Throw in my two cents(意見をする)

Throw in my two cents

これは、言葉の通りに訳すと、「わたしの2セントを投げ入れる」という意味ですね。

けれども、実際の意味はそうではなくて、「わたしの意見を言わせていただく」という意味なのです。

Let me throw in my two cents here.
「ここで、わたしの意見を言わせていただきましょう」という風に使います。

それから、throw (one’s) two cents into ~といった使い方もいたします。「~」の部分には、話し合いや議題が入ります。

He threw his own two cents into the discussion.
「彼は、自らの意見を討議の場で述べた」という感じに使います。


いつか「You made my day !(褒め言葉)」というお話で、表面上の意味はわかったにしても、本来の意味はなかなかわかりにくい表現がありますよ、とご説明したことがありました。

きっとこれも、その部類に入りますね。「2セントを投げ入れる」ことが、どうして「意見を述べる」ことになるのか、ちょっと理解に苦しみますよね。

アメリカ人にしても、いったいどうしてそうなったのかはよくわからないようです。

きっと自分の意見を2セントという低額のお金にたとえることで、へりくだっているのだろうという説があります。「わたしの意見など、あまり参考にはなりませんが」みたいな感じでしょうか。

そういえば、昔は、国内郵便は2セントの切手を使っていたけれど、それと同じくらい安い、取るに足りないという意味で使っているのではないか、というものもあります。
(こちらの写真は、現在使われている2セント切手です。ナヴァホ族のトルコ石の首飾りがモチーフとなっています。)

それから、キリスト教の教えからきているという人もいます。

ある日、イエス・キリストの教えを聞くために人が集まってきて、お金を寄付しようと100個のコインを籠(かご)に投げ入れた人と、120個のコインを投げ入れた人がいた。そのあとやってきた未亡人は、たった2つのコインを投げ入れたのだが、キリストは彼女が一番素晴らしいと褒めたたえた。なぜなら、彼女は自分の持っているすべてを捧げたのだから。

これは、聖書の日曜教室で習うお話のようですが、そこから「2セントを投げ入れる」という表現が生まれたのではないか、というのです。


たぶん、言語学者にとっても、言葉の語源(etymology)というのは難しいことだと思いますので、あまり気にする必要はないのでしょうね。

けれども、この「2セント」の「2」の部分には、ちょっとこだわりを感じてしまいました。

なぜなら、英語には、数字が出てくる表現が結構たくさんあるからです。

たとえば、seventh heaven というのがあります。

文字通りの意味は「7番目の天国」という意味ですが、「この上ない幸福を感じる」ことです。

They are in the seventh heaven.
「彼らは至福の時を過ごしている(ものすごくハッピーな気分である)」という風に使います。

こちらは語源がはっきりとわかっているようでして、ユダヤ教に由来するようです。ユダヤの教えでは天国は7つあって、7つ目の天国には神がいらっしゃる。つまり、神と一緒に座することは、この上もない幸福である、というわけですね。

似たような表現で、on cloud nine というのがあります。

文字通りの意味は、「9番目の雲の上」ですが、やはり「この上なく幸せである」という意味になります。

They are on the cloud nine.
「彼らは、しごく幸福な気分でいる」という風に使います。

こちらは、諸説分かれるようではありますが、宗教的な意味がないのは確かなようです。
 なんでも、1896年発行の『国際雲図鑑』では、9番目に紹介されている雲が理論上一番高くなる雲であるので、「それ以上高いものはない(それ以上幸福に感じることはない)」という意味で、「9番目の雲の上」という表現が生まれたとする説もあるようです。とすると、かなり科学的ですね!

「7つ目の天国」も「9番目の雲の上」も、できることなら、いつも使っていたい表現ではありますよね。


さて、数字を使った表現といえば、nine lives というのがあります。

「9つの命」というわけですが、おもに猫に対して使います。

Cats have nine lives.
「猫は、9つの命を持っている」というのです。

これは、実際に猫が9つの命を持っていると信じているわけではなくて、猫という生き物は、人間が危うい場面でも命拾いするものだという意味です。

たとえば、高い所から落っこちたときのように、まったく助かりそうにない危険な状態でも、猫ちゃんたちは、その平衡感覚と体のしなやかさで助かるのです。

そういう意味では、なんとなく、日本のことわざの「九死に一生を得る」に似ていますね。

それから、「9つの命を持つ」というのは、なにも猫の生還率の話ばかりではなくて、猫は神秘的で、説明がつきにくいミステリアスな生き物であるという面もあるのではないでしょうか。

昔から、黒猫は魔女の化身みたいに言われていましたしね。


さて、「2」「7」「9」ときたところで、「6」といきましょうか。

わたしのイメージでは、6は必ずしもラッキーナンバーではなくて、なんとなく新約聖書の「ヨハネの黙示録」に出てくる666を思い起こしてしまうのです。

そういった聖書の「6」と関連性があるのかどうかはわかりませんが、six feet under という表現があります。

これは、「死んで、土に埋められる」という意味です。

もともとは、文字通り「six feet(6フィート、約180センチ)」土を掘って、棺を埋めた習慣からきているようです。

No, you can’t read my diary, not until I’m six feet under.
「わたしの日記を読んじゃダメ、少なくともわたしが死ぬまではね」という風に使います。
(出典:The American Heritage® Dictionary of Idioms by Christine Ammer)

あまり縁起のいい話ではありませんが、どうして6フィートも掘るようになったかというと、イギリスのロンドンで定められたのが始まりなんだそうです。
 14世紀にヨーロッパで猛威をふるったペスト(Bubonic plague)が、1665年、再度ロンドンを襲ったことがあって、そのときに感染を防ぐために、棺を埋めるには土を深く(6フィート)掘ることが義務づけられたということです。


さて、同じ「6」でも、six-million-dollar question という偉そうな表現もあります。

文字通りの意味でいくと「6百万ドル(約6億円)の疑問」というわけですが、それほど高額の賞金を懸けてもいいくらいの「大きな謎である」という意味になります。

なんでも、もともとは6百万ドルではなくて、sixty-four-dollar question(64ドルの疑問)とか sixty-four-thousand-dollar question(6万4千ドルの疑問)という表現だったそうです。

So will she marry him or not? That is the sixty-four-thousand-dollar question.
「というわけで、彼女は彼と結婚するのか、しないのか。これは、6万4千ドルの疑問(大きな謎)である」という風に使います。
(出典:Cambridge International Dictionary of Idioms)

このヘンテコリンな表現は、1950年代のクイズ番組『$64,000 Question』からきているのだそうです。つまり、最高賞金が6万4千ドル(現在の換算レートで約640万円)だったというわけです。

今となっては、『Who Wants to Be a Millionaire?』(日本語版は『クイズ$ミリオネア』)という番組もあるくらいですから、最高賞金額は百万ドル(約1億円)。オリジナルのイギリス版でいくと、百万ポンド(約1億6千万円)。

だから、いつの間にか、「64ドルの疑問」なんてケチなことは言わずに、「6百万ドルの疑問」になったのでしょうか?(だとすると、どこもかしこもインフレですね!)

表題にもなっているように、わたしの2セントをあげましょう(I’ll throw in my two cents)などと、かわいい表現が今も生き続けていること自体が、ちょっと不思議にも感じられるのです。

みんなの視線が熱い!: パームPreとアップルiPhone 3G S

Vol. 119

みんなの視線が熱い!:パームPreとアップルiPhone 3G S

 


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本来は、そろそろ夏本番となる頃ですが、北カリフォルニアは、このところ涼しい日々が続いております。6月に入って、路上フェスティバルも皮切りになったし、夏至も過ぎ、もうすぐ独立記念日のバーベキューや花火もやってくるのに、このお天気ではちょっと盛り上がりにかけるでしょうか。

そんな6月は、アメリカでは学校の卒業式のシーズンでもあります。父の日もあることですし、この2大イベントを当て込んで、「プレゼントにいかがですか」と新製品も登場いたします。そこで、今回は、そういった6月にちなんだお話にいたしましょう。

<6月1日: パスポートをお願いします>
6月初めにアメリカで施行された法律に、こんなものがありました。「カナダとメキシコからアメリカに戻るときには、パスポートが必要である。」

え、何?と思ってしまうような法律ですが、そうなんです。今までカナダやメキシコやカリブ海からアメリカに戻る場合には、アメリカ国民はパスポートが必要なかったんですね。運転免許証(身分証明書)と出生証明書があれば、OKだったんです。
それでも、世の中何かと物騒になってきたので、今年1月からは、飛行機で隣国から戻るときには「パスポート要」となっておりました。
けれども、そこは、パスポートとはあまり縁のない国民性。なかなか規則に対応できなくて、陸路もしくは海路でアメリカに戻るケースは、5ヶ月遅れの法律施行となったのでした(もともとは、昨年の9月に施行する予定だったと記憶しております)。

しかし、やっぱりアメリカとは面白い国ですね。パスポートの申し込みには100ドル(約1万円)かかるので、カナダやメキシコにしか行かない人のために、陸路と海路に使える「パスポートカード(passport card)」なる制度を設けました。
これは、パスポートと同じく、米国務省が発行する身分証明カードなのですが、これだと45ドル(5千円弱)しかかからないので、文句を言う人もずいぶんと減るのです。

まあ、カナダやメキシコだと車で往復する人が多いので、パスポートカードで十分なわけですが、「パスポートに払う100ドルがもったいない!」と倹約するのが、アメリカ人のいいところでしょうか。

ちなみに、州が発行する「運転免許証デラックス版(enhanced driver’s license)」もパスポートカードの代わりになるそうです。けれども、今はニューヨークなどの数州しかこの制度を採用していないので、利用できる人は限られています。
カリフォルニアは「デラックス免許証」はご法度となっているのですが、どうしてって、これには RFID(Radio Frequency Identification)チップが入っているからです。プライバシー問題にうるさいカリフォルニアでは、こんなものは許されないのです。だって離れた所から悪者にチップの中身を読まれたらどうするのよ!

これに関して、国土安全保障省は、免許証のRFIDチップには個人を識別する番号が入っているだけで、個人情報はいっさい含まれていないと力説しています。が、「そんなもん、あてにならないね」と、懐疑の目を向ける人も多いことでしょう。なぜって、パスポートのチップには、個人情報が満載ではありませんか!


追記:
パスポートの話が出てきたところで、「ほんとにアメリカ人は、パスポートの取得率が少ないのか?」という基本的な疑問が湧いてくるのです。なんでも、アメリカ政府は、一年に発行するパスポートの数を発表するだけなので、取得率に関する公式統計はないそうです。
パスポートは複数年有効なので取得率の計算は厄介ではありますが、ざっくりと試算すると、人口の20パーセントを切るくらいであろうとおっしゃる方もいます。(きっと日本は、もうちょっと多いのでしょうね。)

<6月上旬: 卒業の季節>
アメリカでは、5月中旬に皮切りとなる2学期制大学の卒業式に始まり、5月、6月と学校の卒業シーズンとなります。

この卒業シーズンがやってくると、毎年、いろんな話が耳に入ります。たとえば、第二次世界大戦で中断していた勉学を続けようと、一念発起して高校に戻ったおじいちゃんが、見事83歳で卒業の栄誉を勝ち取ったとか。戦争中に日系人の収容所に隔離されていた二世・三世の方たちが、今になって初めて卒業証書を授与されたとか。そんな風に、どちらかというと、人生の苦渋を物語るエピソードが多いでしょうか。
アメリカには、両親がいるにもかかわらず、施設で育ったり、里親の元で育ったりする子たちも多いので、そんな高いハードルを乗り越えながらも高校を卒業したケースも、立派に報道に値するのです。

けれども、どんな背景であろうと、学校を卒業するというのは、まずはめでたいものですね。そんな喜びを体現しているのが、卒業パーティーでしょうか。6月上旬ともなると、パーティー用に着飾った高校生たちの車を街角で見かけたりするのです。


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卒業パーティーに向かうには、「ストレッチ」と呼ばれる長いリムジン車が頻繁に使われるのですが、こちらのリムジンには、ごていねいに花の飾りまで付いていますね。外からは中の様子はまったくわかりませんけれど、きっと車内では、タキシードやドレスに身を包んだ高校生たちがキャッキャと大騒ぎしていることでしょう。

リムジンに加えて、自分の車の窓に「High School Grad(高校の卒業生)」などと落書きしているのを見かけたりもするのですが、あんなに落書きしたら、あとで消すのが大変なんじゃないかと、他人事ながら心配してしまうのです。(アメリカの高校生は、自分で車を運転する子も多いのです。)
それにしても、よほど卒業が嬉しいのでしょうね。カリフォルニアでは、高校生の5人にひとりはドロップアウトしてしまうので、卒業とは、ある種「偉業」でもあるのです。

そして、忘れてはならないのが、高校生のいたずら(high school pranks)。4年間も学校にとらわれていたことに憤懣を抱く生徒も多く、彼らの憤りを発散するのが、卒業のときに実行する、罪のない(?)いたずらの数々なのです。
たとえば、昔から行われていたものに、憎らしい相手の家にトイレットペーパーを飾り付けるなんていうのがあります。夜中にこっそりと家に忍び寄り、前庭の木や郵便ポスト、それから車なんかにぐるぐるとトイレットペーパーを巻き付けるのです。
なんでも、雨の晩にこれをやると、トイレットペーパーがこびりついて、なかなか取れないんだとか・・・。(いやはや、最初にこれを見たときはギョッとしましたけれど、なんとなく風にそよぐ七夕飾りのようでもありますね。)

そんな伝統的ないたずらの手法も、近年はずいぶんと頭脳派になりました。こちらは、今年シリコンバレーで行われたいたずらの実例です。

学年末試験を控えたある金曜日の早朝、メンロ・アサートン高校の生徒たちの家に電話がかかってきました。それは高校からの電話で、録音された機械的な声がこう言うのです。
「今朝、学校で電気系統の故障がありましたので、生徒たちは3時限目から登校してください」と。ご丁寧なことに、英語のあと、スペイン語の録音も流れます。
自宅の電話には学校の代表番号が表示されていたので、みんな本物の連絡事項だと思い込み、学校には3時限目に間に合うように遅く登校しました。

ところが、これは、インターネットの「自動発信サービス」を使った巧妙ないたずら。共犯者の一人が報道関係者に匿名で事情を説明したところによると、学校の生徒名簿をExcelの一覧表にして、イスラエルのウェブサイトに一斉に電話の自動発信(robo-call)を行うように申し込んだ。200ドル(約2万円)くらいかかったけれど、足がつかないように、クレジットカード会社発行の無記名のギフトカード(商品券)を使ったと。
「犯行グループ」は、イスラエルにいる友達を使って技を仕込んだそうですが、もちろん、こちらの電話番号だって、勝手に指定できるようになっているのです。だから、みんな学校からの連絡だと思い込んだ・・・。

このメンロ・アサートン高校は、国の教育省からも「名門」の指定を受けているくらいの公立高校だそうで、やっぱり知恵のまわる生徒も多いのでしょう。
試験前だったこともあり、真面目な生徒にとっては、2時限を失ったのは痛かったのでは?

