卯月:桜を愛でる

2006年4月24日

Vol. 81

卯月:桜を愛でる


 またまた、日本に行ってきました。今回は、京都を旅しましたので、この旅のことなどをのんびりと綴らせていただきます。どうぞ、ごゆるりと。


<桜>
 よくまあ日本に里帰りするものだと感心なさっている方もいるかと思いますが、何を隠そう、今回の日本訪問には、「桜を愛でる」という大事な目的があったのです。粋な日本人は、この時期、桜を楽しまなくてはいけません。
 というわけで、東京でも、旅先の京都でも、いろんな桜を充分に楽しませていただきました。

 桜といえば、まず頭に浮かぶのが、ソメイヨシノです。日本全国どの学校に行っても、校庭に植わっているのは間違いなくこの品種ですね。入学式とソメイヨシノは、切っても切れない関係にあります。
 江戸の終わりから明治の初めにかけて、染井村(現在の東京・豊島区)の植木職人がオオシマザクラとエドヒガンを掛け合わせてつくったのが、ソメイヨシノだそうです。染井村から来た「吉野桜」というネーミングから、「染井吉野」として知られるようになったようです。桜の名所でもある染井霊園では、その名に恥じないほど、見事に咲いていました。

 お恥ずかしい話、今まで桜には、ソメイヨシノの一重と、シリコンバレーの自宅に咲く八重(「関山」という品種)くらいしか認識がありませんでした。しかし、京都に行って、それは大きな誤解であることに気付きました。
 そもそも、京の都では、桜といえば染井吉野なんかではないらしいです。そんな百年やそこらの歴史の浅いものではなく、古来愛でられてきた山桜や彼岸桜を指すのだそうです。そう、日本に自生する桜は、主に山桜、彼岸桜、そして伊豆大島が原産の大島桜に大別されるのです。関西では、大島桜は生えないとか。
 山桜は、遠く平安時代から馴染みの深い奈良県吉野山や、京都御所・紫宸殿の左近の桜に代表されるものです。京都の街中でよく見かける彼岸系の枝垂れ桜(しだれざくら)も、樹齢3百年というのはザラだそうです(写真は、4月5日から5日間一般公開された、京都御所・紫宸殿の左近の桜です。残念ながら、満開とはいきませんでした)。

 京都に桜を見に行くにあたって、珍しく下調べなどしてみたのですが、その中で、実に素晴らしい記述に出会いました。「日経おとなのOFF」なる雑誌のインタビュー記事だったのですが、お相手の第16代・佐野藤右衛門氏の語りに魅了されてしまいました。
 佐野藤右衛門とは、京都で代々世襲制の造園家のことですが、第16代藤右衛門さんは、日本全国の桜を守る「桜守(さくらもり)」としても有名な方なのです。

 まず、京に見られる山桜や彼岸桜の日本古来の桜は、幹の姿、花の色・形・大きさと、一本ごとの個性を持つ。一方、育ちやすく、人間に都合のよい“便利な桜”として植樹された染井吉野は、クローンのように容姿も同じだし、一斉に花を咲かせ、散ってしまう。
 ひと言で京都の桜といっても、西と東では、微妙に種類が異なる。地質が違うから。風化花崗岩の東側には彼岸系の桜が多く、チャート質の西側では山桜系が中心。こんなことを知っているだけで、京都の花見は面白くなる。でも、桜の種類を覚えるのは、やめたほうがいい。きりがない。山桜、彼岸桜、大島桜、この基本種だけでいい。
 そして、桜の上手な愛で方は、幹のそばまで寄って、上を向いて眺めること。花は下向きに咲くから。「今年もよう咲いてくれたなあ」と語りかけ、幹を撫でるのがよい。あちこちの桜に浮気せず、毎年訪れる木を探すこと。(月刊「日経おとなのOFF」2006年4月号より)  
 ちょっと耳が痛いようですが、「花見で絶対あかんのは、ビニールシートを敷いた宴会」だそうです。桜が呼吸できずに苦しがるから。もっといけないのは、カラオケ。音の振動が幹に伝わって、花を早く散らすから。桜は、とってもデリケートな生き物なのです。
 筆者自身、日本は初めてというアメリカ人に桜を見せてびっくり。幹をゆすって花びらを散らすのかと聞いてくるし、いきなり花をもいで、香りをかごうとするのです。「あら、においはないのねぇ」などとのたまいます。まったく愛で方がなってない!

