わたしの王子様!?

先日、とっても変わった夢を見ました。

そこは、日本の山間部。

山々に囲まれた静かな村には、古風な日本家屋があって、そこには次々とお客さんが入って行くのです。

なにやら、結婚式のようなお祝いが開かれるようで、山奥のお屋敷なのに、海外からも国賓級のお客様が到着しているのです。

海外のお客様は、まるでイギリスのロイヤルファミリーみたいな軍服の礼服をお召しになっているのですが、そんな方々に混じって、なぜかわたしも来賓として招かれているのでした。

と、場面が変わって、わたしの目の前には、若い男性。彼も、ロイヤルファミリーみたいな軍服の礼服をまとっています。でも、それは白い上着に淡いブルーのえりで、とても柔らかな、優しい印象。

そして、身分を表すものなのか、彼の胸には、首飾りみたいな勲章がかけられています。そう、よくヨーロッパの王侯貴族が首のまわりに下げているでしょう、ネックレスみたいな勲章を。

でも、ふと見ると、彼の勲章の飾りは、色とりどりの宝石ではなくって、大きな真珠の粒なんです。そして、薬指にも、小さな真珠玉が縦に3つ並んだ、奥ゆかしい指輪。

なるほど、彼は日本人なので、きらびやかな宝石じゃなくって真珠なんだと感心していると、「花嫁」になるべきわたしの指にも、大きな真珠の指輪が。

そう、いつの間にやら、「来賓」のわたしは、「花嫁」に早変わりしていたのでした。

目の前の男性は、顔はよく見えないのですが、すがすがしい面立ちで、にこやかな表情であることはわかるのです。

ああ、わたしはこれから、この王子様みたいな男性のお嫁さんになるんだぁ・・・

と幸せな気分を味わっていると、そこに、カアッ、カアッとカラスの鳴き声が聞こえてきて、無惨にも夢からさめてしまったのでした。


いえ、わたしは結婚して何年もたっているので、いまさら「王子様」の夢を見るなんてことはありません。でも、もしかすると、その前日に連れ合いが出張から帰って来たので、突発的にメルヘンチックな夢を見たのかもしれません。

まあ、連れ合いは「王子様」というよりも、「王子様の森に住む熊さん」という感じではありますが、やはり「熊さん」でも何でも、帰って来てくれるとホッとするものなのでしょう。

それで、ふと思ったのですが、みなさん、どんな人を「王子様」として追い求めているのだろうかと。

わたし自身は、「背が高くって、カッコよくって」なんていうのはどうでもよかったんです。極端な話、顔なんてついていればいいかな、というくらいに(だって、のっぺらぼうだと怖いですからね)。

それで、一番大切な条件は、自分を尊重してくれる人だと思っていたんです。

自分をそのまま受けとめてくれるという意味もありますが、何よりも、自分の将来設計を一緒になって考えてくれて、それをどんどん応援してくれそうな人。

わたしの場合は、コンピュータ会社で圧倒的に男性が多い環境ではありましたが、なかなか将来設計まで真剣に考えてくれそうな人は見受けられなかったんです。で、そこに「熊さん」が登場してきたのでした。

ま、実際に結婚する段になると、「美女と野獣」だとか「今ならまだやめることもできるよ」とか、いろんな意見が聞こえてきました。
 いえ、自分が美女だと言っているわけではなくて、誰もが「ふたりはまったく違って見える」と思ったのでしょう。

現に、性格も考え方も生活のリズムも、何もかもが違うのですが、結婚したら長い間一緒に過ごすのですから、あまり似通っていなくても支障は無いのかもしれませんね。だって、違っている方が飽きない、という考え方もあるでしょうから。


ところで、最近耳にした話で、「わたしの友人は、3人の男性と真剣につきあっていて、どの人と結婚するかで深刻に悩んでいる」というのがありました。

それを聞いて、「まあ、世の中にはすごい人がいるものだ!」とびっくりしたのですが、それと同時に、その3人って、いったいどういう風に違うんだろう? と興味を持ったのでした。

たとえば、ひとりはものすご~くカッコいい人で、ひとりは性格がとっても良い人。そして、もうひとりはバリバリと出世しそうなエリートタイプとか・・・。

なるほど、すべてを兼ね備えている人なんて、そんなにたくさんいるわけではありませんので、「どれかを選ばなければならない」ことになるのでしょう。

だとすると、自分だったら、たぶん性格で選ぶんだろうなぁ、と想像したのでした。

だって、そのうち顔なんて見飽きるから、見かけはどうだっていいし、出世しそうなエリートタイプと言っても、実際に成功するかどうかは保証の限りではないし。
 だったら、性格の良い人の方が一緒にいて楽しいんだろうなぁ、なんて思ったりしたのでした。

もちろん、人なんて、そんなに簡単に分類できるわけではありませんので、物事はそう単純ではありません。ですから、3人の間で真剣に悩むことになるのでしょう。

だとすると、こういうのも、ひとつの目安となるのかもしれませんね。誰が一番熱烈に自分を欲してくれているのか?


アメリカの「投資の神様」に、ウォーレン・バフェットという方がいらっしゃいますが、この方は毎年、株主に宛てて長いお手紙を書くことで有名です。そう、「神様」みたいに勘の良い方ですから、彼の書かれることはありがたみがあるといって、ビジネス界の誰もが真剣に読むようなお手紙なのです。

そのバフェット氏が今年書いた中に、こんな内容があったそうです。

結婚相手を選ぶなら、あなたを欲してくれそうな中で、一番良い人を選ぶこと(Choose the best person you can find who will have you)と。

なんとなく当たり前みたいに聞こえますが、これって大事なことですよね。つまり、自分を欲してくれている人の中から、ベストな人を選びなさい、ということ。

たとえ自分の想いは深くとも、相手がそこまで自分を求めてくれていないのなら、それは論外。だって、結婚は、一方通行(one-way street)ではないのですから。

それから、べつに差別をしているわけではないのですが、男性側が強く相手を求めている方が、うまく行くケースが多いのではないかとも思ったんです。

その昔、わたしの母も、祖母からこう言われたそうです。

「そこまで相手の方に熱烈に請われるなんて、幸せなこと。女性は、その方がうんと幸せになるのよ」と。

それからずいぶんと時は流れていますが、人と人とのつながりって、基本的にあまり変わってないんじゃないかと思うのです。

そう、もしかすると、探し求めている「王子様」って、どこかで自分を真剣に想ってくれている人なのかもしれませんね。

そうやって考えてみると、王子様は案外と近くにいるのかも。

追記: あじさいの写真は、東京・港区南麻布にある有栖川宮記念公園で撮りました。あじさいの花は、梅雨時のジメジメした心を吹き飛ばしてくれるほど、鮮やかな花ですね。

ブランドイメージ: スマートテレビは韓国製

Vol. 155

ブランドイメージ: スマートテレビは韓国製

 


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6月は、サンフランシスコで毎年恒例のアップル WWDC(Worldwide Developers Conference)が開かれるなど、真夏を目前にIT業界がヒートアップする時期です。

が、今月は、趣向を変えて、スマートテレビ、白物家電、そしてブランドイメージと、家電のお話をすることにいたしましょう。

<アメリカで売れ筋のテレビは?>
先日、ちょっと変な体験をしました。ガレージが開く音がしたので、連れ合いが帰って来たのかと思って行ってみると、扉は閉まったまま、車のスペースはもぬけの殻。
「変だな、たしかにガレージの開く音だったのに・・・」と、そこに突っ立っていると、数秒後にガレージが開いて、連れ合いの車が登場したのでした。

どうやら、実際に扉が開く前に、開く音を感知していたようなのですが、そういうことって、ときどきあるでしょう。
電話が鳴る前に、電話がかかってくることがわかったり、警察が犯人を捕まえる前に、面識も無い犯人がわかっていたり・・・。

で、このときガレージが開くのがわかったのは、連れ合いの「ある信号」をキャッチしていたからのようでした。
それは、「恐れ」とでも言いましょうか、わたしに怒られるんじゃないか・・・という懸念。

どうして怒られるのかって、新しく買った薄型テレビが日本製じゃなかったから!

今まで、我が家は「日本ブランド」のテレビしか購入したことがありません。ソニーのブラウン管に始まり、シャープの液晶や東芝のDVDプレーヤ内蔵型、そしてHD(高画質)の時代になると、立て続けにソニーの大型液晶テレビを2台買ったのでした。

そう、我が家にとって、「テレビは日本」だったのです。
 


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ところが、この日、連れ合いが注文したテレビは、韓国のサムスン電子製というではありませんか!

日本ブランドじゃない製品や車が快く受け入れられないことを熟知していた彼は、我が家を目前にして、頭の中でシャカシャカと言い訳のシナリオを書いていたのでした。
 


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家電量販チェーンBest Buy(ベストバイ)に行って、販売員と一緒にフロアサンプルを比べてみたら、とにかくサムスンの大型液晶テレビ「Smart TV(スマートテレビ)」の画質が、群を抜いて良かった(LEDバックライト、フルHD、2D/3D(3次元)液晶テレビ:写真は55型7500シリーズ、量販店価格2,600ドル)。

単に画面がきれいだけじゃなくって、付属品の3Dメガネ(タダで4つ付いてくる)をかけると、3D映画だって観られるんだから。

鮮明な画像に加えて、テレビの下のスピーカーと床に置くサブウーハーから出る音質は、もう音響システムが必要ないくらいに立派なもの(サウンドバーとサブウーハーは別売セット価格450ドル)。
 


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アップルの「iPhone(アイフォーン)」からテレビに音楽を送って、iTunesに入っている好きな曲をスピーカーから出して楽しむこともできるんだよ(iPhone用Wi-FiアダプターはAmazon価格110ドル)。

しかも、「スマートテレビ」という名の通り、かなりのお利口さんで、アップルの「Apple TV」やグーグルの「Google TV」といったインターネット接続機器を使わなくても、Wi-Fi経由でネットにつながり、音楽・画像配信、インターネット電話、ソーシャルネットワークと、ネットサービスの恩恵を受けられるスグレもの。


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それに、任天堂のゲーム機「Wii」みたいに、テレビの前に立って、ジェスチャーで音量調整などの指示を出せるし、声でパワーオンなんて芸当もできるんだ。
家族みんなの顔写真を登録しておくと、ちゃんとユーザを認識してくれて、ネットサービスを利用するときに、いちいち各自がログオンする必要もないんだから、と。

そんなことを力説する連れ合いに、こちらも納得せざるを得なかったのですが、それにしても、テレビが日本製じゃないなんて、時代はどんどん流れ行くものだと、一抹の寂寥(せきりょう)をおぼえたのでした。

<ブランド神話>
ところで、アメリカで有名な「日本ブランド」というと、どんなものがあるでしょうか?

