2013年: 印象に残ったモノ
- 2013年12月28日
- 科学
Vol. 173
2013年: 印象に残ったモノ
2013年も、もう終わり。歴史の1ページになろうとしています。
日本では、師走は忘年会のシーズンですが、「年忘れ」という言葉は、すでに15世紀(室町時代)には文献に現れているそうですね。
個人的には、何をそんなに「忘れたい」ことがあるのだろう? と思ったりもするのですが、今月号では、忘れたいことも忘れたくないこともひっくるめて、2013年を振り返り二つのお話をいたしましょう。
<かわいそうな、キンドルちゃん>
今年1月号では、第3話「白黒への回帰」と題して、アマゾン(Amazon.com)の電子書籍「キンドル(Kindle)」を自分自身にプレゼントして、ウキウキしているお話をいたしました。
「ペーパーホワイト(Paperwhite 3G)」という白黒モデルで、電子書籍を読むことに特化したデバイスです。
フューシャ色のおべべを着せて、大好きなジョン・グリッシャム氏の最新作「The Racketeer」をダウンロードして、嬉々として読み始めたのはよいものの、いつの間にやら、話の途中で置きっぱなしになっているのでした。カワイイからって、あちこち連れて歩いていたのに・・・。
それで、どうして最後まで読む気にならないのだろう? と不思議に思っていたのですが、どうやら自分は「紙ものの本」が好きらしい、ということに気が付いたのです。
実は、これには科学的な根拠があるそうで、コンピュータやタブレットの画面で本を読むと、紙面で読んだときに比べて、内容をよく記憶しないそうです。
「いや、自分は違う。だって、子供の頃から紙の新聞なんて読んだことないもん!」と主張するデジタルネイティヴ(digital native)の若者だって、実験してみると、紙面で読んだ内容の方をよく覚えているんだとか。
人間の脳は、言葉を読み、それが象徴する意味を考えながら読み進むわけですが、同時に文章を物体(physical objects)として認識しているらしく、本全体は「登るべき山」や「渡るべき川」のように自分が見渡している地形(physical landscape)みたいに判断するんだそうです。
ですから、見開きのページのあの辺に出ていた文章だとか、本の半分辺りでこんな展開があったとか、お話を「本の地形図」に照らし合わせて覚えるらしいのです。
ということは、「本のどの辺りに自分は存在している(where you are in a book)」というのが、人間が内容を理解する上で大事なことであり、それがコンピュータやタブレットのような二次元の世界ではやりにくい、というのが最近の研究でわかってきたということです。
(参考文献: ”Why the Brain Prefers Paper” by Ferris Jabr, Scientific American, November 2013, pp48-53)
この科学記事を読んで「なるほど!」と膝をたたいたわけですが、自身を考えてみると、どこを旅していても、自分が地球儀や地図のどの辺を歩いているのだろうと、常に気になるタチなんです。ですから、本の中でも自分の位置が気になってしまって、余計に「紙ものの本」が好きになるのかな? と仮説を立ててみたのでした。
それに、あの本を開いたときのインクのにおいって、たまらないんですよね。
「かぐわい香り」とでも言いましょうか、アメリカのペーパーバックって、日本のものとはまた違ったにおいがするんですよ。
そう、本屋さんだって違ったにおいがするのですが、あれは、インクが違うからでしょうか?
ま、そんなわけで、すっかり忘れられた「かわいそうなキンドルちゃん」ではありました。
が、その代わり、クリスマスを直前にアマゾンプライム(年会費79ドル)に加入したので、配達料が無料になり、なおかつ「アマゾン・インスタントビデオ」で映画や人気番組のストリーミング(ネット配信)が楽しめるようになりました。
ネット接続のテレビだと、きれいな大画面で映像が楽しめます。
きっと来年は、キンドルちゃんに代わって、こちらが重宝されることになるでしょう。
<テスラにびっくり!>
今年も、新しいモノが世に登場し、話題となりました。アップルの第7世代「iPhone 5s」や第5世代「iPad Air」(写真)もそうでした。
iPad Airは、初代iPad(2010年1月故スティーヴ・ジョブス氏がサンフランシスコの壇上で発表)の72倍の速さ(!)だそうで、その進化のスピードにびっくりです。
年初、一部の希望者に1500ドルで売り出された「Google Glass(グーグル・グラス)」も、話題となったひとつでしょうか。
Google Glassは、どこにいてもコンピューティングを身にまとえる「ウェアラブルコンピューティング(wearable computing)」の一例ですが、このアイディア自体は、まったく目新しいものではありません。
テクノロジー業界に長い方はご記憶にあるかとは思いますが、たとえば、わたしの出身企業でもあるIBMも、長年この分野の研究・開発を行っていました。
IBMの場合は、「ウェアラブル・パソコン」と銘打って試作機をつくり、航空機運航にも役立つのではないかと実験をしていた時期がありました。
たとえば、整備士が使う膨大なマニュアルをデータ化して、作業時に目の前のスクリーンで参照できるようにしよう、と意欲的な試みではありました。
試作機は日本IBMがオリンパスと共同開発し、1998年秋に発表したもので、2000年にはIBM本社がイメージアップのテレビコマーシャルにも使っています。
けれども、広く受け入れられなかったところを見ると、「なんだか面倒くさい(cumbersome)」という要素と、「なんだか気持ち悪い(creepy)」という要素がウェアラブルコンピューティングには常につきまとっているのでしょう。
そういえば、先日Google Glassをかけて車を運転していて、警察に捕まったドライバーがいましたが、サンディエゴ市警いわく「車の前方(運転席と助手席)にビデオプレーヤを設置してはいけないルールに違反している」。
そんなわけで、目新しく見えるモノも、業界古来のアイディアだったりするのですが、「これは、ほんとに新しい!」とビックリしたものがありました。
それは、電気自動車(EV)メーカー、テスラモーターズ(Tesla Motors、本社:シリコンバレー・パロアルト)の「モデルS」をショールームで観察したとき(写真は、サンノゼ市のショッピングモール・サンタナロウにあるテスラショールーム)。
モデルSは、前年にスポーツカー「ロードスター(Roadster)」を発売したテスラが、2009年9月に発表した高級セダン。
昨年6月に地元工場で生産開始となりましたが、なにせ、リチウムイオンバッテリーに限りがある。自社バッテリー工場建設の構想はあるものの、とにかく生産台数が少ない。だから、お膝元のシリコンバレーで広く見かけるようになったのは、今年に入ってからでした。
我が家の周りでも、モデルSがチラホラと現れ、近所のオーガニック(有機栽培)スーパーマーケットやゴルフ場のクラブハウスでも見かけるようになりました。
それで、ショールームでびっくりしたのは、とにかく車のつくりが単純に見えること。
こちらが、車体をはがしてシャーシ(骨組み)だけにしたものですが、たったこれだけで車が動きます。
そう、「エンジン」もこの中にエレガントに収まっているんです! だから、「エンジンルーム」の代わりに、車の前にも後ろにも、でっかいトランクがあるんです。
こちらが、後ろから見たシャーシ。右側に見えているのがインバータ(Inverter)、左側に見えているのが電気自動車を動かすモーターです。
車体の下全体は、平べったいリチウムイオンバッテリー(Lithium-ion cells)になっていて、バッテリーの直流(DC)電流をインバータで交流(AC)に変換します。
交流に変換された電流は、三相誘導電動機(three-phase AC induction motor)と呼ばれるモーターに流れ、電磁力で回転軸をまわして機動力が生まれます。
モーターとインバータの間にはギア(gear)が収められていて、これで車輪を動かすわけですが、なんと、モデルSにはギアが一個しかないそうです!
言うまでもなく、通常、車にはギアが何個かあって、これで順繰りにシフトして加速しますが、モデルSの場合はギアがひとつしかないので、いきなり「トップスピード」まで加速できる原理となります。
アクセルを踏んだだけボンと力が出るということで、だから「モデルSは加速がスゴい!」と言われるのでしょう(85kWhバッテリーモデル「85」で362馬力、時速60マイル(96キロ)加速5.4秒。パフォーマンスモデル「P85」で416馬力、4.2秒)。
まさに、単純さの中にエレガンスがあり、エレガンスは性能にもつながっているように見受けられます。
実際に試運転してみた人によると、「車底のバッテリーが重い感じがして、山道のコーナーでハンドリングが重い」とのことでしたが、まあ、街中を運転している分にはあまり気にはならないのでしょう。
それで、テスラは来春「モデルX」というSUV(スポーツ多目的車)を発売するプランなので、そのデモ車を見たいと思っていたのですが、「先週(10月12日)パロアルトのショールームには展示してたんだけどねぇ」ということで逃してしまいました。
昔のデロリアン(映画『バック・トゥ・ザ・フューチャー』で有名になった車)みたいに、鳥の翼状にドアが上に開くデザインで、女性ドライバーも注目している新車種です(「モデルX」の写真は、テスラのウェブサイトより。後日注:モデルXは、2015年春にリリース予定)。
その代わり、担当者いわく「あと4ヶ月もすると、スーパーチャージャー・ステーションで電気をチャージする代わりに、バッテリーごと交換できるようになるんだよ」。
なんでも、車体の下からチャカチャカっとボルトをゆるめて、パカッと新しいバッテリーパックと交換し、90秒で「満タン」「発進」だとか!
モデルSをテスラから借りた人の話では、自宅では乾燥機用220ボルトコンセントでチャージできたそうですが、やっぱり出先での充電は不可欠。
バッテリー交換ができれば、「お買い物のついでに電力チャージ」なんて面倒くさいことをやらなくても済むのです(モデルS「85」の環境保護庁(EPA)査定走行距離は265マイル。写真は、ショールーム近くの駐車場にある顧客専用ステーションでチャージするモデルS。テスラCEOイーロン・マスク氏によるバッテリーパック交換の壇上デモは、同社サイトにビデオ掲載)。
というわけで、噂に聞くのと実際に見てみるのとでは驚きが違うモデルSでしたが、決してテスラの宣伝をしているわけではありませんし、近日中に買い換える計画もありません。
けれども、何かが「革命的である(revolutionary)」と言うならば、モデルSを筆頭に挙げてみたい気がするのです。
電気自動車(EV)といえば、モデルSに加えて「日産リーフ(Leaf)」や「シボレー・ヴォルト(Chevy Volt)」が売れ筋ですが、昨年の4倍売れたとはいえ、まだまだアメリカの車の販売台数の1パーセントだそうです。
高価なモデルSに至っては、3分の1がカリフォルニア州で売られ、8割が男性ドライバーという「ニッチ製品」ではありますが、EVの概念は少しずつ米消費者にも受け入れられているようです。
自動車業界は、生産・販売の社会構造的しがらみや関連企業への社会責任を負う巨大な産業です。
そんな緊密なネットワークに対峙するテスラは、「バッテリーが仕様ほどもたない」とか「車が炎上!」と一件でも事が起きると、とたんに非難の的ともなるのでしょう。
そんな逆風にあっても、「ゼロからの発進」は、ときに革命的なモノを生み出すのではないでしょうか。
補記: モデルSのバッテリーの問題は、今年2月号でご紹介。炎上の問題は、ワシントン州とテネシー州の高速道路走行中に2件起き、米運輸省道路交通安全局(NHTSA)が調査の結果、クリスマスイヴに「安全5つ星」を再度保証しています。
テスラには、来年あたりGM(General Motors)かフォードが買収か? との噂もありますが、個人的には、それは許し難いと思っているのです。だって、2006年6月号第2話でもご紹介しているように、GMには電気自動車「EV1」を殺した経歴があるではありませんか。
というわけで、今年も幕を閉じようとしています。2014年も皆様にとって素晴らしい一年となりますように!
