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2011年11月25日

イギリスの魅力: 風景と歴史と人と

Vol. 148

イギリスの魅力: 風景と歴史と人と

 


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今月は、久しぶりに足を運んだヨーロッパのお話をいたしましょう。

この欧州旅行は、かの有名な寝台列車「オリエント急行」に乗り込み、自身の誕生日を祝う旅でした。
期待通りの豪華な列車ではありましたが、ここでは、とくに印象に残った列車の目的地イギリスをつづってみることにいたしましょう。

風景と歴史をまとめた第一話と、人を描いた第二話に分かれます。

<イギリスの景色と伝統>
イギリスというと、子供の頃は、なんとなく近しい感じのする国でした。父の影響もあったのでしょうし、近くにイギリス人家族がいらっしゃったからかもしれません。

けれども、長じて世の中の歴史だとか、文化だとか、そういったものが少しはわかるようになると、かえって、イギリスは「わからない国」に変身していったのでした。
 


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第一、どうして国の名前がいろいろあるのでしょう? イングランド(England)、ユナイテッド・キングダム(United Kingdom)、グレイト・ブリテン(Great Britain)と、いろんな呼び名があるではありませんか(日本語の「イギリス」ってどこから来たのでしょう?)。

それに、イングランド王、スコットランド王、テューダー朝にステュアート朝だのと、王家の歴史が複雑すぎてさっぱりわかりません。
 


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おまけに、街の名が奇妙ではありませんか。シェイクスピアの生家のあるストラットフォード・アポン・エイヴォン(Stratford-upon-Avon)がいい例ですが、なにゆえに街の名に前置詞が入っているのでしょう?

そして、何と言っても、かつての植民地アメリカにとっては、戦争をして独立を勝ち取った相手ではありませんか。
アメリカ人にとっては何百年たっても忘れられないこだわりがあって、長年住んでいると、それをひしひしと肌で感じるのです。「イギリス人は歯並びが悪い」といった意地悪なジョークを耳にするのも、そういったこだわりの現れなのかもしれません。

ですから、イギリスを訪ねるのは何かしら特別なことのように思っていたのですが、端的に言って、とってもお気に入りの国となったのでした。
 


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なぜなら、街並みや自然が美しいです。

個人的には、ロンドンはパリよりも格段に美しく、荘厳な建物や緑あふれる広大な公園が、都会の喧噪を包み込むように感じるのです。

そして、ここからほんの少し郊外に足を運んだだけで、絵画のようなかぐわしい景色に出会えるのです。
 


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ロンドンを離れ、王家の別荘ウィンザー城、学問の街オックスフォード、羊毛で栄えたコッツウォルズ地方と足を伸ばすと、おのおのが違った趣にありながら、競い合うような明媚な風景で訪問者を迎えてくれます。

オックスフォードの石造りの街並を歩けば、まるで映画の中にいるような時代を超えたマジカルなパワーを感じ、羊たちの群れる穏やかなコッツウォルズの丘陵を歩けば、人と動物が共存してきた長い営みを感じるのです。
 


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ひとたび内陸から海へと抜けると、そこには異国に対峙する絶壁がそびえ立ちます。急な断崖は、事あるごとに自然の防壁や監視塔となったことでしょう。

けれども、ここに立って四方を見渡すと、淡い緑青(ろくしょう)の海や羊の群れを育む草原は、どこか人を見放さない暖かみに満ちているのです。

イギリスは、地理的には小さな国ではありますが、行く先々で風景が変化し、訪れる者は知らず知らずのうちに時空のポケットへと誘われるのです。

そして、何と言っても、イギリスは、ものすごく面白い。
 


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たとえば、ロンドンの中心地にあるウェストミンスター寺院。王家の戴冠や婚儀、葬礼にも使われる壮大な聖堂ですが、少しでも歴史に興味ある者にとっては、まるで「ディズニーランド」のような所なのです。

聖堂の中には、王族を始めとして、ニュートンやダーウィン、チョーサーにディケンズと著名な方々が埋葬されるのですが、まあ、その逸話の面白いこと!

