雨季の晴れ間にカニさん!
- 2010年02月05日
- フォトギャラリー
以前、「24時間のオフ」というお話を書いたことがありました。毎年1月になると、家から近くの場所で一泊するのだけれど、たった20分しか離れていないのに、まるで別世界に行ったような気分になると。
静かだし、人もあんまり見かけない。広い空間を自分たちで独り占めにしている、そんな贅沢な気分になるのです。
今年も行って来ました。
雨季ではあるけれど、空は晴れ渡り、そのわりに霜が降りるほど寒くはないという、絶好のお天気でした。たった一泊ではありますが、日頃のゴタゴタも忘れて、気分もすっかりリフレッシュなのです。
そして、題名にもなっている通り、その晩は、カニさんを食べました。
金沢名物の「香箱蟹(こうばこがに)」がいい例ですが、冬になると、カニがおいしいですよね。それは、アメリカでも同じことで、サンフランシスコ周辺の海でも、おいしいカニがとれるのです。
その名も、ダンジェネス・クラブ(Dungeness crab)。北はアラスカ州から、南はサンフランシスコ・ベイエリアのサンタクルーズまで、西海岸の冷たい海に生息しています。そう、サンフランシスコ周辺は暖かいと思われがちですが、海は寒流なので、夏でも海水浴には適していないのです。
そんな寒い海に住むカニのシーズンは、11月中旬から翌年の春までです。とはいうものの、やはり一番おいしいのは、1月くらいまででしょうか。
今シーズンは、まだ一度も食べていなかったので、「あ~、今年もダメかぁ」とあきらめていたのですが、宿泊施設のレストランに行くと、「カニがお勧めだよ!」と言うのです。
この週末だけの特別企画で、ダンジェネス・クラブがコース仕立てになっていて、お値段もふたりで百ドル(約1万円)と、そんなに高くはありません。
そこで、迷わず、カニさんのディナーを選んだのでした。
まずは、前菜として、ダンジェネス・クラブのフリッター(fritter)が出てきます。カニの身がこんがりと揚げ物になっていて、添えてあるのは、青リンゴのコールスロー。それがカリッとしたブリオッシュのトーストにのっていて、指でつまんで食べられるようになっています。
お次は、ビスク(bisque)。ビスクというのは、エビやらカニやらの甲殻類のスープのことですが、こってりとして味わい深いので、アメリカでもかなりポピュラーなスープとなっています。
甲殻類の殻や内臓を野菜と煮込んで、スープだけこしたものに、生クリームなどを加えてこってりと仕上げます。とても手間がかかるので、ビスクをメニューに見かけるレストランは限られていますね。こちらのレストランでも、昔はロブスター・ビスクがあったのですが、今は特別企画のときだけに登場します。
お次は、ダンジェネス・クラブのラビオリ(ravioli)。ご存じのように、ラビオリとは、平たいパスタの中に野菜やらチーズやらを入れたものですが、こちらは、カニの身とリコッタチーズが入っています。ヘルシーにほうれん草を添えてありましたが、全体をまとめるクリーミーなソースの中に、何かしらぴりっとした辛みがありました。
きっと鮮やかな緑色の部分は、ハラペーニョ・オイルだったのでしょう。ハラペーニョ(jalapeño)というのは、メキシコの代表的な青唐辛子のことですが、カリフォルニアなどメキシコに面した州では、結構ポピュラーな唐辛子となっていますね。
そして、お次は、アメリカで大人気のクラブケーキ(crab cake)。以前、どこかでご説明したことがありますが、クラブ「ケーキ」という名前のわりに、まったく甘くはありません。カニの身や野菜を丸めて、パンケーキのようにこんがりと焼いたものです。
こちらはちょっと焼きが足りなかったようですが、一般的に失敗がないので、レストランで前菜(appetizer)として注文するのは良い案だと思います。こちらのコースでは、最初に前菜としてフリッターが出てきたので、コースの後ろに持ってきたのでしょう。
さあ、いよいよメインディッシュの登場です。アメリカでカニを食べるといえば、ゆでたものを溶かしバターにつけて食べるか、酢のような酸味のあるソースで食べるかがポピュラーですけれども、こちらは、ガーリック(ニンニク)味を利かせたブラウンバターのソースがかかっています。そんなに濃厚過ぎず、淡白なカニの身と調度良いバランスでした。
上にどっかりとフォカッチアのトーストが乗っていて、迫力のあるプレゼンテーションとなっていますが、基本的には、ゆでたカニにバターソースがかかったもの。カニさんも新鮮で、なかなかおいしかったです。
はて、デザートにもカニ? と思っていると、さすがにチョコレートムースのケーキと、普通でした。まあ、『料理の鉄人』ではないですから、カニのアイスクリームなんかは出ないでしょうね。
でも、カニではないけれど、ガーリックのアイスクリームというのは、すぐ近くの名物なんですよ!
