R. I. P. : さようなら、ジョブスさん
Vol. 147
R. I. P.: さようなら、ジョブスさん
今月は、10月5日に亡くなったアップルの前CEO(最高経営責任者)スティーヴ・ジョブス氏のお話をいたしましょう。
彼のような大きな人物を書くとなると、十人十色のまとめ方があると思いますが、若い頃を中心に、わたしなりのジョブス像を描くことにいたします。
<アップルとジョブス氏>
お葬式のため一時帰国していた日本からとんぼ返りしてみると、シリコンバレーは大騒ぎになっていました。
クーパティーノ市の外れにあるセメント工場で、従業員が銃を乱射し、9名が死傷する大事件が起きていたのです。
サンフランシスコ空港に降り立ったときには、いまだ犯人は逃走中で、フリーウェイ101号線を南下していたわたしたちの車を、地元のSWATチームかFBIの覆面トラックがワンワンとサイレンを鳴らして追い抜いて行きました。
「平和なシリコンバレーで、こんな事件が起きるなんて」と不安を抱えながらも自宅で仮眠を取ったのですが、夕方、連れ合いに起こされた第一声が、「スティーヴ・ジョブスが死んだって」。
時差ボケでボーッとした頭には、午前中の銃乱射事件といい、ジョブス氏の訃報といい、パラレルユニヴァースの出来事としか思えなかったのでした。
「そんなことってあり得ない!」と頭の中で声が鳴り響く中、最初にやったことは、他でもないアップルのiPad(アイパッド)を手に取り、ネットで訃報を確認することでした。
ご存じの通り、ジョブス氏は8年前にすい臓がんの診断を受けていて、翌年に摘出手術を受けたあと一回目の病気療養休暇を取っています。
2009年前半には、肝臓移植のため二回目の療養を取っていて、今年1月からは、いよいよ無期限の療養中でした。
2007年7月、初代iPhone(アイフォーン)が売り出された直後、アップル本社の重役フロアでジョブス氏を見かけた友人が、「腕なんか、こんなに細いんだよ」と教えてくれました。
その片手で足りるジェスチャーを見たとき、どんなに現代医学が進んでいたにしても、もうあまり長くはないのだろうと悟ったのでした。
それにしても、あり得ない!
おまけに、翌日の新聞は、一面全面がジョブス氏の訃報ではないときている。例の銃乱射事件が大部分を占めているのですが、そんなのって、あり得ない!
だって、シリコンバレーの地元紙ですよ。ジョブス氏の故郷の新聞ですよ!
と、ちょっと感情的になってしまったのですが、わたしはもともとアップルのファンでも何でもありませんでした。
と言うよりも、「IBMer(アイビーエマー)」として自社に忠誠を尽くした人間ですので、アップルと聞けば「競合」というイメージしか浮かんで来なかったのです。
そう、今は「ソリューションカンパニー」のIBMだって、昔はパソコンやパソコンOS(基本ソフト)に力を入れていた時期がありまして、アップル・コンピュータ(2007年にアップルに改名)やコンパック・コンピュータ(現在はヒューレット・パッカード傘下の一ブランド)、それからマイクロソフトは、立派な競合会社でした。つまりは、目の上のたんこぶ。
一方、スティーヴ・ジョブス氏にとっても、でっかいIBMは「体制」「伝統」「教義(ドグマ)」といった彼の大嫌いなモノの象徴だったようで、1984年1月に流れた初代マッキントッシュのコマーシャルでは、暗にIBMのような巨大企業を「独裁者」と描いたことで一躍有名になりました(このコマーシャルは、YouTubeでご覧になれます)。
のちのフォーチュン誌インタビュー(1998年11月)でも、こんな名言をはいていらっしゃいます。
「技術革新に研究開発費の額なんて関係ない。アップルが最初にマックをつくったときには、IBMは少なくとも100倍の研究開発費を使っていた。問題はお金ではない。どんな人が集まっているか、どうやって組織をリードするか、どのように実行するかだ」
その頃のジョブス氏は、まさに恐いもの知らずの若者で、イケメンのルックスにサラリと長い髪と、コンピュータ業界でもかなり目立った存在でした。(写真は、1984年4月、前年にペプシから招いたCEOジョン・スカリー氏とともにアップルIIcを発表するジョブス会長。右は、アップル共同設立者のスティーヴ・ウォズニアック氏、通称ウォズさん)
