

カリフォルニアは、いつも暖かいイメージがありますが、くれぐれも、北カリフォルニアに流れる寒流をあなどってはいけませんよ。

問題を軽んじてはいけません

ちょっと真面目なお話をいたしましょうか。

日頃、カリフォルニアに住んでいて、ここはアメリカの州の中でも、一番規則が多いんじゃないかと思うのです。
 何事に関しても、事細かく、州や地方自治体の法律が定められているのです。
 人種や民族の構成が複雑なので、誰もが納得するように、何事も明言化しておかないといけないのかもしれませんね。
 
 仕事場も規則の多い所のひとつです。残念ながら、カリフォルニアのように一見進んだ州でも、いまだに職場では、偏見や差別が残ります。たとえば、性別や人種や性的志向(ゲイやレズビアン)によって、賃金が低かったり、昇進が遅れたり。
 だから、みんなが同じ土俵に立てるようにと、次から次へと差別を取り締まる法律ができあがるのですね。


日本でもよく話題にのぼりますが、アメリカでも、職場のセクシュアル・ハラスメント( sexual harassment )は大きな問題です。

これになんとか対処しようと、カリフォルニア州議会では、AB1825という法律が2年前に可決されました。
 50人以上の従業員がいる会社は、部下のいる管理者全員に対し、2年に1回セクハラ防止の講義を行うよう義務付ける法律です。
 参加者は性別を問わず、講義は2時間と定められています(「逆セクハラ」というケースもありますので、男も女も講義を受ける必要があるのですね)。

カリフォルニアは、メイン州とコネチカット州に続き、このような法律を制定したそうです。法律に署名したのは、ご存じ、シュワルツェネッガー知事。自身も、セクハラ問題で世間を騒がせたことがあるのですね。

彼にそんなブラックユーモアのセンスがあったなんて!

でも、真面目な話、カリフォルニアでは、人種や年齢に関する苦情よりも、性別に関する諸問題(性差別)がダントツに多いのも事実なのです。
 セクハラは、こういった性差別( sex discrimination )の一種と定義されます。

細かい話になりますが、カリフォルニアでは、性差別の対象は男性や女性だけではなく、トランスセクシュアル、トランスジェンダー、トランスヴェスタイトなど、いわゆる「性同一性障害」を持つ人も含みます。

まあ、「障害」という学術用語にはわだかまりがありますが、ごく単純な言い方をすると、トランスセクシュアルは自分の性別がしっくりせず、性転換手術を望む人。トランスジェンダーは手術までは望まないが、出生時の性別に違和感のある人。そして、トランスヴェスタイトは、異性の格好の方がしっくり感じる人と定義されるようです。


昨年末、わたしの連れ合いも、セクハラの講義に出るように会社から言われたのでした。規則ですから、仕方ありません。
 「もう、忙しいのに~」と、ぶつぶつ文句を言いながらも、自宅から電話会議で参加していたので、脇でちょっと聞かせてもらいました。(写真は、ご丁寧なことに、会社から発行された、講義受講の証明書です!)

まあ、実際、聴講してみると、「へ~っ、知らなかったよぉ」という内容も多々あって、それなりにお勉強になるものなのです。

たとえば、雇う側ですが、性別による賃金格差は勿論のこと、面接の際、応募者に対し、未婚か既婚かとか、子供の世話はどうするのかと尋ねてはいけないそうです。こういう質問は、立派に性差別と定義されるそうです。
 「あなた妊娠してるの?」といった、妊娠に関する質問もタブーだそうです。妊娠を理由に、採用を拒否してはいけないからです。
 セクハラとは直接関係はありませんが、妊娠している女性を解雇するのも、それ相当の理由が必要です。たとえば、何も連絡なしに、勝手に仕事を休んだとか。

セクハラにいたっては、相手に不適切な行為を行うだけではありません。

女性だからと、わざと難しいプロジェクトを押し付けたり、大事な仕事道具を隠したり、失敗するようにわなを仕掛けたりというのも、立派なセクハラだそうです(なんと、実際、そういうケースは多々存在するらしいです)。

もしセクハラを働いたのが管理職なら、それは当然、会社側が知っていたものと解釈されます。そして、何らかのセクハラの兆候を察知したならば、48時間以内に調査を開始する義務があるそうです。
 訴え出た社員を別の部署にはずすなんて、もってのほか。会社側の報復措置と取られるからです。