ここからもうちょっと南に行くと、ギルロイ(Gilroy)という街がありますが、こちらは、ニンニクの名産地。毎年夏(7月下旬)になると、盛大にガーリックフェスティバルが開かれ、このときばかりは、ガーリック・アイスクリームを堪能できるのです(食べてみたこともありますが、そんなに強烈ではなかったですよ)。
さて、1月ももう終わりという、ギリギリのタイミングでダンジェネス・クラブを食させていただきましたが、翌日もよく晴れ渡り、すがすがしいお天気でした。
連れ合いは7時から早朝ゴルフに出かけたのですが、自分が終わる頃まで誰もプレーしていなかったので、コースを独り占めにしていたらしいです。おなじみの男性キャディーさんが重いバッグを担いでくれると、すいすいと2時間半でラウンドできたとか。
誰もプレーしていないゴルフコースなんて、ゴルファーの夢ですよね。
そんなとき、コースで出会うものといえば、いい声で鳴く鳥たちや、暢気に草を食む鹿の群れでしょうか。雨季には草原も復活し、動物たちにも嬉しい季節です。
人里をちょっと離れると、まだまだ自然と隣り合わせ。そこが、カリフォルニアの醍醐味でもあるのです。
今年の行方は?:グーグルさんの「ネクサス・ワン」とオバマさんのピンチ
- 2010年01月31日
- 業界情報
Vol. 126
今年の行方は?:グーグルさんのネクサス・ワンとオバマさんのピンチ
年末年始の3週間を日本で過ごしました。日本でも例年にない大雪を経験したのですが、シリコンバレーに戻って来ると、例年にない嵐のおかげで様々な被害が出ていました。
崖崩れ、浸水、停電、そして、大木が倒れて住宅が押しつぶされたり、車の中にいた幼児が亡くなったり。それでもまだ、過去3年来の水不足の解消にはなっていないそうです。
年明けすぐに、ハイチでは大地震も起きたりしていますが、自然は人間の采配通りには動いてくれない、そんなことを思い知らされる一年の幕開けとなっています。
さて、そんな今月は、テクノロジーと政治の分野から、近頃ホットな話題をお届けいたしましょう。
<グーグルさんのスマートフォン>
年が明けると、アメリカのテクノロジー業界はパワー全開となります。業界一番の見本市となっている「コンスーマエレクトロニクス・ショー(通称 CES)」も、毎年、お正月の直後に開かれますよね。
そして、そのCESの開催直前にお披露目されたのが、グーグルさんの携帯電話。ほかでもない、グーグルさんご自身が販売するスマートフォン(機能満載のケータイ)で、その名も「Nexus One(ネクサス・ワン)」。
当然のことながら、OS(基本ソフト)は、グーグルさんご自慢の「アンドロイド(Android)」を搭載しています。日々どんどん進化して、今はバージョン2.1となっています。
もちろん、携帯端末の方はグーグルさんが自分で作っているわけではなくて、ハードウェアを担当するのは、台湾の代表的スマートフォンメーカーHTCとなっています。
いえ、さすがにスマートフォン分野のベテラン、HTCが作っただけのことはあります。アンドロイドのデビュー作「G1(ジーワン)」(2008年10月に携帯キャリア T-Mobile USAが発売)や「Hero(ヒーロー)」(2009年10月に Sprint Nextelが発売)といった過去の経験を生かして、今や同社はアンドロイド機のリーダー格となっているようです。新しい「ネクサス・ワン」も、小さくて、おしゃれなデザインの中に、欲しい機能が無駄なく納められた感じです。
大きさは、アップルさまのiPhone(アイフォーン)とほぼ同じ。タッチ方式の画面も同等のサイズですが、解像度はネクサス・ワンの方がいいです。重さは両機種ほぼ同じで、全体に丸みを帯びたネクサス・ワンは、てのひらにしっくりと落ち着く感じです。
iPhoneと同じく、物理的なキーボードは無いので、文字を打ち込むときには、画面に出て来るバーチャルキーボードを利用します。それがちょっと難点でもあるでしょうか。キーがかなり小さいので、指先が大きな人は、ついつい隣のキーを押してしまうこともあるでしょう。
後ろから2機種を比較すると、「瓜二つ」といった印象ですね。ひとつ大きく違う点といえば、ネクサス・ワンには、自分や会社の名前か、好きな言葉を彫り込むことができるのです。(写真では隠してある箇所ですが、それって、ちょっと嬉しいですよね!)
そんなネクサス・ワンは、とにかく速い。1ギガヘルツのクアルコム(Qualcomm)のプロセッサを載せています(1ギガヘルツですよ!)。
何をするにしても速いことは良いことですが、とくにアメリカのケータイゲームなんかは、ダウンロードして手元でシャカシャカ動くタイプが多いので、手元の処理能力が速いのは、なかなかありがたいものなのです。
もちろん、iPhoneの最大の難点はしっかりと克服していて、複数のアプリケーションを同時に動かすことができます。ゲームに熱中していても、背景ではトゥイッター(Twitter)が動いているので、友達が何かをつぶやくと、リアルタイムでフォローできたりするのです。iPhoneの場合だと、一旦ゲームをやめて、自分でトゥイッターをチェックしないといけません。
速いといえば、さすがにグーグルさん、検索も素早い。昨年の11月号でもご紹介しているように、アンドロイドOSでは、音声による検索(search by voice)も充実しています。こちらが言った言葉を正確に認識し、それに相当する答えを出してくるスピードがとても速いのです。
たとえば、グーグルマップ(地図)の画面で、「マイクロソフト」と話しかけるといたしましょう。すると、間髪入れずに、マウンテンヴュー市のフリーウェイ101号線沿いにある、マイクロソフトのシリコンバレーキャンパスが示されます。GPS機能によって、自分はどこにいるかを絶えず把握しているので、自分に一番近いものをササッと表示してくれるのでしょう。
もちろん、こういうのはネクサス・ワン単体のスピードだけではなくて、グーグルさんの持つバックエンドのサーバが速いからではありますが、パンパンと答えが返ってくるのは小気味の良いものです。それに音声を使うことで、今後、検索のあり方もずいぶんと変わってくるのではないでしょうか。
検索でおもしろいものといえば、近頃は「グーグル・ゴーグル(Google goggles)」というのがあって、文字や音声だけではなく、画像で検索ができるようになっています。当然のことながら、ネクサス・ワンのようなスマートフォンにはカメラが付いているので、それでカシャッと写真を撮って、「これはいったい何?」と検索できるようになっているのです。
写真の対象は、サンフランシスコのゴールデンゲート橋のような観光名所でもいいですし、店の看板やワインのラベルといった、物でもいいのです。たとえば、ワインのラベルをカシャッと撮ると、ワイナリーのウェブサイトや代表的な銘柄、ワインを買えるショップなど、関連情報がずらりと出てくるのです。