夏来 潤(なつき じゅん)
アメリカのSTEM教育
- 2013年12月19日
- Life in California, オフィス・学校, 日常生活
前回の「ライフinカリフォルニア」では、大学のお話をいたしました。
進学先は大学で選ぶのか、それとも就職に有利そうな(給料が高そうな)学部で選ぶのか、どっちがいいのだろうか? という話題でした。
そろそろ、アメリカでは、大学が先行受付の入学願書(pre-registration)の合格発表を行う時期でもありますし、もう少し学校のお話を続けましょうか。
前回のお話では、近頃、STEM(ステム)と呼ばれる科学教育が重視されていることにも触れました。
STEM は、科学(Science)、テクノロジー(Technology)、エンジニアリング(Engineering)、数学(Mathematics)の頭文字を取ったものですが、とくにアメリカの子供たちが弱いと言われる科学・数学系の勉強に重点を置こうじゃないか、という動きです。
地球規模でテクノロジーが激しく動いている昨今、オバマ大統領も、とくにSTEM教育を重視していて、教育省のアーニー・ダンカン長官とともに、全米にSTEM志向の教育を展開するプランを明らかにしています。
たとえば、今後10年間で、10万人のSTEM分野の先生をリクルートして、大学でもSTEM専攻学生を100万人増やそうと、科学教育増進にご執心です。
このSTEMをご紹介しながら、個人的には、そんなに科学教育に躍起になる必要はあるのかな? と少々疑問に思っていたのです。
が、ある記事を読んで、なるほど! と理解したことがありました。
それは、アメリカの大学や大学院で科学系のお勉強にがんばっているのは、アメリカ人ではなく、外国人が多いという事実。
なんでも、エンジニアリング(工学)、コンピュータサイエンス、物理の分野で博士号を取得する人の半分ちょっとは、外国からいらした留学生だそうです。
そして、大学のレベルでは、科学やエンジニアリングの学士号を取得する3分の1が留学生だとか。
ということは、こういった科学系の分野では、他の分野に比べてアメリカ人学生の割合が極端に低い、ということですね。
なぜなら、ちょっと計算してみたところ、アメリカの大学・大学院の留学生の割合は、たった4パーセントですから。
(参考文献: ”Brain Exports: Why China, India and other nations love American universities” by Harold O. Levy, Scientific American, December 2013; 留学生の割合は、留学生を82万人(Los Angeles Times, November 11, 2013)学生全体を2000万人(米国勢調査2012年データ)として計算)
つい先日、こんなテスト結果も発表されました。
国際的に見ると、アメリカの生徒は、ちょっと数学に弱いようだと。
読解力(Reading)と科学(Science)では平均点を取っているが、数学(Mathematics)になると、平均点をやや下回ると。
これは、経済協力開発機構(OECD)が3年に一度実施している15歳の生徒の学力テスト『PISA(ピーザ): OECD生徒の学習到達度調査』で、どちらかというと、学校で習ったことを日常生活に応用できるかどうかを測る学力調査だそうです。
アメリカでは、161の公立・私立学校から6000人が参加したそうですが、他のOECD諸国と比べると、20位近辺の平均点だったそうです。でも、数学となると、もうちょっと順位が下がってしまうとか。
OECD加盟国34カ国の中では、読解力が17位、科学が21位、数学が26位ということです。
まあ、アメリカの場合は、テストの成績が良い所と、そうでない所が極端に分かれるので、おしなべてみると平均点が下がってしまう、という難しい要因もあります。
たとえば州によっても、学区によっても、学校によってもテスト結果は大きく触れます(そこで教育熱心な裕福な家庭は、子供が学齢期になると優秀な学区(school district)に引っ越すことも多いですし、周辺の家の値段が跳ね上がることにもなります)。
ですから、国際的な順位だけでは、アメリカの子供たちの学力を評価できない複雑な現状があります。
けれども、「OECD諸国の15歳が取得すべき内容と照らし合わせると、ちょっと数学の力に欠けるようだ」という評価は、おおむね正しいのではないでしょうか。
(ちなみに、日本は、OECD加盟国34カ国の中では、読解力が1位、科学が1位、数学が2位。非加盟国も合わせた65カ国全体では、読解力が4位、科学が4位、数学が7位だそうです。65カ国(地域)のトップ3は、いずれも上海、香港、シンガポール。なんでも、上海の数学力は、アメリカで優秀なマサチューセッツ州の2年先を行っているとか!)
そんなわけで、このような動かしがたい事実があるので、アメリカの教育現場では、「STEM」の掛け声のもと科学・数学系の教育が重視されているようではあります。
そう、今までは、とくに中学、高校の数学でつまずく生徒が多過ぎた・・・
だから、大学で数学を教えようとすると、「なんだか日本の中学生みたい!」と感じるような、易しい内容から説明してあげないといけなくなるのです。
そうやって、だんだんと数学から離れてしまうと、「数学的な思考」が必要な物理やエンジニアリングからも離れてしまう・・・ということにもなるのでしょう。
ここで「数学的な思考」というのは、単に方程式にポコポコと数字を当てはめて計算(computation)することではなく、ひとつずつ段階を追って、論理的に考えを押し進めるやり方。
そう、数学を勉強する目的は、計算が素早くなることではなく、論理的な考え方を身につけること。
それがうまくできないと、物理や工学など自然科学系(physical sciences)のお勉強だけではなく、社会科学(social sciences)や人文科学(humanities)のお勉強だってうまく進まなくなってしまうのではないでしょうか?
つい先日、名門私立ハーヴァード大学の学長さんだったラリー・サマーズ氏が、インタビュー番組でこんな話をなさっていました(この方は、クリントン政権で財務長官を務めた有名人でもあります;Photo from “Charlie Rose” Website, December 10, 2013)。
アメリカの学校の質を上げようとするなら、まず、先生の待遇を良くして、みんなが先生という職業に対して尊敬の念を抱くべき。
さらに、もしも学生がシェイクスピア作品を知らずに恥じ入る気持ちがあるのだったら、同じように「指数的な経済成長(exponential economic growth)」と聞いて「僕には数字なんて関係ないもん!」とつっぱねる自分を恥じ入るべきだと。
アメリカでは、文化的に「数学は知らなくてもいい」という態度がはびこっているのが問題なのだと。
この「おじさん」は、学長時代に「女性はもともと科学やエンジニアリングに向かない」と発言して物議をかもした方ですが、それでも、彼の言っていることは正しいかと思うのです。
自分で勝手に「苦手意識」を持ったり、「あなたは理解しなくていいのよ」と誰かの成長の芽をつんだりすると、「どうせ、わたしには関係ないわ!」と自然と心が閉じてしまうものかもしれません。
もちろん、人間ですから誰にでもイヤなものはありますが、イヤなものにも適度にさらされて、「苦手」とか「無関心」を緩和しないといけないのかもしれませんね。
だって、避けてばかりいても、あっちはデンと構えて一向に道を空けてくれないから。
と、世界じゅうの子供たちも理解してくれればいいのですが・・・。
(Photo of future scientists from the U.S. Department of Education blog, “My Confidence in Future Scientists”, December 16, 2013)
付記: アメリカって、ほんとにおもしろいなぁと思うことがあるんですが、小学校の分数の計算にも苦労する高校生がいると思うと、逆に、大学院レベルの難しい問題をスラスラと解いてしまう子もいるんですよね。
たとえば、アメリカではテクノロジー企業が開催する科学コンテストが盛んですが、そんなコンテストで賞をいただく子供たちなんて、大人顔負けの研究をしているんですよ。
先日、シーメンス(Siemens)コンテストのチーム部門で全米3位に選ばれたシリコンバレーの高校生ふたりは、なんと、ガン治療の特効薬を効率的に開発する計算システムを構築したそうです。
アンドリュー・ジンくん(上)とスティーヴン・ワンくん(左)は、ガン治療研究の最先端を行く先生たちに教えを請いながら、独自の研究を続けたそうですが、ふたりとも学校の成績が良いだけではなく、討論(debate)のコンテストに出たり、地元の高校生に勉強を教えたり、スポーツや音楽を楽しんだりと、充実した高校生活を送っているようです。
アンドリューくんいわく、「僕は、数学、科学、テクノロジーの学際的な要素(interdisciplinary nature)が好きだ」
求めれば、どんどん道が開ける。彼らのまわりには、そんな環境が整っているのでしょうか。
(Photos of Andrew Jin and Steven Wang from “2013 Siemens Competition in Math, Science, Technology, National Finalists” by Siemens Foundation)
ちょっと前に、「All or nothing(一か八か)」というお話をいたしました。
「すべてか無か」
コンピュータ風に言うと、「1か0か」
つまり、まったく妥協を許さないような「一か八かの賭けだ!」みたいな、「きみのすべてで愛してくれないなら、きみの愛なんて欲しくない!」みたいな、ある意味、やけっぱちの含みのある表現でした。
それで、あるニュースを観ていて、これって、まさに All or nothing を絵に描いたようなものだなと思ったことがありました。
それは、ニューヨーク州ブルックリンにある、有機食材をつかったレストランEat(イート)。
なんでも、ここでは、食材の味を100パーセント味わってもらうために、食事中は一切おしゃべりをしてはいけないんだとか。
おしゃべりどころか、スマートフォンをいじったりもできないルールだそうですが、中には、どうしても間が持てなくて、こっそりとメールをチェックするお客さんもいるみたいです。(Photo from CBS New York news clip, October 11, 2013)
このルールは、週に一回、4品コースのディナー(4-course prex fixe menu)に適用されるようですが、発想は、シェフのニコラスさんの学生時代の経験。
インドの仏教修道院を訪れたとき、朝食は「沈黙の業」で食べていたのがヒントとなったとか。
でも、いくら「沈黙は金(Silence is golden)」とはいえ、食事の楽しみのひとつは、おしゃべりだと思うんですよ。
「まあ、これっておいしいわよ、ちょっと食べてみて」「あら、じゃあ一口いただくわね」と感動を分かち合うのも、食事を愛(め)でるひとつのあり方でしょ?
