Stand-in(代役)

今日の話題は、stand-in(スタンドイン)

いろんな風に訳される言葉ですが、ここでは「代役」といたしましょう。

正規のメンバーは都合が悪くなったので、その人の代わりに「役」を務める人のことですね。

同じような意味では、こんな表現があるでしょうか。

たとえば、pinch hitter(ピンチヒッター)

それから、substitute(代理、補欠、発音は「サブスティテュート」)

いろんな表現はありますが、舞台の代役だったら、stand-in

野球の試合だったら、pinch hitter

先生の代理だったら、substitute teacher などと使い分けをいたします。


それで、どうして「代役」のお話をしているのかと言うと、こんな人生相談を目にしたからなんです。

バート(仮名)とわたしは、高校時代に付き合っていましたが、それぞれに違う道を進んで、結婚もして、子供もできました。

その後、お互いが離婚することになり、また彼と付き合い始めました。が、その2、3年後、別々の州に住むことになって別れました。彼の方は、それから結婚して離婚しています。

ほんの2、3ヶ月前、互いに消息を探し合って再会し、また付き合うことになりました。わたしはずっと「ひとり(single)」を通していますが、彼は時々別の人とも会ったりしています。この「もうひとりの女性(other woman)」は、現在、ご主人と別居中です。

二度目の再会を果たした彼とわたしは、今、互いの腕の中に戻っています
 Now we are back in each other’s arms

ですから、わたしは彼に対して、他の人と付き合うような人はイヤだと言ったんですが、彼は「彼女とは結婚しないよ」と言いながら、なかなか別れようとしません。

それで結局は、わたしと彼女と両方と付き合っている状態なんです

と、そんな内容の人生相談でした。


この相談を読んだわたしは、まず、こう思ったのでした。

たぶん、このバートという男性には、相談者と結婚したい意思は、まったくないんじゃないかなぁ?

だから、くっ付いてみたり、別れたり、他の女性と天秤にかけてみたりと、煮え切らない態度を取るんだろうなぁ、と。

すると、回答者のエイミーさんも、ずばり、同じことをおっしゃっていました。

何度も劇的な再会を果たしたことで、あなたはきっと、こんな風に信じていらっしゃることでしょう。

わたし達ふたりは一緒になる運命なのよ
 We are destined for each other

もちろん、そうなのかもしれませんが、違った見方をすると「別れと再会のドラマ(the drama of loss and rediscovery)」に酔っているだけなのかもしれません。

あなた方は、お互いを「他の誰かが現れるまでの代役」として使っているに過ぎないのです
 You use each other as stand-ins until someone else comes along

あなたが良いと思ったのなら、このままで結構ですが、バートに同じことを期待してはいけません。彼は、彼自身のやり方でベストな道を探しているのですから

というのが、回答者エイミーさんの英断でした。

(上の文章では、stand-insstand-in の複数形;comes along は「現れる」の意)


なるほど、「他の誰かが現れるまでの代役」とは、よく言ったものですね。

そうなんです、わたしがバートの煮え切らない態度に感じていたものは、「代役」として急場しのぎで付き合っている、ということだったんです。

たぶん、彼にとっては、この方でなくてもいいんですよ。だって、もしも「この人しかいない!」と思ったのなら、すぐに結婚しようと言い出すでしょうから。

ということは、この方だって、「別れと再会のドラマ」に翻弄されて、自分を安売りしてはいけないんです。

そう、人生に「代役」はいりません。

誰かを代役にしてもいけないし、

誰かの代役になってもいけないんです!

というわけで、少々熱く語ってしまいましたが、

今日のお題は、stand-in

舞台の代役は OK ですけれど、人生の代役は NG ですね!

Reference cited: “Ask Amy” by Amy Dickinson, published in the San Jose Mercury News, May 1, 2015

サンフランシスコのベイブリッジ

先日、サンフランシスコに初めてやって来て35周年を迎えました。

出発の数日前、同じ西海岸のワシントン州でセントヘレンズ山が大噴火となり、なにやら雲行きの怪しい渡航。が、サンフランシスコにたどり着くと、ひんやりとした穏やかな空気に包まれていたのを覚えています。

そして、35年たった今年の5月。

サンフランシスコでは、5月としては気温の低い日々が続き、「ここまで午後の気温が低いのは、35年ぶりの記録です」と報じられていました。

なるほど、35年前に「ひんやり」と感じたのは、記録的な涼しさだったのですね。


というわけで、今回は、サンフランシスコらしい「橋」のお話をいたしましょう。

と言いましても、よく絵はがきに出てくるゴールデンゲートブリッジ(金門橋)ではありません。

もうひとつの有名な橋、ベイブリッジ(Bay Bridge)のお話です。

ベイブリッジは、正式名称「サンフランシスコ・オークランド・ベイブリッジ」と言います。

名前の通り、サンフランシスコ湾の両側に位置するサンフランシスコ市とオークランド市を結ぶ橋です。

西のサンフランシスコ側から眺めると、途中のイェルバブエナ島(Yerba Buena Island)に視界をさえぎられて、向こう側が見えません。が、橋は、オークランドに向けて島の東側にもズンズンと続いています。

それで、どこの街にも都市伝説(urban myth)というのがありまして、このベイブリッジにも、まことしやかにささやかれる伝説があるそうな。

それは、1930年代にベイブリッジがつくられたときのこと。

橋脚の足元をセメントで固める作業の際、作業員が足場から転落して、まさに塗り固めようとしている穴に落下。作業員は、今もそのままセメントに埋められている・・・。

しかも、ひとりではなく、何人も・・・というもの。

そこで、サンノゼ・マーキュリー新聞の交通担当コラムニストが、読者の疑問に答えてくれました。

これは、なにもベイブリッジに限ったことではなく、付近の灌漑工事やネヴァダ州のフーヴァーダム(Hoover Dam)のようなダム建設には必ずつきまとう都市伝説です。

そう、伝説ですから、誰もどこにも埋まってはいません。

たしかに、1933年にベイブリッジの工事が始まり、1936年に開通するまでには、足場から転落したり、鉄骨に当たったりと、24名の作業員が命を落とした事実はあります。

が、たとえコンクリートの工事現場に落下したとしても、補強用の鉄筋が張り巡らされているし、第一、人がコンクリートに沈みこむことはありません。

それで、以前は建設当時のカリフォルニア州知事と、作業で犠牲になった方々を偲んで記念碑が置かれていました。が、現在は、橋周辺工事のため移転されたあと、落書きされたりしたので倉庫で保管されています

とのことでした。

(Reference cited: “Mythbusting: No workers entombed in Bay Bridge” by Gary Richards, the San Jose Mercury News, May 8, 2015)


ベイブリッジは、ずいぶんと前に建設された橋ですので、作業の安全面ではずさんな部分があったのは確かなようです。

たとえば、落下を防ぐ転落防止網(safety net)はなかったので、作業員は、海面から150メートルほどの高さでも身ひとつで(命がけで)作業していたとか。

その経験を活かして、もうひとつの橋ゴールデンゲートブリッジの建設では、転落防止網が使われるようになり、犠牲者は半分以下でおさまったと言われます。
(The Golden Gate Bridge, Highway and Transportation District archived photo, from goldengatebridge75.org)

実は、ベイブリッジもゴールデンゲートブリッジも、同じ1933年に建設が始まったのですが、完成はベイブリッジの方がちょっと早く、1936年11月の開通。そして、金門橋は、翌1937年5月に開通しています。

開通の直前の1937年2月、ゴールデンゲートブリッジでは、足場の一角が転落防止網をつき破って落下し、いっぺんに10名が命を落とす惨事となりました。

が、その日も、海面から230メートルの橋脚にペンキ塗りをしていたハリー・フォーグルさんは、「(橋の上は)ものすごく風が強くて、身を切るくらいに寒かったよ。でも、晴れた日には、こんなに最高なことはなかったね」と語っていらっしゃったとか。

3年前に97歳で亡くなったフォーグルさんは、ベイブリッジとゴールデンゲートブリッジ両方に携わった最後の作業員と言われています。

そして、ごく数日前、ゴールデンゲートブリッジ最後の作業員となるガス・ヴィリャルタさんが、息を引き取られました。

この方は、88歳まで元気にテレビ/ラジオ修理店を経営されていたそうですが、開通78周年記念日(5月27日)の前日、98歳で亡くなりました。

フォーグルさんはウィスコンシン州から、ヴィリャルタさんはイタリアから移り住んだ方ですが、当時の大恐慌時代(the Great Depression)、どんなに危険な仕事であっても、仕事があるだけ幸せだったと語られていたとか。

そうなんです、建設が始まった1933年というのは、まさに大恐慌の真っただ中!

よくもまあ、そんな時期に、こんなに大きな橋をふたつもつくったものですね!

(References cited: “Man thought to be likely last Golden Gate Bridge worker dies”, AP, May 30, 2015; “Last surviving worker on Bay Area bridges”, LA Times, February 24, 2011)


というわけで、ベイブリッジと言えば、こんなユニークな特徴もあるんですよ。

それは、「2階建て」であること。

1989年に起きた大地震で、オークランド側(写真では島の向こう側)の2階部分が1階に崩れ落ちて惨事となり、そのために、こちら側の橋は2年前に掛け替えられ、平面構造となりました。
 が、それまでは全面的に2階建てだったんです。

そして、現在もサンフランシスコから見える部分(西側)は2階建てのままですね。

上が、オークランドからサンフランシスコに向かう一方通行(東から西)。下が、サンフランシスコからオークランドに向かう一方通行(西から東)。

ところが、ある映画では、逆向きになっているんです!

