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脳と宗教:とってもまじめな脳のお話
Vol. 16
脳と宗教:とってもまじめな脳のお話
遺伝子の数では、人間はあまり他の動物達と変わらない、ということが最近になってわかってきました。道端のたんぽぽより、ちょっと多い程度だそうです。でも、人間は、明らかにキリンや象やシマウマとは違う生き物です。二本足の歩行や言葉もそうですし、火を扱い、道具を作り出し、文明を築きあげたのもそうです。
それと同じくらい画期的に違うのは、人間が宗教観を持っているということでしょう。たとえば、チンパンジーなども、親族の死を悲しむ行動を取る場合があるそうですが、生命、死、自然を超越した存在などを中心として、壮大な宇宙観を作り上げたのは、人間だけです。人類は、ネアンデルタール(Homo neanderthalensis)の頃から、仲間の死を悲しみ、花を手向けたと言われています。
人間がそういった宗教観を持った途端、ある疑問が生まれました。本当にすべてを超越したモノはいるのか、それとも、これは人が頭の中で創造するものか、ということです。歴史的に見ると、すべての宗教には、それに懐疑心を抱く者との争いや論争が付き纏っていますが、現在も人口の9割近くが神を信じるアメリカでは、これはいまだに重要な探求のようです。
そういった中、科学がこれだけ進んだ今、脳を探ることで、人間の宗教観を少しでも解明できないものか、と考えている人もたくさんいるようです。
ペンシルベニア大学では、カトリックの僧侶や修道女の脳の働きを測定することで、おもしろい現象を発見しました。PET(ポジトロン放射断層撮影法)と呼ばれる脳内の血液の流れを計る機器で、安静時と祈っている時の脳の動きを比較してみます。そうすると、祈っている時は、"自分を失っている" 状態にあると言えるそうです。
頭のてっぺん部分(頭頂葉: parietal lobe)には、五感の情報を処理するデータセンター(体性知覚野: sensory area)がありますが、祈りを始めると、体の各部所からここへのインプットが処理されにくくなり、"自分" がいなくなってしまうそうです。そうなると、自分より大きい何かに包み込まれているような気になってくるそうです。この自分を見失う状態は、祈りばかりではなく、教会でゴスペルを歌うとか、神の前で舞うとか、呪文を唱える時などにも起きるそうで、自分を消し、まわりと一体となることで、超越した存在を感じ始めるということです。
また、カナダで行なわれた別の実験では、頭の側面部分にも鍵があるのでは、という結果が出ました。何人かの被実験者の側頭部分に、外部から電気的刺激を与えてみると、"自分がふたつに分かれるような気がした" ということです。頭の中に、自分の他に幽霊がいたとか、誰かが自分の肩越しに物を見ていた、とか表現する人もいるそうです。その他、月が照る静かな夜、平和な気分に浸っていたと感じた人もいたそうです。
この実験から、側頭葉(temporal lobe)には、何か宇宙的な存在を感じ取るような回路が組み込まれているのかもしれない、と言えるそうです。
一説によると、この側頭葉には、物体の形や動きなどの目からの情報と、触覚や聴覚からの情報を束ね、総合的に空間を判断している部分があるそうです。この人間が普段行なっている空間的な判断と、非日常的に感じる宇宙的な広がりは、もしかしたら側頭葉の中では、まったく無関係ではないのかもしれません(これはあくまでも、素人考えですが)。
上記ふたつの実験は、頭の中には、自分を消し去り、自然を超越した何かを感じ取る部分が用意されている、ということを示しています。だとすると、これは人間が脳ミソでカミを作り出している証拠なのでしょうか。
実験に参加した修道女は、それは違うと言います。それどころか、彼女は以前に増して、神への信頼感を強めたそうです。それは、神が人間に感じ取る能力を用意されていた、と信じるからだそうです。どうやら、この問題については、科学はどちらとも結論付けることはできないようです。