ま、おしゃべりの場合は、「適度に許す」なんてことができないので、ついつい All or nothing(おしゃべりを許すか、許さないか)の両極端になってしまうのでしょうけれど・・・。
というわけで、いきなり話がそれてしまいましたが、今日の話題は、all(すべて)。
この all を使った表現は、英語にはかなり多いですが、その中でも有名なのが、こちら。
表題にもなっている One for all, all for one 。
訳して、「ひとりは万人(すべて)のために、万人はひとりのために」。
言うまでもなく、one はひとり、all は万人(すべての人)という意味ですね。
ひとりはみんなのためにあり、みんなはひとりのためにある。
それで、言葉は簡単で、よく使われる表現なんですが、これに対する「思い入れ」は、ちょっとスゴいんですよ。
こちらは、もともとラテン語で Unus pro omnibus, omnes pro uno というそうですが、17世紀初め、神聖ローマ帝国下のボヘミア(今のチェコ共和国)で起きたカトリックとプロテスタントの抗争で使われたのが、文献に残っている最初の例だとか。
この抗争は、のちにヨーロッパ全土を巻き込む三十年戦争(1618-1648)の引き金となったものですが、プロテスタントの指導者がプラハ城で開かれたカトリックとの会見時に、こんな手紙を読み上げたそうです。
「彼ら(カトリック)が我々(プロテスタント)に対して死罪を行使しようとするならば、たとえ命や手足、名誉や財を失ったとしても、ひとりは万人のために、万人はひとりのためにと心に刻みつけ、一致団結して彼らに立ち向かうことを誓うものである」
この手紙が読まれたあと、カトリック王の使者5名がプロテスタントのメンバーに城の3階の窓から投げ落とされたそうですが、5人は奇跡的に助かったとか。
カトリックは「まさに神のご加護だ」と誇らしげに言い、プロテスタントは「階下に馬の肥やしがあったからだ」と揶揄する出来事となりました(第二次プラハ窓外投擲(そうがいとうてき)事件、the Second Defenestration of Prague)。
そんな歴史的背景のある One for all, all for one 。
文字通り、「ひとりは万人のために命を賭(と)して頑張る」という意味の言葉ですが、その後、アレクサンドル・デュマの新聞連載小説『三銃士(Three Musketeers)』(1884年)で一躍有名になったそうですね。
三銃士がモットーとしたのが、One for all, all for one 。
時はルイ王朝、相手はフランス宰相の護衛隊。三銃士にとっては、多勢に無勢。
そんな中、みんなで一致団結して相手に立ち向かうぞ! と自身を鼓舞するモットーでもあり、たったひとりが欠けても三銃士とはいえない! と連帯意識を呼び覚ますモットーでもあるのが、One for all, all for one 。
小説『三銃士』は、いろんな映画にもなっていますが、三銃士の「その後」がモチーフとなった映画『仮面の男(The Man with the Iron Mask)』(1998年)にも、このモットーが登場します。
若き王ルイ14世の双子の弟でありながら、仮面をかぶせられた捕われの身フィリップ(レオナルド・ディカプリオの二役)。
フィリップが牢獄から助け出され、銃を構える王兵に立ち向かおうと、フィリップと三銃士、銃士隊長ダルタニアンが剣先を合わせて誓うのが、One for all, all for one 。
無謀にも、銃弾の嵐に飛び込む5人ですが、硝煙が消え去り、静けさが戻ると、ダルタニアンとフィリップの関係が明らかにされるのです。
最後のシーンでは、ダルタニアンが鍛えた銃士隊の精鋭が One for all, all for one! と剣を上げ、勇敢な三銃士に敬意を表するところで、映画は幕を閉じます。
そんなわけで、「ひとりは万人のために、万人はひとりのために」。
イギリスでも、第二次世界大戦のときに国民一致団結のスローガンとなりましたが、どちらかというと「無理矢理に自己を犠牲にしろ」というのではなく、「自ら進んで他のために働く」という含みのある言葉でしょうか。
同胞であっても、スポーツチームであっても、家族であっても「運命共同体」であることに変わりはありません。
そういう意味では、One for all, all for one の精神を分かち合っている、と言えるのではないでしょうか。
付記: 文中に出てきた映画『仮面の男』は、エンターテイメント性の強い作品ですので、ご覧になってみると、かなり楽しめると思います。まだういういしい感じのレオナルド・ディカプリオさんは、王さま役にふさわしい気もいたします。
映画『三銃士』の方は、今まで5作品ほどリリースされているようですが、わたしにとっては、感慨深いものがあるのです。と言いますのも、アメリカに来てすぐに無料の映写会があったので観に行ったのですが、「英語がほとんどわからない!」とフラストレーションを覚えた記憶があるからです。
調べてみると、1973年リリースの『三銃士』で、リチャード・チェンバレンさんなど有名な俳優が起用されているようですが、なにせ、英国流の発音で、古語のような言い回しがたくさん出てきたので、当時の理解をはるかに超越していたのでした。
さすがに今は、英国のアクセントにも、古い表現にも少しは慣れているので、理解できるのではないかと思いますが、そう考えてみると、映画というものは、英語の成長の度合いが計れる「ものさし」みたいなものかもしれませんね。
というわけで、パート1に引き続き、男性と女性を表す言葉の世間話です。
それで、どうして薮から棒に「男性形」「女性形」のお話をしているのかというと、先日、レディーだけのランチで、ある話題が飛び出したからです。
ゲイの人たちは、相手を何と呼ぶのかしら?
男性と男性のカップル、女性と女性のカップルは、どういう風にパートナーを紹介するのかしら? と。
カリフォルニアでは、2004年2月、サンフランシスコ市役所で全米初の同性カップルの結婚式が執り行われました。が、ずいぶんと紆余曲折があって他州にも遅れをとったものの、ようやく今年6月、同性結婚(same-sex marriage)が州の法律として連邦最高裁判所で認められました。
今までは、カリフォルニア州内では同性カップルの「民事婚(civil union)」が認められていましたが、ひとたび「結婚(marriage)」となると、医療に関する決定権が与えられたり、相続権が認められたりと、国のレベルでも、もう立派な配偶者(spouse)となるのです。
たとえば、病院で「家族」として面会できたり、パートナーの末期医療を代理決定できたり、国の確定申告を一緒に申告できたり、相続税を払わなくてもすんだりと、権利がぐんと広がるのです。
それで、カリフォルニアの同性結婚が法律となって以来、同性カップルの中には、結婚式を挙げる方々もたくさん出てきました。
常日頃「結婚ほど、ばかばかしい契約(contract)は、この世には存在しない」と憎まれ口をたたいていた知り合いも、長年連れ添ったパートナーと結婚式を挙げたくらいですから!
(写真は、挙式間近のサンノゼのカップル、デイヴィッドさんとパブロさん。市内のAki’sベーカリーでケーキの味見をしているふたりは、なんとも幸せそう;photo by Gary Reyes, the San Jose Mercury News, August 1, 2013)
でも、このような同性カップルの場合、たとえば、男性のパートナーでも my wife(僕の奥さん)かしら、それとも my husband(僕のダンナさん)かしら? と、ランチで話題になったのでした。
ひとりのレディーは、「わたしの職場の同僚(男性)は、まるで奥さんを紹介するみたいに、写真を見せながら my wife と説明していたわ」と言います。
それで、わたしは、「テレビインタビューを観ていたら、my husband と言った男性もいたから、もしかすると、どっちもありなんじゃないの?」と発言してみました。
すると、みなさんは、「結局は、お互いにどう思っているかで決まるのかしらね。たとえば、どっちが働きに出てお金を稼いできて、どっちが家事をするかとか、そんなことで呼び方が決まるのかしら」ということに落ち着いたのでした。
もちろん、husband と wife と名乗ることもあるでしょうし、両方が husband だったり、両方が wife だったりするケースもあるのでしょう。
いずれにしても、そのうちに his husband(彼のダンナさん)とか、her wife(彼女の奥さん)という呼び方が、世の中に定着することでしょう。いえ、定着すべきでしょう。
それで、もうちょっと複雑な状況で、近年、どの代名詞を使ったらいいのかな? と迷うことも出てきました。
いったい、he を使うのか、she を使うのか迷ってしまうケースです。
たとえば、性別を転換した人(transgender、トランスジェンダー)の場合は、転換したあとの新しい性別で he とか she を決めればいいと思います。
だって、みなさん、新しい性別を自分の真の性別だと思っているのですから、古い方で呼ぶのは失礼でしょう。
でも、「男でも女でもない」と思っている人(agender、エイジェンダー、または non-binary gender、ノンバイナリージェンダー)もいらっしゃるので、こういう方には、ちょっと違った代名詞を使うそうです。
なんでも、こういう場合は、he でも she でもなく、複数形の they を使ったり、まったく新しい造語 ze などを使ったりするそうですよ。
蛇足ですが、they を使う場合、単数形と複数形が入り混じって、文章がヘンテコリンになったりもします。たとえば、
When I tell a joke to this person, they laugh
この方に冗談を言うと、(彼/彼女)は笑います
前半の文章は「ひとりの人(this person)」を指していますが、後半では代名詞「彼ら(they)」で受けているという、ちょっと不思議な状況。
それから、造語 ze の場合は、こんな風になるとか。
Ze likes zirself
(彼/彼女)は、自分自身が好きです
実際に会話で耳にしたことはありませんが、こういう造語を使う動きはあるそうです。
それで、わたし自身は、エイジェンダーの方々を表す代名詞 they や ze を、ある事件で初めて知ったのでした。
それは、11月初めにオークランド(サンフランシスコの対岸)で起きた事件。下校の際バスに乗っていた18歳の高校生が、同じバスに乗り合わせた違う高校の生徒に火をつけられたのです。
動機は、男の子に見えるのに、ルーク “サーシャ” フライシュマンさんがスカートをはいていたのが気に入らなかったこと。
居眠りをしていたサーシャさんは、ロングスカートに火をつけられて飛び起き、バスの床に転がって鎮火しようとしたのと同時に、バスに乗っていた他の乗客も上着を使って消し止めたのですが、サーシャさんは両足に2度と3度の火傷を負い、即入院。
でも、そんな暴力に立ち向かおうと、学校では男子生徒や男性教師がスカートをはいてきて、サーシャさんへの「支持」を表明したり、入院費の募金運動をしたりと、さっそく行動に出たのでした。
(Photo of students at Maybeck High School in Berkeley by Doug Oakley, the San Jose Mercury News, November 9, 2013)
11月末の感謝祭まで、ずっと入院していたサーシャさんは、退院後は、元気な姿で報道陣のインタビューに答えていらっしゃいました。「びっくりしちゃったけど、子供の頃の「火に触れたら地面に転がれ!」っていう教訓が役に立ったかな」と、さわやかな笑顔を見せています。
高校に入った頃は、引っ込み思案な部分があったそうですが、「男でも女でもない!」と自分自身で認めたときから、かなり明るくなって、勉強にもスポーツにも意欲が出てきて、友達もたくさんできたといいます。
サーシャさんのケースは、自分で自分を認めたことと、まわりもそのままの姿の自分を認めてくれたことが良かったのでしょうね。
というわけで、時代の流れとともに、複雑になりつつある男性形、女性形。
性別の区別がはっきりした言語では、ちょっと気を付けなければならない点なのです。
今日は、男性と女性を表す言葉のお話をいたしましょうか。
英語を始めとして、インド・ヨーロッパ語(Indo-European languages)の多くは、性別をはっきりと区別しますよね。
人だけではなく、物だって「男性名詞」「女性名詞」に分かれていたりもします。
それぞれの名詞によって、形容詞まで男性形(masculine)や女性形(feminine)にしないといけないよと、面倒くさいルールがあったりもします。
たとえば、スペイン語では、「かわいい男の子」が chico bonito で、「かわいい女の子」が chica bonita ですが、名詞の後ろの形容詞 bonito が、女の子では bonita に変化しています。
うれしいことに、英語は、性別の区別の少ない言語ではありますが、彼(he)と彼女(she)くらいは、はっきりと区別しますよね。
それから、なにかしら大事なものを擬人化する場合は「彼女」を使ったり、一般的な話をする場合は「彼」を使ったりします。
たとえば、一般的に「人」を語る場合は、he(彼)や man(男性)を使います。
He who says he knows doesn’t know
自分が知っていると主張する者は、何も知らない
(この場合は、He who says he knows というのが長い主語となります)
All men are created equal
すべての人は平等につくられている
こういうケースでは、he や man(もしくは men、mankind)が使われていても、「人というものは」という一般的な意味になりますね。
さらに、「取締役会/委員会の会長」「ニュース番組のアンカー」「セールスマン」「スポークスマン」といった単語は、語尾に男性を表す ~ man が付きます。
それぞれ、chairman、anchorman、salesman、spokesman ですが、もともと男性が多い職種だったから、自然とそうなったのでしょう。
一方、「国家」「船」「車」「火星探査機」などは、女性形の she で表現されることが多いです。(写真は、2004年1月火星に着陸した探査機オポチュニティー)
最近では、国家は男性でも女性でもない it で表されることが多いですが、車や船は、だんぜん she のままです。
She is a fine machine
(あれは)いいマシーンだよ
(マシーンは、車やオートバイの代わりによく使われる言葉です)
That was her maiden voyage
それが(船の)初航海だった
やっぱり、男性が好む乗り物は、自分の「彼女」みたいに思っているのでしょうか? だって、車に名前を付けて語りかける男性って意外と多いそうですから!
