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英語の話:日本語と違うから苦労しますね
Vol. 46
英語の話:日本語と違うから苦労しますね
ゴールデンウィークを日本で過ごしました。久方ぶりに日本のいい季節を満喫し、満足して帰って来ました。アメリカに戻って来ると、相変わらず、牛乳がまずいし、コーヒーがまずい(濃い、薄いの問題ではなく、豆自体がおいしくない)、新ジャガや新キャベツといった食の季節感もない。おまけに、水のせいで髪が痛む、といった生活に逆戻りです。いいことと言ったら、一本150円のプレミアム・バナナを買わなくても、毎朝おいしいバナナにありつけることでしょうか。
日本での記憶も新しい中、今回はちょっと趣向を変え、英語のお話などをしてみたいと思います。
<日本語の表現力>
ふたつの国を行ったり来たりしていると、自分の思考回路が、行く場所によってスイッチするのに気付きます。日本の生活に馴染んでくると、時々、カリフォルニアで考えていた事を思い出せない、と言うよりも、意識の下に潜ってしまうことがあります。そういう時に、"アメリカでは、どうなっているの?" と聞かれても、咄嗟に "どうだったかなあ?" と考えてしまいます。
もちろんそれは、多分にまわりの環境によるのでしょうが、使う言語にもよるのだと思います。日本語に囲まれると、その言語で構築された回路が働き、英語の場合だと、それ専用の回路が働くようです。日本語の回路が働いている時、頭は日本語で蓄積したデータをリトリーブ(検索)して来るので、英語でインプットされた、別の扉の中にあるアメリカの話をするのは、結構難しいようです(そういう時は、頭の中で、瞬間的な同時通訳が必要になります。時々、しっくり通訳できない単語に出会い、しどろもどろになったり、もどかしい思いをしたりします)。
前置きが長くなりましたが、他の言語に比べ、日本語がとても便利だと実感する点があります。それは、擬音語や擬態語に優れているというところです。
たとえば、今、女子高生の間では、折りたたみ式携帯電話のことを "パカパカ" と言うらしいですが、これなどは、新しい擬態語(擬音語?)で、ほほえましい感じがします。日本語の乱れと言えなくもないですが、それだけ、ケータイに愛着を持っている表れだと思います。
音の表現にしても、"ピーヒャラララ" と言えば、祭囃子の笛の音だし、"ピーヒョロロロ" と言えば、とんびの鳴き声です。まさに的を射ているなと、日本語の回路を使っている脳は感じます。
ご存知の通り、英語にも擬音語・擬態語はあります。たとえば、何かが爆発した時、"ブーム!(Boom!)" と言いますが、これはまあうなずけます。でも、猫が "ミアウ(meow)" で牛が "ムー(moo)" というのは、どうしても違うような気がしてなりません。
鳥のさえずりをあまり区別せず、十把一絡げに chirp という動詞で済ませてしまうのも、言葉に色がありません。日本語で使う、すずめの"チュンチュン"やうぐいすの"ホーホケキョ" を見習うべきだと思ったりします。それとも、彼らの回路には、同じに聞こえるのでしょうか。
犬がウーッとうなっているのを growl と言いますが、この単語は、人ががみがみとおこっているのにも使われます。遠吠えを意味する howl も、狼など獣の遠吠えと、人のわめき声両方に使われます。英語では、動物と人間の区別もあまり明確ではないようで、何となく違和感を覚えます。
言語学上、擬態語の部類に入るのかはよく知りませんが、窓ガラスが粉々に割れた時に shatter と言ったり、指をぱちんとはじくことを snap fingers と言ったりします。これなどは、お粗末な英語の擬音に比べると、まだ許せる気がします。
Snap という単語は、Snap out of it! 「いい加減、目を覚ませよ!」や、He snapped 「彼切れちゃったよ」という使われ方もするので、まさに "ぱちん" といったところなのでしょう。
