ルイ・アームストロング:ジャズと人種的偏見

2001年10月30日

Vol. 25

ルイ・アームストロング:ジャズと人種的偏見

 
 最近、何かと物騒なテロ攻撃関連のお話が続いたので、今回はちょっとトーンを変えてみようと思います。
 以前、8月27日掲載の怪談話で、"ジャズとカーニバルで有名なニューオーリンズ" という表現が出てきましたが、今回は、このニューオーリンズに纏わるお話から始めることにします。

 ニューオーリンズで一番知られたジャズプレーヤーと言えば、やはり、トランペッターで歌手でもあった、ルイ・アームストロングでしょう。"What a Wonderful World" で有名な、渋い声の持ち主です。また、その独創的なトランペット奏法は、後のトランペッターが皆真似たとも言われています。

 あまり広く知られてはいないようですが、今年は、彼がニューオーリンズに生まれてちょうど百年になります。実は、本人はいつも、"僕は1900年の7月4日(この日は、アメリカの独立記念日)に生まれた" と言っていたので、そのお陰で、昨年が生誕百年記念だと思っていた人が多いそうです。でも、地元の歴史家によると、教会の洗礼記録には、1901年8月4日誕生と記されており、この日が本当の誕生日だということです。
 彼が亡くなって既に30年程経ちますが、去る8月、ニューオーリンズでは地元一番の名士を祝うフェスティバルが開かれ、やはりこの街で育ったトランペッター、ウィントン・マルサリス、お父さんのエリス・マルサリス(ピアニスト)、そしてエリスの昔の生徒だったハリー・コニック・ジュニア(ピアニスト、歌手、映画俳優)などが共演したそうです。

 ニューオーリンズの目抜き通り、バーボン・ストリートからそんなに遠くない所に、アームストロング公園というのがありますが、ここはまさにジャズ、いわゆるデキシーランド・ジャズの発祥の地とされています。公園の中には、トランペットを片手に微笑むアームストロングの像があり、ジャズファン達の名所になっています(このあたりは、昔はコンゴ・スクエアと呼ばれていましたが、1980年にアームストロング公園と改名されたそうです)。
 サッチモ(Satchmo)とかポップス(Pops)などの愛称で親しまれた彼は、実は、人生の大半はシカゴやニューヨークで過ごし、生まれ故郷であるニューオーリンズでは、あまり演奏したがらなかったそうです。それは、この街に帰って来ると、白人、黒人と分かれたバンドで演奏し、しかも、人種で区別された聴衆を相手にしなければいけなかったからだそうです。北部に慣れてしまった彼には、前時代的なこの南部の風習が、奇異で嫌なものに感じられたのでしょう。

 この風習は、人種隔離政策(segregation)と呼ばれるもので、ニューオーリンズのあるルイジアナ州、隣接するミシシッピ州、テキサス州、更にアラバマ州、ジョージア州などの米国南部で、1960年代まで延々と続けられていました。これは、南北戦争で平等となったはずの黒人の権利を、ことごとく脅かすものでした(以前、ホリデーシーズンに関する回で、"黒人(blacks)" という言葉は死語になり、今はアフリカン・アメリカンと総称すると書きましたが、今回は歴史的表現に則り、この言葉を使います)。

 1865年、北軍勝利で終わった南北戦争は、黒人を奴隷から自由人とすることに合意し、彼らに市民としての権利を与え、更に選挙権を与えるという画期的なものでした。米国憲法に追加された修正第13条から15条は、まさにこのことを保証しています(修正13条は1865年、14条は1868年、15条は1870年にそれぞれ制定されています)。
 けれども、必ずしもこれに同意する者ばかりではなく、1880年代に入り、白人至上主義の新たなシステムを作り上げようという動きが、南部各州で起こりました。連邦最高裁判所も、この南部の政策を支持するような判決を次々と言い渡しました。

 これによって、交通機関から始まり、待合所、公園、病院、教会などありとあらゆる場所での人種隔離は常識となりました。バスでは後部座席が、そして教会ではスクリーンで仕切られた後ろの席が、黒人に与えられました。また、黒人の市民権を明言した修正第14条は著しく制限され、15条の選挙権も剥奪されることとなりました(2代前のおじいさんが選挙権を持っていないとダメ、という奇妙な、しかし効果的な規則が生まれたりもしました)。
 今でも活動を続けている有色人種差別組織、クー・クラックス・クラン(the Ku Klux Klan)が結成され、黒人に対する暴力がはびこったのも、この頃からです。ビリー・ホリデーの有名な歌、"奇妙な果実(Strange Fruit)" は、まさに、これら黒人への理不尽な差別や執拗な暴力を如実に表現しています。
 さすがに今のKKKは、暴力に訴えるよりも、お互いに干渉せず、の主義を取っているようではあります。

 ちょっと詳しい歴史の話になってしまいますが、この時期の連邦最高裁判所の判例で一番重要なものは、プレッシー対ファーガソンと呼ばれるものです。
 1892年、ルイジアナ州で、プレッシーという男性が白人専用の鉄道車両に乗り込み、有色人種(colored)の車両に移ることを拒否した理由で逮捕されました。彼には、8分の1黒人の血が混じっていたからです。
 これに対し、ニューオーリンズの犯罪裁判所判事ファーガソンは、その2年前に制定された人種隔離の州法を盾に、逮捕を認める判決を下しました。続く1896年の連邦裁判所の判決でも、人種を隔離したとしても、平等の扱いを保つなら米国憲法には反しないとして、ファーガソンの決定を支持しました。これが、"分離しても平等(separate but equal)" 主義が、国家的な法の元に出来上がった瞬間とされています。