それで、米語圏の習慣の流れを見てみると、男性とか女性とか、ことさらに性別を区別するのはおかしいということで、性別を「ぼかす」動きもありました。
たとえば、上に出てきたように、「国家」は she ではなく、it と表すことが多いですし、一般的に「人間」を表すときには、he ではなく、he or she(彼または彼女)と発言したり、書いたりすることも多くなりました。
学校の論文を書くときに、he or she 、略して he/she または s/he と書かないと、赤ペンで直される時期もありました。(そう、実際に s/he と書いていたんですよ!)
会長さんやニュースアンカー、セールスマンも、語尾の ~ man を ~ person(人)に入れ替えて、chairperson、anchorperson、salesperson と表現することも多くなりました。
ところが、いつの間にかそんな配慮に疲れたのか、また違った動きが出てきました。
語尾の ~ person はやめて、その人の性別によって chairman と chairwoman、spokesman と spokeswoman と、きっちりと区別するようになりました。今では、あんまり chairperson と「ぼかす」ことはありません。
その一方で、男性でもない女性でもない「中性形」が登場した言葉もあります。
語尾に ~ man の付く freshman(高校・大学の一年生)という言葉は、女子校だと freshwoman を使うこともありましたが、近年は、first-year(一年目の学生)というニュートラルな呼び名も登場しています。
(複数形は、freshmen、freshwomen、first-years となります。二年生の sophomore、三年生の junior、四年生の senior は性別の区別がないので、問題にはなりません)
男女を区別する職業も、「ウェイター」waiter と「ウェイトレス」waitress の場合は、「給仕担当者」server で統一し、「男優」の actor と「女優」の actress は、「俳優」を表す actor で統一するといった、ニュートラルな呼び名を採用する動きも見られます。
が、代名詞 he や she になると、ちょっと厄介でしょうか。
いちいち he or she と発言したり、s/he と書いたりするのはちょっと不自然なので、単に he に戻したり、男女どちらでも良い you や they を使ったり、なるべく代名詞を使わなくてもいいような文章構成にしたりと、今でも試行錯誤が続いています。
蛇足ですが、軍隊の新米兵の訓練では、男性兵をわざと Hey, ladies !(レディーたちよ)と呼びかけることも多いです。
「お前たちは男のくせに、女性の体力しかないのか!」という上官の「愛のむち」なんですが、おかしい反面、ちょっと問題かも。
というわけで、パート2に続きます
金魚ちゃん
- 2013年12月02日
- エッセイ
最近、よく一緒にお散歩するご近所さんがいて、彼女は、ずいぶんと前に韓国からアメリカにいらっしゃいました。
夏の間に『北風と太陽』というエッセイを書きましたが、その冒頭に出てきた店員さんが苦手の、ちょっと「アジアなまり」の抜けない方です。
彼女は、ときに体調が悪かったりするので、元気を取り戻そうと、頻繁に近所を歩くことにしています。
我が家のまわりは、グルッとサークル状になっていて、2~3周回ると、結構いい運動になるんです。道の名前も、「~ Circle(サークル)」になっています。
それで、お散歩していると、いろんな方にお会いします。
同じようにグルッとお散歩している方や、家の前に出て、花の手入れやお掃除をしている方。仕事から戻って、郵便受けをチェックしている方。
そんな方々を、彼女は、それはよく観察しているのです。ときには、あいさつをしたり、短い会話をやり取りしたりしますが、ほとんどは、歩きながら住人を観察しているんです。
英語になると、ちょっと口数が減るところもありますが、本来は、人と接するのが大好きな方だとお見受けするのです。
ですから、家にこもって仕事をしているわたしも、ご近所さんの家族構成や、何曜日は家にいるといった情報を教えてもらって、かなりの事情通になりました。
彼は優しそうな若いパパで、一歳くらいの男の子を乳母車に乗せて、仕事帰りの夕方に散歩します。
パパはにこやかなのに、赤ちゃんはちょっと神経質そうな感じ。ほとんどニコリともしないで、パパにいろんな花の名前を教えてもらっています。
それを見て、彼女が説明してくれるのです。やっぱり日中ベビーシッターに任せていると、パパやママに接してもらっているのと比べて、人の表情をうかがうようになりやすいのよね、と。
なんでも、ママもコンピュータ会社のエンジニアだそうで、毎日忙しく働く方。だから、週日はナニー(短時間のベビーシッターではなく、毎日世話をしに来る人)を雇っているのだとか。
そして、忙しいスケジュールのママは、すでに妊娠数ヶ月でお腹も大きく、もうすぐ二人目が生まれるとのこと。彼女いわく、「なんだか、ものすごく疲れた顔で週末に家族とお散歩してるわよ。」
それを聞いたわたしは、びっくりしてしまって、「もうちょっと二人の間を空けるべきじゃない?」と彼女に聞いてみたのでした。
すると、二人の男の子を立派に育て上げた経験のある彼女は、「そうねえ、理想は3年くらい空けることかしらねぇ」と言います。
でも、一人はかえって大変なのよ、と付け加えます。赤ちゃんに一日付き合うのなんて、こちらの体力がもたないからと。
なんでも、長男を生んだ時に、ちょうど韓国で「一人っ子」を奨励していたので、「もう二人目はいらないわ!」と決意したそうです。ダンナさんは、もう一人欲しいと願っていたらしいですが。
それで、長男を大事に育てていたある日、彼女の決意が崩れ去ることが起きました。
3歳くらいになっていた長男が、家の中で誰かに話しかけています。
え、いったい誰と話をしているの? と驚いて目を向けると、家で飼っていた水槽の金魚に、一生懸命に話しかけているのです。まるで、仲良しの友達に話しかけるように。
あ~、やっぱり一人じゃ寂しいのねぇ と、そのときに悟ったそうで、それから二人目をつくることになって、次男は日本の筑波で産んだそうです。
だから、二人の間が4年半も空くことになったのですが、次男ができてみると、長男が遊んでくれるので、かえって楽になったと言います。
まあ、ときには二人でケンカすることもあって、仲裁に入ることもあったけれど、だいたいは二人でおとなしく遊んでくれていたとか。
今では、金魚に話しかけていた男の子は、立派なお医者さんになって、サンフランシスコの名門大学病院で働いています。
もしかすると、その頃から、「お加減はいかがですか?」と金魚ちゃんに尋ねていたのかもしれませんね。
この金魚のお話で、ふたりで大笑いしていたら、向こうからまたパパと乳母車の赤ちゃんが近づいて来るのが見えました。どうやら歩みの遅い一周目のようです。
すると、あちらから坂を下ってくる赤ちゃんが、ニコニコと笑っているではありませんか!