追記: 近頃、アメリカでは、携帯電話を使った試験の不正も流行っているそうで、ある調査会社のアンケートに答えた高校生の35パーセントが「一度はやったことがある」と白状したそうです。携帯電話に保存したノートを盗み見したり、チャットでクラスメートに答えを聞いたり、ネットアクセスして答えを検索したり、はたまたテスト用紙の写真を撮って外部の人に答えてもらったりと、手法も実にさまざま。
困ったことに、2割ほどの生徒は、「こんなのはカンニングにはならないよ」と答えているそうです。(メディア監視団体Common Sense Mediaの依頼で、Benenson Strategy Groupが行った調査を参照)

ちなみに、学校で携帯電話を使うことは禁止されている場合が多いわけですが、高周波の呼び出し音を使って、ベテランの先生を欺(あざむ)く生徒もいるらしいです。可聴範囲を超えた「犬笛」の原理?

<6月6日: パームさん参上!>


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6月6日の土曜日には、久方ぶりにパーム(Palm, Inc.)の新製品が発売となりました。その名も、「Palm Pre(パーム・プリー)」。
今までのパームPDA(携帯情報端末)のイメージを払拭した、コンパクトなスマートフォンです。

そんな記念すべき、おめでたい日ではありますが、なんでよりによって6月6日、しかも土曜日を発売日に選ぶのかと、頭の中には「?マーク」が浮かびます。(数字の6の羅列は、新約聖書「ヨハネの黙示録」に出てくる666みたいで縁起が悪そうだし、アップルさまのiPhoneなんかは、週末を控えた金曜日が発売日ですよね。)
しかも、2日後にはiPhoneの新製品がお披露目されると、みんなが固唾を呑んで待っているときに。
しかも、携帯キャリアのスプリント(Sprint Nextel Corp.)が独占販売するとは、ショップなんてどこにあったっけ?(いえ、べつに悪口を言うつもりはありませんが、業界最大手のVerizon WirelessとAT&T Mobilityに比べると、加入者半分くらいの規模ですから、ショップの数も少ないのです。)

というわけで、発売当日にはPalm Preのことなんか忘れてお買い物をしていたのですが、お気に入りのコーヒー屋さんを出たところで、偶然にもスプリントショップを発見! シリコンバレーの目抜き通りStevens Creek通りとLawrence高速道路が交差した所です。
さっそく行ってみると、店の前には車はほとんどいないけれど、ローカルテレビ局KNTVサンノゼの報道車が止まっています。もう取材は終えたのか、車の脇で、背広を着た記者が電話で忙しく情報収集。たぶん、他店の様子を尋ねているのでしょう。

店内はというと、あまりお客はいないものの、Preの場所だけ何人か集まっています。

「ほ〜、これがPreか」とさっそくデモ機を手に取ってみたのですが、まず、その軽さにびっくり。これは店頭用のモックアップ(模型)かと疑うほど軽いのです。ちゃんと頭脳は入っているのかな?
と不安になったのも束の間、操作性は、なかなかなものです。画面のアイコンをタッチすると、いろんなプログラムが素早く起動してくれるし、iPhoneと違って、タッチスクリーンを上にスライドすると、小さなキーボードが出てきます。これで文字も打ち易い。(ただし、キー自体は小さいので、お指の大きなアメリカ人男性だと、ミスタッチが増えるかもしれません。)
おもしろいことに、スライドしたタッチスクリーンの裏側は、ピカピカの鏡になっています。これで、御髪(おぐし)を整えられたし(?)

Preの特色は、いっぺんに複数のアプリケーションが走ることですが、各々の画面は「カード(トランプ札みたいなコンセプト)」と呼ばれていて、起動している何枚ものカードを指でほいほいと左右にくれるようになっています。
もうみんなが好きなだけ触ったあとだったので、ちょっと遊んでいたら「これ以上新しいカードは出せません」とメッセージが出てきました。カードを数えたら全部で14枚。これだけあれば、大抵の人は満足することでしょう。
メール、ネット、ソーシャルネットワーク、音楽、ゲーム、スポーツ観戦、ニュース・株式チェック、地図(GPSナビゲーション)と、個人が好んで使うアプリケーションは絞られてくるでしょうから。
そうそう、どうしてカードが何枚も出っぱなしになっていたかって、みなさん、どうやってアプリケーションを終わらせるのかがわからなかったのでしょう。結局わたしもショップではわからなかったのですが、あとで調べてみると、ふいっと画面の上部にカードを持っていって画面から消せば良いのだそうです。(なぁんだ、簡単!)

それから、ショップには「タッチストーン(Touchstone)」という名の小さな、丸い充電器も展示されていましたが、これは、結構おしゃれで目を引きましたね。
誘導性充電(inductive charging)という技術が使われていて、裏側に特殊なバックプレートを貼ったPreをポコッと上に置くだけで、充電できるようになっているのです。(ゲーム機Wii用の新しいリモコン充電器「Energizer Induction Charge Station」と同じ技術だそうです。)

でも、このタッチストーンを開けて価格分析したところ、部品代はたったの5ドル(約5百円)だったそうなので、定価70ドルのうち65ドルは「特権階級気分を味わうためか?」との悪口も聞こえています。
一方、Pre本体を分解してみたら、部品代に170ドルはかかっているそうなので、2年サービス契約で200ドルという本体価格は、そんなに悪くはないよということでした(Gizmodoに引用されていたiFixit社の価格分析を参照)。
 


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以前はわたし自身もパームユーザーだったことがあるので、パームの製品がどんなに大きくて、重くて、持ちにくいかはよく存じております。Palm Treo 700w(Windows Mobile 5.0搭載)を使っておりましたが、何回か地面に落っことしてしまいました。

けれども、新製品Preは、軽くて、コンパクトで、小さな手にもしっくりと馴染むサイズに出来上がっています。丸みを帯びた黒い筐体もかわいらしいですし、画面もきれいです。
そんな風に女性にも使いやすそうなスマートフォンですので、高校の卒業祝いにと、お父さんと実物を見に来た女の子がいましたね。

それから、自分はiPhoneを使っているんだけど、何回か壊したことがあるからPreを見に来たという男性もおりました。まあ、実際に壊したかどうかは疑わしいですが、それほどヘビーユーザーだと自慢したかったのでしょう。

発売当日は、こちらのショップでは「開店前に全部売り切れた」そうですが、各スプリントショップとも、開店前には行列ができて、割り振られた台数は全部なくなったそうです。
業界アナリストの分析によると、Preの販売台数は、発売の週末2日間で5万台、一週間で10万台、今四半期(8月期)には50万台を超えるのではないかということです。

個人的には、来年初頭にスプリントの独占販売契約が切れて、Verizon Wirelessが販売を開始するまでは、爆発的には売れないのではと踏んでいます。やはりカバレッジ(受信範囲)を考えると、Preが欲しいからといって、VerizonやAT&Tの加入者がスプリントに乗り換えたりはしないでしょうから。
それから、スプリント以外の流通ルートとしては、日用品量販チェーンの最大手Wal-Mart も販売するそうですが、ここで買い物をする消費者層は、Preとは無縁のような気もいたします。


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とは言うものの、6月28日のPreの広告を見て「うまい!」とうなってしまいました。この日は何かと申しますと、2年前に売り出されたオリジナルの「iPhone」の契約が切れる前日なのです。
Preは、iPhoneと違って複数のアプリケーションが走るし、スプリントはアメリカで唯一4Gネットワークを提供するキャリアだよと、iPhoneユーザーに熱いラブコールを送っているのです。

<6月8日と19日: アップルさまのお成り〜!>
「えい、頭が高い、お控えあれ!」と登場したのが、アップルさまの次世代アイフォーン「iPhone 3G S」。
6月8日、サンフランシスコで開かれたディベロッパー・コンファランスで華々しくお披露目されました。(「iPhone 3G S」の「S」はスピードという意味だそうですが、シークレット、つまりアップルさまお得意の秘密主義のSか?との説もあり。)
 


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この日は、ノートブック型コンピュータMacBookや次世代Mac OS(Snow Leopard)に関する発表もなされたわけですが、何と言っても、みんなの目玉はiPhoneの新製品に一気に集中。
しかし、大方の改善事項は周知の内容でしたので、「え、もうちょっと何かないの?」というのが、多くのアップルファンの忌憚のない見解だったようです。だって、(今は病気療養中の)スティーヴ・ジョブス氏は、「あ、それからもうひとつ(one more thing)」と、まるで手品師のように観客を驚かせてくれていたではありませんか。
(写真は、「iPhone 3G S」の発売に伴い、99ドル(約1万円)に値下げされた「iPhone 3G」8GBモデルの新聞広告)

まあ、細かい改善点や製品仕様はさて置いて、わたしが一番感心するのは、iPhoneという名の威力なのです。たとえば、今回の新製品では、動画を撮ってメールで送れるようにもなったわけですが、そんなものは、他社のスマートフォンでは以前から可能だったことでしょう。それが、アップルさまがやってみると、「へへぇ、恐れ入りました」と皆がひれ伏すのです。
それに、名前の威力とは恐ろしいもので、今や、iPhoneのアプリケーションは5万本、ダウンロードは10億件(4月末時点)に拡大。それこそ2、3人でやっているような小さな会社が一生懸命にアプリケーション開発を行っているわけですが、iPhoneのプラットフォームに社運を懸けている会社も多く、今後さらにそういった会社が雪だるま式に増えていくであろうことが、またまた空恐ろしいものなのです。
だって店頭で売るのと違って、「App Store」では流通コストもかからないし、中身がおもしろければ無名の開発者でも構わないわけですから、誰もが参入し易い。

もちろん、アップルさまの方だって商売がお上手でして、iTunesなど継続的に収入を生む自社サービスに力を入れているだけではなく、「In-App Subscriptions」と銘打って、アプリケーションパートナーに追加のプログラム販売を認めてあげたり、雑誌購読などの継続サービスを提供させてあげたりと、パートナーにとっても継続的にお金が落ちやすくなる仕組みを展開しているわけです。すると、またまたパートナーが増えていく。

そうやって、商売の上手なアップルさまは、iPhoneという「エコシステム(生態系)」をずんずんと押し広げようとしているのですね。

だとすると、上で登場したパームさんのPre危うし!?

もちろん、Preの優れている点もあります。たとえば、Preは「Palm webOS」というLinuxベースの新しいOSを搭載していますが、この新OSのなせる技に「Synergy(相乗効果の意)」という新手の機能があります。
これは、簡単に言うと、ウェブ上のいろんな場所からデータを引っ張ってきてくれる便利な機能です。たとえば、手元のPreには、ある友達の電話番号しか登録されていないとします。けれども、Preの画面を見てみると、自分の会社のExchangeとか、個人用のGoogleメールとか、ソーシャルネットワークの友達のページとか、他の場所にある友達に関するデータが統合して表示されるのです。これでもっと連絡がし易くなります。
同じように、自分のスケジュールに関しても、違った場所に保存される仕事のスケジュールと個人のスケジュール両方を引っ張ってきて、同一画面で表示してくれます。午後5時のミーティングと午後7時の野球観戦は違った色で表示されるので、ビジネスかプライベートかと混同することはありません。

でも、このしゃれた機能が「是が非でもPreを購入しなければ!」と消費者を奮い立たせるかと問われれば、ちょっと疑問が残ります。

それに、Preは2年契約の割引が付いて200ドルという値段ですが、アップルさまは既存の「iPhone 3G(8GBモデル)」を99ドルに値下げしているので、「あら、こちらの方が魅力ねえ」と目を引かれる消費者も多いことでしょう。

しかも、値段の観点から行くと、今年後半には、GoogleさんのAndroid OS改良版を搭載した安価なスマートフォンが、わんさと(18機種ほど)出てくる予定です。

ということは、やっぱりスプリントはPreを安売りするしかない!?
(なぜなら、Preは、スプリントとパーム両社の社運を懸けた切り札ですから・・・)

アメリカでは、スマートフォンを購入した場合、キャリアに支払うサービス料はまだまだお高いです。AT&T Mobilityが独占提供しているiPhoneも、現時点ではスプリントが独占提供しているPreも、月々最低80ドルほどかかります(450分の通話料40ドル、定額データ通信料30ドル、それに国、州、地方自治体の各種税金10ドルほど)。
というわけで、年間最低でも960ドルはかかりますから、消費者は元を取るために、アプリケーションがたくさんあって、楽しそうなスマートフォンを選びそうではありませんか?