普段、アメリカ人の男性諸君は、受付の子がスタイルいいだの、あの子は最近太っただのと、勝手なことを発言して盛り上がっているわけです。

「メアリーって誰だっけ?」との質問に対し、「ほら、あのラインバッカーみたいな、ごついヤツだよ」と、有能な女性エンジニアを指し、実に稚拙な、失敬な表現をするのです(ラインバッカーとは、アメフトで、ディフェンスの要ともなるポジションのことです)。

こういう諸君にとっては、セクハラ問題なんて、まったくどこ吹く風。

けれども、仲間うちで言い合うのはまだしも、これを公にしてしまえば、立派に罪になる危険性があるのですね。
 そして、その身勝手な「からかい」を繰り返していると、そのうち相手に裁判で訴えられたり、米雇用機会均等委員会(the U.S. Equal Employment Opportunity Commission、通称 EEOC)から、槍玉に挙げられたりするのです。

ひとたび訴訟ともなれば、いつまでも、世に語り継がれる憂き目を見るのですね。


有名なお話として、こんなものがあります。投資銀行 Morgan Stanley のケースです。

もともとアメリカの金融業界には、女性社員が食い込みにくく、「ボーイズ・クラブ」的な素地があります。が、Morgan Stanley は、組織的に行われていた女性社員に対する嫌がらせを適切に管理しなかったとして、2年前、5千4百万ドル(約62億円)の補償金を原告団に支払いました。
 女性にとって、極悪な労働環境( hostile work environment )を野放しにした、という罪状です。

ここシリコンバレーでも、こんなケースがありました。ベトナム系女性が、管理職になったにもかかわらず、先任の白人男性や同レベルの管理職と比べ、著しく給料が少ない、と裁判所に訴え出ました。
 会社側は、そんな事実は無いと主張しました。が、結局、今までの不足分を支払い、管理職全員に差別や人種の多様性を教育しますと、原告団である女性と EEOC と和解したのでした。


こういうふうに法廷で争うぞと決断するまで、セクハラや性差別の被害者は、難しい判断に迫られるようです。
 会社や上司の理解がまったく得られない場合もあるし、訴え出たあと、職場にいづらくなるんじゃないかという心配もあるからです。
 腹をくくって会社をスパッと辞めても、元上司からいい職務評価や推薦がもらえずに、新たな職が見つかりにくい恐れもあります。実際、職種をまったく変えてしまった人も多いのだとか。

それは、人の社会ですから、どこにでも問題は起きます。

けれども、問題を未然に防ぐという点では、カリフォルニアで義務化されたセクハラの教育は、みんなの意識改革の第一歩になるのかもしれませんね。

補足説明: 雇用機会均等委員会 EEOCは、職場での差別を禁止した「米国市民権法(Title VII of the Civil Rights Act of 1964)」を守るための組織です。人種、肌の色、出身国、宗教、性別に基づく差別を厳しく追及します。
 この法律があるので、アメリカでは、履歴書に写真などは貼らないのですね。性別や人種がすぐにわかってしまうからです。年齢も明記しません。雇用の際、偏見に通じるような要素は、書類選考のときに排除しておくのですね。

ちなみに、以前、アメリカでの職探しや履歴書の書き方について書いたことがあります。こちらです。

写真もなく、ちょっと読みづらくて恐縮なのですが、この号のふたつめのお話「ジョブ・フェアーはいずこ?」と、三つめの「気を引く履歴書」をどうぞ。日本と様子が違っていて、おもしろいかもしれませんよ。

Turin or Torino: Either one will do (どっちでもいいよ)


前々回の「Turin? Torino?」では、英語ではトリノのことを トゥリン と言うので、トリノオリンピックというのはいったいどこで開かれているのか、多くのアメリカ人が混乱したというお話をいたしました。

そのとき、「どうしたわけか、英語では外国の地名を勝手に変更して呼ぶ場合が多く」と、悪口を書きました。が、どうやら、事「トリノ」に関しては、勝手に「トゥリン」と呼び始めたわけではないようです。

