Essay エッセイ
2007年05月04日

鼻ちょうちん

先日、映画『フラガール』を鑑賞いたしました。

ご存じ、福島県いわき市にある「スパリゾートハワイアンズ(旧・常磐ハワイアンセンター)」の生い立ちを映画化したものですね。
 あのクライマックスシーンで女優の方々が披露する、驚くほど玄人はだしのフラダンスもさることながら、わかりやすいストーリー展開で、観る人をのっけから魅了する秀作です。

台湾から大切に運んできた椰子の木の「クリスティーナちゃん」に、上着を着せてあげるお兄さん。そして、寒さで枯れないようにと、街中のストーブを必死に集めるお母さん。わたしの大好きなシーンです。

北海道出身の連れ合いは、子供の頃、近所の商店街の福引で、「常磐ハワイアンセンター二泊旅行」を当てたことがあるそうです。幼少の頃より、くじ運がよかったんですね。
 でも、学校があるし、5人家族のうちどのふたりが行くのかと議論になったので、結局、お向かいのおばさんに差し上げたそうです。けれども、そのときの思い入れが強く残っているのでしょうか。この映画は、もう3回も観たらしいです。


わたしは、いわき市には行ったことがありませんし、炭鉱の街には縁もゆかりもありませんが、とにかく、この映画の地が懐かしかったです。誰の故郷であってもおかしくない、そう思うのです。

あの頃は、みんなが貧しかったし、食べていくのに一生懸命だった。そんな印象が、まず頭に浮かんだのでした。
 そう、何はともあれ、みんな生きることに必死だったんですよね。

炭鉱の街に生まれれば、長じては炭鉱に入る、これが当たり前の時代。四の五の小難しい事は考えず、じいちゃんや父ちゃんや兄ちゃんの後を継いで、穴に入る。

きっと、他のどこの街でも、選択肢は限られていたはず。
 海に行く街に育てば、海に行くし、畑を耕す村では、畑を耕す。


そういえば、昔は、育つ環境も、そんなにキレイ・キレイではなかったですよね。それが証拠に、「青っぱな」を垂らした子供もたくさんいました。そう、小学校のひと学級に、必ず一人はいたもんです。いくらすすっても、いつも鼻の下に、タラ~っと垂れてる。

それから、「鼻ちょうちん」。わたしは実際に見たことはありませんが、連れ合いはあるよと断言していました。

「鼻ちょうちん」ってわかりますか?鼻水を垂らしながら寝ると、何かの拍子で、ふとちょうちんみたいにプ~ッと鼻水が膨れる現象。うん、水は、表面張力がありますからね。

それにしても、なんで昔は「はなっ垂らし」が多かったんでしょう。「青ばなバイキン」でも流行っていたのかな?

(写真は、小学館発行の「ビッグコミック・オリジナル」の表紙を飾る、村松誠氏の作品です。猫ちゃんの鼻ちょうちんがかわいいですね。)


2年ほど前、東京・両国にある江戸東京博物館に行ったことがあります。シルクロード展をやっていたので、それが目的だったのですが、ついでに、常設コーナーも観てみることにしました。

すると、入っていきなり、後ろから声をかけられたのでした。「この玉川上水は、ごく最近まで使われていたんでしょ」と。そこには、昔の木製の水道管が展示されていました。

エッと後ろを振り向くと、おじさんがにこやかに立っていて、まるで10年来の旧友に語りかけるように、親しげに説明を始めるのです。こちらは思わず、知り合いだったかなと、頭の中の記録簿をめくります。いえ、該当なしですけれど。


なんでも、玉川上水(たまがわじょうすい)というのは、多摩川水系を源とし、東京都羽村市から新宿区四谷まで流れる用水路のことだそうで、昔は、そのまま飲み水としても使われていたそうです。

今は、だいぶ埋め立てられたりしていますが、展示されてあった木製の水道管は、江戸時代、大きな用水路から各家庭に配水するのに使われていたようです。

おじさんがおっしゃるに、今の新宿副都心には、淀橋浄水場というのがあって、これは、1964年の東京オリンピックの頃までは現役だったとか。
でも、その頃は水の出がとっても悪くて、晩のうちにお鍋や入れ物に水をためておいて、朝になってそれを使っていたらしいです。