今でもアメリカ映画の代表作とも言える、1967年リリースの『卒業(The Graduate)』。
(Photo “Graduateposter67”, licensed under Fair use via Wikipedia)

俳優ダスティン・ホフマンさんの出世作とも言える作品ですが、この映画の終盤で、今まさに結婚式を挙げようという「意中の人」イレインを追うベンジャミンが、赤いアルファロメオのスポーツカーを駆るシーン。

設定では、オークランドの隣街バークレーから南カリフォルニアのロスアンジェルスを訪ねたあと、夜を徹して(サンフランシスコ側から)バークレーに舞い戻ることになっています。が、このとき映像では、ベイブリッジの2階部分を走っているのです。

そう、このシーンを空から撮影したときには、車はサンフランシスコに向かって走っていたはずですが、作品上では、サンフランシスコからバークレーに向かっていることになっているのです。

だって、2階を走らないと「絵」になりませんからね。

まあ、ストーリーには何の影響もない細かいことではありますが、地元の人が観ると、「あれ、おかしいよ!」と指摘されるシーンなのでした。

というわけで、ベイブリッジあれこれ。

どちらかと言うと、名高いゴールデンゲートブリッジの陰に隠れて、みそっかす。

でも、サンフランシスコ・ベイエリアの大事な橋であることに変わりはないのです。

渡米35周年!: 日米の間(はざま)に暮らす

Vol. 190

渡米35周年!: 日米の間(はざま)に暮らす

 


P1190116se.jpg

今月は、初めてサンフランシスコに渡って来て35年となりました。

出発の数日前、同じ西海岸ワシントン州のセントへレンズ山が大噴火となり、何やら不吉な渡航ではありましたが、サンフランシスコはひんやりとした穏やかな空気に包まれていたのを覚えています。

そして、先月はシリコンバレーに住んで20周年、年末にはライターに転向して15周年と、今年は「記念すべき一年」とも言えるでしょうか。

そんなわけで、今月は、アメリカと日本の間(はざま)に暮らすお話をいたしましょう。ひとつ目は「外国に行く」ことへのアドバイス。ふたつ目は、税制の話題です。

<外国に行きたいって相談されたら?>


P1140065se.jpg

渡米35周年と言っても、神奈川県にある IBMの開発研究所に勤めていた時期があって、そのときに先輩社員からこんな相談を受けたことがありました。

「僕の娘が、高校を出たらアメリカに行きたいって言ってるんだけど、あなたはどう思う?」というもので、即座にわたしは「自分だったら、彼女を行かせない」と答えたのでした。

「どうして?」と怪訝な表情で尋ねる先輩には、ごく単純に「大変だから」と答えた記憶があります。

先日、そんなやり取りをふと思い出して、どうしてそんなことを言ったんだろう? と、我が事ながら不思議に感じたのでした。なぜなら、今だったら「それは、絶対に行かせるべきです」と答えるだろうから。

それで、何年か経ったら考えが180度変わった背景には、ふたつの要素が働いていると分析するのです。ひとつは、アメリカ自体の状況が変わっていること。もうひとつは、自分自身が変わったこと。

前者のアメリカの社会環境については後日お話しすることとして、自分のことに焦点を絞ると、きっと相談された時点では、良いことよりも、辛い記憶の方が心に鮮明に残っていたのではないかと推察するのです。

まあ、「辛い」とは穏やかな表現ではありませんが、天秤にかけてみると、楽しかったり、嬉しかったりしたことよりも、言葉も習慣も人も違う国で暮らすことに「戸惑い」を感じた記憶の方がずしりと重かったのでしょう。

やはり、異文化に慣れる同化(assimilation)のプロセスと社会の仕組みに慣れる社会化(socialization)のプロセスを同時に経験するのは、一個人にとっては、負担が大きいものなのでしょう。
 


IMG_0779se.jpg

その一方で、今だったら「絶対に行かせるべき」と主張するのは、それなりに人生経験を積んできて、「進むべき道は右でも左でも、おのずと道は開ける」と、自分なりに悟ったからかもしれません。

右に進んで「失敗だったかな?」と察知したら、さっきの二叉まで戻って左に進んでもいいし、それがイヤなら、失敗した箇所から脇道にそれてもいいし、どのように進んでも大丈夫なのではないか、と。

それで、右に進んでも、左に進んでも「正解」というものが存在しないのなら、ちょっとくらいは冒険して、苦い経験をしてみた方が、のちの人生が楽しく感じるかもしれないでしょう。

だって、昔から「かわいい子には旅をさせろ」と言うではありませんか。
 


DSC02871se.jpg

先日も、知り合いの方が、「僕の娘が高校を出たらアメリカに行くと言い出して、困ってるんだよ」とおっしゃるので、そんなに困ることはないのになぁ、と心のうちでつぶやいたことがありました。

彼はアメリカには足を踏み入れたことがないので、噂だけに翻弄され「アメリカは鬼が棲む危ない場所」だと信じ込んでいて、わたしは「危険な区域に近づかなければ、日本と同じくらいに安全だ」と反論したのでした。
だって、アメリカにも赤ちゃんだって、おばあちゃんだって、いろんな人が平和に暮らしているではありませんか。

あえて申し上げれば、「自分のことは自分で守れ」というモットーが骨の髄まで浸透しているので、本能的に危険(もしくは危険が生まれそうな状況)を察知しているわけですが、そういった「感覚」は必須条件になるでしょうか。

たとえば、こんな状況を思い浮かべます。よくショッピングセンターなどで、「わたしは車の中で待っているわ」と車内で人待ちをする方がいらっしゃいますが、実は、これは非常に危険な行為だと危惧するのです(人待ちをしていて「強盗」に出会うケースもありますので)。

そして、「自分は自分で守る」ことと同じくらいに大事なのは、「自分の行動には責任を持つ」ことかもしれません。海外では自己主張が大事だと言われがちですが、それは、ひとたび主張が通って自身で納得したら、最後まで責任を持って行動をやり遂げる、という含蓄を持ちます。

それが、真の意味での個人主義(individualism)であり、単なるわがまま放題の自己主張とは大きく異なります。そこのところが、日本では大きく曲解されているように感じるのです。

そんなわけで、知り合いの娘さんも、先輩の娘さんも、せっかく「外国に行ってみたい」と決意したのだったら、事情が許す限り、希望の芽をつむことは避けなければならない、と今だったら断言してみたいのです。

現地の風に吹かれてみたり、石畳をコツコツと歩いてみたり、そんな目に見えないことが、いつか元気の源となることもあるのではないでしょうか。
 


P1190155se.jpg

2年ほど前、「海外で働きたい」と相談を受けた青年のお話をしたことがありました。熱い夢を語ってくれた彼は、大学2年が終わる3月末、留学先のフィジーへと旅立って行きました。

なんでも、最初の6ヶ月は英語留学、残りの半年はワーキングホリデーだそうですが、もともとサッカーと駅伝で日焼けした顔は、もっと真っ黒になって満面の笑みで帰ってくるのではないでしょうか。

 

<アメリカの税金免除と日本の出国税>
近頃、自分が「終(つい)の住処」とするのはどこだろう? と、よしなし事が頭をよぎることがあります。

まあ、そんなことは成り行き次第で、考えたところで計画通りには行かないのが世の常ですが、少なくとも、銀行口座は最終的にどう処分するのか? くらいは考えておいた方が良いかもしれません。

そんなわけで、ずっと前に(何も考えずに)作成した法的書類を見直すことになったのですが、その過程でひどく驚いたことがありました。それは、アメリカのお金持ちに対する優遇措置。
 


IRS Estate Tax 2015.png

なんでも、連邦政府(国)が認める遺産税の免除(federal estate tax exemption)というのがあって、今年は、543万ドル(6億5千万円:120円換算)に引き上げられたとか。

ここで「遺産税(estate tax)を免除する」というのは、ひとりが一生涯のうちに課税なしに誰かに相続できるという意味で、それが今年(亡くなる方)は6億5千万円と定められた、ということだそうです。

ということは、夫婦ふたりで一生涯に13億円が非課税!!

と、まずは、その額の大きさに耳を疑ってしまったのでした(それ以上お金を持っている場合は、最高40パーセントの課税対象となるとか)。
 


IRS Gift Tax 2015.png

さらに、国の方針として、贈与税の年間免除(annual gift tax exclusion)というのがあって、一年にひとり1万4千ドル(168万円)を何人にでも(!)贈与できる制度があるそうな。

つまり、お金持ちの夫婦だったら、かわいい孫4人に対して、年間11万2千ドル(168万円 x 4 x 2 = 1,344万円)を非課税で贈与できる!
しかも、学校や病院などに直接支払ってあげる場合は、この免税額には加算されないとか(educational and medical exclusions)!

ちなみに、この贈与税の免除は庶民にも関わるケースがあって、それは、誰もが確定申告に計上する「慈善団体への物品や金銭の寄付」。慈善団体として税務署に認められていれば、限度額内の物や現金の寄付は、所得控除(tax deduction)となるのです。

(注: 贈与税は、一般的に贈与する側(donor)が支払うものなので、贈る側が税金の心配をすることになります。そして、遺産税免除などの国の優遇措置は、米国市民権の有無で違ってくるようです)
 


Estate Tax by State 2015.png

まあ、アメリカの場合は、さまざまな税金を「国」と「州」両方に支払うものなので、国が良くても、州にひっかかるケースが多々あります。
現在、19州と首都で遺産税または相続税(inheritance tax)または両方が課せられますが、いずれにしても、免税額を引き上げたり、税自体を撤廃しようとしたりというのが、近年の動向だそうです。

なぜなら、「うちの州に移り住むと税金が少ないよ!」と、成功して財を築いた人たちを自州に呼び寄せたいから。

そう、「自分の力で成功したのに、どうして税を取られるのさ?」といった不平不満は、いつの時代もくすぶり続ける社会の命題なのです。
(Map of State Estate Tax/Inheritance Tax from Forbes, September 11, 2014)

そこで思い浮かべるのが、日本で7月1日から施行される「出国税(Exit Tax)」。

ざっくり言うと、日本から移住目的で海外に出て行く人には、株式などの含み益に所得税を課すぞ、という制度。

税や会計の門外漢には細かいことは理解できませんが、素人考えで言うと、「あんた、日本で財を築いたんだったら、たんまりと税金を払わなければ、この国から出て行かせないよ」と、半ばペナルティーを科しているようなものでしょうか。