このような画像による検索では、GPSによる座標の特定が観光名所の割り出しに役立っているのでしょうし、ユーザが撮った写真をどんどん蓄積していくと、小さな店の看板でも、そのうちもれなく検索できるようになることでしょう。
画像といえば、商品に付いているバーコードをカメラでスキャンすると、この商品を割引価格で売っているお店を教えてくれるアプリケーションもありますね。
「My Coupons(マイ・クーポン)」というのもそのひとつですが、バーコードをスキャンしたり、商品名を入力したりすると、この商品を扱っている店と割引率の情報を画面にずらりと並べてくれるのです。
購入する場合は、指定されたプロモーションコードをお店のオンラインショップで入力するか、クーポン(割引券)を印刷して店頭に持って行くかして、割引特典をゲットします。お店によっては、ケータイにダウンロードしてお勘定のときに提示するタイプもあるようです。
さて、大事なネクサス・ワンのお値段の話ですが、これは高いとも、安いともいえるでしょうか。販売経路によって値段がふたつあって、グーグルさんから直接購入すると、何の補填も無いので 529ドル。携帯キャリア T-Mobileから2年契約で購入すると、179ドルとなっています。
いずれにしても、「シムロック(SIMロック)」は解除された状態で売られているので、T-Mobileのサービスに加入しなくても、自分が加入する AT&T Mobilityのシムカードを差して使うことができます。シムロックとは、他のキャリアのシムカードを差して使うことを禁止する機能ですが、ロックを解除してあるということは、どのキャリアのサービスでも使えるようにしましょうということですね。
とはいいましても、現時点では、ネクサス・ワンは GSM/W-CDMAテクノロジーに対応しているので、アメリカでは T-Mobileか AT&T Mobilityのネットワークを利用することになります。
AT&Tとして使う場合は、ちょっと世代の古い EDGEデータ伝送方式にしか対応しないので、たとえば音楽をストリーミングするなどデータをやり取りしていると、AT&Tの最新技術を利用したときよりも遅い、という欠点もあるようです。
T-Mobileに加入した場合でも、契約日から少なくとも120日間はサービスに入っていなければならない、という制限があります。120日以内に契約を解除すると、T-Mobileが補填した350ドルを罰金として支払うことになるのですが、「これは、あまりにも高い!」と、現在、連邦通信委員会(通称 FCC)が調査に乗り出しています。
ところで、そもそも、どうしてグーグルさんが自分でスマートフォンを売ることになったのだろう? と疑問がわくことでしょう。
それはひとつに、携帯電話を作る側がこれ以上キャリア様にコントロールされたくない、というのがあるのでしょう。
ケータイにどんな機能を載せるかとか、どんなサービスを付加するかといった重要な選択は、現時点ではキャリアに統制されていて、メーカー側が自由に選択できる余地はありません。それが、もし自分で売るようになれば、選択に関する自由度が増すのではないかと、そんな希望的観測をお持ちなのではないでしょうか。
そして、ひとたび自分の思い描く通りのスマートフォンを出せるようになったら、今までは思いもよらなかった画期的なサービスを心置きなく展開できるようになるだろう、と予測していらっしゃるのでしょう。
もちろん、今は、それが何なのかは誰も知らないでしょう。けれども、携帯サービスのあり方を少しずつ、確実に変えていくことで、自分たちが何か新しいことをやり易いように周到に準備しておく。それが、グーグルさんのビジョンなのでしょう。
それにしても、グーグルさんとは、将来に向けたフォーカスがしっかりとした会社ですよね。「よし、スマートフォンOSを作るぞ!」と思い立って、どれほどの時間が経過したのかはわかりませんが、2008年10月のデビューからわずか1年半で、アンドロイドはバージョン2.1。そんなに進化の速いOSというのは、他に類を見ないのではないでしょうか。
実は、いかに挑戦好きのグーグルさんといえども、携帯電話という新しい分野に手を染めるのは、最初は躊躇したとも聞いています。「う〜ん、ケータイねぇ。もしできるんなら、やってみたら?」と、そんな感じだったそうです。
それが、ひとたび世に紹介したとなると、前へ前へとぐんぐん突き進む。なぜって、市場に出してみることで、新しい分野を知り、ひとたび知ってみると、もっともっと良いものを作りたくなるから。
近頃のいろんな市場調査では、アンドロイドのシェアの拡大とその勢いが取り沙汰されています。今年はさらに、アンドロイドの「成長の年」となることでしょう。
<オバマさん、2連敗で危うし!>
さて、話はガラリと変わって、政治のお話に移りましょう。
1月20日、オバマさんが大統領になって丸一年が経過しました。そんなめでたい一周年記念ではありますが、どうも近頃、オバマさんに対しては風当たりが強くなってきているのです。ここでは、今月オバマさんが経験した「つまずき」を二つご紹介することにいたしましょう。
連敗 その1: まず、最初は、1月19日にマサチューセッツ州で行われた連邦上院議員の補欠選挙でしょうか。この補欠選挙は、昨年8月に亡くなったエドワード(テッド)・ケネディー上院議員の後釜を決める大事な選挙だったのですが、結果は、故ケネディー議員の所属する民主党から共和党に議席が移ることとなりました。
どうしてこれがオバマさんのピンチになるのかというと、この一議席が、連邦上院議会(the U. S. Senate)の形勢をガラリと変えてしまうから。
それまでは、議席60対40で民主党が上院を牛耳っておりました。60議席を持っていると、それは「葵の御紋」と同じことで、敵対する共和党の議事妨害(filibuster)なんかをエイッとやっつけることができるのです。
ご存じの通り、民主党とはオバマさんの所属政党ですが、民主党が上院を舵取りするということは、オバマさん寄りの法案がバンバン通るということ。ところが、60議席から59議席に落ちるとなると、途端にそれも難しくなる・・・。(厳密にいうと、民主党60議席の中には、民主党寄りの無所属2議席が含まれています。)
それで、どうして「民主党大好き」なマサチューセッツ州で、しかも民主党リベラル派の巨頭であったテッド・ケネディー議員(故ジョン・F・ケネディー大統領の末の弟)の後釜を選ぶ選挙で無名の共和党候補が勝ったのかというと、それはひとえに、医療保険制度の改革案にあったのでしょう。
現在、オバマ大統領の直面する難題のうち最も悩ましい問題は、経済の立て直しと医療保険制度の改革です。
