意外な視点: 外交とビジネス、人の気質
- 2016年08月26日
- 政治・経済
Vol. 205
意外な視点: 外交とビジネス、人の気質
夏のオリンピックも高校野球も幕を閉じ、静かな日々となりました。
オリンピックの閉会式では、着物姿の新東京都知事が旗を受け取り、それが、ひどく新鮮に映りました。世界じゅうの方々も、「へぇ、東京都知事って女性なんだ〜」と感心されたことでしょう。
そんな今月は、近ごろ意外に感じたことを、いくつかご紹介いたしましょう。
<意外な視点:外交編>
世の中には、ときに意外な指摘をなさる方がいらっしゃって、「えっ?」と耳を疑うことがあるのです。
先月末、アメリカの民主党全国大会が開かれる直前、CBSが元防衛長官のロバート・ゲイツ氏にインタビューをしました。
この全国大会で大統領候補に指名されるヒラリー・クリントン前国務長官と、前の週、共和党候補に指名されたドナルド・トランプ氏のどちらかが大統領になるわけだが、新しい大統領が「第一日目」に考慮すべきことは何だろう? と。
すると、ゲイツ氏は間髪入れず、「ロシアのプーチン氏が何をしようとしているかを考えるべきだ」と答えたのです。
常識的に考えると、イスラム圏に広がる「テロの脅威」と答えると思うのですが、ゲイツ氏は、プーチン氏の狡猾(こうかつ)さを挙げ、ロシアが(内戦で揺れる)シリアを土台として中東で力を付け、そこから世界を手中に収めようと計画する、と主張します。
だから、新しい大統領はプーチンが「一目置く」人物でなければならないし、彼から好きなように操られてはならない(new president can’t be pushed around)、と。
このゲイツ氏、もとはロシアの歴史研究で博士号を取得した「ロシア通」で、CIA長官の時代から、ロシア(当時はソヴィエト連邦)の脅威を強調されてきた方だそうですが、そういった思想的な背景を鑑みても、今の時代に「ロシアの脅威を考慮すべき」との指摘は、意外に思えたのでした。
だって、1991年のソヴィエト連邦の崩壊で、西側諸国とソヴィエトの「冷戦(Cold War)」は終焉を迎えたよと、人々の関心はとっくに他に移っているでしょう。
現に、シリコンバレーでは、冷戦時代の建物を「遺構」として保存するかで、議論を戦わすことがありました。
サンノゼ市の南のアマンハム山(Mount Umunhum)頂上には、冷戦時代に空軍の駐屯地がつくられ、でっかいレーダーで四六時中「敵国」の侵入を監視していました。
そのレーダーの土台となったのが、写真のコンクリートの箱みたいな5階建ての建物。
「箱」は、シリコンバレーのどこからでも見えて存在感があるが、なんとも醜いから、どうしよう?
「冷戦は、遠い過去のお話」「先住民がつけてくれた『ハミングバードの住処』の名に恥じないように、自然に戻すべき」と主張する撤去派。一方、「冷戦だって、大事な現代史の一ページ」と主張する保存派。
両サイドが激突したのですが、結局は、建物を保全して、旧駐屯地へのハイキング道を整備することになったのでした。
その昔、ここには兵士の家族も住み、学校やプールでは子供たちの歓声が上がっていた。これが、語り継ぐべき地元の歴史でなくて、なんだろう? と。
けれども、もしかすると、冷戦を「歴史」と呼ぶには、あまりにも現実味を帯びているのかもしれませんね。
まあ、今となっては、「山頂」ではなく、「宇宙」から監視する時代ではありますが、そんな人工衛星に頼るアメリカの軍事戦略には問題あり、とも指摘されているではありませんか。
だって、衛星攻撃ミサイルで打ち落とされたり、サイバー攻撃で機能を失ったりしたら、どうするの? 「敵」の行動だってわからなくなるし、海の真ん中の戦艦に指令が届かず、迷子になるでしょ?
(写真は、米空軍の気象衛星。人工衛星は、諜報・偵察、早期警戒、位置確認・ナビゲーション、通信、指令・制御と、戦略の要でもあり、ゆえに弱点ともなり得るのです。Air Force photo of meteorological satellite from The Washington Post, January 27, 2016;Reference cited: “From Sanctuary to Battlefield: A Framework for a U. S. Defense and Deterrence Strategy for Space”, by Elbridge Colby, Center for a New American Security (CNAS), January 2016)
そして、ゲイツ元防衛長官が危惧していたように、ロシアは不気味な行動に出たのでした。
8月16日、ロシアの空軍爆撃機が、イランの空軍基地から飛び立ち、シリアの反政府勢力に空爆をしかけたのです。イランに近づき、シリアの現政権も味方につけておいて、中東での影響力を拡大しようじゃないか、と。
(写真は、シリアを空爆したと伝えられるロシアの爆撃機ツポレフTu-22M3:Photo by AFP / Getty, from The Washington Post, August 17, 2016;イランもシリア政権に味方していて、そういった意味ではロシアと「仲間」なので、空軍基地を使わせたとか。シリアが反政府勢力の手中に落ちて、サウジアラビアやカタール、アラブ首長国連合、トルコなどと仲良くなるのを、イランは嫌っている)
う〜ん、そうやって考えれば、ロシアに加えて、南シナ海で軍事的プレゼンスを強める中国もいるし・・・。
そんなロシアや中国の動きを牽制しようと、今は夏休み中の米連邦議会も、水面下では、来年の防衛法案の言い回しを変更して、防衛システムの強化を図ろう! と画策しているそうです。
アメリカで「冷戦は終わった」というロマンティシズムが広まり始めたのは、1960年代初頭のジョンFケネディ政権の頃のようですが、ロマンはたった半世紀しか続かない、ということでしょうか?
<意外な視点:ビジネス編>
なにやら、冒頭から「キナ臭い」お話になってしまいましたが、お次は、ビジネスの話題にいたしましょう。
先月号の第一話では、「ベンチャーキャピタルの父」とも称されるピッチ・ジョンソン氏をご紹介しておりました。
1960年代からベンチャーキャピタルを運営されていて、まさに「シリコンバレーの祖」ともいえる、起業の達人です。
それで、この方のインタビュー記事を読んでいて、意外に思ったことがありました。それは、「起業家(entrepreneur)」に関する指摘。
起業家が成功する上で、どんな資質が必要か? という質問に対して、「品行方正であること(high integrity and decent behavior)」を挙げられたのでした。
意識が高く、やることに品性がなければ、たとえ成功したとしても、その成功は長くは続かないだろう、と。
もちろん、それとともに「勝ちたいと願う熱意」「市場を分析する直感的な判断力」「テクノロジーに関する深い理解」と、どなたでも指摘されるようなことを挙げられていたのですが、「品性」とは、ちょっと異質な答えに感じたのでした。
さらに、ベンチャーキャピタルが新しい企業に投資する上では、アイディアやビジネスプランとともに「人」を見極めなければならないが、同じように、起業家がベンチャーキャピタルを選ぶ上では、「親身であるか?」を念頭に品定めしなさい、ともおっしゃいます。
起業家と同じくらい熱心で、いつでも助けてくれそうな人。困ったときにはアドバイスをしてくれて、展示会で人手が足りなかったらブースにも立ってくれそうな人。気分がいいときにも落ち込んでいるときにも話をしたいと思える人、そんな投資家を選びなさい、と。
つまるところ、ビジネスは、人と人のつながり。一緒に仕事をやりたいと思える相手でなければ盛り上がらないだろうし、自分が「イヤなヤツ」だったら、人は去ってしまって、成功も長くは続かないだろう、ということなのでしょう。
先日も、注目のスタートアップ会社が、突然に活動を停止して話題となりましたが、ここで指摘されたのが、「創設者シンドローム(founder syndrome)」。
自分のアイディアや製品にあまりにも自信があるために、ビジネスの論理やまわりのアドバイスを無視して、突っ走ろうとする。
「僕は、誰にも理解できない、まったく新しいパラダイムで動いているんだ」と、投資家や取締役会の勧めにも耳を貸さない。
その結果、会社が危なくなっても「買収案」はまとまらないし、あせって投資を募ろうとしても、誰も協力してくれない・・・。なぜなら、間違ったプライドを最後まで捨てようとせず、苦言にも耳を傾けようとしないから。
シリコンバレーと聞くと、気候と同じように「ドライ」なイメージがありますが、実は、人と人とのつながりを大事にする「ウェット」なところなんでしょう。
そして、「信用」で成り立つ商売の原則は、太古の昔から変わりはないのではないでしょうか。
インタビュー記事: Venture Capital Pioneer Illuminates the Silicon Valley Ecosystem, by Erika Brown Ekiel, Stanford Graduate School of Business, January 16, 2013
<CreepyとTemperament>
最後に、ちょっとした英語のレッスンをどうぞ。
英語で creepy というと、「気持ちが悪い」とか「ちょっと不気味」という意味。そう、「キモい」といった感じでしょうか。
それで、なにが creepy なのかというと、11月8日の米大統領選挙に向けて共和党候補となった、ビジネスマンのドナルド・トランプ氏。(Cartoon by Tom Toles, The Washington Post, August 2, 2016)
まあ、この方は、ビジネスマンの「品格」に欠ける面があり、「言われたら、とことん言い返す」性格がアダとなって、自ら墓穴を掘っている感もあります。
そのトランプ氏、あるインタビュー番組でこんな発言をしたんだとか。
「もしもイヴァンカが僕の娘でなかったら、僕は絶対に彼女とデートしていたね」と。
いえ、このインタビュー番組の詳細は存じませんが、先日、CBSの深夜コメディー番組で、ホスト役のスティーヴン・コベア氏が証拠ビデオを紹介していました(8月2日放映の『The Late Show with Stephen Colbert』)。
まあ、インタビューでは隣にイヴァンカさんがいらっしゃったので、「彼女は、僕がデートしたいと思うほど素敵な女性だよ」と褒めたかったのかもしれませんが、それにしても「たとえ」が不気味ですよね!
