ラスヴェガスにて:カジノと海と砂漠
Vol. 84
さすがに、7月も終わりに近づくと、本格的な夏の到来です。7月4日の独立記念日の頃は、例年になく涼しいお天気でしたが、近頃は、連日熱波との闘いです。
こうなってくると、「暑い(hot)」なんて言葉じゃ表現しきれなくなって、「焼いている(baking)」とか、「料理している(cooking)」なんて単語が飛び交います。
The whole country is baking(国中、めちゃくちゃ暑いよ)とか、You must be cooking down there(そんな南で、あなた蒸し風呂状態でしょ)などと使います。
<クラップス談義>
さて、暑いわりに、シリコンバレーよりももっと暑い砂漠に行ってきました。ネヴァダ州のラスヴェガスです。
ここは、本当に砂漠の真ん中にできた街で、飛行機で上空を通ると、その不思議な地形がよくわかります。山を越えると、砂漠の中に、忽然と現れる街。中央にはピカピカのホテルが建ち並び、蜃気楼かと目を疑いたくなる光景。
最初にラスヴェガスを訪れたのは、20年以上も前のこと。その頃は、大型ホテルも数えるほどで、まわりは、ひたすら砂漠。
それを思うと、今の姿は、考えられないほどの変わりようです。住宅地も、どんどん巨大化しています。ラスヴェガスほど、人口増加の激しい街はないのです。
ラスヴェガスといえば、カジノ。ギャンブルをしない自分は、何のために行くのだろう?
そう思って出発したわりに、その晩、さっそくクラップス(craps)に挑戦!まあ、ご一緒した方々に勧められたからなんですけれどね。(写真は、クラップスではなく、スロットマシーンです。)
クラップス。このゲームは、ワイワイと楽しくやるゲーム。みんなで楕円のテーブルを囲み、ひとりが投げるサイコロの目に、一喜一憂する。力余って、サイコロが場外に飛び出すハプニングも。根が明るい西洋人には、クラップスは、よくマッチしているのですね。そういえば、かの有名な「007」など、映画にもよく出てくるような。
ルールは、わりと単純なのです。ひとりがサイコロふたつを同時に投げて、その目によって、勝ち負けが決まるというもの。自分がどこに賭けたかによって、勝ち負け引き分けが決まるので、ディーラーや他のプレーヤーとの対戦型ではありません。だから、ディーラーとも、まわりの人とも和気あいあいとした雰囲気が漂います。
楽しいわりに、ちょっとわかりにくいということで、苦手な方も多いと聞きます。そこで、僭越(せんえつ)ながら、ここでちょっとクラップスの基本をご説明させていただきたいと思います。
おおまかに言うと、ゲームは、フェーズ1とフェーズ2に分かれます。
まず、フェーズ1では、誰かがサイコロを振って、「場の目」を決めます。サイコロは常に2個使い、ふたつの目の合計で競います。目の可能性は、「2」から「12」ですね。
ここで、ゲームに参加したい人は、第1投が投げられる前に、パスライン(Pass Line)という外側の枠にチップを置き、参加の意思表示をします。
第1投が「7」か「11」なら、みんなその場で勝ち。配当をもらいます。「2」か「3」か「12」なら、その場で負け。賭け金は没収。それ以外の数字だと、その数が「場の目」となります。もし、「7」や「11」が出続けたら、他の数字が出るまで、フェーズ1は続きます(参加者は、その間ずっと勝ち続け)。
「場の目」が決まったところで、フェーズ2の始まりです。ディーラーは、「場の目」を表す「ポイント(Point)」という丸い目印を数字の上に置きます。
これ以降は、サイコロを投げて、1)「場の目」が出たら、パスラインと場の目に賭けた人の勝ち。そして、フェーズ1に戻る;2)「7」が出たら、フェーズ1とは逆に、みんな負け。ゲーム終了。フェーズ1に戻る;3)その他の目が出たら、その目に賭けていた人の勝ち。あとの人は影響なし。「場の目」か「7」が出るまで、フェーズ2は続く。サイコロは、「7」が出るまで、同じ人(シューター)が振り続ける。
要するに、フェーズ2では、「7」が出ると何もかもオジャンなので、みんな「7」が出ませんように!と願っているのです。だから、みんなの利害関係はぴったりと一致。参加者が一丸となって、テーブルに向かうのです。
まあ、厳密には、「7」が出て勝つような賭け方、ドントパス(Don’t Pass)などもありますが、これはみんなから白い目で見られる可能性があるので、避けたほうが無難なのですね。
ゲームの基本形はこんなものですが、それでは、賭け方は?