一昨年の金融危機以来、国民の生活は困窮しきっているわりに、医療保険には目の飛び出るような保険料を支払わなくてはならない。なぜなら、アメリカの医療保険は原則として雇い主が提供するもので、会社を解雇された個人は、何の補填も無いまま、全額自腹を切ることになるのです。解雇されないまでも、企業の福利厚生は縮小するばかり。
もともとアメリカの医療費は、GDPの約16%(2007年には約220兆円)と驚くほど膨大で、それをみんなの保険料でまかなおうとすると、厳しい経済状況下では、保険料はどんどん高くなる。
すると、もともと社会的格差の大きいアメリカでは、医療保険に入れない人が続出し、国民全体の健康が損なわれるばかりではなく、加入者が負担する保険料はもっともっと高くなる。そんな風で保険料を滞納していると、ひとつの大病が個人破産にもつながる・・・。
だからこそ、そんな悪循環を打破しようと、オバマ大統領は就任一年目で果敢に医療保険制度の改革に取り組んだわけですが、それが、どちらかというと「凶」と出たのかもしれません。
改革を急ぐあまりに、同じく民主党が牛耳る連邦下院(the U. S. House of Representatives)では昨年11月7日に、上院ではクリスマス休暇に入る直前に、各々の改革法案が可決されています。が、これに対して「そんなに性急に改革案を通そうとするな! 」と、マサチューセッツ州の有権者や国民の多くが、反発と不信感をあらわにしたのです。
そもそも、どうしてアメリカの医療費はそんなに高いのでしょうか? それは、一体に国民が不健康で、医療(診断や治療、投薬)のお世話になりがちということもあります。けれども、医療費の3割は保険会社が懐にしているという、馬鹿みたいな事実もあるのです。
そう、医療とは国が面倒を看るものではないので、民間の保険会社が高い保険料を調達して、それを経営者や重役、従業員の給料にまわすという、おかしな制度。しかも、医療費がかさむのを恐れて、シリアスな持病を抱える人は保険には加入させないという、利益追求型の制度。
けれども、そこは、アメリカ。国のお仕着せの医療制度なんて、絶対に許せないのです。なぜなら、「自分のことは自分で守れ」というのが、建国以来の国民魂だから。
「自由を守るためには、人々が武器を身につける権利を侵害してはならない」と、憲法修正第2条(権利章典・第2条)にもあるではありませんか。「自由に生きられないくらいなら、死んだ方がマシだ(Live Free or Die)」と、ニューハンプシャー州のモットーにもあるではありませんか。
そんな独立の精神を貫く人たちが、「自分は今の制度で満足しているから、それを勝手に壊されては困る!」と、反オバマの意思表示をしたのです。こういった人たちは、かねてよりオバマさんの莫大な経済刺激策やら大手銀行への手助けにも憤懣を抱いていて、政権への不信感が爆発するのも時間の問題だったのでしょう。
「だって、アメリカは社会主義じゃないんだぞ!」と。
連敗 その2: オバマさんに反旗をひるがえしているのは、有権者ばかりではありません。連邦最高裁判所(the Supreme Court of the U. S.)だって、マサチューセッツ州の選挙の直後、オバマさんにとっては不服の残る決断を下しているのです。
それは、企業や労働組合は、大統領や連邦議員を選ぶ国レベルの選挙戦で候補者を応援しても良いというもの。
ちょっとわかり難い判決ではありますが、アメリカでは過去百年来、企業や組合は、国の選挙に出馬している候補者や政党に献金したり、応援のためにメディア広告などの広報費用を持ったりすることは禁止されていました。それは、企業や組合などの団体は、個人ではないからです。個人は投票する権利はありますが、団体は投票ができない。だから、意思表示をするための献金はできない。
ところが、今回、連邦最高裁判所が下した判決は、候補者や政党に直接的に献金することは認めないけれども、広告費を出してあげたりして、間接的に応援しても良いというものなのです。
それで、どうしてこれがオバマさんに不服を残すことになったかというと、今回の判決の論法でいくと、金のある大企業の意向が、選挙の行方を大いに左右することになるからです。だってアメリカの有権者の多くは、自分の頭で考えないで、大きな声のする方に顔を向けようとするでしょう。
となると、今年11月に行われる中間選挙では、民主党の立場が弱まることになるかもしれない。だって今は、オバマさんへの逆風が吹いているでしょう。
オバマさんは、これは「大きな石油会社やウォールストリートの銀行、保険会社、そして首都で暗躍する利害団体の勝利であり、一般国民の声をかき消すものである」と、不快感をあらわにしています。
そして、有権者からも、「民主主義(democracy)の原理を脅かすものである」と、不満の声が上がったりしています。
しかし、今は、連邦最高裁判所の9人の判事が5対4で共和党に傾いている御代。オバマさんは、就任直後にソニア・ソトマヨール判事を任命する機会に恵まれましたが、次に任命するであろう判事は、もともと民主党寄りの判断を下すジョン・ポール・スティーヴンス判事の後釜。いかにリベラルな人を任命したにしても、数の点では、形勢の巻き返しにはなりません・・・。
まあ、そんなこんなで、巷の有権者や司法の最高責任者からプレッシャーを感じながら、日々苦労しているオバマさんではあるのです。
<漫画で学ぶアメリカの政治>
政治のお話が出てきたところで、近頃のアメリカの風刺漫画をご紹介いたしましょう。以前も何回か掲載したことがありますが、風刺漫画というものは、ときに世の情勢を一番うまく表しているものだと思うのです。
まずは、こちらからいきましょう。ヒューストン・クロニクル紙のニック・アンダーソン氏の作。名付けて「Yes We Can!」。
(by Nick Anderson – Houston Chronicle, published in the San Jose Mercury News on January 25, 2010)
何やらゾウさんたちが集まって、元気にシュプレヒコールを上げています。ゾウさんとは、共和党のみなさんのことですが、壇上に立つリーダー格のゾウさんが、こんなことを言っています。
「我々は、オバマ政権が打ち出す構想案すべてを阻止できるか?(Can we obstruct every initiative from the Obama Administration?)」
それに対して、満場一致でこんな声が上がります。
「もちろん、できるさ!(Yes we can!)」
いうまでもなく、「Yes We Can!(イエス、ウィーキャン)」というのは、オバマ大統領選出へ向けてのマジックワードでしたが、それを見事にゾウさんたちが盗んでしまった構図です。オバマさんに吹きつける逆風に乗って、今年、共和党はどんどん突き進みたいところなのです。
そして、こちらは、ワシントン・ポスト紙のトム・トールズ氏の作。名付けて「医療フットボール」。