個人的には、アメリカのような「成功者」に対する過度の優遇措置には疑問を持ちます。が、その一方で、日本のようにペナルティーを科すのもいかがなものかと思うのです。

日本政府は、出国税は大国ならどこでもやっていると説明しているそうですが、少なくともアメリカでは、上記の遺産税免除のように、税をクリエイティヴに(合法的に)下げる方策はいくらでもあるという現実が、日本の税制とは根本的に違うところでしょうか。
しかも、アメリカの税務署は、少しでも税金を払って欲しいので、税金の割引やローン支払いの相談にも応じるようですし。

人は国境を越えて、自由に経済活動を行うのが理想型なのでしょう。先日、中国企業がアメリカに拠点を置くことで8万人の雇用を生んでいることが報道されましたが、それに対して、日本企業の米国での雇用創生は70万の規模に達するとか(5月20日ビジネス専門チャンネルCNBCの報道)

日本人が世界に散らばった先では、ひとりひとりが歯を食いしばって、ときには悔し涙を流しながらも奮闘しています。
 


P1150461small.jpg

何年か前の初秋、東京・銀座の三つ星割烹『小十(こじゅう)』にてオーナーシェフの奥田 透氏とお話ししたことがあって、パリに姉妹店『Okuda』を開くのは「アウェイで、あちらのルールで勝負してみたいからだ」と、クリクリとした目を輝かせながら語られたのが印象に残りました。

「料理人には、グワッと火の勢いを制する力が求められる」ともおっしゃる奥田氏は、日本の本拠地はそのままで海外に進出したケースではあります。
が、「移住」を決意する方にしたって、「自分の可能性を試したい」とか「世界に恩返ししたい」という前向きな動機に突き動かされているのではないかと想像するのです。

「日本で成功できたから、これからは世界の人々の役に立ちたい」と高尚な理想を掲げて出国する人にも、ペナルティーを科すべきでしょうか?

とは言うものの、日本と比べてアメリカの方がシビアな点もあるのです。

それは、国籍離脱または永住権放棄して出国税(expatriation tax)を払わない限り、世界のどこに行っても、(全世界所得の)申告と納税の義務がついてまわること(日本の場合は、国内に住んでいるかどうか「居住性」で判断)

う〜ん、となると、長い目で見ると、日本の出国税というのは(行き先によっては)安上がりなんでしょうか?

そんなわけで、税の素人に言えることは、「日米の税制は、ひどく違いそうだぞ」ということでしょうか。

References cited: “IRS Announces 2015 Estate and Gift Tax Limits”, October 30, 2014; “Where Not To Die in 2015”, September 11, 2014, both written by Ashlea Ebeling, Forbes

夏来 潤(なつき じゅん)

 

San Fran(サンフラン)

アメリカ人って、何でも言葉を省略するのが好きなんですよね。

たとえば、広く知られるものに TV(ティーヴィー)があります。

テレビの Television(テレヴィジョン)をはしょったもので、今となっては TV としか言いません。

映画の『E.T.(イーティー)』も、the Extra-Terrestrial(エクストラ・テレストゥリアル)、つまり「地球外の生き物」という長い名称を省略したものですね。

舌をかみそうなので、E.T. 自身だって、自分のことを「イーティー、イーティー」と連呼していました。

そして、とくに長~い名前の都市だったりすると、省略したり、ニックネームをつけたりして、なるべく短く発音しようとするのです。

お題になっている San Fran(サンフラン)は、ご想像のとおりです。

北カリフォルニアで最も有名な観光都市、San Francisco(サンフランシスコ)のことですね。

San Fran に落ち着く前は、長いこと Frisco(フリスコゥ)というニックネームで呼ばれていました。

サンフランシスコの Francisco の部分を省略したものです。

が、これには、地元っこは猛反発。

なぜなら、Frisco に似た名前の Crisco(クリスコゥ)という料理油があって、「そんなクッキングオイルと一緒にしてくれるな!」と、地元っこは猛反発したのです。

もちろん Crisco は、料理油としては有名なブランドではあるのですが、とにかく、風光明媚な街がクッキングオイルと一緒にされるのが、我慢できなかったのでした。

まあ、今でこそ健康志向の料理油でも知られるようになりましたが、昔は、Crisco と言えば、こってりとした缶入りラード(lard:豚の脂からつくった食用油脂)の代名詞だったので、街に誇りを持つ地元住民の反発も、自然と強まるというわけです。

そんなこんなで、「そんなに地元が嫌がるなら」と、以前使われていたニックネーム Frisco は陰をひそめ、今ではだいたい San Fran という省略形が使われるようになりました。

でも、地元っこはやっぱり、San Francisco と(美しい響きの)フルネームで呼ばれたいのです。


それで、都市の名前の省略形と言えば、L.A.(エルエィ)というのが有名ですよね。

ご説明するまでもなく、南カリフォルニア Los Angeles(ロスアンジェルス)の愛称です。

以前、ちょっとだけご紹介したこともありますが、1781年、スペイン領メキシコから入植者11家族44人が移り住んだのが、街の起こり。

カリフォルニアではサンノゼ(San Jose)に次いで2番目に古い街ですが、それまでは先住民族が住んでいたところに、だんだんとメキシコから人が流入するようになったのです。

その頃は、El Pueblo Sobre el Rio de Nuestra Señora la Reina de Los Angeles de Porciúncula(天使たちの女王である、われらが聖母のポルシウンクラ川の上にある村)というのが、正式な街の名でした。

が、あまりに長いので、いつの頃からか Los Angeles(天使たち)と呼ばれるようになったのでした。

ついでに、ポルシウンクラ川は、ロスアンジェルス川となっています。

(写真は、歴史的建造物サンミゲルのミッション)


ま、Los Angeles もわりと長いですが、カリフォルニアには、もっと長い名前がたくさんあるんです。

ふと思い浮かべたのは、San Juan Bautista(サンホワンバウティスタ)。

海沿いの観光地モントレーやカーメルMontereyCarmel)から内陸に行ったところで、18世紀末の「カリフォルニアのスペイン化」政策の上で、重要なミッション(カトリック教会)が置かれた古い街です。

同じく、ミッションが置かれた街の名としては、こんなものもありますね。

San Luis Obispo(サンルイスオビスポゥ)

カリフォルニア州の真ん中から、ちょっと南に下った海近くの街。

今では、州立カリフォルニア工科大学 California Polytechnic State University, San Luis Obispo で有名な、活気のある学生街です。

大学の名前も長いので、通称 Cal Poly(キャルポリィ)と呼ばれます。


そして、もっと長い街の名と言えば、こちら。

Rancho Santa Margarita(ランチョサンタマルガリータ)

ロスアンジェルスの近く、ディズニーランドのあるオレンジ郡(Orange County)にある住宅街です。

(Photo by D Ramey Logan, from Wikimedia Commons)

州財務局の「市のリスト」を眺めてみると、どうやら、カリフォルニアでは一番長い都市名のようです。

Rancho Santa Margarita は、もとは裕福な郊外のコミュニティーだったところが、人口増加に伴い、2000年1月に「市」に昇格されたんだとか。

それまでは、ロスアンジェルス郡の La Cañada Flintridge(ラカニャーダフリントリッジ)が「長い都市名一等賞」だったのに、ちゃっかりと抜かれてしまったようです。

La Cañada Flintridge が18文字のところ、Rancho Santa Margarita は2文字多い、20文字!

ちなみに、北カリフォルニアと南カリフォルニアを比べてみると、北は、短い名前がほとんど。最長は、South San Francisco(サウスサンフランシスコ)の17文字です。

う~ん、それにしても、サンフランシスコが San Fran なら、

Rancho Santa Margarita
 La Cañada Flintridge は、

いったい、どんな風に呼ばれているのでしょうか?

追記: 街のニックネームには、San Fran みたいな名前の省略形と、街の特徴を表す別称がありますね。

たとえば、サンフランシスコの場合には、こちらのふたつが有名でしょうか。
 ひとつは、湾に突き出た街なので、The City by the Bay(シティー・バイ・ザ・ベイ:湾沿いの街)。
 もうひとつは、霧が多いので、ずばり Fog City(フォグ・シティー:霧の街)。

カナダに近いワシントン州シアトルは「エメラルドシティー」、カリフォルニアの海沿いには「サーフシティー」がありますが、以前、そんなお話をしたことがありました。

母の日のあいさつ

ここ何年か、母の日になるとフラワーアレンジメントを贈るようにしています。

母の日に一緒にいられることは滅多にありませんし、母は花が大好きなので、きれいな花かごが届くと、無条件に喜んでくれるからです。

花はお腹の足しにはなりませんが、母にとっては、お菓子をもらうよりも、ずいぶんと嬉しいみたいです。


そして、母の日の日曜日、ご近所さんとお隣さんにも電話してみました。

前回の『病病介護(?)』というエッセイでもご紹介しましたが、転倒して両手をひどく痛めたお隣さんと、その彼女を親身に世話するご近所さんのことです。

ふたりとも「お母さん」ですから、母の日に「お元気?」と電話してみても、おかしいことはないでしょう。

ご近所さんには「ちょっと4、5日留守にしますよ」と断っておこうとも思ったのですが、こちらが尋ねるまでもなく、開口一番、お隣さんの近況報告をなさいます。

痛み止めの処方薬を取り替えても、副作用は続いているけれど、少なくとも気分が落ち着く時はあって、少しは食事がのどを通るし、身の回りの雑用もできているみたい、と。

明日はまた、リハビリのため病院に連れて行くのよという彼女も、母の日の日曜日ばかりは、息子夫婦をはじめとして、6人で「母の日ブランチ」に出かけるのと、きらびやかな声を出していました。