きっと、わたしたちの大笑いを見て、自分も楽しくなっちゃったんですね。
ツイッターIPO: そろそろ過熱気味の「ソーシャル」
- 2013年11月30日
- 業界情報
Vol. 172
ツイッターIPO: そろそろ過熱気味の「ソーシャル」
今月は、近頃熱くなり始めているテクノロジー業界のお話をいたしましょう。
<Twitter羽ばたく!>
11月に入り、ダウ平均株価が1万6000ドルを超え、米株式市場は連日にぎわっています。
今年2月には1万4000、5月には1万5000、そして、今月また1万6000のマイルストーンを超えたことで、年初からこれまでダウは23パーセントの伸び。
同様に、ナスダック総合指数は34パーセント、S&P 500は27パーセント増と、経済の回復に比べ、企業の好調さを物語っているようです。
そんな賑々しい株式市場ですが、今月の注目イベントは、マイクロブログサービス Twitter(トゥイッター、本社:サンフランシスコ)の新規株式公開(IPO: initial public offering)だったでしょうか。
140文字以内で「つぶやく」手軽なフォーマットと、人とつながる「ソーシャル」な部分が受けていて、利用者も世界中で2億3千万人を超えています。(以下、日本語表記は同社の和訳「ツイッター」に準じます)
近頃は、放映中の「今」を大事にするテレビ番組だって、どんどんツイッターを採用するようになっていて、たとえば、視聴者参加型アイドル番組『ザ・ヴォイス(The Voice、NBC系列)』では、前日の投票で最下位だった3人の中から、生放送の5分間で「ツイート」の最も多かった人を生き残らせるという、何ともスリル満点の演出を考案しています。
ツイッターは、最近、テレビ番組に関する「おしゃべり(chatter)」を分析する会社をふたつ買っていて、リアルタイムな話題の流れ、つまり「トレンディング(trending)」に力を入れています。
なぜなら、テレビを観ながら手元のスマートフォンやタブレットで会話をするのは当たり前。こんなモバイル画面を「セカンドスクリーン(second screen:テレビ画面に対して、ふたつ目の画面)」と呼ぶようになっていて、目玉の集まるところには、そろそろ企業の広告予算も集まりつつあるからです。
そう、目玉=広告=収入の図式ですね。
ま、どれくらいの「ツイート」が番組に殺到するのかは明らかにされていませんが、ツイッター側も、サーバがパンクしないように、万全を期さなくてはならないのです。
ところで、「ソーシャル」なサービスの株式公開というと、昨年5月にナスダック(NASDAQ)で公開を果たした Facebook(フェイスブック、本社:メンロパーク)が記憶に新しいところですが、あのときは、新規公開の一般論からすると失敗例だったとされています。
まず、公開価格が一株38ドルと高い値付けだった(伸びしろが無かった)ことと、ナスダックのシステムが大量の「売り」「買い」の注文にパンクしたこともあって、公開当日はかろうじて38ドルを保つという意外な結果となったからです。
公開日には、2割ほど上がるのが平均的なテクノロジー株。が、フェイスブックの場合は、公開価格をキープするどころか、その後は下落の一途。
昨年夏に17ドルという最安値を記録したあと、今年8月ようやく公開価格を上回るまでは、「フェイスブック株ってどうなっちゃったの?」と、みなさんの心配と同情を集めておりました。
その教訓を生かして、ツイッターは、ニューヨーク証券取引所(NYSE)で公開することにして、公開価格もわりと低めに設定したのでした。(写真は、NYSEフロアで公開を祝うツイッターCEOディック・コストロ氏;photo by Richard Drew, Associated Press)
なんでも、近頃は、「テクノロジー企業はナスダック」という常識は崩れつつあるそうで、2001年から2010年までは、テクノロジー/インターネット新規公開数でナスダックの3分の1だったNYSEは、2011年以降、ナスダックとほぼ肩を並べるほどになっているとか。(たとえば、プロフェッショナルのためのソーシャルネットワーク LinkedIn(リンクトイン)は、2年前NYSEで公開したことで話題となりました)
そして、ツイッターの公開価格は26ドルと低めに設定したおかけで、公開当日(11月7日)は7割増の約45ドルで取引を終え、会社の時価総額は、一気に250億ドル(約2兆5千億円)。その後も一株40ドル近辺をキープしています。
そう、株式公開のコツは、あんまり欲張り過ぎて、公開価格を高く設定しないこと。もちろん、価格が高ければ、当事者(公開企業と担当の金融機関)の懐にたくさん資金が入ってくるわけではありますが、あんまり高過ぎても、フェイスブックの例のように「ふん、あの設定は高過ぎたのさ!」と反感を買い、その後の株価低迷の引き金にもなりかねません。
ひとたび株価が低迷すると、企業側は相当な努力を強いられることにもなりますので、「ほどほどの値付け」にするのが肝要なのです。
そんなわけで、注目のツイッターの株式公開。業績はいまだ黒字に転じてはいませんので、そのわりには、うまい値付けで公開し、今後の期待感でいい塩梅(あんばい)に株価を保っている、と言えるでしょうか。
なるほど、人の失敗から学んだツイッターさんは、賢いのです。
<来年の注目株 Square>
というわけで、ツイッターの株式公開で、少々過熱気味のテクノロジー業界。
今年はもう「打ち止め」のビッグなテクノロジー新規公開ですが、来年に公開が期待されている中に、Square(スクエア)があります。
2009年にサンフランシスコで設立された会社で、モバイル決済サービスを展開します。アメリカ、カナダに引き続き、今年5月には、三井住友カードとの提携で日本でもサービスを開始しています。
iPhoneやiPad、アンドロイド・スマートフォンをお店の「レジ」に変身させる画期的なサービスで、クレジットカードの読み取り機を置いていない小さな個人商店や露天商でも、顧客のクレジットカードを受け付けられるようになります。
とくにアメリカは「カード社会」ですから、クレジットカードが受け付けられないと、商機を失うことにもなりかねません。ですから、Squareの戦略としても、小さなお店を中心にサービス展開しています。
わたしが最初にSquareを体験したのは、サンフランシスコのユニオン・スクエア。ショッピングエリアの中心広場で開かれた、早春のアートショーでした。
お目当ての版画家ガブリエルさんに久しぶりにお会いし、いざ作品を購入する段となったとき。彼女のスマートフォンには小さな四角い読み取り機(リーダー)がくっついていて、「これがSquareなのよ」と教えてもらったのでした。
噂には聞いていたけれど、なるほど名前「Square」の通り、かわいらしい四角いリーダーです。
カードをリーダーにスライドして読み取りもスムーズに運び、指先で画面にサインして、支払いは完了。購入の位置情報が付いた領収書は、彼女が登録している、わたしのメールアドレスに自動的に送られてくるはず(だったのですが、何かの手違いで受け取れませんでした)。
それにしても、彼女のように屋外アートショーをたくさん掛け持ちするアーティストや、ファーマーズマーケット(農産物の直販イベント)に参加する生産者にとっては、便利なサービスかと思うのです。
Square以前は、ガブリエルさんは手動のカード読み取り機(ガッチャンとスライドして番号を読み取る機械)を持ち歩いていて、すべてがオフライン。
たとえば顧客のカードが利用限度額を超えていても、その場ではわからない。
実際にSquareを使っているユーザからすると、実地でうまくデータ処理できなかったり、カスタマーサポートが迅速でなかったりと、必ずしも評判の芳しくない部分もあるようです。
が、Squareにとっては前進あるのみ。次の作戦としてスターバックスに「Squareウォレット」を導入し、顧客のスマートフォンを利用したカード支払いシステムを展開しています。(注:アメリカでは、日本の「おサイフケータイ」のような便利なサービスは浸透していません)
このような新手のサービスに加えて、Squareがここまで業界の注目を集めているのは、創設者の存在も大きいのでしょう。
Squareの共同設立者ジャック・ドーシー氏は、ウォールストリート・ジャーナル紙『2012年イノベーター賞』、フォーチュン誌『40歳未満トップ40人』にも選ばれる業界の有名人ではありますが、上記ツイッターの共同設立者としても知られる方です。
ツイッターのサービスは、タクシーや救急車などのディスパッチ(運行管理)システムに凝っていたドーシー氏と、今は半ば隠遁生活を送っているノア・グラス氏が発案したとも伝えられます。(加えてエヴァン・ウィリアムズ氏とビズ・ストーン氏が共同設立者ですが、アップルのiTunesサービス拡大に危機感を抱いた4人は、2006年Odeoというポッドキャストサービスからツイッターに転身。写真は、前列左から現CEOコストロ氏、ドーシー氏、ウィリアムズ氏、ストーン氏;photo by Richard Drew, Associated Press)
4年前にSquareを立ち上げたドーシー氏は、ミズーリ州出身の物静かな方で、往年の銀幕のスター・故ジェームズ・ディーンを思い浮かべるような、情熱を内に秘めた面持ち。
ご本人は、「僕は起業家になりたかったわけではない。ブルース・リーになりたかったし、船乗りになって世界を駆け巡りたかった。洋服の仕立て屋やシュールリアリズムのアーティストにもなりたかった」と意外な一面を語っていらっしゃいますが、都市の人の関わりに興味を抱く、根っからのテクノロジーの専門家です。
昨年9月サンフランシスコのイベントでは、どことなく禅問答のような、難しいキーノートスピーチをなさっていますが、
「世界を変える革命(revolution)を起こすのは、ちょっとしたいいアイディアがあれば可能」「コツは、みんなにテクノロジーを感じさせないこと」
と、集まった技術者にエールを送られているようではあります。
(Photo from TechCrunch Disrupt SF 2012 Keynote speech by Jack Dorsey, September 10, 2012)
現在、Squareは従業員数百名、評価額は32億ドル(約3千2百億円)。来年末までに千人規模を目指していますが、来年期待される株式公開時には、どんな風に成長しているでしょうか。
<ふん、でっかくなってやる!>
そんなわけで、ツイッターやフェイスブックの勢いに乗って「ソーシャルメディア」が脚光を浴びるこの頃ですが、「ふん、僕たちだって成功してやる!」とがんばっているのが、Snapchat(スナップチャット)。
なんでも、今はティーンエイジャーの間で「ツイッター離れ」も見られるそうで、このSnapchatに乗り換えるユーザも増えているとか。
Snapchatは、写真や短いビデオに手描きメッセージを添えてやり取りするサービスですが、目にしたら数秒間で消える「スナップ(Snap)」のコンセプトが受けているらしいです。
言い換えれば、「この瞬間」を大切にするサービス。ま、スクリーンショットやイメージキャプチャで保存も可能ですが、何もしなければ瞬時に消えて行く(証拠の残らない)はかなさが魅力。
シリコンバレーの私立スタンフォード大学在学中にエヴァン・スピーゲルさん(写真右、23歳)とボビー・マーフィーさん(同左、25歳)が考案したサービスだそうで、現在はロスアンジェルス西部のヴェニスビーチにオフィスを構え、今年3月と6月に「シリーズA」「シリーズB」ラウンドの投資をベンチャーキャピタル数社から募っています。
いまだ収入のない、設立3年弱の若い会社です。
それで、ビックリするのは、彼らの鉄の意志。なんでも、フェイスブックの「現金30億ドル(約3千億円)で買収したい」との申し出を断り、さらにグーグルの40億ドル(約4千億円)の申し出も断ったとか!!
この裏側には、「自分たちも第二のフェイスブックやツイッターになってやる!」という熱意が隠されているわけです。だって、フェイスブックにも、ヤフーの10億ドルの買収案(2006年)やマイクロソフトのお誘い(2007年の評価額150億ドルで5〜7年かけて買収)と、様々な申し出を断った経歴があるでしょう。
が、このSnapchatの英断に対して、冷ややかなコメントを発するビジネススクールの先生もいらっしゃいました。
「(私立ペンシルヴェニア大学)ウォートンスクールには、たくさんのCEOが学びにやって来るけれど、『チャンスがあるときに、会社を売っておけば良かった』と言う人が後を絶たない。だから、お金をあなどってはいけない。明日になって欲しくなっても、そのときにはもう無いのだから」と。
果たして、ふたりの若者が正しいのか、ビジネススクールの先生が正しいのか、今後の発展が気になるところなのです。
主な参考文献: “What’s Snapchat really worth?” by Jessica Guynn, Los Angeles Times; photo by Genaro Molina from Los Angeles Times Archives
夏来 潤(なつき じゅん)
前回は、英語のことわざをご紹介しました。
世界には似たような表現があるなと思ったものですから。
Killing two birds with one stone
「ひとつの石(one stone)で二羽の鳥(two birds)を殺す」から、一石二鳥。
「殺す(kill)」という表現が入っている分、英語の方がちょっと生々しいですよね。
そして、一石二鳥とはまったく逆の「二兎を追う者は一兎も得ず」
Grasp all, lose all
「すべてをつかもう(grasp all)とすると、すべてを失う(lose all)」
ドイツ語やイタリア語、スウェーデン語にも似たようなことわざがあるそうで、やっぱり「欲の皮をつっぱらせてはいけないよ!」とは、古今東西、立派に生きている格言なのです。
それで、このお話を掲載したすぐあとに、「あ! 『二兎を追う者は一兎も得ず』とまったく一緒!」と思ったことがありました。
それは、こちらの文章を目にしたとき。
If we stick to the position of all or nothing, we’re going to end up with nothing
もしも我々が「すべてか無か(一か八か)」という立場に固執するなら、何も得られない結果となるだろう
ちょっと堅苦しい文章ではありますが、最初の stick to という動詞は、「~に固執する」という意味。
そして、後ろの動詞 end up (with) は「~という結果になる」という意味で、どちらかというと、悪い顛末のときに使います。たとえば、こんな風に
I ended up eating more than I needed to
(食べ物がおいしかったので)必要以上に食べてしまったわ・・・
それから、表題にもなっている all or nothing 。
こちらは、直訳すると「すべてか無か」ですが、日本語では一般的に「一か八か」と訳されるでしょうか。
「一か八かの賭けだ」という表現があるように、賭けに勝つか、すべてを失うかのどちらかだ、といった固い意志を含んだ表現ですね。
そう、「もしもこれがダメなら、僕は、妥協案は受け付けないよ」といった強硬な態度。
ですから、例文の the position of all or nothing は、「『一か八か』を貫く(強硬な)立場」という意味になります。
それで、ちょっと難しい今日の例文
If we stick to the position of all or nothing, we’re going to end up with nothing
もしも我々が「一か八か」の立場に固執するなら、結果的には何も得られないだろう
この例文は、政治にからんだものでして、アメリカの上院議員マルコ・ルビオ氏(共和党-フロリダ州選出)が発言していたものを、ワシントン・ポスト紙のコラムニスト、ジョージFウィル氏が改めて紹介したものでした。
同紙は、首都ワシントンD.C.で(もめごとの多い)連邦議会の動きを見守る役割を果たしていますが、上記のルビオ氏の発言は、アメリカの移民政策の改革(immigration reform)に関するものでした。
あんまり欲張り過ぎて、思い付く改革をすべてつっこみ完璧な法案をつくろうとすると、かえってすべてを失うことになるかもしれないよ、という警鐘の意味で発言されたようです。
「すべてを失う」というのは、(民主党議員が多い)上院議会では採択されても、共和党議員の多い下院では通過しないよ(だから、法律にはならないよ)、という警告です。
現在、アメリカの上院と下院は「ねじれ国会」ですからね。
というわけで、all or nothing
一か八か
籠の中にいっぱい詰め込んで「さあ、どうだ!」と迫ったところで、結果的には何も実らなかったりする。だから、大きな問題をいっぺんに解決しようとしないで、(国境警備、アメリカ人の職の確保、不法滞在者の帰化と)ひとつずつ個別に解決していったら?
