サンノゼの日本街~「別院」と「シャンハイ」の謎
先日、フォトギャラリーでは『サンノゼのお盆祭り』と題して、毎年7月に開かれる「お盆祭り(Obon Festival)」をご紹介しておりました。
毎年、旧暦のお盆のころ、サンノゼの日本街(Japantown)で開かれるお祭りです。
日本では「お盆」というと、おごそかに祖先の魂をお迎えしたあと、この世で歓待して丁重に送り返す、という儀式です。
列島各地で開かれるさまざまな「盆踊り」に加えて、京都の「大文字の送り火」や、広島の「盆燈籠(ぼんとうろう)」、長崎の「精霊流し(しょうろうながし)」と、その土地独自の祖先の迎え方、送り方が見られます。
けれども、アメリカの「お盆祭り」といえば、盆踊り(Obon dance)と太鼓と縁日で賑やかに彩られます。
盆踊りは、地獄から解き放たれた喜びを表すそうですので、きちんと仏教の教えに沿ってはいるのでしょうが、踊り、太鼓、屋台で楽しく過ごすとは、お盆が「フェスティバル」になっています(名前だって、Obon Festival ですものね!)。
アメリカでは、祖先のお墓を訪ねるのは、戦死者に想いを馳せるメモリアルデー(Memorial Day、戦没者追悼記念日)も多いですが、あくまでも「思い立ったとき」が基本。
ですから、日系コミュニティーに受け継がれたお盆祭りは、「盆踊り」で楽しむことが中心となり、日本のように「墓参り」とは結びつかないのかもしれませんね。
(写真は、サンフランシスコ日本街の歴史を伝える「盆踊り」の碑)
それで、お盆祭りを楽しもうと、サンノゼの日本街に行ってみると、いろんなことに「どうしてだろう?」と疑問を感じるのです。
そもそも、お盆祭りの主催者である仏教寺院は、どうして「別院」と呼ばれるのでしょうか?
そうなんです、サンノゼのお寺は、「サンノゼ仏教寺院 別院(San Jose Buddhist Church Betsuin)」というのが正式名称なんです。
別院があるからには、どこかに本院があるはずですよね。
調べてみると、この別院という名称は、京都の浄土真宗のお寺、西本願寺の別院であるという意味だそうです。
サンノゼにお寺ができたのは、1902年。立派な本堂は、1937年に建立されたそうですが、「別院」と名乗ることを許されたのは、1966年のこと。
この名は「歴史的にも、地理的にも大事なお寺」であることを示し、アメリカにある寺院としては、ひどく名誉なことなんだそうです。
どうやら、19世紀末、北カリフォルニアで最初に浄土真宗のお寺ができたのは、港街サンフランシスコのようですが、日本からやって来た移民が周辺の農村に散らばるにつれて、お寺も各地に建立されるに至ったようです。
そう、最初は子供たちの日本語学校から派生した「仏教青年会」や「婦人会」のような定期的な集まりだったものが、「やっぱり我が街にも立派な寺院が欲しいよね」ということで、コミュニティーの人々の寄付で建立されていったようです。
現在、サンフランシスコ・ベイエリアの寺院で盆踊りが開かれるのは、サンノゼとサンフランシスコに加えて、対岸のオークランド、シリコンバレーのマウンテンヴュー(写真)、それから、海沿いの農業地帯ワトソンヴィルなどですが、どちらも同じ浄土真宗のお寺だそうです。
そして、もうひとつ気になっているサンノゼ日本街の謎があるんです。
それは、日本街なのに、「シャンハイ(Shanghai)」というネオンサインがあること。
このネオンサインは、日本街を東西に走るメインストリート、ジャクソン通り(Jackson Street)にあって、饅頭屋さんのシュウエイ堂(Shuei-Do)のビルに掲げられています。(221 Jackson Street)
なんだって日本街にシャンハイ(上海)のネーミングがあるのでしょうか?
