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判決のインパクト: アップル、人種問題、同性結婚
Vol. 168
判決のインパクト: アップル、人種問題、同性結婚
アメリカに暮らしていると、毎日々々、あぁでもない、こうでもないと、裁判の話題が聞こえてきます。
たぶん、世の中の誰もがアメリカは裁判の多い国だと認識しているはずですが、そこは「法治国家」の宿命。裁判の判決は、好むと好まざるとにかかわらず市民生活に大きな影響を与えます。
そんなわけで、今月は、テクノロジー業界と社会問題と、こだわりを感じた判決を3つご紹介いたしましょう。
<アップル破れる!>
まずは、先月号の続報で「電子書籍価格カルテル裁判」のお話です。そう、アップルが出版大手5社とともに電子書籍(e-books)の価格をつり上げようと画策した、と司法省に訴えられた裁判(United States v. Apple Inc.)です。
すでにお耳に入っていることと思いますが、7月10日、マンハッタンの連邦地方裁判所では、デニース・コート判事が「アップルは価格カルテルの中心的存在であった」との判決を下しています。
アップルの画策のおかげで、電子書籍の価格はときに5割も上がっていて、「このような価格高騰は、通常の市場の働きではなく、アップルが加担した策略によるものである」と。
また、そもそもアップルと出版5社が対決しようとしていた電子書籍の第一人者アマゾン(Amazon.com)に関しては、「たとえ他社(アマゾン)が(ベストセラーを原価割れで販売するなど)法に触れるような、フェアでない行為を働いていたにしても、それは自分(アップル)が法を犯しても良い理由にはならない」としています。
当然のことながら、アップル側は「我が社は電子書籍の価格操作など画策していないし、このようないわれの無い告発とは闘い続ける」と、上告する意思を明らかにしています。
が、この種の事例では、控訴裁判所は、膨大な裁判証拠を検討した地方裁判所の判決に従うことが多く、アップルの「価格カルテル違反」の判決がひっくり返る可能性は低いということです。
そして、電子書籍分野で「アップルは違法」との判決が確定すれば、音楽業界や映画業界と、アップルの他の商売にも翳りが出てくるのではないか、と懸念の声も上がっています。
コート判事の判決に関しては、「ちょっとアップルに厳しいんじゃない?」との見方が強いようですが、個人的にはこれに同感ですし、これが法に反するなら、「商売人はひらめきを持ってはいけない」と言われているようにも感じるのです。
実は、アマゾンだって、商売を始めた頃は妙な「実験」をしていた時期があって、「人によってランダム(無作為)に価格付けをする」作戦を試していたときがあったのです。
たとえば、あの人には98セント、この人には1ドル2セントと、定価1ドルから微妙に上下に振る値付けのやり方。
わたし自身は「そんなのってフェアじゃない!」と、それから何年もひとりで非買運動を続けていたのですが、アマゾンは間もなく消費者の批判に屈して、この実験を止めています。
もうちょっと続けていたら、公正取引委員会あたりから問題視されていたかもしれませんが、考えみれば、これも「商売人のひらめき」だったのでしょう。奇特ではありますが、「話題性で人を引き込む」新しいやり方。
160ページにわたるコート判事の判決文書に目を通すと、アップルの価格カルテル裁判の焦点は、ただひとつ。
アップルが「エージェンシーモデル」など新手の策を考え出したことが問題なのではなく、アップルが出版大手と一緒になって価格操作(a price-fixing scheme)を行ったかどうかが争点なのであって、裁判の結果、アップルは価格操作に加担し法に違反したことは明白である、との結論に至ったようです。
この判決で論争の片がついたわけではありませんが、いずれにしても、国が裁判を起こす以上、市民生活に何かしらメリットのある結果を出してもらいたいと思うのです。
<人種問題・21世紀バージョン>
7月13日の土曜日。この日、フロリダで下された判決が、全米に大きな波紋を広げました。
ディズニーワールドのあるオーランドの郊外、サンフォードという街で起きた殺人事件の裁判で、17歳の高校生トレイヴォン・マーティンくんを射殺したジョージ・ズィマーマン被告が「無罪放免(not guilty)」となった判決です。
事件現場は、ゲートに囲まれた閑静な住宅地。ここに住むズィマーマン被告が、車を運転していて「近所で怪しい人物を見かけた」と警察に通報。「すぐに警官を向かわせるから何もするな」と言われたものの、近所の自警団にボランティアで加わる被告は、銃を持ってトレイヴォンくんを付け始めます。
一方、トレイヴォンくんは、ここに住む父親のフィアンセ宅に滞在中で、夜のお散歩に出ていた模様。ズィマーマン被告に付けられているのに気づき、引き返して被告とつかみ合いになったのち、被告が腰のホルスターから抜いた銃で射殺された、というのが事件の概要のようです(これは一般的に伝えられている概要で、裁判記録を読んだわけではありません。 Photo by Allison Joyce, Getty Images)。
それで、無罪の理由は、正当防衛(self-defense)。
多くの州では、正当防衛が適用するのは自宅のみで、しかも相手の暴力を回避しようと努めたことが認められなければなりません。
ところが、フロリダには「Stand Your Ground law」という正当防衛のウルトラバージョンがあって、公共の場でも正当防衛は適用するし、相手を回避しようとした確たる証拠がなくても、正当防衛が認められるんだそうです(“自分の領地を守る法”といった名称ですが、当然ながら「領地」となる自宅に加えて、隣近所も「守るべき領地」となるようです。領地に相手が踏み込んできたら、(銃で)攻めても良いと・・・)。
というわけで、ほとんど胸に銃口がくっつくほどの至近距離からトレイヴォンくんを射殺した被告は、6人の陪審員の判決で、無罪放免。
ここで全米のあちらこちらでは大騒ぎとなりました。「もしもこれが逆のケースだったら?」
撃たれた側が白人のティーンエージャーで、撃った側が黒人男性だったら、絶対に無罪にはならなかったでしょう?