夫は夜の飛行機で日本とオーストラリアに向けて出張するし、火曜日になったら、娘が南カリフォルニアからやって来るので、ちょうど月曜日は、お世話に専念できるのよとおっしゃる彼女。

言外に「あなたは心配しなくていいのよ」と安心させてくれているんですよね。

時間があるなら、あなたも「母の日ブランチ」に参加なさる? と誘っていただいたのですが、「これからサンフランシスコに向かいますので」と辞退しながらも、あぁ、彼女はほんとに気さくで、優しい方だなぁと再認識するのです。

そこで、ハッピー・マザーズデイ(Happy Mother’s Day)! と母の日のごあいさつをして、会話を終えたのでした。


お次は、勇気をふりしぼって、お隣さんにも電話をかけてみました。

お隣さんは、いつも留守番メッセージを残していると電話に出たり、出なかったりするので、メッセージを残すことにしました。

「今日は母の日、おめでとう。ご近所さんが世話してくれているのは知っているけれど、何かあったらいつでも電話してね」と録音していると、「ハロー?」と途中で受話器を取ってくれました。

そこで、彼女は、ひとしきり激しい痛みと吐き気が交互に襲ってきて、気分はもう最悪なのよと説明してくれるのですが、突然、竜巻(tornado)の話題に切り替わるのです。

え、竜巻? と思ったものの、あ、さっきご近所さんが説明してくれたテキサス州の竜巻かと合点がいったので、こちらは、おとなしく話の続きに耳を傾けます。

なんでも、母の日の週末、普段は竜巻に縁のないテキサス州を、次から次へと竜巻が襲っていて、下の息子が住むダラスも危険区域に指定されたとか。

幸い、さっきテキストメッセージが来て、息子の家族は無事だとわかったそうですが、向こう数日間は竜巻が続く恐れがあって、警戒警報(tornado watch)は解かれていないとか。

風がビュンビュン吹きまくるし、家はブルブルと揺れるし、竜巻なんて経験したこともない、いたいけな子供たち(little ones)が、竜巻をこわがって泣き叫ぶのよ。

辺りには、砂嵐だって巻き起こるし、壊れた家の破片も飛んでくるし、竜巻の多いカンザスやオクラホマみたいに、地下の避難場所がないとダメなのよ。でも、テキサス州では地下壕をつくることは許されていないから、逃げ場がないみたいなの

と、そんな風に、息子家族の心配をするお隣さんは、すっかり「お母さん」や「おばあちゃん」に戻っています。

辛いことを話すと辛い気分になるのか、「もう、これ以上話せないわ」と悲しそうな声を出すので、こちらは「十分に休んでね」とあいさつをして、早々に電話を切ったのでした。

それにしても、ご近所さんもおっしゃっていたとおり、自分だって病人のはずなのに、いつのときにも、自分よりも息子や孫たちが優先するんですよね。

それが「母親」というものだとは思うのですが、こればかりは、古今東西変わらぬ真実なんだろうと、神妙な気分にもなったのでした。


というわけで、ほんの少し社会勉強をした、母の日の日曜日。

この日は、ハッピー・マザーズデイ! とごあいさつ。

こちらは、世の中のお母さん、すべてに向けて発信できる言葉なんです。

病病介護(?)

なんとなく切実なタイトルですが、我が家のお話ではなくて、ご近所さんのエピソードです。

先月初め、我が家が日本に旅立った直後、お隣のレディーにこんなことがありました。

彼女がフレッシュな空気を吸おうと裏庭に出たときのこと。ふらっとめまいがして、コンクリートの庭に倒れこんでしまいました。

どうにも自分では起き上がれなくて、30分ほど格闘した末、ようやくノロノロと部屋に戻ることができました。

幸い、頭を打ったり、骨折したりはしなかったのですが、瞬間的に両手で体を支えたせいで、手の筋肉や腱がひどく傷んでしまったようです。

もともと手の関節炎(arthritis)に悩んでいた彼女は、それ以来、激しい痛みを感じていたのですが、最初の2、3日は病院に行くこともなく、ただひとり家でじっとしていたそうです。

そう、以前『アメリカのお葬式』というお話でもご紹介しましたが、彼女は、2年前に最愛のダンナさまを亡くされ、ひとりで暮らしているのです。


それで、何かのきっかけで、斜め前のご近所さんが彼女の窮地をキャッチして、病院に連れて行ったのでした。

まあ、ほとんど無理やりだったみたいですが、とにかく何も折れていないことを確かめて、とりあえず痛み止めの薬(pain medication)を処方してもらいました。

ところが、この「痛み止め」がクセモノでして、あまりに強い処方薬だったのか、彼女の体に合わなかったのか、飲むと吐き気がしてくるのです。

そんなこんなで、痛みがひどくて薬を飲むんだけれど、飲むと吐き気がして何も口に運べないし、体も辛い。だから、ただただ眠るのが平和な時間、という酷な日々を送っていました。

その間、ご近所さんが毎日様子を見に行って、食料品を買ってきたり、ご飯を運んであげたりと、実に甲斐甲斐しく世話をしていました。が、痛みと吐き気は交互に襲ってくるし、悲観的な気分にもなってくるし、なかなか難しい「お世話」だったようです。

ほんとは吐き気を抑える薬もあるんですが、ひとり暮らしだから、飲んでふらふらして、また転倒したら大変! と、処方してもらえなかったとか。


何週間か経つと、「もうそろそろいいだろう」とお医者さんが勧めるので、ご近所さんがリハビリ(physical therapy)にも連れて行きました。

ところが、理学療法士にマッサージしてもらったときには良いものの、家に帰ってくると、かえって痛みが倍増する、と新たな悩みも生まれるのです。

明日の朝は、わたしも病院に行って、背骨に痛み止めの注射(epidural:硬膜外ブロック注射)をしてもらうのよ」と言うご近所さん。

人の心配ばかりしている彼女自身も、実は、長年腰から足にかけて刺すような痛みに悩まされているのです。

そんな彼女が、こうつぶやくのです。

おかしいわねぇ、これじゃまるで病病介護(the sick taking care of the sick)だわねぇ」と。

こちらも、何とか彼女の助けにならないかと考えてはいるのですが、なにせ、お隣さんは、極端に自立心の強い人。
 マサチューセッツ出身の昔かたぎの御仁(ごじん)で、なかなか人に甘えることができません。

ですから、やっと心を許したご近所さんにこっそりとお世話になっているのです。

息子たちも、そんなお母さんに太刀打ちできないと思ったのか、今のところ静観の構えを見せています。


そんなわけで、やっと合鍵をつくらせてもらったご近所さんの、たったひとりの奮闘記。が、なんとなく、合点がいかないなぁ、とも思うのです。

だって、痛み止めの処方薬なら種類は多いし、お隣さんの体に合うものもありそうでしょう?

また、心優しいご近所さんに頼ってばかりはいられないので、週に何回かお手伝いさんに来てもらったり、在宅専門の看護師さんに様子を診てもらったりと、家族が取るべき方策はいろいろとあるのではないでしょうか?

それに、第一、手が炎症を起こして痛いからって、内服薬ばかりで解決しようとする西洋医学(Western medicine)の考えも、ちょっと見直した方がいいとは思いませんか?

ま、他人のわたしがとやかく言う筋合いはないのですが、ご近所さんの心配もよ~くわかるのです。

だって、わたしの母も同じだったのよ。晩年には、もう何回も転んだことがあって、自分で起きられなかったこともあるの。だから、ペンダントみたいに首から緊急警報装置を下げてもらって、助けを呼びたかったら、すぐにボタンを押してもらうようにしたのよ

マサチューセッツ出の彼女にも納得してもらおうと努めているのですが、なかなか首を縦に振らないんだとか。

ボストンで生まれ育ったお隣さん。おじいさんは、ボストンの有名な建築家で、ご自身も JFK(アメリカで最も尊敬される故ジョンFケネディー大統領)の事務所で働いていたそうですが、まったく、どうしてそこまで独立心が培われてしまったんでしょうねぇ。

そうなんです、サンフランシスコの大通りにも、おじいさんと思しき人物(同姓同名の別人?)を称えて、鉄鋼技術者に捧げる立派な碑(写真)が建っているんですが、そういった「誇り」みたいなものも何か関係があるのでしょうか?

追記: 見るに見かねたご近所さんが「ほかの薬はないのかしら?」と主張していたせいか、ようやく、お医者さんがべつの痛み止めを処方してくれたようです。

心変わりがあったのか、ついでに吐き気止めも処方してくれたとか。

それで平和な日々が訪れますように、大好きな「聖なる山(sacred mountain)」に落ちる夕日を、裏庭から眺められますようにと、ただただ祈るばかりなのです。

アメリカ人もオシャレになったものですね!

いえ、オシャレといっても、ファッションのお話ではありません。

食べ物のお話です。

食べ物って、舌で味わう前に、目で味わうって言うでしょう。

それが、だんだんとアメリカ人にもわかってきたようなんですよ。

近頃、サラダを瓶に詰めて、お弁当に持っていく「ジャーサラダ」が、日本でも話題になっているでしょう。

なんでも、アメリカ東海岸ニューヨークあたりでブームとなったそうですが、それが日本にも飛び火したのと同時に、西海岸カリフォルニアのあたりでも関心が高まっているようなんです。

瓶メーカー、メイソンのガラス瓶が人気なので、「メイソンジャーサラダ(the mason jar salad)」とも呼ばれ、いろんなレシピが紹介されていますよね。


もともとアメリカの食卓では、忙しい朝は、牛乳をかけたシリアル、昼は、近くのサンドイッチやハンバーガー。そして、夜もあんまり家では料理をせず、近くのファミレスとかフライドチキンのお持ち帰り(take home dinner)で済ませる。

そんな野菜の少ない、栄養バランスの悪い食事が先行していました。

ところが、お肉中心の食生活への反動から、菜食主義の人(vegetarian、vegan)が出てきたり、健康志向から野菜や果物を取り入れる人が増えてきたりと、食生活を見直す人が増えています。



そんな中、脚光を浴びているのが、「サラダをオシャレに食べましょう」というジャーサラダ。

ま、自分の好きな材料を詰めればいいので、「嫌いなもの」なんて入ってないし、瓶詰めだからオフィスに持って行っても匂わない。ドレッシングは底、葉っぱは一番上と分かれているので、サラダがびちょびちょした感じ(soggy)にもならない。

そして、材料が色鮮やかに層になっているので、見た目にも美しい。

そう、目で楽しめれば、サラダがもっと美味しくなるのです。







実際、サンフランシスコの金融街を歩いていたら、お勤め帰りの男性が、皮のかばんからサラダの空き瓶をぶら下げていましたよ!

