ナパバレーのオーパス・ワン
- 2011年06月07日
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今年のベイエリアは、いつまでも雨がグズグズと残り、すっきりとしないお天気です。
6月に入った今も、雨が続いて気温も低いのですが、普段は、今頃はもうカラッとした初夏。こんなことは、とっても珍しいのです。
そんなおかしな天気のベイエリアですが、5月の中旬、日本から知り合いの方がいらっしゃいました。
いちおう、お仕事での出張でしたが、仕事が終わると、ワインの名産地ナパバレー(Napa Valley)と、自然の醍醐味を味わえるヨセミテ国立公園(Yosemite National Park)に足を伸ばそうと、レジャーを併せた出張旅行だったようです。
そんな彼女のレジャーをお助けしようと、連れ合いとわたしは彼女をナパまでお連れいたしました。
その朝、サンノゼは小雨の残る曇天でしたが、彼女をピックアップしたサンフランシスコはカラリと晴れ上がり、前日まで続いた雨がウソのよう。ナパに行くには、まさに絶好のお天気です。
ナパはちょっと雲が残る空模様でしたが、ナパの谷間に入って最初に足を止めたのが、ブリックス(Brix)というレストラン。ワイナリーでテイスティングをするには、空腹ではいけません。
ちょっとカジュアルなブリックスは、店内も広々としていて、お庭がゴージャス。ブドウ畑を望む裏庭では野菜やハーブを栽培していて、穫れたての食材はレストランでお出ししています。それが、こちらのお店のご自慢なのです。
食事のあとは庭を散策させてもらって、「あ~、はるばるナパまでやって来たなぁ」と、ワインの産地の雰囲気を満喫です。
けれども、そんなにゆっくりしてはいられません。かの有名なワイナリー、オーパス・ワン(Opus One)に予約があるのです。
オーパス・ワンは、ボルドー風の赤のブレンドで有名なワイナリーですが、たぶんカリフォルニアのワインの中でも一番高級とされる部類でしょう。フランスとカリフォルニアのコラボレーションの逸品として、その名は世界中に知られ、日本でも人気の高いカリフォルニア赤ワインとなっていますね。
そう、ワインの名前でもあり、ワイナリーの名前でもあるのです。
とっても上品なお味で、誰もが「おいしい!」と感嘆の声を上げるのですが、ちょっとお高いのです。ですから、特別な記念日にいただくワインとしては最適ですね。
そういえば、インターネットバブルの頃は、シリコンバレーでも大人気でした。スタートアップ会社(起業して数年の小さな会社)が株式市場に上場したといっては、お祝いにオーパス・ワンのボトルを開けていたものです。上等なワインですので、「記念」にいただいたボトルは、何年も寝かせてあとで楽しむこともできるのです。
オーパス・ワンは、「お祝い」とか「成功」といった言葉の代名詞となっているのですね。
そんなオーパス・ワンは、日に2回(午前と午後に1回ずつ)テイスティングのツアーをやっています。テイスティングは有料ですが、ゴージャスなワイナリーの中に入って、ツアーをしたあと、おいしい赤ワインをテイストできるので、お勧めコースではあります。
お約束の1時半に15分も遅れて行ったのですが、案内役のスーザンさんは、にこやかに迎えてくださいました。彼女は、ワイナリー設立当初からかかわる「生き字引」なのです。
先客は、ブラジルのカップル。そして、わたしたち3人組のあとに、さらに遅れてチリの男性3人組が到着いたしました。前回オーパス・ワンに来た時には、ほとんど全員がアメリカ人でしたが、日によっては、ずいぶんとコスモポリタンなツアー客なのです。
オーパス・ワンは、ぶどう作りから違います。互いに競争して味のつまった実を結ぶようにと、ぶどうの木はできるだけ近づけて植えられます。
ワイナリーのまわりはすべてぶどう畑となっていて、この広大な畑から穫れた実を厳選して、少量の実から上質のワインをつくります。良いワインは良い実からできる、これはワイン造りの基本中の基本のようですね。
収穫したぶどうの実は、まず人の手で選り分けます。枝を取り除いたり、熟していない実を取り除いたり、逆に熟し過ぎてレーズン状になった実を取り除いたりと、ワインに適した実だけを残すのです。
そのあと、フランス製の「最新兵器」で、さらに極上の実を厳選するのです。このBucher Vaslinという会社の機械は、近年ボルドー地方で使われるようになった「選り分け機」だそうで、オーパス・ワンでは、ごく数ヶ月前に導入されたものです(だから、一年前には見かけなかったんですね)。
中にはコンピュータが入っていて、色、大きさ、成熟度をコンピュータのお目々でチェックし、いらないものははじき出すんだそうです。どれが「不適切」かは、ワイナリー自身が設定できますので、きっとオーパス・ワンでは、最も厳しい基準に設定してあるのでしょう。
厳選した実は、1、2週間発酵させて、プレスして皮を取り除いたあと、スチールタンクでさらに発酵させます。そして、オーク樽にうつして発酵させ、ボトルで何年か寝かせます。
一年目の樽は、ガラス張りのテイスティングルームから見えるように置かれていて、中に入って記念写真を撮ったりもできるのですが、ズラッと並ぶ樽の列は、まさに圧巻なのです。樽がワインレッドに塗ってあるのは、ころがしたあとに汚れが目立たないように(!)だそうです。
オーク樽は、使い回しはせずに毎年新調されるそうですが、フランスの樽造り職人(cooper)十数社から取り寄せているそうです。これだけたくさん新調するとなると、数をそろえるだけで大変なんでしょうね。
(これは想像の域を出ませんが、ここでいらなくなった樽は、どこか別のワイナリーで使い回ししているのかもしれませんね。)
ま、そんな細かい話は置いておいて、樽を見学したあとは、いよいよテイスティング(2007年のオーパス・ワン)のグラスをいただきます。案内役のスーザンさんが乾杯の音頭を取り、一口飲んで「う~ん」とうなったあと、ここでツアーは解散となります。が、残りは屋上でゆっくりと楽しめるようになっているのです。
この屋上がまた、緑のぶどう畑を見渡せる絶好の場所にあって、とっても気持ちが良いのです。日頃のゴタゴタなんてどこかに吹っ飛び、ここにはゆったりとした贅沢な時間が流れているのです。
ナパにお連れした彼女は、さかんにおっしゃっていましたよ。「ここはもう別世界ね!」「ここに来て、アメリカの金持ちの生活を垣間みた気がする」と。
最初から最後まで最高のものを目指したワイナリーでは、それを味わう心の余裕がないといけないのでしょう。それができるなら、べつに金持ちである必要はまったくありませんけれど。
ナパに来たら、日々の生活はちょっと忘れてみる。これが、ワインの名産地を楽しむコツなんですね!
ワイン好きの方への細かい話: 今回テイスティングした2007年のオーパス・ワンは、以下の割合で5種類の赤ワインをブレンドしてあります。
カベルネ・ソーヴィニョン(Cabernet Sauvignon)79%
メルロー(Merlot)8%
カベルネ・フラン(Cabernet Franc)6%
プティ・ヴェルドー(Petit Verdot)6%
マルベック(Malbec)1%
それから、ワイン造りは、ワイナリーによってずいぶんと製法が違ったりするものですが、この2007年のヴィンテージは、スキンコンタクト(skin contact、皮が混ざったままの発酵)は20日間、樽の中での発酵(barrel aging)は19ヶ月ということです。(オーパス・ワンのデータシートより)
ま、細かいことはどうであれ、「おいしい!」というのが個人的な感想です。
バーベキューの日「メモリアルデー」?
- 2011年06月04日
- Life in California, アメリカ編, 歴史・習慣
ゴールデンウィークを過ごした日本でテレビを観ていたとき、あれ? と思ったことがありました。
それは、NHKのドラマで、松坂慶子さん扮する主人公の女性が、アメリカの大学で働く娘婿から手紙をもらったシーンでした。
あれ? と思ったのは、手紙の表。宛名の下に、「Air Mail(エアメール、航空便)」と書き添えてあったのです。
今は、アメリカから海外に送る郵便物はすべて航空便となっていますので、いまさら「Air Mail」と書く必要はないのです。けれども、そんなことは、日本に住む小道具さんにはわからない。
このシーンを観ていて、「なるほど、現地に住んでいないと、細かいところで、なかなかわかりにくい部分もあるのだな」と思ったのでした。
それと同じように、アメリカの習慣でも、他国に住む方には伝わりにくいものもあるのだろうなと思うのです。
たとえば、感謝祭(Thanksgiving)やハロウィーン(Halloween)でしたら、日本でもよく知られていますけれども、地味なところでは、メモリアルデー(Memorial Day)だとか、レイバーデー(Labor Day)といった記念日があるでしょうか。
俗に、メモリアルデーは「バーベキューシーズン到来の日」といわれていて、そのバーベキューシーズンを「締めくくる日」がレイバーデーといわれています。
メモリアルデーは5月最後の月曜日で、レイバーデーは9月最初の月曜日ですので、ちょうど6月から8月の夏の間、バーベキューには最適なシーズンをはさんでいるわけなのです。
ですから、みなさん、4月のイースター(Easter、復活祭)の日曜日が終わると、次は5月最後のメモリアルデーの三連休を楽しみにしているのですね。
(イースターは暦の関係で、3月末から4月末と日付は不定期となっています。もともと日曜日ですので、会社は三連休にはなりませんが、学校はイースターの週はお休みになります。)
イースターも終わり、いよいよメモリアルデーの週末(the Memorial Day weekend)がやって来ると、自宅の裏庭でバーベキューをしたり、みんなで公園に行って、大きなバーベキューグリルを囲んだりと、あちらこちらから香ばしいにおいがただよってくるのです。
いえ、ほんとに、どこからともなくプ~ンとバーベキューの香りがしてくるんですよ!
そんな楽しいイメージのメモリアルデーですが、以前にもお話したとおり、この日は「戦没者追悼記念日」と訳されます。(9月のレイバーデーの方は、「労働の日(勤労感謝の日)」ですね。)
メモリアルデーの歴史は古く、奴隷制度をめぐってアメリカの北と南が戦った、南北戦争(the American Civil War、1861年~65年)に端を発します。この戦争の戦没者を追悼するために、戦いが終結した翌年の1866年に、全米に広まった記念日のようです。
奴隷制度の廃止を目指す北部と維持を掲げる南部の戦いは、実にすさまじいものがありまして、戦火はアメリカ南東部の広範囲に広がりました。兵士だけで62万人の犠牲者が出たともいわれています。
とくに北と南の境にあるヴァージニア州には激戦地が多く、それゆえに、「兵士の亡霊を見た」という話はいくらでも伝わっています。そして、民間人の犠牲者となると、その全容はわかっていません。
そんな多大な犠牲を払ってまで勝ち得た奴隷解放(emancipation)ですが、犠牲者を追悼する動きがアメリカ各地で起こったというのは、ごく自然なことだったのかもしれません。
これ以降、メモリアルデーというのは、戦没者(とくに戦地で散った兵士たち)を追悼する日となったのでした。
昨年11月にご紹介した「ベテランの日(Veterans Day、退役軍人の日)」は、存命する退役軍人に敬意を表する日でしたが、こちらのメモリアルデーは、亡くなった方々に思いを馳せる一日となっているのです。
やはり、アメリカは国内外で戦った数が多いですから、退役兵も多いし、犠牲になった兵士も多いのです。ですから、メモリアルデーとベランズデーが両方あっても、何の不思議もないのかもしれませんね。
毎年、5月末のメモリアルデーがやって来ると、「あ~、三連休だぁ!」と浮かれ立つ人々とは対照的に、墓地に行って花を手向け、戦没者に語りかける人々もたくさんいます。
戦地で没した兵士(fallen soldiers)は、国が管理する霊園(national cemetery)に埋葬されます(遺族に異存がある場合は、民間の墓地に埋葬されることもあるようです)。
そういった国立霊園では、遺族や仲間の元兵士たちが集い、メモリアルデーの式典(the Memorial Day Observance)が開かれます。
首都ワシントンDCからポトマック川を渡った対岸には、有名なアーリントン国立墓地があって、毎年メモリアルデーとベテランズデーには大統領がお参りすることになっています(今年もオバマ大統領がお参りしました)。
サンフランシスコ・ベイエリアで最大の国立霊園は、サンブルーノという街にあります。サンフランシスコ空港のちょっと北にあって、ヴェトナム戦争の戦没者を始めとして、11万3千人が埋葬されています。
このゴールデンゲート国立墓地でも、400人が集まって式典が開かれました。荘厳なバグパイプの調べで式典は始まり、元兵士の方々が仲間の思い出のエピソードを語りました。
メモリアルデーを前に、国立霊園ではボーイスカウトやボランティアの人々が、墓石ひとつひとつに星条旗を手向けます。小さな国旗で、墓石から足ひとつ分(one foot)離れた場所にさすのが習慣となっています。
星条旗は国を象徴するものであり、子供の頃から、人々はこの旗に忠誠を誓います。「Old Glory(オールドグローリー)」「Red, White & Blue(レッド、ホワイト&ブルー)」と、親しみを込めて呼んだりもします。
国のために散った兵士たちを星条旗で祝するのは、彼らの国に対する忠誠心をたたえる意味があるのです。
ここでわたしは、戦争を美化しようとか、戦没者を盲目的に英雄化しようとか、そんなつもりはまったくありません。
だって、もともと戦争がなければ、兵士だってあたら命を落としたり、手足をもがれたりすることもありません。そして、民間人の犠牲者(civilian casualties)が何千、何万にのぼることもないのです。いつの時代も、戦地で散った兵士に比べると、声無き民衆の犠牲はもっと悲惨なものでしょう。
けれども、以前にもご紹介したメモリアルデーを再度書いてみようと思ったのは、本来の意味がみんなにうまく伝わっていないんじゃないかと感じたからなのでした。
いえ、アメリカにやって来てすぐの方ばかりではなくて、アメリカで生まれた人だって、もともとの意味は忘れ去って「メモリアルデーは楽しい日」「みんなでバケーションにでかける日」と思い込んでいる方々が多いのです。
まあ、アメリカでは、みんなが一斉に休める祝日が少ないので、「三連休があれば、何でもいいから楽しんじゃえ!」という気持ちはわからないではないんですけれどね。
それに、アメリカ人ほど働く国民も珍しいので、こっちもたまには休ませてあげたい気分にもなりますし。
そして、何といっても、いかにアメリカの軍隊が大きくとも、軍隊に入隊した家族を持つ人は少ないのです。人口のたった1パーセント未満が戦争の重荷を背負っている、とも報道されていました。
ですから、みなさん、「戦争」とか「戦没者」なんていわれてもピンとこないのでしょう。
でも、それは「ちょっと違うんじゃない?」とも思いますし、どんなにかけ離れた場所の話であっても、ちゃんと考えなければと神妙な気持ちにもなるのです。
だって、今でもアメリカは戦争をしているでしょう。2001年10月に始まったアフガニスタン紛争では、1576人のアメリカ兵が亡くなっていますし、2003年3月に侵攻したイラク戦争では、4457人のアメリカ兵が没しています(5月30日のメモリアルデー現在)。