もちろん、車のトヨタ、日産、ホンダは「必需品」の域に達しているブランドですが、ふと日常生活に目をやると、Makita(株式会社マキタ)や Ryobi(リョービ株式会社)、Shoei(株式会社Shoei)や Arai(アライヘルメット)、そして Rinnai(リンナイ株式会社)と、いろんなブランドが頭に浮かんでくるのです。
 


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Makita と Ryobiは、アメリカ人の大好きな日曜大工に使う電動工具の一流メーカーで、Shoei と Araiは、オートバイのヘルメットの老舗。
そして Rinnaiは、アメリカの一般家庭のガレージにでんと居座る給湯タンクになり代わり、省エネルギーの瞬間コンパクト給湯器として、近頃とみに普及し始めているようです。

さらに、TOTO や INAX(株式会社LIXIL)も、ウォシュレットのコンセプトではアメリカで大失敗でしたが、トイレや浴室のブランドとしては、店舗や一般家庭に深く浸透しています。
我が家もトイレは全部 TOTO に取り替えましたし、改築業者が選んだ浴室の換気扇は、「一番静かだ」という理由で Panasonic でした。

そんなわけで、アメリカの日常生活にすっかり溶け込んでいる日本ブランドですが、こと家電となると、一昔前の威力がどんどん失われているようです。

中でも、白物家電の衰退は、著しく感じるのです。

アメリカでは、白物家電製品の普及(売上額の伸び率)がもっとも目覚ましかったのは1980年代ですが、少なくとも、その頃は、Sanyo(三洋電機、現 Panasonic傘下)など、日本製の冷蔵庫を目にしていた記憶があります。
たぶん洗濯機も、Hitachi(日立製作所)を始めとして、日本製はたくさん流通していたのでしょう。(個人的には、アメリカで日本製の冷蔵庫や洗濯機は使ったことはありませんが、電器店では目にしていた記憶があります。)
 


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その様相ががらりと変わったのは、2000年頃からでしょうか。1990年代前半は、アメリカ国内ブランドが俄然強かったものが、後半になると、ヨーロッパやアジアから海外ブランドがどんどん流入するようになったのです。

90年代には貿易の自由化が進み、アメリカブランドでもカナダやメキシコから逆輸入する製品が増え、海外製品の障壁が低くなったことと、好景気や住宅ブームのおかげで、家電製品の需要が伸びたことも追い風となったのでしょう。


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Whirlpool(ワールプール)、GE、Maytag(メイタグ:後にWhirlpool傘下となる)といったアメリカの家電ブランドに加え、スウェーデンのElectrolux(エレクトロラックス、写真)、ドイツのBosch(ボッシュ)、Miele(ミーレ)、イギリスのDyson(ダイソン)と、ヨーロッパブランドも店頭で肩を並べるようになります。

そして、目覚ましいのが韓国勢。LGエレクトロニクスやサムスン電子といえば、今や家電量販店の花形ブランドとなっています。そう、白物家電と娯楽家電の両分野で、おしなべて強いのです。

その結果、日本ブランドの家電製品は、影をひそめてしまった・・・。

これは門外漢の個人的な見解に過ぎませんが、韓国ブランドがここまでアメリカで成長した背景には、大きな要因が3つあると思うのです。

ひとつは、彼らのアメリカ市場に適応しようとする努力。


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たとえば、アメリカで洗濯といえば、今でも洗濯機と乾燥機の単体式が主流なのですが、全自動一体型に特化した日本メーカーとは違い、韓国勢はアメリカの消費者が望む製品をつくり続けた結果、ここまで裾野を広げることができたのでしょう。

個人的には、一体型ほど便利なものはないと思うのですが、なぜかアメリカでは、2台をでんと並べる(もしくは写真のように重ねる)方式が好まれています。この伝統はなかなか消え去らないように見受けられるなら、その消費者環境に適応した製品を売るべきではないでしょうか。

その一方で、もしも自分たちの一体型が優れていると自負するのなら、消費者の古くさい考えをくつがえすほどの「熱いメッセージ」を贈るべきなのでしょう。

ヴァレンタインデーのチョコレートに秘める熱烈な想いと同様に、一体型は「便利」「おしゃれ」「効率的」といったラヴコールを消費者に送り届けなくてはなりません。
さらには、「こんなにおしゃれな製品をつくっているのは、我が社です」と、イメージづくり作戦を繰り広げるべきなのでしょう。

それが、「ブランディング(branding)」であり、ブランドイメージを築き上げることです。アメリカ市場でうまくブランディングを繰り広げたのが、他でもない韓国メーカーであり、これが、彼らの成長の第2の要因。
 


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洗濯機の例で言うなら、従来の洗濯機(上から洗濯物を入れ、中に歯車の付いた、白い、四角い洗濯機)から、赤や銀のカラフルな、丸みを帯びた、前面扉(front load)の歯車の無い洗濯機に生まれ変わらせたのも、韓国勢の「おしゃれな、優れた製品」という「イメージづくり」の功績が大きかったのだと思うのです。

このイメージづくりによって、消費者自身が、「あ、新しい洗濯って、歯車はいらないんだ!」「こんなにオシャレな機械でも、きれいになるんだ!」と開眼したおかげなのでしょう。
 


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そう、基本的に、消費者とは「教えてくれなきゃ、わかんな~い!」方々だと心に銘ずるべきだと思うのです。とくに多民族社会では、「黙っていても心は通じる」ことはないでしょうから。

ブランディングとは、5年後、10年後にようやく開花するもの。「明日のお客さま」を開拓するには、開発・生産コストを割いてでも、今、種まきしておかなくてはならないものなのでしょう。

そして、もうひとつの韓国勢の成長の要因は、販売力。これは、前線で消費者と向き合う販売員への心配りという意味です。
端的に言えば、「見返り」。製品を売ったら、販売員にキックバックがあるか、無いかということです。

実は、連れ合いがサムスンの薄型テレビを購入したとき、家電量販チェーンBest Buyの販売員は、こう答えたそうです。

「今、テレビはどのメーカーが一番いいのかな?」という質問に対し、「そりゃもう、圧倒的にサムスンか LGだね」と。
 


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これには、製品自体の性能が良いこともあるのでしょうが、多分に「サムスンや LGを売ったら、僕の実入りが大きい」という販売員の動機もからんでいるのでしょう。
たとえば、残念なことに、アメリカの電器店ではシャープ製品は褒められない伝統があるのですが、これなどは、販売員への見返りが極端に少ないか、まったく無いことを示唆しているのでしょう。

やはり、売るのは人ですから、どんなに製品が優れていても、「技術だけで売る」ことはあり得ない気もするのです。そこで強力な販売チャネルをつくりあげ、うまく成功したのが、韓国勢ということではないでしょうか。

振り返ってみると、第二次世界大戦直後は、「安かろう、悪かろう」の象徴だった日本製品。それが、アメリカのメーカーを駆逐するほどのブランド力を築き上げたのは、高度成長期に頭角を現した日本の家電メーカーであり、自動車メーカーです。

この急激な変遷は、「質(quality)」による世代交代であり、それは日本メーカーがもっとも得意とするところだったのでしょう。

そして、「質は当たり前」になった今、はからずも次の世代交代を迎えているようです。それは、もしかすると、「イメージ(image)」による世代交代と呼ぶべきものなのかもしれません。
 


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おしゃれなオープンスペースに笑い合う家族。キッチンには真新しい冷蔵庫や調理器、カウンターを超えて大画面のテレビ。すべてが造り付けの家具のようにしっくり納まった家では、「Life’s Good(人生ってステキ)」。

これは、LG のテレビコマーシャルのひとコマですが、会社名をもじった「Life’s Good」は、彼らのブランディングメッセージ。観ていて、思わず「うまい!」とうなったイメージ作戦なのです。

元来、人の心は移ろいやすいもの。そして、「独自技術」なんて、つかみどころのない蜃気楼のようなもの。

いつかは「廉価版」も「高級ブランド」に変化するのかもしれませんし、「絶大なブランド力」と言われていても、すっかりと風化してしまうこともあるのでしょう。

夏来 潤(なつき じゅん)



もう一度、やり直し!

前回は、カリフォルニアで車を運転していて、「あれって、何だろう?」と不思議に感じる話題をピックアップいたしました。

それは、フリーウェイでクネクネと蛇行するパトカー。

この蛇行運転には、ちゃんと意味があるのですが、ときには「趣味でやってるんじゃないの?」といぶかしく思うこともある、というお話でした。

そんなわけで、ときに、アメリカの警察っておもしろいなぁと思うことがあるんです。なんとなく、日本とは違うかなぁ、と感心するようなことが。


2年前の年末、クリスマスシーズンのイベントを楽しもうと、シリコンバレーのロスガトス(Los Gatos)に向かいました。

ロスガトスという街は、こぢんまりとした歴史的ダウンタウンが魅力の高級住宅地で、街のはずれには、ヴァソナ公園(Vasona Park)という大きな公園があります。

サンタクルーズ山脈から流れ出すロスガトス川(Los Gatos Creek)をせき止めてつくった、ヴァソナ湖(Lake Vasona)という貯水池があって、そのまわりは、ゆったりとした緑豊かな公園となっているのです。

この公園では、湖でボート漕ぎや釣りもできますし、ピクニックエリアや自然トレール(散策路)も整備されているので、家族の憩いの場として大人気です。

公園の南側の草原には、トコトコと小さな機関車も走っていて、子供連れの乗客が、のんびりとピクニック日和を楽しんだりしています。

そして、シリコンバレーの IT企業も、ピクニックエリアの一角を借り切り、社員や家族を招いてバーベキューパーティーを開いたりします。

カリフォルニアでは「アルコール類は禁止」の公立公園が多いのですが、この公園では、ピクニックエリアでアルコールが許されているので、会社のパーティーなどには最適なんですね。


一方、クリスマスシーズンにはライトアップでも有名で、『光のファンタジー(Fantasy of Lights)』と名付けられた祭典には、例年、近隣の街々から、たくさんの見物客が訪れるのです。

まあ、美しい光の祭典があちらこちらで開かれる日本と比べると、ちょっと見劣りするかもしれませんが、あまり大掛かりなライトアップを見かけないシリコンバレーでは、かなり目を引くイベントなのです。

この光の祭典がおもしろいのは、とにかくだだっ広い公園に光の仕掛けが点在していて、これを楽しむには、歩くのではなく、車でグルッと回るところでしょうか。

そう、ちょうどサファリパークを車で回って、珍しい動物たちを見学する感じですね(なぜか、こちらは、恐竜たちがたわむれるコーナー!)。

冬なので寒いのですが、窓をいっぱいに開け放って、指定のラジオ局のクリスマスソングを流しながら、道路脇に組まれた光の芸術を堪能するのです。


というわけで(本題に入りますと)、光の祭典を楽しもうと、会場のヴァソナ公園に車で乗り入れようとしたときに、妙な経験をしたんです。

我が家から公園に向かうと、正面ゲートには簡単に右折して入れるような方向だったのですが、なぜだか、ゲートは右折進入禁止となっていました(右側通行のアメリカですから、右折は簡単なんですが・・・)。

ところが、連れ合いは、それを無視して右折進入したところを、警備にあたっていた地元のロスガトス警察に止められてしまいました。

「ちょっと、そこは右折禁止なんだよ。看板が見えなかった?」

そう声をかけてきた警察官は、次に、こんなことを言ったんです。

「もう一度、道路に戻ってそのまま直進し、次の信号で Uターンして、最後に左折して正面ゲートに入っておいで」と。

なんともややこしい話なので、「そうしなきゃダメなの?」と、連れ合いがゴネたんですが、すると、警察官は、ちょっと楽しそうにこう答えました。

「そうだねぇ、もし違反チケットを切られたくなかったら、そうした方がいいんじゃないのぉ?」と。

そうなんです。ルールに違反したから、もう一度、正しい方法でやり直しなさい、そうすれば、違反は大目に見てあげましょう、と言っているんですね。


まあ、なんとものんびりとしたお話ではありますが、そこがまた、アメリカの良いところでもありましょうか。

このベテラン警察官の目的は、違反者を捕まえることではなくって、違反したことを知らせて、正しい方法でやり直させることだったんですよね。

そうすることで、ルール違反を、しっかりと本人に自覚させる。

これがもし大都会だったり、警察学校出たての使命感に燃えた若い警察官だったりすると、まったく違った展開だったのかもしれませんね。

はい、違反ね! これが違反チケットね!と、有無をも言わせず「違反」のレッテルを貼ろうとするのかもしれません(そっちの方がお金にもなるし、自分の成績にもつながるでしょうから)。

けれども、このロスガトス警察官は、もうベテランの域。

長年、いろんな違反者を見てきて、「やり直させる」方が効果のあることを知っているのかもしれません。

だって、「ダメダメ! もう一度、やり直し!」なんて、まるで子供が学校でしかられているみたいで、恥ずかしいではありませんか!