サンフランシスコでのお披露目から2週間、6月19日にはアメリカを含む世界8カ国で「iPhone 3G S」が売り出されたわけですが、最初の週末3日間で100万台が売れたとは、またまたアップルさまにひれ伏すばかりなのです。
さらに、新OS 「iPhone 3.0」をダウンロードしたiPhoneユーザーは、最初の5日間で600万人。アップルさまに対するみんなの視線がいかに熱いかを如実に物語っているようです。
 


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今は、猫も杓子も「スマートフォン」という言葉を語るようになった時代。言葉は知らなくても、ケータイでメール、ソーシャルネットワーク、トゥイッター(Twitter)をやるのは当たり前になった時代。
そして、iPhoneがなければ、家族みんなで「ブラックベリー(BlackBerry)」でトゥイッターをやりましょう!という時代。

アメリカもようやくここまで到達したわけではありますが、この国のケータイ文化をガラリと変えてしまったのは、やっぱりアップルさまのiPhoneと言わざるを得ないでしょうね。

夏来 潤(なつき じゅん)



Octopi(オクトパイ)

はて、何やらへんてこな単語の登場です。

表題にありますように、この octopi という言葉は、「オクトパイ」と発音します。最初の「オクト」の部分は、数字の8を表します。

いったい何かと申しますと、8本足のタコ octopus が複数形になると、octopi になるんだそうです。つまり、「オクトパス(もしくはオクトプス)」が2匹以上集まれば、「オクトパイ」となる。

いえ、わたしも知らなかったのですが、先日、テレビ番組『料理の鉄人』のアメリカ版である『Iron Chef America』を観ていたら、お題目がタコだったんですよ。すると、司会者が、「あ、タコの複数形は octopuses ではなくて、octopi だったね」とコメントする一幕があったので、なるほど、そうなのかと学んだのでした。

ふむふむ、アメリカ人のシェフもタコを料理できるのかぁと感心したと同時に、タコの複数形までお勉強したひとときなのでした。

そういえば、「直径」を表す radius という単語の複数形は radii ですから、それと同じような変化をするのでしょうね(発音は、「レイディアス」と「レイディアイ」となります)。

つまり、ラテン語から来た言葉で「~ us」で終わった名詞は、複数形は「~ i」となる。


ところが、調べてみると、テレビの司会者は必ずしも正しくはなかったんですよ!

たしかに、タコの複数形として octopi も使われるのですが、その他に octopuses(単に最後に es を付けたもの)と octopodespus の部分が podes と変化したもの)があって、一般的に octopi よりも octopuses の方が頻繁に使われるというのです。

しかも、octopi というのは、この単語がラテン語から来たであろうという間違った前提から生まれたものであると。

なんでも、octopus はギリシャ語由来の単語だそうで、ゆえにラテン語の「~ us」は「~ i」という規則は、本来は当てはまらないそうです。(でも、誰かがどこかで勘違いして、間違いが広まってしまった。だって響きもなんとなくカッコいいですものね。)


う~ん、それにしても、ラテン語だのギリシャ語だのとややこしい話ではありますが、英語の場合にはいろんな言語に由来する外来語が多いので、スペルが厄介だったり、複数形にするのが難しかったりするのですね。

そんな話を夕餉(ゆうげ)の食卓でしていて、試しに連れ合いに「スタジアム」の複数形は知っているかと尋ねてみたことがありました。

すると、「そんなの知らないよ。だって、大きなスタジアムが何個もあるような話をすることはないから、必要ないもん」と誇らしげに答えるのです。

なるほど、それもごもっともかもしれません。

でも、古くなったスタジアムの横に新しいスタジアムが造られた場合には、複数形だって必要になりますよね。ちょうど、こんな風に。

There are both old and new stadia right next to each other.
(古いスタジアムと新しいスタジアムが、すぐ隣同士にある。)

そう、stadium の複数形は、stadia となるのです(発音は、「ステイディアム」と「ステイディア」です)。

とは言うものの、今となっては、stadia なんて忘れて、単に最後に「s」を付ける stadiums でOKだそうですが・・・。

(きっとアメリカ人は、面倒くさい規則には付いていく気もないのでしょうね。)


こんな風に、今となっては、だんだんと簡略化されてきた複数形ですけれど、いまだに厄介なままの分野もあります。たとえば、医学分野。

医学用語なんて、いったいどこからやって来たの? と嘆いてしまうくらいに、ややこしい言葉が多いわけですが、もともとの単語がややこしい上に、複数形が不規則。しかも、そんなのが山のように出てくる。
 そして、お勉強する側にとっては、いちいち面倒な言葉を覚えなければ一歩も先に進まないという、いやな「おまけ」まで付いていますね。

わたし自身は医学部ではないので、ごく一部を学ぶだけで済みましたけれども、それでも、いくつか強烈に印象に残っているものがありますね。

たとえば、背骨。

単数形は、vertebra(ヴァータブラ)。
 複数形は、vertebrae(ヴァータブレィ)。

ひとつひとつの背骨は単数形でいいですけれど、脊椎のような集合体には複数形が必要になりますね。

似たようなところで、ほほ骨。

単数形は、maxilla(マクシラ)。
 複数形は、maxillae(マクシレィ)。

片方のほほ骨は単数形でいいですけれど、ほほ骨は右と左の両方ありますよね。

それから、きわめつけは、下あごにある穴(!)。

いえ、表面からは見えませんけれど、下あごの骨には、神経が通る小さな穴があって、こちらの神経(mental nerve)が下あごと下くちびるを懸命に動かしているのです。かなり太い神経なので、穴だって結構大きいんですよ(あくまでも、他と比べてという意味ですが)。

というわけで、この穴の単数形は、mental foramen(メンタル・フォレイマン)。
 そして、複数形は、mental foramina(メンタル・フォレイミナ)。

だいたいの人には右と左の二つあるのですが、う~ん、あなたはいったい何者?と、いつも穴に語りかけておりました。

(ちなみに、上の方で出てきた「直径」を表す radius という単語ですが、人間の体で言うと、ひじと手首の間の骨でもありますね。ここに二本ある骨のうち、手のひらを上に向けて外側にある骨のことです。すみません、蛇足でしたね。)


蛇足ついでに、スタジアムの複数形が出てきたところで、サンフランシスコ・ベイエリアのスタジアム事情をちょいとお話しておきましょうか。

現在、サンフランシスコ・ベイエリアのプロスポーツチームには、こんなものがあります。
 野球のサンフランシスコGiants(ジャイアンツ)とオークランドAthletics(アスレチックス)通称A’s(エイズ)。アメリカンフットボールのサンフランシスコ49ers(フォーティーナイナーズ)とオークランドRaiders(レイダーズ)。それから、アイスホッケーのサンノゼSharks(シャークス)。

このうち、本拠地となるスタジアムが安定しているのは、野球のジャイアンツとホッケーのシャークスくらいなもので、あとは地元スタジアムの老朽化が問題となっていて、どこに移転するかと、けんけんがくがくの議論が起きているのです。

とくにサンフランシスコ49ersとオークランドA’sは、両チームとも南のシリコンバレーに移転する話が活発化していて、チームを失うことになる二都市は、「お願いだから行かないで~」と、あの手この手でつなぎ止めようとしています。

まあ、シリコンバレーの住人としては、スタジアムが近い方が嬉しいわけではありますが、試合があるたびに道路が渋滞するのはいやなので、なんとなく複雑な気持ちです。

というわけで、話が大きくそれてしまいましたが、今回は、英語の複数形は複雑だよというお話でした。

歴史のこぼれ話

先日、サンフランシスコ大地震の生存者のお話をいたしましたが、それに関して、ちょっとしたこぼれ話をご紹介いたしましょう。

昨年の秋、我が家の近くのレストランで、クラシック音楽を聴きながらディナーをいただくという催しがありました。

4品のコースディナーにピアノ、ヴァイオリン、チェロのトリオの音楽を合わせて楽しもうという、アメリカにしてはなかなか粋な企画です。

カクテルのあと座席に着くと、最初はリーダーであるピアニストがソロを軽く一曲奏でます。それからトリオでショパンやドビュッシーの聞き覚えのある曲を演奏したあと、お待ちかねのディナーとなりました。

まず前菜は、メインロブスターと地元の蟹ダンジェネスクラブのクラブケーキ。クラブケーキ(crab cake)は、蟹やロブスターの身をほぐしてコロッケ状に整え、パン粉を付けてこんがりと焼いたもので、アメリカのレストランでは最も人気の高い前菜のひとつですね。あまりハズレがないので、無難な選択ともいえるでしょうか。

コース二つ目は、鴨のソーセージとポルチーニマッシュルームのリゾット。こってりとチーズがかかっていますが、リゾットは軽めのお味なので、ちょうどいい具合です。

そしてメインディッシュは、牛のプライムリブステーキ。カラメル状にこがした砂糖をからめたタマネギの添え物が、お肉の味を引き立てます。

さて、みんなのお腹が一段落したところで、本格的に演奏が始まります。といっても、リズムに乗った軽めのクラシック音楽や、クラシックファンには馴染みの薄いタンゴなど、日本のクラシックコンサートとは違ったレパートリーの登場です。

デザートのチョコレートムースを味わったあとは、締めくくりとしてメンデルスゾーンのトリオ曲の予定でした。けれども、アメリカ人の聴衆にはリズム感のある曲が受けていたので、急遽、予定を変更してラテン調の音楽を奏でてくれました。

ともすると、食事時には騒々しいアメリカ人ですが、さすがにクラシック音楽を聴きに来る人は、お行儀よく耳を傾けておりました。そんなわけで、記憶に残る、お上品なディナーとなったのでした。


と、ここまでくると、どうしてこんなディナーについて語っているのだろうと思われたでしょうけれど、このトリオの弾いていたピアノのお話をしたかったのです。

このピアノは、地元の楽器屋さんがわざわざ運んで来たスタインウェイのピアノだそうです。その名も、クラウン・ジュエル、リミティッド・エディッション。何だか偉そうな「限定版・戴冠式の宝石」という名前が付けてありますが、要するに、いいピアノだよということなのでしょう。

スタインウェイ(Steinway & Sons)というと、アメリカが世界に誇るピアノの名器となりますが、なんでも、ドイツからアメリカに移住して来たハインリック(ヘンリー)・スタインウェイさんが、1853年にニューヨークに創設した会社が始まりなんだそうです。

きっと設立当初から、呼び声の高いピアノだったのでしょう。19世紀後半、サンフランシスコの街がだんだんと発展していって、「荒くれ者の街」から「文化都市」へと脱皮しようとする中で、「ぜひスタインウェイのピアノをサンフランシスコに持って来よう」と店を開いた人がおりました。

レアンダー・シャーマンという方です。

1870年、シャーマンさんは相棒のクレイさんとともにシャーマン・クレイ(Sherman Clay & Co.)という名のピアノ屋さんを開きました。もちろん、まだ車も走っていない時代で、街に電気が通る6年前、西海岸に電話が敷かれる9年前のことでした。

このシャーマンさんは、サンフランシスコに有名な演奏家やオペラ歌手を招いては、自分が所有するコンサートホールで演奏してもらっていたそうです。それほど、街には「文化」が必要であり、ピアノの売買に携わる自分が率先すべきことだと信じていたのでしょう。
 シャーマンさんは、いつも演奏家たちを暖かく迎え入れたようです。そのもてなしを評して、ポーランドが誇るピアニスト・作曲家のイグナツィ・パデレフスキは、「わたしの良き友人シャーマン氏が、サンフランシスコを最も楽しい訪問先としてくれている」と書いているそうです。

そんな地道ながんばりもあって、1892年、シャーマン・クレイ社はスタインウェイから正式なディーラーとして認められるのです。が、それから間もない1906年、大地震がサンフランシスコの街を襲います。

街の中心地ユニオンスクウェア近くのお店は、地震のあとの火事で焼け落ちてしまいましたが、辛くも、帳簿やお客様名簿などの大事な書類は持ち出すことができました。そして、焼け残った相棒クレイさんの息子の自宅を仮オフィスとして、対岸のオークランドにある支店からピアノを搬送しながら、間もなくビジネスを再開しました。
 何もかもが焼失してしまった地区も多く、震災後、ピアノは良く売れたそうです。クレイさんの息子が個人的に使っていたピアノまで売れてしまったとか。

そして、その年のクリスマス。シャーマンさんの手元には、12台のスタインウェイのグランドピアノが届きました。

「はて、注文していないのに、どうしたことだろう?」とシャーマンさんが首をひねっていると、翌日、スタインウェイ社から手紙が届きます。それには、こう書いてありました。

「今年4月に起きた地震と火災では、御社も甚大なる被害を被ったことでしょう。それにもかかわらず、今年も素晴らしいピアノのビジネスを展開なさったことに、深く敬意を表したいと思います。お送りした12台のグランドピアノは、クリスマスギフトとしてお納めください。あなたの誠実な友より、Steinway & Sons」

送られたグランドピアノは、6台が黒檀、4台がマホガニー、2台がクルミ材でできていて、さぞかし立派なクリスマスプレゼントとなったことでしょう。

このシャーマンさんは、1926年に79歳で亡くなるまで、ピアノ販売と音楽普及に生涯を捧げた方でした。
 そして、そんなシャーマンさんが住んだサンフランシスコのパシフィックハイツ(Pacific Heights)地区の家も、今は街の歴史的建造物に指定されているそうです。

