アメリカのお葬式
普段は、あまり好まれる話題ではありませんが、今回は、弔事のお話をいたしましょうか。
今年に入って、1月、2月とお葬式に出ることがありましたので。
1月は、生まれ故郷で友人のお父様が亡くなったとき。
わたし自身はお会いしたことはないのですが、友人を思って参列させていただきました。
そして、2月は、お隣のご夫婦のダンナ様が亡くなったとき。
どこに行くにも、いつも一緒にお出かけして、そんなところから、近所でも「おしどり夫婦(lovebirds)」として有名なご夫婦でした。
近年は、ダンナ様が体調を崩されたこともあり、奥様が車の運転をなさっていて、のっぽのダンナ様は、ちょこんと助手席に。
でも、お向かいさんによると、彼女はかなりのスピード狂だそうで、「まるで地獄から飛び出したコウモリみたい(like a bat out of hell)な運転!」ということでした。
ある凍てついた早朝、お隣さんの家に救急車が来ていて、日本に向かう朝で珍しく早起きをしていたわたしは、救急隊員に様子を尋ねてみました。
もちろん、彼らには他人に口外してはいけない規則があるので、詳細は教えられないと断りながらも、「そんなに悪くはないよ(not bad)」と言うのです。
今日は様子を診るために病院に連れて行くけれど、すぐに退院になるだろう、ということでした。
ところが、その一週間後、わたしが日本にいる間に、静かに息を引き取られたのでした。
カトリックのお葬式(a funeral Mass)があったのは、3週間後の土曜日。
敬虔なご夫婦が日曜日ごとに通われていた近くのカトリック教会で、ご夫婦を知る信者の方々もたくさん参列されていました。
すでにご遺体は荼毘(だび)に付されていて、奥様の両脇を、遺影を抱く長男と金色の壷を抱く次男がしっかりと支えて入場します。その後ろに息子たちの家族が続きます。
先頭を行くのは、伝統のタータンチェックに身を包んだ、スコットランドのバグパイプ奏者。まるで「露払い」のように、勢いの良いバグパイプの音色が聖堂に響きます。
アメリカでは、とくにお巡りさん、消防士さん、軍人さんのお葬式にはバグパイプの演奏は付きものですが、亡くなったダンナ様は、若い頃、空軍に籍を置いていた方。ですから、バグパイプの演奏は欠かせなかったのでしょう。(Photo of a bagpiper at a cemetery from YouTube video)
国に奉仕したことへの感謝を込めて、「星条旗の授与(Presentation of the Colors、三角にたたんだ星条旗を遺族に手渡すこと)」もお式の中で行われました。
この葬礼を執り行うのは、ご夫婦を良く知る、ざっくばらんな司教さん。
ここで驚いたのは、司教さんが、ユーモアたっぷりにこんなお話をなさったことでした。
「ときどきスーパーマーケットのレジで、後ろの人を先に行かせることがあるでしょう。人を見送るのは、そのようなものなのです。誰かを先に行かせることもあるけれど、最終的には誰もがレジを通過して、あちら側に行くのです」と。
そして、さらに驚いたことに、お葬式は Thanksgiving だとおっしゃるのです。
Thanksgiving(give thanks)、つまり、地上にこの方を送ってくださり、一緒に楽しく過ごさせていただいたことに対して、神に感謝すること。
そして、今、この方を暖かく迎えてくださることにも感謝するのだと。
今まで Thanksgiving という言葉を、11月の「感謝祭」にだけ関連づけていたわたしにとって、お葬式が Thanksgiving だという考えは、驚きに値することなのでした。
元来、お葬式というものは、昔も今も、東も西も、この世に残された人たちのためにあるものですけれど、残された人が「納得できる」「終止符を打てる」ひとつの方法が、神(または人を超越した何か)に感謝することなのかもしれませんね。
それにしても、同じキリスト教のお葬式にしても、カトリックとプロテスタントは、ずいぶんと違うものだと思うのですよ。
プロテスタントのお葬式に参列したときには、色とりどりの服が目立ちましたが、さすがにカトリックは、黒がほとんどでした。そして、Tシャツ姿などはひとりもいなくて、みなさんしっかりとスーツを着込んでいらっしゃいます。
スーツなんて当たり前だと思われるでしょうが、わたしが参列したプロテスタントのお葬式では、紫色のTシャツだって見かけましたし、ギターを抱えて歌を披露した親戚の牧師さんもいましたものね。サンフランシスコという土地柄もあって、かなりリベラルだったのかもしれませんが、それはもう、カジュアルなもの。