トリノは、ピエモンテ(Piemonte)という地方の首府だそうですが、その地方の方言では、トリノは、後ろにアクセント付きの「トゥリン」と言うそうです。
 一方、イタリア語では、トリーノと言うので、結果的には、どちらでもよい(Either one will do)ということです。

トリノ、トゥリン、どちらも「小さな雄牛(Little Bull)」という意味だそうです。

この採決を下したアメリカン・イタリアン協会のメンバーは、どうせアメリカ人が気取って「トリーノ」と言ったところで、厳密な発音からすると間違っているので、トリノ、トゥリン、どっちでもいいじゃないかということでした。
 そういえば、8年前の長野オリンピックのとき、みんなが長野のことを「ナァーガノゥ」と呼んでいるのを聞いて、バカみたいと思ったことでした。

ところで、上に掲載した写真は、6年前イタリアを旅行したときに購入した陶器です。トスカーナ州フィレンツェの40キロほど南の、山の上にあるサン・ジミニャーノ(San Gimignano)という街で買いました(残念ながら、トリノには行ったことはありません)。
 ここは、尖塔がにょきにょきと生える、地元ワインが自慢の中世の街なのです。なんでも、尖塔が高いほど、家が繁栄した証拠だそうです。

イタリアといえば、あの人もこの人もここで生まれたのねと感心するほどの芸術の国ですが、食べ物もおいしいのです。サン・ジミニャーノのラ・マンジャトイア(La Mangiatoia)というレストランで食べたニョッキは、もう最高でした。


さて、トリノオリンピックでは、荒川静香選手の金メダルの演技に、思わず涙してしまったものですが、アメリカでは、残念ながら、涙を流す場面は少なかったというのが大方の評です。

まあ、せいぜい記憶に残ったのは、ショートトラックのアポロ・アントン・オーノ選手が、500メートルで金メダルを獲得して、「完璧なレースだった(It was a perfect race)」と素直に喜んでいたこととか、エッセイの欄でもご紹介したとおり、ジョウイー・チーク選手が金銀メダル賞金の4万ドルを快く慈善団体に寄付したことくらいだろうか、というものです。

開会前オリンピックの顔ともなっていたわりに、メダルがひとつも取れなかった、アルペンスキーのボウディー・ミラー選手などは、「試合よりもパーティーが大事な飲んだくれ」と、報道陣の酷評の矢面に立っていましたね。


けれども、一番手厳しい批評を受けたのは、女子スノーボードクロスで、惜しくも銀メダルとなった、リンジー・ジェイコベラス選手でしょうか。

彼女は、ゴール直前のジャンプで、バランスを崩して転倒したので、後続のスイスの選手に金メダルをさらわれてしまったのでした。3秒もリードしていたのに。

そして、批判の矛先は、このジャンプに向けられています。She was just showing off「どう見てもかっこつけのジャンプだった」というのです。

show offというのは、「見せびらかす」という動詞で、showoff というのが「自慢屋さん」という名詞になります。She’s such a showoff などと、批判的に使います。類似の言葉で、showboat という名詞もあります。「目立ちたがり屋」という意味で、やはり、こちらもテレビの解説で使われていました。)

テレビのコメンテーターは、皮肉交じりにこう指摘します。Don’t count your chickens before they hatch

(「生まれる前から、自分の鶏を数えないように」。つまり、「捕らぬ狸の皮算用」という意味ですね。最後の hatch は、「ひながかえる」という意味です。)

これに対し、ご本人は、I was caught up in the moment「その場の雰囲気に飲まれてしまった」と弁明しています。

(直訳すると、the moment「その瞬間」に、was caught up「捕らわれてしまった」という文章ですね。)

やれ「かっこつけ」だの「皮算用」だのと、まだ二十歳の女の子にとっては、ちょっと酷なお言葉じゃないかと個人的には思うのです。本人は、銀メダルでも充分に嬉しいと言っているのに。

「失敗を許す文化」のアメリカで、ちょっと珍しい光景ではありますが、それだけ、彼女に対する金メダルの期待が大きかったということでしょうか。

夏来 潤のウェブサイト誕生!

号外

夏来 潤のウェブサイト誕生!