きっとスタインウェイが名器といわれ、歴史を誇るアメリカの家々で大事にされてきた理由のひとつには、シャーマンさんのような熱心な楽器屋さんがいたこともあるのかもしれませんね。

追記: このお話は、クラシック音楽のディナーで配られたパンフレットに記載されていたのですが、そのまま読まずにいたものを、つい先日「発見」したのでした。ちょうどサンフランシスコ大地震のお話を書いていたときだったので、これは「書きなさい」というお達しなのかなと思ったのでした。
シャーマン・クレイ社が、地震100周年のときにサンフランシスコ・クロニクル紙に載せた広告記事をパンフレットにしたものだそうです。

個人的には、ピアノの音色は澄み切った日本製のものが好きですが、スタインウェイの優しい音色を好む方も多いですね。歴史を誇るアメリカ人の家族の間では、おばあちゃんから受け継いだスタインウェイを大事にするものだと、調律師の方から伺ったこともあります。大事に使えば(ちゃんと手入れすれば)長持ちする。それは、いいピアノすべてに当てはまることなのでしょう。

歴史の証人 ~ サンフランシスコ大地震編

前回は「歴史の証人~タイタニック編」と題して、タイタニック号の最後の生存者が亡くなったお話をいたしました。

今回は、そのタイタニックの悲劇のちょっと前に起こった、サンフランシスコ大地震についてお話いたしましょう。

3年ほど前に、「サンフランシスコ大地震100周年」と題して、1906年4月18日に起きたサンフランシスコ大地震から、ちょうど100周年を迎えたというお話をいたしました。

その100周年記念祭のときに、数少ない生存者として式典に参加していたハーバート・ハムロールさんが、今年2月に亡くなりました。

100周年の式典では、まだ明けやらぬ寒空の中、昔のオープンカーに乗って笑顔を振りまきながら、その健全ぶりを発揮しておりました。

今年1月には、106歳の誕生日を迎え、ステーキハウスで盛大にお誕生パーティーを開いたばかりでした。

そして、ちょっとびっくりですが、そのお誕生日の頃までは、元気に現役で働いていらっしゃったのです!


ハーバートさんは、サンフランシスコ大地震が起きたときは、まだ3歳になったばかりでした。でも、お母さんの腕に抱かれて崩れ落ちる建物から逃げ出したことはよく覚えておりました。

「母が左腕で僕を抱え、右手で階段の手すりをつかんで」命からがら避難したのだそうです。

一家は、市内の目抜き通りであるマーケット通りのすぐ南に住んでいて、この建物が密集した地区(South of Market)は、地震で大打撃を受けたようです。地震のあとの火災でも、相当な被害を受けたことでしょう。

(こちらの写真は、現在のSouth of Market、通称SOMA地区です。)

そんなハーバートさんは、長じてスーパーマーケットを経営していましたが、64歳のときに一旦引退いたしました。
 けれども、引退生活は長くは続けられない性分(しょうぶん)だったのでしょう。それから42年間、市内のアンドロニコス(Andronico’s)というおしゃれなスーパーマーケットに勤めて、在庫管理などを担当しておりました。(アンドロニコスは、創業80年のベイエリア老舗のマーケットです。)

近年は、週に2回通って来ては、入り口でお客様にあいさつをする顧客係を担当していたそうです。きっとこのお店では、「名物おじいちゃん」で通っていたことでしょう。

ちょっと驚いてしまうのは、彼自身はサンフランシスコ市に隣接するデイリーシティーに住んでいたので、バスと電車を乗り継いで来て、駅からは歩いて出勤していたそうです。しかも、亡くなるちょっと前まで。

そんな独立心旺盛なハーバートさんは、90代になるまで葉巻をくゆらせていたそうですが、長生きの秘訣は何かと問われると、「ワイルドな女性といい酒だよ(wild women and good liquor)」と語っていたのだとか。

きっと若い頃から「いなせ」な方だったのでしょうね。


この名物おじいちゃんのハーバートさんが2月に亡くなって、「あ~、これでサンフランシスコ大地震の生存者もいなくなってしまったのかなぁ」と、みんなが寂しい思いをしておりました。

なにせ、昨年の地震記念祭に出席した生存者は、ハーバートさんだけでしたから。

けれども、今年4月の103年祭の直前になって、新たな生存者が「発見」されたのでした。しかも、同時にふたりも。

ひとりは106歳のレディー、ローズ・クライヴァーさん。そして、もうひとりは103歳の紳士、ウィリアム(ビル)・デルモンテさんです。

当時、ローズさんの一家は、市の南東部に位置するバーナルハイツ(Bernal Heights)という高台に住んでいました。その頃は、サンフランシスコの市街地も今ほど大きくはなかったので、バーナルハイツの辺りには馬だのヤギだのが飼われていたり、畑が広がったりという、のんびりとした光景だったそうです。

そして、1906年4月18日午前5時12分、突然、大きな地震が襲ってきました。「これは大変!」と、ローズさん一家はみんなでバーナルハイツのてっぺんに登って、サンフランシスコの街が焼き尽くされていくのを見守っていたそうです。

けれども、自分たちの家も半壊してしまったので、家に入ることは許されませんでした。仕方がないので、しばらくは裏庭にテントを張って生活していたそうです。

その後、サンフランシスコの街全体が復興を遂げる中、ローズさんの家も元通りに修理され、103年たった今でも、バーナルハイツのゲイツ通りにしっかりと建っているそうです。


一方、ビルさんの方は、大地震のときには生まれたばかりだったので、記憶はまったくありません。けれども、家族からは、「道路の両脇にそびえ立つ火の壁の中を走って、必死に海岸まで逃げた」ことを聞いているそうです。

ビルさんのお父さんは、市の北東部にあるノースビーチ(North Beach)でイタリアンレストランを経営していたのですが、この海に近い下町の地域は、火災による被害がひどかったことでしょう。

けれども、間もなくレストランは再建され、今でも同じ「フィオール・ド・イタリア(Fior d’Italia)」という名前で営業を続けています。
 なんでも、このレストランは、アメリカで一番古いイタリアンレストランといわれているそうですが、ビルさんのお父さんが、123年前(1886年)にノースビーチで始めたお店だそうです。

そう、このノースビーチ地区には、19世紀後半からイタリア系移民が多く住み着き、今でもイタリアンレストランが軒を並べる賑やかな地域となっていますね。

(上の写真では、丘の上のコイトタワーの左側がノースビーチ地区となります。下の写真は元旦のノースビーチの様子ですが、正月早々、人通りが多いのです。)


このローズさんとビルさんのふたりは、100年もサンフランシスコに住んでいるわりに、今まで大地震の記念祭には顔を出したことがありませんでした。だから、式典関係者も彼らの存在をまったく知らなかったようです。

ということは、おふたりも初対面。今年の103年祭の前夜に開かれたディナーで「初めまして」となったのですが、ビルさんは茶目っ気たっぷりにこうコメントしています。

これは、立派にブラインド・デートさ。僕は、年上の女性が好きなんだよね。
It’s a blind date. I like older women)。

ご存じのように、ブラインド・デート(blind date)というのは、初対面の人たちを結びつけてあげようと、まわりがデートをセットアップすることですね。でも、ローズさんの方は、77歳の息子ドンさんが一緒だったので、残念ながら、純粋な「デート」とはいかなかったようです。

けれども、いくつになってもユーモアと茶目っ気を忘れない。そんな大先輩の方々には、こちらも学ぶことがたくさんありますよね。

そして、ローズさんはというと、お医者さんからも「115歳まで大丈夫」とお墨付きをいただいているそうなので、亡くなったハーバートさんに代わって、これからはローズさんとビルさんが毎年記念祭に出席なさることでしょう!


追記:
ハーバートさんについては、今年2月6日のAssociated Press社の記事を参考にさせていただきました。ローズさんとビルさんについては、4月14日のサンフランシスコ・エグザミナー紙と4月19日のサンフランシスコ・クロニクル紙の記事を参考にさせていただきました。(お三方の写真は、KTVUの報道より)

歴史の証人 ~ タイタニック編

昨晩、映画『タイタニック(Titanic)』をテレビで観ておりました。

ご存じ、レオナルド・ディカプリオとケイト・ウィンスレット主演で、豪華客船タイタニック号の沈没の悲劇を描いた超人気映画ですね。

1997年にこの映画が封切られたときは、それは、それは、話題になったものでした。アメリカ人の友達の中には、何回も映画館に通って、そのたびに涙を流すのよという人もおりました。

わたし自身は映画館には足を運ばなかったものの、ビデオが出されるとすぐに買ってみたので、内容は十分に承知しております。けれども、今でもテレビで放映していると、なぜだか必ず観てしまうのです。

途中からであろうが、何であろうが、そんなことは関係ありません。画面に主演の二人を見つけると、必ず釘付けになってしまうのです。

それは、たぶん、映画の軸となっている若い二人の燃えるような恋心に魅了されるからなのだと思いますが、それと同時に、生命の危機という極限状態に瀕した人間の性(さが)みたいなものが見えるからなのではないでしょうか。

ある人は、人を蹴落としても助かろうとするし、ある人は、これが運命なのかと静かに海に沈むのを待つ。またある人は、自分の運命を自らの手で変えてやろうと、最後まで必死にがんばろうとする。


そんなタイタニック号に関して、先日、こんなニュースが流れておりました。

タイタニックの最後の生存者が亡くなったと。

彼女は、97歳のエリザベス・“ミルヴィナ”・ディーンさん。

1912年4月15日未明にタイタニックが沈没したときには、わずか2ヶ月の赤ちゃんでした。

ミルヴィナさんは、タイタニック号が出奔したイギリス南部の港街サウサンプトンで生まれ、両親に連れられてニューヨークに渡る途中でした。
 お父さんはこの港街でパブを経営していましたが、店を売り払って、アメリカ中部のミズーリ州カンザスシティーに移り住む計画でした。カンザスシティーにはお母さんの親戚がいたので、その地で新たにタバコ屋を営もうとしていたのです。

ミルヴィナさん一家は、もともとは別の船に乗る予定だったのですが、ストライキで船が出なかったので、タイタニックに乗り込むことになりました。そう、タイタニック号の記念すべき処女航海です。

そして、出奔から5日目の日曜日の深夜、大西洋上で氷山に接触し、翌未明に沈没するという大惨事に遭遇するのです。

お父さんは、かなり機転が利く人だったらしく、3等客室にいたにもかかわらず、ミルヴィナさんとお母さん、そして当時2歳のお兄さんをライフボートに乗せることができました。氷山にぶつかったショックを感じて、「このままでは済まない」といち早く悟り、家族を連れて甲板に飛び出したそうです。
 まわりの多くは、技術の粋を集めたタイタニックが沈むわけはないと固く信じていたそうなので、さすがに港街に育ったお父さんの洞察力は鋭いものです。

そんなお父さんは、家族3人を乗せたボートが海面に下げられていくのを見送りながら、「さよなら」と言うお母さんに向かって「あとで行くからね」と声をかけます。けれども、その「あと」はありませんでした。

ご存じの通り、ライフボートに乗るのは、女性と子供、そして1等客室の乗客が優先されておりました。

ライフボートの一行は、2時間後に救助にやって来たカーパシア号でニューヨークに連れて行かれるのですが、ミルヴィナさん一家のようなイギリス人は、その2週間後に、また別の船に乗ってイギリスに戻ることとなります。

そんなわけで、アメリカに移住する計画も頓挫したまま、一家3人はその後ずっとイギリスで過ごすことになるのです。


もちろん、2ヶ月の赤ん坊だったミルヴィナさんは、事の仔細はまったく知りません。けれども、彼女が8歳のときにお母さんが再婚することになって、そのときに初めて、自分の数奇な運命と機転の利く勇敢なお父さんのことを知ったそうです。
 ミルヴィナさんたちが乗ったボートが「ライフボート13号」であったことも、そのときに知りました。

遭難のことはあまり話したがらないお母さんは、34年前に95歳で亡くなりました。

12年前には、ミルヴィナさんは豪華客船クイーン・エリザベス二世号で大西洋を渡り、生まれて初めてカンザスシティーを訪れました。85歳になるミルヴィナさんは、「ここはとっても美しいわ。5年は住めるわね」と、この地をいたく気に入ったそうです。

そして、今年5月31日、そのミルヴィナさんも亡くなりました。

彼女は、タイタニック号の遭難を生き延びた、706人の最後のひとりなのでした。


映画を観ながら思い出したのですが、小学生のときに、タイタニック号の話を聞いて、自分の印象を絵に描かされたことがありました。

海は暗い群青色で塗りつぶされ、木の葉のようにはかないライフボートを大きな波が飲み込もうとしている絵です。

その当時は、なんとなく荒波が沈没の一因だったのではないかという印象があったのでしょう。映画を観てみると、海は穏やかだったようですし、実際には、雲もない晴れ渡った夜空だったともいいます。けれども、子供のわたしの頭の中では、これでもか、これでもかと巨大な波が打ち寄せていました。

そして、木の葉のボートに乗るのは、ピンク色のドレスを着た金髪の女の子。きっと波間には、溺れている人たちも描き込んでいたのでしょう。

その「金髪の女の子」がミルヴィナさんだったのですね。

そして、「溺れている人たち」が彼女を見送ったお父さん。

それにしても、もしも自分が同じ境遇に陥ったら、自分だけボートに乗るだろうか?
 それが道義的に良いとか悪いとか、そんなことは置いておいて、それよりも自分の心が許すだろうか?