それに比べると、カトリックのお式は、厳格な感じがします。
それから、カトリックの儀式では、参列者は立ったり座ったり、賛美歌を歌ったり、司教さんのお祈りに応えたりと、かなり忙しいのです。なんとなく「聴衆参加型」みたいな感じでしょうか。
もちろん、カトリック信者でない人は、お祈りの形式に従う必要はありません。失礼がないように、静かにしていればいいのです。
聖体拝領(イエス・キリストの体とされるパンを受け取ること)も、信者でなければ、行う必要はありません。パンを受け取らなかったといって、信者の方に白い目で見られることもありませんので、席でおとなしくしていればいいのです。
そう、世の中にはいろんな宗教の人がいますし、宗教のない人だっています。その辺に関しては、アメリカ人は心が広いのです。
ただ、儀式の終わりに、まわりの方々とごあいさつするときだけは、にこやかに握手をして、「Peace be with you(平和のあらんことを)」と返した方がいいようですね。
これは、「Sign of Peace(平和のあいさつ)」と呼ばれるもので、4世紀に聖アウグスティヌスが始めたものだそうですが、もともとは「キリスト教徒は Peace be with you とあいさつをして、互いを抱擁し、聖なる接吻を交わす」こととされていたそうです。
アメリカでは、親しい人同士は抱擁したり、ほほに接吻したりするでしょうけれど、初対面の人は握手で十分ですね。
というわけで、葬礼の進行はカトリックの決め事に従っていますが、家族のカラーが鮮やかに出るのが、親族のごあいさつ。
立派に成長された息子さんおふたりと、お嫁さんがごあいさつをしました。
とにかく野球(ボストン・レッドソックス)が大好きなお父さんは、息子たちに子供の頃から野球をさせていたようですが、ピッチャーの長男が父親から学んだのは、品格と謙虚さ。
あるとき、ライバルチームとの試合で長男が「さよならホームラン」を打ち、チームは大勝利。チームメイトと飛び跳ねて喜びをあらわにする長男に対して、お父さんは冷ややかにこう言ったそうです。
「品格を持って勝ちなさい(Win with class)」と。
土壇場で負けた相手チームをおもんばかっての発言だったのでしょう。
また、別の試合では、相手が強過ぎて、ピッチャーの長男はバンバンと打たれてしまいます。次々と点を入れられる中、「お願いだから交替させてよ」と父を見上げるのですが、最後の最後まで投げ続けることに。
8対0で終わったさんざんな試合では、自分の力が足りないことを悟り、謙虚さ(humility)を学んだのでした。
そんなエピソードを聞いていると、いつもにこやかな笑みを浮かべ、多くを語らなかった故人の内面が垣間みられたような気分になるのです。
そんな彼女を心から慕っていらっしゃって、昨年の奥様の誕生日には、「あなたを愛する理由はたくさんある(There are many reasons to love you)」とカードにしたためられたとか。
最後は、奥様に向かって「あなたほど献身的な介護人はいない(You are the best caretaker)」と感謝の気持ちを伝えられたそうです。そして、息子にも同じことをつぶやき、安心させようとなさったとか。
式が始まる前、後ろの席のレディーが「あら、ティッシュを持って来るの忘れたわ」と心配していたとおり、レディーたちは(中にはジェンツも)涙をぬぐう場面にいっぱいさらされたのでした。
そんな様子を見ていると、結局のところ、人の営みに宗教も国境も関係ないんだなぁと実感するのです。
追記: アメリカでは、お葬式のことを「Funeral(葬式)」と呼ぶのではなく、「a Celebration of Life(人生を祝う会)」と呼ぶことが多いです。それは、「亡くなったこと」を悲しむのではなく、「その方が生きてきた軌跡」を集まったみんなで祝おうではないか、というコンセプトにもとづいています。
先日、家族向けのドラマを観ていたら、病院に入院されている恩師のために、生前に Celebration of Life を開くという、突拍子もない場面が出てきたのですが、考えてみると、それっていいアイディアかもしれませんよね。
だって、ある方が亡くなったときに「あ~、あの方はいい人でしたよねぇ」と言い合うのではなく、生きていらっしゃるうちに「あなたには大変お世話になりましたので、感謝してるんですよ」って、直接ご本人に言ってみたいではありませんか。