たとえば、自社製品2代目(初の量産品)となるアップルIIで成功をおさめたジョブス氏は、1978年にはメディアの寵児となっていたようですが、サンフランシスコのABC系列テレビ局KGOに貴重な映像が残っていて、これでお見受けする限り、若干23歳の有頂天のお兄さんといった感じなのです。
ニューヨークのABCスタジオから生中継インタビューを受ける直前の映像でしたが、遠くニューヨークとつながるテレビ局の装置に興味を示しながらも、「トイレはどこ? いや、ほんとに緊張して吐きそうだよぉ」などと軽口をたたく様子が、「ちょいとふざけたお兄さん」といった感じなのでした。
その2年後には、アップルは株式公開を果たし、25歳のジョブス氏は1億ドル超の株を保有する億万長者となっているので、本人はお金なんてどうでもよかったにしても、どことなく、世界を席巻したような気分になっていたのかもしれません。
そんなジョブス氏は、サンフランシスコで未婚の大学院生とシリアの留学生との間に生まれ、誕生直後にシリコンバレーのジョブス家に養子に出されたわけですが、やはり、1960年代、70年代と多感な時期を「ヒッピー文化」全盛のベイエリアで過ごしたというのは、人格形成に少なからず影響を与えているのではないかと想像するのです。
ヴェトナム反戦運動や人種平等を訴える公民権運動から生まれたヒッピー文化は、それまでの伝統をひっくり返すような大きなうねりでした。
現に、ジョブス氏自身も、幻覚剤LSDの体験を語っていて、あれは貴重な体験であり、サイケデリックを知らない人にとっては(たとえ妻であっても)理解できない部分が僕にはある、とおっしゃっていたのでした。
曰く「もしも(マイクロソフトの共同設立者)ビル・ゲイツが若い頃にLSDをやってみたり、インドの修行施設を訪れたりしたならば、もっと幅広い人間になっていただろう」(1997年ニューヨーク・タイムズ紙インタビュー)
学生の頃、LSDを試した学友から、こんな話を聞いたことがありました。「草原に寝転がっていると、牛が人間みたいに呼吸する生き物だってわかるんだ。牛が食べている草だって、ちゃんと息をしているのを感じるんだよ」と。
これを聞いて、「だから麻薬は違法なんだ」と確信したわけですが、ジョブス氏の場合は、もともと鋭い直感が貴重な体験によって研ぎすまされ、のちの製品開発やサービス展開の構想に役立ったという、数少ない好例なのでしょう。
そう、音楽や詩をめでるアーティストと、コンピュータをつくるエンジニアの垣根がまったく無い時代の産物。アートもコンピュータも、新しい目で世界を見つめる自己表現だった頃の産物。
「フォーカスグループ(消費者の声を聞く集まり)に何が欲しいかと聞いても無駄。我々が新しいものを見せるまで、自分たちが欲しいものなんてわかってないんだから」(1998年ビジネスウィーク誌)
これは、ジョブス氏が人々の心を理解する「究極の消費者(the ultimate consumer)」とも呼ばれるゆえんですが、彼にとって、直感は何よりも大事なものだったに違いありません。(写真は、ジョブス氏を「究極の消費者」と称する『The Steve Jobs Way』。著者のジェイ・エリオット氏は、ジョブス氏のもとでアップル上席副社長を務めた方)
アップルII、マッキントッシュと次々と業界の話題をさらうジョブス氏でしたが、彼の順風満帆の人生は、アップル設立10年でつまずきを見せるのです。
1985年、当時のCEOジョン・スカリー氏と取締役会の造反に遭い、ジョブス氏はアップルを去るのです。
「一般消費者に家電(appliance)として売りたい」ジョブス氏と「企業に売りたい」スカリー氏陣営、「アップルOSを守りたい」ジョブス氏と「OSを広め、マイクロソフトのようになりたい」スカリー氏陣営と、根本的なビジョンの相違が軋轢となったのでしょう。
「世の中をアッと騒がせたい」ジョブス氏と「市場のルールを踏襲したい」スカリー氏では、しょせん同じものは見えていないのです。
ジョブス氏ご本人の言葉によると、当時はこういう状態でした。
「アップルは、マイクロソフトになりたいがために、アップルであることを忘れてしまっていた」(2007年のD: All Things Digitalコンファランスで、仲良くビル・ゲイツ氏とともに登場した壇上インタビューより。おふたりは、初代マッキントッシュ向けアプリケーション開発をマイクロソフトが担当した頃からの古いお知り合いなのです)