もうひとつ、temperament という言葉をご紹介しましょう。
一般的に「気質」と訳される言葉ですが、近ごろアメリカでは「大統領の気質」という表現が取り沙汰されています。
気質という言葉には、性格(character)気性(disposition)知性的な感情(emotional intelligence)心のタフさ、回復力(resilience)が含まれると、著名な大統領歴史家ドリス・カーンズ・グッドウィンさんは指摘します。
大統領に選ばれるためには、こういった長所を備えた人物でなければならない、と。
そう、彼女の目から見ると、トランプ氏なんて「ダメ」な部類に入るわけです。
一方、元CIA副長官のマイク・モレル氏は、「ダメなどころか、国防(national security)を脅かす人物である」と主張します。
この方は、33年にわたりCIAで諜報・情報解析に従事され、近年はCIA長官代理としてホワイトハウスにも足繁く出入りされていました。諜報コミュニティー出身者の中では、もっともわかりやすく庶民に語りかけてくれる方でもあります。
そのモレル氏いわく、「トランプ氏には、3つの大きな問題がある。ひとつは、誰よりもエゴが強く、ナルシストであること。ふたつ目は、すべての理屈や事実を無視して、直感に従って行動すること。三つ目は、自分への批判に対して異常なまでに反応し、激しやすい人物であること」
そんな性格だと、他国から好きなように利用されるし、第一、国を導く大統領としてやっていけない。
ただひとつ、これらの弱点を克服する方法は、優れたアドバイザーをまわりに置くこと。が、彼が聞くのは自分自身の意見であって、誰のアドバイスにも耳を傾けようとしない、と。(8月8日放映のインタビュー番組『チャーリー・ローズ』より)
長年、諜報活動に従事してきたということは、政治には無関係(apolitical)の中立な立場を貫いてきた、ということ。そのモレル氏が淡々と語る言葉には、重みを感じたのでした。
夏来 潤(なつき じゅん)
または I’m sorry
普通は、「ごめんなさい」という意味ですね。
けれども、I’m sorry には、まったく違った意味があるのです。
誰かが親しい方を亡くされたとき、「お悔やみ」を伝える言葉でもあるのです。
こういった表現が、お悔やみの慣用句となります。
I’m sorry for your loss
(親しい方を亡くされたと伺い)お悔やみ申し上げます
後ろの your loss が「あなたが親しい方を亡くされたこと」という意味。
それに対して「わたしは哀悼の念を抱いています(I’m sorry)」という言い方になります。
こちらをもっと強調したい場合には、
形容詞 sorry に so をつけて、このように言います
I’m so sorry for your loss
心よりお悔やみ申し上げます
同じように、so sorry の代わりに、truly sorry を使って
I’m truly sorry for your loss
と言うこともあります。
そして、誰かが予期せぬ事故などで亡くなったときには、
I’m truly sorry for your tragic loss
悲しいできごとに心からお悔やみ申し上げます
と、「悲しい(tragic)」という形容詞をつけて、強調することもあります。
それから、I’m sorry は、過去のできごとにも使います。
どなたかと会話していて、「わたしの父は3年前に亡くなったのよ」とおっしゃったときにも、
I’m sorry
それは、お気の毒なことでした
と、お悔やみを伝えます。
I’m sorry for your loss は、お悔やみの慣用句ではありますが、
だいたい、こんな言葉を続けることが多いでしょうか。
My thoughts are with you and your family
あなたとご家族のことを思っております
I’m always here for you
わたしはいつも(あなたが必要とするなら)ここにいますよ
もしも信仰のある方だったら、
I’m praying for you and your family
あなたとご家族のためにお祈りしております
と続けてもいいでしょう。
亡くなった方が、自分にとっても親しい方だったら、
I have learned so much from your mother and will always remember her
あなたのお母様にはたくさん学ばせていただきました。お母様のことはいつまでも忘れません
と、自分なりに表現してもいいのかもしれません。
どなたか遠くに住んでいらっしゃる方に、お悔やみを伝えたいときには、
I’m thinking of your family, and wish I could be with you all
皆様に思いを馳せております。一緒にいられればいいのにと願いながら
という風に、哀悼の意を表します。
condolence(コンドウランスと発音)とか sympathy という言葉が出てくるかもしれません。
けれども、こちらは「哀悼の意」といった総称で、普通は、相手に向かって使う言葉ではありませんね。
あくまでも「お悔やみ申し上げます」は、I’m sorry と覚えておいた方がいいでしょうか。
それにしても、こんな疑問が頭に浮かびますよね。
どうして「ごめんなさい」と「お悔やみ申し上げます」が同じなんだろう? と。
なんでも、sorry という言葉には、「申し訳ない」という感情と「悲しい」という感情が両方混じっているんだとか。
ですから、「ごめんなさい」と「あなたが親しい方を亡くされて、わたしは悲しく思っています」という表現が同じになるそうです。
「ごめんなさい」であろうと、「お悔やみ申し上げます」であろうと、
まずは、I’m sorry と自分の気持ちを表します。
簡単ですけれど、もっとも大事な表現といえるでしょうか。
先日、子供番組では、「ごめんなさい」を覚えてもらおうと、こんな歌が繰り返し流れていました。
Say I’m sorry. It’s the first step, then how can I help you?
ごめんなさいって言いましょう。それが第一ステップ。それから何か助けてあげられることはありますか?(って尋ねましょう)
「ごめんなさい」のあとは、How can I help you?
「お悔やみ申し上げます」のあとは、I’m always here for you
I’m sorry の慣用句のあとは、なにかしら自分の言葉で、気持ちをお伝えすればいいのではないでしょうか。
追記:「ごめんなさい」の意味の I’m sorry につきましては、
『I’m so sorry(ほんとにごめんなさい)』と題して、エピソードをご紹介したことがありました。
それから、お庭とリンゴの写真は、iPhoneやiPadで有名なアップルの前CEOスティーヴ・ジョブス氏のご自宅です。5年前、スティーヴさんが亡くなられたときには、お花やリンゴがたくさん手向けられました。
ギャップイヤー(一年の中休み)
- 2016年08月17日
- エッセイ
ひと足先に始まった、アメリカの夏休みも、もう終わり。
6月中ごろ、School’s out for summer(学校は夏休み)!
と、長い休みが始まって、
キャッキャと辺りを走り回っていた子供たち。
8月の中旬ともなると、そろそろ学校に戻る時期となります。
ご存じのように、アメリカでは、夏休みが終わると、新しい学年(new school year)を迎えます。
6月に学校を卒業した子にとっては、新しい学校(new school)に進学するタイミングでもあります。
いずれにしても、新しい先生や友達と出会って、新しい経験をする期待と不安で、ワクワク、ドキドキ。
大人たちにとっても、この時期、Back to school sale(新学期を迎えるセール)という言葉を耳にするようになって、あ~、いよいよ、ノートや勉強道具を買いそろえて学校に戻る頃なのね、と季節を感じます。
無事に子供を学校に送り出して、ホッとする時期でもありますし、
昔を思い出して、心がキュッと引き締まる季節でもあります。
School’s out(学校は休み)とか、
Back to school(学校に戻る)という言葉は、
アメリカの立派な「季語」とも言えるでしょうか。
(写真は、新学年を迎えて幼稚園に一番乗りのルシア・ルーちゃん、5歳;Photo by Laura A. Oda, The Mercury News, August 17, 2016)
そんなわけで、新しいことに遭遇する季節ではありますが、その「未知との遭遇」を、ちょっとだけ遅らせる人もいるようです。
そう、新しい学校に進むのを、自分の意思で遅らせるのです。
今年話題になった中では、オバマ大統領の長女、マリアさんの例がありました。(Photo by Pablo Martinez Monsivais / Associated press Archive)
彼女は、6月中旬、ホワイトハウスがある首都ワシントンD.C.で、名門私立高校を卒業しました。
翌月の独立記念日(4日)には、18歳の誕生日を迎えて、ホワイトハウスに友達を招いてバースデーパーティが開かれました。
アメリカでは、18歳は「オトナ」の仲間入りをする年齢なので、ご両親もさぞかし鼻が高かったことでしょう。
そして、大学進学は、マサチューセッツ州にある名門私立ハーヴァード大学に決まっています。
(写真は大学図書館;Photo of Widener Library, Harvard University by Caroline Culler, from Wikimedia Commons)
が、普通は、秋に入学するところを、来年の秋に延期したのです。
なんでも、こういうのを「ギャップイヤー(gap year)」と言うそうですよ。そう、「一年あける」といった感じですね。
ハーヴァード大学の方も、「入学する前に、一年くらい好きなことをして、リフレッシュして学校に来てください」と、以前からギャップイヤーを奨励しているとか。
マリアさんは、映画制作に興味があって、これまでケーブルテレビ局のHBOでインターンをしたり、スミソニアン動物園でインターンをしたりと、いろんな課外活動をしてきたそうです。
「経験」を大事にするアメリカには、高校生にだって、いろんなインターンの機会がありますからね。(写真は、今夏ホワイトハウスでインターンをした学生さんから手づくりの誕生日カードをもらうオバマ大統領; Official White House Photo by Pete Souza)
でも、マリアさんがギャップイヤーに何をするのかは、公表されていません。
同じ高校に通う妹のサーシャさんは、まだ15歳になったばかりなので、彼女が高校を卒業するまでは、オバマ一家は首都ワシントンに住むことが決まっています。
ですから、「家族と一緒に一年を海外で過ごす」なんてことはできませんが、もしかすると、自分ひとりで旅に出ることは考えているのかもしれませんね。
「ギャップイヤー」というのは、もともとヨーロッパやオーストラリアで盛んに行われてきたそうです。
実は、我が家のご近所さんも、そうなんです。
ここの娘さんは、15歳半で高校のカリキュラムをすべて終わってしまって、大学に入ってもおかしくない時期なんですが、18歳になるまで、2年半も大学進学を遅らせることにしたそうです。
もともと高校には行かないで、ホームスクール(自宅での学習)で学んできた女のコなんですが、名門私立大学に進みやすいようにって、テニスもするし、ピアノもするし、まさに文武両道の優等生です。
ホームスクールで家にこもってはいけないと、テニスの大会に参加したり、ピアノの演奏会に出たり、年上の子供たちの家庭教師(tutor)をしたりと、お母さんの的確なアドバイスもあって、のびのびと育っているようです。
