道真公と梅ヶ枝餅(うめがえもち)
<エッセイ その203>
前回は、福岡と深いご縁のある、菅原道真(すがわら みちざね)公をご紹介いたしました。
京の都から太宰府へと左遷され、わずか二年で生涯を閉じられた平安時代の学者、文人であり、政治家の方(承和12年(845年)〜延喜3年(903年))。
博多港から太宰府へ向かう途中、川面を水鏡として自身のやつれた姿に驚かれた場所には、のちに水鏡天神(すいきょうてんじん、別名:容見天神(すがたみてんじん))が創建されました。
江戸時代、福岡藩 初代藩主・黒田長政によって1キロほど川の下流に移されましたが、今でも繁華街の天神さまとして地元の人たちに親しまれています。
道真公は、幼いころから学問や詩歌に親しまれ、33歳で文章博士(もんじょうはかせ:教官の最高位、天皇の講師)となります。42歳のとき讃岐守(さぬきのかみ)として4年間赴任し、優れた国司(こくし)と領民にも親しまれたそう。
帰京後、宇多天皇によって蔵人頭(くろうどのとう)に任命され、朝廷の実務の責任者となり、55歳で右大臣に昇進。
その間、道真公の建議によって遣唐使が廃止され、日本独自の文化が興るきっかけともなり、ご自身も歴史書『日本三代実録(にほんさんだいじつろく)』の編纂に加わるなど、文化発展に大きく寄与されています。(参照:太宰府天満宮パンフレット『ごあんない』)
と、このように才能に満ちあふれ、それがゆえに他に疎まれ、太宰府での謹慎を申しつけられる顛末となりました。
二年後の延喜3年(903年)生涯を閉じられた道真公は、牛車に乗って配所(現・榎社)をあとにされます。間もなく車を引く牛が動かなくなったのが、天原山 安楽寺。ここが菩提寺となりました。
左遷を命じた醍醐天皇は、のちに道真公を生前の官職に戻され、さらに正歴4年(993年)一条天皇は「天満大自在天神(天神さま)」と崇められます。これが安楽寺の境内に天満宮が置かれ、太宰府天満宮となった起源となります。
天満宮の本殿は、墓所の上に造営されたそうですが、今は、124年ぶりの大改修のため、本殿手前に仮殿(かりどの)が建てられ、御祭神である道真公の御霊(みたま)はこちらに移されています。
まわりの森と融和するようにと、屋根の上に木々を配するモダンなデザインは、まさに必見のようですよ。
そんな太宰府といえば、有名なお菓子がありますね。そう、梅ヶ枝餅(うめがえもち)です。
もち米粉のお餅で小豆餡(あずきあん)を薄くくるみ、表面をこんがりと焼いた、香ばしい餅菓子。
ひと口噛むと、蜜のような上品な甘みが広がり、どの餡餅とも違う独特の味わいに、いっぺんにファンになってしまいます。たぶん、梅ヶ枝餅が嫌いという人は、あまりいないのではないでしょうか。
そこで、この梅ヶ枝餅の起源は何なのか? と探ってみると、やはり、道真公にたどりつくようです。
そしてこれには、前回ご紹介した、道真公のお世話をしていた老婆がかかわっているよう。
この老婆は、今は浄妙尼(じょうみょうに)として榎社境内の浄妙尼社に祀られる方で、食べるものも満足になく、体調を崩しがちだった道真公のお世話をされていました。
中でも、道真公がいたく気に入られたのが、老婆が差し上げたお餅。
そして、「梅ヶ枝」つまり「梅の枝」とは、一説によると、老婆が格子越しに枝にさした餅を道真公に差し上げたから、とのこと。けれども、道真公は、天拝山にもよく登られていたようなので、格子のある座敷牢に入っていたわけではないのでしょう。
ですから、梅を好み、よく花を愛でられる道真公をおなぐさめしようと、梅の枝を添えて餅を差し上げた、という方が自然ではないでしょうか。
梅がお好きだった道真公は、5歳のとき、このような歌を詠まれています。
うつくしや 紅の色なる 梅の花
あこが顔にも つけたくぞある
「あこ(阿呼)」とは道真公の幼名で、「僕のほっぺたにも(かわいい花を)くっ付けたくなるよ」と、美しい紅梅に愛着を感じているご様子。
平安時代は、「花」といえば、梅の花のこと。幼少のころより梅の花に心をなぐさめられた道真公は、どんな苦境にあっても、生涯花を愛でることを忘れなかったのでしょう。
ちなみに、のちに浄妙尼と呼ばれるようになった老婆は、「もろ尼御前」とも呼ばれているそう。
あるとき刺客に追われた道真公が逃げ込んだ麹屋(こうじや)のおばあさんで、前回もご紹介したように、道真公を木臼の中に隠し、上から腰巻き(下着)をかけて命をお救いした、と伝えられるお方。
この劇的な出会いからこっそりと道真公の配所を訪ねるようになり、なにやかやと世話をされました。ある日、麹の飯に梅の枝を添えたものを差し上げ、これが後の世に伝えられ梅ヶ枝餅となったそう。(参照:太宰府市文化ふれあい館ウェブサイト、『太宰府の伝説:梅ヶ枝餅とおばあさん』)
この「麹の飯」がどんなものかと気になるところですが、たぶん、今の「餅」というよりも、米に麹を混ぜて少し発酵させたものだったのではないでしょうか?