なんでも、こちらのビルは、1951年、日本街に最も早く建った近代的なビルだそうで、その頃は、鉄筋コンクリートと一面ガラス窓の工法が珍しかったそうです。
このビルには、饅頭屋のシュウエイ堂、ソーコー金物屋(Soko Hardware and Plumbing)、ギンザ・カフェ(Ginza Cafe)、そして シャンハイ・レストラン(Bill’s Shanghai Restaurant)が入っていたとか。
どうやら、シャンハイ・レストランという飲食店が日本街で営業していたようですが、1950年代後半にレストランを経営していた方の息子さんは、「二階で営業していて、下にはお店が三軒入っていた」とおっしゃっています。
当時の店の名刺には、「座席300席(seating capacity 300)」とあるので、かなり広い中華レストランだったのでしょう。
(Photo of Bill’s Shanghai Restaurant business cards posted by Willis on Flickr, 2012)
この二階の外壁に「シャンハイ」というサインが掲げてあったそうですが、この方の記憶では一度も点灯したことはなくて、店の入口にあった別の「シャンハイ」というネオンサインに何百もの電球がピカピカしていた、とのこと。
この方のお父様は、亡くなる1968年までレストランを経営していて、その後は、お母様が1972年まで切り盛りしていたとか。
そのあと何年も、二階の店舗スペースは空いたままで、ピカピカに光っていた入口の「シャンハイ」も外されたそうですが、後年、ビルの持ち主が外壁の「シャンハイ」をネオンサインにして保存したようです。
この「シャンハイ」のネオンサインは、レストランがなくなった今でも、日本街の歴史を語る証人として大事に残されているのです。
ちなみに、こちらのビルは「土橋ビル(Dobashi Building)」と名づけられていて、向かいにあったドバシ・マーケット(Dobashi Market)という日系スーパーマーケットの一族が建てられたそうです。
戦前は、このビルの場所にはフルショウ(古庄?)写真(Furusho Photography)という写真屋さんがあったようですが、戦時中に隔離された日系人収容所から戻られてからは店を再建されていないようです。
ドバシ・マーケットは、1912年に店が誕生した頃には「紀の国屋商店」と呼ばれていましたが、それは日本から移り住んだ一代目のキノスケさんが、紀の川沿いの村で生まれ育ったからだとか。
ウナギや昆布、ウズラの卵やごぼう、ハワイでつくったキムチやフィリピンから輸入したエビのすり身と、日系の食卓には欠かせない食材を並べていました。
今は、ドバシ・マーケットは、ニジヤというオーガニックスーパーに姿を変えていますが、日本街や周辺の住人を支えてきた大事なお店なのでした。
(240 Jackson Street、写真は旧ドバシ・マーケットの前に置かれる碑)
そして、土橋ビルにシャンハイ・レストランと一緒に入っていた、ソーコーという金物屋さん。
こちらのソーコー金物屋さんは、土橋ビルが完成した1951年末からサンノゼで営業するようになりました。
が、もともとは、サンフランシスコの日本街にあるソーコー金物屋「アシザワ家」の分家だとか。(1698 Post Street, San Francisco、写真の右端 Soko Hardwareという赤い看板)
サンノゼのソーコーは、土橋ビルの店舗が手狭になったので、すぐ近くの広いスペースに移転して店は繁盛しました。その頃、日本街の東隣には缶詰工場がたくさんあって、ピクルスや果物の缶詰をつくっていたので、工員さんもお得意さんだったようです。
缶詰工場も閉鎖され、日本街もだいぶ静かになって久しい2008年1月末、経営者のビル・アシザワさんがリタイアし、56年のサンノゼでの歴史を閉じています。
本家のソーコー金物屋さんは健在ですが、こちらの「ソーコー」というネーミングは、サンフランシスコの漢字表記「桑港」から来ているそうですよ。
というわけで、サンノゼ日本街の「別院」と「シャンハイ」の謎。
わたしが20年前にサンノゼに引っ越してときには、日本らしいもの、昔懐かしいものがたくさんあった日本街。
時代の流れとともに、ずいぶんと様変わりしていますが、同時に新しい息吹もたくさん吹き込まれているようです。
おもな参考資料:
ドバシ・マーケットについては、『California Japantowns(カリフォルニア州日本街)』のウェブサイト、「旧ドバシ・マーケット(ツガルレストラン)」の項
ソーコー金物屋については、サンノゼ・マーキュリー新聞の記事
“Japantown loses a fixture in Soko Hardware” by L. A. Chung, San Jose Mercury News, January 19, 2008
戦前1940年のサンノゼ日本街については、こちらの『Japantown Atlas(日本街アトラス)』の地図をご覧になると、感じがつかめます。
サンノゼ日本街は、当初、中華街に間借りしていたので、1930年頃までは中国系商店と混在していましたが、1940年になると日本街に生まれ変わっているようです。