一枚の写真
奇跡的に助け出された方々のニュースを耳にすると、嬉しい反面、同じ境遇の方々が人知れずどこかにいらっしゃるのではないかと、心が張り裂けるような気分にもなります。
一方、被災した方々には少しずつ救援物資が届くようになったと聞きますが、仮設住宅などの仮住まいに引っ越せないうちは、まだまだ不便な、厳しい生活が続くことになるのでしょう。
大震災の渦中にいらっしゃった方がどれほどの恐怖を味わったかは、まわりの人間には計り知れないことではありますが、映像で惨事を垣間みた人にも、それなりの「心の傷」を与えたのではないかと思うのです。
わたしなどは、津波に襲われる夢を見て、びっくりして飛び起きてしまいました。
夢には科学とか理屈は通用しませんので、津波は、まるでハワイの海みたいにブルーに透き通っています。
けれども、「ドン!」と一気に波が砕ける音や、建物の隙間をぬって襲いかかる水の勢いは、単なる夢とは思えないほどの迫力なのでした。
映像を通して津波の威力を知っていたつもりのわたしは、その後、たった一枚の写真で、もっと大きな自然の脅威を感じたのでした。
それは、見渡す限り、一面のがれきの山。
家々の柱、天井、家財道具、思い出の品々。そんなものすべてがバラバラになって水に流され、誰のものかもわからず、無造作に山と積まれている光景。
そして、がれきの山を前に、茫然(ぼうぜん)と立ち尽くす家族。小さな子供を連れたカップルで、これからどうしようかと、ただ途方に暮れて、立ち尽くす若い家族。
この写真を見たとき、地上からはこんなに見えるのかと、初めて被害の甚大さを知った気がするのです。
そう、ヘリコプター映像で見えていた白いモコモコは、人の背丈よりも高い、ビニールハウスだったのです。そのビニールハウスを、どす黒い波が、事もなく飲み込んでいったのでした。
前回のエッセイでもご紹介しましたが、地震の直後、米国西海岸の人たちは、午後11時のニュースで津波の中継映像を観ています。ですから、日本がどれほどの被害を受けたかというのは、他の地域の人たちよりも十分に理解しているのではないかと思います。
そんな西海岸の人たちは、ひとりひとりが「自分の一枚の写真」を心に深く刻んでいるのだと思います。
それに、カリフォルニアは、歴史的に日本との結びつきがとても深い場所です。19世紀後半、アメリカ本土としてはいち早く、日本からの移民が定住した土地でもあります。
カリフォルニアを足場にして、日系移民はアメリカ全土に移り住み、全米のあちらこちらに日本街を築きました。が、今となっては、ハワイを除くと、サンフランシスコ、サンノゼ、ロスアンジェルスの三都市にしか日本街は残っていません。
本土にたった三つしかない日本街ではありますが、ここでは今でも「桜祭り」や「お盆祭り」が開かれ、地元の人たちの楽しみともなっています。
サンフランシスコ生まれの友人は、子供の頃から「お盆」が大好きでしたが、彼は Obon が「祖先を敬う儀式」だとは知らずに、楽しいお祭りだと思っていたのでした。
けれども、いかに解釈されていたにしても、地元のみんなが一緒になって楽しめるのは良いことでしょう。
そんなわけで、サンフランシスコ・ベイエリアには日本街がふたつもありますので、大震災の直後は、日本街が中心となって義援金集めの催しを開きました。
サンノゼでは、大地震の一週間後、日本街の寺院(the San Jose Buddhist Church Betsuin)で「初七日」が開かれました。
参加者は、震災の犠牲者や被災地の方々に祈りを捧げたあと、日本街協会(the Japantown Community Congress of San Jose)に義援金を寄付しました。
その翌日、寺院脇では、ボーイスカウトの子供たちも参加して、「寄付のドライブスルー(donation drive-through)」を開きました。午後5時から7時の退社時間をめがけて、脇を通った車から義援金を受け取ろうという企画です。
何でも「利便性」を追求するアメリカ人ですから、車の窓から寄付を受け取るドライブスルーがあったって、おかしくはないでしょう。
こちらで集まった義援金は、サンフランシスコの日本領事館を通して、日本赤十字社に送られるそうです。わたしもサンノゼの住民として、義援金の半分を日本街協会宛てに送りました。