(ちょっと見にくいですが、真ん中の茶色いジャケットの男性が下げているのが、空瓶です)

へぇ~、男の人なのに、毎朝ちゃんと自分でつくってるのかなぁ? と、ちょっとびっくり。

そして、シリコンバレーの地元紙サンノゼ・マーキュリー新聞では、こんなレシピが紹介されていました。

瓶詰めにするのは、サラダばかりではありません、ボルシチだって OK です、というレシピ。

ゴールデンビート(golden beet)と人参ジュースでこしらえた、新しいスタイルのボルシチです。

ビートは、「てんさい」とか「砂糖大根」とも呼ばれるそうですが、甘い、カブみたいな根菜です。ボルシチには、赤いビートを使うのが一般的ですが、ここではオシャレに黄色いゴールデンビートを使っています。

とろ~りとした色鮮やかな野菜スープになりますが、ビートと玉ねぎは細かく切るか、擦っておくので、フードプロセッサーは必要ありません。


ところで、先日知ったばかりなんですが、四国の徳島には、遊山箱(ゆさんばこ)という、かわいらしいお弁当箱があるそうですね。

江戸時代から春の行事に用いられた行楽用の小さな重箱のことですが、昭和30年代には姿を消していたところが、近年また人気が出てきているそうです。

昔は、桃の節句をはじめとして、何かしらお祝いがあるたびに、遊山箱を持って、お外でご飯を食べる習慣があって、それが、子供たちにとっては楽しみでしょうがなかったとか。

一番上には、巻きずしのご飯物。真ん中には、煮しめなどのおかず。一番下には、羊羹など甘味と、カラフルな引き出しに収められた三段重ねのオシャレなお弁当。

中身がなくなると、どこかの家のお母さんに詰め直してもらうこともあったそうですよ!

そんな風に、子供の頃に愛用していた遊山箱を修理してもらって、「昔の思い出がよみがえってきたました」と、涙を流される方もいらっしゃるんだとか。

それほど、みなさん遊山箱のお弁当を心待ちにしていたのは、おいしいものが食べられるだけではなく、目でも美味しいご飯だったからではないでしょうか。

そして、「運んで」「食べる」を同時に楽しめるなんて、考えるだけでウキウキとしてくるのが人情なんでしょうね。

というわけで、アメリカのジャーサラダと、徳島の遊山箱

かけ離れた場所の「発明品」ではありますが、やっぱり、食べ物を目で楽しむことにかけては、国境など無いのでしょうねぇ。

写真出典:
冒頭のメイソンジャーサラダは、お料理サイト『クックパッド』から、ハートキャンディーさんご紹介の「メイソンジャーサラダ子供が好きな具材で」

2番目のメイソンジャーサラダは、lunchbox.comから「Green Garden Mason Jar Salad」。ニュースサイトThe Huffington Post 昨年6月の紹介記事より

徳島の遊山箱は、「漆器蔵 いちかわ」さんの遊山箱カタログより

そして、サンノゼ・マーキュリー紙紹介の瓶詰めボルシチは、今年1月4日の生活欄より「Golden Beet and Carrot Borscht」。

こちらの「ゴールデンビートと人参のボルシチ」は実際につくってみたので、レシピを簡単にご紹介しましょう:

1. ゴールデンビートのすりおろし(4カップ)と玉ねぎのみじん切り(1/2カップ)を5分ほど炒めて、ワイン酢もしくはアップルサイダー酢(1/4カップ)を加えて1分ほど炒める。
2. 人参ジュース(自家製または既製、3カップ)と水(1カップ)を加えて蓋をしないで弱火で15分ほど煮る
3. ホースラディッシュ(西洋ワサビ、小さじ1)と塩(小さじ1)を加えて味を整え、火からおろして冷ます。冷えたらプレーンヨーグルト(1カップ強)とディルのみじん切り(お好み量)を入れる

ボルシチは冷蔵庫で冷やしておいても良いそうですが、食べる前に一度スープを温めて、(ヨーグルトが分離しないように)冷ましたところでヨーグルトとディルを加えるのがミソだとか。

ゴールデンビートは甘みがあるので、既製の人参ジュースを使うと甘すぎるかもしれません。自家製ジュースがあればベストかと思います。人参ジュースが持つ独特の匂いは、ディルがすっきりと消し去ってくれました。

また、「ボルシチ」なので、ヨーグルトをサワークリームで代用してみましたが、なかなか美味だと思います。

ゴールデンビートを使ったのは初めてでしたが、とろ~りとした栄養満点の野菜スープとしてオススメです!

曽祖父の教訓: 昔の人から学ぶこと

Vol. 189

曽祖父の教訓: 昔の人から学ぶこと

 


IMG_0645 cherry blossoms.jpg

アメリカに暮らしていると、ついつい忘れがちなのが、4月の重み。日本の4月は、進学に入社式と、スタートラインに立つ大事な季節。

そんな今月は、ピッカピカの新社会人の方々にエールを送ってみたいと思うのです。

本題の「曽祖父の教訓」をお話しする前に、まずは「小道具さん」にまつわる小話をどうぞ。

<たかが小道具ではありません>


CIMG5282small.jpg

突拍子もない話ですが、わたしには風変わりな特技があって、それは「白骨死体の鑑定」のトレーニングを受けていることなんです。

いえ、自ら進んで選んだわけではなくて、大学院の必須科目だったので泣く泣く「骨」に親しんだという事情ですが、とにもかくにも、ずいぶんと経った今でも、骨には少々不慣れな鑑識係の方よりも、短時間で的確な判断ができる自負はあるのです。

そもそも、白骨死体の鑑定(the evaluation of human skeletal remains)は何のためにやるのかと言えば、白骨化した遺体の人種、性別、おおよその年齢、体格(身長や肉づき)、病歴、死因などを明らかにすることで、ご遺体の身元を確定することにあります。

とくに、年月が経ち遺留品がほとんど残されていない場合には、骨に自ら語っていただくしか方法がありませんので、鑑定者の見識がモノを言うわけです。

それで、どうして藪から棒にこんな話をしているのかと言うと、骨にはちょっとうるさいわたしが、同時に2時間ドラマのサスペンスものが大好きで、そこに矛盾が生まれるからなんです。

ほら、2時間サスペンスって、よく白骨死体が発見されるでしょう。ご遺体が霊安室に移され、刑事さんが見に行くシーンなどもありますが、まあ、その「骨」が、あり得ない! というくらいに、ウソくさいのです。

まず、何と言っても、頭蓋骨が間違っているケースが多い。


Cranium-pen.png

この手のミスで一番多いのが、日本人のモンゴロイド(黄色人種)の骨がコーカソイド(白人種、右のイラスト)に化けているケース。
そう、日本人はもっと「平たい顔」のはずなのに、目鼻立ちがキリッとした西洋人になっているのです。

次に多いのが、女性の頭蓋骨に、男性の骨を当てはめるケース。まあ、日本人男性ならまだしも、中には、うるわしき「大和なでしこ」が、「むくつけき、毛むくじゃらの西洋人」になっている場合もあります。
かわいそうに、こういったケースでは、腕や足も全身が「筋骨りゅうりゅうの大男」になっているのです。

頭蓋骨というものは、鑑定の中で最も重要な要素であり、専門家なら手に取った瞬間に人種、性別は識別できます。ですから、ドラマの中で頭蓋骨が間違っていると、喉元をかきむしりたいくらいに気持ちが悪い!

さらには、こんな間違いも出てくるでしょうか。

たとえば、手足が、そのままの形で土中から出てくるシーン。


Hand posterior-pen.png

いえ、人間の手(片手)は27個、足(片足)は26個の骨からできあがっているものですので、土中で白骨化した場合は、それらがバラバラになっているはずであり、まるで生きているような手足の形にはなりにくいのです。

同じく、胸の肋骨や、背中の脊椎がきれいにつながって発見される「間違いシーン」も多いでしょうか。
手足と同じことで、肋骨も脊椎もたくさんの骨でできあがっているものですので、やっぱり本来は、骨ひとつひとつがバラバラになって発見されるべきでしょう。
 


Skeleton in Ginza.png

ま、そんなわけで、おかしな例を挙げればキリがないのですが、要するに、大好きな2時間サスペンスには、学校の理科室に置いてあるような「外人さんのがいこつ」の模型を使ってほしくないのです。

そう、ひとたびドラマの小道具さんに抜擢されたのなら、ちょっとは人体の構造を観察して、少なくとも「平たい顔の日本人」と「目鼻立ちクッキリの西洋人」、「筋骨りゅうりゅうの大男」と「華奢な大和なでしこ」の区別はつけて欲しいなぁと、願っているところです。

それは、何かと雑務に忙殺されることもあるでしょう。先輩から代々受け継がれた小道具などもあるでしょう。
けれども、もしも「小道具の道」を極めたいのなら、いろんなことに興味を持って、新しい「まなこ」で物を見ることから始めていただきたいなと望む次第です。