そんな、コラムニストのアドバイスでもありました。
なにせ、この法案は、1193ページもあるそうですから。
例文の出典: “History’s clues on immigration reform” by George F. Will, a Washington Post columnist, published in the San Jose Mercury News, November 14, 2013
こぼれ話: All or nothing と聞いて、『All or Nothing At All』という歌を思い出した方もいらっしゃることでしょう。
この歌は、もともとはフランク・シナトラ氏が歌い、1940年代に大ヒットとなったものですが、これまで、いろんなアーティストの方がカバーされています。
All or nothin’ at all
すべてかゼロか
Half a love never appealed to me
半分の愛なんて興味ないんだ
If your heart, it never could yield to me
もしもきみの心が、僕に傾くことがないんだったら
Then I’d rather, rather have nothin’ at all
だったら、僕は何もいらないよ
人気シンガーとなったシナトラ氏を「スターダム」までのしあげた有名な歌ですが、たぶん、この歌詞の「共感度」は、いつの世も変わらないのでしょう。
やっぱり、人間は、世界中で同じことを考えているのでしょうか。
英語のことわざを耳にすると、「なんだか日本語と一緒!」と思えるものもたくさんあります。
たとえば、こちら。
Killing two birds with one stone
「ひとつの石(one stone)で二羽の鳥(two birds)を殺す」
つまり、一石二鳥。
あら、ひとつ石を投げたら、二羽が落っこちて来たわ! といった具合に、
ひとつの行動で、ちゃっかりと二つの利益を得ることですね(ま、写真のゲーム『アングリーバード』の場合は、鳥さんが豚さんをやっつけるシナリオですが)。
厳密に言うと、こちらはことわざ(a proverb) ではなく、慣用句(an idiom)なんだそうです。
でも、どんな分類であろうと、日常会話ではよく耳にする表現です。
We were hoping for killing two birds with one stone by adding another feature to our software
僕たちは、ソフトウェアに新機能をひとつ加えることで、一石二鳥を狙っていた
この場合の「二鳥」は、「新機能を追加することで品質も向上させる」ということでもいいでしょうし、「新機能の追加で売上をグイッと上げる」ということでもいいでしょう。
なんとなく、シリコンバレー辺りの会社では、重宝されそうな慣用句なのです。
それで、「一石二鳥」とはまったく逆のことわざに、「二兎を追う者は一兎も得ず」というのがありますね。
二羽(二匹)のうさぎを同時に追おうとすると、一羽(一匹)すら捕まえられない。
いっぺんにたくさんの利益を得ようとすると、かえって何も利益にあずかることができない、つまり、欲の皮をつっぱらせてはいけないよ、という格言ですね。
(なるほど、「うさぎを追う」とは、昔は日本でも、うさぎさんをよく食べていたということでしょうか?)
それで、あんまり日常会話では耳にしないのですが、こちらにも英語版があるそうです。
Grasp all, lose all
「すべてをつかもう(grasp all)とすると、すべてを失う(lose all)」
ごくシンプルな表現ですが、シンプルであるがゆえに、心にグサッと突き刺さるような格言なのです。
こちらは、かの有名な寓話(a fable、教訓を含んだ物語)からきているそうですよ。
骨をくわえたワンちゃんが、橋を渡っていました。ふと川面を覗くと、あちら側にも骨をくわえたワンちゃんがいます。「ようし、あっちのも取ってやろう!」と勇んだワンちゃんが ワン! と吠えると、口からポロッと骨を落っことして、水中に消えてしまったとさ。
(イソップ童話『よくばりな犬(犬と肉)』より。Photo taken from Hoopla Kidz’ YouTube video “The Dog and His Reflection”)
この「二兎を追う者は一兎も得ず」の英語版を調べていると、類似のことわざがいくつか見つかりました。
He who grasps too much lets much fall
「あまりにもたくさんの物をつかもうとする者は、多くを取りこぼしてしまう」
これは、ドイツのことわざだそうです。
それから、イタリアにも、似たようなことわざがあるとか。
He who grasps too much holds nothing fast
「あまりにもたくさんの物をつかもうとする者は、何もすぐにはつかめない」
そして、英語版の Grasp all, lose all ですが、北欧スウェーデンにも、同じように訳されることわざがあるそうです。
出典: special-dictionary.com
というわけで、「一石二鳥」と「二兎を追う者は一兎も得ず」。
Killing two birds with one stone となれば、嬉しいところではあります。
が、意外とこんなケースも多いのではないでしょうか?
Grasp all, lose all をもじりまして、
We tried to grasp all, but ended up losing all
僕たちは、すべてがうまく行くことを狙っていたんだけど、結局は、何もうまく行かなかった
個人的には、たとえばスマートフォンアプリなどの製品をつくるときにも当てはまることかな、とも思っているのです。
いろんな機能をギューギューと欲張って詰め込もうとすると、当初狙っていた目的が薄れてしまって、いったい何のためのアプリだったのか、さっぱりわからなくなってしまう。
それよりも、たとえば「計算機アプリ」みたいに、ひとつのことを繰り返し堅実にやるアプリの方がわかりやすくていいと思うのですが、いかがでしょうか?
大学か、学部か? それが問題だ
- 2013年11月03日
- Life in California, オフィス・学校, 日常生活
一年ほど前、日本の青年の進学相談にのったことがありました。
青年は「このまま日本の大学に入らずに、アメリカに留学した方がいいのかなぁ?」と迷いがあったのですが、結局は今春、地元の国立大学に入学し、充実した日々を送っています。
今は「勉学の秋」でもありますし、この青年のエピソードを書いたりして「学校」のことを考えていたのですが、するとちょうど、新聞にこんな記事が載ったのでした。
「年収や失業率は、出身大学ではなく、専攻学部(college majors)に左右される」と。
(”How much is this diploma worth?: Major Calculations” by Katy Murphy;photos by Lipo Ching, the San Jose Mercury News, October 23, 2013)
アメリカの国勢調査のデータをもとに、ジョージタウン大学(首都ワシントンD.C.)の教育・就業センターが分析した結果、「年収や就業率に影響するのは、どこの大学に行ったかではなく、何を専攻したかである」という結論に達したそうです。
ですから、たとえば名門私立ハーヴァード(マサチューセッツ州)で文学を学んだ人よりも、サンノゼ州立大学(シリコンバレー・サンノゼ市)でエンジニアリングを学んだ人の方が失業しにくいし、年収は高くなる、ということだそうです。
まあ、「エンジニアリング専攻は給料が高い」とは、なんとなく納得できる話ではありますが、この調査では、大学を卒業したばかりの「22歳から26歳の専攻分野ごとの失業率と平均年収」、それから「30歳から54歳の専攻分野ごとの平均年収」を緻密にリストアップしているところが、なんともシビアな分析となっています。
たとえば、30歳から54歳層では、薬科学や各種エンジニアリング(化学、電気、コンピュータ、機械)専攻の人々は、平均年収の高いトップ5となっています。
一方、ビジュアルアート、芸術、幼児教育、人材・コミュニティー組織、宗教といった専攻分野では、いまいち年収が伸び悩む、という結果でした。
ちょっとびっくりですが、トップの薬科学(平均年収10万ドル強)と最下位のビジュアルアート・芸術(4万ドル弱)の間には、実に6万ドル(約6百万円)の開きがあるそうです。
ですから、いかに若いときの決断とはいえ、進学する大学を選んだり、入学後に正式に学部を選んだりするときには、就職後のサラリーのこともちゃんと考えておいた方がいい、という結論でした。
(多くのアメリカの大学では、1~2年通ったあとに正式に学部を選ぶ(declare majors)ことも可能です。ですから、「専攻未定(undeclared)」で大学に入学して、人気学部にあとで滑り込むというトリックが可能な場合もあります)
そんなわけで、どうやらアメリカの場合、卒業後のお給料は、大学の名前よりも、専攻分野で左右されるもののようではあります。
が、記事の中でも指摘されていましたが、専攻を選ぶのは、単に「給料が高そうだから」という理由ばかりではありません。
「やっていて楽しいから」「興味をそそられるから」「好きだから」といった目に見えない要因も大いに影響します。
実際、専攻を選んだあとに「あ~、こんなはずじゃなかった」と後悔する人も多いようで、たとえば、全米で4割のエンジニアリング専攻学生が、結局は専攻を変更してしまうんだそうです。
そして、新聞の投書欄にも、記事への反論が投稿されました。
僕も妻も、公立高校で舞台芸術を教えています。僕らは金銭面では安定しているし、娘と3人で恵まれた環境に暮らしていますが、金銭的な報酬のためにこの職業を選んだわけではありません。ふたりとも、芸術を通して、若い人たちの人生に影響を与えられると思ったから選んだのです、と。
続いて、この方は、学校で芸術を教えるメリットも挙げられています。
芸術教育は、進度の遅い生徒たちのテストの点数を上げたり、論理的思考能力を高めたり、人とのコミュニケーションスキルを高めたりと、テストばっかりの伝統的な教育では達成できないような結果をもたらしてくれます。それが、生徒たちの自信や成長にもつながっていくのです、と。
(Excerpted and translated from “Some college students not in it for the money”, by Jeff Bengford, Teacher, Drama Department, Westmont High School, San Jose, published in the San Jose Mercury News, October 28, 2013)
これは、サンノゼ市の高校の先生が書かれたもので、芸術教育の価値を熱く説いていらっしゃったのでした。
近頃、アメリカでは、STEM(ステム)と呼ばれる科学教育が取り沙汰されています(STEMは、サイエンス、テクノロジー、エンジニアリング、数学の頭文字)。
「中国を始めとする諸外国にテクノロジーで負けるな!」と、オバマ大統領もさかんに音頭取りをしています。
こちらの写真は、10月25日ニューヨーク州ブルックリンの P-TECH(ピーテック)高校を訪れたオバマ大統領。
P-TECHは、IBM(本社:ニューヨーク)とニューヨーク市立大学のパートナーシップで生まれた、アメリカ初の公立高校・短期工科大学の6年一貫教育の場で、大統領ご自慢の科学教育のテストケースとなっています。
もともとアメリカ人は科学に苦手意識を持つ人が多いので、そんな「恐怖心」を克服しよう! と頑張るのは、立派なことだと思います。
けれども、残念ながら、昨今の財政難やSTEM重視の風潮の中、芸術教育は軽視されがちになり、先生たちが解雇されたり、授業が減ったりしているのも事実のようです。
ですから、こちらの先生のように、「人間を育てる芸術教育」に危機感を持たれる方も大勢いらっしゃることでしょう。
個人的な感触では、「成功を遂げた」と言われる方でも、若い頃から「就職後」のことを考えていた人は少数派ではないかと思うんです。
人は、そんなに打算で生きられる生き物ではないと申しましょうか、気分が乗らなければ、うまくできない気分屋のところがあると申しましょうか、まあ、理屈通りに人が動けるとすれば、それはもう人間ではない、と言った方がいいのかもしれません。
わたしの大好きな小説家ジョン・グリッシャム氏は、もともとは南部のミシシッピー州で弁護士をなさっていました。
一時期、ミシシッピー州の下院議員も務めていらっしゃいましたが、この議員生活のときに最初の小説を書き上げ、二作目の『The Firm(ザ・ファーム)』がベストセラーとなって、作家に専念するようになりました。
今では、アメリカの「法廷ものサスペンス」の第一人者です。
そのグリッシャム氏は、学生に講義をなさる機会もあるようですが、「どうやったら作家になれますか?」という質問には、こう答えているそうです。
「まず、仕事に就きなさい(Get a job first)。社会で経験を積まなければ、書くことなんてできませんよ」と。
人生は、いろいろと計画しても、その通りにはならないことも多いでしょう。
そして、おかしなことに、理屈を離れて突き進んでいたら、思いもよらない発展が待ち構えていたりもするのです。グリッシャム氏だって、法律を勉強していた頃は、まさか小説家になるとは夢にも思わなかったはずです。
ずっとテクノロジー業界で過ごしたわたしが言うのもなんなのですが
どうせうまく手なづけられない人生なら、なにも無理して「給料が高そうな」エンジニアリングに固執しなくても、文学や芸術を専攻して、ウキウキと心躍らせてもいいんじゃない? とも思うのですが、いかがでしょうか。
だって、もしかしたら、シェイクスピアを読んで、人の本質を知り、のちに新しいビジネスに発展することだってあるかもしれないでしょう?
