People tend to wilt(人の方が元気なくすよね)
日本は、まだ梅雨の真っただ中と思います。
一方、カリフォルニアは乾季なので、ほぼ一滴も雨が降りません。
雨季が終わる6月になると、カリフォルニアはとたんに真夏のような暑さになって、それが7月まで尾を引きます。
ひょっとしたら「真夏」のはずの8月よりも、6、7月の方が暑いかな? と感じるくらいです。
そして、この頃になると、カリフォルニアのバラも満開となります。
バラは、お日さまが大好きな植物(sun-loving plants)ですので、陽光を浴びると、嬉々として花を咲かせます。
それで、今日のお題は、こちら。バラと人間を比較した文章です。
Roses thrive in the hot sun, but people tend to wilt
暑い太陽の下でバラは元気モリモリだけれど、人は元気をなくすものです
ここでは、thrive と wilt という対照的な動詞が使われていますね。
Roses thrive(バラは元気良く育つ)
People wilt(人はぐったりと元気をなくす)
最初の thrive は、「元気良く育つ」とか「繁栄する」という自動詞。
二つ目の wilt は、「(草木が)しおれる」とか「(人が)弱る」という自動詞。
同じような意味では、wither という動詞もあって、「しぼむ」とか「生気を失う」「(愛情や希望が)衰える」といった意味合いになります。
ですから、上の文章は、「真夏の強い太陽の下では、バラは元気だけれど、逆に人は元気をなくしてしまうものです」と注意を促しているのです。
ちなみに、People tend to wilt に使われている wilt という動詞は、一般的には、人よりも植物に使うことが多いので、「人がしおれる」という表現がおかしくも感じられるのでした。
というわけで、ヘンテコリンな警告文ではありますが、こちらは、サンノゼにある市営バラ園(San Jose Municipal Rose Garden)がボランティアを募集していたときに見かけたもの。
バラが一斉に花を咲かせたあとに行う deadheading(デッドヘディング)という行事に参加しましょう! というお誘いでした。
いえ、deadheading と言っても、ほとんどの人は聞いたこともありませんが、動詞 deadhead は、ちゃんとした園芸用語だそうです。
文字通り、バラの「死んだ頭(dead head)」つまり「散ってしまった花」を取り去って、新しい花芽を育たせることだそうです。
この市営バラ園には、3500株ものバラが植わっているので、より大勢のボランティアの方々に参加してもらって、「散った頭」を刈り取りたいのですが、参加日時は、土曜日の午前8時から11時。
なぜそんなに早いのかと言えば、夏の太陽が暑すぎない午前中に済ませたいから。
それを見たわたしは、「早い!」とひるんでしまったのでした。
ここは、サンノゼ市北部の歴史的区域にある立派なバラ園。ときどき結婚式を挙げるカップルもいらっしゃるような「市の名所」となっています。
ですから、「たった一日限りのコミュニティーサービスの機会ですよ(”One Day” community service opportunity)」と言われると、参加しないことに罪悪感すら抱いてしまうのです。
この日は、ボランティアの人たちがバラの香りを楽しめるようにと、毎朝撒いている有機液体肥料(organic liquid fertilizer)は控えましょうと、そこまで心配りをしてくださったようですし・・・(有機肥料って、プンプン匂うので、せっかくのバラの香りが消えてしまったら台無しですものね!)。
そんなわけで、意外と日常会話にも花や動物たちが顔を出してくるのですが、こんな面白い表現もあるんですよ。
We can argue until the cows come home
牛が家に帰ってくるまで、ずっと討論できるんだけれどね
後ろの until the cows come home というのが慣用句で、「牛が家(牛舎)に帰ってくるまで」つまり「気がすむまでずっと」といった意味合いになります。
Until の代わりに till を使って、till the cows come home とも言います。
牧場に放たれた乳牛が、昼間はのんびりと草を食み、夜になると牛舎に戻ってくる、といった牧歌的な風景から生まれた言葉のようですが、転じて「それほど長く、気長に」という意味になりました。
そのあとには、「でも、そんなことはしないよ」といった否定的な文章が続く「反語」のようなものでしょうか。
We can argue until the cows come home, but I won’t change my mind
好きなだけずっと議論はできるけれど、でも、僕は意見を変えないよ
そう、このように、「いつまで話したって、意見は変えないよ」と否定的な意味で使われることが多いです。
まあ、「牛が帰ってくるまで」と言いながら、牛を見たことがない都会の若い世代も多いので、どちらかと言うと、熟年男性が学術的な説明をする場面で使うような慣用句かもしれません。
(そう、ティーンエージャーの女のコが使うような言葉ではありませんね!)
そして、もっとヘンテコリンな表現もあります。
I was running around like a chicken with its head cut off
わたしは、首を切られた鶏みたいに走り回っていたわ
そうなんです、like a chicken with its head cut off という部分が慣用句。
文字通り「首をチョキンと切られた鶏みたいに」という意味ですが、上の文章は、額面通りの意味にも、比喩的にも解釈できますね。
つまり、「(蜂に刺されて痛かったので)その辺を走り回っていた」という風にも取れるし、「とても忙しかったので、あちらこちらと走り回っていた」という意味にも取れます。
いつか、友人が「明日から旅に出るから、その準備で、首を切られた鶏みたいに走り回っていたわ」と言っていましたが、彼女は、この慣用句がお気に入りみたいでした。
鶏は首を切られても少しの間は動く、と聞いたことがありますが、たぶん、そのような実体験から生まれた表現なのでしょう。
生々しい光景であるがゆえに、同時に鋭い描写でもあるでしょうか。
それにしても、until the cows come home や like a chicken with its head cut off
どちらも変な響きですが、歴史を感じさせる表現でもありますよね。
そう、もともとヨーロッパ人がアメリカに流入した頃は、みなさん農業や酪農を営んでいたわけですから、アメリカの言葉にも、自然に密着した営みが受け継がれていてもおかしくはないですよね。
というわけで、ちょっと話題がそれてしまいましたが、今日は、夏のひとコマをご紹介いたしました。
Roses thrive in the hot sun, but people tend to wilt
バラは暑い太陽に元気をもらうけれど、人はしおれがちなんです