(by Tom Toles – Washington Post, published in the San Jose Mercury News on January 24, 2010)
地面にコロッと置いてあるのは、「医療(保険制度の改革)」という名のボール。その大事なボールを尻目に、ロバさんたちが、何やらゴショゴショと相談しています。
ロバさんとは、民主党のみなさんのことですが、こんなおバカなことを議論しています。
「これが試合最後のプレーだ。フォースダウン(4回目の攻撃)で、(ボールはゴールラインから)1インチ。我々は5点差で負けている。どうすればいい? フィールドゴールか、それともパントか?(It’s the last play of the game. It’s fourth and one inch. We’re behind by five. What do you think? Field goal, or punt?)」
舞台がアメフトとなっているので、少々わかり難いことと思います。ちょっと解説いたしますと、こちらは試合終了目前で、最後のプレーとなる大事な場面。ぎりぎりの4回目の攻撃をするところで、ボールはもうゴール手前1インチ(約3センチ)のところまで来ている。ここで、5点差で負けているのに、ボールを蹴ってフィールドゴールの3点を獲得するか、パントをして攻撃権を相手に差し上げるかと議論している、おバカなロバさんたち。
いえ、普通、1インチのところまで来ているなら、そのままプレーするでしょう。だって、ボールの鼻先がゴールライン(白線の手前の部分)を超えれば、それで7点入るのです。そして、試合には勝つのです。
それが、マサチューセッツ州の選挙結果におののくロバさんたちは、これ以上突き進むのが恐いのです。自信がないから、「どうしよう?」と、意味の無い議論をしているのです。
いやはや、まったく困ったロバさんたちですが、この風刺漫画の横には、こんな励ましの社説が掲載されていました。「医療改革をあきらめるのは、まだ早い(Don’t give up on health care reform just yet)」と。
だって、企業が医療保険を提供するという現状では、大企業ばかりではなく、中小企業への負担も絶大なものとなる。とくに小さなスタートアップの多いシリコンバレーでは、従業員の医療費を負担することは、死活問題にもなりかねないし、世界に対する競争力も失うことになる。
だから、オバマ大統領はここであきらめずに、上院の改革案をベースに邁進すべきだと。
まったく、その通りかもしれません。ゾウさん、ロバさん、どちらが政権を担っていようと、議会の舵取りをしていようと、おかしな制度は改革しなければなりません。そうしないと、金持ちのお腹がどんどん膨れて、庶民はどんどんやせ細ることになるではありませんか。
人の命に、重いも軽いもありません。だから、オバマさん、どうか最後までがんばって!
夏来 潤(なつき じゅん)
オランダさん
- 2010年01月23日
- エッセイ
あっかとばい
かなきんばい
オランダさんからもろたとばい
なんだか不思議な音の羅列ですが、現代の標準語にすると、こんな歌詞でしょうか。
赤いのよ
カナキンよ
オランダさんからもらったのよ
それでも、まだ秘密めいた歌詞ではありますが、ここに出てくる「カナキン」というのは「金巾」とも書き、目を堅く細かく、薄地に織った綿布のことだそうです。
もともとはポルトガル語の canequim からきているそうなので、きっとポルトガルから日本に伝来したものなのでしょう。綿ではあるけれども、目がとても細かいので、薄地で丈夫な生地。つまり、袖口のような、すり切れやすい場所に重宝するスグレものというわけです。
だから、そのカナキンの真っ赤なやつをオランダ人からもらったのよ、という一種の自慢話が歌になっているのです。
この歌は単純な節回しなので、どうも子供の手まり歌だったようなのですが、果たしてこれに続きがあるのかどうかはよくわかりません。
なんとなく中途半端な内容なので、このあとカナキンをどうしたとか、このオランダ人から別の物をもらったとか、続きがあってもよさそうなのにという印象はありますよね。
それで、どうして「オランダさん」からもらったのが自慢になるのかというと、その昔、オランダさんと日本人は軽々しく接触できるような間柄ではなかったからなのです。
ご存じのとおり、日本には長い鎖国の時代がありまして、その頃、唯一外国人と接触できたのは、長崎の出島(でじま)という所でした。外国人を住まわせるために築いた、小さな人工の島です。
時は、江戸時代。幕府はキリスト教の布教を禁止するために、それまで交易のあったポルトガル人たちをこの出島に押し込めました。彼らがカトリックだったためです。(写真は、幕末の1886年に撮影された長崎港。右半分の海に突き出た部分が出島です。オリジナル写真は長崎大学付属図書館蔵)
そんな出島での暮らしも束の間、続く「鎖国令」(1639年、寛永16年)のおかげで、ポルトガル人は出島からも追い出され、日本へは出入り禁止となってしまいました。
それから2年間、出島は無人島となっていたのですが、長崎県北部の平戸にあったオランダ商館を出島に移転することになって、ここにはオランダ人が住むようになるのです。まあ、オランダ人は布教のためではなく、商売のために日本に来るからいいでしょう、という理由だったのでしょう。
その後、1859年(安政6年)、長崎、横浜、函館を開港して、オランダ商館の制度が廃止されるまでの約220年、出島は、日本で唯一の「外国に開かれた窓」となるのです。
けれども、外国への窓とはいっても、長崎の町人にとっては、オランダ人と身近にお話するような機会もありませんでした。なぜなら、オランダ人が押し込められていた出島に出入りできるのは、通事(通訳)や役人、それから遊女などに限られていたから。人の出入りは、それは厳しくチェックされていたようです。
そんなわけで、オランダ人が貿易船で日本に運んで来たであろう「カナキン」を何かのきっかけでいただいたというのは、庶民にとっては、とても誉れ高い出来事だったのでしょう。だから、それを歌にして残そうと思った。
この歌が江戸時代の作かどうかはわかりませんが、江戸期に作られたものではなくとも、何かしらの伝承が残っていて、それが歌になったことでしょう。
それにしても、最初にカナキンを日本に伝えたポルトガル人が出入り禁止になって、それをオランダさんが受け継いで貿易船で運んで来たというのは、何となく皮肉っぽいことではありますよね。
う~ん、オランダさんは、なかなかの商売上手だったのでしょうか。だって、自分たちだってキリスト教徒には変わりはないでしょうに。
このカナキンの歌は、生粋の長崎の人が子供の頃に歌っていたものです。