その多くは、18歳、19歳、20代前半という若者たちです。大学進学は延期して、国のために兵士になった若者もたくさんいることでしょう。
そして、子供を持つ戦没兵も多く、アフガニスタンとイラクで親を亡くした子供たちは、4300人以上といわれています。
多くの子供たちは、親を失ったばかりか、同時に住む場所も無くしてしまうのです。なぜなら、基地の住宅施設から出て行かなくてはならないから。
ですから、亡くなった数だけ思い出があるし、亡くなった数だけ、残された者の悲嘆と苦しみが生まれるのです。そんなことをあれこれ考えていると、なんとなく暗澹(あんたん)とした気分でメモリアルデーを過ごしたのでした。
ま、今年のベイエリアは、雨が残る変なお天気が続いて気温だってグンと低いので、「わ~い、バーベキューだぁ!」なんて気分にはなれない部分もあるのですが。
というわけで、本来の意味を考えると、なかなか心から楽しめないのが「バーベキューシーズン到来の日」なのでした。
追記: 緑の霊園の写真は、サンブルーノにあるゴールデンゲート国立墓地(the Golden Gate National Cemetery)です。上の写真は、すぐ脇を通るフリーウェイ280号線から撮ったもの。次の写真は、上空を通過する飛行機から撮ったものです。
やはり、11万3千もの白い十字架には、圧倒されるものがあるのです。
パリの日本人: 洋画家の吉岡耕二先生
- 2011年05月31日
- 歴史・風土
Vol. 142
パリの日本人: 洋画家の吉岡耕二先生
風薫る5月。雨季も終わりつつあるシリコンバレーでは、緑生き生きと、まぶしい季節になりました。
東京辺りでは、そろそろ梅雨に入ったとも聞きますが、今月は、ゴールデンウィークを過ごした日本での出会いをお話しいたしましょう。
<パリを目指した若人>
近頃は、季節の良いゴールデンウィークを日本で過ごすのが半ば習慣ともなっているのですが、今年は東日本大震災の直後でもあり、特別な意図がありました。他でもない、「日本経済に貢献しよう!」というもの。
そんな高尚な目的があったので、両親と温泉旅行にも出かけたし、うんとお買い物もいたしました。やはり、消費者が買い控えると、世の中のお金がうまくまわらなくなるので、この際、日本国のためにと、思い切って使ってみたのでした(まあ、支払いの時期になると、ある種の寂寥(せいきりょう)を覚えますが・・・)。
というわけで、楽しいゴールデンウィークではありましたが、日本に戻ると、いつも感心することがあるのです。それは、「日本には、おもしろい人が多いなぁ」ということです。
なんとなく、表面的には「普通の日本人」に見えても、話し始めるとユニークで「味わい深い」方が多いなと感じるのです。
今回も、そんなユニークな方にお会いしました。銀座の本屋さんで出会った画家の先生です。
銀座の大通りに教文館という本屋さんがあって、ここではよく絵画の催し物が開かれます。ゴールデンウィーク中にも、故・東山魁夷画伯や故・平山郁夫画伯といった日本画の大家の版画展が開かれていました。
会場の奥には、鮮やかな色彩の油絵の数々も展示されていて、そこにいらっしゃったのが、洋画家の吉岡耕二(よしおか・こうじ)先生でした。
正直に申し上げると、この方のことは今まで存じ上げませんでした。けれども、説明員の方が、フランスで認められた画家の先生だとおっしゃるので、いったいいつ頃からフランスに? と問うと、「そこにご本人がいらっしゃるので、直接聞いてみてください」と、半ばシルバーグレーの髪の紳士を指差すのです。
そこから、吉岡先生との会話が始まったのですが、芸術家らしい寡黙なイメージとは裏腹に、先生が饒舌(じょうぜつ)であることに驚いたのでした。
なんでも、吉岡先生がフランスに渡ったのは、23歳の頃。ほんとはもっと早く行きたかったのだけれど、当時は渡航費用がべらぼうに高いとき。フランスに行こうとすると、飛行機代だけで54万円もかかったんだそうです。初任給が1万円の頃ですから、外国に行くなんて贅沢な時代だったのです。
それで、3年間働いて100万円を貯めて、横浜港からフランス郵船の「ヴェトナム号」という船に乗り込みました。1967年のことでした。
当時、フランス郵船は、貨物船の「ヴェトナム号」、客船の「カンボジア号」、豪華客船の「ラオス号」と、3隻の船でアジアとヨーロッパを結んでいました。ヴェトナム、カンボジア、ラオスはフランスの植民地だった歴史があるので、それが船の名に使われていたのです。
ヴェトナム号は貨物船ですから、横浜を出港したあと、マニラ、香港、サイゴン(現ホーチミンシティー)、シンガポールと、寄港した先で荷物の積み降ろし作業があります。そのため、横浜からフランスのマルセーユまで客船で1ヶ月のところが、1ヶ月半もかかりました。
けれども、先生は米、みそ、インスタントラーメンと、250キロの荷物を携えていたので、貨物船は最適な交通手段だったことでしょう。
貨物船での渡航というのは、当時は決して珍しいことではなかったようで、1958年、スクーターとギターを持ってマルセーユにたどり着いた、指揮者の小沢征爾氏の例もあります。小沢氏は、南のマルセーユから北のパリまで、実に800キロの距離をスクーターで移動なさったそうです。
1962年、ヨットのマーメイド号で西宮からサンフランシスコへとひとりで渡った、冒険家の堀江謙一氏の例もあります。堀江氏の単独航海は太平洋の両サイドで大センセーションを巻き起こし、「海」「渡航」「冒険」といった言葉は、海外に可能性を求める若人たちのキーワードとなったのです。
外国で干あがらないようにと、食料をたんまりと携えた吉岡先生でしたが、この大きな荷物に加えて、懐には外貨が1000ドル。これがフランスに渡る全財産でした。その頃は1ドルが360円で、日本人にとっては外貨取得すら難しい時代でした。
それで、どうしてそうまでして先生がフランスに渡りたかったかというと、「色」の勉強をしたかったからなのです。
日本に油絵の絵具が入ってきたのは、明治になってから。最初の頃は、新しい媒体に戸惑い、油絵具が日本画風に使われていたのでした。そんな伝統を受け継いでいては、油絵本来の魅力は引き出せないのではないか。
洋画家の中でも、とくにフランスのマチスやボナールといった鮮やかな色彩の画家に感銘を覚えたので、色あせた印刷物などではなく、現地で本物に触れながら勉強したい、そんな意志が先生をフランスへと駆り立てたのでしょう。
ようやくたどり着いたフランスでは、「花の都パリ」にあるパリ国立高等美術学校で学びます。きっと個性豊かな才能は、入学後すぐに教授陣からも認められたことでしょう。在学中に、名だたる展覧会サロン・ドートンヌ(Salon d’automne)に出品するのです。
一年目は、いきなり「会員候補」に推挙されました。会場に足を運ぶと、自分の作品の脇に青いタグが貼ってあるので、あれは何だろうかと思っていると、「あれは、会員候補に挙がったという印なんだよ」と誰かが教えてくれました。
翌年は、候補に挙がったあと、メンバーの投票で会員に選ばれました。サロン・ドートンヌは、20世紀初頭にマチス、ボナール、ルオーなどが設立した由緒ある展覧会です。会員に選ばれるということは、芸術の都パリで活躍する画家にとって名誉なことなのです。
ここで先生がおっしゃるには、フランスと日本では画壇の制度が違うということです。フランスの展覧会では、出品した一点のみで審査されます。その一点の絵が良いのか、悪いのかで判断され、年齢や国籍、出身学校や出展経験と、その他のことはまったく関係がありません。
一方、日本の場合は、多くの画家が何かしらの「会派」に所属し、その会派のやり方で絵を描くようになります。展覧会に出品しても、入賞は会派の弟子たちに割り振られるような部分があります。
会派に属して、その伝統に染まるということは、独創性の芽を自分で摘んでいることになるのではないかと、先生はおっしゃいます。若い人たちは、計り知れない可能性を秘めている。なにも、若いうちから会派のやり方に染まりきって、あたら自身の可能性を狭めることはないのではないかと。
そんな「組織」や「伝統」が物を言う日本ではありますが、良きにつけ、悪しきにつけ、昔は個性の強い日本人が多かった、ともおっしゃいます。
たとえば、ヨーロッパで麻薬の運び屋をやっていたヤツ。トラックの荷台の溶接をひっぱがし、その下にブツを隠して運んでいたそうですが、年に2回運び屋をやるだけで一年分の収入を稼ぎ出すという、悠々自適の生活だったとか。
そして、ヴェトナム号の長い航行で知り合った二人、TさんとKさん。彼らは、韓国人が経営するパリの日本食レストラン「ニュートーキョー」で働くことが決まり、採用を約束する手紙までもらっていたのですが、行ってみると「そんな約束をした覚えはない」とつっぱねられ、渡仏直後に失業の憂き目を見るのです。
そんな二人は、事もあろうに、「よし、外人部隊に入ろうじゃないか!」と、フランス外国人部隊に入隊するのです。フランス陸軍に所属し、外国人志願兵で組織される軍隊です。なんでも、ヴェトナム号に乗船していた人に「外人部隊は、給料はいいし、待遇はいいし」とホラをふかれ、それを鵜呑みにして入隊したんだとか。
ところが、外人部隊はアフリカ北部のアルジェリアで誕生した歴史もあって、訓練はアフリカの砂漠で行われます。温和な日本の気候に慣れた人間が、いきなり砂漠の激務に耐えられるわけはありません。とくに、Tさんはヒョロリとした体形ですので、戦闘訓練はこたえたのでしょう。そんなわけで、二人は数ヶ月で脱走を企てるのです。
どこからともなく駐屯地周辺の地図を手に入れた二人は、20キロの地点に井戸があることを知ります。そこで、夜こっそりと抜け出した二人はこの井戸を目指すのですが、行ってみると、すっかり水が涸れているではありませんか!
さらに20キロ先にも井戸はあるのですが、先を目指す元気もなく、二人はすごすごと駐屯地に戻ったのでした。だって、次の井戸が涸れていたら、それこそ死活問題ですから。
脱走に失敗した二人は、一週間牢屋に入れられるのですが、その後は耐えしのぎ、3年にわたる任務をまっとうしたということです。(砂漠周辺の地図が存在したということは、それほど脱走者が多かったという証拠かもしれませんね。)
TさんもKさんも、今は立派な紳士になっていることと思いますが、紳士といえば、吉岡先生も「クール」な面をお持ちなのです。
それは、夜ジャズを聴きながら、ウイスキーを片手に絵を描くという、まさに絵に描いたような紳士ぶり。とくにジャズはお好きということで、上海の外灘(がいたん)を描いた油絵は、古き良き上海のジャズバンドに敬意を表してLPジャケットの真四角の形をしています。
その枠いっぱいに広がる空は、明るい黄色。外灘の歴史ある建物を包みこむ空は、先生にとって、黄色のイメージだそうです。
そして、エーゲ海に浮かぶギリシャのミコノス島。風車を抱く大地に、海から空へと、一面のピンクです。ミコノスを訪れたことのある者からすると、かの地のイメージは白とブルー。家々の壁の白に鎧戸のブルー、海のブルー。それが、素人が選ぶ色彩なのです。
けれども、先生のイメージは落ち着いたピンク。ミコノス名物の風も凪ぎ、穏やかなエーゲ海に沈む太陽が、やわらかいピンクという色調を生み出したのでしょうか。
「色」を学びにフランスに渡ったという先生のお話は、ふとフランスの印象派画家クロード・モネに重なったのでした。それは、モネが「光」を追い求める画家だったから。
刻一刻と光の具合は変わり、それによって景色も姿を留めない。日が翳ったグレーの色調は、雲が晴れれば途端に彩りを取り戻す。
その刹那を求めて風景を描き続けたモネは、こう悟るのです。「風景画なんてものは存在しない」「キャンバスにとらえられるのは一瞬のみである」と。
先生がキャンバスに描かれているのも、格別だと感じられた瞬間なのでしょう。そして、そこには、「ミコノス島は白とブルー」なんて常識は入り込む隙もないのです。(写真は、作品『リスボン』の絵はがきと直筆のサイン)
フランスで14年を過ごされた先生は、1981年、日本に戻って来られます。帰国の理由は「母親が80歳になったら帰国すると決めていたから」だそうです。
お母さまは96歳で他界されたそうなので、「あとから考えると、もうちょっとフランスにいても良かったかもしれない」と笑っていらっしゃいました。
若くして海外を目指した方にしては、実に日本的な帰国の理由ではありますが、これが意外にも、外国で成功する秘訣なのかもしれません。そう、日本人であることを忘れないことが。なぜなら、祖国とは、自分を培った根っこなのですから。
外国で長く暮らし、良いものを学び、大きく花開いたにしても、そのことで根っこを捨て去る必要などないのです。いえ、逆に、捨て去ってはいけないのでしょう。根っこを捨て去るのは、自分を見失ってしまうのと同じだから。
異文化に触れ、「お前は何者であるか?」と問われたとき、「わたしはこういう者である」と胸を張って主張できるのは、自分を育てた根っこを大切にしているからこそ。
「己を知る」のは難しいことではありますが、異文化に触れて初めて見えてくるものもあるのでしょう。吉岡先生とのお話が楽しかったのは、先生の冒険と自分の経験に重なる部分があったからなのかもしれません。
後記: 展覧会には他のお客さんもやって来るし、先生を独り占めしてはいけないと、歓談のひとときは30分ほどで終わってしまいました。もっとお話ししていたかったというのが、正直な感想です。
行き当たりばったりでメモも取っていませんでしたので、貴重なお話が記憶のかなたに消えていった部分もあります。もし事実関係に間違いがありましたら、それはすべて筆者自身が責任を負うものです。あしからず。
夏来 潤(なつき じゅん)
「英会話にはピンポン球のやり取りみたいなところがあるので、打ち返すことが大事であって、あまり凝った表現を使う必要はない」と。
ごくごく基本的な文型を使って、ポンポンと話を進めていくことが大切ですので、「関係代名詞を使って長い文章を組み立ててみよう!」などと、がんばる必要はないと思うのです。
たとえば、誰かと旅行をしているとき、I’m hungry(お腹すいたよ)と、ひとこと意思表示することだって大事でしょう。
相手は、それだけ聞けば、OK, let’s find a good restaurant (わかったわ、良さそうなレストランを探しましょうか)と、食べる場所を探してくれることでしょう。
そんな簡素な文章の中で、とっても大切な役割を果たすのが、形容詞(adjectives)でしょうか。
何かしらの様子や状態を表す言葉ですね。
上の短い文章「わたしはお腹が空いています(I’m hungry)」の hungry のように、「空腹を感じている(I’m feeling hunger)」という状態をもっと簡潔に、的確に表すのが、形容詞 hungry というわけです。
形容詞は、便利なのです。
A is B(AはBである、I am hungry)で、ひとつの立派な文章になってしまうのですから。
そんなわけで、自分の状態や感情、何か見た物の様子などをしっかりと表すには、形容詞をたくさん知っておかなければならないということになるでしょうか。
言い換えると、英語を勉強する上では、形容詞がキーとなる、と言ってもいいのではないでしょうか。
(それに比べると、日常会話に出てくる動詞なんて、have とか get とか take とか、いつも決まった簡単なものしか使っていないような気もするのですよ。)
たとえば、誰かがこんな感嘆の声を上げたとしましょう。
Wow, that’s awe-inspiring!