おおざっぱに言って、スタート時点のパスラインと、「6」と「8」に賭ければ、それで充分だそうです。
そして、補足的にカム(Come)。これは、第1投目を逃し、途中参加したい場合に使います。その次の目が、「7」か「11」なら、この人の勝ち。「2」か「3」か「12」なら負け。その他の数字なら、この人だけの「場の目」となり、ゲームは続行します(最初からパスラインにチップを置いた人でも、途中からカムに置くこともできます)。
あとは、パスラインのおまけとして、オッズ賭けというのがあります。追加して賭ける賭金のことです。これは配当がいいので、パスラインに置いたチップの2倍、3倍とたくさん賭けるのが一般的です。チップは、パスラインの枠のすぐ外に置きます(細かくいうと、オッズ賭けは、カムで置いたチップに追加することもできます)。
どうして、賭ける場所は、パスラインと「6」と「8」だけでいいのでしょうか?
まず、パスラインは、ゲームのスタート時点に置く場所ですね。フェーズ1、フェーズ2と進み、「場の目」か「7」が出るまで、パスラインのチップは置きっぱなしとなります。「場の目」が出ると、めでたく配当金を手にします。オッズ賭けなんかすると、労せず、配当金がたくさん入ってきます。
では、「6」と「8」は?これは、確率論から来ています。それ以外は、プレーヤーにとって、きわめて不利なのです。
サイコロをふたつ使って出る目は、「2」から「12」まで36通り。一番出易い目は、「7」。[1、6] [6、1] [2、5] [5、2] [3、4] [4、3]の6通りですね。確率は、実に、6分の1。一番出易いので、フェーズ2で「7」が出ると、負けとなるわけですね。
そして、次に出易いのが、「6」と「8」。それぞれ、5通りの出方があります。確率は36分の5。「7」が出る率は、「6」と「8」のそれぞれ1.2倍。たとえば、「4」と「10」に対する「7」の出現率は、2倍。それに比べると、「6」と「8」は、決して悪くはないのです。ある意味、「6」と「8」以外に賭けると、「7」が先に出そうで、危険きわまりないのですね。
というわけで、ざっくりと、おおざっぱにクラップスをご説明させてもらったわけですが、わたしはラスヴェガスで、まさに「ビギナーズラック」を経験してしまったのです。なんと、30分くらいサイコロを投げ続けていたのです。
6分の1の確率の「7」をうまく避け、おまけに「場の目」をバンバン出す。しかも、きわめて出難いゾロ目も織り交ぜながら、などという離れ業を披露したのです。みなさんから感謝されたのは、当然のこと。何度も拍手をいただきました。
ゾロ目に賭けることを、「ハードウェイ(Hard Ways)」などというのですが、「ここには賭けるな」というのが鉄則なんですね(注を参照)。でも、わたしが投げている間は、果敢にハードウェイに賭けている人もたくさんいたような。
初めてのクラップス体験。やっている間は、なにやらルールもわからず、いつの間にか終わってしまったという感じでした。けれども、こんなにワイワイと楽しいゲームなら、なにも毛嫌いすることもないかな、そう思い直した貴重な体験でした。
注:ハードウェイの賭け方は、[2、2] [3、3] [4、4] [5、5]の4通りあります。ゾロ目の出る確率は、それぞれ36分の1。出現率が低いわりに、ここは当たっても配当が悪いのです。儲けは、賭金の9倍しかありません。36倍とはいかないまでも、もうちょっとくれても良さそうなものなのに、そう思うので、多くの人はここには賭けません。