だって、お隣のジョージア州アトランタでは、闘犬に加わった動物虐待の罪で、プロフットボール・ファルコンズのクウォーターバック、マイケル・ヴィック選手が2年近くも刑務所に入ったでしょう?
犬を虐待した罪でスター選手が刑務所に入るなら、どうして人を殺して無罪になるの? どうしてそんな理不尽なことがまかり通るの? と。(Photo by Carolyn Cole, Los Angels Times)
わたしもフロリダに2年半暮らしたことがありますが、フロリダという場所は、実に不思議なところでしょうか。
まず、多くの高級住宅は、年に半分、冬の間しか人が住んでいないのです。どうしてって、ニューヨークやニュージャージーあたりのお金持ちのリタイア層が「避寒」にやって来る場所なので、亜熱帯の夏の間は、誰もいない家が多い。
ということは、どうしても泥棒なんかの犯罪が起きやすい環境にあるということで、犯罪に対抗しようと「自警団(vigilante)」が組織されやすいし、銃を持って武装する市民も増えてくるということでしょう。
そして、フロリダは南部の州ですから、いまだに人種的偏見の強い場所であることは否定できないと思います。
だからこそ、凶器も持たないティーンエージャーを見かけただけで、「怪しい人物」だと警察に通報した。肌が黒っぽくて、スウェットのフードをかぶっていたというだけで。
これはもう「人種的プロファイリング(racial profiling)」の最たる例でしょうか。肌の色や見かけだけで、人を「こうだ」と決めつけること(ですから、アメリカでは「プロファイリング」という言葉には否定的な含蓄があり、見かけだけで職務質問を行う警察のプロファイリングにも批判が集中します)。
これは、あくまでも20年前の個人的な体験ですが、それまでカリフォルニアにしか住んだことのなかったわたしは、フロリダで妙な経験をしました。
ある日、初対面の隣人に、こう言われたのです。「向こう隣の隣人は、あなたたちが白人じゃないから、あなたたちが嫌いなのよ。だから、話もしたくないみたい。でも、わたしは違うわよ。そんなことは全然思ってないから・・・」(と言いながら、この方に会うことも二度とありませんでした)。
まあ、トレイヴォンくんのケースでは、撃った側が「混血」だったので、話がややこしくなっています。
ズィマーマン被告の父親は白人で、母親はペルー生まれのヒスパニックなので、「white Hispanic(白人のヒスパニック)」という分類が報道の前面に押し出されたのでした。
被告の家族も、「ジョージはヒスパニックであり、決して人種差別などする人間じゃない」と、非白人性(nonwhite)を強調されていたとか・・・。
無罪判決の一週間後、ホワイトハウスのプレスルームに突然姿を現したオバマ大統領は、記者のみんなを驚かせた「いたずらっ子の笑み」もすぐに消し去り、苦渋に満ちた面持ちでこう語っています。(Photo by Susan Walsh, AP)
「最初にトレイヴォン・マーティンが撃たれたって聞いたとき、僕は『彼が自分の息子だとしてもおかしくない』と思ったよ。言い換えれば、35年前の自分だったとしてもおかしくないということ。どうしてだろうって考えてみると、アフリカンアメリカン(黒人)コミュニティーは、この出来事に対して大きな痛み(pain)を感じているから。アフリカンアメリカン・コミュニティーは、自分たちの今までの経験や決して消え失せない歴史(a history that doesn’t go away)を通してこの出来事を見つめていることを、しっかりと理解すべきだと思うんだ。」
これに続き、自身の経験も語っています。
「この国のアフリカンアメリカンの男性で、デパートでショッピングをしていて店員に付けられた経験の無い人なんて、ほとんどいないだろう。僕だってそうさ。道を歩いていて、車のロックがカチッとかかるのを聞いたことのない人なんて、ほとんどいないだろう。少なくとも上院議員になる前は、僕にだって経験があるよ。エレベーターに乗って、一緒に乗っている女性が怖がってバッグをギュッと握りしめ、自分の階で降りるまで息を殺しているのを経験したことのない人なんて、ほとんどいないだろう。そんなことは頻繁に起きることなんだ。(後略)」
普段は「人種」について語らない大統領が心の底から言葉を絞り出したとき、人々は黙って耳を傾け、それについて考える義務があるのでしょう。
<最高裁のパワフルな判決>
というわけで、裁判の判決は、ときに人々を暗い気持ちにおとしいれるものではありますが、まあ、生きていれば、いいこともありますよ!