そんなとき、awe-inspiring(発音は「オウ・インスパイアリング」)という形容詞がわからないのでは、何を言っているのかわかりませんよね。
こちらの形容詞は、「(畏敬の念を抱くほど)スゴい」という意味です。
最初の awe という部分は、「(神や自然に対して抱くような)畏敬の念」という意味で、「畏敬の念を inspire するように(呼び起こすほどに)スゴい」という形容詞になっているのです。
ま、ちょっと気取った文語調といった感じでしょうか。
いちいち awe-inspiring と言うのは長いので、縮めて awesome(発音は「オウサム」)と言うのが一般的ではあります。
Wow, that’s awesome!
「ワーッ、それってスゴい!」
とにかく、awesome も awe-inspiring も、「驚くほどスゴい(amazing)」といった良いニュアンスがあるのです。褒め言葉ですので、覚えておいて便利な形容詞だと思います。
(写真は、ワイオミング州のグランドティートン国立公園。草原にある礼拝堂から眺めた、美しいティートンの山並みです。)
さて、前置きが長くなりましたが、表題になっている experimental に移りましょうか。
こちらの形容詞は、experiment(実験、新しいことを試してみること)という名詞からきているので、「実験的な」という意味になります。
科学的な文章でない限り、そんなに頻繁にはお目にかからないかもしれません。
それで、どうして experimental が出てくるのかというと、先日、この形容詞を使って「しまった!」と思ったことがあったからなのです。
日本から知人がいらしたので、ワインの名産地ナパ(Napa Valley)をご案内しようと、名高いワイナリーに向かいました。
日本でも有名なベリンジャー(Beringer)の歴史的な建物に入って、ワインテイスティングをしたのですが、テイストした中に、今まで知らなかったラベルを見かけたのでした。
「Leaning Oak(傾いた樫の木)」というラベルで、ベリンジャー・ワイナリーの現地でしか買えないシリーズです。
このシリーズには、白のソーヴィニョン・ブラン、シャルドネ、赤のジンファンデル、シラー、メルローと、いろんな種類のワインがあるのですが、とにかく、今までのベリンジャーのワインとは、まったく印象の違うお味に仕上がっていたのでした。
味が違うのは新しいシリーズだからですよ、という担当者の説明を聞きながら、ついこんな風に発言してしまったのでした。
So it’s experimental.
「ということは、実験的な(シリーズ)なんですね」
すると、相手の方は、ちょっと間を置いて、こう言い直してくれたのでした。
Well, it’s unique.
「というよりも、ユニークということかしらね」
それを聞いて、ハッとしたのでした。
だいたい、ワインとして世の中に出すからには、どんなに新しいラベルだって、立派な「完成品(finished product)」なのです。それを「実験的(お試し中)」だと言うなんて、自分はなんと失礼なことか! と。
まあ、わたしとしましては、従来の味にとらわれず、新しいものに挑戦している(challenging)というニュアンスを出したかっただけなんですけれど・・・。
ここで彼女が言い直した unique という言葉は、どちらかというと、「他と違って、特徴があって良い」というような褒め言葉になるでしょうか。
同じように、ワインの味などを表現するときに、different(他と違う)という形容詞を使うこともあります。
Wow, this is different. It has an aroma of coffee.
「あら、これって違いますね。なんとなくコーヒーの香りがしますね。」
(そうなんです。カリフォルニア特有のジンファンデルなど、赤ワインの中には、コーヒーの香りがするものもあるのです。)
こちらの different という表現は、「好きか嫌いかは置いておいて、とにかく今まで知っているものとは違う」といった、微妙なニュアンスが含まれているでしょうか。
そして、テイストしてみて、とにかく「美しいワインだ!」と思った場合には、こんな風に表現してみたらいかがでしょうか。
This is such an exquisite wine!
「これは、なんと美しい(絶妙な)ワインでしょう!」
というわけで、最後に、ベリンジャーに関するトリビアをどうぞ。
ベリンジャーの新しいシリーズ「Leaning Oak」は、敷地内にある「傾いた樫の大木」に由来するそうです。
長い間、傾いたままの大木でしたが、ごく最近、とうとう倒れてしまったのでした。きっと病気にかかっていたものが、突風か何かで倒れたのでしょう。今では、根っこの部分だけオブジェのように残され、ワイナリーの訪問者を迎えています。
そんな老木に敬意を表して、「Leaning Oak」というラベルをつくったのだそうです。
「老木」というわりには、若々しいフレッシュなお味になっております。
それから、ベリンジャーが映画撮影に使われたことがありました。
ナパで継続して営業するワイナリーの中では、一番古い(設立は1876年)そうなので、撮影陣も「ここだ!」と即決したのでしょう。
映画というのは、1957年制作の『The Unholy Wife(邦題:金髪の悪魔)』です。
こちらの写真は、主役を演じたイギリスの女優、ディアナ・ドースさんです。題名の「unholy(汚れた、罪深い)」という形容詞が示すとおり、まあ、悪魔のような悪い妻を演じていらっしゃるのです。
夫は、ナパでワイナリーを営む実業家(写真左が、夫役のロッド・スタイガーさんでしょうか)。
多忙で出張の多い夫の目を盗んで、地元のロデオ・カウボーイと恋仲に落ちた妻は、夫を殺そうと企てるのです。が、そこに思わぬアクシデントが・・・。
観たことはありませんが、なんとなく、どろどろとしたメロドラマなのかもしれませんね。
まあ、ベリンジャーのワインはどろどろとしたものではありませんので、どうぞご安心を!
追記: 今でこそ、世界に広く知られるベリンジャーの名ですが、130余年にわたる経営は決して楽ではなかったようです。
1971年、一世紀近くがんばってきた家族経営にも行き詰まり、コーヒーやチョコレートで有名なネスレ(Nestlé、本社はスイス)に売られます。
さらに、1996年には投資家グループに売られ、いくつかワイナリーを買収したあと、株式市場への上場を果たします。
そして、2001年、オーストラリアのビール会社フォスターズ(Foster’s)に買収され今に至るわけですが、近頃とみにワインで力をつけてきたオーストラリアの会社らしく、世界戦略に挑んでいるのです。
おっと、形容詞のお話のはずでしたが、えらく脱線してしまいましたね! とにかく、experimental という言葉には、ご注意あれ!
前回は、英語の表現で「おもしろいなぁ」と思うものを集めてみました。
Don’t kill the messenger(メッセンジャーをいじめるな)や、Don’t shoot yourself in the foot(愚かなことはするな)と、洋の東西を問わず、心にしみいるアドヴァイスをご紹介してみたのでした。
今回は、なんとなく「英語らしい表現だなぁ」と思うお話をいたしましょう。
まずは、表題になっている Thanks for asking 。
こちらは、まさに読んだ通りでありまして、「聞いてくれて(質問してくれて)ありがとう」という意味になります。
表現はごく簡単なものです。が、よく考えてみると、日本語では「尋ねてくれてありがとう」「ご質問に感謝します」なんて、お礼を言うことはありませんよね。
ですから、この Thanks for asking は、個人的には、アメリカの文化を如実に表す表現のひとつなんじゃないかと思っているのです。
だって、アメリカ人はお話好き。自分が体験したことや感じていることを誰かさんに話したくってウズウズしているのです。
そんなわけで、何かしら個人的なことを尋ねてあげると、もう渡りに船とばかりに生き生きと話し始めるわけです。たとえば、
「あなたのお嬢さんは元気にしてますか(How is your daughter?)」
「最近、ゴルフの調子はどうですか(How is your golf game going lately?)」
そして、個人的な話で花が咲くと、相手との関係も少しずつ親密になっていくのです。
たぶん、アメリカ人が「お話好き」なのは、アメリカが徹底的な個人主義であり、ひとりひとりが何ごとも自分自身で成し遂げなければならない、孤独な環境に置かれているからではないでしょうか。孤独であるからこそ、おしゃべりをして、いつも誰かとつながっていたい。
(ここで個人主義というのは、「自分勝手」という意味ではなくて、「自分の行動の責任は自分自身で取る」「頼れるのは自分のみ」という厳しい環境を指しています。)
というわけですので、「お嬢さんは元気ですか?」などと個人的な質問をいただいたら、つい嬉しくなって、お礼を返すこともあるのですね。
Thanks for asking. Fortunately, she’s been accepted by Harvard and will start a new school year in the fall.
「尋ねてくれてありがとう。幸いにも、わが娘はハーヴァード大学に合格しまして、秋には新学期が始まるんですよ。」
(「学校に合格する」という表現は、be accepted by ~(~に受け入れられる)と、受け身の表現を使うのが普通です。)
こんな良いニュースを耳にしたら、祝いの言葉は欠かせませんね。
Congratulations! That’s exciting!
「それは、おめでとうございます。前途洋々ですね!」
Thanks for asking もそうですが、英語の会話はピンポン球のやり取りみたいなところがありますので、打ち返すことが大事であって、あまり凝った表現を使う必要はないのです。
ごくごく基本的な文型で、ポンポンと話を進めて行くことが大事ですので、極端な話、何かしらキーワードひとつを発したにしても、相手には十分に意思が伝わっているのです。
そんな簡素な表現の中に、こんなものもありますね。
Hats off to you!
最初の hat というのは、文字通り「帽子」という意味です。
ですから、「あなたに帽子を傾ける」転じて「あなたには脱帽です」という意味になります。
Hats off to you for such a great job!
「すばらしい仕事をしてくれて、あなたには脱帽です!」
Hats off to her for throwing such a spectacular party!
「あんなにスゴいパーティーを企画してくれた彼女には、もう脱帽ですよ」
(「パーティーを開く」の動詞は、通常 throw を使います。)
日本語でも、「シャッポを脱ぐ」という古風な表現がありますが、これは、英語の hats off to ~ とまったく同じ意味になりますね。
なんだか、レディーに向かって山高帽を傾けている紳士を思い浮かべるのです。
(こちらの帽子の紳士は、かの有名なフランスのポール・セザンヌ画伯。セザンヌと親交の深かった画家エミール・ベルナールが、セザンヌの生地であるエクス・アン・プロヴァンスで1904年に撮影したものです。写真の出典は、ベラジオ美術館(米ネヴァダ州ラスヴェガス)の展覧作品カタログ “The Bellagio Gallery of Fine Art: Impressionist and Modern Masters”(Edited by Libby O. Lumpkin, 1998))
Hat(帽子)といえば、throw hat in the ringという表現もあります。
「リングに帽子を投げ入れる」ということですが、「自分も(争い事に)参加することを意思表明する」という意味になります。
リングというのは、ボクシングリングのことだと思いますが、帽子を投げ入れることで、自分も相手と闘うぞ! と公表することを指します。
どちらかというと、実際に誰かと武術で闘うというよりも、選挙戦(election)のような、公の場で闘うという比喩で使われるでしょうか。
動詞 throw の代わりに、toss を使って、toss (my) hat in the ring ということもあります。
先日、こんな風刺漫画を見かけました。
(Cartoon by Mike Luckovich/Atlanta Journal-Constitution, published in the San Jose Mercury News, May 13th, 2011)
何やら大きな下着が投げ入れられ、こんなことをつぶやいているレディーがいます。
Most presidential candidates toss their hat in the ring . . .
「ほとんどの大統領候補は、自分の帽子をリングに投げ入れるんだけどね・・・」
ポイッと投げ入れられた下着には「Newt」と書いてあって、2012年の大統領選挙で立候補を表明している、共和党所属のニュート・ギングリッチ候補を指しています。共和党なので、オバマ大統領とは敵対する党になりますね。
まあ、ニュートさんは、以前、連邦下院議会の議長(the Speaker of the U.S. House of Representatives、大統領と副大統領に何かあったら大統領職に就く人)を務めた重鎮ではあったのですが、最近は、テレビのコメンテーターや新聞のコラムニストなどで「うるさ型」として知られているおじさんです。
どうして帽子ではなく「下着を投げ入れる」のか、作者の真意ははっきりとはわかりませんが、なんとなく「ズレている」ところを表しているのでしょうか。(ロックコンサートなどでは、熱狂的なファンが下着をステージに投げ込むシーンはありますが、そんな非現実的なノリだと暗示しているのでしょうか?)