今のように、蛇口をひねればお水がジャージャーというのは、夢のような話だったのでしょうね。


おじさんのお話は上水では収まらず、今度は下水のお話へと展開するのです。(お食事中の方には、ごめんなさい。)

東京オリンピックの直前は、首都・東京といえども、大部分のトイレはまだ汲み取り式でございまして、しかも、バキュームカーという文明の利器が、そこまで普及していなかったのですね。
 そこで、役所の人が柄杓(ひしゃく)ですくって桶(おけ)に入れ、それをえっちらおっちらトラックまで運び、トラックの上の大きな樽に移す、という大変骨の折れる作業をやっていたのです。

役所の方々は、マスクもせず、手袋もせず、汚物にまみれながら仕事をします。そして、辺りは、すごい臭いが立ち込める。でも、それを汚いとか、臭いとか、あざ笑っては決していけないのですね。だって、怒らせたら最後、汲み取ってもらえないから。
いつもお好みのタバコをお礼に差し上げていたそうですが、それがひと箱などとケチると、とんでもないことになるそうです。汲み残しがあって、すぐに満杯になる。

目黒のあたりでも、昭和30年代くらいまではそうだったらしく、目黒のアメリカンスクールの子供たちが車で通るとき、たいそう珍しがって、写真を撮っていたそうです。


で、ここでわたしが一番びっくりしたのは、人力で汚物を運んでいたということではなくって、運ぶのに使っていた桶の重さだったのです。

桶というのは、こんなものなのですが、江戸東京博物館には実物が展示してあって、実際に担いでみることができるようになっているのです。

わたしもトライしてみましたが、何もかもが、がっしりとした木でできていて、とにかく重い!
 何も入っていないのに、とっても肩に担げる気がしないのです。

昔の人は小さくても力持ちだったのかもしれませんが、それにしても、あの重い桶に中身を入れて歩くなんて、わたしにはとっても想像ができませんでした。

(写真は、ビッグコミック・オリジナルの連載作品、ジョージ秋山氏の「浮浪雲(はぐれぐも)」より)


結局、おじさんとは、1時間以上おつきあいすることになったのですが、こんな思い出話もしてくれました。

おじさんが子供の頃、家が遠くにあると、自費でわざわざ電柱を立てないと、電気が家に通わなかったそうです。ということは、貧しい家だと、電気が来ない。
 そこで、学校の先生は、こういう計らいをしてくれたのでした。今日の私の当直の時は、誰さんと誰さんが学校に来て、夜の間お勉強をなさいと。

そういう子は、よく弟や妹を背中におぶって子守りをしていたので、先生がおむつを取り替えてくれたりしたそうです。


これを書きながら、ふと思い出したことがありました。

子供の頃、おばあちゃんちに行ったら、おばあちゃんが母にこう言うのです。「お正月なのに、そんなに継ぎ当てのあるセーターを着せなくても・・・」と。
 姉もわたしも、肘(ひじ)に皮のパッチが付いたセーターを着ていたのですが、それがファッションではなく、かわいそうに、破れを繕う(つくろう)継ぎはぎだと思ったらしいのですね。

ま、たしかに、昔は服に破れがあっても、すぐには捨てなかったものですよ。

そういえば、もうすぐ「子供の日」。

現代の、青っぱなのない「はな垂れ小僧」たちも、元気に遊びまわっている頃でしょうか。

追記:鯉のぼりと港の写真は、島根県は美保関(みほのせき)のものです。4年前のちょうど今頃、両親と旅をしました。神話の里・島根にふさわしく、しっとりとした港町でした。

それから、博物館で出会ったおじさんは、別に説明要員のボランティアではなく、ただのお客さんだったみたいです。後ろから話しかけてくださるなんて、わたしの後姿が、よっぽど暇そうに見えたのでしょうね。


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