 このように、最高裁の判事達がこぞって分離主義の合法性を認めた中で、その違憲性を主張した人がひとりだけいます。このハーランという名の判事は、"私達の憲法は、人種を区別しないし、市民間の階級を認めない(Our constitution is color blind, and neither knows nor tolerates classes among citizens)" と強く反対意見を述べました。これは今でも、最高裁の判例史上の名言とされています。
 しかし、ハーラン判事の反論も虚しく、この時の連邦裁判所の判決は、1954年に公立学校での人種隔離を禁止する画期的な決定が為されるまで、不可侵なものとして、白人至上主義者達に支持されていました。(その間に勃発した第二次世界大戦においても、米国軍は人種別に構成されていました。)

 その後、半世紀以上経ってようやく最高裁から下された、公立校での隔離禁止の判決は、"分離しても平等" 主義に終わりを告げる、最初の出来事と言えます。
 けれども、実際に世の中から人種隔離の習慣がなくなるまでには、最高裁の決定だけではなく、一般の人の意識を地道に変えていく必要がありました。その役を担ったのが、一介の大学生の間から起こった "フリーダム・ライダー(the Freedom Riders)" という運動です。

 この平和的な市民権運動は、1961年5月、首都ワシントンDCからニューオーリンズに向けたバスから始まりました。先に最高裁が下した、州間のバスや鉄道での人種隔離を禁止する判決は、何年経っても有名無実であることに抗議するものです。
 黒人、白人合わせて13人の若者がひとつのバスに乗り込み、途中、人種で区別された停留所では、黒人は白人専用のトイレを使い、白人は黒人専用の水飲み場を使おうとしました。しかし、隔離撤廃への道のりは厳しく、若者達は各地で白人暴徒に襲われただけではなく、アラバマ州では焼夷弾でバスに放火され、命からがら逃れたものの、州法違反の罪で警察に逮捕され、目的地であるニューオーリンズにはたどり着きませんでした。
 それでも、この平和的なうねりは意識の高い若者の間に瞬く間に広がり、13人が300人になって一路南部を目指し、最終的には、黒人、白人入り交じり、千人ほどがバスや鉄道で南下の旅に出たそうです。アラバマ州では、やはり暴徒に襲われたフリーダム・ライダー達が、近くの教会に逃げ込んだりしたそうですが、それでも、彼らの願いはようやく実り、この年の終わりまでには、公共の交通機関はすべて黒人にも分け隔てなく開放されるようになったそうです。

 フリーダム・ライダーから今年でちょうど40年になりますが、その間、ルイ・アームストロングが嫌っていた南部の風習は、すっかり過去の話となってしまいました。今ニューオーリンズに行くと、ジャズファン達は人種を問わず、黒人ミュージシャンが演奏するフレンチ・クウォーターのクラブに足を運びますし、路上で演奏する駆け出しの黒人サックス奏者に熱心に耳を傾けたりしています。

 ジャズは勿論、ニューオーリンズだけのものではなく、夏になると、アメリカ各地でジャズフェスティバルが開かれ、ひとつの風物詩ともなっています。
 シリコンバレーでも、毎年8月、サンノゼの中心地でジャズが楽しめます。今年で12回目を迎えるこのフェスティバルでは、4日間に渡り、ジャズ、ラテン、アフリカ系の音楽が熱演されました。嬉しいことに、協賛企業が費用をすべて持ってくれるので、観客は無料で演奏を楽しめるのです。
 今年は、ハイテク産業のスランプのお陰で資金が充分に集まらず、ステージの数は八つに減ってしまいましたが、15万人ほどのジャズファン達がダウンタウンに集まったそうです。世界各地の味を楽しめるフード・スタンド(食べ物の屋台)も、皆のお目当てのひとつです。

 最終日、歌手のディーディー・ブリッジウォーターが取りをつとめるメイン会場での小さな出来事です。会場になった公園には座席がないので、キャンプ用の椅子や敷物をおのおの持ち寄るのが習慣になっているのですが、ここでは必ずしも先住権が利かないのが玉にきずのようです。
 ジャズバイオリンのレジーナ・カーターの演奏がまさに始まろうとしている時、地べたに座っていた白人男性の前に黒人夫婦が割り込み、簡易椅子を堂々と広げ始めました。目の前で椅子に座られたら、ステージはまったく見えなくなり、たまったものではありません。でも、この夫婦がいやに強引だったのと、初老の男性がおとなしかったせいで、黒人夫婦の勝ちとなりました。
 "ごめんなさいねー" と言いながら、実は謝ってなどいない彼女の口ぶりは、"あなた達白人には、ジャズはわかるわけないのよ" と、冷ややかに宣言しているようにも感じました。

 気の毒なことに、初老の男性は、演奏途中で席を立ってしまいましたが、こちらとしても、40年前の南部とはまったく違う光景に気を取られ、せっかくの一流ミュージシャンの演奏も上の空でした。"ジャズはやはり黒人" という神話は、どうやら黒人自身も強く自負しているようです。


夏来 潤(なつき じゅん)

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