さて、もう少し脳のお話を続けますが、ごく最近発表された説によると、"自分" というのは、どうも前頭葉に存在するらしい、ということです。具体的には、右の前頭葉(right frontal lobe)の前の部分に位置するそうです。前頭葉は、論理思考や抽象概念などの知的活動や、会話、運動、本能などを司る場所だということは、よく知られています。新説によると、それに加え、性格、信条、好き嫌いなどを備えているらしいということです。
カリフォルニア大学サンフランシスコ校では、この部分に病気で障害を持つ患者には、性格、価値観、好みに明らかな変化が見られることを発見しました。たとえば、54歳の不動産業界のキャリアウーマンは、いかにも高そうなデザイナーの洋服から、安っぽい服やけばけばしいビーズのアクセサリーに好みが変わり、知らない人にも "あなたのその服、おいくら?" と聞くようになったそうです。また、フランス料理がお好みだったのに、ファストフード、特にタコス(気軽に手で食べられるメキシコ系料理)が大好物になってしまったらしいです。
これら一連の調査結果から、"自分" を保つには、右前頭葉の正しい働きが必要で、この部分の生物的な損傷は、意識や自己のパターンを破壊してしまう可能性がある、と言えるそうです。
"意識とは何ぞや" という問題は、カミの話と同じく、古くから論争の対象となっているわけですが、今回の発見で、少しでも謎解きに近づけたのでしょうか。
ところで、先述のペンシルベニア大学の実験では、五感の情報がデータセンターでうまく処理されないと、"自分" を失ってしまい、超越した何かを感じ始めるようだということでした。それでは、五感のインプット自体が不足している場合は、物事を判断する "自分" の形成に支障が出てくるのでしょうか。
調べてみると、たとえば、視覚に障害がある人の場合でも、後頭葉(occipital lobe)にある視覚野(visual area)は、外部からの刺激にきちんと反応しているそうです。目からの信号が不十分でも、触ったり、においをかいだりすることで視覚的インプットは補われ、視覚野の活動に繋がるそうです。
聴覚に障害があった場合も、同様のことが言えます。話し言葉の場合は、左脳にあるブローカの運動性言語野(前頭葉)とウェルニッケの聴覚性言語野(側頭葉)が活躍することがよく知られています。実は、手話を使う人の左脳でも、まったく同じ言語野が活動しているそうです。一見して、手話は、視覚的・空間的情報を司る右脳が支配していそうですが、どうもそうではないらしいです。視覚的な言語のインプットであったとしても、左脳が理解できるようなフォーマットに、信号処理されるそうです。
では、音のインプットがないと、脳の中で声を聞くことはないのでしょうか。生まれた時から耳が聞こえない人の場合でも、文字が読めるようになるにしたがって、頭の中で次第に音が形成されてくるそうです。普通に聞こえる人の音の響きとは違うかもしれませんが、決して静まりかえった世界ではないということです。
結局、見たり、聞いたりというのは、各々が五感のインプットを受け、それを自分の脳で増幅し作り上げた世界であり、決して客観的なものではない、と言えるようです。哲学者カントが言う、物自体(a noumenon、thing in itself)と現象(a phenomenon、thing as it appears)の違いというのは、このようなことを指しているのかもしれません。
最後に宗教的な話に戻りますが、カミの議論と似たところで、臨死体験なども脳の成せる技だ、と言う説があるようです。高いところから自分を見下ろしていたとか、光のトンネルやお花畑を見たというのは、生き返った人が述懐することとよく言われます。でもそれは、外からは意識がまったくないように見えても、脳の丈夫な部分は辛うじて活動していて、そこが瀕死の状態で作り出す夢は、誰の場合も似通ってくるというものです。
これは正しい、いやそうじゃないのいずれの立場にしても、目の前に展開される事象を少しでも越えると、途端に信じる者と懐疑心を抱く者との論争の種となるようです。そして、その論議は、最後の最後まで、飽きることなく延々と続けられていくに違いありません。
目の前の事すら同じに見えていない人間には、これは宿命なのかもしれません。
夏来 潤(なつき じゅん)