『天満宮縁起画伝(てんまんぐうえんぎがでん)』(泊守治筆「延寿王院本」、18世紀、太宰府天満宮所蔵)にも、盆の上に枝をいっぱいに敷いて、白い食べ物を差し伸べる白髪の老婆が描かれています。
この白い食べ物が、餅というよりも、ご飯のようにも見えるので、米麹でできた甘酒みたいに、ほんのりと甘いドロッとしたご飯だったのかもしれません。
甘酒には、「飲む点滴」といわれるほど、疲労回復効果があるとか。麹屋の「もろ尼御前」は、その米麹パワーをよくご存じだったのでしょう。
麹飯に梅の枝。京言葉の貴族と地元訛りの老婆は、言葉よりも「梅ヶ枝麹飯」で心がつながっていたのではないでしょうか。
今に伝えられる梅ヶ枝餅は、白い米粉のお餅という印象があります。
が、実は、緑色があるのです!
毎月25日だけに売られる、緑色の「よもぎ餅」バージョンです。
道真公は、旧暦6月25日が誕生日で、3月25日が命日。月命日でもある25日には、道真公がお好きだったとされる「よもぎ餅」に餡を入れた梅ヶ枝餅が売られるのです。
この日は、近隣の方々も普段より長い列を作って、緑色のお餅を求めます。みなさん、10個、20個とまとめて買って行かれるので、お店の方もてんてこ舞い。
毎月25日だけのスペシャルバージョンですので、機会がありましたら、ぜひご賞味あれ。
というわけで、梅ヶ枝餅のあれこれをご紹介いたしましたが、太宰府のお菓子というと、母を思い出すのです。
太宰府に『天山(てんざん)』という和菓子屋さんがあって、母と縁(えにし)があったのでした。
それは、「菓匠 天山」の文字を筆で書いてもらって、その書をお店の包装紙やしおり、お得意様にお配りする手ぬぐいにしたい、という母へのご依頼でした。
母もこの大役をお断りすることなく、達筆な「天山」を書き上げ、お店に飾る大きな額にもしたためてお渡ししたのでした。
わたしのおぼろげな記憶では、それまで母の書道教室に通っていた方が、太宰府天満宮の参道にある和菓子屋さんの方とご結婚された、という成り行きだったかと思います。
書道の大先生でもないのに、お店の顔ともなる店名を書いて欲しいと依頼されたことは、母にとっては誉(ほまれ)だったと思います。依頼された方も、母の元気のいい書と丁寧な指導に好意を持たれていたのでしょう。
母は小さな人でしたが、床に四つん這いになって大きな条幅に漢詩を書く様子は、まさに「男まさり」。実際、太宰府の店頭に掲げられた母の書を見て、「達筆ですねぇ、男性の方が書かれたのですか?」とおっしゃる方が何人もいらっしゃったと聞いています。
お店の手ぬぐいやしおりと、母が残した習作を比べてみると、同じ「天山」という文字でもかなり違い、母が選んだ最終作が一番だったのだろうと、わたしも思うのです。
残念ながら、今は代替わりとなったのか、お店の品揃えも変わっているようですし、店頭の「天山」の文字も母のものではありません。
天山とは、佐賀県のほぼ中央に位置し、小城市(おぎし)、唐津市、佐賀市、多久市(たくし)に広がる、1000メートル級のなだらかな尾根の山。
玄界灘から吹き付ける風は豊かな雨や雪をもたらし、古くから「水の神・天山(あまやま)」と崇められる山。山頂に隆起する蛇紋岩(じゃもんがん)を透過したミネラル豊富な水は、佐賀から福岡に広がる筑紫平野(つくしへいや)に豊かな実りを与えます。
そんな水の神さま「天山」を店名としたのは、筑紫平野の恵みをふんだんに使った銘菓を作られていたからなのでしょう。
もう30年ほど前のエピソードですが、今でも太宰府を訪れると、母を誇りに感じる大切な思い出となっています。