だから、もう二度と違反しないようにって、誰でも肝に銘じるでしょう?

(う~ん、なんとなく、うまい心理作戦・・・でも、結局は、みんなうまく乗せられる・・・)

フェイスブックIPO: 水はまだ冷たかった

Vol. 154

フェイスブックIPO: 水はまだ冷たかった

今月は、世界中の注目を集めた、フェイスブック(Fecebook)の株式公開のお話をいたしましょう。

<フェイスブック株はフリップする?>
5月18日の金曜日、「今か、今か」と期待されていたフェイスブックの株式新規公開(initial public offering、通称IPO(アイピーオウ))が、現実のものとなりました。

市場は、テクノロジー株が集中するナスダック。ティッカーシンボルは「FB」。

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ユーザ数9億人を誇るフェイスブックは、とにかく、世界最大のソーシャルネットワーク。しかも、株式公開としては、2004年夏のグーグルのIPOを上回る規模ときています。

こんな大イベントが、みんなの関心を集めないわけがありません。

そんなわけで、IPOを商売の道具にしている金融業界だけではなく、一般市民だって「どうにかしてフェイスブックの公開株が手に入らないかしら?」と大騒ぎ。
フェイスブックが米証券取引委員会(SEC)に公開申請を提出して以来、シリコンバレーを中心に、世の中は騒然としていたのでした。

とは言うものの、公開株というのは、なかなか一般市民の手に入るシロモノではありませんで、公開を担当したアンダーライター(公開株の販売を代行する金融機関)に何かしらのコネがなくては、入手は難しいです。

しかも、公開直前に株を割り当てる相手は、そのほとんどが、ミューチュアルファンド(投資信託)や年金ファンドのような大手機関投資家。株を彼らに配分してしまったら、個人投資家には、なかなか回って来ないのが現実です。

「それでも、なんとかして欲しい!」という人が大勢いたようでして、我が家のファイナンシャルアドバイザーPくん(昨年4月号に輝かしく登場)の話によると、公開前の一週間に7人が電話をかけてきて、こんな嘆願をされたそうです。
「僕は、きみのクライアントの知り合いなんだけど、もしフェイスブックの公開株を回してくれたら、きみのところに新しく口座をつくってあげてもいいんだよ」と。

ま、なんとも態度のデカい嘆願ですが、この方たちは、まったく見ず知らずの人たちとのこと。「これだけ関心を集めたIPOは初めて。グーグルのときだって、こんなに大騒ぎじゃなかった」と、Pくんもびっくりしておりました。

そう、みなさん、グーグルを始めとして公開後の株価高騰を見ていますので、「僕も、ここらでひと儲け!」と、皮算用をなさっているわけですね。

そんな事情があるので、グーグルの場合は、個人投資家に門戸を広げようと、「オンラインオークション」という新しい公開方式を編み出したわけですが、それだって、「お金を持つ方が強い」原則に変わりはないのかもしれません。

というわけで、喉から手が出るほどに欲しい公開株ですが、万が一、手に入ったとしても、次の問題は、それをどう処理するか? なのです。

ここでは、「将来性があるので、株は持ち続けよう」という選択肢と、「どんなに良い銘柄でも一寸先は闇(だから売り払おう)」という選択肢が考えられます。

が、選択肢はどうであれ、公開株を入手した投資家の多くは、公開と同時に市場で売り払い、公開価格から上昇した分を懐におさめます。
なぜなら、取引が開始した途端に「買い」が集中して、株価がグイッと上昇するので、それが下がらないうちに、さっさと売り払った方が無難と考えるからです。

公開時に売り払うことを「フリップ(flip)」と言いますが、一般的にテクノロジー株は、公開後、突発的にピークを迎え、最終的には公開価格から15〜20%上がったところで初日を終えるので、そのピークを目指して「フリップ」が集中します。

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フェイスブックに関しては、「一株38ドルの公開価格から5〜10%上がる」と専門家は予想していたようですが、公開株を手にした多くの投資家が「すぐにフリップ!」ともくろんでいたようではあります。

それが証拠に、公開当日。蓋を開けてみると、個人投資家が「買い」を入れたわりに、機関投資家の「フリップ」は強かった・・・

だから、株価は思うように上がらなかった・・・。

一年前にニューヨーク証券取引所で上場した LinkedIn(リンクトイン:プロフェッショナルのためのソーシャルネットワーク)のときには、初日に公開価格の倍で落ち着いた実績があります。

だから、まさか、ここまで冷ややかな展開になるとは誰も予測していなかったようですが、なんとなく、温水プールに入ろうとして足先をつけてみたら、まったくの冷たい水だった! といった感じでしょうか。

<株式公開の意義って?>
ところで、企業は何のために株式公開をするのか? というと、それは、資金を集めるためですよね。

人を雇って新規事業を立ち上げたいとか、工場を建て増しして製造規模を拡大したいとか、データセンターを拡張してユーザ数の増加に対応したいとか、そんな事業拡大のためにお金を募りたいからです。

今までは、非公開(private)の会社として、エンジェルやベンチャーキャピタルから投資を受けていたけれど、市場に株を売り出すことで、幅広く資金調達をして、もっともっと商売の枠を広げましょう、ということですね。

そういう点では、会社が買収されるのも同じことかもしれません。一般的なイメージとは裏腹に、買収されるというのは決して悪いことではありませんで、より大きな会社やプライベートエクイティ(投資ファンド)に買収されることによって、今までの人員、設備投資、販売チャネルを増強し、売上をグイッと伸ばせる。

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たとえば、先日、買収が発表されたオートバイメーカーのドゥカティ(Ducati)。
世界中のバイカーがよだれをたらすような名ブランドですが、ドイツの車メーカー、アウディ(フォルクスワーゲンの傘下)に買収されることで、もっとブランド力を生かし、活路を広げることが期待されています(写真は、ドゥカティを使って「高速」なイメージを打ち出す、携帯ネットワークT-Mobileの広告)

もちろん、オートバイの小型エンジン技術を車に活用したいという、買う側の思惑も大きいわけですが、買われる側にとっても、決して損ではないケースでしょう。

もっと熾烈なケースになると、「買って、握りつぶす!」というのがありますが、たとえば、2009年末にアップルが買収した La La Media(ラーラーメディア)は、半年後に消滅しています。
音楽をクラウド経由でレンタル配信というコンセプトが、アップルの iTunesの商売を脅かす恐れがあったからです。

La Laの創設者は、シリコンバレーの若手起業家として有名なビル・ヌエン氏。買った側は、他でもないスティーヴ・ジョブス氏ということで、かなりの注目を集めましたが、「わざわざ買って、握りつぶした」ことにも、音楽ファンの間で落胆の声が上がりました。

おっと、話が買収の方にそれてしまいましたが、株式公開の原点は、あくまでも資金集め。市場で募ったお金を、事業拡大の資金源とするのです。

ところが、不思議なことに、フェイスブックIPOのケースでは、「集めた資金を活用する案は、まだ具体的にはない」と発表されていたのでした。

最終的に会社側が売り出したのは1億8千万株なので、68億ドル(約5千4百億円)もの資金を調達するというのに。(その他、共同創設者マーク・ザッカーバーグ氏を始めとして、初期投資をした個人・団体が2億4千万株を売り出し、92億ドルを調達)

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まあ、若い企業がIPOを果たす上で、スタートからがんばってきた従業員に報いることも、立派な目的のひとつです。
ですから、今のところ持ち株の売却はできないものの、少なくとも紙の上では、億万長者のフェイスブック社員が誕生して、幸せな気分になってもらったことは確かです(通常、インサイダーが売却できないロックアップ期間は180日、フェイスブックの場合は90日後に一部解禁)

けれども、企業の経営路線としては、IPOのひと月前に買収した Instagram(インスタグラム:デジタル画像の編集・共有アプリ会社)のように、なんとなく地に足がつかない行動も目立つのです。

もちろん、潤沢な資金で魅力的な会社を買収し、人とアイディアに投資をするのは妙案ではありますが、「それにしたって、Instagramに10億ドルも払うの?」と、多くのシリコンバレー関係者は驚愕の声を上げたのでした。

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おまけに、IPO直前には、アンダーライターと相談して公開株数を増やしたり、公開価格をつり上げたりと、「今のうちに、できるだけたくさん資金調達してやろう!」という意図があらわになっておりました(公開2日前に配布された、公開概要をまとめたプロスペクタス(写真)では、価格はブランク。最終的にはIPO前日に設定)

そして、それが災いしたのか、公開後の株価は低迷・・・。

そんなわけで、IPOが済んで、機関投資家には「今後の売上の伸びは、決してバラ色ではない」とリークされていた事実が明るみに出ると、「売上が伸びないことを知っていて、一般市民には隠したんでしょう?」と、フェイスブックやアンダーライターを相手取って、個人投資家たちが裁判を起こしています。

これを受け、連邦議会、証券取引委員会、マサチューセッツ州当局、FINRA(金融取引業自主規制機関)も、正式に調査を開始すると発表しています。

さらに、財政難で苦しむカリフォルニア州では、「株価35ドルで16億ドル」と見込んでいたフェイスブック株の売却税(公開から13ヶ月)による歳入を下方修正すべきでは? と耳の痛い指摘がなされています。

<フェイスブックIPOの影響>
結果的には、公開株をたくさんフリップした機関投資家には「成功例」、なけなしの貯金をはたいて株を購入した個人投資家には「失敗例」となったフェイスブックIPOですが、思いのほか株価が伸びなかった背景には、いろんな要因があるのでしょう。