物を見ようとする探究心って、どんな分野で身を立てようとも、決して損なことではないと思いますので。

<曽祖父の教訓>
私事ではありますが、久しぶりに母とディナーをする機会がありました。

実家のある街には『ミシュランガイド』はありませんので、それなりに風評の高いフレンチレストランを選びました。
 


CIMG4898small.jpg

お店の名のとおり、コース料理は「非の打ち所のない」お味でしたが、シェフが自分のやり方を押し通す方で、何かにつけて客にも口出しをするのです。
たとえば、傷がつくから木皿の上でナイフを使うなとか、水を入れたグラスは自分が手元に運ぶまで口にするなとか、独裁者(dictator)という言葉を思い浮かべるくらい、口うるさいのです。

同席した知人は、「昔はもっとひどくて、あれでも今は我慢している」とおっしゃっていましたが、そんな調子なので、お店はたったひとりで切り盛りしています。

なるほど、グルメサイトの風評では「5」の人と「0」の人が混在していたので、きっと常連さんで持っているようなレストランなのでしょうが、わたし自身は、このオーナーシェフは何かしら勘違いをしていると思ったのでした。

なぜなら、プロの料理人というものは、あくまでも「客商売」であって、自慢の料理を食べさせるだけではなく、客をもてなすのが仕事であると信じておりますので。

それで、「商売」と言えば、母は商家の生まれだったことを思い出したのでした。

母の血筋は、ある意味、歴史に翻弄されたところがあって、もとは赤穂藩の藩士だったところが、18世紀初頭、親しい七家族で西に「落ち延びた」事情がありました。
 


CIMG4935se.jpg

それから何代かは内陸部で農業を営んでいましたが、曽祖父の代になって、心機一転、港町に出て商売を始めたのでした。
初めのうちは細々と身ひとつで「売り子」をしたり、東京からやって来た狩人のお供をしたりと、商機があると見れば、なんでも試みました。

そのうちに、近隣の島々から魚を仕入れ、加工し、それを近くの軍港や商人の街・博多に運んで売りさばくようになり、しまいには遠く中国に輸出するまでに水産卸売業を広げていったそうです。

先見の明もあったのか、築いた財で付近の山々をいくつも購入し、のちに学校の建設用地や鉱山の作業道として売りさばいたり、良質の砥ぎ石の採掘場として採掘権を売ったりと、そちらの方でもかなりの投資効果があったようです。

曽祖父は、祖母がまだ若い頃に他界したので、母も会ったことがないそうですが、叔母が祖母の聞き語りで教えてもらったところによると、商売を始めた頃には、それこそ辛酸をなめる日々の連続だったとか。


P1200039small.jpg

もちろん、最初から商売が思い描いたようにスムーズに行くわけもありません。
そして、サイドビジネスで東京から来た狩人を相手するのでも、海鳥を撃ち落とすのが面白いと客が言えば、自分は撃たれた鳥を追って海に飛び込み、波間に漂う「首級」を探し出し、泳いで運んでくる。
と、普通「そんなことは人がやらないだろう」ということまで、進んでやっていたのだとか。

たぶん、その頃の曽祖父にとって、見栄とか自意識とか誇りとかは縁遠いことで、それよりも、どうやったら相手に心地よく過ごしてもらえるか、どうやったら自分の商品を買っていただけるのかと、そんなことばかりに心を砕く毎日だったのではないでしょうか。

苦労を知っているせいか、当時の人としては意識的にも開放されたところがあって、祖母が婿養子をもらって生まれた子が立て続けに女の子だったことにも落胆することなく、「男の子でも、女の子でも、健康ならそれでいい」と言い放ったとか。
 


P1080704small.jpg

地元で営む万屋(よろずや)も繁盛するようになり、海から潮が上がる河口沿いの商店街も活気に満ちあふれ、祖母は、いかにも商家の出らしく「ここに腰掛けて、お茶でも飲んで行ってくださいな」と、誰にでも声をかける愛想のいい人でした。
それはきっと、父親ゆずりの気さくさや人懐っこさの表れだったのではないかと想像するのです。

祖母も逝って久しいので、曽祖父の逸話をじかに聞くことはできませんが、商売の工夫や腰の低さ、強靭な精神力を思えば、今の自分たちは、つまらない見栄や自意識にがんじがらめになっているのではないかと、ハッとするのでした。

小綺麗な部屋に住み、こざっぱりとした服を着て、右を見て左を見て人と同じ風に暮らす。昔の人には、そんなことは難しかったはずですが、それゆえにかえって個性が光ることも多かったのではないかと推察するのです。
 


CIMG4657cherry blossoms.jpg

あの世に出向いて人生行路を拝聴したい方は何人もいらっしゃいますが、まずは、親しく曽祖父にごあいさつしたいものなのです。

夏来 潤(なつき じゅん)

 

A blessing in disguise(変装した天の恵み?)

今日のお題は、ちょっと珍しい響きの言葉です。

でも、a blessing in disguise というのは、日常よく使われる表現です。

ま、長い名詞になるのですが、直訳すると「変装した天の恵み」。

最初の a blessing というのは、「神さまの恩恵」とか「天からの贈り物」といった意味。

次の in disguise は、「変装している」という意味です。

ちなみに、disguise(発音は ディスガイズ、「ガ」にアクセント)は、「変装」とか「~を変装させる、他のものに見せかける、隠す」という意味。

この in disguise に似た言葉で、incognito(インコグニート)「お忍びで」という表現もありますね。

それで、ふたつをつなげた a blessing in disguise となると、

「最初は悪く思えたけれど、あとになって考えてみると、とっても良いこと」という意味合いになるのです。

ですから、「最初はイヤだったけれど、あとから考えてみると、とってもラッキーなことだったなぁ」と、喜ばしい出来事を表現したものですね。


それで、この表現は、ごく最近、ある方がおっしゃったものでした。

先日フォトギャラリーでご紹介した、Manresa(マンリーサ)というシリコンバレーの「二つ星」レストラン。

このお店のある男性スタッフの方が、a blessing in disguise と表現なさったのです。

マンリーサは、昨年7月に「ほぼ全焼」という災難に遭ったのですが、お店が再開するまでの6ヶ月、スタッフの方々は「自宅待機」となりました。

中には、他の場所でアルバイトをなさった方もいらしたそうですが、この方は、6ヶ月をずっと家で過ごされたとか。

災禍の時は、まだ1歳半の女の子がいらっしゃって、2歳になるまでの半年間、この子と遊んで暮らしたそうです。

I spent quality time with my daughter, and bonded with her
 娘ととってもいい時間を過ごして、大の仲良しになりました

quality time は「上質の時間」、bond は「絆(きずな)を深める」という動詞)

夜しか営業しないレストランではありますが、娘が起きた頃には出勤していて、帰宅した頃には、彼女はすでに夢の中。

そのため、彼女が起きている間になかなか会えなかったし、ましてや、一緒に遊ぶなんて・・・。
 が、思いもよらずに「自宅待機」となり、ずっと一緒にいられた。

ですから、

It was a blessing in disguise
 それ(災禍で娘と過ごせたこと)が、この上なくラッキーなことだった

たとえ、その間、給料が入ってこなくても、娘の人生で大事な時期(crucial time of her life)を一緒に過ごせたのは、とっても良かったよ、そうおっしゃっていたのでした。

それにしても、半年の自宅待機の末、お店のスタッフ全員が戻って来られたそうですから、オーナーシェフのデイヴィッドさんは、みなさんに慕われているのでしょうね。


というわけで、a blessing in disguise

そのときには大変に感じられたけれども、あとから考えてみると、ラッキーなこと。

人生には、そんなことが結構たくさんあるような気がするのです。

シャワーは夜にいたしましょう!

アメリカって、とにかく朝が早いんですよね。

子供たちの学校も、大人たちの職場も、日本と比べて、とにかく始業が早い!

朝8時には、世の中すべてがエンジン全開で動き出している感じです。

となると、目覚めの熱いコーヒー(a hot cup of joe)と熱いシャワー(hot shower)は、必需品。これがないと、なかなかシャキッと目が覚めないのです。

ところが、テレビのローカルニュースでは、こんなアドバイスを伝えています。

シャワーは、寝る前に浴びましょう!


近頃、カリフォルニアはカラカラに乾いているので、例年よりも花粉アレルギーがひどい。

ですから、寝る前にシャワーを浴びて、ベッドに花粉を持ち込まないようにしましょう、というアドバイスなのです。

2月中旬、フォトギャラリーのコーナーでは、「サンフランシスコ・ベイエリアは、もう春本番!」というお話をいたしました。

2月といえば、いつもは雨季のはずなのに、ほとんど雨が降ってくれない。3月も、たった3日しか降っていない。

だから、カリフォルニア州全体が、上から下まで「干ばつ」状態。

しかも、今年で4年目となる干ばつです。

水源地だって、まだ夏にもなっていないのに、水位が低い。

州境の高い山脈も、積雪が極端に少ないので、雪解け水も望めそうにない。

そんなカランカランの状態になってくると、いつもは雨で抑えられている花粉も、早くから空気中に飛び始め、例年よりもたくさん花粉が飛ぶことになる。

花粉だけではなく、草、木々の芽吹きと、自然界にはアレルギーの元になりそうなものが、いろいろとあります。

しかも、いつもは雨が洗い流してくれる空気中のスモッグなどの微粒子も、なかなかスッキリと晴れてくれません。

ですから、アレルギーの諸症状も自然とひどくなってしまう、というわけなのです。


そんなわけで、干ばつのおかげで「節水」には努めなければならないし、グシュグシュとアレルギー症状もひどくなる。

と、抜けるような青空のカリフォルニアは、あんまりありがたくない状況ではあるのです。

それにしても、「朝シャワー」が必需品のアメリカで「夜シャワー」を勧めているなんて、ちょっとびっくりしてしまったアドバイスではありました。

アップルとメルセデス: グーグルもうらやむブランド

Vol. 188

アップルとメルセデス: グーグルもうらやむブランド

今月は、シリコンバレーを騒がせている話題二つをお届けいたしましょう。

<時計をめぐる攻防>
今月の新製品と言えば、他でもない、スマートウォッチ『Apple Watch(アップルウォッチ)』の再発表がありました。

昨年9月9日、クーパティーノのアップル本社近くで開かれた『iPhone 6/6 Plus』の製品発表会で、同時にお披露目された『アップルウォッチ』とモバイル決済サービス『Apple Pay(アップルペイ)』。

以来、何かと話題になっていましたが、今月9日、サンフランシスコのイベントホール(Yerba Buena Center for the Arts)で再び製品発表会が催され、いよいよアップルウォッチは4月24日に発売! と判明。

新製品もさることながら、わたしの興味は、世の中の反応に集中したのでした。

IMG_0545small.jpg

まずは、再発表会前日の日曜日。イベントホールの前を歩いていたら、ゆったりとしたハワード通りには、すでに報道トラックが鈴なり。好位置をゲットしたみなさんは、準備に余念がありません。
いくら注目の新製品とはいえ、通常、報道陣は、こんなに早くから押し寄せたりはしないでしょう!