けれども、お母さんにしてみると、まだまだ子供。「車の運転を教えたら、目の動きと手の動きがバラバラで、もう心配で見ていられないわ」と、不安材料もあるようです。(カリフォルニア州では、16歳になったらティーン向けの制限付き運転許可証を取得できるとか)
ほら、蜜蜂が世界じゅうでだんだんと姿を消していって、危機的状況だって言うでしょう。
だから、住宅地でも養蜂を許そうじゃないかとか、都市の中にも農業を広めようじゃないかとか、そんな動きがあるでしょう。
たぶん彼女は、蜜蜂の生態を通して、地球全体の環境問題という、でっかいことを考えているんだと思いますよ。
だから、大学に入るまでの2年半で、なにかしらスゴい研究成果を出してやろう、と思い描いているのかもしれません。
アメリカでは、もともとホームスクールが市民権を得るほど、個性や才能を大事にしますよね。
学校でも、個性がキラリと光って、みんなの中で目立ったとしても、「出る杭は打たれる」ところがない。
だって、人は、みんな違うものだから。
そんなわけで、自主的にギャップイヤーを取って、学業を遅らせたとしても、「わたしは、こんなことがしてみたい!」と目標がはっきりとしているのかもしれません。
もちろん、ギャップイヤーを取るには、向き、不向きがあって、誰にでも良いこととは思いません。
けれども、一年たって戻ってきたら、「また学校で勉強したい!」という意欲と集中力が、グンと増している自分に気づくのかもしれません。
マリアさんも、ご近所の娘さんも、これから大海原へと漕ぎ出します。
今後の成長が、楽しみなことではありますね。
サンフランシスコの丘の家
- 2016年08月06日
- Life in California, アメリカ編, 歴史・習慣
前回、こちらの「ライフ in カリフォルニア」のコーナーでは、『サンフランシスコの風の道』というお話をいたしました。
サンフランシスコの街には、西から東へ、太平洋からサンフランシスコ湾に向かって「風の道」とも呼べる風の通り道があって、それが「ベイブリッジ」という、湾を渡る人の道にもなっている、というお話でした。
このベイブリッジの橋のたもとは、小高い丘になっていて、ここに建つ建物は、湾を見下ろす、いい眺めになっています。
今はリンコンの丘には、高層ビルがニョキニョキと建っていて、西から東へと風や霧が通っていくと、高層ビルのてっぺんには、気流が渦を巻くのです。
そんな近代的な丘ですが、ここには、意外な歴史が隠されていたのでした。
1840年代はじめ、サンフランシスコに人(先住民ではない白人)が住み始めた頃は、現在のメインストリートであるマーケット通り(Market Street)の南は、湾のようにくぼんでいて、砂浜になっていました。
リンコンの辺りは岬(Rincon Point)になっていて、この砂浜からは、40メートルにそびえ立つリンコンの丘が、よく見渡せました。
こちらの地図(1853年製作)では、斜めに走るマーケット通りの右下に突き出した部分が、リンコン岬です(Map from Wikimedia Commons)。
1848年にシエラネヴァダ山脈で金が見つかって、「ゴールドラッシュ」の時代が到来すると、サンフランシスコにどっと人が押し寄せるようになり、ここを足場に金山に向かったり、金鉱でひと儲けした人が住み始めたりと、街もだんだんと賑やかになりました。
ニューヨークやマサチューセッツと国内からだけではなく、アイルランド、イングランド、スコットランド、ドイツと、世界じゅうから人が集まったのです。
最初は、金を夢見る「独身男性」だけだった街にも、地元から家族が呼ばれるようになり、1850年には2万5千人だった街の人口も、わずか3年後の1853年には、倍の5万人になっています。
すると、「独身男性」向けに飲み屋や売春宿が並ぶ歓楽街は、「ファミリー」には都合が悪い。
そこで、「あんなにうるさい(道徳的にもよろしくない)街中には住みたくない」と、ちょっと離れた、小高いリンコンの丘に、凝った家を建てる家族も出てきました。
写真は、ギリシャ神殿の柱をまねた「ギリシャ復興様式(Greek Revival)」のお屋敷。
ほかには、とんがり屋根の「ゴシック復興(Gothic Revival)」、イタリア風の塔が付いた「イタリア・バロック(Italianate)」、パリのオペラ座みたいな「第二帝政期建築(Second Empire)」と、お金のある人たちは、競って邸宅を建てたのでした。(Photo of Rincon Hill residence in 1875 from “NoeHill in San Francisco” website, courtesy of UC Berkeley, Bancroft Library)
ですから、このリンコンの丘は、サンフランシスコ初(!)の「高級住宅街」と言えるところだそうです。
今の地形で言うと、フォルサム通り(Folsom Street)やハリソン通り(Harrison Street)のベイブリッジに近い区域です。
こちらは、ハリソン通りからベイブリッジの乗り口を眺めたところですが、昔の「丘」の雰囲気が残っていますよね。
当時は、現在の2番通り(2nd Street)とフォルサム通りが交差する辺りが、丘の頂上となっていて、ここには、庭の広い邸宅がいくつも軒を連ねていたとか。
今となっては、2番通りとフォルサム通りの辺りには、大きなオフィスビルやビジネスホテルが建ち並び、昔の「高級住宅地」のなごりはありません。
けれども、ところどころにパラパラと古そうな建物が残っているのも確かです。
こちらのビルは、正面のレンガは入れ替えてありますが、側面は、古いレンガのままです。
1912年に建てられた3階建のビルで、今はアパートになっているとか。
向こう側の白い建物は、1913年に建てられた3階建で、サンフランシスコらしい出窓のある民家です。
今は借家として貸し出されていますが、なんでも、ちょうど3年前に、230万ドル(およそ2億3千万円)で売買されたとか!
と、リンコンの丘に話を戻しますと、1860年代には、押しも押されもせぬ「サンフランシスコ一の高級住宅地」になっていたようです。
だって、なんといっても、ここからの眺めはいい。東から南には、サンフランシスコ湾を一望できるし、北を向けば、日々変化する街並みが見下ろせる。
ほら、今は「コイトタワー」が建つテレグラフ・ヒル(Telegraph Hill)も、くっきりと見えるでしょう。
そして、気候的にも、サンフランシスコの中では一番「日の当たる場所」でもあり、霧がかかりにくいので、暖かい場所でもあります。(Photo of Rincon Hill overlooking Telegraph Hill in 1875 from “NoeHill in San Francisco” website, courtesy of UC Berkeley, Bancroft Library)
そう、高級住宅地には、もってこいのロケーション。
けれども、ここは、街の南にある船着場と繁華街を結ぶ、大事な経済ルートでもありました。そう、船着場から物資を運ぶ馬車の通り道なのです。
そこで、2番通りの急斜面が馬車には「邪魔」だと、えっちらおっちらと丘を削り始めたのでした。すると、便利になった2番通りには、馬車がたくさん通るようになって、うるさくってしょうがない!
そんなこんなで、だんだんと「高級住宅地」の雰囲気が失われていって、1900年ころになると、お金持ちの人たちは、ノブ・ヒル(Hob Hill)のような、べつの丘の上に住むようになったのでした。
代わりに、1880年代くらいからは、リンコンの丘のふもとに、港や街の開発に携わる人たちが住むようになって、鍛冶屋さん(blacksmith)、銅細工師(coppersmith)、ロープ職人(rope maker)と、職人さんたちが集まるようになりました。
こちらは、フォルサム通りの海際にある鍛冶屋さんです。建物は、ペンキを塗って新しく見えますが、1912年に建ったもの。
正面に書いてあるエドウィン・クロッカースさん(Edwin A. Klockars)は、フィンランドから来られた移民で、1928年にこちらの鍛冶屋さんにジョインされたとか。
「必要なものは、なんでもつくってあげるよ(Anything you need, we make)」をモットーとされていたそうで、今でも、リンコン地区最後の鍛冶屋さんとして営業されています。
外壁には、「E. M. O’Donnell Copper Works」と書いてあって、エドワード・オドネルさんのことと思われます。
この方は、たぶんアイルランドから来られたのだと思います。
が、1867年の「有権者登録」には掲載がなく、1896年の「ビジネス一覧(写真)」には登場するので、1880年代から90年代にかけて、ここで銅細工業を始められたと想像するのです。(Photo of Crocker-Langley San Francisco Directory from San Francisco Genealogy)
残念ながら、建物の詳細は、不明です。
この辺りは、1906年のサンフランシスコ大地震ですっかり焼けてしまったので、建物はすべて、1900年代に建て替えられたものと思われます(それでも、100年は経っていますけれどね)。
というわけで、リンコンの丘の歴史。
昔を掘り返してみると、今からは想像もつかないことが、いろいろとあるものです。
とくに、サンフランシスコのように、昔の建物が残される場所を歩いてみると、いろんなものが気になってしょうがありません。
もう少しお話を続けたいこともありますが、それは、また次回にいたしましょうか。
参考文献:
リンコンの丘の歴史については、おもに以下の記事を参照いたしました。
“A History of Ever-changing Rincon Hill”, January 1, 2013, published by SPUR (SPURは、ベイエリア都市開発の非営利団体で、「The Urbanist」という月刊誌では、都市開発に関するさまざまな記事を掲載されています)
“California Historical Landmark 84: Rincon Hill”, compiled by NoeHill in San Francisco(こちらの NoeHill ウェブサイトでは、カリフォルニアを含めたアメリカ西部の史跡を紹介しています。ちなみに、リンコンの丘は、カリフォルニア州史跡84番とか)
“From the 1820’s to the Gold Rush”, The Virtual Museum of the City of San Francisco(こちらのサイトは、サンフランシスコの仮想歴史博物館になっていて、歴史のお勉強には最適です)
サンフランシスコの風の道
- 2016年07月30日
- Life in California, アメリカ編, 歴史・習慣
サンフランシスコには、「風の道」があると思うんです。
それは、だいたい西から東に流れていて、
西の太平洋から、東のサンフランシスコ湾へと流れていきます。
とくにベイブリッジの下に立つと、あ~、ここだってわかるんです。
太平洋側(左)から吹いてきた風が、谷を渡って丘を乗り越え、ここに集まってきて、
ここから湾を渡って、向こう岸(右)へと流れていきます。
そして、この「風の道」は、自然と海を渡る道となりました。
ここから東へ、対岸のオークランドやバークレーへと海を渡る道です。
ここに立派なベイブリッジが開通したのは、戦前の1936年のこと。
翌春には、同時に着工したもうひとつの橋、ゴールデンゲート・ブリッジ(金門橋)が開通しています。
以前もご紹介したように、ベイブリッジは「2階建て」です。
1989年の地震で一部が壊れて、現在は、途中に浮かぶイェルバブエナ島(Yerba Buena Island)からオークランドの箇所は架け替えられて平面構造となりましたが、サンフランシスコ側は、昔のままの2階建てです。
どうして2階建てなのかって、この橋には、もともと列車が走っていたからです!