昨年末から、ライター夏来 潤のウェブサイトを構築中でしたが、このたびようやく完成いたしましたので、ここにお知らせいたします。
その名もずばり、「夏来 潤のページ」。URLは、natsukijun.com(ナツキジュン・ドットコム)です!

http://www.natsukijun.com/

どうして個人のウェブサイトを?と思われる方もいらっしゃるでしょうが、愛着のある北カリフォルニアの生活を、少しでも日本の方々に知っていただきたいなと思って作り始めました。
サイトは、「エッセイ」「ライフ・イン・カリフォルニア(カリフォルニアの生活)」「英語ひとくちメモ」「フォトギャラリー」と4つに分かれています。おのおののセクションで、特色のあるトピックを扱い、できるだけ幅広い観点からカリフォルニアをご紹介したいと思っております。

このSilicon Valley NOWのコーナーもそうですが、今までどちらかというと、ハイテク産業の方に焦点を置いて書いてきました。けれども、「夏来 潤のページ」では、若い方、女性の方、学生さん、アメリカにちょっと興味のある方など、いろんな方々に読んでもらえたらいいなと思っています。ですから、かた苦しい話題はなしです。「英語ひとくちメモ」のセクションなどは、アメリカにちょくちょく出張なさる方でもおもしろいかとも思っております。

今まで、読者の方には、夏来 潤の書いた本はないのかというお問い合わせをいただき、自分のウェブサイトを作成するつもりだと宣言しておりましたが、遅ればせながら、ようやく実現に漕ぎ着けました。インターネットさえあれば、本屋さんに行く必要もないので、更に便利かもしれません。日本とアメリカという国境もありませんし。

サイトは、その道のプロの方に作成していただきました。思ったとおりに、きれいに作っていただいて、自慢の種となっております。そして、何よりもありがたいことに、ものぐさ人間にもちゃんと扱えるようになっているのです。

これから「夏来 潤のページ」では、頻繁に書いていこうと思っておりますので、ちょこちょこ覗いていただけたら幸いです。
こちらのSilicon Valley NOWのコーナーも、今までどおり月一回の頻度で書き続けていきますので、「夏来 潤のページ」同様、どうぞよろしくお願いいたします。


夏来 潤(なつき じゅん)

アメリカって何だろう?:ちょっと真面目に考えてみました

Vol. 79

アメリカって何だろう?:ちょっと真面目に考えてみました


ようやく日本にメダルをもたらした荒川静香選手の金メダル。彼女の心を洗われる演技は、まさに冬季オリンピックの華にふさわしいものでした。アメリカの解説者も、彼女はすべての資質を備えたスケーター、美しさの中にも強さがある、まさにレディーの演技、と手放しで褒めちぎります。

翌朝、サンノゼ・マーキュリー紙の一面も、荒川選手の写真で飾られます(3位のイリーナ・スルーツカヤ選手にはDown to bronze、2位のサーシャ・コーヘン選手にはDown to silver、そして、荒川選手にはUP TO GOLDと書かれています)。

連日、オリンピックの放映では、格別見たくもないアメリカ人選手の報道を見せられていたわけですが、こういうときこそ、祖国とは何だろう、そして、どうしてアメリカに住むのだろうと考えるのです。
アメリカに初めてやって来て四半世紀にもなるのに、いまだにアメリカとはどんな国なのだろうかと思っています。それは、アメリカが広大な国でもあるし、いろんな民族が絶えず流入する国でもあるし、中からも目まぐるしく変化する国だからだと思います。たった一年目を離すと、すっかり事情が変わっている、そんな正体不明の国。
そんなアメリカについて、今回はちょっと真面目に考えてみました。


<民主主義を語る>
近頃、シリコンバレーのトップ企業であるGoogleやYahooが、槍玉に上がっています。中国でインターネット検索サイトを運営しているためです。中国でビジネスをするということは、中国政府の仰せに従わなくてはなりませんので、体制に都合の悪い検索、たとえば「民主主義(democracy)」だの「人権(human rights)」といった言葉は、検索できなくしているのです。
これに対し、米国連邦議会は、Google、Yahoo、Microsoft、Cisco Systemsといった中国に繋がりのある会社の重役を招き、公聴会を開きます。君たちは、中国政府のいいなりになるのか、民主主義の一翼を担う精神はどこへいったのだ?と。