追記:これを書くにあたって、オンライン解説サイト「ミスターラスベガスのラスベガス大全・カジノ徹底解説」を参考にさせていただきました。「場の目」という訳語も、とてもわかり易いので、そのまま使わせていただきました。上記の記述に誤った箇所がありましたら、それはひとえに、筆者の理解不足によるものです。
それから、このときのラスヴェガス旅行の写真を、何枚か掲載しております。街の様子や、ラスヴェガス名物のショーの雰囲気などをご覧になれます。
<海・ざぶん>
このラスヴェガス旅行では、日本から来られた方々と現地で落ち合い、クラップスの手ほどきをしていただきました。おふた方とも、ハイテク企業を自ら築き上げたつわものなのです。
おふたりは、15年前、偶然ラスヴェガスで知り合い、以来、遊び友達を続けていらっしゃいます。クラップス・テーブルで出会ったくらいなので、お互いお遊びの勝負事が大好き。ラスヴェガスでクラップス同好会を楽しむだけでなく、日本でもゴルフに釣りに競馬と、行動をともにされることも多いとか。
おひとりは、最近、社長さんから会長さんに退かれ、もうおひと方は、会長職も退かれ、今は、財団理事長とNPO法人会長を務めていらっしゃいます。
この理事長さんには、今、情熱を傾けていらっしゃることがあります。子供たちに、水や海といったテーマを通し、自然や生命の大切さについて真剣に考えてもらいたい。次世代を担う子供たち。彼らが、これからの地球のあり方の鍵を握るのです。
4年前に、「海の祭典」の協賛事業として、小中学生から日本海をテーマに作文を募集したのがきっかけとなりました。これが、毎年の賞として発展していったのです。海が好きで、よく海に出かける理事長さん。思いついた名前は、「ざぶん賞」。波の「ザブン」と、文章の「ザ・文」をかけています。
初年度は、応募作品は400ほどでしたが、毎年、どんどん増えています。今では、海や水に関わることであれば、どんな視点の作品でもいいし、表現方法も、作文、童話、詩、手紙など、自由に選択できるようになっています。子供たちが、自分で考え、自分の言葉で表現するのなら、形にはこだわりません。
たとえば、こんな作品があります。2004年に「ざぶん環境賞」を受賞した、椎野彩夏さん(当時6年生)の作品です。
国語の授業で、先生が「わき水」について考えてみようというので、インターネットで調べてみると、京都の豆腐屋の話が書かれていた。京都の豆腐屋は、井戸水と良質の大豆が命。井戸水がなければ、この仕事は終わり。ところが、ここ数十年、京都ではわき水が涸れる被害が相次いでいる。水が涸れるのは、人災。京都の人たちは、対策を考えようと、調査を始めている。後悔する前に。
大人顔負けのしっかりした視点で、冷静に現状を捉えた作品で、わたしも思わず引き込まれてしまったほどでした。
水。意外と見落としがちなのが、資源としての水不足。これは、単に、ある年に水の量が足りないという話ではありません。井戸水、わき水など、地中の水が枯渇してきているということです。今まで農業が盛んだったところが、どんどん収穫が減ってきている。以前は深い泉だったところが、底が見えるほどに乾き、飲み水にも困り始める。
人の営みは、海までも枯渇させてしまいます。中央アジア・ウズベキスタンのアラール海。過去40年で、海は4割の面積に収縮し、かつて漁港で栄えた街は、水辺から140キロも内陸のゴーストタウンに。海に流れ込むアム・ダリア川の水が、綿花栽培のために吸い取られてしまったのです。
今の時代は、石油で殺し合いが起きる世の中。これからは、石油ではなく、水で殺し合いが起きるとも言われています。