 そして、藤右衛門さんがあちらこちらで力説するに、女性にはすべて「姥桜(うばざくら)」になってほしいとのこと。女性差別と誤解されるような発言ではありますが、実は、長い年月を重ねたものにこそ、美しい花が咲くという意味なのです。 若い木には“色気”はあるけれど、“色香”はない。「皺くちゃになった幹の姥桜は、はっとするほど美しい花をつける」のだそうです。

 その藤右衛門さんのご自宅の庭に、知らないうちに連れて行かれました。嵐山で偶然ひろったタクシーの運転手が、京都案内のプロの方で、どうせ街に戻るなら、すごい桜を見せましょうと寄ってくれたのです。
 右京区の広澤池近くにある、藁葺きで趣のあるご自宅ですが、庭には、いろんな品種の桜がずらりと植えられています。「種類なんか覚えんでよろし」との仰せに従い、名前なんかまったく気にしていませんでしたが、「台湾寒緋桜(たいわんかんひざくら)」とか「手弱女(たおやめ)」というのがあったような気がします。

   中には、花をまったくつけていない木もありましたが、白っぽいものや、薄いピンクのものは、今まさに、満開というところでした。
 習った通りに、木の真下から見上げると、花びらが全部顔に降ってきそうです。優雅な花を一気に咲かせる勢いの中に、可憐で、華奢な一面もあり、その美しさは、この世のものとは思えませんでした。この庭で一日を過ごせと言われても、何の苦にもならなかったでしょう。
 命尽きたら、花の下で眠りたい、そういった願いもよくわかるような気がします。

 桜の古木には妖気があるともいわれます。桜という植物は、実は、あちらの世界に近い生き物なのかもしれませんね。


<舞妓さん>
 舞妓(まいこ)さんを見ました。先斗町(ぽんとちょう)の通りには、ひと目見ようと大勢の見物人が集まり、まるでスター並みの扱いです。  舞妓さんの通り道には、外人さんもたくさん集まります。京都といえば、古い街並みと舞妓さん、これはどこの国の人にも徹底しているようです。最近のハリウッド映画の影響もあるのでしょうか。

 運よく、「都をどり」の開催期間だったので、劇場でも間近に舞妓さんを拝見できました。ほとんど出ずっぱりの方もいて、踊りを覚えるのはさぞかし大変だろうと、いらぬ心配をしてしまいました。素人には、どの踊りも同じように見えるものですから、かえって覚えにくかろうと思うのです。


 一時間の上演でしたが、演目も豊富で、まったく飽きることがありません。浦島太郎や源氏物語をかいつまんだ出し物が、若手の舞妓さんの踊りの合間に披露されます。舞台も小道具も、さすがに華麗なもので、これぞ芸人という域に達しています。

 こんなエピソードがあります。  

 「都をどり」の劇場には、足繁く通うお客様もいらっしゃるそうです。不思議と、舞台の上からもお客様の顔がよく見えるらしく、知った顔を見つけたときは、とても嬉しいとか。舞台からは笑ったり、手を振ったりできないので、目が合うと、微妙に表情を変えるなどという心憎い技があるそうな。
 ひと月の長丁場が千秋楽に近づくと、ベテランのお客様は、ちょっと疲れた舞妓さんたちを笑わせにやってくるそうです。最前列に数人並んで、突然変装グッズをつけだしたり、バナナを取り出し同じ動きで食べだしたり。花道近くに陣取り、饅頭いかがと差し出す人も登場する始末。
 でも、「今はそんなてんご(悪ふざけ)しはる人いはらへんのんと違うかな?」と、ベテランの芸妓さんはおっしゃいます。(朝日新聞4月5日付、あいあいAI京都・島原司太夫さんの「司の花街物語」より)
 