アメリカとは何かと問われたとき、「民主主義」という言葉は筆頭に挙げられるものかもしれません。それほど、アメリカ人にとって大切な意味を持つ言葉なのです。けれども、現在、その民主主義はきちんと守られているのか?その重い命題に焦点を当てた本が、ちょっとした話題になっています。


1月下旬に出版された「American Vertigo(アメリカのめまい)」という本です。どちらかというと、これを手にする人はごく限られた世界の人かもしれませんが、それでも、テレビのインタビュー番組や討論会、そして、全米各地の本の紹介イベントなどで、ちょくちょく著者の顔を見かけます。
この本の著者は、哲学者、ジャーナリスト、人種差別撤廃の活動家、映画製作者と、いくつもの顔を持つフランス人、ベルナルド・アンリ・レヴィー氏です。なんとなく、髪を振り乱したベートーベンを柔和な面立ちにしたような印象の人です。

この本は、The Atlantic Monthlyという政治・文学・文化を幅広く扱うアメリカの雑誌が、レヴィー氏を招いたことに始まりました。アメリカでは、フランス人アレクシス・ド・トクヴィルが1835年に出した「American Democracy(アメリカの民主主義)」を民主主義の教科書としているけれど、今あなたがアメリカを訪ねたらどう表現なさいますか?
1831年、25歳のトクヴィルは、アメリカの刑務所制度を学ぼうと大西洋を渡りました。が、広く民主制に興味を持つこととなり、その後9ヶ月をかけてアメリカ各地を訪問した体験を、本に記しました。アメリカの民主主義は、ヨーロッパの君主制よりも公正な制度であるが、その一方で、個人は多数の犠牲になる恐れもあると(「大多数の専制政治」と表現されています)。
これを再検証しようと、レヴィー氏は、一年かけてアメリカ中を歩き回ることで、アメリカ観を構築します。

旅は、ロードアイランド州ニューポートから始まります。173年先、トクヴィルが降り立った所です。そこから、ニューヨークのライカーズ・アイランド刑務所、クーパーズタウンの野球博物館、アイオワ州ドゥモインのアーミッシュ集落、サウスダコタのインディアンの集会などを訪ね、その後、西海岸の北から南、ネヴァダ・アリゾナの砂漠地帯、テキサスからアーカンソーの内陸部、マイアミからピッツバーグへの東海岸、そして首都からボストンへと、一年の旅はようやく終結します。各地での体験・対談の記述は、実に70を超えます。

  ミネソタ州では、物質文化の象徴のような巨大ショッピングモールを訪れ、ここは資本主義の栄光を称える教会であり、同時に、人々が現実と社会を肌で感じるために集まる奇妙な場所と評します。
デトロイトからシカゴへ向かう94号線では、左車線(追い越し車線)で、右と同じスピードでのろのろと走る車に文句も出ないことに感心し、「これは車社会の民主主義だ!」と叫びます。まさに、トクヴィルの言う「平等そのものへの愛」だと。
途中、車を止め、小休憩をしていたレヴィー氏は、早く立ち去れととがめる警察官とやりあいます。トクヴィルの足跡をたどっているのだと説明すると、態度を豹変し、尊敬のまなざしになる警察官に、アメリカは田舎者のカウボーイの国で、教育のない人々の国というのは間違っているではないかと記します。

  コロラドでは、女性バーテンダーと社会保障制度の話になり、アメリカの制度は、州や職業や個人によって変わる、恐ろしく複雑なものであることを実感します。それは、中央集権への不信感と、トクヴィルの記した「徹底した個体主義」によると分析します。
フロリダ州ホームステッド(1992年ハリケーン・アンドリューで壊滅的被害を受けた街)では、街がハリケーン以前のまま、脆弱に復興したことに驚きます。映画のような防衛システムの構想を描きながら、市民を守るためにはその十分の一も力を注がない不思議さ。これは、リスクの文化であり、自己防衛への傾倒であると評します。
そして、キューバに置かれるグアンタナモ刑務所では、裁判にかけられることもなく何年もテロリストとして捉えられる拘留者を観察し、ここは、暴力、社会からの隔離・追放、人権や法の規則への無関心が詰まった、アメリカの刑務所制度の縮図だと表現します。