わたしにとって、その代表例は、6月26日に下された連邦最高裁判所の判決でした。
言うまでもなく、連邦最高裁判所(the Supreme Court of the United States)は国のトップにある裁判所で、各州でケリがつかない事例を9人の判事で裁定するところです。
ときに、立法(the legislative power)行政(the executive power)司法(the judicial power)の「三権」の中で一番パワフルであると言われるほど、人々の生活にも深い影響を与えるところです。
で、「いいこと」というのは、この日の判決のおかげで、事実上カリフォルニア州で同性結婚(same-sex marriage)が再開できるようになったこと。
なぜいいのかって、カリフォルニアでは、同性カップルは苦しい紆余曲折を経験してきたから。
以前も、2004年2月号(最終話「ペンギンと人間、そして結婚」)でご紹介したことがありますが、アメリカで最初に同性結婚を行ったのは、サンフランシスコ市(郡)でした。郡長も兼ねるギャヴィン・ニューサム市長(現・州副知事)が、ヴァレンタインデーをはさむ5日間で2,500組近くの同性カップルに結婚証明書を発行したのでした。
そのときは、カリフォルニア州法では「結婚は男と女の間のみ」と定められていましたので、結果的に4,000組がいただいた結婚証明書は無効とされています。
が、このサンフランシスコの同性結婚が引き金となり、2008年5月、州最高裁は「同性結婚を認めないのは、平等を唱えた州憲法に反する」と、州法を違法と判断しました。これを機に、推定18,000組が結婚しています。
(写真は、2008年6月サンフランシスコ市庁舎で開かれた市長主催のお祝い。右隣のレディーたちは、55年連れ添った活動家カップル、フィリス・ライオンさんとデル・マーティンさん(この二月後に他界))
が、ここでおもしろくないのは、同性結婚に反対する宗教家たち。「同性で結婚するとは、神をも恐れぬ、おぞましき行為」と、2008年11月、同性結婚を禁ずる住民提案(Proposition 8)を州の有権者につきつけ、これが僅差で通り、州の法律となるのです。
で、その後も紆余曲折があり、今回の連邦最高裁判所の裁判(Hollingsworth v. Perry)にもつれ込むのです。
訴えた側は、「3年前に連邦地方裁判所は『米国憲法にのっとり同性カップルには結婚する権利がある』とProp 8をけちらしたが、Prop 8を認めた州民の民意はどうなるのか?」と、あくまでもProp 8を擁護する構えを崩しません。
これに対して、連邦最高裁の判決は、「カリフォルニアの同性結婚を認めるぞ」という肯定的なものではなく、「州法となったProp 8を、州知事も州司法長官も擁護しようとしていないのに、関心があるというだけで、何の不利益も被っていない原告が裁判を起こす立場にはない」という消極的なものでした。
でも、消極的であろうと何であろうと、これで同性カップルの頭上にたれ込めていたProp 8の暗雲は消え去り、晴れて「結婚(marriage)」へとゴールインできることになりました。
判決後、超特急で「同性結婚再開!」へ向けて動きが高まり、2日後の6月28日には、サンフランシスコの連邦第9巡回控訴裁判所が「同性結婚の執行停止」を解除し、この金曜日の午後から土日にかけて、約500組が結婚しています。
(こちらは、被告として裁判に名を連ねたクリスティン・ペリーさん(右)とサンディー・スティアさんの結婚式 Photo by Jane Tyska, San Jose Mercury News)
まあ、リベラルなカリフォルニアですから、同性カップルは「民事婚(civil union)」として「結婚」と同じ権利を与えられています。が、国のレベルになると、「民事婚」では納税や相続の際の配偶者の権利が認められていません。ですから、みなさん「結婚」には大きなこだわりがあるのですね。
ちなみに、同じ日に連邦最高裁で下された判決(United States v. Windsor)では、カナダで結婚したニューヨーク州在住の女性カップルに対して、亡くなったパートナーの遺産相続が認められています。「国は相続税を払い戻せ」と。
振り返ってみると、Prop 8が住民投票で通ったときには、悔し涙を流したものでした。
いえ、自分に関係があるか無いかは、まったく関係がありません。一旦、「結婚」という権利を与えておいて、それを剥奪するとは、そのひねくれた根性が理解できないではありませんか。
同性結婚に反対する宗教家たちは、口では「神は差別しない(God doesn’t discriminate)」だの「天は人の上に人をつくらず(All men are created equal)」と唱えながら、自分たちが、愚かな人間が、「人の下に人をつくろうとしている」ように感じるのです。
人は、誰であっても、人間らしく生きる「尊厳(dignity)」が与えられるべきであって、結婚・家族というのは、そのもっとも根底にあるものではないでしょうか?
そして、今となっては、カリフォルニアでProp 8みたいな住民提案が可決されることはないでしょう。
夏来 潤(なつき じゅん)