 それにしても、花街には、いろんな遊び方があるものですね。



<京都国立博物館>
 京都で宿泊したホテルは、三十三間堂のお隣にありました。住所は、三十三間堂廻り644番地といいます。ビジネスホテルを改造して、最近オープンしたばかりで、隠れ家的な雰囲気が漂います。
 聞けば、ホテル改造に際し、地区の概観を壊さないようにと、外をいじることは一切許されなかったそうです。そして、部屋から見下ろす庭園は、なんと後白河法皇のものだったとか。そういえば、後白河天皇陵は目と鼻の先です。着いていきなり、京都の歴史の深さを実感させられます。  

 

 ホテルのお向かいは、京都国立博物館です。今まで三十三間堂を訪ねたことはありますが、博物館の方はすっ飛ばしていました。外国旅行すると、必ず博物館や美術館に出向くくせに、国内のものは敬遠しがちなのです。
 ところが、今回は、どうしても国立博物館に行く用事がありました。一昨年の10月、サンフランシスコから成田へ向かう飛行機の中で、この博物館の文化資料課長さん、K氏に出会ったからです。京都へ来たら、ぜひお寄りなさいと誘ってくださったのです。

 博物館のことは明るくありませんが、どうも「文化資料課長」というのは、次は何の展覧会にしようかとか、展示物はどれにしようかとか決定する人のことのようです。いいものを探し求め、文字通り、世界中を飛び回るお仕事のようで、筆者がサンフランシスコからご一緒したのも、近年きれいに改装されたアジア美術館の館長さんに、展覧会のご相談があったからだそうです。その日系女性の館長さんとは、昨夜遅くまで一緒に飲んでたよ、とワイングラスを傾けながらおっしゃっていました。
 K氏は美術の専門家である一方、型破りなところのある御仁のようで、映画「スターウォーズ」の特別展を開いた実績もあり、監督のジョージ・ルーカス氏ともお知り合いだそうです。そのときは、京都の国立博物館でスターウォーズ展とはなんたることかと、手厳しい叱責もあったとか。華やかな舞台の裏では、波風が立つこともあるのです。

 成田へ向かう機上では、浮世絵の本物・偽物の見分け方だとか、美術品を発掘するリサーチ方法だとか、京都の商家のお蔵に潜むお宝だとか、いろんなお話を聞かせていただきました。どうやら、浮世絵を品定めする鍵は、手すきの和紙にあるそうな。
 中でもとりわけ印象深かったのは、京都美術の層の厚さです。たとえば、古いお寺や商家に行くと、凄い価値の襖(ふすま)が日常何気なく使われている。それを、お掃除のおばさんがバタバタとハタキをかけるものだから、顔料が剥落してしまうじゃないかと心配になる。「お願いだから、優しくハタキをかけてねとお願いするんだけど、どこまで伝わっていることやら」とのこと。
 そして、こういう古いお宅には、昔っから、「災害避難マニュアル」が備わっていて、地震や火事のとき、外に持ち出すものがきちんとリストされているそうです。まず、絶対に持ち出さなければならないものから始まって、時間があれば取りに戻るものが、順番に明記されているのです。 

  そういえば、今回の旅で、嵐山の天龍寺庭園を見学したあと、ふと目に留まったものがありました。駐車場の番小屋の外壁に、「文化財市民レスキュー」と書いた箱が備え付けてあったのです。何だろうと眺めていると、中から出てきた男性が、「火事なんかがあったとき、この箱を壊して中から避難具を取り出し、人を助けられるようになってるんですよ」と説明してくれました。箱は薄いベニヤ板でできているので、鍵がなくとも簡単に壊せるとか。さすが、古都・京都の備えはたいしたものです。