ごく最近、オラクルの創設者/CEOラリー・エリソン氏は、「(昨年8月)ヒューレット・パッカードの取締役会がCEOマーク・ハードを解任したのは、(1985年)アップルの取締役会がスティーヴ・ジョブスをクビにしたのと同じくらい馬鹿げたことだ」と名言をはいたのでした。
エリソン氏はハード氏とはテニス仲間だし、ジョブス氏とも仲良しなので、友達をかばっての発言でしたが、ジョブス氏が去ったアップルは、製品は売れなくなるし、かつての輝きも失うし、取締役会が愚かな決断を下したというのは、今となっては、周知の事実となっています。
けれども、意外なことに、ジョブス氏ご本人は、のちにこう語っていらっしゃいます。
「最初の2、3ヶ月は、茫然自失の状態だった。だから、当時はそうは思ってなかったけれど、アップルをクビになったのは、わが人生最高のできごととなったよ」(2005年のスタンフォード大学卒業式スピーチ)
ジョブス氏は、クビになってすぐにネクスト(NeXT)というコンピュータ会社を設立するのですが、間もなく、映画『スターウォーズ』で威力を見せたコンピュータグラフィックスのグループをジョージ・ルーカス監督が売りに出し、これを安値で買い取ります。
新会社はピクサー(Pixar)と名付けられ、のちに『トイストーリー』などの名作でアニメーション業界のスターに成長するわけですが、ジョブス氏はピクサーを足がかりにして、ハリウッドの映画業界や音楽業界とのつながりを深めていくのです。
そして、このコンテンツ業界とのつながりが、ジョブス氏がアップルに舞い戻ったあと、音楽プレーヤiPod(アイポッド)やメディアプレーヤiTunes(アイチューンズ)へと発展していくのです。(ジョブス氏が暫定CEOとしてアップルに戻ったのは1997年のこと。写真は、2000年1月、晴れて「暫定(interim)」もとれ、マックワールド壇上で満場の祝福を受けるジョブス氏)
中でも、2003年4月、iPod発売の1年半後に稼働した音楽・動画・アプリケーションショップiTunes Store(アイチューンズ・ストア)は、画期的な構想でした。
と言いますのも、当時は、ネットを通じて(不法に)タダで音楽や動画をダウンロードする風潮が根強く残っていて、お金を払って音楽を買うなんて信じられない! という時代でした。
音楽・メディア業界にしても、今までさんざん悩まされてきたネットを配信サービスに利用するのは、大いに抵抗があったことでしょう。どうせまた違法コピーの温床となるのだろうと。
それを根気強く説き伏せたのはジョブス氏でしょうし、「一曲99セント」という値付けで、ネットをうまく商売の道具に転換させたのもジョブス氏の構想でしょう。
そう、彼の構想とは、ソフトウェアの連携でつくり上げた独自のエコシステム(環境)。しかも、マニュアルなんて必要ない、直感的な(intuitive)触ればわかるソフトウェアで。
ちょっと意外なことではありますが、ジョブス氏自身の頭の中では、iPodもiTunesもiPhoneもマック(デスクトップ/ノートブックコンピュータ)も、あくまでもソフトウェア製品なのです。つまりは、ハードウェアを動かす中枢神経として君臨するもの。
曰く「iPodは、単にソフトウェア製品なんだ。きれいな筐体に入っているけれども、あれはソフトウェアなんだよ(iPod is really just the software…It’s in the beautiful box, but it’s software)。マックもそうだし、iPhoneだって、そうなると思っている」
「アップルは、自分たちをソフトウェア会社だと考えているんだ(Apple views itself as a software company)」(2007年D: All Things Digitalコンファランス壇上インタビュー)
iPod発売を期に、ひとたびiPodやiPhoneやiPadを買ったら、iTunesソフトから逃れられなくなるエコシステムが構築されていくのです。
だって、相手は、みんなのクレディットカード番号を持っているんですよ。いちいち番号を入力することなく、クリックするだけでモノが買えるというのは、便利だし、どんどん買ってしまうではありませんか!