それとも、生命の危機に瀕したら、「自分の心」なんてなくなってしまうのだろうか?

映画を観ながら、今まで何度も自問したことを、もう一度自問してみたのでした。

追記: ミルヴィナさんについては、今年5月31日のAssociated Press(AP)社の記事を参考にさせていただきました。

それから、映画『タイタニック』では、多くの登場人物が架空のキャラクターとなっておりますが、主人公のローズ(架空)を助けた乗組員は実在の人物のようです。ハロルド・ロウさんという若い乗組員です。
 このロウさんが、自分の乗った「ライフボート14号」を救助ボートとしてタイタニックが沈没した辺りに向かったわけですが、一時間後に救助できたのは、男性4人だけだったということです。そして、海に放たれた18隻のライフボートのうち、あとで現場に戻ったのは、ロウさんのボートだけでした。

韓国の風景 ~ 食べ物編

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韓国で一番有名なお食事といえば、やはり焼肉とキムチでしょうか。

ところが、わたし自身は、焼肉はあまり好んで食べないし、辛いキムチは口に入れることすらできません。ですから、ちょっと韓国に旅行するのが恐かったというのが正直なところです。

けれども、わたしの韓国の食生活に対する潜在意識は、最初の晩にガラリと崩れることになりました。

東京からソウルに着いたばかりで右も左もわからないので、ホテルの方にいいレストランを紹介していただいたのですが、その中で「一番胃にやさしそう」と選んだのが、宮廷料理のレストランでした。

ホテルのほど近くにある「ヨン・ス・サン」というお店で、店の前の駐車場には高そうな車ばかり止まっているし、駐車場係のおじさんも深々とお辞儀をしてくれたので、何だか高そうだなと気後れしてしまいましたが、お店に入ってみると、みなさん笑顔で気さくに出迎えてくれました。

ここでは、朝鮮王朝時代に宮廷で出されていたお料理を現代風にアレンジしたコースがお勧めとなっておりますが、アラカルトで一品ずつ頼むこともできます。けれども、連れ合いは、せっかくだからとコース料理に挑戦です。わたしは「おかゆ」一品にしたのですが、もちろん、連れ合いのコースもつっつかせていただきました。

コースのお品書きを見ると、とても品数が多いので、食べる前からギョッとしてしまうのですが、実際にお料理が出てくると、そんなに量は多くはないし、第一その繊細さにびっくりしてしまうのです。韓国料理というと、何でもピリリと辛いのかなという固定概念がありますが、そうではないのですね。

たぶん、シェフの方はずいぶんと外国料理も研究なさっているのではないかと思うのですが、ひとつひとつがデリケートなお味に仕上げてあって、辛いものが苦手の人にも十分に堪能できるようになっておりました。それに、お皿に盛りつけるプレゼンテーションも、どことなくフレンチの感じもいたします。

店内には、現地の方ばかりがいらっしゃいましたが、日曜日の晩なので、家族連れのお祝いのディナーだとか、若い二人の記念のデートだとか、そんな「よそ行き」の雰囲気が漂っていました。たぶん現地の方にとっては特別なお店なのでしょう。

けれども、わたしたちにとっては、換算レートのせいでしょうか、コース料理自体はそんなにお高くはありませんでした。ただ、ワインは輸入品となるので、そっちの方が高かったかなという印象が残っております。

さて、翌日は、現地のガイドさんに案内してもらってソウル市内を観光しましたが、「お昼には、サムゲタン(参鶏湯)のおいしい所に連れて行ってね」と最初から頼んでおきました。
韓国料理に対するわたしの限られた知識からすると、サムゲタンは自分が一番好きなお料理だと思っているし、薬膳料理のようなサムゲタンは、観光で疲れた体を元気づけてくれるのではないかと思ったのです。

連れて行ってもらったお店は、「土俗村参鶏湯」という名の老舗のサムゲタン屋さんで、路上には仮設駐車場みたいに車がいっぱい止まっていますし、店の前には人が並んで待っています。なるほど、有名なお店なのでしょう。

入って行くと、「うなぎの寝床」みたいにずんずんと奥まで案内されて、十畳ほどの部屋に通されます。細長い部屋には二列に机が並べてあるのですが、もしかすると、ここは以前旅館だったのかもしれませんね。小さな中庭があって、ちょうど造りが旅館みたいなのです。

靴を脱いで床に座っていたので、忙しく行き来する店員さんにムギュッと足を踏まれて痛い思いをしたのも束の間、目の前には、湯気を上げたサムゲタンが出てきます。

お~、立派な鶏だこと。それに、肉もホクホクと柔らかく煮てあります。

高麗人参だのナツメだの松の実だのと、体にいいものもたっぷり入っています。

けれども、ちょっと意外だったのは、日本やアメリカで食べるサムゲタンよりもスープの味が薄いことでした。きっと現地のものは、鶏肉に塩を付けたりして自分で加減ができるようになっているのでしょう。
それにしても、お隣に座っていた現地の男性は、さすがに骨付きの鶏を食べるのがうまいなぁと、感心するのです。

というわけで、念願の本場物のサムゲタン。栄養満点のお料理に舌鼓を打ったのでした。

このお店ではサムゲタンは一種類しかありませんでしたが、お店によっては、「女性用」「男性用」と分けて出してくれる所もあるそうですね。女性用には美容健康にいいものが、男性用には滋養強壮にいいものが入っているそうです。

さて、この晩は、現地の方と待ち合わせをして、どこかに連れて行ってくれることになっています。以前、連れ合いのスタッフだったセールスマンの方で、韓国市場の開拓をバリバリと担当しておりました。

やあ、やあ、何年ぶりだろうと二人の挨拶が済むと、彼はホテル近くのプルコギのお店に案内してくれました。現地の方が仕事帰りに同僚と食べるような所で、8時にお店に着くと、ほぼ満席でした。
宴会もできるようになっていて、個室での宴がはねるときに、みんなで万歳みたいな大きな声を出しておりました。きっと日本の宴会の「一本締め」みたいに、気合いを入れて終える習慣があるのでしょう。

ご存じかとは思いますが、プルコギというのは、柔らかいお肉をほんのりと甘いタレにつけ込んだ焼肉で、まったく辛くはありません。ですから、わたしも大丈夫。三人分のプルコギを頼んだのですが、三回に分けてお店の人が焼いてくれるのです。

三回目になると、「え~、まだ焼くの?」と思っていたのですが、おいしいので、じきに食べてしまいました。プルコギは、野菜(サラダ菜)に包んで、薬味をつけて食べるので、肉と野菜が一緒に食べられて健康的ですね。
それに、頼んでもいないのに、キムチやナムル(もやしなどの野菜を胡麻油で和えたもの)、それからサラダや酢の物なども出てくるので、食事としてもバランスが取れています。

仕事帰りに食べて飲んでというお店なので、もう10時には閉店するようですが、話し足りない彼は、それから20分くらいねばっていましたね。お店の方が皿を片付けたり、テーブルを拭きに来たりするんですけれど、彼はまったく動じません。

何をそんなに一生懸命話していたかって、自分がどんなに奥さんの尻に敷かれているかを「自慢」していたんですよ。韓国の女性は、結婚すると豹変する。これが、彼の持論なのです。

さて、その翌日は、自分たちで街歩きをして、早めの夕食となりました。胃も少し疲れていることだし、手近に済ませようと、ホテルの上の階のレストランに行きました。レストランといっても、ロビーフロアにあるので開放感たっぷりだし、待ち合わせに使う人も多く、ちょっとカジュアルな感じでした。

もちろん造りは西洋風なのですが、ここでのメニューは韓国料理とイタリアンとなっております。

6種を盛り合わせた、春のナムルを試してみましたが、ふきやワラビを食べる日本人には、何の違和感もなく食べられるのです。ちょっと苦みがあって、いかにも体に良さそうと感じるのですが、きっと西洋人はダメですね。こんな味は、苦手でしょう。

ふふっ、こういうときには、東洋人としての味覚の優越感を感じてしまうのです。

そんなわけで、3泊4日の短い韓国旅行ではありましたが、おいしい旅でございました。また違ったものを食べに足を運んでみたいと思います。

そうそう、次回は屋台も試さなければ。

追記: プルコギのお店に案内していただいた現地の方ですが、彼のお話をちょっとだけ書かせていただいております。
こちらの3つ目のお話「女性パワー」と、4つ目のお話「教育パワー」というものです。もし興味がおありでしたら、現地の男性のつぶやきをお聞きくださいませ。(全体的にちょっと長いので、最初の方は飛ばして読んでいただければと存じます。)

韓国の風景 ~ 生活編

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初めての韓国旅行は、首都ソウルに3泊しただけの短い旅ではありましたが、ソウル市内を観光して一番印象に残ったことは、現地の方々の「パワー」でした。

それは、王朝時代に巨大な宮殿を築き上げたパワーだったり、壊れたら、その復元工事を何年もかけてやり遂げるパワーだったり。それから、伝統文化を守ろうとか、自分の信ずるものに祈りを捧げようというパワーだったりもするのです。

けれども、一番如実に感じたのは、「商いのパワー」かもしれません。

市内のあちらこちらを歩いてみると、路上に隙間さえあれば、何かしらの屋台が商いをやっているし、屋台を構えないまでも、路上に直接品物を広げる方々もいらっしゃいます。
こういった青空露店の方々は、ソウル近郊からいらっしゃったと見えて、自分で育てた野菜だとか、自宅で作ったよもぎ餅なんかを売っていらっしゃるのですが、こういうのは、さぞかしおいしいのだろうと興味をひかれてしまうのです。

昼時の屋台では、おでんだの、揚げパンだの、韓国風やきとりだのと、おいしそうなものをたくさん見かけました。小さなお好み焼き風のものも見かけたので、あとで調べてみると、「パジョン」という名のお好み焼きだったようです。
それから、お菓子風の小型お好み焼きは、中に黒蜜やシナモンが包み込まれていて、「ホットック」という小型パンケーキなんだそうです。
歩いていると、次から次へとおいしそうなものが登場するのですが、それを街角で試すだけのお腹のゆとりがなかったのが、たいそう残念ではありました。

そして、「商いのパワー」といえば、何といっても、この二つが代表選手でしょう。

そう、南大門市場(ナムデムン・シジャン)東大門市場(トンデムン・シジャン)ですね。

韓国最古の市ともいわれる南大門市場に行くと、まるで迷路のような路地に数限りなく小さな商店が並んでいますし、「ファッションを探すならここ」といわれる東大門市場では、もはや路上では場所が足りずに、ビルの中にまで小さなお店が浸食しています。

こういう「間口一間(まぐちいっけん)」の小さな個人商店を見ていると、韓国の人々の商いをするパワーってすごいなぁと、何はともあれ、感心してしまうのです。「何でも売ってやれ!」みたいな、商売の意気込みを感じてしまうのですね。

近代的な東大門市場のビルでは、観光客でも普通にのんびりとお買い物ができるのでしょうけれど、南大門市場の狭い路地を歩こうものなら、客引きに腕を取られて、スムーズには歩けません。

この客引きのお兄さんたちは、みなさん日本語でこうおっしゃるのです。

「完璧な偽物あるよ!」と。

この言葉は、ソウル市内ではちょっとした流行語になっているようなのです。たしかに、中国のものと比べて、韓国の偽ブランド品は精巧にできていて、ちょっと見ただけでは区別がつかないともいわれています。けれども、もし税関で見つかったら、没収されるのではありませんか?

そういえば、ソウルの客引きもかなり熱心ではありましたが、トルコの首都イスタンブールにも、客引きのお兄さんたちがいましたね。観光目玉となっている歴史的なグランド・バザールには、巨大ドームの中に5千ほどの個人商店がひしめいていて、世界各国から観光客がたくさん訪れます。
けれども、とくに日本人と見るやいなや、片言の日本語で話しかけてくるのです。

「これどう?」とか「安いよ」とか、中には、「お茶しようよ」というお兄さんもいましたね。(いったいどこで覚えたんでしょうね?)

まあ、それだけ日本人観光客のお財布は、海外でも有名になっているということではありますが、あれだけ「にじり寄られる」のも気持ちのいいものではありませんよね。

それにしても、ソウルには物があふれているものです。

カラフルな商品が床から天井まで積まれていて、「よく倒れてこないなぁ」と妙な感心をしてしまいました。(この国には、地震はないのでしょうか?)