たとえば、公開株数が多いわりに、価格が高めに設定されたため、伸びしろがなかった。公開瞬時に殺到する「売り」に対して、アンダーライターが大量の「買い」を入れようとしたため、ナスダック市場のシステムに負担がかかり過ぎて、処理しきれなかった。
そして、ヨーロッパ経済を始めとする、世界経済への不安も、米証券市場の足を引っ張る結果となったのでしょう。

さらに、今となっては、2000年前後のインターネットバブルの頃とは違って、セカンダリーマーケット(二次市場)で未公開株がどんどん売り買いされる時代。
ナスダックやニューヨーク証券取引所といったプライマリーマーケット(発行市場)が、「唯一の資金調達の場」ではなくなっているのです。

悪く言えば、IPO以前に「会社の金庫に資金を貯めて」「豪邸を買って、外車を乗り回せる」環境にあるということで、それが、一般市民に不公平感を抱かせ、IPO後のフェイスブック批判に火をそそぐ結果となったのかもしれません。

今回のフェイスブックIPOは、今後のテクノロジーIPOの機会を削ぐとまで言われていますが、その反面、いつの時代でも、成長に値する企業は成長するし、IPO後に消えて行く企業だってある、とも言われています。

ユーザ数9億人を超えるフェイスブックですから、もしも3年後に今と同じ株価だったならば、それは、明らかに何かがおかしいのだろうと思うのです。そうならないためには、上場企業として経営方針を明らかにするなど、やるべき課題はたくさんあるようにも感じるのです。

共同創設者マーク・ザッカーバーグ氏のプライベートな部分を垣間みる人は、彼は礼儀正しい青年で、最近パロアルトの一軒家に移るまでは、平均的な集合住宅に住んでいた、ごく普通の人だと言います。

この28歳の「青年」の会社が、今後どういう風に成長していくのか、楽しみがひとつ増えたような気もしているのです。



夏来 潤(なつき じゅん)

Break wind(風を破る??)

ときどき、英語っておもしろいなぁと思うことがありますが、これもそのひとつでしょうか。

Break wind

文字通りの意味でいくと、「風を破る」ということになりますが、ほんとは「オナラをする」という意味です。

なんでも、16世紀中頃には使われていたそうですが、今でも一般的によく使われる表現ですので、覚えておくと便利だと思います。


それで、どうして薮から棒にオナラの話をしているのかというと、大学時代にルームメイトがつぶやいた言葉をふと思い出したからなんです。

彼女にはボーイフレンドがいたんですが、わたしたちのいる大学の寮には住んでいなかったので、頻繁に会うことはできませんでした。

ですから、毎晩のように電話でお話をしていたのですが、あるとき話しながら、彼女がプッと小さなオナラをしたんです。

律儀な彼女は、「Excuse me(あら、ごめんなさい)」と失礼をわびたのですが、そのとき、ボーイフレンドは懸命に何かをしゃべっているときで、きっと彼には何も聞こえていなかったのでしょう。

「いったいどうしたの?」と問うボーイフレンドに向かって、彼女はこう言いました。

Sorry, I broke wind.
(ごめんなさい、オナラをしちゃったの)

なるほど、失礼をわびるのは立派だけれど、ときには知らんぷりをした方がいいこともあるんだなぁと、同室のわたしは、ありがたく人生の勉強をさせていただいたのでした(いえ、べつに聞き耳を立てていたわけではなくて、自然に聞こえてきたんですよ)。


そんなわけで、オナラに限ったことではありませんが、たとえば、食卓でゲップ(burp)をしたときには、Excuse me と謝りますね。

特定の誰かに向かってというよりも、まわりのみなさんに非礼をわびる、ということになるでしょうか(こういうときには、みなさんオトナっぽく聞き流してくれます)。

しゃっくり(hiccup)のときにも、最初は Excuse me と謝りますが、しゃっくりが続くことが多いので、そのうち、みなさんバックグラウンドミュージックとして聞き流してくれるでしょう。

それから、くしゃみ(sneeze)をしたときにも、まわりのみなさんを驚かせたことに対して、Excuse me と謝りますね。

ときに、くしゃみは大きな騒音となって、まわりの人をびっくりさせることがあるでしょう。ですから、謝るに値することなんですね。

すると、まわりの人も、Bless you(お大事に)と親切に返してくれることでしょう。

Bless you というのは、God bless you の略で「神のご加護あれ」という意味ですが、会話の中では「お大事に」といった軽い意味合いになります。くしゃみをするのは、風邪とかアレルギーとか、何か問題のあるときが多いですから「お大事に」なんですね。

ときどき、Gesundheit(ゲズンタイト(?))と返す人がいますが、これはドイツ語の「お大事に」から来ています。どうしてアメリカでドイツ語なのかと疑問を感じるところですが、かなり頻繁に耳にします。

アメリカには、ドイツ系移民が基礎をつくった街がたくさんありますので、きっとそこから派生していったのでしょうね。

こちらはケースバイケースだと思いますが、あくび(yawn)をしたときにも、Excuse me と謝る場合があるでしょうか。

あくびには、単に眠い場合と、「なんとなく、つまらない」という場合がありますので、もし相手が熱心に話をしているときにあくびをしてしまったら、ごめんなさいと謝った方がいいでしょうね。


というわけで、オナラからは遠ざかってしまいましたので、話をもとに戻しましょう。

そう、「オナラをする」は、break wind でしたが、人の生理現象ですから、他にも表現はいくつかあります。

まずは、pass gas

「ガスを通す」という、かなり直接的な表現です。日本語でも「ガスが出た」と言うことがありますよね。

それから、fart

こちらは「オナラをする」という自動詞であり名詞ですが、ちょっと俗っぽい表現になりますので、レディーはあまり使いません。

そして、高級な言い方では、flatulence(発音は「フラチュランス」)

「オナラ」という名詞ですが、医学用語の flatus(発音は「フレイタス」)から来ています。

成分のほとんどは窒素と二酸化炭素だそうですが、中には、メタンガスや水素を含むこともあり、発火(!)もあり得るガスのこと。

でも、気取って flatulence なんて言おうとしても、舌をかみそうですよね。ですから、どちらかというと、オナラの婉曲語(やんわりと示す言葉)として使われるでしょうか。


そうそう、pass (the) gas という表現には、ほろ苦い思い出があるんです。

昨年の初め、開腹手術をして入院したときのこと。

術後は、とにかく痛みとの闘いになるのですが、それが落ち着くと、今度は「オナラとの闘い」になるのです。なぜなら、オナラが出ないと退院させてくれないから。

まあ、アメリカの手術といえば、今や入院しない外来手術(outpatient surgeries)の方が多いくらい、入院日数が短いのですが、それでも、ひとたび入院すると、ちゃんと回復しているかどうかを確認して、退院させてくれるのです。

そのリトマス試験紙が、オナラ。ちゃんとお腹が機能しているかどうかは、オナラでわかるんです(たとえば、どこかがふさがっていたら、ガスは通じないですものね!)。

というわけで、痛みが落ち着いてくると、こんなプレッシャーがかかります。

Did you pass the gas yet?
(もうオナラは出たかしら?)

ほんとに「看護師さんの合い言葉」っていうくらいに、みなさんがベッドサイドに来るたびに聞いてくるんですよ。

それで、わたしの同室の患者さんなどは、「早くオナラをして退院するわ!」と宣言をして、「豆でも炭酸飲料でも、とにかくガスが出るものをいっぱい持って来てちょうだい」と、ダンナさんにケータイで指示していましたね(わたしの病院では、ケータイは自由に使えました)。

それでも、自然には出なかったので薬でオナラを果たした彼女は、その日の夕方には、さっさと退院して行ったのでした。わずか2泊の入院でも、子供に会えないことが、彼女には耐えられなかったようです。

そして、その晩、ひとりポツンと残されたわたしは、夜のニュースを観ていたら、お腹がゴロゴロ、プッ! 翌日には、めでたく退院することができました。

歩くことでは、同室の彼女に大きく遅れを取っていたけれど、3泊で退院できたのだから、そんなに悪くはないのかもしれません。

体の大きさがまったく違うので、頑丈さが違うような気がしていましたが、きっと中身は、あんまり変わりはないのでしょうね。

というわけで、ときには、オナラは待ち望むもの。誇らしげに、こう言いたいときもあるのです。

I passed the gas!
(オナラが出たわ!)

Yay, it’s a road to recovery!
(やったわね、回復の第一歩よ!)

これは、看護師アンドレアさんの励ましのお言葉でした。

「でんでらりゅうば」と「おろしゃ」の謎

今日は、わらべ歌にまつわる「おろしゃ」の謎に迫ってみたいと思うのです。

2年ほど前に、『オランダさん』と題して、長崎で耳にした不思議な歌をふたつご紹介いたしました。

ひとつは、こちら。

あっかとばい
 かなきんばい
 オランダさんからもろたとばい

現代の標準語にすると、こんな歌詞でした。

赤いのよ
 カナキンよ
 オランダさんからもらったのよ

なにやらヘンテコな歌詞ですが、『オランダさん』のお話では、「赤いカナキンをもらった」というのが、いったいどんな意味なのかと謎解きをさせていただいたのでした。


そのときに、お話の最後にもうひとつ歌が出てきたのでした。それが、こちら。

でんでらりゅうば 出て来るばってん
 でんでられんけん 出ーて来んけん
 こんこられんけん 来られられんけん
 こーんこん

どうやら、子供の遊び歌として歌い継がれたもののようですが、意味はざっとこんな感じでしょうか。

「もし出られるならば、出て来るけれども、出られないので、出て来ませんよ。来られないから、来られないから、来ーませんよ。」

まあ、なんとなく「来ませんよ」と言っていることはわかっても、いったい何のことを歌っているのやら、さっぱりわかりませんよねぇ。


それで、この歌は、ごく最近、全国版の車の宣伝に使われたりして、結構みなさんの注目を集めたようですね。

だって、言葉の羅列が不思議だし、かりに意味がわかったにしても、いったい何の歌なのか理解しがたいから。

そんなわけで、4月の初め、東京のホテルで朝のテレビ番組を観ていたら、このCMソングを解読するコーナーが登場していましたよ(4月5日放送のフジテレビ『とくダネ!』を参照)

なんでも、この歌は、長崎では有名なもののようでして、1980年代には、カステラの文明堂が『わらべ歌シリーズ』として地方版CM に採用なさっていたそうです。

それで、当時のCM制作資料を調べてみると、1904年(明治37年)に勃発した日露戦争(大日本帝国とロシア帝国の戦い)のときに流行った歌、『長崎節』に由来するということでした。

この戦争では、敗戦国のロシア兵が捕虜となったそうですが、彼らの気持ちになって、長崎の人たちがこう歌にしたそうです。

「ロシヤの軍艦なぜ出んじゃろか 出られんけん 出ん出られりゃ出るばってん…(中略)コサック騎兵は なぜ来んじゃろか 来られんけん 来ん来られりゃ来るばってん…」

そう、「どうして助けに来てくれないのだろう?」と、ロシア兵の嘆きを歌ったもののようですが、それが、「(軍艦が)出られるならば、(助けに)出て来るけれども、来られないので、(助けには)来ませんよ」という意味の『でんでらりゅうば』のわらべ歌に変化した、という説なのです。


なるほど、そう言われてみれば、なんとなく納得はできるのですが、また次の疑問がフツフツとわいてくるのです。

だったら、その『長崎節』には、なんだってロシアの兵隊さんが出てくるの? って。

だって、いくら短い戦争だったとはいえ、「敵国」のロシア兵の気持ちを歌にするなんて、ちょっと不思議ではありませんか?