英語独特の表現に、こういうのがあります。恋しい人を見かけて、I have butterflies in my stomach と言います。直訳すると「わたし、お腹の中に蝶々がいっぱいいるの」ですが、「(あの人を見ると)ドキドキしちゃうわ」という意味です。
「ブリキの耳(a tin ear)」というのは、映画『オズの魔法使い』に出てくるブリキのお兄さんの耳ではありません。音痴という意味です。耳がブリキでできているので、音が聞き分けられないということでしょうか。こういうのは、なかなかおもしろい表現方法だと思います。
<日本語転じて英語>
ご存知の通り、日本の言語や文化を見習って、英語になってしまった日本の単語も多々あります。やはり名詞が圧倒的に多いですが、たとえば、池に泳ぐコイ(どちらかと言うと、"コーイ" と発音)や、盆栽(みんな間違って "ボンザイ" と発音)などは、その代表的なものです。
大根は、"ダイコン・ラディッシュ" だし、神戸牛は、"コーベ・ビーフ"。昆布は、kombu と書かれます。どの文化でも受けているカラオケなどは、世界各国どこでも通じるのかもしれません(ただし、英語の場合は、"キャリオキー" と発音するので、要注意です。同様に、椎茸も、"シイタキー"、それがなまって "シイラキー" などと発音されるので、何のことだかわからないことがあります)。
変な話ですが、南部生まれの筆者の元上司は、子供の頃、ジーンズの宣伝に "sukoshi bit" という言葉が登場したので、"少し(sukoshi)" という単語を、少しと言う意味の英語だと思っていたらしいです。言葉の垣根が、だんだん低くなって来ているのかもしれません。
<三者三様>
言語の話は続きます。今回、筆者は日本に3週間もいたので、戻って来た時に、英語を忘れてしまったのではないかと心配していました。さすがに舌の方は、少々リハビリが必要でしたが、脳の回路は、そんなに短期間では壊れはしないようです。それどころか、脳はちゃんと適材適所をわきまえていて、どっちの回路を使うのか、すぐにスイッチしてくれます。どの人としゃべるのはどの言語と、きちんと把握しているようです(英語の練習のために、家では英語を使おうという方法は、この点であまりうまくいかないのかもしれません。家族との経験など、すべてが日本語の方で蓄積されているからです)。
時に回路がショートし、ふたつの回路がごっちゃになることがありますが、そうなると、へんてこな単語を作り出したりします。いつか筆者の頭の中で「ニューシャ」という言葉が鳴り響きました。新車のことです。
以前ちょっと登場した筆者の姉などは、長いこと住むヨーロッパにすっかり順応してしまったせいで、日本語が完全におかしくなっています。単語を忘れ、現地のドイツ語の単語が出てくるのは当然の事ですが、表現の仕方がドイツ語式になっていて、それにぱらぱらと日本語の語順と単語を当てはめた形になっています。
ドイツ語と英語の間では、単語や表現に似通った点も多々あり、筆者は何となくわかってあげられますが、インド・ヨーロッパ系言語に慣れていない人だと、理解するのにひと苦労だと思います。彼女の方も、母国語で伝えようと必死なのですが、日本語の回路がどこぞに隠れてしまっているようです。
おもしろいことに、言語のスイッチなど、まったく意に介さない人もいます。空港から家路に向かう車を運転してくれた人物が言うに、彼が母国のメキシコにひと月帰ると、すっかりスペイン語に慣れてしまい、アメリカに戻って来ると、あたりかまわずスペイン語でしゃべり始めるそうです。仕事場でも、上司は何を言っているのかわからず、目を白黒させるらしいですが、これなどは、ラテン系言語の話し手の特徴と言えるかもしれません。口から先に生まれたのではないかと思うくらい、口達者な人が多く、文法や単語が少々間違っていても、あまり気にする様子を見せません。
何と言っても、言葉は自分の思っていることを伝えるためにあるわけで、どんなに美しくない形であろうと、伝えられた人の勝ちなのです。表現が美しくなければ、言葉数で勝負です。"下手な鉄砲" の論理なのです。ごちゃごちゃと "言語の回路" などと言っているようでは、議論に負けてしまうのかもしれません。
<神話の里>