追記: 平均年収のリストで、「あれ、お医者さんは?」と思われた方もいらっしゃるでしょうが、こちらは、あくまでも学部卒業者(学士号 bachelor’s degree 取得者)のリストとなっています。ですから、お医者さんなどは含まれていません。
それから、冒頭でご紹介した青年のエピソードというのは、こちらになります。後半部分は、ちょっとテクノロジー業界の話題に暴走していますが、いくつかアドバイス差し上げた内容なども書いてみたのでした。
日本の青年: 夢は海外!
- 2013年10月29日
- 教育
Vol. 171
日本の青年: 夢は海外!
10月最後の週末、シリコンバレーのお膝元に、いよいよユニクロが登場しました。場所は人気ショッピングモール、バレーフェア。
モールじゅうにプロモーションの和太鼓が鳴り響く中、お店は長い行列で待ち状態。
まるでアップルの新製品売り出しを思い浮かべる光景ですが、「ジャパン・テクノロジー、ヒートテック」の名は、すでにサンフランシスコ辺りから漏れ聞いているのです。
残念ながら、ユニクロの開店セールはミスってしまいましたが、今月は、先月号に引き続き、日本の青年のお話をいたしましょう。海の向こうを夢見る青年のエピソードです。
<迷いのある18歳>
どうも近頃、自分が「おじさん」になったみたいな気がするんです。なんとなく涙もろくなったり、クロスワードパズル(みたいな面倒くさいもの)に興味を持ったり、日経新聞や英フィナンシャル・タイムズ紙といったビジネス紙を読んでみたり。
先日、グーグルさんの「広告表示に関するあなたのプロファイル(Ads Settings)」をチェックしてみたら、「性別:男性(Gender: Male)」となっていたので、あぁ、やっぱり自分の行動は「おじさん」なんだなぁと改めて自覚したわけですが、きわめつけは、こちら。
柄にもなく、「少しは次世代の助けになりたいかなぁ」と殊勝なことを思うようになったことでしょうか。
そう、わたしだって、ときには若い方の相談にのることもありまして、ごく最近は、今春大学に入った日本の青年とお話をする機会がありました。
彼と初めてメールのやり取りをしたのは、ちょうど一年前。東京の有名私立大学の推薦入試に失敗して、「もしかしたら、このまま留学した方がいいのかな?」と迷いが出始めた頃。わたしに対する質問は、こんなものでした。
「海外で就職するなら、MBA(経営管理学修士号)が必要ですか?」「シリコンバレーには経営者が多いんですか?」「経済と経営を学ぶのにいいところはありますか?」「高校からアメリカの大学に行くにはどうするんですか?」
と、かなりストレートな質問の羅列ではありましたが、どうやら、海外で働くことに興味があるので、高校3年生の自分の進路に迷いがある、という感触でした。
そこで、義理堅いわたしとしましては、少しでもお役に立てたらと、実情とアドバイスを3ページの文書にまとめてお送りいたしました。
要点としては、アメリカの大学の場合、翌年秋の入学願書は前年11月くらいには締め切られるはずなので、10月の時点で考え始めるのは時期的に遅いこと。日本人留学生に奨学金が与えられることはまれなので、自費留学となると学費・生活費は相当高くなること。MBAが必要かどうかは職種によるので、何の仕事に就きたいかを決めるのが先決であること。
そして、わたし自身のアドバイスは、まず日本の大学で学び、働いてみて、そのあと海外に飛び出すことやMBAが必要であるかどうかを判断するのがベストである、というものでした。
これに添えて、日本からアメリカに留学する場合は「F-1ビザ(a student visa)」という査証が必要なので、これを日本のアメリカ大使館・領事館で取得する手続きなども要約してお知らせしました。
たとえば、大学から入手する入学許可書「I-20(Certificate of Eligibility for Nonimmigrant Student Status)」には高校の成績書やTOEFLのスコアなどが必要ですが、実際のビザの申し込みには銀行の預金残高証明書(留学資金を証明)や卒業後(もしくは学位取得後のインターンシップ終了時)はアメリカを離れる旨の宣誓書(不法滞在しないことを宣誓)なども必須となってきます(ビザについての詳細は、米国務省のウェブサイト(www.state.gov)で調べられます)。
それで、迷いはあったものの、結局のところ、青年は今年4月に地元の国立大学の1年生となり、自宅から学校に通うことになりました。
わたしの父が名誉職を持つ学部ですが、もう父が大学に足を向けることはないので、それが少々寂しくもあります。同級生あたりだと、「何を教わったか覚えてないけど、父ちゃんの授業を取ったことがあるよ」と言ってくれるのですが。
そして、9月初めの雨の日、実際に青年とお会いする機会に恵まれました。が、まあ、その雨を吹き飛ばすかのような、はつらつとしたエネルギーに驚くとともに、好感を持ったのでした。
そこで、どうしてアメリカの話を聞きたいのかと尋ねると、英語を勉強したいからと答えます。それで、どうして英語を学びたいのかと尋ねると、海外で働きたいからと単刀直入に答えます。
なんでも、日本を飛び出して海外で働いてみたいそうで、それには、少なくとも英語だけは身につけておきたいと考えているようです。だから、短期の語学留学でもいいから、とにかく留学してみたいのだと。
今の時代、日本から飛び出したい若者は減っていると聞くので、彼のようなケースは珍しいのかもしれませんが、ゆくゆくは貿易関係の会社に入って、海外でマーケティングの仕事をしたいのだと、夢を語ってくれました。
学校ではサッカーと駅伝で体を鍛えているそうですが、日焼けした顔でハキハキと物を言う彼を見ていると、「健康な体には健康な精神が宿る」という言葉を思い出しました。どうやら、彼のはつらつとした精神は、海を越えて知らない場所を探ってみたくてしょうがないのだなと承知したのでした。
<青年へのアドバイス>
それで、青年には何かしら気の利いたことを言ってあげようと思ったのですが、なにせ、貿易やマーケティングとは、わたしにとって守備範囲を大きく外れています。それでも、がんばっていくつかアドバイス差し上げたことがありました。
ひとつは、海外に出るチャンスを狙っているのだったら、日本古来の組織を踏襲する会社には入るべきではない、ということでした。
ここで「日本古来」というのは、「出るクギを打つ」と言いましょうか、右を見て、左を見て、みんなと同じにやることを「強いる」と言いましょうか、組織のために個を抑えることが前提条件になっているような会社のことです。
ま、今どき、そんな絵に描いたような会社が存在するのかどうかは存じませんが、海外で生き抜くためには、自分の頭で考え、独自のやり方を編み出しながら行動することが必須条件です。しかも、自分の信ずるところを貫くのですから、個に対する精神的プレッシャーも相当なものです。
仕事や生活の上で助けが必要になったとしても、自分から「助けて」と意思表示をしなければ、誰も助けてはくれません。
ですから、「右を見て、左を見て、同じに振る舞う」方式に慣れてしまっては、その後の適応が難しいのでは? と思われたのでした。
そして、もうひとつのアドバイスは、彼がこだわっているMBAが役に立つかどうかは、分野や職種による、ということでした。
たとえば、シリコンバレーのエンジニアには、エンジニアリングの修士号、博士号を持つ人は多いですが、よほど大きな会社の経営者にならない限り、MBAは必要ありません。
以前も2011年2月号でご紹介したように、大きな会社の経営者であっても、アップルの共同創設者、故スティーヴ・ジョブス氏は大学を一学期でドロップアウトしていますし、オラクルの創設者/現CEOラリー・エリソン氏だって、一旦入った大学は2年で辞めて、入り直した大学はすぐにドロップアウトしています(写真は、9月25日サンフランシスコ開催のヨットレース「アメリカスカップ」で優勝杯を掲げるエリソン氏;Photo by Karl Mondon, the San Jose Mercury News, September 26, 2013)。
もちろん、シリコンバレーでも財務・マーケティング・オペレーション職の人にはMBA取得者は多いですし、大きな会社では「MBA必須」となっている職種もあります。
けれども、まだ組織として確立していないスタートアップでは、「人」は個人の持つスキルに集約され、「どこの学校の何の学位」という冠(かんむり)は二の次となるでしょう。
こういった「個人のスキル」が優先される場所では、学校で「何を学んだか」ではなく、学校で「どんな考え方を身につけたか」が大事になってくると思うのです。
言い換えれば、数学の方程式に数字を当てはめ、チャカチャカっと答えを出すのではなく、方程式自体を自分で苦労して導くような、物事の根本を見据える態度が求められるのではないでしょうか。
物事を見据え、流れを論理的に追い、対処の仕方を考える、そうやって初めて、学校で習った「理論」を実地に適用できる、と言えるのではないでしょうか?