今では、橋の下段は、サンフランシスコから東へ向かう一方通行の道路となっていますが、ここには線路が敷かれていて、「キーシステム(Key System)」という鉄道が走っていました。そう、ちょうど東京湾にかかるレインボーブリッジに「ゆりかもめ」が走っているみたいに。
こちらの写真は、まさに試運転の様子。1938年、当時の州知事が乗り込んで、試運転をしたときのワンショットだそうです。「お祝い」の意味で、先頭には小さな旗が飾られています。
車両の上には立派なパンタグラフが付いているので、電車なんですね。天井(橋の上段)には、電線がはりめぐらされているようです。
それで、出発点はどこかと言うと、「トランスベイ・ターミナル」というターミナルビル(写真左の建物)。
「トランスベイ(Transbay)」というのは、文字通り「湾を渡る」という意味ですが、サンフランシスコ湾を渡って、対岸のオークランドやバークレーと行き来するために、このターミナルから鉄道やバスを走らせたのでした。
対岸から橋を渡ってターミナルに着いたら、目の前のストリートカー(路面電車)に乗り換えて、サンフランシスコの街中を便利に行き来できるようになっています。戦後の1947年の撮影ですが、なかなか活気がありますよね。
こちらは、対岸からベイブリッジを渡り終わったあと、ターミナルに向かって北上中の電車。
向こう側の丘の上に「コイトタワー(Coit Tower)」が見えているので、1番通りと2番通りの間を北西に向かって走っているようです。
1954年の撮影なので、金融街を中心とするダウンタウン(写真の右側)の様相が、今とは大きく異なりますし、今となっては、ここには電車は走っていません。
こちらは、1964年のトランスベイ・ターミナル。アールデコ調の建物で、20世紀前半のモダニズム様式なのでしょう。
この頃までは、建物のまわりに電車の電線がはりめぐらされているようですが、実は、1958年には、ベイブリッジから鉄道は撤去されて「橋は車だけ」の通行となりました。
その翌年には、ターミナルも「バスだけ」の利用となり、それ以降、ベイブリッジを渡るバスとともに、グレイハウンド(Greyhound)のような長距離バスが発着するようになりました。グレイハウンドというのは、大陸横断にも利用するような長距離バスラインですね。
ですから、わたし自身は、ここは「長距離バスのターミナル」というイメージを持っていました。ちょうど日本領事館が入るビルの近くにあるんですが、昔の「交通の要所」の活気は失われているし、灰色のコンクリートの外壁は、「カワイげのないターミナル」といったイメージでした。
もう数年になるでしょうか。古いターミナルがすっかり壊されて、そこに懸命に穴掘りを始めてから。
なんでも、地下2階、地上2階(と屋上庭園)の新しいターミナルができるそうで、地下を掘り起こすだけでも2年くらいはかかったんじゃないでしょうか。
そこから巨大な鉄骨を地下にはりめぐらせて、上に向かってコツコツと骨組みを積み上げて行って、ようやくビルの格好を呈してきました。
こちらは、昨年秋の様子ですが、ビルの骨格だけではなく、この新ターミナルに向かう高架道路が姿を現しています(写真の真ん中に走っている高架橋)。
なんでも、この空中道路は、バスがターミナルの2階に入ってくるルートだとか。
建物の外観もかなりでき上がってきて、「ターミナル」の感じが出てきましたよね。
とっても横に長い建物なので、なかなか全体をとらえることはできないんですが、建物の中央部が高架橋になっていて、今まで通りに車が建物の下を通れるようになっています。
すでに外壁の一部には、こんな風な「服」が着せられていて、陽光で真っ白に輝く「レース」の壁は、なかなか芸術的でした。
なんでも、こちらの模様は、イギリスの数理物理学の先生、ロジャー・ペンローズ博士に依頼してつくってもらったんだとか。言われてみれば、「丸」にも「星」にも「花」にも見えるような、なんとも複雑な模様ですね。
というわけで、サンフランシスコの「風の道」がベイブリッジという橋になり、
橋を渡る電車がやってきた昔のトランスベイ・ターミナルが、
屋上庭園もあって街の目玉ともなるような、新しいターミナルに変身しつつあります(下は完成予想図)。
なんでも、将来的には、新ターミナルにも「カルトレイン(Caltrain)」をはじめとして、列車が入ってくるようになるそうです。
カルトレインは、サンノゼ市やパロアルト市など、サンフランシスコ半島の諸都市とサンフランシスコを結ぶ列車です。
現在は、サンフランシスコ・ジャイアンツのホーム球場の辺りが終着駅になっていますが、そこからトンネルを掘って、新ターミナルにやってくるとか。
サンフランシスコという街には、人を運んだり、貨物を運んだり、いつも列車が走っていました。
ベイブリッジの足元にも、こんな線路が残されていて、ふと過去を垣間見る気分にもなります。
車が便利だからと「市民の足」ではなくなった鉄道ですが、今また、堂々と復活してきているようですね。
写真出典: 昔のターミナルと電車の写真、そして新ターミナルの想像図などは、トランスベイ・トランジットセンターのウェブサイトより(Archived photos and artist renditions from the “Image Gallery” section, Transbay Transit Center’s Website)。
最後の線路の写真は、ベイブリッジの足元にある「ピア24」の脇に残る昔の線路。貨物ライン「ベルト鉄道(Belt Railroad)」が、街にたくさんにある埠頭を結んで走っていました。
サンフランシスコらしい(?)お話
- 2016年07月25日
- Life in California, 交通事情, 日常生活
今日は、サンフランシスコらしい(?)小話をいたしましょう。
なにやら、深い穴を掘って道路工事をしているようですが、これは「仕方なく修理をしている」ところです。
なんと、道路の下に埋め込まれている「排水管」が壊れて、道路が陥没。だから、まずは排水管から直そうじゃないか! と、がんばっているところです。
こちらは、サンフランシスコのダウンタウンの真ん中で、メインストリートのマーケット通りから一本南の「ミッション通り(Mission Street)」。
ミッション通りも大きな道路ですので、工事は頭の痛いことではあるのですが、もっと困ったのは、この「陥没」に出くわした人。
この陥没が起きた瞬間、実は、ここには車が通っていて、穴にタイヤを取られて、立ち往生。
乗車シェアサービス Uber(ウーバー)の運転手さんが、お客さんを乗せてサンフランシスコ空港に向かう途中だったそうです。
仕方がないので、お客さんは、他の車に乗り換えて空港に向かったそうですが、運転手さんの車は、トラックに引っ張ってもらって助け出されたのでしょう。
いずれにしても、誰にもケガはなかったそうなので、惨事にならなくて良かったです。
でも、こんな出来事って、決して珍しくはないそうですよ。
なぜって、サンフランシスコの道路の下に埋まっている排水管(sewer line)は、100年くらい前に設置された、古~いものだから。
そう、困ったことに、いつどこで陥没が起きるかわからない!
なんでも、年に3、4回は、サンフランシスコの街のどこかで、こんなことが起きるとか。
そうなると、一週間くらいは道路が閉鎖されて、近隣住民は「回り道」をしないといけなくなるんです・・・。
もしかすると、「宝クジに当たる」よりも確率が高いのかもしれませんが、そんなものには当たりたくないですよね!
あ~、それから、排水管が古いということは、ネズミさんもたくさん地下に住んでいるんだとか。
現在、サンフランシスコの街では、新しく地下鉄(Central Subway)をつくろうというプロジェクトが進んでいるんです。
地中の奥深く掘り進んでいて、足の下の見えないところで、でっかいトンネルができつつあるわけです。
この工事の過程で、「カルトレイン(Caltrain)」という列車の終着駅から北に向かって4番通り(4th Street)を掘り進んで行ったら、穴からネズミがいっぱい出てきた! とニュースになったことがありました。
なんでも、そのネズミたちは、大挙して北へ、ノースビーチの方へ向かって行った! と。
ノースビーチ(North Beach)というのは、もともとはイタリア系移民が集まった地域で、今でも老舗のイタリアンレストランや、若い人が集まる新しいお店もひしめく活気のある場所。
観光客もたくさん訪れて「おしゃれ」なイメージがあるんですが、そこにネズミさんが向かったかも? という噂は、穏やかじゃないですよねぇ。
いつか、このお話をベッドにもぐり込んだ連れ合いにしてあげたら、こんな返事をしてくれました。
へぇ、ネズミさんも高級志向なのねぇ、と。
半分寝ぼけ眼(まなこ)で、王冠をかぶったネズミの王様の姿でも想像していたのでしょうか?