この方は、銅座(どうざ)という所に生まれ育ち、街の生きた歴史を熟知する方でした。
銅座とは変な名前ですが、江戸時代の中頃から、銅の精錬と専売をしていた役所のことだそうです。大阪にもあったそうですが、長崎の銅座では、オランダさんとの貿易に使う銅ののべ棒(棹銅)をつくっておりました。
そんな風にオランダさんと縁の深い銅座で育ったこの方は、正調・長崎弁を駆使しながら、いろんな思い出話をなさっていたそうです。
わたしが子供の頃には、住んでいた銅座の辺りから外国人居留地の南山手に遊びに行っては、地面に落ちている赤い椿の花を拾って、糸につなげて首飾りにしていたのよと、かわいらしいお話も漏れ聞いております。
きっとカナキンの歌も、そんな子供時代に好んで歌っていたものなのでしょう。
今はもう思い出話を伺うこともできませんが、もうひとつ興味深いお話も残っているのです。
それは、この方が生まれ育った銅座の辺りには、「おイネさん」がとり上げた人がたくさん住んでいたと。
「えっ、おイネさんって誰?」と思われた方もいらっしゃるでしょうが、おイネさんとは、日本で初めての西洋医学の女医さんなのです。
とくに産科の修行を長く積み、東京・築地で開業していたときには、宮内庁に依頼されて皇族の誕生を担当したこともあるような「すご腕」の女医さんだったそうです。
このおイネさんは、長崎の生まれ。1827年に母親の実家のある銅座で生まれたとも、オランダさんのいる出島で生まれたともいわれています。つまり、出島で生まれたのかも? といわれるほどに、出島とは深いつながりがあった。
なぜなら、おイネさんのお父さんは、オランダ商館のお医者さんであるフィリップ・フランツ・フォン・シーボルトだったから。
ドイツ人のシーボルトは、オランダ領東インド陸軍外科少佐として長崎にやって来たのですが、長崎に「鳴滝塾(なるたきじゅく)」という私塾を開いて、近代西洋医学や自然科学を日本の若者に伝えた重要人物なのです。
そればかりではなく、日本の生態系や暮らしぶりを広くヨーロッパに紹介した文化の功労者でもあります。
一言でいえば、幕末の動乱期、日本が深くお世話になった人ともいえるでしょうか。(写真は、鳴滝塾のあった国史跡「シーボルト宅跡」。昔と変わらぬ竹林に囲まれています。茶色のレンガ造りの建物はシーボルト記念館)
一方、おイネさんのお母さんは、楠本瀧(くすもと・たき)さん。なんでも、お瀧さんは「今小町」と評判の美人だったそうで、彼女に出会った若きシーボルトは、一目でコロッと心を奪われてしまったようです。そして、ふたりが出会って4年後には、愛娘のおイネさんが生まれました。
けれども、悲しいかな、「シーボルト事件」でスパイの嫌疑をかけられたシーボルトは、間もなく国外追放となってしまうのです。まだ3歳にもならないおイネさんは、それから30年、お父さんに会うこともかなわず、お瀧さんに育てられ大きくなります。
勝ち気でおてんばなおイネさんは、お稽古ごとなんかには目もくれず、父親と同じ医学の道を選びます。そして、伊予の国(今の愛媛県)でシーボルトの愛弟子・二宮敬作に指南したのちに、一人前の産科の開業医となるのです。
そんなおイネさんは、晩年に長崎に戻って、銅座で産婆さんをしていたこともあり、この辺りで生まれた方々の中には、おイネさんにとり上げられた方もたくさんいらっしゃったということなのです。
それは1885年(明治17年)頃のようなので、今はもう、どなたも存命ではないのでしょう。
おイネさんが亡くなったのは1903年(明治36年)のことなので、それから数えても、もう百年以上も昔のお話ですものね。
けれども、何はともあれ、有名人のおイネさんにとり上げられたというのは、「オランダさんからカナキンをもらった」のと同じように、自慢すべきことだったのでしょう。ですから、銅座の界隈には言い伝えが残っていた。自分はおイネさんには並々ならぬ縁があるのだと。
さて、冒頭のカナキンの歌は、何やら解説が必要だったわけですが、これだけではなくて、長崎には不思議な歌がたくさん残されているようです。
こちらも、そんな不思議な歌のひとつです。
でんでらりゅうば 出て来るばってん
でんでられんけん 出ーて来んけん
こんこられんけん 来られられんけん
こーんこん
なんだか早口言葉みたいな複雑な音ではありますが、こちらはごく単純な内容となっています。
「もし(家を)出られるならば、出て来るけれども、出られないので、出て来ませんよ。来られないから、来られないから、来ーませんよ。」
まあ、中身がどうというよりも、おもしろい呂律(ろれつ)を楽しむような、遊び歌なのでしょうね。
この歌は、地元ではかなりポピュラーな童謡らしく、長崎空港を飛び立つときには、オルゴール調にアレンジしたものがずっと背景に流れていました。
そんなコロコロと流れるようなメロディーを聴いていると、今まで知らなかった街の一面を覗かせていただいたような気がしたのでした。
追記: 27歳で長崎にやって来た若きシーボルトは、愛するお瀧さんのことを「おたくさん」という愛称で呼んでいました。あるとき、おたくさんが持って来た花を見たシーボルトは、その神秘的な東洋の花に心を引かれ、おたくさんの名をもじって Hydrangea otakusa という学名をつけ西洋に紹介しています。
これは紫陽花(あじさい)のことですが、今は長崎市の花となっていて、街のあちらこちらではかわいらしい紫陽花のデザインを見かけるのです。きっとシーボルトと紫陽花には、長崎の人たちは深い愛着を感じていることでしょう。
参考文献: 長崎市発行のシーボルト関連パンフレット「シーボルト記念館」、出島関連パンフレット「よみがえる出島」。
郷土史研究家・岩田祐作氏のウェブサイト「長崎のおもしろい歴史」。(この方は長崎市の出身で、シーボルトやお瀧さん、おイネさんの研究をライフワークとなさっているようです)
松山大学・田村譲氏のウェブサイトより「楠本イネ」。(こちらの先生は愛媛県松山市の方で、おイネさんが師事した二宮敬作など、国内外の歴史を広くご研究なさっているようです)
いよいよ2010年代の皮切りとなりましたね。
この威勢のいい寅年の年明けは、久しぶりに日本で迎えることとなりました。
おせちにお屠蘇。初詣に年賀状。ぱりっとした服を着て気持ちがひきしまるように、日本のお正月は、どことなく重厚でフォーマルな感じがいたします。
そして、一年の計をしっかりと肝に銘じておきたい。そんな風に、初々しくもぴりっとした感覚が伴います。
さて、新年の第一号は、この言葉で行きましょう。
Trust me. 「わたしを信じてください。」
とっても頼もしい言葉ですね。
そうですか、あなたを信じてもいいのですねと、思わず相手に厚い信頼を寄せてしまうようなお言葉です。
けれども、Trust me には要注意。
先日、日本の新聞でも注意すべき英語の表現として紹介されていて、ハッとしてしまったのですが、どうしてこれが要注意?