たとえば、第二次世界大戦のときなどは、アメリカやイギリスの「敵国」のことを「鬼畜米英(きちくべいえい)」と呼び、国民全員で憎んでいたではありませんか。

それから考えると、敵の兵隊さんに同情するような歌が流行るなんて、ちょっと普通じゃないような気がするんですよ。

もしかすると、長崎の人たちとロシアは、なにかしら特別な関係にあったんでしょうか?


それで、ネットで『長崎節』を詳しく調べようと思ったのですが、残念ながら、なかなか見つからないんですよ。

ただ、長崎には、もうひとつ有名な歌『長崎ぶらぶら節』というのがあって、その中に、「ロシア」が出てくるそうなんです。

今年ゃ十三月 肥前さんの番替(ばんがわ)り 四郎が島には見物がたらに おろしゃがぶうらぶら ぶらりぶらりと言うたもんだいちゅう

なんでも、「おろしゃ」というのが「ロシア」のことだそうで、1853年(嘉永6年)の幕末期、アメリカのペリー提督に遅れること1月半、ロシア帝国の使節プチャーチン提督が4隻の軍艦を率いて長崎に入港し、日本に開国を迫った、という史実をさしているそうです(長崎Webマガジン『ナガジン』、歌で巡るながさき「史話『ぶらぶら節』」を参照)

「肥前さん」というのは、第10代佐賀藩主・鍋島直正(なべしま・なおまさ)公のことで、同年、長崎港の入り口にある四郎が島、神の島、伊王島に大砲台場を築いたのだそうです。

そして、「番替わり」というのは、筑前(福岡)の黒田藩と交替でやっていた長崎警備の順番に肥前さんが当たった年という意味で、「その年に、肥前さんがつくった大砲を見物がてらに、ロシアがぶらりぶらりとやって来た」という歌詞になるのでしょう(佐賀新聞・長崎新聞合同企画『県境を超えて』、 004「神ノ島・四郎ケ島台場」を参照)

ふ~ん、だとすると、こういうことなのでしょうか?

幕末期から明治期にかけて、長崎にはロシア人がたくさんやって来て、街の人にとっては、ロシア人は身近な存在だった。だから、日露戦争で捕虜になったロシア兵に対しても、同情的な感情を抱いて、わざわざ歌にした。

たしかに、街とロシア人との縁は深いようでして、長崎で最も古い国際墓地「稲佐悟真寺(いなさ・ごしんじ)国際墓地」には、1858年(安政5年)、ロシア艦隊がまた来航したときに、病死した船員を葬るためのロシア人墓地がつくられたそうですよ(『ナガジン』、発見!長崎の歩き方「長崎に眠る異国の人々」を参照)

なるほど、亡くなった方々を葬る場所ができたということは、地元の人もロシアからの異邦人を受け入れた、ということなのでしょう。


そして、さらに調べてみると、ロシア兵と長崎の深いつながりがわかったのでした。

1857年(安政4年)、ロシア艦アスコルド号が修理のため長崎に一年近く留まったそうですが、そのときに、長崎奉行が稲佐(いなさ)をロシア将兵の居留地とし、遊女の出入りを許したそうなんです。

ロシアは「おろしゃ」、ロシア兵たちは「マタロス」と地元の人に呼ばれたので、ここは「魯西亜マタロス休息所」と呼ばれるようになりました。

そう、居留地となった稲佐というのは、上に出てきた国際墓地の稲佐悟真寺のあるところで、このときの「休息所」がもととなって、明治初年には「稲佐遊郭」ができたそうです。

明治になると、ウラジオストックを拠点とするロシア極東艦隊が、毎年氷結する港を避けて、長崎を越冬の地に選び、艦隊の将兵たちにとっては、冬を過ごす稲佐の地が第二の故郷ともなったのでした。

毎年、暮れから年明けとマタロスたちが越年するので、近隣の子供たちもロシア語をしゃべるようになったというほどロシア色が濃くなり、稲佐の名は「おろしゃ租界(ロシア人の行政地区)」として、ロシアやヨーロッパの都市にも知られるようになったのです(以上、原田伴彦氏著『長崎~歴史の旅への招待』中公新書54、中央公論社、1964年を参照)

そして、運命の1904年(明治37年)、ロシアと日本の間で戦争が勃発し、翌年にはロシアの敗戦で幕を閉じるのですが、このとき捕虜となったステッセル将軍以下、9千名を超えるロシア兵捕虜を、お栄(えい)さんというホテル経営者が中心となって、稲佐全域の80軒の宿泊施設で収容したのでした(長崎商工会議所のウェブサイト『長崎おもてなしの心と人』、長崎女性偉人伝「稲佐お栄」を参照)


きっと、このときのことが『長崎節』となったのでしょうね。

捕らえられて、艦隊に助けに来て欲しいけれども、戦争に負けたんじゃあ、味方は助けに来てくれない。だから、待っててもしょうがない、かわいそうな兵隊さんたち。

そんな街の人たちの同情が、歌に表れているのではないでしょうか。

いくら戦争の相手だったとはいえ、戦いは1年半で集結していますので、敵国として憎しみを抱くほど長くはなかったのかもしれません。

それに、ロシアと深い縁のある長崎の人たちにとっては、憎しみよりも、親近感の方が強かったに違いありません。

そして、もしかすると、この不思議な歌詞の中には、仲良くすべきロシアと戦争を始めた自国の権力者に対する、庶民からの戒(いまし)めが込められているのかもしれません。

国がどうのこうのって言うけれど、自由を奪われれば悲しいし、早く故郷に帰って家族に会いたくもなる。それは、どこの人だって同じでしょ? と。

そう考えてみると、『長崎節』でロシア兵に同情し、それを『でんでらりゅうば』で歌い継いだ長崎の人たちは、「元祖国際人」と言えるのかもしれませんね。

追記: 長崎の写真は、毎年冬に開かれるランタンフェスティバルのものです。

「郵便占い」: 今年の景気の見通しは?

Vol. 153

「郵便占い」: 今年の景気の見通しは?

今月は、アメリカの景気のお話から始めましょう。そのあとは、ちょっと哲学的なお話が続きます。

<郵便で占うアメリカ経済>
家を何日か留守にすると、郵便がたまってしまいますよね。どんなにネットが発達しても、こればっかりは、簡単にはなくなりません。
 


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日本の場合は、郵便受けにどっさりとたまることもあるようですが、アメリカの場合は、国の経営する郵便局(the United States Postal Service、通称USPS)が、最長一ヶ月は配達を保留してくれて、希望の日付にたまった郵便物を配達してくれます。
それもオンラインで申し込みができるので、便利だし、間違いも少ないのです。

そう、アメリカの場合、たまった郵便物を盗まれて個人情報盗難(identity theft)などの犯罪に使われたりすることもあるので、郵便受けにためるのは好ましくありませんね。

というわけで、配達保留は便利な制度ではありますが、我が家は、海外に行っていて2、3週間留守にするケースが多いので、一気に配達された郵便物を処理するのも、結構大変な作業です。

今月初め、両親の(大掛かりな)引っ越しを手伝い日本から戻って来たのですが、ちょっと驚いたことがありました。
昨年に比べて、いやに郵便物が多い! まだまだカタログ販売などの上等な冊子は少ないのですが、やれ、これを買わないかとか、こちらのサービスに乗り換えないかと、勧誘のジャンクメールがぐんと増えているのです。

中には、こんなものもありましたよ。名指しで来た手紙なのですが、開けてみると近隣の不動産業者のもので、こんなことが書いてありました。
「あなたのすぐ近所で、僕が売り家を担当したんですが、売り出してたった2週間で話がまとまりました。あなたの家のタイプだったら、今、買い手はたくさんいますので、すぐに売ることができますよ。興味がありましたら、僕にご連絡くださいね」と。

この方は、自身も近くに住むエージェントで、連れ合いも一緒にゴルフをしたことのある「ご近所さん」。決して怪しい人ではありません。
けれども、家を売る気はさらさらないので、手紙はさっさと捨ててしまいました。が、ふと思ったのでした。
 


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このジャンクメールの量といい、「家を売りませんか?」という勧誘といい、近頃、アメリカ経済は上向きなんだろうか? と。

ちょっと振り返ってみると、2008年秋にリーマン・ショック(世界金融危機)が起きたあと、ダウ平均株価は 6,626 という「どん底」を経験しています。
が、今年2月末には、4年ぶりに 13,000 を超え、今も好調をキープしています。

それに、住宅市場も少しは温かくなってきているようで、シリコンバレーの中心地サンタクララ郡では、80万ドル(約6千6百万円)を超える一戸建ての中古物件が「ひどく品薄」になっているとか。

そんなこんなで、巷(ちまた)の空気は、「そろそろ低迷した経済がグイッと上向いてもいいんじゃない?」といった感じでしょうか。

とは言うものの、実は、専門家に言わせると、「今年は、あまり経済成長は望めない」ということです。

なるほど、なかなか厳しい読みではありますが、たとえば、投資銀行ゴールドマン・サックスは、S&P 500の年末ターゲットを 1,250 としています(3月23日発表)。
これは、昨年末の最終取引日とほぼ同じですので、現在、調子良く 1,400 のあたりをウロチョロしているものが、年末に向けて下がる(!)と予測しているようです。

そして、もう一社モルガン・スタンレーは、今年のGDP成長率(平均予測)として、アメリカは 2%、ヨーロッパは -0.3%、日本は 1.1%、そして、中国は 8.4% としています(3月23日発表)。

アメリカに限っていえば、もし11月の大統領選で(オバマ大統領に対抗する)共和党候補が勝てば、国の支出が激減し、ちょっとした不景気に陥る可能性があるので、成長率はほぼゼロ(0.6%)という見方もあり得ると。

なるほど、たしかに米政府の発表をみると、昨年第4四半期のGDP成長率(前期比)が年率 3% だったものが、今年第1四半期には年率 2.2% に失速しています。

だとすると、巷の空気とは、温度差があるようですね。

巷の庶民は、「401(k) なんかの個人年金口座も増えて来たことだし、そろそろ不景気とはおさらばさ!」と希望を抱いている一方、シャカシャカと冷静に数字をはじく方たちは、「う〜ん、まだまだ予断は許さない」と、渋い顔をなさっているのです。

まあ、個人的には、「景気は上向きかも」という、わたしの『郵便占い』が当たって欲しいと思っているのですが・・・。

<北米大陸的な考え方?>
話はガラッと変わりますが、4月8日は、花祭でした。正式には「灌仏会(かんぶつえ)」と呼ばれるそうですが、お釈迦様の誕生日を祝う仏教行事ですね。

同じく8日の日曜日は、復活祭(Easter)でした。こちらは、金曜日に十字架にかけられたイエス・キリストが3日目の日曜日に復活したことを祝う、キリスト教の祭日ですね。
 