旅に出た2004年は、大統領選挙の年だったため、政治家の集まりや党大会にも多く出席しています。共和党のヴェテラン連邦議員トム・ダッシュル氏がインディアンの集会に家族と出席すると、その笑顔とインディアンの踊りは仮面劇だと言い放ち、民主党の若手のホープ、シカゴから上院議席を狙うバラック・オバマ氏と対面すると、昨夜の党大会のエネルギーはどこにも無い抜け殻だとこき下ろします。
「小さき者の復讐」という節では、ブッシュ大統領を、「負け犬として生まれた、父親のいいなり坊や」と表現し、ビヴァリーヒルズに女優シャロン・ストーンを訪ねた箇所では、「もしかしたら、ブッシュは大統領になりたくないのに、父親、母親、奥さんを喜ばせるために大統領になったんじゃないかしら。僕は、本当は軍人になりたくなかったんだと泣く兵士と同じだわ」と、彼女が語ったことを記します。
フランス人べったりと言われるのを恐れ、なかなか会わせてもらえなかった大統領対立候補、ジョン・ケリー上院議員に対しては、ナイスな人で、心の底ではヨーロッパ人の、理性論者と評します。真実はすぐに明らかになると信じていたから、敵方のこき下ろしにも反応するのが遅れてしまった(そして、結果的に、ブッシュ大統領に敗れました)。


<レヴィー氏のアメリカ論>
体験にもとづき、レヴィー氏はこう分析します。アメリカほど自国に問いかける国はない。自分たちは何であるのか、そして、これから自分たちはどうなるのか。人種構成は?文化は?政治は?自分たちのアイデンティティー(本質)は?そんな自己疑問の嵐を指し、レヴィー氏は「めまい(vertigo)」であると表現します。

今、アメリカでは、自己矛盾、社会肥満、モザイク化、階層化が起きている。世界で最も見事なユダヤ大虐殺の記念碑を持ちながら、化石の展示物を進化論反撃の道具に使う矛盾、経済・金融・政治が肥大しきった社会肥満、細切れに区分けされ複数の国家のようになってしまった社会、そして、街角でも刑務所でも社会から完全に切り離された人々の存在。
それで?アメリカは自国の状態に嘆く必要があるのか。答えは否だ。それは、アメリカという国は、ヨーロッパ(特にフランス)のような言語・伝統・歴史を共有する民族国家(nation-state)ではないからだ。ヨーロッパのモデルはアメリカには通用しない。それが証拠に、訪ねた先々で、嘆きなどよりも”ゴッド・ブレス・アメリカ”という自国への忠誠を耳にしたではないか。
アメリカは、常に抽象であるし、そうあり続ける。実の無い国家。ビル・クリントン大統領が、1993年の就任演説で述べたような国。「アメリカが何であるかは、各々の世代が決めること。」

トクヴィルが述べた「大多数の専制政治(tyranny of the majority)」という言葉を借りるなら、いまは逆に、「少数派の専制(tyranny of the minorities)」の恐れすらある。そして、この恐れが、社会そのものではなく、一般市民の間で多数派への順応という形で現れている。
これに呼応し、アメリカには、かつて建国の父たちが掲げていたような純粋理性理念(Idea)が戻りつつある。そのお陰で、今日自由に呼吸ができる数少ない国となっている。
無政府と専制、この古来のジレンマの中でアメリカが出した答えは、自由と勇気から生まれた「開拓魂(pioneering spirit)」だ。そして、さまざまな問題に立ち向かう今日も、この精神をもって、改革を進め、自分を取り戻す力をアメリカは持っているのだ。

ちょっと難解ではありますが、結局のところ、レヴィー氏は多くのフランス人とは違って、反アメリカ派ではないのですね。彼の皮肉交じりのアメリカ論、そして、政治学的・哲学的な指摘にはいろいろ反論はあるものの、レヴィー氏自身はアメリカの民主主義の底力を固く信じている、そんなトーンの本なのです。

後述:フランス語なまりの激しいレヴィー氏。書く英語もフランス語なまりです。フランス語は世の言語の中で、最も科学表記に適した言語といわれますが、う?ん、この方の語り口は難しい。
けれども、アメリカ人じゃない人が書くアメリカ論はおもしろいです。外から見るとはっきり見えるもの、はっきり言えるものもあるのですね。広大な、州の寄せ集めのアメリカ。ここで生まれた人でも経験しないことが、たくさん書いてあります。