アメリカって?:「ベンチャーキャピタルの父」と陪審員
- 2016年07月23日
- 業界情報
Vol. 204
アメリカって?:「ベンチャーキャピタルの父」と陪審員
いよいよ夏休みが始まり、夏本番の日本。
一方、ひんやりとしたサンフランシスコでこれを書いているわたしは、セーターを着込んでいる。
と、そんな今月は、アメリカらしい世間話を二つご紹介いたしましょう。
<「ベンチャーキャピタルの父」とNBAプレーヤー>
いやはや、アメリカという国は面白いもので、いろんな人がいるものですよ。
昨年、ラスヴェガスで開かれたCES(コンスーマ・エレクトロニクスショー)からシリコンバレーに戻ってくるとき、生まれて初めて「プライベートジェット」に乗せてもらったんです。
シリコンバレーにピッチ・ジョンソンさん(Franklin “Pitch” Johnson)という有名な「おじさま」がいらっしゃって、その方のジェットです。
この方は、1962年にベンチャーキャピタル(Draper and Johnson Investment Company)を共同設立し、1965年には独立して Asset Management Company(通称 AMT)を創設。それ以来、ベンチャーキャピタル一筋に生きてこられたという御仁。
今でこそ誰もが知っている「ベンチャーキャピタル」の概念ですが、1958年、米連邦議会が中小企業投資法(Small Business Investment Act)という法律を定めたのがきっかけ。これで、起業したての小さな会社に「投資(invest)」しやすくなりました。
その直後にベンチャーキャピタルを設立して、タンデムコンピューターズ(コンパックの買収後、現在はHPの傘下)や、アムジェン、バイオジェンといったバイオテクノロジーの代表企業の誕生に関わったというのは、まさに業界の先駆者。
そんな昔から「起業」に携わってこられた彼は、「ベンチャーキャピタルの父」「シリコンバレーの祖」とも言われます。
もちろん、80代後半の今も、バリバリの現役でいらっしゃいます。
この方の会社(AMT)がプライベートジェットを使っていらっしゃって、わたしは荷物のようにちょこんと乗せてもらったわけですが、まあ、この「おじさま」は気さくなんだけれど、そのオーラはすごくて、わたしなどは「こんにちは」くらいしか言葉を交わすことができませんでしたよ。
一番前の席で新聞(ウォールストリート・ジャーナル)を読んでいらっしゃって、声をかけることすら、はばかられる雰囲気でした。
それで、後部座席には数人が座って勝手におしゃべりに興じていたんですが、わたしの向かい合わせの席には、優しそうな紳士がいらっしゃって、話を聞いてみると、空軍のパイロットだった方だそうな。
なんでも、F-16戦闘機を初めて操縦した空軍パイロットのおひとりで、もう操縦はしないのかと問えば、「そんな日々は卒業したよ」との答え。
たぶん、ゆったりと席に座っている方が楽なんでしょう。(Photo of F-16 Fighting Falcon by SMSgt Thomas Meneguin, Wikimedia Commons)
今は何をしているのか? と思えば、ベンチャーキャピタルを起こして、新しいビジネスチャンスに投資する日々のようでした。
空軍といえば、ピッチ・ジョンソンさんも空軍に在籍された方で、ごく最近まで、ご自分で小型ジェットの操縦桿を握っていらっしゃったとか。
そして、彼の下で働く方(このジェットに乗せてくれた方)も元空軍パイロットで、途中から、いそいそと副操縦席に座っていらっしゃいました(いえ、知り合いが操縦席にいることほど、怖いことはないですね)。
まあ、アメリカの場合、軍隊経験者が多いので、空軍や陸軍、海軍と同じ組織にいた人たちは、民間人になったあとも何かと「結びつき」が強いわけですね。
そういった意味では、プロのスポーツ界も同じかもしれません。
これまで、アメリカンフットボールのスター選手が、引退したあとにビジネスを共同設立するといった話を聞いたことがありますが、先日サンフランシスコでは、こんなイベントが開かれたそうです。
バスケットボールリーグ(NBA)の現役選手が、テクノロジー分野に親しみ、食い込みやすくするイベントです。
先月、惜しくも2年連続優勝を逃したゴールデンステート・ウォーリアーズのアンドレ・イグオダラ選手(写真)の発案でNBA選手会が開催したイベントで、現役選手とテクノロジー業界の専門家やベンチャーキャピタリストを結びつけよう、というテクノロジーサミット。(Photo by Keith Allison from Hanover, MD, USA, Wikimedia Commons)
プロスポーツ選手は、現役の間は羽振りがいいものの、引退後に投資に失敗したりして、破産する人も多い。ですから、現役のうちに投資や起業のノウハウを知ってもらおうというわけです。
「講師」には、アンドリーセン・ホロウィッツといった名高いベンチャーキャピタルや、Jawbone(ジョーボーン)など有名企業からも参加されたとか。(Reference cited: “Game on for athletes as investors” by Marisa Kendall, The Mercury News, July 17, 2016)
レギュラーシーズンも終盤の4月、ウォーリアーズの試合の前に、チームの最高執行責任者リック・ウェルツさん(写真右)のお話を聞く機会があったのですが、NBAという組織は、とにかく「データのかたまり」みたいなものだそうですよ。
NBAの各チームは、その勝率からチケット販売、収支に至るまで、すべて統計でずらりとランキングされていて、リストの下の方にいると、とにかくリーグのプレッシャーがスゴいとか。
それだけではなく、コート上の選手たちも、その一挙手一投足がアリーナの天井に備え付けられたカメラに収められていて、選手のフォーメーションや、各選手の動き・効率などが、シビアに三次元解析されているそうです。
もちろん、「ウェアラブル」なども身につけて体調管理を怠らないわけですが、そうなると、選手たちも自然とテクノロジーに興味を持ち始めて、スタートアップに投資したり、自分で起業したりするようになるみたいです。
先述のイグオダラ選手は、サンフランシスコの Twiceという古着オンラインマーケットに投資をしていて、昨年オークションサイトの大御所イーベイ(eBay)に買収されています(噂では「まあまあの買収額(投資リターン)だった」そうな)。
そして、ウォーリアーズのスーパースター、ステッフ・カリー選手は、昨年夏 Slyce というスタートアップをパロアルトに共同設立していて、方針転換の末、今はプロ選手のソーシャルサイトやネット上でのイメージアップをメインビジネスとしています。
彼の奥様アイーシャさんは、「料理好き」が高じて、お料理宅配サービス Gather を準備中。と、現役選手のビジネスへの挑戦は広がります。
なんでも、NBAのようなプロスポーツリーグは、年々「お金持ち」になっているようで、昨シーズンNBAはテレビ放映権としてTNTとESPN2局から10億ドル(約1000億円)を受け取り、それが今秋からは、25億ドル(2500億円)に跳ね上がるとか(7月21日、往年のNBAスター、チャールズ・バークリー氏がタホ湖のゴルフ場から出演したCNBCのインタビュー談話より。このゴルフコンペには、ゴルフ上手なカリー選手やイグオダラ選手も出場)。
ま、リーグに潤沢にお金がまわってくるとなると、それだけ選手たちにも「おすそ分け」があるということで、その分、お金の使い道には注意しなければなりません。
というわけで、軍隊経験者がベンチャーキャピタルをつくったり、プロスポーツ選手がテクノロジー分野で起業したり。万が一、失敗したとしても、また何か始めればいいのです。
と、そんな風に、誰にでもチャンスがあるのが、アメリカの面白いところでしょうか。
<法廷と一般人>
いやはや、アメリカという国は面白い反面、まあ面倒くさいものですよ。
何がと言うと、裁判所に召喚(summon)されたんです。いえ、悪いことをしたわけではなくて、陪審員の義務(jury duty)を果たせと「招待状」が来たんです。
ご招待は、「シリコンバレー」の中心地サンタクララ郡にある州裁判所から。
もともとは、6月中旬、まさに日本に出発する週に召喚されたのですが、一回は変更するチャンスが与えられ、独立記念日の次の週にリスケされました。(Photo of Santa Clara County Old Courthouse by Michael Halborstadt)
月曜に始まる「召喚の週」は、実は、その直前の金曜日の午後5時にスタートし、電話かウェブサイトで召喚の日時をチェックすることから始まります。
その金曜日に電話をかけると、月曜日の午後5時以降に、次は火曜日の正午から1時の間に、次は夕方5時以降に、とコールバックだけを要求され、なかなか「裁判所に来い(report to the courthouse)」とは言われません。
ときどき、べつのグループに「明日の朝、8時半に出廷しなさい」とか「今日の午後1時に出廷しなさい」とお呼びがかかり、木曜日になると、わたしのコールバックも11時と早まったので「いよいよ来るな!」と覚悟していたんですが、その日も「今のところ、あなたには来ていただかなくて結構です(Your are not needed at this time)」と言われただけ。
結局のところ、金曜日の正午には「お勤めご苦労様でした(Thank you for your service)」と録音メッセージに感謝されて「放免」となり、裁判所に足を踏み入れることはありませんでした。その間、電話した回数は9回・・・。
まあ、今まで、いろんな方から陪審員の召喚の話を聞いたことがありますが、裁判所に行かなかったというのは、聞いたことがありません。
もしかすると、夏休みのシーズンで、バケーション中の法廷関係者が多かったのかもしれませんし、陪審員も独立記念日の翌週にリスケした人が多く、候補者リストが長かったのかもしれません。
いずれにしても、ほっとした反面、ちょっと残念な気もするのでした。
通常、陪審員として裁判所に呼ばれると、「こんな犯罪だから、2、3ヶ月は務めてね」などと裁判官が説明したあと、「僕には、やんごとない事情があって陪審員なんてやってられないよ」と申し開きをするチャンスが与えられます。
「英語がよくわからない」というのも、なかなか説得力のある理由で、わたしの友人は放免になったあと、「あなた、20年以上もアメリカにいるんだったら、もうちょっと英語の勉強をしたらいかがかな?」と老齢の裁判官に諭されたとか。
だいたいの申し開きは却下されるので、「陪審員選定(jury selection)」のプロセスに入るのですが、そこで面談をして、ふるい落とされる人が多いです。
わたしが知る限り、エンジニアは、ここで落とされる方が多いようですが、それはたぶん「考えが一般人とは違う」という理由なのでしょう。
そう、陪審員は社会の平均的な人間であるべきで、なにかしら突出した部分があってはいけないのです。
というわけで、もしも正式に陪審員(sworn jury)に選ばれると、裁判が続く限り、仕事よりもこちらを優先しなければなりません。
「ややこしい殺人の審理なので、数ヶ月は続く」という刑事裁判(criminal suit)や、「巧妙な横領のケースで、軽く半年はかかる」という民事裁判(civil suit)もあって、なかなか厳しい「お勤め」なのです。
現在、審理を準備中の注目ケース(high profile case)では、陪審員の選定だけで2ヶ月、法廷で証拠を提示するだけで10週間、もしかすると1年かかるとも言われています。
「死刑」もあり得る誘拐殺人事件なので、陪審員の責任も重大です。
出廷日には日当が支払われるそうですが、たぶん、それでは足りないくらいの労力でしょう。
そんなわけで、個人的には、アメリカの陪審員制度は「西部開拓時代のお話」みたいな気がするんです。
人口が少なく、お互いを知り尽くした中では、仲間を裁く陪審員制度も成り立つのでしょうが、世の中も犯罪も複雑化し、取り締まる法律も難解になった時代に、一般人に「有罪か無罪か?」の判断をゆだねるなんて、時代錯誤もいいところでしょう。
それに、「実際に何が起きたか」とか「科学的にどう読み解くか」ではなく、「検察と弁護団どちらが説得力のある弁論をしたか」に焦点が絞られるのも本末転倒でしょう。
いえ、ただひとつ、陪審員を務める意義があるとすれば、それは、法廷で裁かれる人と接することで、彼なり彼女なりの「事情」を知ることかもしれません。
ほとんどの場合、犯罪の裏には何かしらの「事情」があるはずで、法廷の被告人と陪審員の間には、ほんの小さな隔たりしかないのではないでしょうか。
被告人の刑が確定し、刑務所に服役して、めでたく社会に復帰したとき、迎え入れる側も、ひとつひとつの「事情」を想像してみることで、より自然に受け入れるようになるのかもしれません。
「あの人は悪人に生まれた」というケースは、ごくまれなはずであり、裁判システムの正念場は、法廷で「裁く」ときではなく、社会全体が再び「迎え入れる」ときではないか、とも思うのです。
と、陪審員は「スカ」でしたが、いろいろと考えさせられる体験ではありました。
夏来 潤(なつき じゅん)
先日、『俳句の思い出』『ことば遊び』と題して、ふたつのエッセイをご紹介いたしました。
わたしが小学校のときにつくった、つたない俳句とともに、名だたる俳人の美しい句をご紹介しておりました。
俳句は、短歌や詩と比べて短く凝縮されますし、その上、季語や古典的な表現も熟知しなければならないので、とっても厳しい「芸術の分野」ではあるでしょうか。
けれども、その深みが、「もっと泉の深淵を覗いてみたい」と、俳人の創造力をかきたてるのかもしれません。
かく言うわたしは、もっぱら他の方の作品を楽しませていただくだけですが、「俳句に挑戦したい!」と思うのは、なにも日本人ばかりではありません。
実は、昔から英語でつくる俳句も盛んで、世界じゅうで創作に取り組んでいらっしゃいます。
俳句は、英語で haiku と言います。
やはり「ハイク」と発音しますが、haiku と言えば、英語を話す方はだいたいわかってくれます。
英語の話し手が origami(折り紙)や tofu(豆腐)をわかってくれるのと同じようなものでしょうか。
こちらは、もっとも有名な松尾 芭蕉(まつお ばしょう)の句ですね。
古池や 蛙(かわず)飛び込む 水の音
これが、英語になると、このようになります。
old pond…
a frog leaps in
water’s sound
古池や…
蛙飛び込む
水の音
と、すんなりと、英語になっている感じがしませんか?