ちなみに、throw hat in the ring に似たところで、throw in the towel というのもあります。
「タオルを(リングに)投げ入れる」というわけですが、こちらは、「降参する」という意味になります。
リングで闘っているボクサーがだいぶ弱ってきたので、「もうこれ以上は闘えない」と、トレーナーがタオルを投げ入れて、降参を表明するところからきているようです。
やはり、比喩的に「降参する」ときに使われることが多いでしょうか。
He threw in the towel and left school.
「彼はあきらめて、退学してしまった」
ところで、表題になっている Thanks for asking ですが、どうしてこれを書こうかと思ったかというと、ごく最近、ある人にこう謝ったからなのでした。
Sorry that I didn’t ask you earlier.
「もっと早く聞いてなくて、ごめんなさい」
いえ、先日、我が家と交流のある人に赤ちゃんが生まれたんですよ。
昨年の初め頃、子供をつくろうとしていることは聞いていたのですが、まさかもう生まれることになっているとはつゆ知らず・・・そこで、「もっと早くに尋ねていなくて悪かったですね」と謝ったのでした。
向こうは、個人的なことなので黙っていようと思ったのでしょうが、こちらも「どうなってますか?」と聞き難かったので、なんとなく聞かずじまいになっていたのでした。
もしかすると、話したくてウズウズしていたのかもしれませんので、もっと早く尋ねていたら、毎月のようにお腹の赤ちゃんの成長ぶりを報告してくれたことでしょう。
健康に生まれたソフィアちゃんが、どうか丈夫に育ちますように!
敬意を表して
- 2011年05月16日
- エッセイ
例年、ゴールデンウィークに日本を訪れ、あちらこちらを旅するのがなかば習慣ともなっているのですが、今年は特別な意味がありました。
言うまでもなく、東日本大震災のあとに訪れるという特別な意味が。
旅立つ前、日本とアメリカを足繁く往復する方から、こう言われておりました。「アメリカでいろいろと耳にすることもあるだろうけれど、自分の目で様子を見た方が落ち着きますよ」と。
やはり、ニュースで見聞きすることは全容ではないので、自分の感覚で、現地で起きている事を感じ取った方がいいですよ、というアドヴァイスなのでした。
そんな助言を胸に刻んで、成田行きの飛行機に乗り込むと、まず、びっくりしたことがありました。
それは、機内で読んだ日本の新聞が、最初から最後まで大震災に関する記事だったこと。特別企画などではなく、普段の新聞が、すべて大震災を語る内容だった・・・ということなのです。
やはり、そこまで被害は甚大なのかと、改めて感じた瞬間だったのでした。
「え、そんなことに驚いたの?」と呆れる方もいらっしゃるでしょうけれど、外国に暮らしていると、母国でどんな報道がなされているかはわかり難いものなのです。ついつい住んでいる場所の報道内容に慣れてしまって、いつの間にやら、現地の視点からは遠く離れてしまっているのです。
どんなに技術が進歩して、インターネットなどで国外の状況がリアルタイムにわかるようになったとはいえ、地理的な距離を克服するのは難しいのでしょう。
機上で「衝撃的な」新聞に出くわし、日本はいったいどこまで変わり果ててしまったのだろう? と恐れていると、幸いなことに訪問先の東京の街では、平和な時間が流れていました。
アメリカでニュースを観ていると、日本人の多くが空気中の放射性物質を嫌い、白いマスクをしているイメージがありましたが、東京を行き交う人々は落ち着いたもので、アレルギーの方以外はマスクなどなさっていませんでした。
それを見たときに、ようやく落ち着きを取り戻せた気がいたします。少なくとも、首都東京では、大混乱に陥ってはいないと。
大震災の直後は、東京でもかなり物資が不足したようですが、今は「節電」の大問題を除いて、生活は元に戻りつつあるように見受けられたのでした。
東京滞在中によくお散歩するコースですが、この朝は、麻布十番(あざぶじゅうばん)の商店街をグルッとまわってみました。商店街といってもかなり大きいので、道が何本も交差した構造になっていて、歩き甲斐もあるし、楽しいのです。
商店街の外れにある地下鉄・麻布十番駅にさしかかると、「グッドモーニング、ハウアーユー?」と、英語で話しかけてくる人がいるではありませんか。
なんとなくフレンドリーな声だったので、「あれ、この辺に友達いたかしら?」と足を止めて、声の主を見てみます。笑顔の主は初めてお会いする方でしたが、なんでも、こちらの商店街の英会話学校で英語を教えている先生だそうです。
英会話に興味はないかと問われた手前、「わたしアメリカに住んでるのよ」と話し始めることになったのですが、震災のあと、初めて日本に戻ったことも付け加えました。
そう答えながら、ハッとしてしまったのです。
日本に来ようと思い立った理由は、いったい何なのだろう? と。
英語という言語は「目的意識」がはっきりとしているので、「今回の旅の目的はこうだから、日本にやって来た」という表現にもなりますが、この「~をするために」の部分はいったい何なのだろう? と、一瞬ひるんでしまったのでした。
もちろん、そのあと実家に帰って両親を温泉旅行に連れて行く、という大義名分はあったのですが、もっと他に大きな理由があったような・・・
瞬時ためらったあげく、「日本に戻って・・・みんながどんな様子なのかを見てみようと思って(I had to come back … to see how people are doing here)」と答えたのですが、お相手の先生は聞きながら、こんな助け舟を出してくれました。
「(日本の人たちに)敬意を表するためでしょ?(to pay respect)」
これを聞いて、英語なのに、とっても日本的な考えだなと感心したのでした。そして、今の自分の心情にぴったりな言葉だなぁとも痛感したのです。
英語の pay ~ respect、または pay my respects to ~ という表現は、「~(人物)に尊敬の念を抱く」「敬意を表する」といったニュアンスがあります。
そして、この言葉を聞いたとき、自分がこのタイミングで日本に戻って来たのは、まさに「敬意を表する」ためなんだと自覚したのでした。
震災で亡くなった方々に、被災した方々に、ボランティアをなさっている方々に、捜索活動を行っている方々に、そんな方々すべてに敬意を表するためだったんだなと。
それにしても、ニューヨーク出身のアメリカ人の先生に、「敬意を表する」精神を指摘されたのには驚きだったのでした。
軽い身のこなしや、小柄なわりにしまった体つきから、何かしら武術をなさっている方かと想像しておりましたが、いただいたパンフレットの紹介によると、空手とボクシングをなさる方のようです。
空手といえば、日本を代表する武術のひとつ。日本には10年以上も住んでいらっしゃるそうですが、もしかすると、訪日の理由は「日本文化や精神に触れてみたい」ということだったのかもしれません。
「僕は、10年以上住んでいても、日本では『外人』のままなんだよ」とこぼしていらっしゃいましたが、わたしから見ると、もう立派な日本人だなぁと思ったのでした。
そう、相手に敬意を表することを忘れない、昔かたぎの日本人。
スタートの季節:我が家のPくんとグーグルのペイジ氏
- 2011年04月21日
- 業界情報
Vol. 141
スタートの季節:我が家のPくんとグーグルのペイジ氏
いつの間にか、2011年も4月となりました。今月は、そんな4月にふさわしいお話にいたしましょう。
第1話は、人の成長について。第2話は、企業の成長について、グーグルを例にとったお話となっております。
<成長の受け皿>
4月は、新しい季節。学校に入学したり、会社に入社したり、はたまた転職してみたりと、新しいスタートを切られた方々もたくさんいらっしゃることでしょう。
そんなスタートラインにいらっしゃる方にとっては、もう無我夢中で走り始めるしかないわけではありますが、スタートを切ってかなり間のあるわたしにとっては、スタートを切ったばかりの方の「走りぶり」が、如実に見えることもあるのです。
たとえば、我が家のファイナンシャルアドバイザー。「Pくん」と名付けましょうか。彼が我が家の担当になったときには、それこそ大学を卒業したばかりの「はな垂れ小僧くん」でした。
「ドットコム・バブル(Dot-com bubble)」という名のインターネットバブルもパチンとはじけ、金融業界が大きく傾いていた2002年末、それまでつき合っていたファイナンシャルアドバイザーが他の金融機関に移るのを機に、一緒に移ったPくんにバトンタッチしてもらったのでした。
「あんなに市場が好調なときでも、まったく何もしてくれなかったじゃないか。だから、もうアンタは信用できない!」と主張する連れ合いに対して、元のアドバイザー氏はPくんにバトンタッチすることを承諾したのでした。
まあ、元アドバイザー氏が何もしてくれなかったというのは事実なのですが、その頃は、シリコンバレーに住む多くが好調のとき。彼らが働くスタートアップ会社の株式公開(IPO、initial public offering)で「ミリオネア」「ビリオネア」になる可能性を秘めていたとき。我が家のような「小口」の顧客は、真剣に相手をする暇もなかったのでしょう。
それに、元アドバイザー氏は、コロラド州出身のアングロサクソン。どんなにカリフォルニアに長くとも、どこかに「有色人種」に対する偏見があったのかもしれません。
そんなこんなで、新たに我が家のアドバイザーになったPくんとは、それから長い付き合いとなるのです。
けれども、やっぱり、金融業界のみならず、実社会での経験が短いのが災いして、なかなか彼の業績は上がりません。良いと思って一生懸命にやっていることでも、かわいそうに裏目に出ることが多いのです。
ま、投資なんて「当たるも八卦、当たらぬも八卦」の部分がありますから、すべてが当たって欲しいなんて願ってはいませんが、プロの投資家としてはちょっと疑わしいような判断をすることもあったのです。
たとえば、世の中のアナリストの大部分が「今は絶対に航空業界に手を出してはいけない」と言っているときに、航空会社の株を買ってみるとか・・・。要するに、下降線にある銘柄を買うのが早すぎたり、逆に、乗り遅れて一番高くなったときに買ってみたりと、なんとなくテンポがずれているとでも言いましょうか・・・。
ところが、そんなPくんにも、大きな転機がやって来るのです! それは、Pくんにとって3回目の転職。
この4社目の会社は、投資銀行(investment bank)の老舗で、それまで何年か勤めていた銀行の投資部とはまったく違ったのです。
アメリカの場合、銀行と投資銀行は歴史的にも異なる存在として共存してきたので、「どっちが良い悪い」の議論はべつとして、各々の機関のマインドはまったく違うわけですね。
投資銀行は、その名のとおり「投資」を目的としていますので、すべてのエネルギーは「投資リターン(return on investment)」に向けられています。要するに、顧客にたくさん儲けさせて、その分け前を我が社もいただきましょう、というアプローチですね。
ですから、投資銀行には、日々のデータ解析をカリカリと行っているお利口さんたちに加えて、世界各地に食指を広げ「おいしそうな投資」を見つけてくるお利口さんたちもいっぱいいて、そんな投資銀行に入ったPくんにとっては、お勉強する機会も材料もグンと増えたわけなのです。
その良質のお勉強材料や新しい物の見方は、まさに、目からウロコが落ちるようだったに違いありません。
ですから、Pくんは変わりましたよ。まず、自信がつきましたね。最初は「我が社のアナリストはこう言っている」から始まりましたが、そのうちに「僕自信は違う意見を持っている」と、自身の解釈を入れながら、自分の言葉で主張するようになりました。
そして、さすがに素人が知らないような投資チャンスを見つけて来ては、「そろそろこっちを売り払って、長期的に安定性のあるこっちに乗り換えましょう」と、有意義なアドバイスをするようになったのです。
今までは避け気味だった「今年の業績」なんていうのも、自分からミーティングを提案するようになって、ちょっと低迷していたにしても、「これから市場は上向きなんです」と、悪びれずに予測を伝える術(すべ)も覚えたようです。
たぶん、それまでの頭の中の「濁流」が、時間や経験とともに「清流」となってきて、世の中の動きや押さえどころが見えてくるようになったのでしょう。
だから、無駄を省いて、鋭い判断をするようになったし、結果が良い方向にころがり始めると、自信もついてきて、判断にもさらに磨きがかかる。精神的に余裕が出てくると、経験豊富な顧客に学ぶところも増え、視野も広がってきたのでしょう。
もちろん、いいことばかりではありませんよ。2008年秋の「世界金融危機(いわゆるリーマンショック)」には、大きな痛手を被り、疲れた表情を見せていた時期もありました。が、そのつまずきを逆手(投資チャンス)に取って、その後は盛り返す、といった技も見せてくれているようではあります。
そんなPくんを見ていると、こう思い始めたのでした。もちろん、もともとの素質(向き、不向き)もあるのだろうけれど、人の成長に大事なことは「受け皿」なのだなと。
今まで経験したこともないようなポジションに就くとか、大きなプロジェクトを任されるとか、新しい環境に飛び込んでみるとか、何かしら大きな受け皿に入ってみると、プレッシャーに負けずに大きく成長する人もいるのだなと。
ま、Pくんの場合には、「受け皿探し」に何年もかかったわけですけれどね。
ちなみに、わたし自身がPくんに仕事を任せてみようと思った理由は、彼の初対面の自己紹介にあったのでした。
彼は、こう断言してくれたのです。「僕の父は投資に失敗して、全財産をなくしたばかりか、家族とも別れることになってしまった。だから、父のような思いは、僕の顧客には絶対にさせたくない」と。
ま、Pくんがアングロサクソンではなくて、子供の頃に韓国からやって来たアメリカ人だということもあったでしょうか。だって、ワールドサッカーで韓国が敗退し、日本が残っているときには、一生懸命に日本を応援してくれるような人ですから。
やっぱり、そういうことって、人と人との付き合いには大事ですよね!