<アメリカの宗教>
上記のレヴィー氏。もともと哲学者だけあって、実におもしろいことを考え付きます。彼がインタビューや講演で力説していた中からひとつ、アメリカの宗教についてのコメントをご紹介しましょう。

ヨーロッパでは、少なくともカトリックの国フランスでは、神は身近でもあり、遠い存在でもある。神は人と親しく対話することもあるが、同時に、音信が途絶えることもある。なぜなら、神は沈黙を守るからだ。この「神の超越(the transcendence)」は、ヨーロッパ神学の核心ともなっている。
一方、アメリカでは、神はどこにでも存在し、絶え間なく人に話しかける。芝生を刈っているときも、キッチンで食事の用意をするときも、神は絶えず隣に存在し、話しかける。まるで、神が人間の相棒でもあるかのように。

なるほど、これは的を射ている発言だと思うのです。テレビをつければ、福音系教会牧師のお説教番組が絶え間なく流れているし、神の名は、ありとあらゆる場面に引っ張り出されます。お札にも、議会にも、学校にも、スポーツイベントにも。そして、日々の会話にも(God bless「神のご加護を」と別れ際にあいさつし、God forbid「神がお許しにならないが」と最悪の事態を想定する際に前置きします)。
自ら神を追い求める辛く、長い道のりが耐え切れず、いつの間にか、神の名や「呪文」を唱えれば救われる、そして、そうしないときは罰せられる、そんな新しい宗教の形がこの新大陸で出来上がったのかもしれません。

アメリカで生まれ育った太極拳の師匠が、アメリカ人は「即座の喜び(instant gratification)」を欲するものだと言っていました。これはまさに、レヴィー氏の指摘に相通ずるものがあります。すぐに何らかの結果がほしいのです。
そういう人にとっては、神は沈黙であってはいけないのです。自分で考え、悩み、求めることは好ましからざるもの。だから、すぐに願いを聞き届けてくれる身近な神が必要となってくるのです。何事に関しても神に話しかけ、おねだりするのは、そういった身近な神の表れなのです。
そして、「お隣の神」はどんどん信者を増やし、何万人と集う巨大な教会を次々と産み出しているのです。

後述:「神の沈黙」を肌で感じたことがあります。故遠藤周作氏の小説「沈黙」を読んだときです。神を求める厳しさを、カトリック信者の遠藤氏は、実に如実に描いています。


<アメリカの寛大さ>
自分なりにアメリカを一言で表すとしたら、「寛大な(generous)」という言葉を使うでしょうか。見ず知らずの人にも惜しみなく手を差し伸べる寛大さ。何かしくじっても「よくやったね」と許す寛容さ。自分と異質のものをも包み込む許容力。
勿論、人間の社会ですから、例外はたくさん起こります。けれども、一般市民の寛大さは、まだまだ健全なのです。でなければ、欠点の多いこの国に、外からやって来る人はいなくなるかもしれません。
この素晴らしき伝統が消え去ることなく、次世代へ受け継がれればいいと思っています。


<今は非常事態>

遠い、遠い、知らない国だと思っていたアラブ首長国連邦(United Arab Emigrates、通称UAE)。この国が、連日話題にのぼっています。
アメリカの6つの主要な港で港湾管理業務を行っていたイギリスの会社が、UAEの国営会社に買収されるというのです(ニューヨーク、フィラデルフィア、ニューオーリンズ、マイアミなどの6港を管理していたロンドンのPeninsular and Oriental Steam Navigation Companyが、首長国のひとつであるドゥバイが持つDubai Ports Worldに買収される計画。P&Oは、ヴィクトリア女王が即位した1837年に設立された海運業の老舗)。

ブッシュ政権は、2月中旬、買収案を承認しているのですが、それを知った連邦議会は大騒ぎ。UAEの会社なんかがアメリカの港湾をコントロールしたら、それこそテロリストの温床となるではないか。現に、2001年9月のテロリストのうちふたりは、UAEを経由してアメリカにやって来たではないか。テログループが資金調達にUAEの銀行を利用した形跡もある。今後、アメリカでの港湾管理がどう悪用されるかわかったものではない。
これに対し、ブッシュ政権は、こう弁明します。会社の持ち主が変わるだけで、荷役業務や施設管理は何も変わらない。港湾警備も今まで通り、自国の沿岸警備隊と税関・国境警備が行うのだ。何の不都合もない。イギリスの会社がよくて、UAEの会社が悪いというのは、アメリカの良き同盟国に対し失礼ではないか。