 というわけで、一年半前の約束を果たすべく、旅の最終日、京都国立博物館に向かいました。残念ながら、K氏は、直前に同志社大学に移られたそうで、お会いすることはできませんでした。
 けれども、ちょうど、サンフランシスコのアジア美術館に特別展示した作品が戻ってきたところで、帰国記念の展覧会が開かれていました。「18世紀京都画壇の革新者たち」と題され、与謝蕪村、池大雅、円山応挙といった名画家の作品が一堂に集められたものです。
 18世紀という時期は、元禄文化と文化文政(化政)文化という二つの頂点に挟まれた谷間とも解釈されるそうですが、京都においては、谷間どころか、凄みのある絵画の黄金期だったそうです。

 日本画などまったくわかりませんが、数ある名画の中で、曾我蕭白(そがしょうはく)は、いたく気に入りました。毒々しいほどの個性がある、ストレートな感覚の持ち主です。機上でも、K氏が、僕が一番好きで、もうすぐ展覧会を開くんだと熱く語っていた画家です。彼のコメントを思い起こし、会場で大きくうなずいてみました。

 格別、なにといって構えなくとも、なにかしら学ぶものがある街。それが京都なのですね。



<三十三間堂>
 雨も降っているし、ホテルのお隣ということで、三十三間堂に行ってみました。いままで二度ほど行ったことがあるのですが、こんなにおもしろい所だったのかと、ちょっと驚いた次第です。

 三十三間堂は正式には蓮華王院本堂といい、後白河法皇が院政の庁として造営した御所内に設けられた寺院だそうです。中央の中尊とともに、お堂をびっしりと埋める千体の千手観音像で知られるところですね。
 よく見ると、千体の観音さまはひとりひとり表情が違います。仏師によっても違うし、同じ仏師の作でも、年代によるのか、微妙な違いが見て取れます。千体仏の中には、会いたい人の面影に似た観音像が必ず一体はまつられている、と伝えられているそうな。

 ここには、かの有名な風神・雷神像もあるのですが、特に目を引いたのは、千体の観音さまの前に並ぶ二十八部衆像でした。鎌倉時代の大火では、156体の千体仏とともに、かろうじて救出された貴重なものだそうです。もとはヒンドゥー教やバラモン教から伝わった等身大の諸尊で、目には「玉眼」と呼ばれる水晶がはめ込まれ、写実性に富んでいます。
 二十八の諸尊では、古代インドで戦闘を好む悪神とされた「阿修羅王」が有名なものですが、それよりも、「迦楼羅王(かるらおう)」の方に目を奪われました。煩悩・魔障を食いつくす有翼鳥頭の音楽の神だそうです。顔は鳥といいながら、猿にも似ています。失礼なたとえをすると、映画「オズの魔法使い」に出てくる、翼の生えた猿みたいな感じでしょうか。
 どうしてこの迦楼羅王に引かれたかというと、笛を吹く様子が、いかにも音楽の神という印象だったこともあります。けれども、そればかりではありません。迦楼羅王が動いたのです。片足で拍子を取りながら、体も笛の音とともに動いているかのように見えたのです。
 まあ、それほど、写実的な像だったということでしょうか。

 数々の仏像もさることながら、ここ三十三間堂には、「通し矢」という有名な行事があるそうです。三十三間堂の端から端まで120メートルの距離を、矢で射る競技だそうです。古来、24時間ぶっ続けで射る耐久部門もあったそうで、江戸時代、紀州藩の若者が、総矢1万3千本のうち、8千百余本を通した大記録があるとか。