英語の俳句は、三行に分けて書き、固有名詞以外は小文字で表記するのが一般的です。
英語を使うと、必ずしも「五七五」の音にはなりませんが、軽快なリズムで言葉が流れているのは確かですよね。
近頃は、「俳句好き」が高じて、英語の新聞などでも、俳句を公募しています。
英フィナンシャル・タイムズ紙は、「仕事場の俳句(work haiku)」の秀作を披露していました。
今年4月、過去18ヶ月にわたる公募から選ばれた18の秀作を発表していて、その中から、三作をご紹介いたしましょう。
(Haiku selected from “The FT’s favourite work haiku”, Financial Times, April 14, 2016)
まずは、「通勤(The commute)」と題された一句。
Monday morning
we share
each other’s rain
Lynn Rees
週明けの月曜の朝(Monday morning)、あいにくと冷たい雨が降っているけれど、職場に向かうわたしたちは、互いの雨を背負っている(we share each other’s rain)。つまり、働く者の連帯感も生まれている感じでしょうか。
「雨(rain)」という言葉には、「月曜の朝の憂鬱」とか「気の重さ」とか、なにかしら翳(かげ)りを感じますが、それを「背負い合っている(we share each other’s rain)」と表したことで、ほっとする作品になっています。
slow descent –
this sudden urge to share
life stories
Lew Watts
最初の「ゆっくりとした降下(slow descent)」は、出張先に舞い降りる様子でしょうか。
仕事でホームグラウンドを離れて、ひとりになると、無性に誰かと人生経験を語り合いたくなってくる(this sudden urge to share life stories)。そんな心細さと、未知のひととの出会いへの期待感が伝わってくるようです。
三つ目は、「オフィスの夜明け(Dawn in the office)」と題された一句。
dawn breaks
the cheap hue
of desk light
Ernesto Santiago
いつの間にか、気がつくとオフィスで夜明けを迎えていた(dawn breaks)。その神々しい朝の光を背にすると、机上の照明が、なんと安っぽい色合いに見えることか(the cheap hue of desk light)。
以上、独断で三作を選ばせていただきましたが、どれも情景が目に浮かんでくるような、ヴィヴィッドな(生き生きとした)俳句になっています。
名詞あり、短い文章あり、長めの文章ありと、自由な形式になっていることにもお気づきになったことでしょう。
なんでも、俳句は英語圏だけではなく、フランス語やスペイン語圏でも楽しまれているそうですよ。
けれども、やはり世界の共通語として認識されている英語で創作される方が多いようですね。
たとえば、NHKの英語放送 NHK World(NHKワールド)では、世界じゅうの視聴者から、英語でつくった俳句を定期的に募集しています。
『Haiku Masters(俳句の達人)』という番組があって、この番組あてには、それこそ地球の津々浦々から応募があるのです。
そう、英語がネイティヴでなくとも、英語の俳句づくりに果敢に挑戦され、日々楽しんでいらっしゃるんですね。
たとえば、5月に「今月の俳人(Haiku Master of the Month)」に選ばれたのは、こちらの句を詠まれたルーマニアの女性。
knitting anew the sweater
for her son
Lavana Kray / Romania
「戦の知らせ(war news)」とは具体的にはわかりませんが、不吉な知らせを受け、彼女の息子のために(for her son)、新しくセーターを編んでいる(knitting anew the sweater)、という奥深い一句。
もしかすると、「彼女の息子」は前線で戦う兵士ではなく、戦地から逃げまどう難民なのかもしれません。
この句に添えられた写真は、ご自身で投稿されたもの。有刺鉄線(barbed wire)にかかる蜘蛛の巣が、トゲにひっかけたセーターの糸くずのようにも見えますし、その一方で、鮮やかな真っ赤なてんとう虫は、作者の平和への熱望にも感じます。
というわけで、英語の俳句の数々。
なんとなく、ただ、とつとつと単語をつなげたような感じもするのです。
そう、日本語のように季語にうるさくありませんし、「五七五」のルールもありません。
多少「字あまり」に感じたとしても、言葉の流れが良ければ、それでいいのです。
まあ、日本語でも、英語でも、感じたままに言葉をつなげてみる、それが俳句なのではないでしょうか?
それを自分なりに表現してみると、案外、いいものができたりするのかもしれませんよね。
ことば遊び
- 2016年07月12日
- エッセイ
アメリカの独立記念日に、日本からカリフォルニアに戻ってきました。
東京あたりでは、今年は「カラ梅雨」で、そろそろ朝顔の花が似つかわしい季節なのでしょう。
その一方で、両親が住む街では、ほとんど毎日雨に降られて、
足の先からカビが生えるんじゃないか? と想像するほど、湿気に悩まされました。
やはり、夏は一滴も雨が降らないカリフォルニアと比べると、梅雨どきの湿気はこたえますね。
けれども、梅雨は嫌いではありません。
ひとつに、大好きな紫陽花(あじさい)が咲くころですから。
銀座の鳩居堂(きゅうきょどう)では、季節にふさわしい、木の皮でこしらえたハガキを見つけました。
青い紫陽花が描かれていて、
母に頼んで、書(しょ)を添えてもらいました。
何を書いてもらおうかと迷ったんですが、前回のエッセイでもご紹介した、わたしが小学校の頃につくった俳句にしてみました。
通学路 大きな傘が 歩いてく
梅雨どきの通学路は、まるで傘が歩いているようにも見えると、そんな日常のひとコマです。
まあ、たいした句ではありませんが、筆で書いてもらうと立派に見えるから不思議です。
普段、書をたしなむ方は、変体仮名(へんたいがな)を用いるのですが、「あなたには読めないだろうから、通常のカナを使うことにしましょう」と、母はさっさと書の構成に入ります。
「歩いてく」というところは、さらにわかりやすく「あるいてく」にしてくれました。
変体仮名というのは、同じ発音の漢字をくずして、ひらがなの代わりに使うことで、たとえば「あ」には「阿」をくずしたり、「い」には「以」をくずしたりと、いろんな風に文字を当てはめて変化をつけること。くずされた漢字が読めないと、書を楽しむことができないという難点もあります。
そう、変体仮名を駆使するのは、とっても高度で風流な「お遊び」みたいなものでしょうか。
何が「おさまりが良い」のかと、それぞれの感性が生きてくるのです。
こちらは、もう一句、母が書道のお題目の中から選んでくれたもので、
やはり、梅雨どきの様子を詠んだもの。
紫陽花や 白よりいでし あさみどり
紫陽花の花びらが、白から浅緑(あさみどり、薄い緑)へ、そののち濃い青やピンクへと変わっていく様子が、美しく描かれています。
こちらは、俳人・渡辺 水巴(わたなべ すい)が、晩年の昭和20年(1945年)に詠んだものだそうです。
紫陽花は、別名「四葩(よひら)」とか「七変化(しちへんげ)」と呼ばれるとか。
かわいらしい四つの花びらが、日ごとに色を変化させるのが、梅雨どきの楽しみでもあります。
こちらは、やはり母が選んで書いてくれた、与謝 蕪村(よさ ぶそん)の句。
この句では、変体仮名が使われていて、「みづうみへ」の「へ」には「遍」を、「富士を」の「を」には「越」が使われています。
「湖」や「富士」には、ひらがなを使い、「へ」と「を」は漢字をくずして変化をつけているのです。
「五月雨」は、普通は「さみだれ」と読みますが、この場合は「さつきあめ」と読みますね。「五月の雨」ではありますが、新暦の梅雨(6月)の季語だそうです。
なんでも、霊峰・富士には、琵琶湖から湧き出したという神話があるそうで、降り続く大雨で、その霊峰をも引き戻しそうなくらいに水かさが増えた湖を描いた句だそうです。
奥が深い一句ではありますが、わたし自身は、「しとしとと降る雨つぶが、まるで本物の富士山を湖面に(バーチュアルに)再生しているようだ」と、ヘンテコリンな解釈をしていたのでした。
けれども、やはり「富士をもどすや」というのは、「湖に霊峰を引き戻す」と解釈すべきなんでしょうねぇ・・・(なんとも難しいものです)。
というわけで、時節がら、もう梅雨の季語ではなく、真夏の季語を使わなくてはならない時期にきているのでしょう。
けれども、もう少し紫陽花の「七変化」を楽しんでいたい気もするのです。
追記: 与謝 蕪村の句の解釈については、以下のブログを参照いたしました。
Yahoo!ブログ 『雁の棹』(t38*4*04氏執筆)より、
2011年6月11日掲載「五月雨、皐月雨:蕪村の絵画的俳句」
なんでも、夏を表す季語には「短夜(みじかよ)」というのもあるそうです。夏は、日が長くて、すぐに夜が明ける、という意味。
こちらは、上記ブログで紹介されていた蕪村の句です。
短夜や 浅井(あさい)に柿の花を汲む
ある夏の早朝、浅井戸の水を釣瓶で汲んでみると、偶然にも柿の花が浮かんでいた、という美しい一句。
「短夜」も「柿の花」も夏の季語ですが、「紫陽花」と同じように、6月の季語だとか。
どこまでも、梅雨どきの季語に心ひかれるのでした・・・。
俳句の思い出
- 2016年06月17日
- エッセイ
梅雨の日本にやってきました。
成田に到着すると、前日からの雨も上がって、
翌朝になると、気持ちのいい朝焼け。
浜離宮恩賜庭園(はまりきゅう・おんしていえん)にある「中島の御茶屋」の窓にも、水面に映る朝日が、キラキラと反射しています。
この朝は、東京の日の出は4時半くらい。
夜は6時でも、まだまだ明るく、日没は7時近く。
梅雨どきの曇天ではわかりにくいけれど、夏至に向かって、確実に日が長くなっているんですね。
普段アメリカでは出会わないような、記憶のひだが、細やかに再現されるのでしょうか。
たぶん人の記憶は、匂いとか、似たような光景とか、いろんなものが刺激となって戻ってくるものなんでしょう。
この季節の「肌ざわり」みたいなものが、子供の頃つくった俳句を、頭のすみから引っ張り出してくれました。
通学路 大きな傘が 歩いてく
これは小学校の宿題でつくった俳句で、梅雨どきの登校の様子を詠んだもの。
先生が「これはいい!」とみんなの前で発表してくれたんですが、
わたしはそのとき、「これでいいのかな?」と戸惑ったのでした。
これがいい作品かな? という疑問もあったんですが、それ以上に、これってほんとに自分の頭から出てきた一句? と、自分自身でわからなくなったのです。
なぜなら、俳句が宿題と聞いて、瞬間的に浮かんだものだったから。
どうしてそんなにすんなりとできたのか、もしかしたら先生が「例題」としてみんなに教えていたんじゃないかと、先生がみんなの前で発表するのが怖くなったのでした。