そして、水の質。これは、永遠の人類の課題ともいえるもの。いまだに、世界中で約2割の人は、不純物や寄生虫やバクテリアいっぱいの水を飲んでいるのです。浄水手段が不十分で、多くの場合、飲み水が排泄物で汚染されているのです。
たとえば、水にO 157。これを飲んだ人は、病気になります。とくに、子供にとっては害も大きく、激しい下痢で死に至る場合もあります。後進国では、下痢はとてもシリアスなものです。毎年、2百万近くの子供たちが命を落としているのです。
「水がなければ、人は生きられない。しかも、きれいな水。きれいな水を確保することは、健康の第一歩」。これは、わたしの大学院時代の恩師の口癖でした。
この「ざぶん賞」には、大賞、環境賞、文化賞、特別賞、奨励賞と、いろんな賞が設けられています。そして、入賞した作品には、素敵な特典もついています。アーティストの挿絵がついたり、工芸作家の額や小箱で飾られたりと、美術品となって返ってくるのです。この心憎い計らいは、一生の思い出となるでしょう。 賞に漏れても、がっくりくることはありません。自然について真剣に考えているごほうびとして、「ざぶん大使認定証」を送ってもらえます。今後も、「ざぶん大使」として、誇りを持って活動していくようにと。
2006年度の締め切りは、9月11日です。海や自然が大好きで、文章に自信のある小中学生には、ぜひトライしてほしいものです!
<砂漠>
ラスヴェガスからシリコンバレーに戻る日、空港に向かうタクシーの運転手が、「今日は、114度(摂氏46度)もあるよ」と言っていました。たしかに、熱風で鼻孔が痛いのです。
サンノゼ空港に着いたとき、カリフォルニアに住んでいて、ほんとによかったと思ったものでした。
ところが、その翌日からどんどん気温が上がり始め、もう10日間ほど、摂氏40度前後の日々が続いています。「こんなことは今までなかった」と、サンノゼに57年間住むおばあちゃんは言います。
店では、エアコンや扇風機や氷が売り切れ、コミュニティセンターも普段よりも長く門戸を開いています。折悪しく停電にぶつかった住民は、安眠を得るため、安いモーテルに泊まったりしています。
カリフォルニア全体でも、連日の熱波が悪影響を及ぼし、これまでに60人ほどが亡くなったといいます。
しょせん、カリフォルニアも、砂漠に似た気候なのです。(写真は、シリコンバレー南東に位置するサンホアキン・バレーの農地です。灌漑施設を越えると、乾燥した大地が広がります。)
先日、我が家のあたりでも摂氏45度に達したのですが、さすがに40度を越えると、これは健康に関わるなと、自然と体を気遣うメカニズムが働きます。
必要以上に外に出ないとか、ちゃんと水を補給するとか、無理せずにエアコンを使うとか。こういうときは、電力不足に陥り易いので、心ある消費者としては節約してあげようと思うのですが、なんといっても、こっちの体の方が大事なのです。
ラスヴェガスで、砂漠の猛暑を体験したとき、ある話を何度も思い出していました。メキシコのある若者の話です。
彼はマティアスといいます。メキシコ南部のオアハカ州に生まれ、サポテカ族の血を引きます。 ある年の5月、マティアスはアメリカ国境近くの街に向かい、そこから歩いてアメリカ国内に入ることにしました。カリフォルニアで働こうと思って。
ご存じのとおり、メキシコからアメリカへは、不法に渡って来る労働者が後を絶ちません。正規の手続きでは、アメリカ政府の許可が下りないか、もしくは、何年も待つ必要があるためです。
そのわりに、アメリカ国内には、仕事はいくらでもあります。大規模な農地で野菜や果物を収穫したり、どんどん広がる宅地に家を建てたり。多くは、辛く、単純で、低賃金の仕事です。それでも、本国よりは、まとまった金になります。