<グーグルのシュミット氏とペイジ氏>
人が成長していくのと同じように、企業もどんどん成長していきますね。企業の場合は、どちらかというと、蝶のように脱皮を繰り返しながら「変態(metamorphosis)」していく部分もあるでしょうか。
たとえば、自宅に仲間が集って数人で始めた会社が、手伝ってくれるエンジニアを雇っているうちに数十人、数百人の会社になり、新しい市場を求めて外国に進出し現地採用を始めたら、いつの間にやら数万人の会社になっていた、というようなサクセスストーリー。
その成長の過程では、舵取りをする経営陣がキーとなってきますが、シリコンバレーの場合、企業の「変態の段階」によって投入される経営陣がガラリと変わってくるのです。
たとえば、グーグル(Google)が良い例となるでしょうか。ご存知のとおり、グーグルは、名門スタンフォード大学のコンピュータサイエンス博士課程に在籍中だったラリー・ペイジ氏とセルゲイ・ブリン氏が共同設立した会社ですが、1998年の創設から3年ほどは、ふたりが共同経営者(co-presidents)となっていました。
グーグルはインターネットの「検索エンジン」という技術の会社でしたから、シリコンバレーの多くのスタートアップと同様、「みんなでワイワイとモノをつくって、後から売りさばくことを考える」みたいな、エンジニアリング主導の会社としてスタートしたわけですね。
けれども、ユーザが増えるにしたがって、モノづくりが多様化し、ビジネス規模が拡大してくると、いよいよ「経営のプロ」が必要となってきます。もう「ここにこんな機能を付けたらおもしろいんじゃない?」といった技術的な話では収まらなくなりますからね。
と、ここで選ばれたのが、エリック・シュミット氏です。この方は、コンピュータエンジニアリングの博士号(カリフォルニア大学バークレー校)を持つ元技術者。その後、サン・マイクロシステムズでCTO(chief technology officer、最高技術責任者)、ノベルでCEO(chief executive officer、最高経営責任者)を務め、IT企業の経営陣としての経験も豊富です。
「グーグルの創設者ふたりは、何を考えているのか計り知れないほどの天才たち」と評しながらも、自身も相当に頭が切れる方のようにお見受けします。そして、眼鏡のまじめな風貌とは裏腹に、ユーモアのセンスもたっぷりとお持ちのようです。
バランスのとれたシュミット氏は、従業員200人の成長企業の経営者としては、まさに適任とも言える方でした。
シュミット氏の采配のもと、ロードマップ(製品開発戦略)、雇用計画・企業買収戦略、モノづくりのステップともなる開発プロセスと、会社としての基本的なルールや体制がつくり上げられたのでした。
グーグルは、自由な開発の雰囲気に包まれた「研究者集団」のような会社ですので、「ロードマップをつくろう!」なんて言われても、最初は何のことだか誰もわからないところからスタートしたことでしょう。
経営規模が拡大するに従って、対外的にも企業のあり方は複雑になってきます。たとえば、国内外の政府機関との折衝、競合やユーザから起こされた訴訟、株価を損なわないための株主へのアピールといった、大企業にとっては避けられない諸問題と向かい合うスキルも必要となってきます。
この点でも、シュミット氏は存分に手腕をふるったわけですが、そうやって、今のグーグルの押しも押されもせぬ立場を築き上げたのが、彼を頂点とする経営陣でした。そう、シュミット氏が来た頃には200人だった会社が、いまや2万6千人強の多国籍企業!
けれども、グーグルの変わっているところは、経営のトップがまた元に戻ったということでしょうか。
4月からは、シュミット氏が会長(executive chairman)に退き、創設者のひとりであり、新規開発の指揮を執るラリー・ペイジ氏がCEOに就いたのでした。
通常、シリコンバレーの企業が株式公開などを機に大きく脱皮し、次のトップにバトンタッチされると、もともとの経営者(ほとんどの場合、創設者)は、もう戻って来ないのが半ば常識ともなっています。
それは、ビジネスの「起業」の部分が楽しくて、安定期に入って人手に渡したものには興味を失う起業家が多いからですね。どうせなら、また新しい会社をつくっちゃいましょう、というノリの人が多いわけです。
たとえば、シリコングラフィックスやネットスケープといった有名企業を立ち上げたジム・クラークさん(2009年4月号の第3話「ジムさんとマークさん」でご紹介)などは、常に新しいことにチャレンジしていたいと「起業家虫」がウズウズするタイプの方でしょう。
ところが、グーグルの場合は、創設者であるペイジ氏に経営権が戻った。まあ、似たような生い立ちのヤフー(Yahoo!)のように、一時期経営から離れていた共同設立者ジェリー・ヤン氏が、暫定的にCEOに就いた例はありますが、こういったケースはそう多くはないでしょう。(CEOの「返り咲き」で一番有名な例は、アップルのスティーヴ・ジョブス氏ですが、それはまた、べつの機会のお話ですね。)
ごく最近、人気つぶやきサイトのトゥイッター(Twitter)では、共同設立者であり当初のCEOジャック・ドーシー氏が戻って来ましたが、CEOというポジションではなく、自ら立ち上げた他の会社(スマートフォンを使ったモバイル決済サービスのSquare)のCEOをやりながらの会長職という立場です。
けれども、立場は違ったにしても、コンセプトは2社に共通しているのかもしれません。それは、「創設者を呼び戻すことで、当初の息吹を吹き込みたい」というもの。つまり、大きくなった会社に、もう一度スタートアップの頃の熱い情熱を呼び戻したい、ということではないでしょうか。
ペイジ氏がCEOに就いたことで、グーグルの組織はより平たくなったようです。4月からは、スマートフォン/タブレット型コンピュータOS「アンドロイド(Android)」、ウェブブラウザ/OS「クローム(Chrome)」、広告配信サービス「アドセンス(AdSense)」、動画サイト「ユーチューブ(YouTube)」といった主力製品の責任者7人が、直接CEOのペイジ氏に報告する体制となりました。
これは、組織の階層を減らし、風通しを良くしたいというペイジ氏の意向であるとともに、彼の経営に対する自信の表れなのかもしれません。シュミット氏から学びとったことを自ら実践してみようじゃないか、という自信の表れ。
そして、ある種の危機感の表れであるのかもしれません。「今の状況は長くは続かない」という経営者が持つ危機感。
新しくペイジ氏が舵取りをするグーグルは、組織的に「岐路に立っている」と言えなくもないでしょう。なぜなら、リーダー格の多くは2004年のIPOで巨額の財を築き、「やってやるぞ!」というハングリー精神に欠ける部分もあるでしょうから。
そして、これから雇いたい優秀なエンジニアにとっては、IPOを済ませ、株価が上がりきったグーグルよりも、競合のフェイスブック(Facebook、世界最大のソーシャルネットワーク)のような非上場企業の方が魅力的かもしれませんから。
おもしろいもので、グーグルの平たい組織変更が可能になったのは、今まで製品開発を統括していたひとりの重役が、シュミット氏とともに退くことが決まったからでした。
この方は、ジョナサン・ローゼンバーグ氏という業界のベテラン重役ですが、彼はシュミット氏のすぐあとにグーグルに参画し、組織づくりに務めた方でした。
なんでも、地元紙サンノゼ・マーキュリー新聞の本人インタビューによると、「製品開発プランのつくり方も知らないようなグーグルのマネージャたちを、根気良くシュミット氏とともに教育してきた」ということです。
このインタビュー記事(4月16日付マーキュリー紙ビジネス欄に掲載)がまた、とっても楽しめるものでして、読んでいると、日頃なかなか伝わって来ないグーグルの内情が、そこはかとなくわかるインタビューとなっているのです。
ローゼンバーグ氏曰く、「(グーグルのスタッフを教育していく上で)グーグルという患者がジョナサン(自身)のドナー細胞を拒絶しているのがわかった」と。
そして、「一年ほどたつと、グーグルでの偉大なリーダーというのは、異なった観点のまとめ役(an aggregator of viewpoints)であって、独裁的な決断者(a dictatorial decision-maker)ではないということがわかってきた」ということです。
「重役会議に出ると、そこには自分のルール、エリック(シュミット氏)のルール、ラリー(ペイジ氏)のルール、セルゲイ(ブリン氏)のルール、そして誰か別の重役のルールが混在していた」とも述べられていて、グーグルを去ったあとは、シュミット氏とともにグーグルを語る本を書くつもりだともおっしゃっています。
多くのシリコンバレーの企業と同様、そこには、技術的な観点から物を言うエンジニアリング陣営と、経営の観点から物を言うオペレーション陣営の駆け引きがあったのでしょう。
蝶のように形を変えるグーグルが次のフォーカスと目しているのは、ソーシャル。この分野では、「グーグル・バズ(Google Buzz)」を始めてはみたものの、フェイスブックなどの競合に先を越されたままの状況となっています。
そして、4月初頭に再選キャンペーンを始めたオバマ大統領が、問答形式のタウンホールミーティングの場に選んだのも「フェイスブック・ライヴ(Facebook Live)」。
4月20日、サンフランシスコに降り立ったオバマさんは、パロアルトにあるフェイスブック本社に直行し、そこから再選に向けた財政ビジョンのライヴストリーミングを行いました。(質疑応答の模様は、ホワイトハウスとフェイスブックのウェブサイトで中継。写真は、ビシッと上着を着て登場したフェイスブックのCEOマーク・ザッカーバーグ氏に向かって「窮屈だろうから、ジャケットは脱いでいいよ」とうながし会場の笑いを誘うオバマ大統領。)
そんなこんなで、ソーシャルの分野ではちょっと出遅れているグーグル。そこで、4月の組織変更にともない、従業員のボーナスの4分の1は「ソーシャル分野の功績で査定する」とも伝えられています。
グーグル、フェイスブック、2社のスタート地点はまったく異なりますが、これから目指すところは同じなのかもしれません。つまり、「あなたのバーチュアルライフ(仮想世界での生活)は全部わたしが面倒みてさしあげましょう」という、どでかい構想。
果たして、そんなことが可能なのかはわかりませんが、夢はでっかく持つ。少なくとも、これが、何でもトライしてみるグーグル精神なのかもしれません。
そして、ここ一、二年は、グーグル精神の源とも言えるペイジ氏の采配ぶりが楽しみになってくるでしょう。
夏来 潤(なつき じゅん)
カリフォルニアの今は?
- 2011年04月14日
- Life in California, 日常生活, 自然・環境
この「ライフinカリフォルニア」のコーナーでは、前回、前々回と、太平洋を越えてカリフォルニアに放射性物質がやって来るのではないかと、人々が神経質になっているお話をいたしました。
そして、前回のお話の最後では、出張中の東京で大地震に遭遇した連れ合いが、まだアメリカに戻っていないとも書きました。
お陰さまで、次の日曜日には無事に日本から戻ってまいりましたので、ホッとしたところです。(そして、大好きな日本のパンが食べられたので大満足なのでした。)
もうその頃になると、サンフランシスコ空港では日本からの乗客の放射線測定なんてやっていなかったそうです。きっと、一日くらいやってみて「無駄だ」と思われたので、すぐに止めたのでしょう。
あまり長くやっていると、「人権侵害である!」と、非難が上がりそうでもありますしね。
(サンフランシスコ空港が乗客の放射線測定を始めた日には、ロスアンジェルス空港は、測定なんてやっていなかったそうです。その後は、南でもやってみたのでしょうか?)
でも、街の声は、両方ありましたね。ひとつは、「測定なんて必要ないんじゃない?」というもの。
そして、もうひとつは、「日本から戻って来る乗客は、サンフランシスコに到着したあと全米に散っていくので、ちゃんと調べて欲しい」というもの。
まあ、アメリカ人の場合は、自分が知らないこと(知らされていないこと)が一番イヤなので、「ちゃんと調べて、問題があったら発表しろ!」という意見も理解できないわけではありませんが。
たとえば、「遺伝子組み換え」の作物が良い例となるでしょうか。多くのアメリカ人に言わせると、「遺伝子組み換え種」自体が悪いのではなくて、それが自分の口に入る可能性があることを知らされていないのが悪い、という論理になるのです。ですから、遺伝子組み換え作物が使われている場合は、それをちゃんと表示しろ! と主張するのですね。それを口にするか、しないかは、消費者である自分自身が判断するからと。
前回のお話では、バークレー(カリフォルニア大学バークレー校)で測定した雨水には、放射線物質は入っていなかったことも付記いたしました。が、同じくこの日(3月18日)サンフランシスコで採取された空気からは、微量ながらも放射線物質が測定されたということです。
けれども、なんともトボケた話で、米国環境保護庁(the U. S. Environmental Protection Agency)がこのニュースを発表したのは、採取から4日後(3月22日)のこと。
その頃には、カリフォルニアの住民や報道陣の頭の中では「大気中の放射線量」なんて陰が薄くなっていて、このニュースは、そんなにセンセーショナルな話題とはなりませんでした。
それに、環境保護庁も強調していたように、見つかったのはごく微量。
「カリフォルニア州とワシントン州で測定された量は、問題にすべきレベルの数十万分の一から数百万分の一の低さ(The radiation levels … are hundreds of thousands to millions of times below levels of concern)」ということです。
平均的なアメリカ人は、毎日、これよりも10万倍高い放射線を自然界から浴びているんですよ。飛行機の国際線で往復した方が10万倍高い放射線を浴びるんですよ、と合わせて力説していたのでした。
そうそう、環境保護庁の発表が遅れたのは、べつに調査結果を隠していたわけではなくて、調査自体に時間がかかるんだそうです。
なんでも、だいたいの数値というのは現地ですぐにわかるそうですが、どの放射性物質がどのくらい、といった精密なデータを得るには、アラバマ州にある国の研究機関にサンプルを送らなければならないそうです。
ですから、地元のカリフォルニア大学が一日でわかるところが、環境保護庁にとっては数日かかる、という仕組みなんだそうです。
ちなみに、このときのサンフランシスコの測定結果は、以下のとおりです。(環境保護庁の3月22日付発表より。単位は、一立方メートル当たりのピコキュリー)
セシウム(Cesium)-137: 0.0013
テルル(Tellurium)-132: 0.0075
ヨウ素(Iodine)-132: 0.0066
ヨウ素(Iodine)-131: 0.068
それから、全米各地の最新データは、こちらの環境保護庁のウェブサイトで公開されております。
分析結果は「大気、雨水、牛乳、飲み水」の順番になっていて、州ごとの観測点での結果が掲載されています。たとえば、カリフォルニアで大気の観測点となっているのは、アナハイム、リヴァーサイド、サンバーナーディノ、サンフランシスコの4箇所です。
(こちらのサイトでは、「お客さま満足度調査にご協力ください」というメッセージ画面が出てくる場合がありますが、「No Thanks(いえ、結構です)」のボタンを押すと、すぐに消えてくれます。政府機関だって、顧客サービスにがんばっているんですね!)
というわけで、ようやくカリフォルニアの人々も、太平洋を越えて影響が少ないことを理解し、落ち着きを取り戻したわけではあります。が、今度は、べつの心配が頭をもたげてくるのです。
そう、ご察しのとおり、カリフォルニアにある二つの原子力発電所。
現在、南カリフォルニアで二つの原子力発電所が稼働していて、これがまた、地震の起きそうな断層の近くに建っているのですよ。そんな例は、全米でもここだけ!