そして、この日、サンフランシスコの日本街では、午前7時から夜中の12時まで、ボランティアの人たちが「義援金テレソン(fundraising telethon)」を開いて、ベイエリア中の住民から寄付を募りました。
この企画は、NBC系列のローカルテレビ局KNTVサンノゼと、NBCの筆頭株主であるケーブルテレビ配信会社コムキャスト(Comcast)が協賛したものですが、主催は、サンフランシスコの日本街協会(the Japanese Cultural and Community Center of Northern California)です。
自分たちは日本のために何かできないかと、急遽、募金活動に乗り出したのでした。
午前6時半には日本街にボランティアの方々が集結し、7時きっかりにテレソンが始まります。協賛のKNTV局もテレビで大々的に宣伝していたので、知名度はなかなかのようでした。
中には、ジャン・ヤネヒロさんなど、有名な日系ジャーナリストもボランティアとして参加なさっていたようですが、この日だけで42万ドル、週末の募金も合わせると、77万ドル(およそ6千2百万円)の義援金が集まったそうです。
まあ、驚くほど巨額な寄付とはお世辞にも言えませんが、このベイエリアからの義援金は、東北・関東地方の被災地の方々に直接送られるということです。
ご存じのように、震災の直後から、アメリカ軍も支援活動を行っています。
たとえば、沖縄の普天間海兵隊飛行場では、「CH-46 シーナイト」大型輸送ヘリコプター8機と、「C-130」輸送機10機以上を岩国海兵隊飛行場(山口)に飛ばし、そこに集結した輸送機・ヘリコプターとともに、横田空軍飛行場(東京)と厚木海軍飛行場(神奈川)を経由して、東北地方に派遣されました。
災害時には、大型輸送ヘリコプターはなくてはならないものとなりますので、海兵隊の災害救助隊・第3海兵機動展開部隊(the III Marine Expeditionary Force)とともに、被災地に救援物資を届ける任務を負っているのです。
海兵隊ばかりではなくて、空軍は仙台、花巻、三沢、山形への物資輸送を、陸軍は500人を動員して物資輸送や自衛隊との連携を、そして、海軍は軍艦20隻、艦載機140機、総勢1万3千人を動員して、海からの支援をしています。(在日米軍が所属する太平洋軍司令部(the U. S. Pacific Command)の3月19日付の発表を参照)
わたしは決してアメリカ軍を美化するつもりなどありません。けれども、ここで軍隊の支援活動をご紹介しようと思ったのは、ひとりの軍人の文章を読んだからなのでした。
普天間海兵隊基地のデイル・スミス大佐(Colonel Dale Smith)という方ですが、東北沖の大地震・大津波について、このように書いていらっしゃいました。
「被害は仙台地域に限らない。十以上の都市が、そこに住む人々とともに地図からこつ然と姿を消してしまった。わたしは涙なくしてこれを書くことができない・・・それほど、ひどいのだ。」
スミス大佐はご近所さんの友達の友達になる方ですが、「タフガイ」であるはずの軍人が「涙なくしては書けない(I cannot write this without tears)」と公言するほど、事態はひどいということでしょう。
それと同時に、どこの国の国民であったにしても、大災害に感ずるところはまったく同じなのです。
サンノゼの日本街で募金活動が行われたとき、「どうして寄付をしようと思いましたか?」という質問に、こんな風に答えた方がいらっしゃいました。
「日本で起きた震災には心を痛めている。だから、少しでも助けになれば嬉しい」と。子連れの若い男性でしたので、きっと同じ年頃の日本の子供たちのことを思いやったのでしょう。
また、別の男性は、こんな風におっしゃっていました。「日本の人たちだって、僕たちに震災が起きれば、必ず助けてくれるはず。だから、今は、日本の人たちを助けるのは当然だ」と。
今、被災地の外にいる人ができることは、自分なりの義援金を送ること。そして、ちゃんと食べて、ちゃんと休んで、英気を養うことでしょう。
なぜって、「助けて!」と悲鳴が聞こえてくれば、すぐに助けに行かなくちゃいけないから。