「ねぇ、あの子って先生の真似してほめられてるよ」と、クラスメートに陰口をたたかれるんじゃないかって・・・。
幸い、そんなことはなかったので、「やっぱり自分の頭に浮かんだ句なんだろう」と思い直すことにました。が、そのときの戸惑いは、今でも鮮明に覚えています。
それでも、少しは嬉しくなって「学校でほめられた」と母に話したのでしょう。
「この子ってね、この前いい俳句をつくって先生にほめられたのよ~」と、母が叔母たちに自慢したのもよく覚えています。
いえ、あのときは、ほんとに頭に「降りてきた」といった感じでした。
大人になった今でも、何かをつくろうとすると、かなり苦労するものですが、このときばかりは、すんなりと言葉がつながって句が生まれた、という感じ。
それ以来、いくら俳句を詠もうと思っても、なかなか頭に浮かばないんですけれどね。
それから、この句を思い出したきっかけは、季節の「肌ざわり」とともに、お店で見つけた「手描きハガキ」にもありました。
銀座の鳩居堂(きゅうきょどう)で見つけた、かわいらしいハガキ。
「Ka.」とサインがあるだけで、どなたの作品かはわかりませんが、わたしが小学校のときに句に添えてみたイラストとそっくりだったのです。
子供って、大きな傘をさすと、足しか見えない。
そんなシーンが俳句を生み、この方のイラストを生んだのでした。
わたしのイラストには、大好きな紫陽花(あじさい)も添えてみました。
普段は、かさこそとした、はかないイメージの花ですが、雨の日には、とたんに元気を取り戻す。
そんな凛と輝く梅雨どきの花が、通学路を明るくしてくれるのです。
ベイエリアの今: 新しいオフィス「コ・ワーキング」
- 2016年06月10日
- 社会・環境
Vol. 203
ベイエリアの今: 新しいオフィス「コ・ワーキング」
今月は、サンフランシスコ・ベイエリアらしいお話をどうぞ。
ひとつ目は、新しいオフィスの形態。お次は、ベイエリアの住民が抱える「不平不満」のお話です。
<オークランドへどうぞ!>
先月5月号では、日本貿易振興機構 JETRO(ジェトロ)のイベントをご紹介しておりました。
『日本で新しいビジネスチャンスをつかめ!』という、地元の起業家向けのセミナー。
このイベントが開かれたのは、サンフランシスコ市の対岸にあるオークランドという街。そして、JETROとともにイベントを共催したのは、2.Oakland(トゥーポイント・オークランド)という地元のビジネス団体。
オークランド(Oakland)といえば、日本では、野球のオークランド・アスレチックスやバスケットボールのゴールデンステート・ウォリアーズで知られるところでしょうか(写真は、昨年と今年のMVPウォリアーズのステッフ・カリー選手。チームも2年連続優勝に向けて、まい進中)。
サンフランシスコからは、有名な映画『卒業(The Graduate)』に何度も出てくるベイブリッジ(the Bay Bridge)を渡った先にありますが、BART(ベイエリア高速鉄道、通称バート)という地下鉄を使うとすぐの場所です。
わたし自身も、サンフランシスコの金融街からBARTに乗りましたが、ン十年ぶりに地下鉄で海(サンフランシスコ湾)をくぐったので、なにかしらイギリスみたいな「外国」を鉄道で走っているような錯覚におちいりました。
まあ、サンフランシスコやサンノゼ界隈の人間にとって、オークランドはほとんど「未知の世界」ではありますが、それはひとつに、ローカルニュースで街の名が出てくるときには、凶悪犯罪のケースが多いことがあるでしょうか。
ところが、19番街の駅で降りてメリット湖(Lake Merritt)へ向かって歩いて行くと、ちょっと人通りが少なく、さびしい印象はあるものの、「危険区域」というイメージは吹っ飛んでしまいます。
道路や区画のあちらこちらで改修工事がなされていて、これから盛り上がってくるような(up-and-coming)清潔なイメージです。
そして、メリット湖の湖畔に建つ会場が、また「新しいコンセプト」のビルなのでした。
こちらは、The Port Workspaces(ポート・ワークスペース)というグループ傘下の建物ですが、何が新しいかって、会員制(subscription-based)のレンタルオフィスになっているところ。
つまり、月額料金を払うと、グループ傘下のオフィススペースを自由に利用できて、メンバーのために開かれる朝食やランチ、ハッピーアワー(夕方のドリンク)などの親睦イベントやセミナーにも参加できるようになっています。
「ひとり〜ドル」といった料金体系になっているので、たとえば「今月うちはメンバー3人だったけれど、来月からは5人に増えるよ」といった状況でも、電話一本で気軽に対応してくれます。
ですから、「あ〜来月からデスクが足りないけど、どうしよう? そろそろ広いところに引っ越すかなぁ?」などと、いらぬ心配をしなくても済むのです。
僕はデスクなんか必要ない! という放浪型の方は、一番安価な「coworking(ともに働くコ・ワーキング)」のメンバーシップに入れば、ワークスペースやラウンジ、会議室を自由に使えます(写真は、貨物船のコンテナを再利用した会議室。コンテナのリフォームは、今アメリカで流行っています)。
この「コ・ワーキング」が生まれた背景には、こんな狙いがありました。
ただでさえ忙しいスタートアップ(起業したての小さな会社)のために、オフィススペースという悩みの種をつぶしてあげましょう。
そして、ひとりでポツンと働くよりは、誰かしら同じ業種の悩みを抱える人と話しながら働く方がベターなので、そんな理想的な環境を提供しましょう、というもの。
なんでも、こちらのビルは、1960年代に建てられたショッピングモールだったところで、何年も使われていなかったのを Port Workspacesグループが一年半かけて改修し、2月中旬にシェアスペースとしてオープン。
このガラスに覆われた一角は、以前は「宝石店」でした。そして、各階をつなぐエスカレーターは、オフィスビルにしてはかなり長く、言われてみれば、ショッピングモールを彷彿とさせます。
Port Workspacesグループは、こちらのビルの他に、海沿いのオシャレな地区(Jack London Square)にシェアスペースを二箇所展開しています。
どちらも20世紀初頭に建てられたレンガ造りのビルを再利用。昔のビルは、骨組みも丈夫だし、レンガの質も良く、内部をリフォームするだけで立派なオフィススペースになるとか。
こちらのビル改造計画は、地元ビジネス団体 2.Oakland(トゥーポイント・オークランド)の開発プロジェクトの一環。6月1日には、オークランドのリビー・シャーフ市長を招いて、華々しく開所式も行われました。
「金融街」とも呼ばれる、ここメリット湖畔のビジネス地区を、もっともっと活性化していこう! というプロジェクトなのです。
メリット湖は、オークランド中心部にある大きな湖で、湖畔には住宅街やオフィス街が広がる、自然豊かな静かな環境。ジョギングやサイクリングを楽しむ人も目立ちます。
お隣には、カリフォルニア最大の病院・医療保険グループ、カイザー(Kaiser Permanente)の本拠地もあって、1ヘクタールを超える屋上庭園は、窓から眺めると絵画のように美しい借景となります。
お昼時には、周辺のビルから人が一斉に出てきて、庭園は活気に満ちあふれるそうですが、そんな「都会のオアシス」がオークランドにあったなんて、まったくの初耳(初体験)なのでした。
新しく生まれ変わりつつある「オークランド」の街並みに「会員制のコ・ワーキング」スペース。
なるほど、次はオークランドだな! と予感した一日でした。
<ベイエリア住民の悩み>
というわけで、お次は、サンフランシスコ・ベイエリアの世間話をどうぞ。
近頃、「シリコンバレー」を含めたサンフランシスコ・ベイエリアでは、住民の考え方がちょっと変わってきたようにも感じるのです。
ひとつに、大企業に勤めるか、スタートアップ(起業したての小さな会社)に勤めるか? という選択。
今までは、圧倒的に「スタートアップに勤めて、一攫千金を狙う」というのが、テクノロジー従業員の夢でした。
そう、「一攫千金」とは、会社が株式市場に新規公開(Initial Public Offering、通称 IPO)して、自分が持つストックオプション(自社株の購入権)が、とてつもなく大きな価値を生み出す、ということ。
ところが、昨年あたりから、医療・バイオテクノロジー分野はべつとして、純粋な IT系企業の IPOが難しくなっています。
今年はさらにスローペースで、先月 IPOを果たしたSecureWorks(セキュアワークス: Dell傘下のサイバーセキュリティ企業)が、初のテクノロジー企業のIPOとなりました。しかも、「公開価格は、もうちょっと高くても良かったんじゃない?」と言われながら・・・。
そして、昨年あたりから、資金の調達も難しくなっています。ベンチャーキャピタルが起業資金や運転資金を出し惜しみするようになって、スタートアップが資金調達しようとしても、なかなかお金が集まらなくなったのです。
一時は「スマートフォンアプリ」と名がつけば、どんどんお金が注入されたのに、現実を直視するようになった機関投資家が、ビジネスモデルを厳しく精査するようになり「ケチ」になったのです。
そんなわけで、「一攫千金の夢も遠そうだし、リスクの高いスタートアップよりも、安定したでっかい企業に勤めた方がいいかなぁ?」というテクノロジー従業員が増えているようです。
とくに、学校を出たての若いエンジニアにとっては、軌道修正は楽ですから、「給料も福利厚生も充実した大企業に鞍替えしようかなぁ?」との迷いが見られる、と耳にします。
そんな風に、仕事の上で「迷い」が生まれると、世の中すべてが灰色に見えてくるものですね。
もともとサンフランシスコ・ベイエリアは、地理的には小さなエリアですので、人口増加に伴って街が過密化すると、当然のことながら、交通事情と住宅事情が悪化します。
「道路はいつも混んでるし、家は高くて住む場所もない!」
だから、経済が低迷して、じっと息を凝らした世界金融危機(the Great Recession:俗に「リーマンショック」)の数年前が、懐かしくさえ感じるのです(写真は、サンフランシスコ半島を西から眺めたところ。対岸がオークランド市)。
先月発表された世論調査によると、実に3割(34%)のベイエリア住民が、「今後2、3年のうちにベイエリアから出て行きたい!」と答えたそうです(The Bay Area Councilが住民1,000人にアンケート)。
言うまでもなく、交通事情と住宅事情が主な原因ですが、いつも「全米ワースト3」に挙げられる道路渋滞のおかげで、年間平均60時間くらいは通勤に無駄遣い。
運転している間は本も読めないし、ときに完全に停止する高速道路の流れにイライラはつのるばかり。
そして、家の値段ときたら、信じられないくらいに高騰していて、今や「100万ドル(一億円超)」という7桁の価格に算定される住宅は、サンフランシスコでは6割近く、サンノゼでも半分近くに上るとか。
いえ、今では「100万ドル」は普通の家になってしまったので、高級住宅(luxury homes)という言葉は、200万ドル(二億円超)以上の家にしか使いません!