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復活祭というと、あちらこちらに隠された卵を見つける「エッグハント」や、芝生で卵をころがす「エッグロール」の競争と、子供たちにとっては楽しい一日です。
エッグロールなどは、130年前から、ホワイトハウスの復活祭の恒例行事となっていて、今年もオバマ大統領が、小さな子供たちに混じって卵をころがしていらっしゃいました(Photograph by Chip Somodevilla/Getty Images)

そんな楽しいイメージの復活祭ですが、「キリストの復活」や「生命」を祝うこの日は、キリスト教の祭日の中でも重要なものです。
ですから、この日が近づくと、キリスト教国では「神」にまつわる話題がグンと増えるのですね。

先日、公共放送を観ていたら、こんな番組が流れていました。

「神の存在を探ることは、人間にとって本質的にあいまいな、つかみどころのない疑問なのか?」
つまり、「人は、神の存在(もしくは存在しないこと)を知ることはできるのか?」と。
(宇宙観・認識・神といったトピックを取りあげる『Closer to Truth』というシリーズより)

いえ、ここでは、そんな難しい命題を議論するつもりはありません。

ただ、その中に登場した哲学者の話に対して、ちょっと不思議な気がしたのでした。

この哲学者は、カナダでは知られた方のようですが、「神は存在しない」立場から、こうおっしゃっていました。

人は何世紀にも渡って、神の存在を支持する神学者(theologian)と、否定的な科学者(scientist)に分かれて議論をし続けてきた。が、もし神が存在するとするならば、人間が繰り広げる、そんなあいまいな、出口の無い議論を続けさせることはないだろう。
神は全知全能の存在であって、完全なものである。だから、神の存在を確実に人に認識せしめないなどという、不完全なことをお許しになるわけがない。

ゆえに、神は存在しないと結論するのが妥当であると。

それを聞いて、わたしは反射的にこう思ったのでした。

神は、人間がどう思ってようと、構わないんじゃないの? と。

いえ、べつに神の存在を主張しているわけではありませんが、もし全知全能の完全な神がいたとしても、人が神の存在を疑問視することを、まったく何とも思ってないんじゃないかと。

だって、人間なんて、たぶん何かの偶然でひょっこりと生まれて来たもので、そんな宇宙の中では小さな存在がどう思ってようと、神はまったく気にしていないんじゃないかと思ったのです。

そして、もうひとつ、このカナダの哲学者の論理展開は、人間を世界の中心に置きたがる、ひどく「西洋的な」考えにも思えたのでした。
 


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だって、東洋の文化では、人間は自然の一部であって、自然によって生かされているものでしょう。人が自然を支配し、地球で一番卓越した存在などとは夢にも思っていないでしょう。

けれども、この哲学者の論理は、まるで「人間が地球の主人公」「神が対峙(たいじ)する唯一の存在」と言っているように感じたのでした。
そう、悪く言えば、何かを説明するために、自分にグイッと理屈を引き寄せているような「ご都合主義」な感じ。

もしかしたら、ヨーロッパでは、自分の都合で神を引っ張り出したりはしないのかもしれませんし、これは「西洋的」と言うよりも、「北米大陸的」な論理展開と言うべきなのかもしれません。

そう、なんとなく、アメリカやカナダではびこっているような話の持って行き方・・・なのかも。

<風に舞う塵(ちり)>
というわけで、北米大陸では、みんながみんな「ご都合主義」なのかと問われれば、そんなことは決してないのです。

ときに、難しい言葉で人を煙に巻くような哲学者よりも、よっぽど心に響くことをおっしゃる方がいます。そして、ときに歌だって、神髄をついていて、心にジンとくるものがあります。
 


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たとえば、1970年代のアメリカのロックバンド「カンザス(Kansas)」の『ダスト・イン・ザ・ウィンド(Dust in the Wind)』。

近頃、わたしは70年代のロックに凝っているのですが、とくに、この曲は、聴き惚れるような名曲なんですよ。
ま、そう思った方も多かったらしく、カンザスの出した曲の中でも、一番のヒット曲となりました。

アコースティックギターの静かな前奏で始まる、なんとも美しい歌なのですが、歌詞がまた、なんとも哲学的なんですよ。

というわけで、以下に引用してみましょう(自分なりに日本語訳をさせていただきました)。

目を閉じてみる、ほんの一瞬だけ。すると、瞬間はとっくに過ぎ去っている
I close my eyes, only for a moment, and the moment’s gone
すべての夢は、目の前を通り過ぎていく、おもしろいくらいに
All my dreams pass before my eyes, a curiosity
風に舞う塵(ちり)
Dust in the wind
すべては、風に舞う塵
All they are is dust in the wind

代わり映えのしない歌、そんなものは果てしない海の一滴でしかない
Same old song, just a drop of water in an endless sea
みんな目をそむけようとするけれど、僕たちのやっていることは、いつしか地に崩れ去っていく
All we do crumbles to the ground though we refuse to see
風に舞う塵
Dust in the wind
僕たちは、風に舞う塵
All we are is dust in the wind

そんなにしがみつこうとしてはいけないよ。だって、地と空のほかに、永遠に続くものなんてないんだから
Now, don’t hang on, nothing lasts forever but the earth and sky
するりと逃げていく。持ってるお金を全部つぎこんだって、一分たりとも買えやしない
It slips away, and all your money won’t another minute buy
風に舞う塵
Dust in the wind
僕たちは、風に舞う塵なのさ
All we are is dust in the wind
風に舞う塵
Dust in the wind
すべては、風に舞う塵でしかないのさ
Everything is dust in the wind

どうでしょう?

ひどく日本的な感じもしませんか? だって、日本語にも「風の前の塵」という表現があって、「はかない存在」をさしますものね。

でも、こちらのカンザスの歌は、アメリカ先住民族の言い伝えをもとにしているそうですよ。「人間は、風に舞う塵にしか過ぎない」と。
 


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いずれにしても、果てしない宇宙と比べると、人はちっぽけな新参者。

137億年前にできた宇宙に、ひょっこりと顔を出し、よかれと思ってやってることも、見事に裏目に出るような問題児の寄せ集め。

そんな悲しくなるような、小さな存在ではありますが、自分を見つめ、「塵みたいな矮小(わいしょう)さ」を自覚しているところが、人間の偉いところでもありますよね!

夏来 潤(なつき じゅん)

 

蛇行するパトカー

アメリカでは、車が必需品ですね。

ですから、車を運転する機会も増えますし、運転していると、いろんなことに遭遇します。

そして、あれはいったい何だろう? と思うことも、しばしばあるのです。

きっと、こちらも、「あれはいったい何?」と思われる類(たぐい)に違いありません。

それは、道路で蛇行するパトカー。


たとえば、先日、こんなことがありました。

シリコンバレーからサンフランシスコに向けて北上し、いよいよ市内に入るあたりから、フリーウェイ101号線(US 101)を280号線(Interstate 280)に乗り換えました。

この路線は、湾沿いの野球場 AT&Tパーク(メジャーリーグ野球のサンフランシスコ・ジャイアンツのホームグラウンド)なんかに行くときに便利です。

どうしても、101号線は市内に入ると混んでくるので、その渋滞を回避して、すいすいと快適に球場まで行くことができるのです(写真は、街の西側から眺めた球場。ご覧のとおり、サンフランシスコ湾のすぐそばで、特大のホームランはポチャリと入り江に落ちる近さです)

この日、280号線を快適に進んでいると、間もなく後ろの方から、黄色いランプをぴかぴかしたパトカーがやって来ました。

パトカーは、州のハイウェイパトロール(the California Highway Patrol、通称 CHP)のものですが、もし誰かをスピード違反で捕まえたいのであれば、のランプをぴかぴかさせて、違反車を追いかけるはずです。

ところが、黄色のランプのまま、その辺の車をグイグイと追い抜いて行くのです。

そして、パトカーがあるところまで行ったと思ったら、前を運転する車がすべてノロノロ運転になりました。

あ~、また始まったぁと、連れ合いとブツブツつぶやいていたのですが、このノロノロ運転の原因は、一般車の前で、CHPのパトカーが「蛇行運転」をしていたから。

そう、ほんとに文字通り、クネクネと蛇のように蛇行運転をするんですよ。

もし一方向5車線あるとしたら、その5車線全部を使って、クネクネと蛇行するんです(写真では、先頭に小さく黒っぽく見えるのが CHPのパトカー。この瞬間は、真ん中の車線を走っています)

後ろを運転する車は、まさかパトカーを追い越すわけにはいかないので、当然のことながら、全員がノロノロ運転になってしまうんですね。


それで、どうしてパトカーがそんな「異常行動」をとるのかと言えば、それは、後続の車に注意を促すためなのです。

たとえば、「前方で事故が発生していて、ちょっと先から渋滞している」とか、「なんだか、みんなスピードを出し過ぎているから、スローダウンするように」とか、警察官が「危ない」と思ったときにとる行動なのです。

けれども、この日の蛇行は、「いったい何だったの?」という感じでした。

いえ、きっと警察官は、こう考えていたのでしょう。

「この280号線を下りた先の球場では、今晩ジャイアンツのナイターがあるから、そろそろファンが球場に向かうころ。だから、ここから徐行運転し、フリーウェイを下りたら、通行人には気をつけるように」と。

けれども、道路はまったく混んでいないし、球場はまだまだずっと先だし、なんでこんな場所で蛇行してるの? と不思議に思ったくらいでした。

そして、連れ合いと出した結論は、こうでした。「あれは、絶対に趣味でやってるよね!」

この日は、抜けるような青空の土曜日。左に少しずつカーブしていくフリーウェイは、サンフランシスコの高層ビルに向けて「発射台」のように登り坂になっています。たぶん、ここからの眺めは、市内の道路でも一番いいんじゃないかと思えるほど(この瞬間は、パトカーは右端の車線を走行中)

その気持ちのいい道路をひとりじめにして、彼(彼女)はクネクネと蛇行してみたかったに違いありません。

そう、あれは「職権」を利用した、フリーウェイのひとりじめなんです!

ま、それは単なる想像でしかありませんが、「いいなぁ、わたしも一度でいいからやってみたい!」と思わせるような、見事なまでの蛇行運転なのでした。

ちなみに、そのあと球場のあたりに来てみたら、車は少ないし、人だってまばらでしたね。

この晩は、シーズン始まって最初のナイターのホームゲームでしたので、球場は満席だったようですが、それにしても午後3時って、試合が始まるまでには、まだまだ時間があるでしょう!