全部で3千5百人もの方が埋葬されているので、もうスペースがなくなってしまったのですが、ラッキーにもここに埋葬された中にも、ちょっとかわいそうな方がいらっしゃるのです。
それは、オリヴァー・クロムウェル(Oliver Cromwell)。
 


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この方は、ピューリタン革命(清教徒による市民革命)の指導者となって国王軍を破り、なんと王様(チャールズ1世)を処刑してしまったという軍人政治家です。
王の処刑でイングランドを制したのち、アイルランドとスコットランドをも制圧し、護国卿となって独裁政治をしくのですが、それも束の間、1658年、志半ばで病死してしまいます。
共和国の護国卿まで務めた人物ですので、壮大な葬礼ののちウェストミンスター寺院に埋葬されるのですが、ここで憤懣を覚えたのは、王家のシンパ。
1660年に王制が復活すると、クロムウェルに仕返しをすることになったのです。

チャールズ1世が処刑されて12周年となる1661年1月30日、彼らは寺院内のクロムウェルの墓をあばき、遺体を引っ張りだして、処刑を行うのです。いえ、もちろんクロムウェルは亡くなっているので、象徴的な死後の処刑です。
遺体はつるされたあと、チョキンと首を切られ、首は寺院の尖塔に突き刺されて、見せしめとされるのです。遺体の方は、どこかの共同墓地に放り投げられ、今となっては行方不明。
首は24年間もそのままになっていたのですが、ある日、嵐で飛ばされ、それを拾った人が「おみやげ」として持ち帰って、その後、転々と取り引きされる顛末。それでも、近年、クロムウェルの子孫の元に返され、手厚く葬られたということです。

現在、ウェストミンスター寺院内には、クロムウェルの墓石があるのですが、なぜかそこには「1658年〜1661年」と書かれてあるのです。もちろん3歳で亡くなったはずはないのですが、これは「クロムウェルが亡くなった年に生まれ、死後に処刑された年に死んだ」という、なんとも奇妙な理屈を表しているのです。
まあ、そこまでクロムウェルが憎かったということなのでしょうが、死後の処刑とは、あっぱれなまでに「ひねくれた」儀式にも思えるのです。

なんでも、この時代、首をちょん切ったあとに、丁寧につなぎ合わせて葬るというようなことも行われていたそうで、処罰というのは、しごく象徴的な、重大な意味を持っていたのでしょう。
きっと人の名誉(honor)とか恥辱(disgrace)というものは、この世の短い生にかかわらず、永遠についてまわるものだったのでしょうね。

象徴的といえば、ウェストミンスターにある王族の墓だって、いろいろと事情があるようです。たとえば、イングランド/アイルランド女王のエリザベス1世とスコットランド女王のメアリー(メアリー・ステュアート)。
 


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エリザベス1世は、妃を6人も取り替えたことで有名なヘンリー8世と2番目の王妃アン・ブーリンの娘で、紆余曲折ののち、異母姉メアリ1世が病に倒れると、1558年、イングランド王に即位します。

一方、スコットランド女王メアリーは、1542年、誕生6日後にスコットランド王に即位したものの、もとはイングランドのテューダー家の血を引くこともあり、イングランド王の継承権も持っていた方です(メアリーは、ヘンリー8世の姉マーガレット・テューダーの孫)。

エリザベスは、めでたく王に即位すると、メアリーが煙たくってしょうがなくなるのです。メアリーはカトリック教徒で、当時、国がカトリックとイギリス国教会に分断される中、カトリックの貴族たちの中にはメアリーの王位継承を主張する者があったからです。


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翌年、メアリーが夫フランソワの即位でフランス王妃となったこともあり、フランスがイングランドを攻め、メアリーを王位につかせるのではないかとも恐れていました。

そのメアリーは、フランス王の夭逝にともない、結婚生活わずか2年でスコットランドに戻ります。その後、貴族と2回再婚するのですが、ひとり目の再婚相手(ダーンリー卿ヘンリー・ステュアート)の暗殺に関与か? というスキャンダルに巻き込まれて、24歳で王位を失うのです。

メアリーはイングランドに亡命するのですが、当初、そんな彼女を復位させようと考えたエリザベスは、取り巻きの勧めもあって彼女を軟禁し、1587年、19年にわたる逡巡ののち斬首刑(!)に処すのです。彼女に王位を追われるのではないかという恐れが、常にエリザベスの脳裏にあったのでしょう。
 


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1603年に69歳で没するまで、44年も続いたエリザベス1世の統治は、イギリスが国内外で大いに栄えた時代でもありました。
ですから、ウェストミンスター寺院に手厚く葬られた彼女の石棺も、大いなる権威を象徴するものとなっています。
石棺の上には、エリザベスを模した彫刻が施されていて、王冠をかぶり笏(しゃく)を持つエリザベスは、まるでそこに横たわっているようなリアルさがあります。
そのエリザベスの足下には、ライオンの像が刻まれますが、これは、「百獣の王ライオンを踏みつけるほどに偉大な王の権威」を表しているのです。

そして、このエリザベスのそばには、皮肉なことにメアリーの石棺が。メアリーは、一度は別の場所に埋葬されたのですが、息子のジェームス6世がイングランド王(ジェームス1世)となったのち、息子の命でウェストミンスター寺院に移されるのです。
そのメアリーの足下にも、やはりライオンの像が施されています。が、こちらのライオンは、エリザベスのライオンと違って、誇らしげに立ち上がり、なおかつ鮮やかな真っ赤なおべべを着ているのです!