現に、アメリカの港湾の3割は、デンマーク、台湾、韓国、シンガポールなど、世界各国の会社が業務を肩代わりしているのですね。ドゥバイのDubai Portsにしても、アジア、ヨーロッパ、南アメリカで幅広く港湾業務をこなす実績を持っています。そして、UAEは、F-16戦闘機やApache対戦車攻撃ヘリコプターもたくさん買ってもらっている、大事なパートナーなのですね。

昨年8月、連邦議会は、中国のCNOOCによるアメリカの石油会社Unocalの買収を阻止した経歴があります。エネルギー会社を中国に買収されると、アメリカ経済と国家防衛の観点から問題ありという理由からです(CNOOCは、中国国営の石油会社が7割を所有と、国家と深い繋がりを持ちます。当のUnocalは、その後カリフォルニアのChevronTexacoに買収されています)。
今回も、国営会社が絡んだ構図に、連邦議会はあくまでも闘う姿勢を見せています。対する大統領は、議会が阻止法案を通したって、拒否権を発動するもんねと宣言しています。しかし、その2日後、買収をちょっと延期しようかと弱腰にもなっています。

個人的には、アラブ云々というよりも、アメリカに入る貨物のわずか5パーセントしか検査されていない事実の方が、重大なセキュリティーの穴だと思うのですが。そもそも、港湾管理を民間会社に託すのも正しいことなのでしょうか、このご時勢に。


<おまけのお話:ロボットが救う命>
話題沸騰のアラブ首長国連邦。イギリスから独立したのは、1971年のことです。今では豊かな産油国として知られていますが、それまでは、商いを生業としていました。そのなごりで、港湾業務はお得意なのです。ドゥバイ港は、中東で最大の港となり、ヨーロッパ、アジア、アフリカと手広く交易します。
そんなアラブの国では、競馬ならぬ「らくだレース(camel racing)」が、代々人気の娯楽スポーツのようです。きっと、競馬のように、賭けを楽しんだりするのでしょう。

近年、このらくだレースで、ロボットたちが大活躍しています。騎手として、ひっぱりだこなのです。ロボットといっても、アシモくんのように立派なものではありません。円筒形の胴体にお飾りの頭が付いた、全長30センチの張子みたいなものです。一応、騎手よろしくジャージを身にまとっていますが、唯一のインテリジェンスといえば、ブンブン動く右腕くらいなものでしょうか。
このロボット騎手たち、遠隔操作でコントロールできるので、ここ一発というところで、ペシペシペシっと続けざまにらくだに鞭を浴びせます。疲れを知らないので、いつまでも人間の指示通り、らくだのお尻を打ち続けます。すると、打たれたらくだも、全力で駆け続けるのです。速い、速い。

以前、らくだレースの騎手といえば、子供たちが駆り出されていました。人身売買(human trafficking)で集められた、インドやパキスタン、アフリカの子供たちです。3歳の幼児も珍しくありません。なぜって、らくだに乗るのは軽い方がいいからです。
この子たちは、ひとこぶらくだの背中にくくり付けられ、いわれるままに、レースの騎手を務めます。ひとたび不測の事態が起きると、命を落としたり、骨を折って一生びっこをひいたりします。騎手を退いた子供たちの保護施設すら存在するのです。

そこで、悪しき人身売買を撲滅しようと、ロボットが使われるようになりました。同時に、騎手は18歳以上でないといけないという法律もできあがりました。そうなってくると、ますますロボットが重宝されます。5キロしかないロボットには、どんなに体の小さな騎手もかなわないのです。
ロボット騎手を使い始めて3年ほどだそうですが、勝ち目のない人間の騎手は、どんどん姿を消しています。そして、3歳の頃、おじいちゃんに売られてパキスタンからやってきた男の子も、もうすぐ祖国に戻れるそうです。骨折の後遺症は重く残りますが、新しい人生の始まりなのです。
(1月30日、英BBC放映の「BBC World News」より)


夏来 潤(なつき じゅん)

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