ひとつは、サンルイスオビスポ郡にあるディアブロ・キャニヨン発電所(Diablo Canyon Power Plant)。もうひとつは、サンディエゴ郡にあるサン・オノフレ原子力発電所(the San Onofre Nuclear Generating Station)。
どちらも、風光明媚な海岸線に建っていて、太平洋の海原(うなばら)を見渡せる絶景の場所なのです。(写真は、ディアブロ・キャニヨン発電所近くのアヴィラ・ビーチ(Avila Beach)。海には長い埠頭が突き出ていて、先端にはレストランと魚市場があるのです。)
どうしてそんな場所に原子力発電所が建ったのかは存じませんが、とくにディアブロ・キャニヨンの方は、大きな地震を起こすことで有名なサンアンドレアス断層(the San Andreas Fault)が近くを走っています。
この巨大な断層は、カリフォルニア州を北から南へと縦断し、サンフランシスコの乗っかった内陸側のプレートは南東へ、ロスアンジェルスの乗っかった海側のプレートは北西へと、毎年、3センチほど動いているのです。
「だから、いずれはサンフランシスコとロスアンジェルスはお隣同士になるのさ」というのが、わたしが大学の地質学の先生から学んだ唯一のお話でしょうか。
そして、1973年にディアブロ・キャニヨン発電所が完成したあとは、すぐ近くの海底(発電所の4キロ沖)にホズグリー断層(the Hosgri Fault)という活断層も発見されています。
ホズグリー断層が見つかったあと、発電所の建物は強化され、マグニチュード7.5の地震にも耐えられるようになったということです。
福島第一原子力発電所で問題が発生したあと、ディアブロ・キャニヨンの持ち主である PG&E(通称ピージーイー:パシフィック・ガス&電力の略称、おもに北カリフォルニアに電力・ガスを供給)は、こう力説します。
マグニチュード7.5の地震のあとに、津波が来たって大丈夫! ちゃんと、補強工事だってやってるし、なんたって発電所は海抜26メートルの場所にあるからね!
でも、それを聞いている方は、なかなか安心はできないのです。
だって、もしマグニチュード9.0の地震が来たらどうするの?
津波がもっと高かったらどうするの?
それに、今まで誰も知らなかった活断層が近くに見つかったらどうするの? 現に、2008年には、ショアライン断層(the Shoreline Fault)という誰も知らなかった断層が間近(炉心から600メートルの海底)に見つかったじゃないの!!
と言うよりも、発電所が建っている場所は「断層の宝庫」とも言える地域で、近隣には、科学者が認識しているだけで十数の断層が存在するのです。
マグニチュード6以上の地震も起きていて、まるで、あちらこちらに地雷が埋まっているような状況でしょうか。
(こちらの図は、PG&Eが発表したショアライン断層に関する報告書より抜粋。DCPPというのがディアブロ・キャニヨン発電所で、赤い線が海岸沿いにあるショアライン断層です。)
そんなわけで、発電所の安全性に関してはふつふつと疑問が湧いてくるわけですが、現在、ディアブロ・キャニヨンを所有する PG&Eは、操業認可の更新申請をする前に、地下の構造を徹底的に3次元解析するとしています。
そして、周辺住民や地域の政治家からも、「国の原子力規制委員会(the Nuclear Regulatory Commission)は、ちゃんとした地質調査が終わったあとに、じっくりと操業認可の更新を審議すべきである」という声が上がっています。
周辺には、アヴィラ・ビーチやモロ・ベイ(Morro Bay)といった有名なビーチもありますし、ここを母港とする漁船もたくさん操業しています。発電所の建つ海岸線は、人々の生活や心の糧(かて)でもあるのです。
PG&Eも、地域の憂慮は十分に理解しているみたいで、4月13日には周辺住民を招いて、発電所のオープンハウス(外部の人に施設を公開するイベント)を開いています。
先日、カリフォルニア選出のバーバラ・ボクサー上院議員は、原子力に関する議会の公聴会でこんな発言をしています。
「自然界がなし得ることを考えると、わたしたちはもっと謙虚でなくてはならない(We are not humble enough in the face of what Mother Nature can do.)」
この言葉は、いろんな災害に対する人の無力さを如実に表していると思うのです。
そして、このことは、どんな立場の人だって心の底ではわかっているのかもしれません。
今は、カリフォルニアの大部分の住民は、原子力発電所に関して静観しているようではあります。国の指導者であるオバマ大統領は「原子力推進派」でもありますし、そんなこんなで、きわだった批判も聞こえてはいないように思います。
けれども、そんなデリケートな均衡も、何かが起きれば、すぐに崩れてしまうのかもしれませんね。
アメリカに生活していて、おもしろいなぁと思う表現はたくさんあります。今日は、そんなお話をいたしましょう。
まず、表題になっている Don’t kill the messenger.
なにやら物騒なお話ですが、訳して「メッセンジャー(代弁者)を殺すな」。これは、結構そのままの意味かもしれません。
もちろん、「殺す」というのは比喩ですが、実際の意味は「メッセンジャーをいじめるな」といった感じでしょうか。
よくあるでしょう。別の人のメッセージを伝えているメッセンジャーに対して、内容が気に食わないからって、目くじらを立てることが。
たとえば、記者会見などもそうかもしれませんね。誰か別の人が問題を調査したあと、その結果を調査員の代わりにスポークスパーソンが発表したとします。でも、聞いている側の記者たちは、「メッセンジャー」であるはずのスポークスパーソンに、けんか腰でかみつく・・・なんて場面をテレビで観たりしますよね。
そういうとき、かみついている人をたしなめるために、こう言うのです。
Don’t kill the messenger.
「メッセンジャーをいじめてはいけませんよ。あなたがかみつく相手は、代弁者ではなく、メッセージをつくった張本人ではありませんか?」と。
実は、わたし自身にも、この言葉はとっても印象深いものなのです。以前、シリコンバレーのスタートアップ会社(起業したばかりの小さな会社)に勤めていたとき、社長秘書が、何か良からぬ知らせを伝えにやって来たのです。
今となっては、それが何だったかも覚えていませんが、それを聞いて、わたしと同僚はブーブーと不平をもらし始めたのです。が、そこで社長秘書はピシャリとひとこと。
Don’t kill the messenger!
「わたしは単にメッセージを伝えに来ただけなのよ!」
それを聞いて、ふと我に返り、「あ、彼女に対して悪いことをしたな」と深く反省したのでした。だって、悪い知らせを考え付いたのは、彼女ではなく、社長の方なのですからね!
ちなみに、物騒な動詞 kill(殺す)の代わりに、shoot(撃つ)を使っても同じような意味になります。(ま、こちらも物騒ではありますが・・・)
Don’t shoot the messenger.
「メッセンジャーを撃つな(攻撃するな、非難するな)」
なんでも、シェイクスピアの時代から使われていた由緒正しい言葉のようですよ。きっと、その頃から、メッセンジャーに食ってかかる習慣はあったのでしょうね。
というわけで、Don’t kill (shoot) the messenger には、「あなたがやっていることは、お門違いですよ」といったニュアンスがあるわけですが、似たような表現に、こんなものがあります。
You’re barking at the wrong tree.
直訳すると、「あなたは間違った木に向かって吠えている」ということですが、これは、「あなたは勘違いをしている」「ミスをおかしている」という意味になります。
動詞 bark(吠える)からご察しのとおり、語源は「猟犬」だったようですね。
ここに獲物が隠れているに違いないと勘違いした猟犬が、まったく見当違いの木に向かって吠えている、という構図。
そこから、「まったく思い違いをしている」という意味に転化したようです。
主語は、you(あなた)の代わりに、he(彼)なんかでも大丈夫だと思います。
He’s barking at the wrong tree.
「彼は、まったく見当違いをしているよ」
あるドラマを観ていたら、こんなバリエーションにも出くわしました。
We’re not barking at the wrong tree. We’re only barking at the wrong branch.
さしずめ、「わたしたちはまったく見当違いをしているわけではない。ちょっとだけ間違っているだけだ」といったところでしょうか。(直訳すると、「わたしたちは間違った木に吠えているのではない。間違った枝に吠えているだけだ」となりますね。)
こちらのバリエーションは、1990年頃に大人気だったドラマシリーズ『Murder, She Wrote(ジェシカおばさんの事件簿)』の再放送に出てきた表現ですが、the wrong tree(間違った木)というところを the wrong branch(間違った枝)と置き換えているところがおしゃれですよね。木よりも枝の方が小さな勘違い、というわけです。
ご存じのように、「ジェシカおばさん」はミステリー作家という設定なので、このシリーズの作品には、おしゃれな表現もたくさん出てくるのです。
ちなみに、「間違った枝」と表現したのには、真犯人は怪しげな「妻」ではなく、「夫」の方だったこともあるようですね。夫婦とは、木の幹は同じなのです。
Don’t kill (shoot) the messenger も、You’re barking at the wrong tree も、どちらかというと、仕事場みたいな、理屈が優先する「大人の場」で使われる表現となります。
そして、同じように大人の場で使われる表現に、こんなものもありますね。
Don’t shoot yourself in the foot.
またまた、動詞 shoot(撃つ)の登場ですが、直訳すると「自分の足を撃つな」というわけです。
実際には、「自分の不利になるような、愚かなことはするな」という意味になります。
自分で良いと信じてやっていることでも、裏目に出ることもあるんだよ、という戒め(いましめ)なのですね。
たとえば、パーティーでヘベレケに酔っぱらって、初めて会ったコと仲良く撮った写真をインターネットに掲載してみるとか、勢いに乗ってやったことが、あとで自分の足を引っ張りそうなことってありますよね。
(写真を見つけたガールフレンドには嫌われそうだし、冷静に考えると、あまり良いことはなさそうです。)
そういうとき、まわりの人は、こう忠告してあげるのです。
Don’t shoot yourself in the foot.
「そんなバカなことをしちゃダメだよ」
日本語でも、「墓穴を掘る」という言葉がありますよね。なんとも直接的な表現ですが、墓の穴を自分で掘っている(自分に不利なことをしている、破滅の道に向かっている)というわけです。
英語の「自分の足を撃つな」というのも、ちょうど同じニュアンスとなりますでしょうか。もうちょっと「アドバイス性」の強いものではありますが。
まあ、古今東西、まわりの人が何かアドバイスしてくれたら、しっかりと耳を傾けなければなりませんよね!
追記: 今回の英語のお話は、とくに「写真をどうしよう?」と悩んだのですが、4年ほど前に旅したトルコの写真を使うことにいたしました。
1枚目は、イスタンブールにあるオスマン帝国の城、トプカプ宮殿に陳列される剣。トルコ式の剣で、16~17世紀のものだそうです。
2枚目は、トプカプ宮殿の静かな中庭。15世紀からの静けさが広がるのです。
3枚目は、同じくイスタンブールにあるドルマバフチェ宮殿の衛兵。こちらの宮殿は、トプカプ宮殿が手狭になったため、19世紀に建てられたヨーロッパ色の濃い宮殿です。現在も、トルコ共和国政府の催しが開かれることがあるそうです。
このトルコ旅行については、エッセイを3つ書いたことがあるのですが、もし興味をお持ちのようでしたら、こちらへどうぞ。
大リーグの「日本デー」
- 2011年04月06日
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4月3日。4月最初の日曜日は、それまで続いていた雨季を追い払うように、カラリと晴れ渡り、カリフォルニアらしい気候となりました。
まさに「野球日和」のこの日、オークランド・アスレチックス(通称A’s)とシアトル・マリナーズのシーズンオープン3連戦・最終試合が開かれました。金曜日に始まったばかりのA’sの今シーズンは、いまだ勝ちなし。
今季から、松井秀喜選手が加わったこともあり、ここはぜひ勝ってほしいところです。
この日はまた、「日本デー(Japanese Heritage Day、日本伝統の日)」にもなっていて、A’sの松井選手、マリナーズのイチロー選手、そして、A’sの日系キャッチャー、カート・スズキ選手と、日本にゆかりのある選手たちをたたえる日でもありました。
せっかく松井選手が加わったのだから、シーズン最初の日曜日を「日本デー」にしようとA’sは前から計画していたのですが、3月に起きた東北沖大地震・大津波を受けて、「日本を助ける日」にもしようじゃないかと、計画を修正いたしました。
ひとりひとりのチケット売上から1ドルずつ、合計5万ドル。そして、シーズン最初の試合に松井選手とイチロー選手が着ていたユニフォームをサイン入りでオークションにかけて、そこから1万ドルちょっと。合わせて6万5千ドル(およそ550万円)がA’sによって寄付されたのでした。(オークションでは、なぜだか敵方のイチロー選手のユニフォームがちょっと高く落札されたのでした。)
A’sだけではなく、協賛となっている富士通が1億円を寄付したり、サンマテオのIT企業ネットスイートが従業員から3万ドル(およそ250万円)を募ったりと、さまざまな企業が義援金集めに協力したのでした。みんなが協力していることがわかると、協力の輪はどんどん広がるのです。
この「日本デー」は、威勢良く、和太鼓で始まりました。オークランドの北にあるエメリーヴィルという街から、和太鼓のチーム(Taiko Dojo)がさっそうと登場です。
そして、松井選手が日本を代表してA’sからの義援金を受け取ったあとは、被災した方々を思い、スタジアムのみんなで黙祷(moment of silence)を捧げます。
電光掲示板には、「外国のみなさん、助けてくださってありがとう」と、被災した方々の感謝の言葉が映像で流れます。画面には英語の字幕が付けられていますが、感謝の言葉や復興の決意に翻訳は必要ないのかもしれません。
この日は、国歌斉唱(singing the national anthem)も日系の男性コーラスでした。みなさん黒いタキシードに赤いポケットチーフと、おしゃれな正装で美声を披露なさいます。
斉唱が終わる頃には、必死にこらえていた涙がほほをつっと流れますが、この日は明るい昼間の試合。大きめのサングラスが、うまく隠してくれました。
そんな明るいデーゲームの山場は、2回裏にやって来ます。
この回の先頭打者・松井選手(5番の指名打者)が、二塁打を放ったのです。レフトのラインぎりぎりで、まさに「入ってくれた!」といった感じでした。
なんと、これがA’sとして初ヒット。そして、日米通算2500安打!