 ここで出会った初老の男性が、こんなことをおっしゃっていました。実際やってみると、三十三間堂の端から端までは、そんなに遠い感じはしないものだ。けれども、矢というものは、無我の境地にないと当たらない。邪念があると、大きな的でも外すし、邪念を捨て去ると、小さな的でもよく当たるものなのだ。そして、この「無我」こそ、日本人のみが持つ心。「自我」の西洋人には、到底理解できないでしょうなぁと。



<もうひとつの桜>
 桜は、多くの人にとって、春に咲くきれいな花というイメージのものです。ところが、この桜を、どうしても楽しめない方々がいらっしゃるそうです。桜は、戦争を思い起こさせるから。

  戦時中、桜は殉国の情を鼓舞する象徴として使われ、多くの若者が、桜を合言葉に出撃していきました。そして、散っていった。
 だから、桜は、「いまだに気楽に眺められない。満開の横を通るときは、つい足早になってしまう」と、作家・城山三郎氏は述べています(朝日新聞4月1日付け、シリーズ「桜の国で」パート5より)。
 その城山氏の「散華の花」のイメージは、90年代に入って、ようやく和らげられたそうです。美しさ、なまめかしさなど、多彩な桜の姿が記されたお仲間の本に触れて。50年経って、ようやく癒され始めた傷。彼にとっては、それが桜だったのです。

 「桜」だけではありません。多くの人にとって、「愛国」という言葉も、素直には受け取れないものです。ごく最近も、教育基本法の改正案の中で、「愛国心」という言葉を明記するかどうかで、与党内でもめたことがありました。「愛国」という言葉は、過去の軍国主義の時代を思い起こさせるから。

  この懸念自体、充分に理解できるものでありますし、このことに反論するつもりは毛頭ありません。ただ、何のわだかまりもなく「愛国心」という言葉を使えないことに、一種の寂しさを感じてしまうのです。

 愛国心を英語になおすと、patriotismになります。形容詞のpatrioticという言葉とともに、アメリカではとても誇らしげに使われます。自分の国を愛し、何かをしてあげたいと思う、そういった意味を含みます。必ずしも、軍事的な意味合いで使われるわけではありません。
 けれども、日本語の愛国心には、どうしても戦い・征服の含蓄があります。そんな歴史的流れの中でできあがったイメージを払拭することは、容易なことではありません。ですから、「愛国」と「忠君愛国」はいつまでも重なり、愛国心にまつわる論議は、今後も続けられることでしょう。

 そういうことは充分に承知しているのだけれど、生まれ育った国を愛する心を、素直に「愛国心」と言ってみたい気がするのです。



<おまけのお話:ほんのり京都弁>
 世に、お国言葉で綴った憲法9条の解説書があるそうな。遅ればせながら、ごく最近このことを知ったのですが、なにやらおもしろそうな本ですね。

 みなさんご存じでしょうが、憲法9条とは、戦争に関する条文ですね。第一項では「戦争の放棄」を、第二項では「戦力の不保持・交戦権の否認」をうたったものです。

 忘れている方のために。第一項は、こんなものです。「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。」(日本国憲法)

 これを、京都の「舞妓ことば」で紐解くと、こういうことになるらしいです。「いやあ、あてらみんながほっこりええ気持ちで過ごせるような社会が、ほんまに来たらええなぁ思うとるんどす。そやさかい、どこぞのお国がいけずなことしぃはったかて、どないなこたあっても、てっぽ(鉄砲)持ってわやくちゃ(無茶苦茶)したりぜぇったいせえしまへん。そないなことしたら子ぉたちがどんな思いするか、どうぞ考えとくれやす。兵隊さん送るやなんて、てんご(悪い冗談)いわはったらあきまへん。送るんやったらおせんやべべにしときなはれ。」(坂井泉氏編「全国お郷ことば・憲法9条」より。作家・森村誠一氏の公式サイトに引用されていたものを抜粋させていただきました。)

 なるほど、こういう風にやさしく解説してくれると、条文の中身がよくわかるものですね。


夏来 潤(なつき じゅん)

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