こちらの風刺漫画は、「Affordable Housing 271 miles(お手頃な住宅地は271マイル先)」という看板を前に、都会から何百キロも続く道路の渋滞。
車のラジオからは、「どうして近頃カリフォルニア人は不機嫌か? について、最初のお電話はトレーシーのトッドさんから」と聞こえてきます(Cartoon by Tom Meyer / The Mercury News, May 13, 2016)。
そんなわけで、「いったい誰が家を買えるのよ?」という単純な疑問が頭に浮かぶわけですが、こんな統計があるんです。
20パーセントを頭金として、30年ローン(年率4%の利子)を組んだ場合、平均的な家を買うのに、いったいどれくらいの年収が必要か? という統計(住宅価格には、売買物件を上下半数に分ける中間値(median price)を採用)。
それによると、サンフランシスコでは、133万ドルの平均的な家を買うのに必要な年収は、26万ドル(110円換算で約2,900万円)。
俗に「シリコンバレー」と呼ばれるサンタクララ郡では、97万ドルの平均的な家を買うのに、19万ドル(約2,100万円)。
それだけ年収があるのは、サンフランシスコでは世帯数の13パーセント、サンタクララ郡では22パーセントだとか(Data by the California Association for Realtors for the 1st Quarter of 2016)。
アパートを借りるにしても、今や、サンフランシスコとサンノゼは「全米ワースト1位と3位」。
ベッドルームひとつの部屋を借りると、ひと月の平均家賃は39万円と25万円ということです(110円換算:Data by Zumper for May 2016; 写真はサンノゼ市の中心部)。
不動産業のご近所さんが、「娘が大学を卒業してベイエリアで働きたいから、いい部屋はないかなぁ?」と他州の友人から相談を受けたそうです。
答えにつまりながら、「ひと月十数万円の予算だったら、誰か友達とシェアするしかないかもねぇ」と返事をされたとか。
う〜ん、それじゃあ、多くの人が「出て行きたい!」と言うのも十分に理解できるわけですが、そこがサンフランシスコ・ベイエリアの恐ろしいところ。
たとえ10人が出て行ったとしても、代わりに15人が入ってくるのです。
それはどうしてか? と考えると、たとえ成功するのが「千人に一人」だったとしても、「十人に一人」は成功する! と思い込めるような、前向きな文化が根付いているからかもしれません。
そう、ちょうど19世紀後半にシエラネヴァダ山脈の金鉱に世界じゅうから人が集まった「ゴールドラッシュ」のように、テクノロジーという金鉱には、いつまでも人が群がってくるのでしょう。
「俺はシエラネヴァダで金を掘ってたんだぞ!」という昔の言葉と、「俺はシリコンバレーのテクノロジー企業に勤めてたんだぞ!」という今の言葉は、同じくらい夢を誘う響きなのかもしれません。(写真は、ゴールドラッシュの街オーバーン(Auburn))
<おまけのお話: アップルの「スペースシップ」>
そんなわけで、シリコンバレーの渋滞は悪化の一途をたどっていて、現在建築中のアップルの本社(写真)も、周辺住民が戦々恐々として見守っているひとつでしょうか。
「スペースシップ(宇宙船)」と呼ばれる巨大な円形の本社ビルは、幹線道路フリーウェイ280号線のすぐ脇。今のアップル本社のちょっと東になりますが、完成の暁には、ただでさえ「アップル渋滞」の起きる280号線の通勤事情が、さらに悪化する、と予想されています。
が、その一方で、喜ぶ人も。
この辺りは、昔は畑や果樹園だったところで、住宅地になったのは、戦後の1940年代。戦争から戻ってきた兵士の方々のために、お手ごろ価格の住宅地が開発されました。
今でも、昔ながらの平屋建て(“flattop”)の多い静かな住宅街となっていますが、巨大なアップル本社がプランされた頃から、現代の「金鉱(gold mine)」ともなっているとか(Artist rendering of “Apple Campus 2” from the City of Cupertino website)。
そう、アップルやテクノロジー企業のオフィスにも近いし、学区も優秀なので、ここに住みたがる人が多いんです。ですから、「あなたの家を売ってくれますか?」と扉を叩く不動産業の人も後を絶たず、住民にとっては、まさに金鉱の上に住んでいるようなもの。
65年前に 6,700ドルで買ったとか、55年前に 13,400ドルで買ったという家が、今では「百万ドル」を軽く超えるわけですから、すごい投資リターンというわけです。
なんでも、この辺の古い平屋建てが大きな家に建て替わると、「マックマンション(McMansion)」と呼ばれるとか。
言うまでもなく「マック」は「アップル従業員」や「テクノロジー従業員」を指し、「マンション」は「(この辺には不釣り合いな)豪邸」というニュアンスです。
でも、家を売ってしまったら、行くところがないのが実情かも・・・。
(Reference cited: “Silicon Valley’s latest gold mine” by Richard Scheinin, The Mercury News, June 6, 2016; Last photo by Gary Reyes)
夏来 潤(なつき じゅん)
今日のお題は、at your discretion
ちょっと難しい響きですが、よく使われる慣用句です。
名詞 discretion(「ディスクレッション」と発音)は、「判断力のあること」「良い判断ができること」といった意味。
よく「分別」とか「思慮深さ」という風に訳されます。
ですから、at your discretion というと、
「あなた自身の判断で、思ったように」行動すること。
つまり、自分自身で分別のある決断を下して、責任を持って行動する、というような意味です。
まあ、小難しい表現ではありますが、どういった場面に出てくるかというと、
観光地の看板が多いのではないでしょうか。
たとえば、「これから先は断崖絶壁になっていますので、これ以上進むんだったら、自分の責任で先に行ってください」といった看板。
たぶん、こんな風に書いてあるでしょうか。
Please proceed at your own discretion
どうぞ自分自身の裁量で先に進んでください
自分の判断で「大丈夫」だと思って進んでいるんだから、たとえ転んでケガをしたとしても、公園管理局とか自治体を責めないでね! といった含みがあります。
この at your discretion という言葉は、ちょっとした法律用語ですから、看板を立てた側には「責任回避」の意図もあるわけです。
(写真は、ハワイ州マウイ島の最南端にある断崖絶壁。いつも強風が吹き荒れる場所ですが、柵なんてありません)
それで、どうして at your discretion をお題に選んだかというと、
夏に向かってアメリカに観光に来られる方が増えるけれど、観光地の「看板」の意味は十分に知っておいた方がいいなぁ、と頭に浮かんだから。
カリフォルニアでは、あまり at your discretion という看板は見かけないかもしれません。
なにせ地元住民は多いし、外からの来訪者も多いし、事故が起きる前に、断崖絶壁はさっさと「立ち入り禁止」にするか、頑丈な柵を設けるでしょう。
けれども、来訪者が少ない場所とか、「雄大な自然」を重んじる土地柄では、人が手を加えない「大自然」のままにしてあるところも多いです。
そこで思い出すのが、ワシントン州のレーニア山(Mount Rainier)。
州都シアトルの南東にあって、レーニア山国立公園(Mt. Rainier National Park)の最高峰です。
(Photo of Mt. Rainier & Nisqually Glacier by National Park Service)
冬の間は、何メートルも雪が積もる4千メートル級の高山ですが、夏の間は、中腹まで車で気軽に登れます。
2千メートル近くの「サンライズ」という地点には、1930年代に建てられたロッジがあって、ここまで車で登って来ると、ロッジを足場に登山やハイキングを楽しめるようになっています。
ところが、この夏だけ開通する道路には、ガードレールがないんですよ!
「登り」が崖っぷちだと記憶していますが、右側通行の道路では、助手席から見下ろす景色は断崖絶壁で、まるで転げ落ちそうな気分にもなるのです。
どうしてガードレールがないのかはわかりませんが、「道路は通したけれど、それ以上は手を加えないよ!」と宣言しているかのようにも感じます。
実際、車で登れる「気軽さ」が危険に転じる場合もあるんです。
20年ほど前、我が家がこの道を通ったあとに、日本人観光客が乗った車が、崖から転落したことがありました。
現在は、ガードレールが敷設されたのかどうかは存じません。
けれども、こんな危険な登山道路にガードレールがないとは、「at your discretion(自分の判断で行動する)」の最たるものだと思うのです。
アメリカという国は、ときに「自由」を尊重するあまり、日本や諸外国と比べて「無謀」にも感じることがありますね。
たとえば有名な話ですが、東海岸ニューハンプシャー州には、「オートバイに乗るときにはヘルメットをかぶりなさい」という法律がないんです。
そう、そんな子供向けの規則は、大人には必要ないよ! というわけです。
ニューハンプシャーは「自由」を理想と掲げる州で、正式な「州のモットー(State Motto)」は、こちら
Live free or die
自由に生きるか、さもなければ死ぬか
つまり、「自由に生きられないなら、死んだほうがマシだ」といった感じ。
そして、「自由に生きられないくらいなら、死んでしまえ!」という教訓なのかもしれません。
それができないなら、この州に住む資格はないよ、と子供の頃から胸に刻んで生きていらっしゃるようです。
(写真のように、州のナンバープレートにも誇らしげに刻まれています)
この Live fee or die には続きがあって、
Death is not the worst of evils
死は、最悪の凶(きょう)ではない
というそうです。
昔の軍人さんの言葉だそうですが、なるほど、「自由を尊ぶには、死など恐れてはいけない」というアメリカ人の精神が、如実に表れたモットーのようですね。
実は、ヘルメットをかぶる法律がないのは、中部のイリノイ州とアイオワ州も同じだそうです。
(こちらの地図では、グレーの州が「ヘルメット法なし」: Map by Insurance Institute for Highway Safety, Highway Loss Data Institute)
けれども、「ヘルメットの法律すらないんだよ~」と引き合いに出されるのは、いつもニューハンプシャー。
なにせ、みんなが知っているモットーを掲げる州ですからね!
というわけで、お話がそれてしまいましたが、
「自分の判断で、思ったように行動しなさい」という
アメリカらしいお話でした。
(Natinal Park Service photo of Sunrise Meadows by Emily Brouwer)