それは、Trust me とは、軽々しく口にしてはならない表現だからなのです。
新聞で紹介された記者の方はこうおっしゃっていました。日本の新しい元首である鳩山首相が Trust me を使っていたので、それが非常に気になっていると。
なぜなら、アメリカのオバマ大統領に対して2度も Trust me(僕を信じてよ)と言っておきながら、いまだに何も実現されていないから。これでは、オバマ大統領が日本の元首に対して抱きかけた信用は失墜してしまうと。
(2010年1月7日付け朝日新聞、山中季広氏『記者の視点:トラスト・ミー 重い語感「守らないと破局」』を参照)
Trust me ほどの意味深な表現は、いろんな場面で使われるわけではありますが、とくに政治家が口にすると、こんな意味に変身してしまうのですね。
「きっとわたしがやり遂げてみせますから、どうかわたしの言うことを信じてください。」
つまり、選挙公約なり、会談の内容なりを実行することを「確約」しているわけですね。
ということは、非常に重い表現であって、言われた相手は「あ~、あなたに任せておけば大丈夫なのね」と、すっかり大船に乗った気分になってしまいます。
まあ、鳩山首相でなくとも、アメリカの政治家だって有権者に対してよく Trust me を使っています。
けれども、それは地元の支援者に何かを約束するとか、ほとんど決まった内容を確約するとか、なにがしかのクッションがあるのです。つまり、「逃げ道」を作っているとでもいいましょうか。
これに対して、一国の首長である首相が Trust me などと言えば、それは国全体が何かを確約したことになる。だから、そんな重い言葉を軽々しく口にすることは好ましくない、ということになるわけなのです。
もしこれが首相の口癖であるならば、それは即刻改めた方がいいのかもしれませんね。
だって、わたしなんかは、Trust me などと軽々しく口にする人間は信用しないことにしているから。(Trust me と言う人間に限って、ウソや誇張が多い!)
それでは、「わたしを信じてください(必ずやり遂げますから)」というニュアンスは、どう表現すればいいのでしょうか?
上記の新聞記者の方は、こちらのふたつを紹介されていました。
Leave it to me.(わたしに任せてください)
You can count on me.(わたしに任せておいて大丈夫)
いずれも、Trust me ほどには重みはないので、「確約」のニュアンスも低くなると。
I will do my best(最善を尽くします)の方が、Trust me よりまだマシだったという指摘もあったそうです。「最善は尽くしますが、結果は保証しません」という「逃げ」の含みがあるから。
個人的には、Leave it to me というのも、You can count on me というのも、政治家にはちょっと重すぎる感じがしています。
どうしてって、政治家にしたって普通の市民にしたって、軽々しくその手の言葉を発すべきではない、と思っているからです。だって「俺に任せろ」「俺を信用しろ」と言いながら、有言「無実行」になったら困るではありませんか。
きっと問題の根本は、どんな言葉を使うかではなくて、そんな大げさな言葉を発しなければならないほどに相手の信用を勝ち得ていないことにあるのではないでしょうか。
だから、人の信頼を得られるように、普段の行いが大切になってくるのかもしれませんね。Trust me などと言わなくても、誰でも信頼してくれるような日頃の行いが。
おっと新年早々、なんだか難しい話になってしまいましたが、Trust me には要注意。
もしこの言葉を耳にしたら、まずこれを発した人を観察することにいたしましょう。
ミッチェルくんのフィアンセ
- 2010年01月03日
- エッセイ
クリスマスの日の夕刻に、東京に到着いたしました。お正月を日本で過ごしたいと思いまして。
サンフランシスコ空港を出発したのは、前日のクリスマスイブの午前中だったので、クリスマスの雰囲気は、ほんのちょっとだけ東京で味わうことになりました。
日本では、クリスマスの晩を過ぎるとすぐにお正月の支度にかかるので、12月26日ともなると、もうミニ正月がやって来たような気分になりますよね。
クリスマスツリーはすぐに姿を消してしまって、街角のあちらこちらには、しめ縄飾りや門松が目立つようになります。アメリカでは、元日にはまだツリーを飾っておりますので、日本は変わり身が素早いものだと感心してしまうのです。
東京に到着したクリスマスの晩は、みんなでお祝いしましょうとフレンチレストランのディナーにお呼ばれしていたのですが、残念ながら、わたしはパスしてしまいました。
いつも飛行機の長旅では疲れてしまうのですが、今回もちょっと立ち直りがうまくいきませんでした。
それに、日本に到着したばかりの晩は、やはり和食がお腹にやさしいですよね。
というわけで、いそいそとフレンチを食べに行った連れ合いを尻目に、ホテルの部屋で、ひとり湯豆腐を堪能しておりました。
ほんとはルームサービスのメニューには湯豆腐なんかないけれど、ホテルの日本食レストランが出しているのを知っていた連れ合いがオーダーしてくれました。ホテルによっては、レストランからルームサービスにお料理をまわしてくれる場合もあるようですね。