そして、何でも一様に安い! 男性用ポロシャツが200円という値段を見かけましたが、いったいどこからそんな値段が降ってきたんだろう? と不思議でなりませんでした。

「あってないようなもの」。それが、値段。

韓国の商いのパワーを肌で感じてみて、少なくともそれだけは学んだような気がいたしました。

韓国の風景 ~ 宮殿編

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ゴールデンウィークのまっただ中、東京から向かった先は、大韓民国の首都ソウル。

初めて訪れる国なので、ちょっと不安は伴いますが、そこは日本の隣人のお国。歴史的に、日本は韓国から学んだこともたくさんありますし、第一、顔や言葉もよく似ているではありませんか。そういう意味では、ヨーロッパや中近東を訪ねるのとは印象が違いますね。
それに、ソウルは東京みたいに安全な街と見受けられるので、歩いていても不安な気持ちになることはありません。

さて、特別市ソウルは、朝鮮王朝時代(1392年~1910年)に首都とされた所ですので、歴史的建造物がたくさんあります。中でも、五大宮殿と称される5つの宮殿(景福宮、昌徳宮、昌慶宮、慶熙宮、徳寿宮)のうち、現在はかなりの部分が修復されていて、当時の王族の生活を垣間みることができます。

残念なことではありますが、いずれの宮殿も、16世紀末、豊臣秀吉が朝鮮半島に出兵した文禄の役(壬辰倭乱、じんしんわらん)と慶長の役(丁酉倭乱、ていゆうわらん)で消失したり、1910年の日韓併合条約による韓国と日本の併合時に破壊・移転されたりと、建造当時の建物はほとんど残っていないそうです。けれども、それをひとつひとつ復元工事していって、現在の姿にまで戻しているのですね。

そのうちの3つを訪れてみました。朝鮮王朝最初の宮殿である景福宮(キョンボックン)、景福宮の離宮として第3代太宗が建造した昌徳宮(チャンドックン)、そして王朝末期の政治の舞台となった徳寿宮(トクスグン)です。

景福宮(キョンボックン)は、王朝最初の宮殿であっただけのことはあって、建物も壮大ですし、中国の影響が一番色濃く残っているような気がいたします。たとえば、王様だけが通れる龍の階段だとか、屋根の上にのった三蔵法師のご一行様などは、中国の王宮とまったく同じ装飾様式です。
龍の彫刻も三蔵法師の瓦もともに王の権威を表すものではありますが、おもしろいもので、三蔵法師に続く動物の数が多ければ多いほど、その建物にはより高い位の方が住んでいらっしゃるという意味なのだそうです。

一方、景福宮の離宮として建てられた昌徳宮(チャンドックン)は、現在はユネスコの世界遺産に登録されている宮殿ですので、その美しさは五大宮殿の中でもぴか一ではないでしょうか。
ソウルに旅する前に、現地の方にどこに行ったらいいでしょうかとアドバイスを求めると、まず挙げられたのが、この昌徳宮でした。緑豊かな庭園や池に映える建物がとても美しく、この方も一番好きな宮殿であると力説なさっていました。

ゴールデンウィーク中はソウル市内も気候が良く、目の覚めるような新緑やツツジ、芍薬(しゃくやく)などの美しい花々に囲まれるので、昌徳宮を訪れるのには最適な時期ではないでしょうか。

朝鮮王朝第9代の成宗が王家の私邸として建てた徳寿宮(トクスグン)は、壬辰倭乱で消失したあと、私邸から行政の場と変身したようです。こちらは、昔ながらの宮殿とともに、韓国初の西洋建築となる石造殿が立ち並び、東洋と西洋がうまく混在した空間となっています。庭園も美しく整備されていて、広い園内は市民の憩いの場でもあるようです。

ここで忘れてはならないのが、門を守る衛兵の交代の儀式(王宮守門将交代儀式)です。一日に3回行われるそうですが、わたしたちは何も気にせずに庭園を散策していると、何やら太鼓の音がこだましてくるではありませんか。そう、ちょうど一日の最後となる3時半の儀式が執り行われようとしていたのです。

太鼓の音につられて、あわてて正門へ駆けつけてみると、まさに門の外へ出て行こうとする衛兵の隊列に出くわしたのでした。みなさん、色とりどりの古風な軍服を付けて、とても美しいのです。

間もなく、門の外には衛兵が整列し、ドンドンと太鼓が打ち鳴らされ、門の鍵が入った箱を後任に引き渡す儀式が執り行われます。そして、儀式が無事に終わったことを告げるのは、黄色の軍服に身を包んだ賑やかな鼓笛隊。見物人の目の前を通り、門の中へ入って行きます。

儀式はごく短いものではありますが、韓国の王朝時代を肌で感じるには、まさに最適なものなのでした。

どうやら地元っ子でも、この儀式を観たことのない人は多いようですので、観光客の特権として、ぜひご覧になってください。

そうそう、儀式が終わったあとは、兵隊の方たちと写真撮影ができるようになっていますので、こちらもどうぞお忘れなく。

韓国の祈り

前回のエッセイで、韓国に初めて行ってみたけれど、いったいどんな国だったのかは、わからず仕舞いに終わったような気がすると書いてみました。

やはり、首都ソウルという一都市に3泊滞在したくらいでは、国を語れるほど現地の文化や歴史に接していないような気もするのです。

けれども、そんな短い滞在にも印象に残ることはいくつかありまして、中でも、韓国の人たちの「祈り」に接したことは非常に光栄なことだったなと思うのです。


ソウル観光第一日目には、日本語のできるガイドさんに車で市内を案内してもらいました。
 午前中は、ソウル観光の筆頭にも挙げられる、朝鮮王朝時代最初の宮殿・景福宮(キョンボックン)と敷地内にある国立民俗博物館を見学したあと、午後からは、伝統工芸品のお店が並ぶ仁寺洞(インサドン)を散策し、そこからソウル全土が見渡せるNソウルタワーまで足を伸ばしたのでした。

まず、最初の景福宮は広大な敷地を持つ宮殿でしたし、自家用車禁止のソウルタワーには、バスに乗ったあと勾配のきつい坂をえっちらおっちらと登らなければならなかったので、ソウルタワーを下り地上に戻ってきた頃には、えらく疲れ果てておりました。

このままでは倒れるのではないかと思うほど、急に脱力感に襲われてしまったので、どこかゆっくりと休める所に連れて行ってほしいとガイドさんにお願いしたのでした。

すると、何を思ったのか、ガイドさんが案内してくれた場所は、ソウルタワーがそびえる南山公園近くの仏教寺院だったのでした。

こちらは、どこか静かなカフェにでも連れて行ってくれるのかと思っているので、車が寺院の駐車場に止まったときには、まさに意表をつかれた状態でした。

けれども、そのうちに、「韓国の仏教寺院なんて日本とどう違うのかな」とがぜん興味が湧いてきて、気が付くと車のドアをさっさと開けていました。


まず、寺院の山門を見上げてみてびっくりです。ずいぶんとカラフルではありませんか。

日本のお寺となると、木の茶色というイメージですが、韓国のお寺は細部まで彩色が施され、使われる色も赤、黄、青、緑と鮮やかです。

そして、お寺をもっとカラフルに見せているのは、これまたカラフルな提灯(ちょうちん)の列。どうして提灯が並んでいるかって、もうすぐお釈迦様の降誕を祝う「花祭」だから。

そう、花祭といえば、日本では新暦の4月8日にお祝いしますが、韓国では旧暦に従って祝うものなので、毎年日付が変わります。今年は5月2日でした。
 韓国では新年も旧暦で祝うそうなので、まだまだ昔ながらの風習が根強く残っているのでしょう。

もうすぐやってくる花祭を控えて、熱心な仏教徒の方々は、寺院に詣でるのが習慣になっているようです。


さて、山門のカラフルな提灯も目を引くものでしたが、門をくぐってもっとびっくり。

見渡す限りの提灯の列!

最初は、赤い提灯ばかりが並んでいましたが、そのうちに、黄色やピンクも混じります。

みな紙でできた、かわいらしい提灯ですが、これだけ揃うと「圧巻」のひと言です。

そして、ご本尊を安置してある本堂の前になると、紫やら緑やらオレンジやらと、もっとカラフルな、もっと立派な提灯が吊るしてあります。
 こちらはしっかりと布製ですし、吹き流しも付いています。そして、全体にきれいな模様が施され、型もひとまわり大きいようです。

実は、この提灯の群れは、ご先祖様の供養のために境内に吊るものだそうです。よく見ると、提灯には名札がぶら下がっていて、ここに供養をしたいご先祖の名前を書くようになっているのです。
 けれども、なんとも世知辛いお話ではありますが、この提灯にはランク付けがあって、本堂間近に吊るすことを許されているものは、それなりにお高いという値段の違いがあるそうなのです。(花祭の期間中に吊り下げるだけで、最高級は8万円もかかるとか。)

本堂間近のお高いランクを選ばないにしても、本堂の正面というのは場所が良いとされるらしく、辺り一面びっしりと提灯に埋め尽くされています。

それでも、日本の神社のおみくじと同じように、境内のあちらこちらに提灯を吊るす場所が設けられていて、脇道にそれた静かな場所を好む方もたくさんいらっしゃるようでした。

ご先祖様への提灯に加えて、お釈迦様にお供えするものでしょうか、大きな白いろうそくやピンク色の花の形をしたろうそくもたくさん見かけました。

きっと、ご先祖様の提灯とお釈迦様のろうそくは「ひとセット」になっているのでしょう。だって供養をお願いして、お供えをしないと失礼になりますものね。


本堂に提灯とろうそくをお供えしたあとは、こちらでもお祈りできるようになっております。巨大な仏像の前には、御影石(みかげいし)の台がしつらえてあって、ここでひざまずいてお祈りするのです。
 石はひんやりと冷たいので、座布団を使ってもいいようです。雨露に濡れないようにと、座布団を収めるガラスケースも両脇に備えられていました。

みなさん立ったり、ひざまずいたり、中には頭を地べたに付けて祈っている方もいらっしゃいましたが、こうなると、仏教というよりもイスラム教の祈りにも似ています。

そして、仏様の方を向いていらっしゃる方に混じって、左の方角を向いている方もいらっしゃいます。イスラム教は聖地メッカの方角を向いてお祈りするそうですが、ここでは何の方角を向いていらっしゃるのでしょうか。

ちょっと意外なことではありますが、境内には若い方もたくさん訪れていました。みなさん熱心にいったい何をお祈りしていらっしゃるのだろうかと、興味をひかれた次第です。


さて、こちらのお寺には、広い敷地の中にいくつか建物があって、裏手にまわると、美しい建物がありました。壁には、なにやら自然の中で修行をしているお坊さんが描かれているようです。

それにしても、今が盛りのツツジの薄紫に極彩色(ごくさいしき)の建築様式。まるで、自然と人のどちらが巧みであるかと競い合っているようでもあります。

初めてソウルを上空から覗いたときは、この街はくすんだ色だと思っていたのに、どうして、どうして、この街はとてもカラフルではありませんか。

そして、お寺からは、遠くに近代的な建物の群れが見えています。

あちら側は、賑やかな現代の生活の場。そして、こちら側は、静かな古代の祈りの場。

この人々の祈りの場に足を踏み入れたら、一日の疲れは、いつの間にかやわらいでいたのでした。

そして、このお寺は、ガイドさんが案内してくれた中で、一番のお気に入りとなったのでした。そう、お決まりコースではなく、ガイドさん自身が選んでくれた、とっておきの場所なのでした。

それに、なんといっても、ここにはこんなにかわいらしいお地蔵さまもいらっしゃったことですしね。

きっとこのお地蔵さまに祈る人は、こうも感じることでしょう。お地蔵さまの穏やかなお顔にも救われるけれど、このお顔を彫られた方も、さぞかし穏やかな心をお持ちなのでしょうと。

お隣の国、韓国 : なにはともあれ、パワーを感じます

Vol. 118

  お隣の国、韓国:なにはともあれ、パワーを感じます

 


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サンフランシスコ・ベイエリアの雨季もすっかり明けて、辺りは黄金に色づく季節となりました。3年連続で雨の少ない今年は、野原の乾燥も早く進み、いつもよりも一ヶ月早く金色に変身してしまいました。
そんな黄金の野や山を眺めていると、アメリカに来た当初は、こんな殺伐としたサンノゼには絶対に住まないぞと宣言していたことを思い出しました。けれども何のご縁か、実際に住んでみると、このサンタクララの谷間にもすっかり順応している自分に気が付くのです。

来年の5月は、渡米30周年となります。その間日本に住んでいたこともありますが、サンフランシスコ・ベイエリアは確実に第二の故郷になりつつあります。
振り返ってみると、このアメリカという国は、20年は住んでみないとその大きさや複雑さはわからないのではないかとも感じているのです。だって誰かが時間通りに現れなかったとき、「ま、いつか来るさ」と悟りを開くのに20年はかかりそうではありませんか?
きっと異文化への順応(assimilation)のプロセスは、それほど時間のかかるものなのかもしれません。

そんなわけで、今月は、異文化のお話をしてみたいと思います。アメリカのことではありません。先日、何も知らない韓国にふらっと旅したのですが、その「第一印象」などをあれこれと綴ってみることにいたしましょう。

<第一印象と第二印象>
ゴールデンウィークに訪ねていた東京から、大韓民国の首都ソウルに向けて飛び立ちました。羽田空港からの飛行時間は2時間弱で、これなら日本国内とあまり変わらないなと、改めて隣国の近さを痛感するのです。


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けれども、ソウルの金浦空港に近づいてくると、何もかもが日本の風景と違うことに気付くのです。土が赤茶けているせいか、木々の緑がひどくくすんで見えるし、山肌も水墨画のように険しい。そして、建物がまるでマッチ箱のように画一的に並んでいて、住宅の屋上も規則で定められているのか緑や青に塗りつぶされている。
このマッチ箱の列や、赤茶けた緑、屋上の青に、「統制」とか「計画経済」といった言葉がわけもなく頭に浮かんだのでした。

そして、いよいよ空港に近づいてくると、機内ではこんなアナウンスが流れるのです。「金浦空港上空では、写真を撮影することが禁じられています」と。たぶん軍事上の理由なのでしょうが、写真撮影は禁止されているし、眼下の建物は兵隊みたいにきちんと整列しているし、ここは確かに軍隊のいる国であると痛感したのでした。
そういえば、住宅やビルの屋上の緑色も、なんとなく東京・市ヶ谷にある防衛省のてっぺんを思い浮かべるではありませんか。翌朝、出勤時になると、辺りには人々を鼓舞する応援歌みたいなものがこだましていたし、やはり、この国は、今でも北とにらみ合いを続けていることを思い知らされるのです。(写真は、ソウル駅近くの南山公園にそびえるNソウルタワーから撮ったものです。)