というわけで、カリフォルニアのフリーウェイでパトカーの蛇行運転を見かけたら、まずはスローダウン。間違っても、パトカーを追い越してはいけません(たとえ「あれは趣味でやってるんじゃないの?」と、いぶかしく思ったにしても)

これがカリフォルニアだけの習慣なのか、それとも他州でもやっているものなのかは、わたしにはわかりません。

少なくとも、以前住んでいたフロリダでは見かけたことはありませんし、連れ合いもいろんな州で運転してみて、見たことはないと言っていました。

まあ、蛇行していようと、まっすぐ進んでいようと、路肩に止まっていようと、パトカーを見かけたらスピードを落とすというのは、運転の常識かもしれませんよね。

そう、万が一スピードを出していたにしても、パトカーを見かけたら、「敬意を表して」スピードをゆるめる。それは、警察に対するエティケットなのかもしれませんし、向こうだって「ふん、かわいいヤツ」と、見逃してくれるかもしれません。

というわけで、今日のお話は、カリフォルニアの警察の「奇行」、蛇行運転についてでした。

(最後の写真は、フリーウェイを下りて、市内の2番通りを北上中。街のあちらこちらには、サンフランシスコ・ジャイアンツの選手の垂れ幕が飾ってあって、こちらは55番。長めの散切り頭がトレードマークの看板投手、ティム・リンスコム選手の垂れ幕です)

I have a prior engagement(先約があります)

シリコンバレーも、ずいぶんと春らしくなって、今日あたりは、春をすっとばして初夏の陽気となりました。

そこで、だんだんと暖かくなってくると、お誘いを受けることが増えてきますよね。

たとえば、こんなものがあるでしょうか。

Would you like to come to our Easter party with your daughter?
 うちで開く復活祭のパーティーに、娘さんと一緒にいらっしゃいませんか。

こんなものもあるでしょう。

Please feel free to join us for our backyard BBQ (barbecue) party this coming Sunday!
 次の日曜日、我が家の裏庭で開くバーベキューパーティーにぜひお越しください。


そこで、行きたい! と思ったら、話は簡単ですよね。

Thank you. We’ll be there for sure.
 ありがとう。絶対に行くわね。

とか

Yes, I’ll join you guys.
 うん、きみたちと一緒に楽しむことにするよ。

などと答えれば、相手も招待を受け入れてくれたんだなと思って、会うのを楽しみにしてくれることでしょう。


ところが、もし都合が悪かったらどうでしょうか。

たとえば、先に誰かと約束をしていて、どうしてもその日は行けない、ということもあるでしょう。

そういう場合は、こう言えばいいのです。

I’m sorry, but I have a prior engagement.
ごめんなさい、先約があるのよ。

ま、ちょっと気取った言い方にはなりますが、よく使われる表現なのです。

ここで engagement というのは、「婚約」のエンゲージメントと同じ言葉ですが、単に「(どこかで誰かと会う)約束」という意味でもあるのですね。

そして、prior というのは、「(あることよりも)以前の、先の」という形容詞です。

ですから、a prior engagement で、「先にできた約束」つまり「先約」という言い回しになりますね。

この engagement という言葉を、「約束」という意味で使う場合は、ほとんどの場合、こちらの a prior engagement という慣用句で使うようです。

一方、prior という形容詞は、日常でもよく使うものです。たとえば、こんな風に。

He sold the house prior to his moving.
 彼は、引っ越しの前に家を売った。

このように、一般的に prior to ~ (~の前に)という慣用句で使われるでしょうか。


というわけで、I have a prior engagement は、結構便利な表現なんですよね。

なぜって、ほとんどの場合、こういう風に言えば、それ以上理由を追求されることはないでしょうから、面倒くさくないのです。

もちろん、親しい間柄でしたら、「その日はアンジェラとショッピングに行くことになってるから、ダメだわ(Sorry, I can’t make it. I’ll go shopping with Angela that day)」と、はっきりと理由を言えばいいでしょう。

けれども、そこまで親しくない人だったら、「先約があるのよ」と言えば、まず「どんな約束?」なんて聞いてくることは無いでしょう。

ということは、あまり気乗りのしない招待だったら、言い訳に使えるかも・・・(?)


まあ、言い訳に使えるかどうかは、誰にどんなイベントに招待されたかとか、相手とどれほど親しいかとか、いろんな要因がからまってくることでしょう。

けれども、どこの国の文化にしても、「断る」というのは難しいことですよね。

あまりつっけんどんに断っても、相手にイヤな気分を味わわせることになるし、あまりあいまいに断っても、「ぜひいらっしゃいよ」と相手にごり押しされそうだし、ちょっと微妙なところではあります。

というわけで、ケースバイケースで、自分で判断するしかないと思いますが、まずは、今日の表現を覚えておくと便利ですよね。

I have a prior engagement.

先約があるんです。

ベターハーフ(Better Half)

一年ほど前に、「ダンナ様の教育 パート2」と題して、家事の得意な連れ合いのお話をいたしました。

術後、固形食が食べられるようになると、真っ先にご飯を炊いて、病室に駆けつけてくれましたし、退院後も料理に掃除に洗濯と、スーパーマンのように活躍してくれて、とってもありがたかったというお話でした。

そして、今日も、なにやら朝からソワソワしているなと思ったら、家じゅうの掃除をしようと、わたしが朝食を終えるのを待っていたのでした。

いつも自分が使うキッチンを中心に、念入りに掃除をしたかったようでして、キッチンに行ってみると、普段テーブルに4つある椅子が、ひとつしかありません。

なるほど、よっぽど掃除にとりかかりたかったに違いありません。

いよいよ、わたしの食事が済むと、がっしりと重いイギリス製の掃除機をかけたと思ったら、今度は、でっかいアメリカ製の機械で、床をピッカピカに磨いていたのでした。


こういう風に書くと、わたし自身は料理も掃除もできない人だと思われそうですが、そんなことはないんですよ。

ちゃんと料理もするし、ピッカピカのものをピッカピカに磨くのも大好きです。

けれども、たしかに、重い掃除機をかけるのは「好き」と言えばウソになるでしょうか。だって、あんなに重い機械は、女性には向かないんですよ。

ずしりと重い掃除機を毛足の長いカーペットでころがすほど、重く感じることはないと思ってしまいますもの。

ですから、こちらが何も言わないうちに、連れ合いがやってくれるみたいです。

まあ、一度くらいは、こう言ったことがあったのかもしれません。「あの掃除機は、重過ぎて大嫌い」と。

でも、それを何度も連呼することなく、わたしのメッセージを受けとめてくれたのでしょう。

そう、こちらが「やってよ!」と無理強いすることもなく、進んでやってくれているのです。

さらに、連れ合いの奇特(きとく)なところは、その手間のかかる掃除を楽しんでいることでしょうか。単に、掃除をすることが嬉しいらしいのです。

なるほど、世の中には珍しい人がいたもんだと、いつも驚かされるのですが、まあ、人って、わからないものですよね。

自分が面倒くさいとか、イヤなことでも、人にとっては楽しいこともあるらしいのですよ。


それで、以前も書きましたが、やっぱり「無理強いしない」とか、やってもらえるように「うまく仕向ける」というのが、キーポイントではないかと思うのですよ。

それは、もしかすると、配偶者だけではなくて、子供にも当てはまることなのかもしれませんね。

だって、人は「やれ!」と言われれば、イヤな気がするものですから。

「なんとなく大変そうだな」と思ったり、「自分にも何かできないかな」と考えたりすると、自分の方から「手伝おうか?」と言ってくるものなのかもしれません。

と、言いましても、我が家の場合は、わたしが「うまく仕向けた」わけではなくて、最初から、連れ合いが家事は得意だったというケースなんだと思います。


ところで、英語では、配偶者のことを、こう表現することがあるんです。

Better half(ベターハーフ)。

ハーフというのは、「自分の半分」という意味ですが、ベターを付けたことによって、「自分の中でも良い方の半分」といった意味合いになるでしょうか。

まあ、人が使う言葉ですから、良い意味にも、悪い意味にも解釈することはできます。

たとえば、文字通り「わたしの良きパートナー」という意味で使ったり、「うちの(口うるさい)ベターハーフに聞いてみないとわからないよ」と、ちょっと皮肉っぽく使ったりすることもあるでしょう。

けれども、もともとは、「自分という一個の存在の中で、良い方の半分」という風に、相手に敬意を表して使われ始めた言葉だと思うのです。「相手がいないと、自分は完結しない」というような意味も含まれているのでしょう。

相手に対する尊敬の念と、「自分はまだまだだなぁ」とへりくだった部分と、その両方がいりまじった言葉なのではないでしょうか。


それから、こういう表現もありますね。

Significant other(シグニフィカントアザー)。

こちらもベターハーフに似た言葉ですが、「重大な(シグニフィカント)」「もうひとり(アザー)」。つまり、「自分の大事な人」。

自分と同じように、そして、ときに自分よりも大事な人。

こちらの言葉も、配偶者や、パートナーに対して使われます。

こういった英語の表現を思い起こすと、やはり、「人生のパートナーは、自分という存在の大事な一部分なんだ」と、再確認するのです。

いえ、なんだか変なことを言うようですが、緑豊かな、新しい生命の季節を迎えると、なんとなく神妙な気分になってしまうのですよ。

人って、人と人の結びつきって、どんなものだろうかって。

ま、それにしても、なんにしても、お掃除を楽しげにやってくれる連れ合いには、感謝しなければなりませんよね!

イースターバニーちゃん!

以前も何回かお話しいたしましたが、イースター(Easter)とは、復活祭。

バニー(Bunny)とは、うさぎさんのことですね。

そう、イースターバニーは、復活祭の主役ともいえる、うさぎさんなのです。

復活祭は、金曜日(Good Friday)に十字架にかけられたイエス・キリストが、3日目の日曜日(Easter Sunday)に復活したことを祝うキリスト教の祭日ですが、「復活」「生命」「豊穣」といったありがたいものを祝うのに抜擢されたのが、うさぎさん。

なぜなら、うさぎさんは、子だくさんで生命力を感じさせる生き物。春には、たくさん子供も生まれますし、新しい生命の芽吹く春の復活祭には、うってつけの動物なのです。(上の写真は、Hallmarkの復活祭用グリーティングカード)


そんなわけで、復活祭のうさぎさん「イースターバニー」は、子供たちの人気者。
 先頭に立って、「イースターパレード(Easter Parade)」を率います。

こちらの写真は、サンフランシスコのちょっと南、サンマテオ市で開かれたイースターパレードの様子。着ぐるみのバニーくんが、満面の笑みで(?)みんなに手を振っています。(Photograph taken by John Green, posted in the San Jose Mercury News on Sunday, April 8th, 2012)

それから、イースターバニーくんが隠したとされる卵(Easter eggs)やお菓子を見つける「エッグハント(Egg Hunt)」も、復活祭恒例の行事となっています。

復活祭の前日の土曜日や当日の日曜日には、あちらこちらの街で、公園の芝生を開放して、子供向けのエッグハントが開かれます。

会場には、朝から子供たちが集まって、「ヨーイ、ドン!」で、芝生に隠された卵やお菓子を拾い集めるのです。(Photograph of Egg Hunt in Central Park, San Mateo by John Green/Mercury News)

昔は、色とりどりに飾り付けをしたゆで卵が使われましたが、今では、お菓子の入ったプラスティックの卵や、ラップに包まれた卵型のお菓子が使われることが多いようです。

どうして卵なのかって、伝統的に、卵は「生命力」のシンボル。そして「かたゆで卵(hard-boiled eggs)」が使われるのは、生卵だったらグシャッと割れてしまうから。

そんな卵を集めるエッグハント。もちろん、子供たちにとっては、たくさん拾い集めた方が嬉しいという、あくまでもゲーム感覚を楽しむ行事なのです。名前だって、卵の「ハント(狩り)」ですからね。


エッグハントの行事は、我が家の近くでも開かれました。

復活祭の前日の土曜日、ゴルフ場のパター練習場が、子供たちのエッグハントの舞台となりました。

いつもは真剣なまなざしのゴルファーでいっぱいのパター練習場は、この日ばかりは、真剣なまなざしの子供たちでいっぱい。少しでもたくさんの「獲物」をしとめようと、スタートの合図を待つのです。

そんな春うららの暖かい朝、ふとカーテンを開けると、我が家の裏庭には、見慣れない小動物が来ていました。

う~ん、なんとなく、うさぎさんの顔つきですが、それにしては、顔が大きい!