電光掲示板には「おめでとう」の文字がともされ、スタジアムの拍手喝采に松井選手は笑顔で答えます。
けれども、残念ながら、この二塁打は得点にはつながりません。次のバッター・スズキ選手がライト方向に打ったのですが、これをイチローがキャッチし、ワンバウンドで三塁に投げ、三塁に向かう松井を刺してしまったのです。
せっかくの松井の二塁打も、イチローの強肩を目立たせる結果となったのでした。
しかし、7回裏には、松井が名誉挽回。ワンアウト満塁で登場した松井は、ライト方向に浅いヒットを打ち、イチローの目の前でポトリと落ちるのです。
さすがに動作が機敏なイチローですので、すぐに二塁に投げますが、その間にA’s4点目の得点が入ります。これが、松井の今季初打点。
さらに、次のスズキ選手へのデッドボールで押し出し、エリス選手への四球で押し出し、三塁に進んだ松井選手は、次の犠牲フライで自らも7点目のホームを踏むのです。
終わってみれば、マリナーズは、2回表のランガーハンズ選手のホームランひとつ。7対1で、A’sは今シーズン初勝利を飾ったのでした。
前日の土曜日のナイターでは、イチロー選手は内野安打二つを打って、マリナーズの歴代打撃リーダーとなりました。(この晩、2248打目のヒットが、エドガー・マルティネス選手の持つ記録を一打更新。マリナーズ在籍10年目の快挙となったのです。)
けれども、この日曜日のデーゲームでは、第一打席に、渋いレフト前ヒットを打っただけで、その後はヒットなし。7回表にやって来た「1死二、三塁」という絶好のチャンスにも、快音は聞かれませんでした。
まあ、この日の主役は、A’sに移ったばかりの松井選手。地元のファンも、彼が初ヒットを打ち、記録をつくってくれたので、上機嫌で球場をあとにしたのでした。
「ベイエリアにはこんなに日本人がいたかしら?」と思うくらい、日本人ファンも多かったのですが、そんな日本ファンにとっては、松井、イチロー、どちらが活躍しても嬉しいのです。
そういえば、「日本デー」にちなんで、3回裏のA’sの攻撃では、日本人の子が日本語で打者を紹介したのですが、この回の先頭打者は、よりによって「Kouzmanoff(クーズマノフ)選手」。彼の名前をうまく発音できなかったのですが、かえってそれがスタジアムのみんなを笑顔に誘ってくれました。
この回には、「DeJesus(デヘスース)選手」も登場し、アメリカの大リーグ選手のカラフルさを強調するのです。(いまや、大リーグ選手の28パーセントが外国生まれだそうで、なんとなく発音が難しい名前も多いのです。)
それまで低迷していたA’sの打撃は、この回を機に活気づいたので、かわいい日本語の紹介が原動力となったのかもしれません。そして、この日新調したA’sの「黄色(retro bright gold)」のユニフォームも、鮮やかなラッキーカラーとなったのかもしれません。
それにしても、A’sとマリナーズは、同じアメリカンリーグの西部地区。これから、16試合も対戦するので、またオークランドに観に行こうかなとも思っています。
だって、「ボールゲーム(ball game、野球のニックネーム)」は、楽しいですものね!
シリコンバレーの祭典: アンドロイド開発キャンプ
- 2011年03月31日
- 業界情報
Vol. 140
シリコンバレーの祭典: アンドロイド開発キャンプ
今月は、シリコンバレーらしく、3月初めに開かれたアンドロイドの開発キャンプのお話をいたしましょう。
文中には「災害」対策の発案なども出てきますが、このお話は、東北沖大地震・大津波が起きる前に書かれたものです。決して興味本位で話題を選んだわけではありません。
震災で身内や友人を亡くされた方々には、心からお悔やみ申し上げます。また、被災された方々が一日も早く元の生活に戻れますようにと、切に願っております。
<アンドロイド・アプリの開発キャンプ>
3月最初の週末。雨が明けきらない曇天の中、サンノゼ北部に開発のギーク(おたく)たちが集いました。スマートフォンOS「アンドロイド(Android)」向けのアプリケーションをつくろうじゃないかと、開発キャンプが開かれたのです。
その名も「シリコンバレー・アンドロイド開発キャンプ(SV Android DevCamp)」。
シリコンバレーのアンドロイド開発者グループ(Silicon Valley Android Developers Meetup)が主催し、協賛はオンライン決済サービスのPayPal(ペイパル:現在は世界最大のオークションサイトeBayの傘下)となっています。
同グループは、定期的に技術者の集いや一般向けの催しを開いているそうですが、なんでも「今回は、ぜひうちで開発キャンプを開いてちょうだい」と、PayPalの方からアプローチがあったそうです。
これからアメリカでも、スマートフォンを使って、お金のやり取りが増えて行く。そんな現状を考えると、早い段階からモバイルの支払いシステムだっておさえておきたい! との動機が働いたのでしょう。
だって、いまやパソコンを使った個人決済は、PayPal、アメリカ最大のオンラインショップAmazon(アマゾン)、iTunes(アイチューンズ)ストアを運営するアップルなど、ごく少数が駆逐するも同然。成長曲線をキープするには、モバイル分野への進出は不可欠なのです。
このアンドロイド開発キャンプは、金曜日の午後から日曜日の午後までの2日半で、どれだけ素晴らしいアプリケーションがつくれるかをグループで競うもの。
「開発キャンプ」と名付けられていますが、グーグルなんかで開かれる開発キャンプとは違って、午前零時には建物が封鎖され、自宅に帰って睡眠をとる形式で行われました。(だって、放っておくと、みなさん寝ないでコードを書き続けますからね。)
そして、2日半の成果は、最終日の日曜日に各グループがお披露目するのですが、この発表会に「聴衆」として参加してみたのでした。
場所は、PayPalの講堂。まず、入ったら自分の名前を名札に書き、名札を付けて登録は完了(いちおう、事前にオンライン登録はしていますが、当日はチェックなしでした)。つまるところ、来る者は拒まず。誰だって参加できるのです。
入り口では、ひとり5ドルを寄付するのですが、ギークたちの食べ物代といいながら、その辺にベーグルやらサンドイッチやらが広がっているので、誰でも勝手に食べられるのです。アメリカ人の大好きなドーナツが見あたらなかったが、ちょっと残念ではありましたが。(やはり、ギークは健康志向?)
ふと、窓に視線を向けると、「わたし仕事探してます」と「わが社は人を雇ってます」の2枚の張り紙があって、自由に連絡先を書き込めるようになっています。
なるほど、みなさん、週末に開発コンテストに参加しようとするくらいですから、かなりのスキルと情熱をお持ちなのでしょう。ここで新たな勤め先が見つかれば、ご本人にとっても雇い主にとっても、願ったり叶ったりですね。
時間前に辺りをうろちょろしていると、講堂のまわりの会議室は「開発部屋」になっていて、丸テーブルに向かって開発中のグループや、仲間から離れてひとり静かにパソコンに向かう人など、いろんなスタイルの技術者を見かけました。(でも、みなさん一様にアップルのMacBookを愛用しているところがおもしろい)。
中には、コンテストに参加するお父さんを激励するために、奥さんと子供が駆けつけたファミリーも見かけました。そうやって、子供のうちから開発の雰囲気を肌で感じ取っていくのでしょう。
さて、時間が来ると講堂に集まり、発表会が始まります。ここでは、発表者も聴衆も、実によりどりみどり。
白人、インド系、中国系と民族はバラバラだし、年齢層もバラバラ。男も女も入り混じり、まさに「アンドロイドに興味があれば誰でもOK」といった雰囲気です。
コードを書くことに命をかけた白人のおじさんの隣では、英語になまりのあるインド系の若者がプレゼンを分担します。女性エンジニアもたくさん参加していますので、彼女たちの声は会場によく響きます。
けれども、各グループの持ち時間はわずか3分なので、時間内に構想を説明し、プロトタイプ(試作プログラム)を動かしてみせるのは、なかなか至難の業なのです。
持ち時間を長くすると、プレゼンに凝り過ぎてダラダラと長引くだけなので、ここは、イエローカードできっちりと時間厳守。それが、シリコンバレースタイルなのです。
そして、もうひとつのシリコンバレースタイルは、発表会に投資家が参加していること。ベンチャーキャピタリスト(起業間もない会社に長期投資する機関投資家)二人とエンジェル(当初の起業資金を提供する個人投資家)二人が審査員として参加していて、願わくは将来性のあるビジネスの種を見つけようじゃないかと、目を光らせているのです。
さて、発表会には全部で27のチームがこぎ着けたのですが、どのチームも、さすがに発想はおもしろいものでした。
まあ、発想を作品に転換するのはなかなか難しいところではありますが、中でも、アイディアも出来映えもいいなと思ったものがありましたので、4チームを簡単にご紹介いたしましょう。
まずは、協賛者のPayPalの支払いシステムを利用したものの中で、「クーパル(Coupal)」というのがありました。
割引券のクーポン(Coupon)とPayPalをかけた名前ですが、ちょうど、ソーシャルネットワークとグルーポン(Groupon:共同購入型クーポンサイト)をブレンドしたようなものなのです。
スマートフォンでゲットしたクーポンを店舗で利用したあと、このクーポンをフェイスブック(Facebook:世界最大のソーシャルネットワーク)のお友達に紹介します。もしお友達が実際にクーポンを利用したら、紹介した自分にもいくらかキックバック(払い戻し)があるという、ちょっと嬉しいサービスなのです。そう、たくさんのお友達が使えば、それだけ実入りも大きくなるという仕組み。
この手のお金がからむサービスは、ユーザの信用を得て、大規模に稼働させるのは難しい部分もありますが、「クーパル」にはキックバックという立派なご褒美がありますので、「使ってみようかな?」と動機付けになるのかもしれません。
同じようにPayPalを利用しながらも、ちょっと毛色の変わったものに「グッドアクセス(Good Access)」というのがありました。ある人にアプローチしたいときに利用するアプリケーションです。
世の中には、会ってみたい有名人がたくさんいるでしょう。でも、いきなり電話やメールをしたって、取り合ってはもらえません。そんなとき、この「グッドアクセス」を利用すると、5分、10分、15分と、その方とお会いできたり、電話できたりするのです。
こちら側は、PayPalを使って所定の料金を支払うのですが、相手の方は、それを懐に納めるのではなく、自分の好きな慈善団体(favorite charity)に寄付するのがミソなのです。
このグループのプレゼンでは、ベンチャーキャピタリストの超有名人ジョン・ドーア氏(先月号・第2話「オバマさんはシリコンバレーがお好き」で登場した方)が、引き合いに出されました。
彼とのミーティングは15分で100ドル。スマートフォン画面には、ドーアさんの空いている日時がリストされ、自分が好きな日時を選ぶと、PayPalを使って自動的に100ドルが支払われます。そして、その100ドルは、ドーアさんが指定した全米ガン協会に寄付されるのです。
自分もドーアさんにお会いできて嬉しいし、ガン協会だって、一度に100ドルも寄付してもらって嬉しいし、有名人の人助けとしては、なかなか合理的ではありませんか。このサービスが実現されれば、知名度はかなり上がるかもしれません。
ちなみに、シリコンバレーの裏情報によると、実物のドーアさんはデニーズ(Denny’s)がえらくお気に入りだそうなので、デニーズでのランチミーティングにすると喜ばれるのかもしれません。(アメリカの超金持ちは、変なところで質素だったりするのですね。)
さて、協賛者のPayPalとは無関係のものにも、優れた発想のものがありました。
たとえば、「ASL辞書(ASL Dictionary)」。ASLというのはAmerican Sign Languageの略称で、アメリカで広く使われている「手話」のことです。
聴覚に障害のある方々にとって、手話は大事なコミュニケーションの手段ですが、いかんせん、大多数の人は手話がわからない。だから、「誰でも少しは手話を理解できればいいな」という発想で生まれた、辞書風のアプリケーションなのです。
なんでも、リーダー格のエンジニアのお父さんは耳が不自由なそうなので、日々の生活から生まれた身近な発想だったのでしょう。
まだまだ完成品にはほど遠いプロトタイプではありましたが、たとえば、こちらの人間のイラスト。頭とか、胸とか、各部位を画面上でタッチすると、その部位を使った手話と意味が出てきます。
一方、音声認識を使って、声でインプットした単語から手話のサインに変換することもできます。プレゼンで使われた言葉は、「アンドロイド」。リーダー格のエンジニアが両手を頭上につんつんと突き出す、そんな映像が画面に出ていました。
実用化を考えると、これからどんどん語彙を増やすという命題は残されていますが、「ユーザ自身が新しい語彙をインプットして、辞書の収録語数を増やせるようにすればいい」と、審判員のベンチャーキャピタリストの助言もありました。
今は、パソコンメールやケータイメールと、視覚によるコミュニケーションもずいぶんと発達してはいますが、手話にチャレンジしてみたいという人には、とても便利なアプリケーションになることでしょう。
そして、カリフォルニア独特の発想としては、「Disaster Radio」というのがありました。Disasterとは「災害」のことで、つまり「災害ラジオ」というネーミング。
ご存じのように、カリフォルニアは、山火事などの自然災害の多い場所。ひとたび山がぼんぼん燃え始めたら、素早く、効率的に攻めなければ、周辺に燃え広がってしまいます。
そのため、延焼しそうな箇所の草木をなぎ倒すとか、こちらが先に火を放っておいて、迫り来る火を迎え撃つとか、そんな攻め方が有効となるのです。
けれども、現在のやり方には問題があって、山火事と闘う消防士たちがリアルタイムの情報を持っていないことが足かせともなっています。山火事は、ちょっとした風向きの変化で進行方向が変わるもの。まさに生きた魔物と闘っているも同然なのです。
そこで、地上に散らばった消防士や消火ヘリコプター/固定翼機のパイロットがスマートフォンを持ち、リアルタイムに更新される延焼状況の地図を参考にしながら消火活動ができればいいな、といった発想で生まれたのが「災害ラジオ」です。
こちらのピンぼけ写真は、山火事の延焼範囲を示した地図ですが、これはNASA(米航空宇宙局)とグーグルの技術の結晶ともいえるものです。
NASAは「Ikhana(イクハナ)」という無人偵察機(米空軍の無人攻撃機「MQ-9 リーパー」の前身)を持っていて、Ikhanaが上空から撮影した熱赤外線映像は、通信衛星を介してシリコンバレーのNASAエイムズ研究所に送られ、ここでグーグルアース(Google Earth)の地図と合成されたあと、現地の災害指令本部に送られる仕組みになっています。
熱赤外線映像を使うと、煙が濃い場所でも温度差によって延焼範囲が明確にわかるのですが、このシステムが広く導入されると、わずか10分で延焼の最新情報が現地に送られるようになるのです。
このようなほぼリアルタイムの情報は、消火活動に携わる全員のスマートフォンに配布され、火の前線を効率的に抑えられるようになるのです。
さらに、周辺住民のために「避難経路(escape route)」を示したり、付近に延焼があれば、消防署に逐一通報できたり、また、災害を知った人が義援金をPayPalで送金できたりと、「災害ラジオ」には、いろんな機能が拡張できる構想となっているのです。
というわけで、無事に27チームが発表を終えたあとは、審査員4人がベストアプリ賞を選んだり、聴衆が自分の好きなアプリを投票したりと、それなりにコンテスト的な一面もあったのでした。
上記4つのチームは、わたし自身の独断と偏見で選んでみましたが、実は、聴衆が選んだトップ3は、1位が「災害ラジオ」、2位が「クーパル」、3位が「グッドアクセス」でしたので、わたしの感覚もまんざら捨てたものではないでしょう。
ちなみに、審査員の「金賞」には「クーパル」、「銅賞」には「グッドアクセス」、「ベスト・メッシュアップ(多機能統合)賞」には「災害ラジオ」、「審査員賞」には「ASL辞書」が選ばれたのでした。
そして、審査員のベンチャーキャピタリストとエンジェルのコンセンサスは? というと、「アイディアは素晴らしいものが多いが、単体ではビジネスになりにくいので、二つをくっ付けたら可能性が出てくるものがたくさんあった」とのことでした。
なるほど、こんなときに、常日頃いろんな新規ビジネスに触れ、建設的なアドバイスをしてくれるベンチャーキャピタリストやエンジェルといった仲介役が生きてくるわけですね!