そんな風に、いきなりこの国の「統率力」や「団結力」を肌で感じさせられたわけですが、翌日ソウル市内を現地のガイドさんに案内してもらうと、日本の文化の礎(いしずえ)は、この朝鮮半島から伝播したことを改めて感じ、同じルーツを持つ者として親近感を抱くのです。
だいたい言葉も似ているではありませんか。わたしは韓国語をまったく解しませんが、響きが日本語に似ていることだけはわかります。だって「図書館」は「としょかん」と発音していましたよ。
それから、両国がいわゆる「学歴社会」であるところも、中国の科挙のシステムが朝鮮半島経由で日本に伝播したことに基づくのでしょう。今となっては、日本は韓国ほど学歴社会ではなくなっていますが、こちらでは、いまだに「どの大学を出ているか」が将来を占う鍵となるそうです。ゆえに、大学入試はお家の一大事。親たちは、是が非でも「一流校」に入れたがるのです。
 


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そして、仏教がおもな宗教であるところも似ていますね。日本の場合は、お葬式のときだけ仏教徒という人も多いわけではありますが、この国には、年齢を問わず熱心な仏教徒も多いように見受けられました。
ちょうど直後の5月2日が旧暦の花祭(お釈迦様の降誕を祝う日、新暦では4月8日)に当たるので、この時期、お寺を詣でる人たちもたくさんいました。色とりどりの提灯を思い思いの場所につり下げたり、米袋や大きな白いろうそくをお供えしたりするのですが、若い人たちも含めて、みなさん熱心にお祈りしていたのが印象に残りました。


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このかわいらしい提灯ですが、やはりご本尊を安置してあるお堂に近ければ近いほど、料金(場所代?)も高くなるそうです。こちらのお寺では、一番高いランクで8万円(日本円換算)もするそうですが、ガイドさんがお供えした人たちの名前を読んでみると、ホテルグループの総帥だとか、有名な政治家だとか、そんな方々のオンパレードでした。
提灯はご先祖様の供養のために境内に吊るすそうですが、やはりご本尊に近い方がご利益(りやく)にあずかれるのでしょうか?

とはいえ、現在の韓国では、必ずしも皆が宗教家というわけではなくて、国民の約4分の1がキリスト教徒、もう4分の1が仏教徒、そして残る半分は無宗教なのだそうです(CIAのThe World Factbookを参照)。
自身は熱心な仏教徒であるガイドさんは、4割が仏教徒、3割がキリスト教徒、残りの3割が無宗教を含むその他と説明してくれていましたが、実際は、それよりももっと「宗教離れ」が進んでいるのでしょう。

おもしろいことに、アメリカでも近年同じような傾向が見られ、過去20年に国の大人人口は5千万人も増えたわりに、キリスト教のすべての宗派で信徒が減っているそうです。一方、「無宗教」は確実に増えていて、20年前は大人人口の8パーセントだったのに対し、昨年は15パーセントと倍増しています。
この宗教離れの現象は、全米50州と首都ワシントンDCすべてで起きているのですが、熱心な福音主義派の多い南部の州でも見られるというのは驚きでもあります(Trinity大学のAmerican Religious Identification Survey 2008を参照。大人人口は18歳以上と定義)。
これは、人々の宗教心が減ったというよりも、組織的な宗教(organized religions)に対する反発のあらわれと解釈した方がいいようですが、近年、韓国でもアメリカでも、思想や信条の多角化が進んでいるのかもしれません。
 


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さて、話がすっかりそれてしまいましたが、ソウル市内を観光する上で忘れてはいけないのが、街の中心部に残る宮殿です。1392年から日韓併合条約で韓国が日本に併合される1910年まで続いた、朝鮮王朝の宮殿群です。
この朝鮮時代には、儒教が国教と定められたり、ハングル文字が考案されたり、科挙に基づく身分・階級制度や貨幣制度が整備されたりと、国として確立した時代でした。先の高麗時代には開城(ケソン、今の北朝鮮の南部)に置かれていた首都がソウルに遷都されたのもこの時代です。
もともと5つあった朝鮮王朝の宮殿(景福宮、昌徳宮、昌慶宮、慶熙宮、徳寿宮)は、その大部分が戦火で消失したり、日韓併合時に破壊・移転されたりしていますが、現在はかなりの部分が復元され、王朝時代をしのぶことができます。
 


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朝鮮王朝最初の王宮である景福宮(キョンボックン)を訪れてみると、その様式が中国の宮殿に酷似していることに驚いてしまいました。建築様式や宮殿前の広大な広場、そして建物群の配置とすべてが写し絵のようにも感じるのですが、とくに宮殿前の階段には龍の彫刻が施され、ここを通れるのは王のみであったということに、中国の王道の思想を感じ取りました。
この宮殿前の広場では、左に武官たちが、右に文官たちが身分順に整列して王に謁見したそうですが、とくに王朝初期には、王の力は絶大なものだったのでしょう。その王の跡目争いを防ぐためか、いつしか「妃の寝所で生まれた者のみ王になれる」という規則が定められたのだそうです(それでも、争いは絶えないのが人の世なのかもしれません)。

このように、中国や朝鮮半島から日本に思想・文化が伝播してきたので、三国には類似する要素が多いわけではありますが、景福宮に併設される国立民俗博物館を訪れてみて、ちょっとおかしなことを発見してしまいました。


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こちらの写真は、炭火の火鉢の上に、石鍋みたいな調理器具がのっかっている展示物です。きっとこの鍋でビビンバ風の料理でも作っていたのでしょう。いったい何が目を引いたかというと、この展示物が、以前ギリシャの首都アテネの博物館で見た展示物と似ていたことなのです。
あちらは、ギリシャの名物料理スヴラキ(Svoulaki)みたいに、肉や野菜を串刺しにして調理する「スヴラキグリル」だったのですが、形といい、大きさといい、こちらの「ビビンバ鍋セット」に似ているなと直感したのでした。

あちらは紀元前6世紀の調理器具、こちらは近代の調理器具。あちらは西洋のもの、こちらは東洋のもの。そんな違いはあるものの、時代を超え、文化を超え、人という生き物の共通点を見いだしたようで、ひとりで含み笑いしておりました。

ちなみに、古代ギリシャの「スヴラキグリル」は、2006年5月号のギリシャ旅行記に掲載されております。こちらのお話の4枚目の写真です。

それから、文中では「朝鮮王朝」とか「朝鮮時代」という表現を使いましたが、日本では一般的に「李王朝」とか「李王朝時代」と呼ばれています。けれども、現地では「朝鮮」という名が正しいものとされるので、現地の表記に従いました。

<商売パワー>
ソウル観光第一日目は、現地のガイドさんに案内してもらったわけですが、最初は、どこに行こうかしらと結構悩むことになりました。わたしたちは、車がないと行けないような郊外を希望し、願わくは、焼き物の街・利川(イチョン)まで足を伸ばせればいいなと思っていたのでした。
ところが、ソウル周辺は慢性的な交通渋滞。行きは1時間半で行けたにしても、帰りは何時間かかるかわかったもんじゃない、それでは、一日をつぶしてしまうよとのことでした。


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そこで、急遽、予定を変更し、午前中は景福宮(キョンボックン)と併設の国立民俗博物館を見学したあと、お昼は名物のサムゲタンを老舗でいただき、午後からは、伝統工芸品のお店が並ぶ仁寺洞(インサドン)、ソウル全体を見下ろすソウルタワー、そしてタワー近くにある仏教寺院を訪れたのでした。

そんな風に、一日観光コースを平穏に終えたのですが、ガイドさんにとっては、わたしたちが「典型的な日本人の観光客」ではなかったので、どこを案内しようかと頭を悩ませていたようです。なにせ買い物やエステには興味がないし、韓流ドラマも観ないのでロケ地を訪れる気もありません。宮殿歩きは一日にひとつで十分だし、お茶をする習慣もないので、伝統茶のお店を訪れる必要もありません。
というわけで、朝10時から夕方6時までの個人ツアーは、1時間も早く切り上げてしまいました。仏教寺院のあとに訪れた漢江(ハンガン、市内中央を流れる大きな川)の河畔で、突然の暴風雨に襲われたこともあるのですが、なんとなくつまらなかったのもあるのです。

というわけで、二日目からは自分たちで街歩きを始めました。すると、前日のつまらない気分もすぐに吹っ飛んだのでした。なんといっても、この街はおもしろい!


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まず、ホテル前から地下鉄に乗ると、車内の情報画面には、いきなりマイクロソフトのエラーメッセージが出ていましたよ!
画面には次はどこの駅だとか、駅近くにはどんなアトラクションがあるだとか、そんな情報が絶えず流れているのですが、それがハング(ソフトウェアの応答なし)しているのです。
さすがに車掌さんが気付いたのか、間もなく情報画面はリブート(再起動)され、ちゃんと情報を流すようにはなりましたが、それにしても、こんなところにウィンドウズOSとは、ちょっと不安定ではありませんか?
そういえば、以前ノルウェーからスウェーデンの首都ストックホルムに到着すると、空港から市内に向けて乗った電車がいきなり止まったことがありました。トンネルの中でストップしたので、辺りは暗闇に包まれてしまったのですが、そのときは、間もなく電車自体をリブートして事なきを得たのでした。それに比べれば、情報画面のリブートはかわいいものでしょうか。

リブートごときで感心していてはいけません。地下鉄の車両には、物売りの人たちがどんどん乗り込んでくるのです。車輪の付いた荷物乗せに大きな箱をのっけて、それを車両から車両へとゴロゴロと引っ張って物を売り歩くのです。
わたしが最初に遭遇した商品は、手袋の形をした布製クリーナーでした。これがあると、コンピュータの画面やらキーボードの隙間もきれいになるよと宣伝していらっしゃいます(カタカナ用語はなんとなく理解できますし、その上、白板を使ったデモンストレーション付きでした)。
わたしは心の中で「そんなもの誰が買うのよ?」と思っていたのですが、なんと、目の前に座っていたオフィスワーカーの女性が、宣伝ピッチにつられて赤いやつを買っているではありませんか。なるほど、ここで販売活動を行うのも、決して無駄にはならないわけですね。
中には、音量たっぷりに音楽をかけてCDを売るご仁もいらっしゃるのですが、「迷惑よ!」と嫌われることはないのでしょうか。こういった売り子の方々は、通勤時間帯にも出没するのですが、日本ほど満員電車ではないので、お客をすり抜けながら、なんとかやっていけるのでしょう。

そして、販売活動といえば、地下鉄を降りて訪れた東大門(トンデムン)や南大門(ナンデムン)の市場は、その大御所ともいえるものでしょうか。ともに「広大」の一言に尽きる市場なのですが、南大門の方は韓国最古の市という歴史を誇るだけあって、狭い路上に、ごちゃごちゃと屋台風のお店が軒を連ねています。そして、東大門の方は路上だけでは足りずに、ビルの中にまで小さなお店がひしめいています。
現地の方曰く、「僕のワイフなんかは、東大門市場には夜の9時過ぎてから行くんだよ。その方が、ずっと割引してくれるからね。」


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そんな不夜城の東大門市場には正午頃訪れたのですが、分野ごとにきちんと分かれたビル内のお店は、多くが開店前でした。なんでも、そんなに早い時間にお買い物をするのは、観光客だけだとか。

それでも、道沿いには食べ物の屋台が並び、現地の人が昼食をとっていたり、開店準備をしているお店の人たちや早めの買い物に来ているお客もいたりと、それなりに活気に満ちています。そして、路上にせり出した陳列棚や色とりどりの商品を見ていると、あることに驚いてしまうのです。なんといっても、値段が安い!
たとえば、男性用のポロシャツ。ブランド品ではないものの、しっかりとした縫製で、日本でも普段着られそうなものが、日本円でたったの200円! それに比べたら、わたしがおみやげ用に買った手作りのくるみボタンなんかは、ひとつ400円もしたので、こちらは立派に観光客プライスだったのでしょう。
 


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それにしても、ポロシャツが200円とは! だとすると、日本のデパートの数千円という値段は、いったいどこから来たの? そして、そもそも価格とはいったい何なの? と、活気に満ちたソウルの一角で、わたしは大いに疑問を抱いてしまったのでした。
そういえばアメリカでも、慈善団体となると、ひとり一日分の食料をわずか1ドル(約100円)で調達できるといいます。価格というものは、流通ルートによって、七変化を遂げるものなのでしょう。

なるほど、こうやって街歩きをしてみると、ソウルという街は司政の中心地ではあるけれど、同時に商売の中心地でもあるわけですね。「お買い物には興味がない」と言い切ったわたしたちを目の前にして、どうしてガイドさんが頭を悩ませていたのか、その理由がわかったような気がいたしました。

<女性パワー>
旅には小さなトラブルは付きものでして、今回は、現金を持っていないことが仇となりました。普段、アメリカでは高額のキャッシュを持ち歩く習慣はないので、金浦空港に到着したときも、手持ちの2万円を換金しただけでした。
そんなわけで、第一日目の観光を終え、ガイドさんから現金で払ってくれと要求されたときには大あわて。普段はクレジットカードも受け付けるそうですが、このときは個人ツアーのためレンタカーを借りたので、車内にはカードの読取り機が付いていないのだと。
 