CIMG4276small.jpg

そして、発表当日。ビジネス専門チャンネルCNBCは、朝からずっとアップルウォッチにフォーカスしていましたが、イベントホール前を通ってみると、いる、いる、CNBCのリポータが!
テクノロジーリポータのジョシュア・リプトンさんが、歩道のディレクターチェアに陣取り、何やらリハーサル中。「Apple WatchApple Watch」と連呼しながら、ラップトップの自分の原稿を読み上げ、発声練習をしています。
へ〜、プロの方でも、あんなに発声練習をするんだぁ、と素人のわたしは感心しきり。

Apple Watch CM 2.png

そして、その日の夜。人気アイドルコンテスト番組、NBC系列の『The Voice(ザ・ヴォイス)』では、さっそくアップルウォッチのコマーシャルがお目見え。
タカタカタカッと、ドラムスの軽快なリズムに乗って、アップルウォッチが画面いっぱいに登場。次から次へと、いろんなデザインや機能が映し出され、きれいなコマーシャルであることは確かです。
が、めまぐるしく画面が切り替わるので、「早過ぎてわかんない!」と消費者に思われても仕方ないかも。

Apple Watch call .png

それで、世の中で「アップルウォッチ」だの「アイウォッチ(iWatch)」だのと耳にするわりに、街中の消費者が詳細を知らないことに驚くこともあるんです。

たとえば、再発表会の直前、「あなたはアップルウォッチをどう思う?」と尋ねる人がいて、こちらはびっくり。彼女は、すでに販売されているものと勘違いして、感想を求めているのでした。
そこで、これまでは報道陣に写真を撮らせただけで、まだ誰も手にしていないことを説明したのです。

現に、アップルウォッチのアプリ開発者ですら、実機を貸してもらえずに困っている方も大勢いるとか。相手が小規模な開発者だと、「クーパティーノの本社に来るんだったら、実機でテストしてもいいよ」というスタンスなので、遠くにいる開発者は断然不利でしょう。

Apple Watch female user.png

それから、別の方と話していたら、こんなこともありました。「みなさん、わざわざアイフォーンとアップルウォッチ両方を持ち歩くかしらねぇ?」と私見を伝えると、「え、アップルウォッチだけじゃ使えないの?」と驚かれてしまって、かえってこちらがビックリしてしまったことが(『iPhone 5』以降の機種とのペアリングが必要)。

この方は、アップルウォッチに関する記事を読み、「(2007年6月)初代アイフォーンの発売以来、誰も予期しなかったスマートフォンの使い方がどんどん登場したことを考えれば、アップルウォッチだって、未知の可能性を秘めている」という指摘が素晴らしいと思われたとか。
確かに、スマートフォンで車を呼べる Uber(ウーバー)しかり、食料品を届けてもらえる Instacart(インスタカート)しかり、それは製品が世に出てみて、初めて思いついた構想でしょう。

が、そんな鋭い考察をなさる元ウォールストリート従事者の彼女だって、「アップルウォッチとアイフォーンのペアリング条件」を知らなかったとは。

Apple Watch Sport-His and Hers.png

デザイン性を重視するアップルウォッチは、従来のテクノロジー製品とは違って、女性に受けるのでは? と憶測されています。
女性好みのデザインにカスタマイズできるし、体にいい「ヘルス・フィットネス」アプリも充実しそうだし、「デジタルタッチ」機能でお絵かきを送れたり、心臓の鼓動を送れたりと、コミュニケーションにも細やかな工夫が凝らされているからです。

けれども、「男性用(his)」「女性用(hers)」とサイズが分かれていても、女性用だって十分にゴツそうだし、その上アイフォーンも持ち歩くことになる。
だとしたら、どうして時計で電話したり、メールしなきゃならないの? しかも、時計なのに毎日充電するんでしょ? と、疑問符も浮かびます。

が、その一方で、今回のイベントで発表された開発プラットフォーム「ResearchKit(リサーチキット)」のように、新しい分野のアプリがアップルウォッチ用にも現れ、専門分野の研究にも寄与するかもしれません。


Apple Watch heart beat.png

現時点では、アイフォーンを使った患者参加型研究アプリが、心臓病、パーキンソン病、乳がん、糖尿病、喘息に向けて登場しています。が、身につける腕時計だからこそ可能な計測やデータ蓄積があって、それが医学の進歩にも貢献するのかもしれません。
今だってアップルウォッチは、心拍数を測ってくれるそうですから、発汗や皮膚に流れる微小電流と、他にもいろいろと測ってくれそうでしょう?

と、さまざまな憶測が飛び交う中、同じくシリコンバレーの住人グーグルさんは、アップルウォッチで騒がれるアップルさんが、よっぽどうらやましかったようですね。



3月下旬、スイスのバーゼルで開かれた高級時計見本市では、LVMH(モエ・ヘネシー=ルイ・ヴィトン)傘下のタグ・ホイヤーと、半導体のインテルとの三社協業で、高級スマートウォッチを開発し、年末には発売! と発表。

すでにサムスン、LG、モトローラなどが、グーグルのウェアラブル製品向けOS「Android Wear(アンドロイドウェア)」搭載のスマートウォッチを販売しています。が、今回の発表は、アップルの向こうを張って「高級感」を出すのが狙い。

まあ、「第一世代機は買わないよ」という消費者が多いと目される中、アップルさんとグーグルさんの「スマートウォッチのせめぎ合い」が楽しみになってきました!



<カッコいい自動運転車!>
アップルウォッチの再発表会が開かれる直前、同じくサンフランシスコの街では、ちょっとした騒ぎがありました。

あの未来の車は、いったい何? と話題沸騰。

CIMG2971small.jpg

お騒がせの張本人「あの未来の車」とは、今年1月号でもご紹介したメルセデス・ベンツのコンセプトカー『F015』。

いわゆる「自動運転車」と呼ばれる、ドライバー無しでも動く、お利口さんの車です。英語では、まだ名称が定まっていなくて、autonomous carself-driving cardriverless car、はたまた robot car(ロボット車)とも呼ばれています。

なんでも、ダイムラー傘下のメルセデスが、サンフランシスコで『F015』のコマーシャル撮りをしていて、それが道行く人々の目にとまり、大騒ぎになったとか。

そりゃ、銀色に輝く未来風の車が道に停まっていたら、誰だって振り向くでしょう!

しかも、高級感あふれるメルセデスのロゴ付きですから!

『F015』のコンセプトは、ドライバーはもう必要ないので、運転席も助手席もクルッと後ろにまわして後部座席の人たちとくつろげますよ、という「移動リビングルーム」。
床もウッドフロアだし、卵型のシートは、1960年代のモダンデザインのリビングルームを思い起こします。


Mercedes F015 at Alameda Point 2.png

コマーシャル撮りのあと、3月中旬には報道陣を招いて、サンフランシスコの対岸アラメダポイントの海軍航空基地跡地で試乗会が開かれ、実際に報道陣を乗せてテスト走行をしています。

メルセデスは、近くのコンコード海軍兵器倉庫跡地を借りて走行試験を行っているので、アラメダポイントへは(ごちゃごちゃした街中を通らなくていい)地の利があるのです。(Photo from YouTube video by Autogefuhl)

というわけで、自動運転のテクノロジーは日進月歩。

先駆的存在のグーグルや『F015』のメルセデスに限らず、フォード、GM、フォルクスワーゲン(傘下のアウディを含む)、BMW、日産などが、スタンフォード大学や NASA(米航空宇宙局)エイムズ研究所とも協力しながら、シリコンバレー界隈で研究を進めています。


Google self-driving car with Schmidt.png

グーグルは、「5年以内には街中で自動運転車が走るだろう」と希望的観測を発表(今年1月)していますし、電気自動車メーカーのテスラモーターズCEOイーロン・マスク氏は、「遠い未来には、人が車を運転するのは違法になるだろう」とも豪語(今月中旬)しています。

(写真は、先月グーグルを訪れたフォックス運輸省長官に「ハンドル無し」の自社製自動運転車を説明するシュミット会長; Photo from the San Jose Mercury News, February 3, 2015)

そんなわけで、カリフォルニアでは、運転席が空席の自動運転車を公道でバンバン見かけるようなイメージがあります。
が、実際には、それはご法度。現行の試験運転に関するカリフォルニア州陸運局の規則では、車が動いているときには、たえずドライバーが運転席に座り、瞬時にハンドル操作を行える態勢が義務付けられています。

しかも、現段階では、ハイウェイと試験施設内での自動運転が許されるだけなので、一般道での運転は、ハイウェイへのアクセスと施設周辺の最小限度に抑えられています。
昨年5月号(第三話)でもご紹介した通り、カリフォルニア州では、自動運転車の一般利用に関して、年内に法整備が完了する予定でした。
が、大幅に遅れ、今年の年末がメドとされ、それが一般道での試験運転のネックともなっています。(ちなみに、ネヴァダ州では、データ収集目的の一般道の走行が許されているので、ラスヴェガス周辺では盛んに市街地テスト走行が行われています)