それにしても、クリスマスに湯豆腐なんてちょっとオツだなと思いながら、ありがたくいただいておりました。しかも、鍋に昆布と豆腐を入れただけの渋~い湯豆腐。飾り気など何もありません。
街にはフレンチだの、イタリアンだの、クリスマスケーキだのがあふれている頃ではありますが、そんな日だからこそ、ちょっと和風にいきたくもあるのです。
ちょっと前置きが長くなってしまいましたが、本題は、湯豆腐を食べながら観ていたテレビ番組にあるのです。
久しぶりに観る日本のバラエティー番組だったので、思わず画面に釘付けになってしまったのですが、その企画がちょっとおもしろくて、一般の方々にインタビューした内容がベースになっているのです。みんなホンネでトークしましょう、といった企画でしょうか。
たとえば、どちらの答えがポピュラーだったでしょうと芸能人が当てるコーナーがあったりするのですが、その中に、ちょっと意外なものがあったんです。それは、こんなものでした。
30代独身男性にどちらと結婚したいかを質問しました。
A. 料理のへたくそな美人と、B. 料理の上手なおブス
(お断り:「おブス」という言葉は、番組内で使われていたもので、わたし自身が選んだ言葉ではありません。)
そして、その答えは、ほぼ7対3の割合で、「美人を選ぶ」というものでした。
正直に申し上げて、わたし自身は B の答えが多いだろうと思っていたので、ちょっと意外だったのと同時に、どうして人を顔で選ぶのよと、多少憤慨してしまったのでした。
だって、結婚生活なんて、長~いものなんですよ。それなのに、自分で料理をしない限り、毎日、毎日、まずいものを食べなければならないなんて、ちょっと辛くありませんか?
司会者の方は「料理はすぐにうまくなるけど、顔は変えられないでしょ」なんておっしゃっていましたが、ほんとにすぐにうまくなりますでしょうか? だって、料理ってセンスの問題ですから、へたな人がすぐにうまくなるわけはないと思うのですけれど・・・。
それよりも何よりも、顔なんてすぐに飽きませんか。いくら美人だったにしても、そのうち何にも感じなくなって、顔なんてどうでもよくなるんじゃないでしょうか。
美人だと、一緒に歩いていて鼻が高いなんてコメントしている方もいらっしゃったようですが、男性ってそんなに人の目が気にかかるものなんでしょうか?
などと、番組を観ながらいろいろと考えてしまったのですけれど、ここでひとつ思い出したことがありました。それは、題名にもなっているミッチェルくんのことなんです。
彼は、ご近所さんの息子さんなのですが、今は遠く離れてインディアナ州で暮らしています。アメリカのことですから、家族関係はちょいと複雑で、このミッチェルくんは、ご近所さん夫婦のダンナさまの方の一人息子となります。
このダンナさまが離婚したあと、ミッチェルくんはお母さんに引き取られてインディアナ州で育ちました。
お父さんは再婚して、新しい奥さんとカリフォルニア州に引っ越して来たのですが、たまにミッチェルくんはカリフォルニアのお父さんに会いにやって来る、とそういった関係なのです。
わたしが最初にミッチェルくんに会ったときは、彼はまだ15歳。ニキビたくさんのティーンエージャーでした。それが、今はもう27歳の好青年になっていて、それ自体もちょっと驚きなのですが、もっと驚いたのは、そのミッチェルくんが結婚するというのです。
しかも、会ってまだ数ヶ月の彼女と。
お父さんがいうに、ミッチェルくんはかなりモテる青年のようでして、一年に一回くらいは新しい彼女ができるのですが、それがいつも背の高い、モデルのようにゴージャスな女性だったとか。
ところが、今度結婚を決意した彼女というのは、今までとはまったく違うタイプ。背も日本人くらいですし、きれいだけれど、モデルのように目を引くタイプではありません。
そして、彼女は大学院を出ていて、その専門性を活かしたキャリアに就くような才女。それも今までとは様子が違うんだそうです。
そんな風に、今までとはまったく違ったタイプの女性に、お父さんはちょっと動揺してしまったようです。しかも、知り合ってまだ数ヶ月のうちに結婚を決意するとは、ちょっと時期尚早ではないか。
そこで、お父さんは息子に腹を割って聞いてみたそうです。
結婚は考えているほど簡単なものじゃない。たとえば、二人でどこに住むとか、お互いの両親のことはどうするのかとか、宗教が違ったらどうするかとか、そんな複雑な問題がたくさん出てくる。だから、そんなに即決するもんじゃないよと。
すると、ミッチェルくんは、こう答えたそうです。そんなことは自分でもちゃんと考えてみたよ。でも、それよりも何よりも、彼女とずっと一緒に暮らしたいんだと。
なるほど、それは一番大事なことかもしれませんね。ずっと一緒にいたいという願いさえあれば、いろんな難関が出てきても、二人でちゃんと解決できるものかもしれません。
そして、「ずっと一緒にいたい」という気持ちには、あんまり顔は関係ないんじゃないかなと、わたしはそういう風にも思うのです。だって、人は相手の顔と結婚するわけではなくて、心と結婚するわけですからね。
なんだかまわりくどい話になってしまいましたが、日本に着いた最初の晩に思い出したのがミッチェルくんのお話だったので、ちょっと綴ってみたいと思ったのでした。
もう新年も明けてしまいましたが、今年もみなさまにとって素敵な一年となりますように。