胴体よりも、顔の方が大きく見えるのです。

そして、全体に丸っこい。なんとなく、お手玉を思い浮かべるような丸っこさです。

だって、我が家には、ちょうどこんな形の猫のお手玉がありますよ。

うさぎさんって、通常すらりとした体つきなんですよね。そう、いかにも「速さ」を連想させるような、しまった体つき。

いつか、我が家の中庭をチョロチョロしていたうさぎさんは、こんなにスレンダーでした。

体はほっそりしているし、耳だって、危険を察知できるように、ピッと立っています。

それなのに、この朝の小動物は、なんだか「暢気」な感じがします。

眠たそうにボ~ッとしているし、わたしがカーテンを開けても、ハ~?といった面持ちでこちらに目を向けただけだし・・・

そのうちに、モゾモゾと動いて、外壁の隅っこにうずくまってしまいました。

そこで、外に出て写真を撮ってみたのですが、わたしが近づいても、逃げようともしないのです。

相変わらず、ボ~ッとして「夢うつつ」の状態なのです。

春だから眠いのでしょうか? それとも、小さいなりに、なにかしら疲れていたのでしょうか?


あとで連れ合いに聞いてみたのですが、やっぱり、この朝の小動物は、うさぎの子供だったようです。

なんでも、オトナになっていないうさぎは、全体に丸っこいイメージだそうです。そんな丸いのが、ゴルフ場にズラッと並んで、人間さんがティーオフするのを面白そうに眺めているそうです。

きっと、この日は、パター練習場でエッグハントが開かれていたので、子供たちに捕まらないようにと、我が家の裏庭に逃げて来たのでしょう。

以前、「うさぎさんはいずこ?」というお話にも出てきましたが、どうも、復活祭の前後には、うさぎさんはゴルフ場から姿を消す傾向にあるようなのです。

そう、復活祭の頃、イースターバニーちゃんは、あたりの家々に逃げ込むみたい。

そういえば、その翌日も、中庭の八重桜を眺めていたら、背後でゴソゴソと物音がしました。

トカゲにしてはずいぶんと大きな物音だなと思っていると、生け垣からうさぎが飛び出して、まさに「脱兎のように」駆け抜けて行ったのでした。

こちらは、前日のうさぎよりは大きかったのですが、やはり、春は「生命の季節」。うさぎさんも、次から次へと生まれているようですね。

(ちょっと見にくいですが、写真中央、木の隣に小さく写っているのが、逃げ出したうさぎさん)


ところで、復活祭のイースターバニーくんが指揮をとるのは、エッグハントだけではありません。

もうひとつ「エッグロール(Egg Roll)」という行事があって、こちらは、大統領の住むホワイトハウスでも開かれるのです。

なんでも、1878年、ルーサーフォード・ヘイズ大統領がエッグロールを始めたのが脈々と受け継がれ、今ではホワイトハウスの伝統となっているそうです。
(ヘイズ大統領は、南北戦争後に大統領となったユリシーズ・グラント大統領の次期、第19代大統領で、自身も北軍の少将として戦い、負傷した経歴を持つ方です。)

今年も、オバマ大統領のいるホワイトハウスでは、たくさんの子供たちと親が招かれ、恒例のエッグロールが開かれました。

そう、ホワイトハウスには、「サウスローン(South Lawn)」と呼ばれる、広大な芝生のお庭があるでしょう。そこで、エッグロールが開かれるのです。

ファーストレディーのミシェルさんや、娘さんのマリアさん、サーシャさんも見守る中、オバマ大統領がピーッと笛を吹いて、エッグロールが始まります。

いえ、なんのことはない、大きなスプーンでゆで卵をころがして、先にゴールラインに達した子の勝ち! というゲームです。
 そう、コロコロと卵をころがすから、エッグロール。(Photograph by Chip Somodevilla/Getty Images)

でも、やっぱりエッグハントと似ていて、子供たちにとっては、「勝ちたい!」と競争心をあおるお遊びなのです。

オバマ大統領も子供たちと一緒になって、コロコロと卵をころがしていらっしゃいましたが、この日は、エッグロールだけではなくて、かけっこをしたり、ミシェルさんの絵本の朗読に耳を傾けたり、工作をしたりと、子供たちも気持ちのいい芝生で、楽しい一日を過ごしたようでした。

なんでも、復活祭に向けては、全米で20億ドル(約1千6百億円)ものお菓子が売られるそうですが、きっと、ホワイトハウスでは、チョコレートやマシュマロのお菓子よりも、果物やフルーツジュースの自然食が中心だったのではないでしょうか。

だって、ミシェルさんは、アメリカに蔓延する子供の肥満(childhood obesity)を改善しようと、食生活の見直しに努めている方ですからね。

砂糖がつまったお菓子やソーダよりも、野菜や果物を食べましょう! そして、たくさん運動をしましょう!

そんなメッセージは、ホワイトハウスの復活祭を訪れた子供たちにも、やんわりと伝えられたことでしょう。

ありがとう (Thank You), California!

こんな日本語と英語の混ざった見出しは、3月11日の新聞に掲載されたものでした。

東日本大震災からちょうど一周年のこの日、シリコンバレーの地元紙サンノゼ・マーキュリー新聞には、カリフォルニアの人たちに感謝する文章が掲載されました。

掲載したのは、在サンフランシスコ日本国総領事の猪俣弘司氏。

「敬愛なるカリフォルニア州民の方々へ」と始まる文章には、こんなことが書かれています。

一年前の3月11日、日本は未曾有の地震と津波に襲われ、何千という命が奪われただけではなく、日本が今まで経験したことのない深刻な核の事故に直面いたしました。

しかし、そんな暗黒の刻(とき)の中、カリフォルニアの方々は、わたしたちに思いやりとなぐさめ、そして希望を与えてくれました。すべてのお悔やみの言葉や心の支え、そして暖かい人類愛を示していただいたことに、わたしたちは深い感謝の気持ちを抱いております。

あなた方の手助けや友情のおかげで、日本の復興はおおいに進みました。が、まだまだやらなければならないことは山積しています。我が国はあなた方とともに、地震の教訓を共有し、天災に強い社会を築き、核の安全、人類の安全、経済の安定を促進することに献身する所存です。

日本の復興や発展については、順次ご報告いたします。

みなさまが快く手を差し伸べてくださったことに、再度感謝の意を表するものであります。


この一周年の日曜日、サンフランシスコの日本街では、慰霊祭が開かれました。

広場には現代風の五重塔があって、街のシンボルともなっていますが、その塔の前では、いろんな宗派の代表者が出席して、祈りの言葉を捧げました。

そして、近隣からは市民の方々も集い、一年前の大惨事に思いを馳せ、手を合わせました。


一年前、このサンフランシスコの日本街とサンノゼの日本街は、いち早く義援金集めの行動に出ました。

祖先がやって来た祖国の大惨事を、無視することはできない! と、日系の方々が立ち上がったのです。

昨年、「一枚の写真」というエッセイでもご紹介しましたが、サンノゼでは、お寺で初七日が開かれたあと、ボーイスカウトの子供たちが義援金を募る「ドライブスルー」を開き、行き交う車の窓から募金を受け取りました。

サンフランシスコでは、「義援金テレソン」を開いて、ベイエリアじゅうの住民から電話で義援金を募りました。

このときには、「テレソン」を終えてもどんどん寄付金が寄せられ、日本街協会だけで4百万ドル(およそ3億3千万円)が集まりました。この義援金は、直接、代表者の方々が被災地に出向き、地域の方々に届けました。

オリンピックで金メダルをとったベイエリア出身のフィギュアスケーター、クリスティー・ヤマグチさんも、日本街の代表者とともに東北を訪れ、避難所をまわって、不便な生活を送っている方々を励ましたそうです。

そして今でも、日本の復興を願って、日本街協会には、毎月数千ドルの単位で義援金が寄せられるということです。


一周年の日曜日、日本街の代表者はローカルニュースでこう語っていました。

現地で目にした光景には、言葉にできないほどの驚愕を覚えた。それはもう、そこに立った者にしかわからないような、巨大な埋葬の地を彷彿とさせるものだった。

日本はだいぶ立ち直ったとはいえ、まだまだ大きな助けが必要。わたしたちも現地でなんとか行動を起こしたいと思うのだが、こちらにも自分たちの生活があり、それを放り出すわけにもいかない。そんな厳しい葛藤と闘っている。

第二次世界大戦中、自国アメリカから「敵国の住民」として収容所に入れられた経験のある日系の方々は、辛い出来事がどんなものであるのか、そこから立ち上がるのはどれほど大変なことかを知っているのです。(上の写真は、日本街にある日系の歴史・暮らしを伝える記念碑)


先日、イランからいらっしゃったご夫婦と話をしていたら、エキゾティックな面立ちのご夫人が、こんなことを教えてくれました。

3月11日のあの日、日本の大地震と大津波の被害を知って、ほんとに悲しくて、悲しくて、涙が止まらなかったの。
 なんとかして日本の人たちにわたしの気持ちを伝えたくなって、翌日、サンフランシスコの日本街に行ってみたのよ。

そうしたら、そこには普段通りの平和な時間が流れていて、「え、泣いているのはわたしだけ?」と、ちょっと拍子抜けしてしまったわ。

震災直後は、まだ日本街の行動方針が話し合われている段階で、表面上は静かな時が流れていたようですが、それにしても、外国の方々は、心情を行動にうつすのが早いものだなぁと、彼女のお話を聞きながら痛感したのでした。

そして、韓国からやって来た友人は、一周年の直後に起きた大型の地震を知って、わたしの心配をしてくれました。

「あなたって、もうすぐご両親のお引っ越しで日本に行くんでしょ? でも、あちらでは大きな地震があったみたいで、ニュースを聞きながら、『今、行っちゃダメ!』って思ったわ」と。

幸い、両親の場所では影響はなかったので、その旨を伝えて安心してもらったのですが、心配をしていただけるなんて、ほんとにありがたいことだなぁと思ったのでした。

それはきっと、国籍とか民族とか、そんなものを超えた、まさに「人類愛」といった言葉で表されるような、仲間に抱くような感情なんだろうなと思うのです。

だから、きっと、カリフォルニアの方々にだけではなくて、世界じゅうの人たちに「ありがとう」って言わなくちゃいけないんですよね。

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