<シリコンバレーの肥沃な土壌>
というわけで、ある日曜日を有意義に過ごさせていただきましたが、この開発コンテストの会場が居心地の良いものだったことが深く印象に残ったのでした。
久しぶりにギークたちの健康的なエネルギーに触れたとでもいいましょうか、皆が同じ周波数のエネルギーを発していたといいましょうか、その場にいて、とても気持ちが良かったのです。
そう、誰の足を引っぱり合うわけでもなく、皆が互いのアイディアや開発スキルを認め合っている。そんな「正」のエネルギーに満ち満ちていたのです。
そして、この会場が建つ場所も、正のエネルギーに満ちているところなのですよ。
シリコンバレー全体がそうであったように、このサンノゼ北部の周辺には、ひと昔前まで農場や果樹園が広がっていました。
近くのブロコウ・ロード(Brokaw Road)などは、ここに入植したブロコウさん一家の農場があったと、知り合いのおばあちゃんに聞いたことがあります。なんでも、この日系おばあちゃんの一家は、ブロコウさんの農場で働いていたこともあったとか。
その頃は、一面に畑が広がり、鉄道のサンタクララ駅に向かうブロコウ・ロードは、立派な楡(にれ)の木に縁取りされていたのでしょう。そして、作物が実を結ぶ頃になると、辺りは収穫の喜びに満ちあふれていたことでしょう。シリコンバレーの昔のニックネーム「喜びの谷(the Valley of Heart’s Delight)」のままに。
時代は変わり、今はブロコウ・ロードを突っ切ってミネタ・サンノゼ空港の滑走路が走り、空港のまわりはIT企業が集中する地区となりました。
そして、IT企業にはギークたちが集い、新しいビジネスを成功させようと、皆がしのぎを削っているのです。
どんな分野であろうと、新しいことを始めるのは容易ではありません。何かしら素晴らしいものをつくり上げたとしても、それで食べていける保証などないのですから。
たとえば、アンドロイドのアプリケーションをつくってみたら、それが人気アプリとなり、100万人のユーザがダウンロードしたとしましょう。
最初は「お試し」で無料ダウンロードを提供したのですが、ユーザの5パーセントが5ドルを払って「プレミアム版」を購入したとします。
実に5万人がお金を払ってくれたわけですが、それで、収入はわずか25万ドル(およそ2千万円)。パソコンツールを単品100ドルで売っていた頃とは、時代が違うのです。
個人がお遊びでつくったのなら、それで十分なお小遣いとなりますが、数人の会社だとしたら、これはちょっと厳しい数字ですね。しかも、開発に何年かかけたとすると、もっと厳しい状況です。
ということは、売り切り型ではなくて、月額とか年額とか、売上が繰り返し発生する形式(recurring payments)が望ましい。が、かといって、頻繁にお金を取ろうとするとユーザに嫌われるし・・・などと、いろいろと工夫をしなければなりません。
今は、世の中がパソコンからモバイルへと商売の過渡期にあって、アップルがiOSアプリ(iPhone/iPadアプリ)の定期購読型課金サービス(subscription、定期的な自動定額課金)を認めたことに習い、いよいよ今月末に、グーグルもアンドロイドのアプリ内課金(in-app payment、すでに購入したアプリ内の追加購入)を始めてみたりと、まさに業界全体が模索中なのです。
そんな過渡期にあるので、何が正しいのか間違っているのか、誰にもわからない混沌とした状況となっています。
けれども、万が一、一回目の商売がうまくいかなかったにしても、「経験」という立派な財産が残るのです。そして、また同じ仲間が集ったり、違うDNAを入れてみたりして、二度目、三度目のチャレンジに挑むのです。
豊かな作物を育んできた肥沃なシリコンバレーの土壌には、今でも、人々の情熱と収穫の喜びがしみ込んでいるような気がします。
そして、ここに暮らす人たちにも、チャレンジを怖がらない「正」のエネルギーを与えているような気がするのです。
夏来 潤(なつき じゅん)
一枚の写真
- 2011年03月25日
- エッセイ
奇跡的に助け出された方々のニュースを耳にすると、嬉しい反面、同じ境遇の方々が人知れずどこかにいらっしゃるのではないかと、心が張り裂けるような気分にもなります。
一方、被災した方々には少しずつ救援物資が届くようになったと聞きますが、仮設住宅などの仮住まいに引っ越せないうちは、まだまだ不便な、厳しい生活が続くことになるのでしょう。
大震災の渦中にいらっしゃった方がどれほどの恐怖を味わったかは、まわりの人間には計り知れないことではありますが、映像で惨事を垣間みた人にも、それなりの「心の傷」を与えたのではないかと思うのです。
わたしなどは、津波に襲われる夢を見て、びっくりして飛び起きてしまいました。
夢には科学とか理屈は通用しませんので、津波は、まるでハワイの海みたいにブルーに透き通っています。
けれども、「ドン!」と一気に波が砕ける音や、建物の隙間をぬって襲いかかる水の勢いは、単なる夢とは思えないほどの迫力なのでした。
映像を通して津波の威力を知っていたつもりのわたしは、その後、たった一枚の写真で、もっと大きな自然の脅威を感じたのでした。
それは、見渡す限り、一面のがれきの山。
家々の柱、天井、家財道具、思い出の品々。そんなものすべてがバラバラになって水に流され、誰のものかもわからず、無造作に山と積まれている光景。
そして、がれきの山を前に、茫然(ぼうぜん)と立ち尽くす家族。小さな子供を連れたカップルで、これからどうしようかと、ただ途方に暮れて、立ち尽くす若い家族。
この写真を見たとき、地上からはこんなに見えるのかと、初めて被害の甚大さを知った気がするのです。
そう、ヘリコプター映像で見えていた白いモコモコは、人の背丈よりも高い、ビニールハウスだったのです。そのビニールハウスを、どす黒い波が、事もなく飲み込んでいったのでした。
前回のエッセイでもご紹介しましたが、地震の直後、米国西海岸の人たちは、午後11時のニュースで津波の中継映像を観ています。ですから、日本がどれほどの被害を受けたかというのは、他の地域の人たちよりも十分に理解しているのではないかと思います。
そんな西海岸の人たちは、ひとりひとりが「自分の一枚の写真」を心に深く刻んでいるのだと思います。
それに、カリフォルニアは、歴史的に日本との結びつきがとても深い場所です。19世紀後半、アメリカ本土としてはいち早く、日本からの移民が定住した土地でもあります。
カリフォルニアを足場にして、日系移民はアメリカ全土に移り住み、全米のあちらこちらに日本街を築きました。が、今となっては、ハワイを除くと、サンフランシスコ、サンノゼ、ロスアンジェルスの三都市にしか日本街は残っていません。
本土にたった三つしかない日本街ではありますが、ここでは今でも「桜祭り」や「お盆祭り」が開かれ、地元の人たちの楽しみともなっています。
サンフランシスコ生まれの友人は、子供の頃から「お盆」が大好きでしたが、彼は Obon が「祖先を敬う儀式」だとは知らずに、楽しいお祭りだと思っていたのでした。
けれども、いかに解釈されていたにしても、地元のみんなが一緒になって楽しめるのは良いことでしょう。
そんなわけで、サンフランシスコ・ベイエリアには日本街がふたつもありますので、大震災の直後は、日本街が中心となって義援金集めの催しを開きました。
サンノゼでは、大地震の一週間後、日本街の寺院(the San Jose Buddhist Church Betsuin)で「初七日」が開かれました。
参加者は、震災の犠牲者や被災地の方々に祈りを捧げたあと、日本街協会(the Japantown Community Congress of San Jose)に義援金を寄付しました。
その翌日、寺院脇では、ボーイスカウトの子供たちも参加して、「寄付のドライブスルー(donation drive-through)」を開きました。午後5時から7時の退社時間をめがけて、脇を通った車から義援金を受け取ろうという企画です。
何でも「利便性」を追求するアメリカ人ですから、車の窓から寄付を受け取るドライブスルーがあったって、おかしくはないでしょう。
こちらで集まった義援金は、サンフランシスコの日本領事館を通して、日本赤十字社に送られるそうです。わたしもサンノゼの住民として、義援金の半分を日本街協会宛てに送りました。
そして、この日、サンフランシスコの日本街では、午前7時から夜中の12時まで、ボランティアの人たちが「義援金テレソン(fundraising telethon)」を開いて、ベイエリア中の住民から寄付を募りました。
この企画は、NBC系列のローカルテレビ局KNTVサンノゼと、NBCの筆頭株主であるケーブルテレビ配信会社コムキャスト(Comcast)が協賛したものですが、主催は、サンフランシスコの日本街協会(the Japanese Cultural and Community Center of Northern California)です。
自分たちは日本のために何かできないかと、急遽、募金活動に乗り出したのでした。
午前6時半には日本街にボランティアの方々が集結し、7時きっかりにテレソンが始まります。協賛のKNTV局もテレビで大々的に宣伝していたので、知名度はなかなかのようでした。
中には、ジャン・ヤネヒロさんなど、有名な日系ジャーナリストもボランティアとして参加なさっていたようですが、この日だけで42万ドル、週末の募金も合わせると、77万ドル(およそ6千2百万円)の義援金が集まったそうです。
まあ、驚くほど巨額な寄付とはお世辞にも言えませんが、このベイエリアからの義援金は、東北・関東地方の被災地の方々に直接送られるということです。
ご存じのように、震災の直後から、アメリカ軍も支援活動を行っています。
たとえば、沖縄の普天間海兵隊飛行場では、「CH-46 シーナイト」大型輸送ヘリコプター8機と、「C-130」輸送機10機以上を岩国海兵隊飛行場(山口)に飛ばし、そこに集結した輸送機・ヘリコプターとともに、横田空軍飛行場(東京)と厚木海軍飛行場(神奈川)を経由して、東北地方に派遣されました。
災害時には、大型輸送ヘリコプターはなくてはならないものとなりますので、海兵隊の災害救助隊・第3海兵機動展開部隊(the III Marine Expeditionary Force)とともに、被災地に救援物資を届ける任務を負っているのです。
海兵隊ばかりではなくて、空軍は仙台、花巻、三沢、山形への物資輸送を、陸軍は500人を動員して物資輸送や自衛隊との連携を、そして、海軍は軍艦20隻、艦載機140機、総勢1万3千人を動員して、海からの支援をしています。(在日米軍が所属する太平洋軍司令部(the U. S. Pacific Command)の3月19日付の発表を参照)
わたしは決してアメリカ軍を美化するつもりなどありません。けれども、ここで軍隊の支援活動をご紹介しようと思ったのは、ひとりの軍人の文章を読んだからなのでした。
普天間海兵隊基地のデイル・スミス大佐(Colonel Dale Smith)という方ですが、東北沖の大地震・大津波について、このように書いていらっしゃいました。
「被害は仙台地域に限らない。十以上の都市が、そこに住む人々とともに地図からこつ然と姿を消してしまった。わたしは涙なくしてこれを書くことができない・・・それほど、ひどいのだ。」
スミス大佐はご近所さんの友達の友達になる方ですが、「タフガイ」であるはずの軍人が「涙なくしては書けない(I cannot write this without tears)」と公言するほど、事態はひどいということでしょう。
それと同時に、どこの国の国民であったにしても、大災害に感ずるところはまったく同じなのです。
サンノゼの日本街で募金活動が行われたとき、「どうして寄付をしようと思いましたか?」という質問に、こんな風に答えた方がいらっしゃいました。
「日本で起きた震災には心を痛めている。だから、少しでも助けになれば嬉しい」と。子連れの若い男性でしたので、きっと同じ年頃の日本の子供たちのことを思いやったのでしょう。
また、別の男性は、こんな風におっしゃっていました。「日本の人たちだって、僕たちに震災が起きれば、必ず助けてくれるはず。だから、今は、日本の人たちを助けるのは当然だ」と。
今、被災地の外にいる人ができることは、自分なりの義援金を送ること。そして、ちゃんと食べて、ちゃんと休んで、英気を養うことでしょう。
なぜって、「助けて!」と悲鳴が聞こえてくれば、すぐに助けに行かなくちゃいけないから。