ふん、わたしのライオンの方が立派で、美しいわ!」と、あの世のメアリーが宣言したかどうかは知りませんが、まあ、死後にまで「わたしは負けてないわ」と虚勢を張らないといけないなんて、権力というものは、何ともややこしいことではありますね。

というような話をウェストミンスターの案内人から聞いていると、「イギリス人と日本人は、どことなく似ているな」と親近感を覚えるのです。

たとえば、クロムウェルの遺体を引きずり出して「処刑した」というのは、織田信長の「金色のドクロ」を彷彿とさせます(戦いで敗れた浅井久政・長政親子と朝倉義景のドクロに金箔を塗って披露した、という逸話です)。
そして、メアリーの「エリザベスよりも立派なライオン」は、信長の安土城をしのいだ、豊臣秀吉の大坂城(大阪城)を思い起こすのです。
 


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ウェストミンスター寺院だって、もとは聖エドワード懺悔王(St. Edward the Confessor)を祀る教会だったものを、ヘンリー7世(ヘンリー8世の父)が、その上に立派な聖堂をかぶせたものでしょう。ふと見上げると、堂内の石組みはヘンリーを表す「H」の形をしています。

より壮大なもの、華麗なもの、権力を誇示するものを築きたいという願いは、どこも同じなのです。

イギリスも日本も島国ですし、土と親しむ農耕牧畜が礎となっていますし、長い歴史を培う中で、どこかしら似通ったところが生まれたのでしょう。

一般的に、日本人はドイツ人と相性がいいと言われますが、イギリス人との方がウマが合うのではないかと、心密かに仮説を立ててみたのでした。

追記: ウェストミンスター寺院内は撮影禁止なので、聖エドワード懺悔王の祭壇の写真は、寺院発行のWestminster Abbey, A Souvenir Guideが出典となっております。

この聖堂心臓部ともいえる祭壇の前では、今年4月29日、ケンブリッジ公爵ウィリアム王子とキャサリン夫人が結婚証明書に署名をなさったのですが、ここは一般公開はなされていないものの、案内人がつくツアーに参加すると、ちゃっかりと中に入れてもらえます。
ツアーは英語のみのようではありますが、少しでも英語がおわかりになる方は、参加なさる価値は十分にあると思います。

歴史好きの方への蛇足: 世界史上でも珍しい女王のライバル対決となったイングランドのエリザベス1世とスコットランド女王メアリーですが、エリザベスは、父ヘンリー8世が次々と妃を代える中、母アン・ブーリンは首を切られ、「庶子」となって王位継承権を剥奪された時期もあったので、その立場は微妙だったのですね。

ちなみに、イギリス国教会というのは、カトリックだったヘンリー8世が最初の妃キャサリン・オヴ・アラゴンと離婚したいがために、ローマ教皇と訣別し樹立した教会ですね。ローマとは離れたわりに、その儀礼はカトリックを踏襲するものだったので、これが改革派ピューリタンを生む原動力ともなったのです。
現在、イギリスの王位継承は、先月の法改正で「長子相続」つまり性別に関わらず最初の子が相続というのが国是となりましたが、いまだにカトリック教徒は王にはなれません。

<番狂わせも旅のうち>


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旅には、ちょっとしたハプニングはつきものでして、きちんと計画を立てていても、思った通りには運ばないこともあるのです。

イギリスでは、ロンドンでレンタカーを借りてオックスフォードへ、そこからマナーハウス(領主の屋敷)で有名なコッツウォルズ地方、海沿いのリゾート地ブライトン、さらには大聖堂で名高いカンタベリーに足を運ぶという、かなり精力的な旅ではありました。


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というわけですので、それまでは順調だったものが、ストーンヘンジを経由してブライトンに着いてみると、ホテルが満室で泊まれないというハプニングに見舞われました。
もちろん、何ヶ月も前に予約していたのです。が、突然コンヴェンションの泊まり客が増えて、一般客が何組も突き出しを食らうという、前代未聞の不手際でした。