さらに、法整備の遅れに加え、現在の技術では、街中の道路で「ドライバー無しの車」が走るのは危険だとの懸念も示されています。まだまだ自動運転に不可欠なセンサー技術も整っていないし、実社会には、人間でなければ判断できない特殊な状況がたくさん存在すると。


Consumer Watchdog letter to DMV.png

3月中旬、消費者保護団体 Consumer Watchdog は、「法整備には万全を期してくれ」と州運輸局に嘆願書を出しています。
安全性、プライバシー、保険の観点から警鐘を鳴らしているのですが、とくに安全に関しては、「なるほど」とうならせるシナリオも示されています。

たとえば、日の出や日没時に太陽が信号機の真後ろにあると、信号の色を判断できないときがある。大雨や大雪の際は、車のセンサーがうまく働かない可能性がある。マンホールの蓋が空いていたり、路上に大きな穴(ポットホール)があったりする場合、危険を察知しない可能性がある。
そして、信号機故障で警察官が交通整理をしている場合、自動運転車には理解しにくいだろうし、第一、車の運転においては、運転手同士の身振りや表情での意思疎通が大事なケースが多い、と。

それに加えて、車に自ら判断をさせる上で、どうプログラムするか? と迷うケースも多いことでしょう。
目の前のトラックを避けたいんだが、ハンドルを切ると右には高校生の自転車、左には乳母車を押したお母さんがいる。そんな場合はどうする? と、人間でも迷うことを車に判断させなければなりません。(その結果、責任を取るのは車の持ち主なのか、自動車メーカーなのか? と、ややこしい法的解釈の問題も出てきます)

というわけで、実社会に適用しようとすると論点が山積み、が、その一方で、実地でテストしてみないと安全性が改善されない、というのが自動運転車の現状でしょうか。



3月22日の日曜日、自動車部品メーカー・デルファイの開発チームが、アウディの自動運転 SUV(スポーツ用多目的車)を使って、5,600キロの米国横断の旅に出ました。
サンフランシスコのゴールデンゲート橋からニューヨーク・マンハッタンの国際オートショー会場まで、ハイウェイを使って10日間で大陸横断を目指します。

この『SQ5』には、短距離レーダーが4つ、ビジョンカメラが3つ、ライダー(光レーダー)が6つと、お目々がいっぱい付いていて、実践で試すには十分に賢いはずだとか。

ま、もっともっと「視力」が良くなったり、お利口さんになったりと、改善の余地はありますが、シリコンバレーの大渋滞を見ていると、「お行儀の良い自動運転車だったら、こんな混雑にはならないのになぁ」と(人間に対して)嘆かわしい気分にもなったりします。

いつの日にか、「遊園地でしか運転できない時代」がやってくるのかもしれませんね。

夏来 潤(なつき じゅん)

災害からよみがえった二つ星 Manresa

このページのエッセイへ

今日ご紹介しているレストランは、ロスガトス市(Los Gatos)にある Manresa(マンリーサ)。



「シリコンバレーで最も有名なレストラン」と言っても過言ではありません。



と言いますのも、サンフランシスコ・ベイエリアには「ミシュラン二つ星」が6店ありますが、シリコンバレーでは、こちらの Manresa とパロアルト市の Baumé が「二つ星」の栄光に輝くだけですから。



しかも、ミシュランが初めて『サンフランシスコ・ベイエリア/ワインカントリー2007年版』を発行して以来、9年間「二つ星」をキープし続けているのは、ここだけです。



そして、Manresa は、我が家にとっても縁の深いお店です。



ひとつに、10年ほど前から「お祝いごと」で楽しむようになり、お店の変遷をつぶさに見てきたことがあります。



2002年にオープンした Manresa は、以前は、お料理もインテリアも「クラシック」な雰囲気でしたが、2、3年前に全面的にお店をリフォームしてからは、店内もメニューも「モダンで斬新」なイメージに生まれ変わりました。



そして、Manresa のオーナーシェフ、デイヴィッド・キンチ氏とは、連れ合いが東京のレストランで隣り合わせて以来、メールのやり取りをするようになったのでした。



麻布十番の かどわき という割烹のお店でしたが、こちらのカウンター席には世界各地からいろんな方がいらしていて、アメリカでは「セレブリティ・シェフ」の誉れ高いデイヴィッドさんも食べ歩きにいらっしゃったのでした。



そんな Manresa は、お祝いムードの漂う昨年7月独立記念日の直後、キッチンを中心に「ほぼ全焼」という災難に遭ったのです。



が、市や近隣の協力もあって急ピッチで復旧工事が進められ、半年後の昨年の大晦日には、めでたく再オープンを迎えました。



やはり、ロスガトス市にとっても、近隣コミュニティーにとっても、名物レストランが休業するのは痛手ですので、街全体が協力態勢で「復興」に臨んだようです。



お店のスタッフも、ひとりも欠けることなく戻って来られたそうですが、待ち遠しい「再開」の様子は新聞やローカルニュースでも報道され、7月の火災に心を砕いた地元っ子たちもホッと胸をなでおろしたのでした。



お店に戻ったスタッフの方以上に、きっとお客さんが喜んでいることでしょう。  そして、3月中旬の木曜日、我が家も再開を祝して足を運びました。



お店に向かうアプローチも店内も以前と同じ雰囲気で、災禍をまったく感じさせません。なんでも、レストランホールは被害が少なかったので、以前のリフォームの図面を使って、同じ風につくり直したそうです。



通されたのも、前と同じ角の席。そして、シェフのおまかせコースも、同じようにおごそかに始まります。



そう、テーブルにはメニューらしき紙が置かれていますが、これは、素材を列記したもので、「苦手なものがあったら、言ってくださいね」という趣旨のもの。メニューは「おまかせコース(Tasting menu)」一種類で、何が出てくるかは、そのあとのお楽しみ。



ワインペアリングは2コース用意されていて、ワイン好きの方ならば、「プレミアムペアリング」で世界中のワインを堪能されるのも楽しいでしょうか。



が、前回と同じに思えたのは、そこまで。コースが進むにつれて、連れ合いとふたりで「デイヴィッドは、腕をあげたよね」と顔を見合わせたのでした。



たとえば、わたしは牡蠣が苦手なのですが、「あこや貝(パールオイスター)」のお料理は、最も印象に残ったひとつです。



真珠貝の貝がらにカモミールとマンデロの果汁のクリームソースがたっぷりと入っていて、身の上には、真珠に見立てた黄色い実がかわいらしく飾られています(マンデロは、マンダリンオレンジとポメロの交配果実)。



見た目の美しさに加えて、くさみもない優しいお味に、思わずにっこり。一緒に「わかめ入り」の黒パンも運ばれ、ソースは全部パンですくっていただきました。



そして、お次の「カブのコンソメ」は、口に運んでみてびっくり。グラスに入ったスープは冷製かと思えば温かく、カブの下には、地元の冬の味覚ダンジェネスクラブが隠されています。



コンソメは野菜のお味がしっかり出ていて、蟹の身も、それに負けないくらいに「海の香り」をかもし出しています。「今晩で終わりなんです」というカブのコンソメは、「ラッキーだった!」と客を喜ばせる実力を感じます。



メインディッシュの一つ目、淡水魚ブリームには、カリカリに焼いた春キャベツと煮込んだキャベツを添え、アサリのスープでまとめてあります。こちらは、魚の風味がきわだつ一品です。



そして、「デイヴィッドは腕をあげたよね」と連れ合いと顔を見合わせた理由は、全体の構成にもありました。



一年前に訪れたときは、以前にも増して「和」の影響が見られたのですが、なんとなく、それがこなれていない感じ。が、今回は「自分の表現のひとつ」として使われていて、決して「感化」には終わっていません。



15歳の頃からキッチンに立っていたデイヴィッドさんは、もともとフランスやスペインのお料理を基本とするシェフですが、近年、日本にも足繁く通って「和」の影響を受けています。



以前ご紹介したサンフランシスコの三つ星 Saison(セゾン)もそうでしたが、フレンチと和の融合は、近年カリフォルニアのレストランでよく見かける傾向です。



が、デイヴィッドさんは技法をそのまま使うのではなく、和の「素材を活かす心」を体現されているようにも感じます。たとえば、魚はちゃんと魚の味がするし、野菜は野菜の味がする。それが、「和の心」じゃないかと思うのですが、彼なりの「和」になっているような気がするのです。



お料理をいただきながら、少し前に訪れた Quince(クインス)を思い出したのですが、デイヴィッドさんも Quinceのマイケルさんも、まさに「seasoned(熟練した)」という形容詞がぴったりのシェフとお見受けいたします。



今回、わたし自身はデイヴィッドさんにお会いするのは初めてでしたが、「お店で待ってるよ」とおっしゃった通り、歓待していただきました。



最初に挨拶に来られただけではなく、メインディッシュが始まる前に「楽しんでる?」と聞きに来られて、デザート三種が終わった頃合いに「10時だから、僕はもう失礼しますよ」と挨拶に来られたのでした。



その時に、「じゃあ、キッチンを見においでよ」と案内していただいたのですが、まあ、名高いシェフのわりには、まったく気取りのない、気さくな方だなぁと思ったのでした。そう、なんとなく、初めて会った気がしないような。



キッチンでは、「ここは行ってみた?」と東京のレストランの話もなさっていましたが、ひとつは三田の日本料理 晴山(せいざん)、もうひとつは赤坂の日本料理 松川 でした。



我が家はどちらも経験はありませんが、一流シェフお勧めの店とは、どんなお味なのか? と興味がわきます。



というわけで、お料理の話をするときには、まるで少年のように目を輝かせるデイヴィッドさん。



彼が心血を注ぎ、起きている時間のほとんどを過ごす Manresa は、素材にこだわるカリフォルニア・キュイジーヌの代表格です。



シリコンバレーに立ち寄られた際には、ロスガトスの静かな夜を楽しむのもオツなものではないでしょうか。



© 2005-2024 Jun Natsuki . All Rights Reserved.