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ガイドさんでは埒(らち)が明かないので、ホテルに送り届けてもらって、フロントで相談したのですが、そこに立っていたお兄さんたちでも埒が明きません。
お兄さんのひとりが曰く、「隣の大きなビルに、外国の銀行からも引き出せるATM(自動現金預け払い機)があるはずだから、そこで現金を引き出すか、さもなくば、料金は部屋付けにしてホテルが立て替えるけれど、10パーセントの手数料を支払うか、そのどちらかしかない」と。
このお兄さん、英語はかなり上手いのですが、きっとアメリカのテレビドラマの観過ぎなのでしょう。「それは、僕たちの問題じゃない(That’s not our problem)」などと、平気でお客の心を逆なでするようなことを言い放つのです。アメリカ人の従業員だって、そんな失礼なことは言いませんよ。

と、そこに颯爽(さっそう)と現れたのは、にこやかな表情の女性。年齢は30そこそこと見受けられるものの、きっとこの場の責任者なのでしょう。「わかりました、わたしたちが現金を立て替えますし、手数料もいただきません」と、きっぱりとおっしゃいます。
まあ、ここは、いわゆる「外資系の一流」を自負するホテル。本来は、最初からそう答えなければなりません。10パーセントの手数料なんて、そんなもので商売する気など、きっぱりと捨てた方がいいのです(それに、ガイドさんの会社からは、紹介手数料をたんまりとせしめているでしょう?)。

というわけで、この麗(うるわ)しき女性に加え、ホテルのレストランでも颯爽と現れ問題を解決してくれたのは女性従業員だったのですが、だとすると、この国の底辺をしっかりと支えているのは、女性パワーだってことでしょうか。

その晩、現地の方とディナーをする機会があったのですが、この男性も奥方には頭が上がらない様子でした。彼は、韓国語と英語を駆使するバリバリのセールスマンなので、話半分に聞いておいた方が無難なのかもしれませんが、こんなことを熱心に主張するのです。
「韓国の女性は、結婚前は天使だけれど、結婚後は悪魔に変身するのだ。」

曰く、韓国女性は結婚前のデートではおとなしく、しとやかに構えているけれど、ひとたび結婚してしまうと、ダンナの首根っこをつかまえては、あれしなさい、これしなさいと指示を出すのだと。

なるほど、日本でも耳にするようなお話ではありますが、わたし自身は、いつも西洋と東洋の社会のあり方にずれを感じているのです。そして、「男女平等」を語る上で、表面上の社会進出ばかりに目を奪われると、表面下の家庭生活では誰が手綱を取っているのかという事実を見失うんじゃないかと思っているのです。
たとえば、西洋社会では「女性の社会進出」が叫ばれて久しいわけですが、その代わり、家庭内では家計を預かる権限すら持っていない女性も多いように見受けられます。シリコンバレーでお世話になっている会計士さんがおっしゃっていましたが、アメリカでは男性が家計を握っている家も多いので、先にダンナさんが亡くなったあと、小切手を書く方法すらわからずに苦労をする女性も多いと。


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それに比べて、東洋の社会では、一般的に女性の社会進出はまだまだ限られていると言わざるを得ないですが、それでも、家庭生活をしっかり握っているのは女性の方ではないでしょうか。だから、一家のお父さんは、決められたお小遣いで「飲み代」を捻出しなければならないし、韓国の彼だって、事情は同じようでした。(写真は、国立民俗博物館に飾られた伝統的な結婚の儀の模型。)

そんなわけで、韓国女性の多くは、黙ってダンナさんの言いなりになるようなタイプではないのでしょうが、それでも、昨今離婚は減っているんだとか。
昨年の韓国の年間離婚数は、11万6千件と5年連続で減少し、1998年以来、最小の記録となったんだそうです(4月27日発表の国立統計局のデータ)。
なんでも、昨年7月からは、国が「離婚のクールオフ期間」を義務づけたそうで、離婚したいなら、1ヶ月から3ヶ月は頭を冷やすべしという規則が、離婚数の低下に貢献しているということなのです。

それでも、いわゆる「熟年離婚」はじりじりと増えているようで、結婚20年以上を経過し、50歳を超えたあたりのカップルが、「どうしても踏みとどまれない岐路」に立たされているようではあります。

「天使と悪魔説」の彼は、まだまだお若いですけれど、油断は大敵なのです。

<教育パワー>
上のお話で登場した彼。「奥方の尻に敷かれている」ことを誇らしげに吹聴していたわけですが、実は、彼の場合には若干の救い(?)があって、奥方が息子二人を連れて、シンガポールに3年間分かれて暮らしていたのです。いえ、家庭内不和ではありません。息子たちの英語が上手くなるようにと、シンガポールの学校に通わせていたのです。
いよいよ長男が高校に入る年齢になったので、皆を呼び寄せ、韓国で一緒に暮らすようになったそうですが、「またまた地獄に逆戻りだよ」と、彼は冗談まじりに話してくれました。

こんな風に、近頃は、子供をシンガポールの学校に通わせて英語を徹底的に教育したあと、アメリカの学校に入れる親が増えているそうです。大学レベルの海外留学ともなると、その3割がアメリカに向かうとか。「息子たちを送り出したあと、僕もゆくゆくはアメリカに移住したい」とも語っていらっしゃいました。
自身も国外に出る機会は多いのでしょうから、韓国の「学歴社会」のあり方には、少々辟易(へきえき)している部分もあるのでしょう。

驚くことに、韓国では、ソウルオリンピック開催の翌年の1989年になって、初めて国民が自由に海外渡航できるようになったそうです。それまでは外国に行くことは難しかったので、ガイドさんも、日本語のような外国語を学んだのも外国に行きたかったからだとおっしゃっていました。


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けれども、経済大国の地位を築いた現在は、年間に国民の3割近くが海外渡航するほどの「外国熱」に見舞われているようではあります。海外好きの日本人でも出国は1割ほど(13%)なので、3割とはその短期間の変身ぶりに驚いてしまいます。
きっと旅行にしても、留学にしても、移住にしても、他の国に出向くことは、もう特別なことではない環境になっているのでしょう。

こんな風に、教育にしても、技術にしても、ポップカルチャーにしても、他の文化にいいものを見いだすと、さっそく取り入れようと試みる。そういった人々の炎のような原動力に突き動かされ、この国は、常に目まぐるしく変貌を遂げてきたのでしょう。

あと数年もすれば、ソウル市内のあちこちもずいぶんと変わっていることだろうと察するのですが、その頃にはまた、この国を訪れてみないといけませんね。

夏来 潤(なつき じゅん)



忘れ物

ゴールデンウィークを日本で過ごしている間、ちょいと韓国まで足を伸ばしてみました。

韓国は初めてだったので、どんな国なんだろうと興味ばかりが先走って、結局、どのような国だったのかはわからず仕舞いに終わったような気もいたします。

きっと首都のソウルに3泊したくらいでは、到底理解できない歴史と文化と民族の重みがあるのでしょう。

この国を深く知るためには、現地の方々とも、もっとお話してみないといけませんね。


さて、韓国旅行の印象は置いておいて、わたしは旅をすると、よく忘れ物をするのです。ま、人間ですから、こちらの場所からあちらの場所と毎日のように移動していると、うっかり忘れることもあるのでしょう。とくに、朝バタバタと荷造りをすると、何かしらポカをやらかしてしまうのです。

けれども、物をなくしたことはありません。どうしてって、忘れ物は必ず戻って来るから。

9年前のこと、イタリアを旅行したことがありました。

スイスに住む姉夫婦がミラノの空港まで迎えに来てくれたので、そこからすぐに海に向かって南下し、有名なジェノヴァの街はすっ飛ばして、海沿いの道をドライブしました。海のないスイスで育ったダンナさんは、とにかく海が大好き。だから、ドライブも自然と海沿いを選んでしまうのです。

そろそろ夕方になってきたし、どこかに宿を取ろうということになって、ある小さな村に車を止めました。ちょうど近くにレストランを経営する宿屋があって、二部屋空いているというので、ここに泊まることにしました。姉夫婦と旅行するときには、いつもこのような、予約なしの駆け込みスタイルになるのです。

夕食後、わたしは早めにベッドにもぐり込んだのですが、夜中に目を覚ますと、もう眠れません。どうして目を覚ましたかって、姉のダンナさんが、トイレのあと間違ってわたしたちの部屋に侵入して来たのです! 夜中に大きな物音がしたので、最初は泥棒かと思いましたよ。
 どうやら暗くて戻る部屋がわからなかったようですが、ドアには鍵なんてなかったのです。なにせ、のんびりとした海沿いの宿屋ですからね。

そんなわけで、明け方にようやく眠りに付いたわたしは、「もう朝よ!」と叩き起こされたときには、意識は朦朧(もうろう)。急いでシャワーを浴びて、荷造りしたときには、クローゼットの中のスラックスのことはすっかり忘れておりました。

翌日、あっと気が付いたときには、もう顔面蒼白。気に入っていたスラックスだったし、忘れ物をするなんてことは、それまでほとんど経験がなかったから。


それでも気を取り直して、ピサの斜塔やトスカーナ地方の中世の街々、アッシジの聖フランチェスコ聖堂と、旅行の日程を着々とこなし、芸術の都フィレンツェまでたどり着きました。
 わざわざスイスから来てくれた姉夫婦とは、ここでさよならしたのですが、このイタリア有数の都会で泊まった老舗ホテルでは、さっそく「忘れ物取り返し作戦」に乗り出します。

まず、あの小さな村が Marina di Massa(マリーナ・ディ・マッサ)であったことは、地図とにらめっこしていた姉が覚えていました。
 到着した日は、どんよりとした天気でしたが、まだまだ9月初頭の海水浴シーズン。マリーナという名の通り、この辺りには海水浴場がたくさんあって、先に足を止めてみた Marina di Carrara(マリーナ・ディ・カラーラ)では空き部屋がなかったので、次の集落まで運転した記憶があります。
 そして、泊まった宿屋の名が Hotel Columbia(ホテル・コロンビア)であったことは、わたしの脳裏にしっかりと焼き付いていました。

そこで、フィレンツェのホテルのコンシェルジュにお願いをしてみました。アメリカに戻る前にミラノのホテルに泊まるから、そこに Hotel Columbia からスラックスを送ってもらってくださいと。

さすがに老舗のホテルは違います。「いやだ」とは絶対に言いません。さっそく分厚い電話帳を広げて受話器を取り、相手に事情を説明してくれました。(イタリア語なのでわたしにはわかりませんが、相手はちゃんと納得してくれたようでした。)


これで準備万端。

安心したところで、フィレンツェからは恋人たちの街ヴェニスと首都ローマに立ち寄り、いよいよ最終目的地ミラノに列車で到着しました。

まあ、ヴェニスでもポカをやってしまったのですが、そのときは、なんとか事なきを得たのでした。
 身分証明のためにフロントに預けたパスポートをそのままにして駅に向かったのですが、ホテルの人がパスポートを携え水上タクシーを飛ばしてくれて、どうにか列車に間に合ったのでした。(イタリアでは、ホテルのフロントにパスポートを提示しなければならないので、預けた場合は要注意なのです。)

そんなわけで、ようやくお約束のミラノにたどり着いたわけですが、ホテルにはスラックスなど届いていません! 忘れ物を送ってもらう手はずだったとコンシェルジュに事情を説明しても、「わたしは知らない、関係ない」の一点張り。

あぁ、困ったなぁと思いながら、「じゃ、Hotel Columbia に電話してみてくれますか」と依頼してみると、あい、わかったよとばかりに、コンシェルジュ氏はその場で電話してくれました。どうやら直接相手に頼み事をすると、自分のミッションとして一生懸命にやってくれるようですね。

そこでコンシェルジュ氏が「発見」したことは、Hotel Columbia の女将(おかみ)が忙しくて郵便局に行く暇がなかったし、あまり若くないので、郵便局に立って待っているだけでも大変なのよということでした。それでも、後でちゃんと送っておくわと約束してくれたそうです。


結局、2泊の日程では間に合わないので、ミラノのホテルに自宅まで送付してもらうように手配して、アメリカに戻りました。ミラノからの空輸代は30ドル(約3千円)ほどかかった記憶はありますが、後日、ちゃんとスラックスは手元に戻って来ました。

そして、こちらからは、英語のわからない女将に宛てて、Grazie(ありがとう)と書いたカードと日本の扇子をお送りしました。少なくとも「ありがとう」だけでもイタリア語で書いたら、何のお礼かわかるんじゃないかと思って。
 言葉はほとんど通じませんでしたが、笑顔のステキな優しい方だったのを覚えています。

その後、同じような忘れ物は、2年前に旅したトルコのカッパドキアでもあったのですが、このときは、親しくなったホテルの方に直接アメリカまで送付してもらいました。

カッパドキアの崖にくり抜いた部屋は、昼でも薄暗いので、出がけにすっかり見落としてしまったようです。

このように、外国に旅して忘れ物をしても、しっかりと戻ってくるというのは、とってもありがたいことだなぁと思うのです。

よく「外国は危ない」なんて言いますけれど、こういう好い事があると、「外国」だって、そのほとんどは親切な人たちでできあがっているのだなと思い起こすのです。


こんな不思議なこともありました。中国の上海から東京に戻るときに、飛行機が空港を飛び立つやいなや、何か大事なものを忘れて来た感覚に襲われました。

このときは、何も忘れ物などなかったのですが、きっと置いて来たものは、かの地への愛着だったのかもしれません。

わたし自身は上海の大ファンというわけではありませんが、亡くなった父方の祖母が、若い頃この街で働いていたことがあるのです。祖母が暮らした当時から、活気のある街だったことでしょう。

いったいどこに住んでいたんだろうと、上海の路地を歩き回ってみましたが、きっとそんな人間くさい路地や家の窓々に、遠い記憶が呼び戻されたのかもしれません。

わたし自身の記憶ではないけれど、それは、とても大切な思い出だったのかもしれません。

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