最後に、英語からは、まったくかけ離れたお話です。今頃何をと思われるかもしれませんが、筆者は、近頃、沖縄の歌にはまっています(日本では、NHKドラマ『ちゅらさん2』が終わったというのに、ベイエリアでは、ようやくオリジナルの『ちゅらさん』が終わったところで、沖縄熱が伝わるのに、かなりの時差があるのです)。
伝統的な "ティンサグの花"、60年代の反戦歌 "さとうきび畑"、そして、BEGINの "島人(しまんちゅ)ぬ宝" などは、一日に一回は聞いています。
残念ながら、沖縄には行ったことがないので、どんなにいい所かと想像しているだけなのですが、きっといい人もたくさんの土地なのでしょう。BEGINのメインボーカルの比嘉栄昇氏は、いかにも沖縄の人といった感じのする方ですが、彼は、世界中いろんな所で、"あなたは、私の親戚にそっくりだ" と言われるそうです。どの国にも必ずひとりはいそうな顔なのかもしれませんが、その福々しい面持ちから、"お金貸してちょうだい" と、見ず知らずの人から頼まれるらしいです。
さて、福々しい顔と言えば、大黒さんと恵比寿さんですが、実はこのふたりは親子だとする説が存在することを、今回、旅行先の島根で初めて知りました。一般的に、古事記に出てくる大国主の命(おおくにぬしのみこと)は、大黒様とされていますが、えびす様というのは、その子の事代主の命(ことしろぬしのみこと)だという説です。
ちょっと浮世離れしたお話で恐縮ですが、大国主は、出雲の国を作り、日本を広く平定した神で、福の神、平和の神、そして農耕・医療の神として崇められていた重要な神です。かの有名な稲羽(因幡)の白兎を助けた、徳の高い神です。
その子の事代主も、その名の示す通り、言葉を知り、判断力の優れた神とされ、大国主を継ぎ、出雲の地で国政を司っていました。古事記によると、大国主の命は、暴れん坊の神とされる、須佐之男の命(すさのおのみこと)から6代目の子孫にあたります(日本書紀では、須佐之男の子とされています)。
ある時、須佐之男の姉、天照らす大御神が "葦原の中つ国(日本の古名)を私の子に譲りなさい" と言い出し、出雲の国が譲られることとなりました(国譲り)。その際、代わりにと、大国主を奉るために、壮大な出雲大社が建てられました。一方、息子の事代主の方は、出雲市から少し離れた島根半島の先端の港、美保の関に常駐していたので、この地に美保神社の祭神として奉られています。
この美保の関は、隠岐、北陸、朝鮮半島との海上交通の拠点として重要な港だっただけではなく、豊かな海に囲まれ漁港としても発展した場所です。海で生業を立てる上で、大漁、海上安全、商売繁盛をえびす様にお願いする "えびす信仰" が地元にはあり、それが美保神社の祭神である事代主と、いつの間にか同化したようです。古事記の中にも、事代主が美保の関で漁に出ていたというくだりがあり、これでさらに深くえびす様と結びついたのかもしれません。
美保の関で宿泊した旅館の若旦那も、大黒様とえびす様は親子で、父親は西の出雲大社に、息子は東の美保神社に奉られているのです、と説明してくれました。
そして、自身の街の話になると、美保の関の漁師は、海がちょっとしけると、もう漁に出るのを止めてしまい、山陰の漁師達に "軟弱だ" と呼ばれていると言います。そういえば、楽しみにしていた遊覧船も、しけのためという理由で出なかったです。豊かな港であったため、古くから、あくせくしないで働く素地ができているのかもしれません(穏やかな港内から、リアス式海岸の外海に出ると、途端に海が荒れているということも事実です)。
にこにこと笑いながら "軟弱漁師" の話をしてくれた若旦那も、まさに美保の関にふさわしい感じの方でした。
日本国内を歩くと、いろいろと謎に出会います。まだまだ知らないことだらけです。神話の里、出雲地方も、そういったおもしろい謎をたくさん隠し持った所でした。出雲で生まれ育った元上司から、島根はいい所だと聞いていましたが、その言葉の意味がようやくわかった旅となりました。
追記:神話については、錦織好孝氏編『出雲の神話ガイドブック』を参考にさせていただきました。神々の表記も、これに従いました。
夏来 潤(なつき じゅん)