そんなこんなで、今やiTunesはメインストリーム。単なる流行りではなく、立派な主流になっていて、アメリカンフットボールのNFLや、公共放送のPBSだって、iTunesで番組を売る時代。
そして、今度は、iCloud(アイクラウド)なるものまで登場し、いちいちiPhoneやiPadをパソコンにつながなくても、音楽や写真や本といったコンテンツのやり取りがデバイス間で手軽にできるようになるのです。(写真は、今年6月6日、アップルのディベロッパーコンファランスでiCloudを発表するジョブス氏。これが壇上最後の姿となりました)
そうやってエコシステムができあがってみると、同じモノが違った価格で売買される矛盾も、堂々とまかり通ってしまうのです。
たとえば、超人気ゲームアプリの『アングリーバード』。お金を払うことに慣れているアップルのエコシステムでは、99セント(HD版は$1.99〜$4.99)で売られているものが、グーグルのアンドロイド環境ではタダ。
なぜなら、アンドロイドの世界では「無料」であることが前提なので、誰もお金を払おうとしないのです。
アンドロイド世界では、「広告」という別の収入経路が設定されているわけですが、「モノを売ったらお金をちょうだいする」のは、商売の基本かという気もするのです。
そして、この商売の基本を貫いたのは、他でもないジョブス氏。ハリウッドには、それなりの独自のルールが存在するのでしょうが、それをうまく説き伏せてエコシステムを構築するなんて、普通の人にできることではないでしょう。
それは、ピクサーで培ったコンテンツ業界とのつながりがもたらした幸運であるとともに、ビジョンを描いたら最後、何事もあきらめない彼の気質の賜物なのです。
まあ、高校生のときにウィリアム・ヒューレット氏(ヒューレット・パッカードの共同創始者)に電話してコンピュータ部品を分けてもらったり、アップル設立直後に、有名なマーケティング会社リージス・マッケナ(Regis McKenna)に担当してもらって、カッコいいロゴをつくってもらったりと、若い頃から、押しの強さと忍耐強さには定評があったようですからね。
「成功する起業家とそうでない者の違いの半分は、純粋な忍耐(pure perseverance)であると僕は確信するんだ。そりゃ、とっても難しいことだよ。自分の人生のほとんどを懸けないといけないんだから。これに懸けようって情熱がなければ、とっても続かないさ(I’m convinced that about half of what separates the successful entrepreneurs from the non-successful ones is pure perseverance. It is so hard. You put so much of your life into this thing… Unless you have a lot of passion about this, you’re not going to survive.)」(1995年、スミソニアン協会/コンピュータワールド誌合同の報奨プログラムが行った、ネクスト/ピクサー時代のジョブス氏へのインタビュー。Advice for Future Entrepreneurs の章より引用)
もちろん、「忍耐」の残りの半分は「ひらめき」なのでしょうが、ジョブス氏が「天才」だとか「伝説的」であると言われる裏には、人知れない、小さな努力の積み重ねがあったのだと想像するのです。
そして、たったひとりではクールな製品なんてつくれませんから、彼の名声の陰には、何百、何千というエンジニアの方々の努力があることも忘れてはならないでしょう。
<おまけのお話: R.I.P. Steve>
数々の名言を残したジョブスさんですが、個人的には、2007年のD: All Things Digitalコンファランスで行われた壇上インタビューは、自身のキャリアの集大成を語る重要なものだと思うのです。
ウォークマンを生み出したソニーを始めとして、日本の家電メーカーを尊敬してやまないジョブスさんでしたが、「いいソフトウェアをつくれなかった」ことにつまずきが生じ、その一方で、ソフトウェア会社であるアップルは違うんだというお話もなさっています。
少しでも英語がおわかりになる方には、ぜひ一度観ていただきたい箇所なのです(こちらのYouTubeビデオでは、後半6分以降に「ソフトウェア会社アップル」のお話が登場します)。
そして、何と言っても、2005年のスタンフォード大学卒業式スピーチは、最も頻繁に引用される有名なものでしょう。中でも、こんなメッセージが光ります。
「人生は限られているんだ。だから、他人の人生を生きるなんて無駄なことをするな(Your time is limited, so don’t waste it living someone else’s life)」
このスピーチの素地は、すでに10年前には姿を現していて、1995年のスミソニアン協会/コンピュータワールド誌インタビュー(上のお話の最後で引用)では、こんなことを語っていらっしゃいます。
「だって僕たちはすぐに死ぬんだよ。一日一日を今日が最後だと思って生きなくちゃ」(The Responsibilities of Power の章より引用)
「僕は、生命の最高の発明は死だと思ってるんだ。若いものに場所をゆずらなければ、生命はうまく廻らないだろう」(New Possibilitiesの章より引用)
ジョブスさんの逝去を悼む方は、世の中にたくさんいらっしゃるでしょうが、彼が逝った週末、わたし自身もパロアルトのアップルショップ、近くのご自宅、クーパティーノのアップル本社と「行脚の旅」に出ました。
どんな様子になっているかを取材したいのと同時に、ご自宅に花を手向けたかったからです。
それこそ、行く先々がアップルファン、ジョブスファンの「慰霊碑」となっていましたが、りんごの木が何本も植わったジョブス家の庭は、そこだけおとぎ話の舞台のように平和な時間が流れていました。
角部屋は、ジョブスさんが愛用していた仕事部屋と思われますが、ここから眺めるりんごの木にホッと慰められることもあったのでしょう。
思えば、この「シリコンバレー・ナウ」シリーズの第一作目にも、ジョブスさんに登場していただきました。今から11年前、彼の家がハロウィーンの「トリック・オア・トリート」の人気スポットとなっていたというお話です。
以来、ジョブスさんには最も頻繁に登場していただきました。ありがとうございました。
だって、カルト的存在のジョブスさん率いる「アップルさま」を書くのは楽しかったものですから。
きっと今頃は、雲の上で、神さまのデータ処理をシャカシャカと手伝っていらっしゃるのでしょうね。「それにもアプリがありますよ(There’s an app for that)」って。
夏来 潤(なつき じゅん)