昨年、ハリケーン・カトリーナで大打撃を受けたニューオーリンズでも、黒人系の住民が去ったあとは、ラテン系労働者が流入しています。街は、さまざまな有害物質で覆われ、とってもアメリカ国民がクリーンアップに携わるわけにはいかないからです。
マティアスの村でも、3月から9月までは、ほとんどの男たちがノルテ(北、すなわちアメリカ)で働きます。多くは、カリフォルニアで収穫の仕事に就くのです。村には、女たちが残り、子供の面倒を看ます。食料は自給自足ですが、住宅、衣服、教育のために稼がなければなりません。マティアスにも、妻とふたりの男の子がいるのです。
昔は、ノルテへ行くのは簡単でした。カリフォルニア州サンディエゴのあたりが、恰好の越境の地だったのです。ひとたびメキシコ・ティワナに入れば、それこそ、ひとっ飛びで、国境を越えられたのです(「ジャンプ」と呼ばれていたくらいです)。そこからバスやタクシーに乗って、どこへでも自由に雲隠れできました。
ところが、1994年のアメリカ政府の政策で、状況は一転します。「ゲートキーパー作戦」と呼ばれる、国境警備強化の政策です。いままで、簡単に通過できた地点はフェンスや警備隊で固められ、越境地点はだんだん東へ移動していきました。
東、つまり、砂漠地帯。現在、メキシコからの移入者は、多くがアリゾナ南西のソノラン砂漠を越えてやって来ます。
5月、マティアスは19歳の弟と、いとこと3人で、アリゾナの砂漠を越えるべく、歩き始めました。弟にとっては初めての体験でしたが、29歳のマティアスは、もう何度も渡っています。
砂漠へは、「コヨーテ」と呼ばれる道案内を立て、ひとり2ガロン(約7リットル)の水を持って向かいます。日中は暑すぎるので、歩くのは日が沈んでから昇るまで。朝の5時をまわると、木陰を探し、一日中じっとしています。
ところが、途中、マティアスは痙攣を起こし始め、意識も朦朧としてきます。水ももう残っていません。「もうちょっとだから、がんばって、お兄ちゃん」と呼びかける弟に、「何言ってるんだよ、僕たちは家にいるじゃないか」と、混濁した意識で返事をします。それでも、マティアスを抱え、ふたりは必死で歩き続けます。
街へ通じるハイウェイにようやく近づいたとき、マティアスは息を引き取りました。ハイウェイからわずか30メートルの地点で。3人が灼熱の中で歩いた距離は、50キロを越えていたそうです。
いつもは、暑くなる前、4月には国境を越えていました。ところが、その直前の冬、父親を助けようと、新しく挑戦したトウガラシが霜で全滅し、「コヨーテ」に支払う金をなかなか工面できなかったのです。
一周忌の儀式を盛大に終えたものの、家族はマティアスがまだ砂漠にさまよっていると信じています。母親は、マティアスが夢に現れ、こう言うのだといいます。「ママ、喉が渇いたよ。水はないかい」と。
アメリカ政府が国境を強化する反面、越境者の通り道に、水の容器や小型タンクを置く市民団体もあります。毎年、400人ほどが越境の途中で命を落とすといわれているのです。命を落とさないまでも、力尽き、市民団体のボランティアに警備隊への通報を請う人もいるそうです。そのほとんどは、メキシコか、メキシコを経由し中米諸国から来た人たちです。
国境のあちら側とこちら側。あちら側に生まれた人は、もっとましな生活を望み、こちら側に生まれた人は、今の生活を守ろうとする。たった一本の境界線が、人生を大きく変えてしまうのです。
追記:マティアスの話は、公共放送WGBHボストン制作"Frontier World, Mexico: A Death in the Desert"を参考にさせていただきました。
夏来 潤(なつき じゅん)