ストーンヘンジでは豪雨をうまく回避したと思ったら、この始末です。疲れ果てているのに、休めない。おまけに、靴底にほころびがあったとみえて足元はジメジメと、みじめな気分にもなってきます。
結局、日もすっかり落ちた夕刻、この老舗ホテルが紹介した小さなブティックホテルにチェックインできたのですが、もう街は観光できないし、ビーチや歴史を誇る埠頭なんて論外です。
 


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ブライトンは、ときに王族も宿泊したという由緒あるリゾート地なので、ちょっと残念ではありました。が、部屋の支度を待つ間、老舗ホテルご自慢の「アフタヌーンティー」を楽しませもらったり、ブティックホテルではワインをごちそうになったりと、決して悪い時間の過ごし方ではなかったのかもしれません。
ブティックホテルは機能的に改築されていて、老舗ホテルに泊まるよりも心地よい宿泊だったのかもしれません。

その翌日も、カンタベリーのホテルにはどうやっても車ではたどり着けずに、ちょっとしたパニック状態に陥ったのですが、そのたびに助けになるのは、やはりコミュニケーションでしょうか。
こちらが「困っている」と意思表示をすれば、必ず誰かが助けてくれるのです。それは、なにも言葉には限らないでしょう。困っている表情や身振り手振りだって、立派な万国共通の意思表示になると思うのです。

イギリス人は親切な方が多いので、こちらが声をかけさえすれば、誰もが懇切丁寧に対応してくれることでしょう。


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(ちなみに、カンタベリーは歴史的な迷路のような街なので、中心部には車が入れないようになっています。ですから、ここにホテルがある場合は、ちょっと離れた駐車場に車を停めて、テクテクと歩くことになります。ドイツのローテンブルグなどと同じく、城壁に囲まれた街はそんな場所が多いですが、それを知らないと、ちょっと戸惑うのです・・・)

そうそう、ロンドンでは、信じられないようなことがあったのでした。

レンタカーを借りて、慣れない車でロンドンの渋滞道路を運転する中、ふと手荷物がなくなっているのに気がつきました。
レンタカーオフィスに向かうタクシーで忘れたのか、その前に立ち寄った観光スポット「アビーロード」で置き忘れたのか、それともレンタカーオフィスに置いてきたのか、さっぱり覚えがありません。不慣れなイギリスで車を借りることに、ちょっとした恐怖心を抱いていたので、そちらに気を取られて、手荷物のことなんて頭からすっかりと消えてしまっていたのでした。
手荷物にはガイドブックが入っていたので、それがないと、翌日からの旅に支障が出てしまいます。
 


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ホテルに戻ってみると、部屋に置いていた携帯電話にメッセージが残されていて、それはレンタカーオフィスからでした。
閉店間際にタクシーの運転手がやって来て、「さっき乗せた客が忘れて行った」と荷物を運んで来たというのです。

運転手はオフィスが6時に閉まるのを承知していたので、それに間に合うようにと、渋滞の中、急いで運んで来てくれたことでしょう。
タクシーに忘れたとなると、絶対に出てこないよねと話していた矢先だったので、この運転手の方の親切に、もう大感激してしまったのでした。

いや、ロンドンっ子は親切じゃない!と思われる方もいらっしゃるかもしれませんが、それはもしかすると、「忙しすぎて対処する時間がない」と立ち去ってしまうからかもしれませんね。
 


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海沿いからカンタベリーに向かう道は、細く、曲がりくねった道のりでした。まさに昔の「巡礼の古道」を彷彿とさせるものですが、ここを走りながら実感したのでした。
もしも巡礼の旅人が立ち往生したならば、近隣の人たちは、迷わず一夜の宿を提供してあげたのだろう。中世の義賊「ロビン・フッド」伝説が生まれたのも、そんな人の温かみがあったからなのだろうと。

昔のように苦労をしなくてもいい時代に、わざわざお金や労力を払って旅をするのは、なにかしらハプニングに出会って、そのたびに誰かに助けてもらうためなのかもしれません。「大丈夫だよ」と笑顔を返してもらうことで、普段はお目にかかれない、非日常を体験できるからかもしれません。

旅がすべて計画通りだったら、それはもう旅とは言えないのでしょうね。

この欧州旅行で、イギリスは「ヨーロッパで一番好きな国」に昇格したのでした。できることなら、一年くらい住んでみたいと思うのです。

そして、これは、わたしが彼の地へ贈る、最高の賛辞なのです。

夏来 潤(なつき じゅん)



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