それに、とくにシリコンバレーのような新手のテクノロジーや概念が日々誕生している場所では、新しいやり方の「理論化」「教材化」が追い付いていないのも事実でしょう。
ベンチャーキャピタルを務める知り合いが、シリコンバレーの名門スタンフォード大学の社会人向けMBAコースに参加したことがありましたが、「ま、習ったことの2、3割くらいは現実に即しているかな」とおっしゃっていました。
シリコンバレーを含むサンフランシスコ・ベイエリアには、全米のベンチャーキャピタル投資資金の4割が投入されます(PricewaterhouseCoopersのデータ)。
お金のあるところには、人と頭脳が集まる。物事の進化のスピードも、他とは比べようもないほどに速い。だから、教科書に載ったことは、明日には古びているかもしれないのです。
それゆえに、この辺りには、「学校に行ってる暇とお金があったら、さっさと自分で起業してみたら?」というムードも強いのではないでしょうか。
全米を見ると、とくに2008年の世界金融危機(リーマンショック)以降、学校に残って就職の時期を遅らせる傾向も見られるそうです(平均年収に達する年齢が、26歳から30歳と過去30年で顕著に遅れている:”Failure to Launch: Structural Shift and the New Lost Generation”, the Georgetown University Center on Education and the Workforce, September 2013)。
が、シリコンバレー辺りでは、その真逆の動きがあるのも事実でしょう。
先月号でもご紹介したように、500 Startups(ファイヴハンドレッド・スタートアップス)みたいなインキュベータ(起業支援団体)は、「まず自分でやってみて、失敗してみたら?」というのが信条となっています。
まさに、こちらの写真のように「Batch 007(募集第7期)– License to FAIL」。
「007殺しのライセンス」ならぬ「007失敗のライセンス」なのです。
そう、四の五の言わずに、立派に失敗してこい! といった感じではありますが、ただ、ここでは「勝手にやれ!」というのではなくて、激動の変化の中にも、ちゃんとした「やり方」があるはずなので、それをインキュベータが抱えるメンター(業界の先輩)たちから学びましょう、というのが起業支援団体の存在価値でもあるでしょうか。
実際に業界で経験を積んだ「メンター」は、スポーツチームの「コーチ」や「フロント」みたいなもの。どうやって試合をうまく運ぶかのテクニックだけではなく、どうやったらファンの心をつかみファン層を盛り上げられるのか、どの時点で「赤字を覚悟で経営拡大」して、どこから「収支を念頭に置いた路線変更」を行うのかなど、岐路に立ったときに助言してくれるのです。
メンターが自分でアドバイスできなければ、メンターの持つ「人のネットワーク」が生きてくる。こんな会社とタイアップしたら? この人から投資してもらったら? と紹介してあげるのも、メンターの大事な役割なのです。
そして、「失敗のライセンス:やってみて失敗してみれば?」という言葉の裏には、「失敗するなら、素早く失敗すべし」という教訓も隠されているのです。
もちろん、事がうまく運べばベストなのですが、どうやらダメそうかな? とわかったときには、さっさとあきらめて次のアイディアに移るべし、という教訓です。
さっさと次に移らなければ、いつまでも無駄に資金をつぎ込むことになるし、組織のメンバーにとっても、いつまでも同じことの繰り返しで情熱を失いかねない、というのが理由です。
おっと、青年へのアドバイスから話題が暴走してしまいましたが、もちろん彼には、こんな面倒くさい話は控えました。が、最後にひとつ付け加えたことがありました。
それは、まだ大学に入ったばかりなので、これから尊敬できる先生や先輩や友人に出会って、いろんな話を聞く機会も出てくる。だから、今のうちに「これだ!」と決めなくてもいいんじゃないの? ということでした。
先の事なんて、一寸先だってわからない部分もありますので、今できることをしっかりとやっておくことが大切なんじゃないかな? と思ったものですから。
青年には、わたしが執筆を担当したシリコンバレーの実話『世界シェア95%の男たち』をお送りしていたのですが、後日、本を読んだとメールが返ってきました。それには、こう書き添えてありました。
「普段知ることのできない貴重な経験ばかりで、ますます海外で仕事がしたくなりました」と。
なんとも、たくましい青年なのでした。
夏来 潤(なつき じゅん)
ミゼリコルディアの坂
- 2013年10月20日
- エッセイ
ミゼリコルディア(misericordia)というのは、ラテン語で「慈悲」という意味だそうです。
慈悲と聞いても、あまりピンとくる響きではありませんが、イタリア語、スペイン語、ポルトガル語では普通に使われている言葉のようです。
そして、ミゼリコルディアというのは、13世紀にイタリア・フィレンツェで生まれた、身分を超えた市民の援助組織の名前であり、その根本精神でもあるようです。
まあ、ボランティアの原点とでもいいましょうか、隣近所の人たちを家族みたいに大切に思う精神のことです。
家族だったら、痛みや喜びを分かち合いたいと思うはずですから、同じ気持ちでコミュニティーの人々にも接しましょうと、そんな感じではないでしょうか。
なんでも、イタリアでは、今でもボランティア組織「ミゼリコルディア」が精力的に活動していて、医師や看護師の救急派遣や、高齢者や体の不自由な人々のサポートと、幅広い分野で活躍しているそうです。
それで、どうして薮から棒にミゼリコルディアのお話をしているかというと、心の中に「ミゼリコルディアの坂」という響きが残っているから。
正式には「大音寺坂」というそうですが、このミゼリコルディアの坂には、もともと援助施設が建っていました。
時は、安土桃山時代。前年に本能寺で織田信長が命を落とし、天下統一を夢見る豊臣秀吉が大坂城を築いたという、1583年(天正11年)。
場所は、大坂城から遠く西に離れた、長崎。
今の万才町(まんざいまち、昔の本博多町・もとはかたまち)の坂には、堺出身の日本人キリシタン、ジュスティーノ山田・ジェスタ夫妻によって「ミゼリコルディアの組」が設立され、サン・ラザロ病院と孤児・老人施設が建てられました。
ここには聖堂も隣接し、近隣の人々の信仰の対象ともなっていました。
病院や施設は、ミゼリコルディアの組が運営していたので、地元では「慈悲屋」として親しまれたそうです。
「ミゼリコルディア」とは、当時の方々にとっては舌がまわらなかったのでしょうけれど、それを「慈悲屋」と名づけるなんて、なんともオシャレなネーミングなのです。
当時は、慈悲屋のそばには長崎奉行所もあったりして、街の中心地だったと思うのです。
それでも、近隣には、生活に困窮する方々もたくさんいらっしゃったことでしょう。
そんな中にできた慈悲屋は、庶民にとって、ありがたい存在だったのだろうと想像するのです。
ところが、4年後の1587年(天正15年)、秀吉は『バテレン追放令』なるものを発布し、キリスト教の布教を禁ずるのです。
そのため、ミゼリコルディアの坂に建つ聖堂も破壊されてしまいます。
が、さすがに、慈悲屋を壊すのは忍びなかったのでしょう。聖堂が壊されたあとも、近隣住民の援助組織として立派に機能していました。
けれども、安土桃山から江戸と時代が移ると、徳川家康は、キリスト教に対してもっと強硬な政策をとります。1612年、翌13年と禁教令を発布し、全国で布教を禁ずるばかりではなく、神父や信徒を国外追放するのです。
長崎のミゼリコルディアの聖堂跡地には、1617年(元和3年)、大音寺(だいおんじ)というお寺が創建されます。
そして、2年後、ついに慈悲屋も壊されてしまいます。
現在「ミゼリコルディア本部跡」の碑のある坂が「大音寺坂」と呼ばれるのは、ここに大音寺が創建されたからだそうです。
立派な石段となった坂は、誰かが江戸時代の装束で歩いていても何の違和感もないような、趣のあるたたずまいになっています。
今となっては、大音寺さんは寺町界隈に移り、その跡地に建立された坂の上天満宮も長崎地方法務局(写真:石垣の上の建物)となって久しいようです。
でも、やっぱりこの坂は「大音寺坂」や「天満坂」として親しまれているそうです。
それで、心に残っていたというのは、この「大音寺」という響き。
ミゼリコルディアの坂に創建されたという、由緒あるお寺。
このお寺が、ある人にご縁のあるお寺だと耳にしたから。
神奈川で生まれ、港のある横浜をこよなく愛する友でしたが、ここが先祖代々の菩提寺だそうです。
友はここには眠ってはいませんが、もしかすると、ご先祖は長崎の名士だったのかなと、いろいろと考えを巡らせていたのでした。
だって、江戸時代初めに創建された名刹です。ここが菩提寺ということは、昔から街の中心地に暮らした名家だったのかもしれません。
もしかすると、付近の長崎奉行所の役人だったのか、はたまたミゼリコルディアの坂から移った先(鍛冶屋町・かじやまち)で、手広く商売を営んでいたのか・・・。
今となっては友に尋ねることもできませんが、ミゼリコルディアの坂を訪れ、趣のある石段を歩いてみると、自然と想像がふくらむのでした。
長崎から遠く離れた東京の芝大門(しばだいもん)に、うどん屋さんがありました。
友が大好きだった讃岐うどんのお店で、わたしも連れて行ってもらったことがありますが、今年初めに前を通ると、すっかり取り壊されているんです。
地下鉄・大門駅の入口で、交差点の角という便利な場所にある老舗でしたが、やっぱり時代の流れには勝てないのかなぁ、友と縁のある場所がどんどん消えていくなぁ、と悲しい気分になっていました。
ところが、ネットで探してみると、昨年10月に閉店したあと、今春六本木でお店を再開したとあるではありませんか!
なんとなく、友とつながる糸が断ち切られたあと、またつながったような気がしたのでした。
参考文献: 歴史的な記述に関しては、さまざまなウェブサイトを参照させていただきました。おもなものを以下に列記いたします。
イタリアのボランティア組織ミゼリコルディアについて:バチカン放送局ウェブサイト、バチカンニュース「教皇、イタリアのミゼリコルディア会員らとお会いに(2007年2月10日付)」
長崎のミゼリコルディアの組について:カトリック長崎大司教区ウェブサイト、故・結城了悟神父「教区の歴史・長崎の教会」
「慈悲屋」について:聖パウロ女子修道会ウェブサイト『ラウダーテ』、「キリシタンゆかりの地をたずねて・ミゼリコルディア本部跡」
「大音寺坂」「天満坂」について:ブログサイト『長崎んことばかたらんば』、「大音寺坂・天満坂(2008年5月13日付)」